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素朴な疑問
639
:
犀角独歩
:2003/09/07(日) 19:28
眠りの小五郎さん:
あまりにひどいのでひと言。
石山には真跡云々以前に蓮師の字を読める人間すら、存在してないでしょう。故に昭和新訂を作るのに川澄氏に頼らざるを得なかった。その時に薫陶を受けた人々は正信会に行き、いまでも真剣に研鑽をされていればこそ、あれだけの御書システムの完成という成果を得ることができたわけです。
反面、石山は御書の目録に載せるところはすべて日蓮宗学者の研究成果に基づいています。そもそも御書全集に載せる録内・録外、一切は通日蓮宗の版に拠ったのでしょう。真跡・写本から解読文字を起こしたものなどあるでしょうか。すべて謗法と呼ぶ日蓮宗の研究成果を踏襲しています。真訓両読の法華経に至っては、自分たちが「謗法」と呼ぶ他派の版(たぶん、平楽寺版でしょう)を買って、あろうことか「大石寺版」として売っています。恥も外聞もありません。
700年前に生体から分離した肉が生きている(肉牙/生骨)などと言って憚らない坊さんの言など信用できるものなどあるわけがありません。
間抜けなのは自分自身であることを自覚されるべきでしょう。
640
:
犀角独歩
:2003/09/07(日) 19:34
― 付 ―
もっとも亨師は別格です。日蓮宗宗学全書の編纂にも組みした大学匠です。
ただし、残念なことは亨師の文書として出版されているものに、どうやら、改竄されているものがあると見える点です。
641
:
真摯 求道者
:2003/09/07(日) 23:38
なかなかの「深いウラの解明」を有り難う御座います。 これからも「役職や権威や権力」を活用して「信者どもヨ、下がれオロー、!」という「恫喝的な服従」を「強言される御仁」は続くでしょうか、?
642
:
空き缶
:2003/09/08(月) 00:37
横レス失礼します。
大石寺の弱点は真偽未決もしくは偽書をもってしてできている教学であることは承知の事実です。
それにしても許せないのは「波木井実長」を謗法呼ばわりし、日興上人の身延離山と結びつけ、身延を謗法の山と喧伝したことです。
真蹟のない「五人所破事」や「門徒存知事」によって、真蹟の現存する「弟子分本尊目録」を無視している。
「弟子分本尊目録」では日興上人は波木井実長の事を「日興第一の弟子也」といわば在家本六に加えられています。
「背きおわんぬ」とは付け加えられていません。しかも「弟子分本尊目録」は波木井実長の死後に書かれたものです。
いったい何時、謗法を犯したというのでしょうか。大石寺は700年間の無礼を身延にある墓前に行ってわびるべきでしょう。
643
:
犀角独歩
:2003/09/08(月) 08:55
> 642
わたしはこのご意見には賛成します。
「弟子分本尊目録」、すなわち、『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録』に、仰るとおり、
「甲斐国南部六郎入道者 日興ノ第一ノ弟子也 仍テ申与フル所件ノ如シ」
とあります。記述年月は永仁6(1298)年、興師、身延を出でたのが仮に『身延離山史』に言う如く正応2(1289)であれば、その9箇年後に「日興ノ第一ノ弟子」と言い、他の義絶者に載せる「背了(そむきおわんぬ)」との記述がないことは、如何にも不自然です。
644
:
愚鈍凡夫
:2003/09/08(月) 18:20
波木井六郎実長の長子・源清長は、1288(正応1)年12月5日に、日興師に対して誓状を書いてるようですね。
「もし身延沢を御出で候えばとて、心変わりをも仕り候て疎(おろ)そかにも思い進らせず候。又仰せ入り候御法門を一分も違え進らせ候わで、本尊並びに御聖人の御影のにくまれを清長が身にあつく深く蒙るべく候。」(富士要集第8巻)
源清長は、たとえ日興師が身延離山しても、日興師に恭順することを誓約しています。
