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日蓮聖人の本尊観
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管理者
:2002/07/30(火) 20:15
76 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/28(日) 11:25
ドプチェクさん:
松戸さんと本覚批判の「意見」と言うから、何かと思えば渋沢光紀師の秀逸な考察ではないですか。『宗教と科学について−ニューエイジ批判を通しての一考察−』は卓越した総括であると私は感嘆したものでした。
> 飽くまで「法」が根本であり、それが究極の真理と言うべきものではないのか?と、漠然と思っている
なるほど。
最近、法華思想、もちろん、それを敷衍する日蓮思想にはある一つの過程的な結論に私は落ち着きつつあります。
法華経を一瞥していつも思うことは、記別ばかりがあって、衆生成仏は未来のことと置かれている…、私がもっとも着目する点です。では、法華経の骨子はと言えば救済の実践を誓願する菩薩道を進める教えであるということです。ここでは、その実践を教えることが「法」そのものであるという点です。
しかし、これは「言うは易く行うは難し」でとても誓願実践できることではない、故に仏のみが知ることであると示すのが十如(五何法)であり、しかし、それをあえて開き示し悟らせ入らしめ、ついに艱難辛苦を偲んで、飽くなき菩薩道を勧めるのが法華経ではないのかと思えます。
このとき、久遠成道の釈尊に、たしかに法華経の経文句々に留まらず、その精神として、行者は見(まみ)えているのだと思うのです。
その意味において、一念三千(性格には不可思議境というべきでしょうが)は法なのではなく、説明原理なのだと私は思っています。
しかしながら、菩薩道を誓願実践する行者は、常に久遠釈尊と見え、それを超えません。故に菩薩本仏論は仏恩を忘却した不知恩の結論であると思うのです。
引用される『諸法実相抄』の一節、名文ながら、私には、こんなことは聖人が仰るわけはないと思うのは、そのような理由からです。
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