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日蓮聖人の本尊観
3
:
管理者
:2002/07/30(火) 19:37
64 名前: 犀角独歩 投稿日: 2002/07/18(木) 02:16
ドプチェクさん:
> 御書を自分たちに都合の良いようにしか解釈していない、あるいは、不都合な箇所については、意図的に避けているのではないのか
まったく、そのとおりでしょう。
御書根本というかけ声は自分たち根本の謂でしかないのでしょう。
結局、信仰者が説明する超越者というのは、その人自身の心象なのではないでしょうか。ここのところ、よく引いている『超能力と霊能者』のなかで高橋紳吾師は
大乗仏教における阿弥陀信仰のように、方便として帰依の対象が求められる。これは補助自我とみなすことができよう。それは超越的な形態をとっていても、もう一人の「自分」なのであるから、その「超越者」を「信じている」自分を調べる義務は、その個人にある。
(補助自我−自我のかたわらにあって、自我の充足を助けるもの。「ペット」や「わが子」のレベルから「思想」や「神」などの抽象的なものまである)P215
と記しています。
シャキャムニの教説は徹底して修道的なものであって、飽くことのない自己否定の積み重ねの末、ニッパーナ(自分自身の一切の考えを吹き消し、消え去ったところを到達点)とするものであるように思えます。それは執着の終着点であり、いわば、自己存在から決別と死の受容が重なり合うところの境地を目指すものであったのだと思うのです。
けれど、いまここで取り沙汰されている仏教といわれるものは、変革の末、(革命といってもよいですが)自分が他よりもこんなに優れて立派なのだというところが終着点になっていますね。人一人の命は地球よりも重いとか、宇宙生命と自分は一体であるとか(梵我一如を仏教と勘違い)、信仰の対象と、その信仰グループ・リーダーがともかく、だれよりもどこよりも、優れて最高、どこにも勝っているとか、そんなことばかりを言い続けているわけです。これは要するに、いかに自分が立派であるか、こんなにすごいのだということを証明するために強迫観念に基づく思いこみと行動である映じます。「超越的な形態をとっていても、もう一人の自分」なのでしょう。
私はここで戒壇の本尊、日蓮本仏論、国立戒壇論といった寛師以降の石山教学を、あるいは生命論と言った創価教学を徹底して批判をしてきました。それは、それを信じる人たちの顰蹙を買うものであり、私が恰も日蓮宗教学の煽動者であるような批判メールを送りつける人もいるのです。けれど、戒壇の本尊、日蓮本仏論、国立戒壇と寛師教学、生命論といった戸田・池田教学はかつての私の補助自我であったことを率直に認め、それを批判すると言うことは、ある面、徹底した自己否定を展開していることを看取している方は少ないのです。永年、積み上げてきた信行学とは、まさに自分自身の投影であるけれど、それを徹底して批正していくなかで見えてくるものは、実はシャキャムニの本来の教説でした。
高橋師が言う「超越者…補助自我…自分を調べる義務は、その個人にある」という点は、たぶん、絶対信仰を反省考証した人は誰しも、同じような思索の道程を辿るのであろうと思います。ドブチェクさんの言説のなかにも、私はそれを感じるのです。
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