このことから言っても、石山の主張は奇妙ですね。
645
:
空き缶
:2003/09/09(火) 00:32
はい。昭和40年代に「妙蓮寺」からでてきた、日興上人から波木井実長に当てられた3通の書状も是非御覧ください。
日興上人は波木井実長からのご供養を受け取り、宗祖御影の御前にお供えしていることがわかります。
波木井実長が謗法のものだとしたならば、日興上人は謗法からの布施を受け取ったことになります。
つまり、波木井実長の誹謗は日興上人への誹謗につながるのです。
646
:
眠りの小五郎
:2003/09/10(水) 03:08
問答迷人さん、犀角独歩さん、やはり、貴方がただけが反論を試みましたね。
わたしが、なぜ
『「現代に真蹟が残ってない」という理由だけで、「真偽未決」とか「偽書」
とか言うのは、単純で間抜けな考えだ』
と言ったのか、その理由を教えましょう。
「現代に真蹟が残ってない」という、たったそれだけの理由で、真偽を怪しん
だり、偽書と断定したりすることは早計であり、しかも、ややもすれば、自他
の信仰を破壊しかねない、たいへん危険な行為だからですよ。
そもそも、貴方がたは、「なぜ、いくつもの御書が、現在真蹟不在になってし
まったのか?」という観点からは、決して見ようとしないじゃないですか。
直線的に、「真蹟不在」=「真偽未決」or「偽書」としているでしょう。
わたしは、日蓮宗で発行してる御書は見たことがないから、これはあくまでも
推測に過ぎませんが、恐らく、貴方たちが「真偽未決」とか「偽書」とか言っ
てる御書は、大石寺版御書集には載ってても、日蓮宗の御書集には載ってない
んじゃないですか?
つまり、貴方たちの教義解釈の基準が、富士門流側ではなく、日蓮宗側に傾倒
しているから、そういう判断を下してるんじゃないか、と思うんですよ。ある
時、日蓮宗側で発行してる御書集には載ってないのに、大石寺版の御書集には
載っている御書を発見、真蹟所在や古写本の在り処を見ても記載がない、これ
は怪しいぞ、という、そんな理論展開なんじゃないですか?
ここ1〜2年の貴方たちの書込みを見ていて、どうも解釈が富士の流義と違う
と思い、最近特に、論述が日蓮宗サイドに寄ってるなと感じたのも、多分気の
せいではないでしょう。
問答迷人さんは、「日蓮(大)聖人の御法門を正しく学びたいと願うからこそ」
とお話しですが、そもそも、「富士門流信徒の掲示板」と銘打っておきながら、
富士の流義から遠く離れた場所で、どうやって富士門流を語るおつもりですか?
そんなことをしようとしても、出てくる言葉は「富士否定」ばかりでしょう。
富士の流義に立って、本気で富士門流を想うなら、まず「どうして真蹟が失わ
れたのか?」という点から考え始めるはずです。でも、貴方たちは、最低限、
この掲示板においては、そういう姿勢は見せていない。なぜですか?
もはや、富士義を否定することでしか、自説を保てなくなってるからなんじゃ
ないですか?
ご自身の姿を、よくご覧になった方がいいでしょう。
わたしが言いたいのは、それだけです。
647
:
犀角独歩
:2003/09/10(水) 07:10
眠りの小五郎さん:
> …反論を試みましたね。
反論を試みたのではありません。
あなたが考えているようなことを、ここに真摯に投稿する人間が考えたこともないと思う浅はかな観察を嗤ったのです。
あなたは真偽未決云々を言うことを間抜けであると言います。
では以下の言はどうでしょうか。
「新古各種の刊本中に“真偽未決”の問題となるものも信行に資するものを之を取る」
これは御書全集『凡例』(P5)に載るたぶん亨師の言でしょう。
平成新編で
「真偽の検討
<真偽> 本御書の編纂会に真偽検討委員会を設け、過去に疑義ありとされた御書147篇について、55回に亘る審議によって厳正な検討を加え、真書・偽書・真偽未決書に判別し、たとえば行学増進に役立つと思われる書でも偽書は不収録とした」(P8)
と襟度を示しています。
