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日蓮聖人の本尊観
8
:
管理者
:2002/07/30(火) 19:41
69 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/22(月) 17:47
ドプチェクさん:
精神史を拝見し、ご苦労なされたのだと思いました。
私も同じような身とを歩みましたので、大いに感じるいることがありました。
> 松戸行雄氏
凡夫本仏論はしかし、さして真新しいことでもなく、また日蓮系の教義でもありませんね。それでも石山はそれなりの打撃を与えたようでした。また、かつての池田本仏論を遅ればせながら説明するような違和感が私にはあり、読んだころは、本覚の歴史的な整理もついていない頃でしたから、「?」という感じのままで通り過ぎた本でした。
聖人は本迹論を、天台を踏襲して強く用いられていますが、これは仏法教義ではないようです。創価大学の教授の孫引きは情けないのですが、菅野博史師は
本と迹とは、『荘子』に説かれる聖人の具体的な行為を「迹」(足跡にたとえられる)といい、その行為の出てくる根拠を「迹する所以」(履物にたとえられる)といったことに基づき、5世紀のはじめ、仏教側で「迹する所以」を「本」と改めたものである。(天台)智邈はこの概念を『法華経』の分科に利用したのである(『法華経入門』岩波新書 P91)
と指摘しています。つまり、本仏 ― 本門仏 ― はこの前提で生じる仏身論であり、そもそも本仏などという考えは法華経の創作者にも、シャキャムニにもなかったろうと思うわけです。
なお、凡夫本仏論については執行海秀師は『中古天台教學より日蓮聖人の教學、ヘの思想的展開(1)』のなかで
一切衆生の本覚無作を顯はすを以て壽量品の所詮であるとし、實修實證の釋尊を離れて無始本覚の本佛を求め、更に本覚無始の衆生を本佛の實體を見るのである。こゝに於て塵點始成並に無作事佛の顯本はなほ教相の重であって方便であり、衆生の無作本覚の顯本こそ、觀心の重にして實義であると論ずる。
従ってその佛身論に於ても、無作三身を強調し、衆生の當體を以て本佛の實體とするのである。そこでかゝる思想を継承した『等海口伝』には、
圓教三身トハ無作三身也。無作三身トハ始テ修顯シタル三身に非ズ我等身口意ノ三業本來無作トシテ、三身圓満ノ體ナルヲ無作三身ト云也。
といひ、また『文句略大綱私見聞』には
無作ノ仏ト云ハ何物ゾ、只實迷ノ凡夫也、始テ發心シ初テ修行ヲ立ツ迷を翻テ得悟スル非ズ。只我等衆生無始輪廻ノ間本來常従本佛也。是覚ヲ前ノ實佛と云也。
と論じてゐる。かやうに衆生の無作本覚を説くのであるが、その思想の根底をなすものは、汎神論であって、自然界の一切の事物を以て本佛の顯れとも、或は本佛そのものとも見るのである、故に「迷悟分タズ、機法起ラズ、三千有ノ任ナル本地無作ノ實體」といひ、また「五百塵點の迹佛の寿命、森羅萬象の本佛の寿命」とも傳へてゐる。
要するに中古天台の佛身論は、その無作顯本論よリ導き出された汎神論であって、信仰の圭體性を缺ぎ、無作といふもそれは現象的自然の意であって、そこには人格的価値が含まれてゐない。まえ教観二門の顯本を論じ、教相所顯の客観の本佛を随他方面として、観心主観の本佛を絶對とし、眞實とし、自我絶對論に立脚して凡本佛迹の思想を強調するのである。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_005.html
と説明するとおり、日蓮門下の思想と言うより中古天台本覚思想の転訛と見做すべきであると私は考えています。
もっとも、松戸師の書籍をどこぞにしまい忘れて記すところですので、的はずれのところはあるかも知れません。
それにしてもドブチェクさんの精神史には感銘いたすものです。遅筆とのことですが、いつも投稿を楽しみにしております。
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