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日蓮聖人の本尊観
89
:
川蝉
:2002/08/06(火) 09:06
犀角独歩さんへ。
天台大師は「法華文句巻第一上」に
「久遠に菩薩の道を行ぜし時、先仏の法華経を宣揚したまいし」
とありますから、久成釈尊も先仏の教えを受けて菩薩道を行じ成道したと説明しています。
数え切れない数々の先仏から久遠本仏釈尊へ、法華経の証悟が次から次にと伝えられてきた、と云う思想です。
寿量本仏は三身相即の仏とは云いながら、報身は有始としているのです。
そこで、妙楽大師が、
「問う。無窮に堕することを恐れて唯だ釈迦を論ぜり。今は諸仏展転して教えを禀くることを論ぜんと欲す。終に一仏、初めに在って教無きこと有って、無教を本と為さば、何ぞ無窮有らんや。もし有窮を許さば無因の過に堕せん。」(釈序品)
(先仏のまたその先仏と限りが無くなるので、釈迦仏の教導のみ論じている。諸仏展転と云うことであると、最初の仏の時には、先仏の教えが無かったことになろう。
最初の仏が有るとすれば、無窮でなくなるが、その場合、教えに基づいて修行したと云う因行がないので無因と過と云う非難が生じてくる)
と問題を提示して
「最初、無教の時の仏は内薫自悟するのである」
と答えているのですね。
報身有始仏とすると先仏が想定され、そうすると、内薫自悟の最初仏を想定される事にもなりますね。
妙楽大師の後輩と云う道暹が、「文句輔正記」に、
「釈尊は先仏の教を禀けざるに非ず。今日の化を受るは且く釈尊に窮まれり、其の観解を増して実利を獲る為に何の過あらん」
と輔釈しているとのことです。
おおよその意味は
「釈尊が先仏の教化を受けようが、今日、釈尊の教化を受ける我々には関係ない。我々の修行成就の為には、無窮か有窮かの問題は関係ない」
と云う意味でしょう。娑婆世界の衆生との釈尊の教縁を重視して今日の教導主は釈尊であると云う意向が見えますね。
犀角独歩さんが、「久遠釈尊の先仏が居ると思う」並びに「私は聖人が久遠釈尊を取り定められるのは有縁という基準によるからではないのかと考えています」
と云う見解は、先仏有りとする天台大師と教縁を重視する道暹との見解に似ていると思いました。
>つまり五百塵点の成道は有限であるけれど、今度はその仏を三身
>というところから見れば法身の要素が加わるから無始と見ていく
>ことになるのではないのかということです。
「法身の要素が加わるから」と云う概念が掴めないので、的はずれな感想かも知れませんが「金光明経文句」の
「報身とは、修行の所感なり、法華に云はく、久しく業を修して得る所なりと、涅槃に云はく、大般涅槃は道を修して得る故にと、如如の智、如如の境を照らし、菩提の智慧法性と相応し相冥す、相応とは、函蓋相応するが如く、相冥とは、水乳相冥するが如きなり、法身は身に非ず不身に非ず、智すでに応冥す、亦、身に非ず不身に非ず、強いて此の智を名づけて報身となすなり。
法寿常に非ず、無常に非ず、智すでに応冥す、亦非常非無常なり、強いて常を名づけて寿と為すなり、法すでに量に非ず、無量に非ず、智すでに応冥す、また量に非ず、無量に非ず、強いて無量を名づけて量と為すなり」(孫引き)
と云う説明と同じ事を言われているのかなと思いました。
しかし、「五百塵点の成道は有限」と云うことは、報身に初めありと云う事ですし、やはり五百塵点前の先仏が居たという立場ですと、根本仏と云う概念が希薄になると思うのです。(続く)
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