あなたがどのような信仰集団に属するかは存じ上げませんが、真書・偽書・真偽未決書の判別は石山においても当然、行われていることです。ただ、当掲示板ではさらに襟度を保ち、その厳正を極めているに過ぎません。
> わたしが、なぜ『「現代に真蹟が残ってない」という理由だけで、「真偽未決」とか「偽書」とか言うのは、単純で間抜けな考えだ』と言ったのか、その理由を教えましょう。
自分がどれ程過信しているのか存じませんが、もとより、浅慮に留まるあなたに“教え”を請うほど、わたしは落ちぶれておりません。ただ、あなたの浅慮を弾劾するばかりです。
> 「現代に真蹟が残ってない」という、たったそれだけの理由で、真偽を怪しんだり、偽書と断定したりすることは早計
いつ、誰が真跡不在の真偽を怪しんだり、偽書と断定しましたか。
なんとも浅はかな観察です。
> しかも、ややもすれば、自他の信仰を破壊しかねない、たいへん危険な行為だからですよ。
むしろ、逆でしょう。偽書をもって人に勧めるのであれば、その好意こそ、自他の信仰を破壊する大変危険な行為です。
真跡主義に基づかないのであれば、以下の伝蓮師聖訓は引用できます。
「私ならざる法門を僻案せん人は、偏に天魔波旬の其の身に入り替はりて、人をして自身ともに無間大城に墜つべきにて候。つたなしつたなし」
もし万が一、蓮師の言でないことを蓮師の言といって、その人に勧めるのであれば、それはまさに「私」蓮師の法門でないものを連枝の法門といって人に語ってしまうことでしょう。それを怖れればこそ、真摯な信行学者は真・偽・未決を真剣に考えるのでしょう。
また、富士門であるというのであれば、伝興師の言とする
「「偽書を造って御書と号し・修行を致す者は獅子身中の虫と心得べきな事」
との言をどう採りますか。
また、『摧邪立正抄』の
「偽書を構へて恣に聖筆と云はば富山の立義・貴賤上下信仰憑み無し」
との弾訶を如何に心得ますか。
> そもそも、貴方がたは、「なぜ、いくつもの御書が、現在真蹟不在になってしまったのか?」という観点からは、決して見ようとしないじゃないですか。
では、その点をここに主張してください。
真跡不在になった理由とは何でしょうか。
> 直線的に、「真蹟不在」=「真偽未決」or「偽書」としているでしょう。
ですから、誰がそんなことを記しているのですか。
まったく勝手に思い込んでいるに過ぎません。
648
:
犀角独歩
:2003/09/10(水) 07:11
―647からつづく―
> わたしは、日蓮宗で発行してる御書は見たことがないから、これはあくまでも推測に過ぎませんが、恐らく、貴方たちが「真偽未決」とか「偽書」とか言ってる御書は、大石寺版御書集には載ってても、日蓮宗の御書集には載ってないんじゃないですか?
見もせず、記すから自ら赤恥を曝す愚行を公開することになります。
他派の遺文集も全集であれば、偽書・真偽未決書も載せています。
まったくの見当外れ、的外れな愚かな発言です。
そもそも富士の御書と言ってもそれは他派がまとめた刊本を元にしているのであって、何も自前で作ったものではありません。単に他の刊本を基に句点・句読点・漢ルビなどを補い、旧字を新字に改める程度の文章編集をなし、独自の読み下しはそれに改めた程度のものに過ぎないでしょう。
旧来の出版でも真・偽・未決書に亘っているのは“周知”の事実です。
> つまり、貴方たちの教義解釈の基準が、富士門流側ではなく、日蓮宗側に傾倒
しているから、そういう判断を下してるんじゃないか、と思うんですよ。
これまた、まったくの見当外れ。当てずっぽうに過ぎません。
では、わたしのしるすことのどこが日蓮宗側に傾倒しているか、具体的に示していただきましょうか。
わたしが記していることは、日蓮宗僧侶にしても耳が痛むことばかりのはずです。
まして、わたしは宗学者嫌いを公言してきたのです。
> ある時、日蓮宗側で発行してる御書集には載ってないのに、大石寺版の御書集には載っている御書を発見、真蹟所在や古写本の在り処を見ても記載がない、これは怪しいぞ、という、そんな理論展開なんじゃないですか?
馬鹿馬鹿しい。まったく違います。
もう少し真面目にロムしてください。また、批判するのであれば、他派刊行の遺文集ぐらいめくっったあとにしていただきたい。
> ここ1〜2年の貴方たちの書込みを見ていて、どうも解釈が富士の流義と違う
と思い、最近特に、論述が日蓮宗サイドに寄ってるなと感じたのも、多分気の
せいではないでしょう。
まったくの気のせいです。
> 富士の流義に立って、本気で富士門流を想う
富士を肯定することばかりを論うことが富士門流を思うことでしょうか。
否定される点を徹底して検証して、その是非を思うことこそ、わたしは本気で門流を思うことであると確信します。
あなたのような脆弱で甘い姿勢では、都合の悪いことは見ないふりをする、批判される内容は相手のせいにするというまことに情けない、みっともない愚行を繰り返すことになります。646の書き込みの如くです。
> なら、まず「どうして真蹟が失われたのか?」という点から考え始めるはずです。
ですから、あなたは、どのように考えているのですか。
その考えを示してみてください。
示しもせず、夜干の遠吠えの如く吠えていても仕様がないでしょう。
> でも、貴方たちは、最低限、この掲示板においては、そういう姿勢は見せていない。なぜですか?
見せていないのではなく、あなたが読み取れないだけでしょう。
もう一度、過去の投稿をすべて読み直した上でかくの如き莠言を吐くべきでしょう。
> もはや、富士義を否定することでしか、自説を保てなくなってるからなんじゃないですか?
何を勘違いしているのかわかりませんが、わたしは自説など、たいそうなものを立てているつもりはありません。あるものをあるがままに述べているに過ぎません。
> ご自身の姿を、よくご覧になった方がいいでしょう。
みるべきは、眠りの小五郎さん、あなたご自身の姿勢でしょう。
眠っていないで起きなさい。起きて学びなさい。
不勉強極まりない手前味噌で自分の信仰にしがみつく哀れな姿、、それがどれ程情けなく物笑い失笑を買っている自分自身の姿をよく御覧になりなさい。
違うというのであれば、斯くも気色ばった愚文を弄する前に、ではまず、「真跡が失われた」理由でも、とくと“ご教示”いただきましょうか。
649
:
空き缶
:2003/09/10(水) 11:27
横レス失礼です。
大石寺版の御書の方が、のっていないものが多いですね。
特に真蹟現存のものまで省いてしまっています。「不動愛染感見記」なんかもそうですね。日蓮聖人が「天台真言宗」の僧として書かれた御書は殆どのせていませんね。
大石寺の御書は自分達に都合がよいものだけを集めたような感じがします。二箇相承はあっても「日朗御譲状」の掲載は無いし。
立正安国論も一つしか掲載していません。門下研鑚用のものだけの掲載です。幕府提出用の立正安国論が「天台沙門日蓮」となっているので、よほど都合が悪いみたいです。
650
:
アネモネ
:2003/09/10(水) 12:24
眠りの小五郎さん
はじめまして。
私などが申し上げるのは僭越ですが、真偽を怪しむことがいかに重要なことであるかを、あなたはまるで理解されていないと思い、少しばかりレスさせて頂きます。
>「現代に真蹟が残ってない」という、たったそれだけの理由で、真偽を怪しんだり、偽書と断定したりすることは早計であり、
真蹟が残っていない書をそのまま偽書だと片付けているものではないでしょう。
しかし、なぜ真蹟がないのかということの原因はいくつか考えられるわけで、その原因の中に偽書だったからという要因が全くないとは言い切れないわけですね。それはひとつひとつの御書について、現存している写本などから、さまざまな検証が続けられているわけですから、眠りの小五郎さんが考えているほど単純に決め付けているものではないでしょう。
むしろ、これまでがあまりにも真蹟の現存していない御書の取り扱いについて軽く考えてきたことのほうが、むしろ大変大きな問題なわけです。実際に教義体系が違ってくるほどのことですから、深刻です。危険視する気持ちは別の意味でわかります。
わかりますが、そのことを真摯に受け止めて向き合い、そこから教義を問い直しているのがこの掲示板ではないでしょうか。
>しかも、ややもすれば、自他の信仰を破壊しかねない、たいへん危険な行為だからですよ。
その信仰が本当に正しいかどうかの証明を怠るほうが、もっと危険だと思われます。
日蓮の書としての真偽がはっきりしていないものは、はっきりしていないものです。
はっきりしていないのに、日蓮が書いたものであると断定して信仰をさせることのほうが、よほど危険です。
教義が違ってくるのですから、大変なことです。
眠りの小五郎さんは、構築された教義体系が崩れることを恐れているのでしょう。その危険を感じていることはわかりますが、その教義体系が正しく日蓮の教義であるか否かは、御書の真偽に大きく関わることであるということに向き合わなくてして、何を根拠に正しい日蓮の教義であり信仰だと言い切れるのでしょうか。
もしも偽書だったら、正しいと信仰している教義は捏造されたものとなるわけです。
捏造された虚構の日蓮教義を信じ込まされていたとしたら、どうしてくれるのでしょう。
その危険性についてはどうお考えですか。
真偽がはっきりしない以上、やたらと信仰はできません。真偽の真を訴えたいなら、確固たる証明をして頂きたいものです。
>つまり、貴方たちの教義解釈の基準が、富士門流側ではなく、日蓮宗側に傾倒しているから、そういう判断を下してるんじゃないか、と思うんですよ。
眠りの小五郎さんは、富士門流側と日蓮宗側という対立軸という思考でしか、ここの内容を把握できていないのでしょう。
私は、個々の御書の真偽についてどうこう言えるほどの教学も見識もありませんが、少なくともここの掲示板での議論が、富士門流側か日蓮宗側かといった単純論争ではないことくらいは、理解しております。その点は私からも申し上げておきたいと思います。
>富士の流義から遠く離れた場所で、どうやって富士門流を語るおつもりですか?そんなことをしようとしても、出てくる言葉は「富士否定」ばかりでしょう。
いわゆる発起人が、富士門流から教義を学んできた人たちなのですから、掲示板の名称として使われることは自然なことです。その流派で伝えられてきた流儀が果たしてどこまで宗祖の心にかなったものであるかということを問い直してきているのです。
つまり祖道の恢復に志を向けてひとつひとつ研鑚と議論を重ねてきているわけです。
富士の流儀にただ固執するだけの立場とは、祖道に対する取り組み姿勢からしてまったく違うのです。理解されないことかもしれませんが。
名称から難癖つけ、揚げ足ばかりをとられては、かえって富士流儀の浅はかさみたいなものが、あなたの人間性を通して露呈するばかりに見え、それが富士門流の姿だったのかと、ますます残念な思いにかられます。
もはや立場の違いもありますから、私などが申し上げることもないことかもしれませんが…。
651
:
犀角独歩
:2003/09/10(水) 13:00
> 649
空き缶さんには、適切な横レスをいただきました。
ご挨拶、遅れました。犀角独歩と申します。
御礼申し上げます。
先に引用した『御書全集』凡例には
新古各種の遺文集より削除したるもの。
建長五年収支建立已前の戒体即身成仏義等数篇、現代教養に神益なき十王讃歎抄・八大地獄抄、純天台なる三八教・秀句十勝抄の如き縦い御真書でも聖祖の御聖録文と見做して且く文を除いた。(P5)
とあります。しかし、僧侶向けの昭和新定ではこの点を改めています。
ただし、日朗譲状は、空き缶さんが仰るとおり省かれております。
石山平成新編では、以下のような真・偽・未決に関する宗として姿勢が明示されています。
収録(宗内既刊御書との対比)
〈全集収録・本書不収録の御書〉『御書全集』に収録されているもので、本書に収録しなかった御書は3篇あるが、そのうち「兵衛志殿御返事」(全集1108頁)と「遠藤左衛門尉御書」(全集1336頁)の2篇は真偽検討委員会の調査によって偽書と判定したので収録しなかった。また「寿量量品得意抄」(全集1210頁)は「開目抄」(本書523頁)の一部と同文の重複書であり、伝承にも疑義があるため不収録とした。なお「来臨曇華御書」(全集1300貢)は、「内記左近人道殿御返事」(本書1587頁)の断簡と判明したので、本書では同御返事に編入し、「衣食御書」(全集1302貢)は他の断簡四紙と併含して「上野殿尼御前御返事」(本書751貢)とした
◎偽書
昭和41年大石寺発行の『昭和新訂日蓮大聖人御書』全3巻(以下『新定御書』という)は、その凡例にも記されているように、従来「御書」と称されてきたものすべてを真偽の区別なく収録しており、そのうち本書(石山平成新編)では次の32書を偽書として削除した。
30「垂迹法門」32「法華経大意」23「神祇門」50「大黒天神相伝肝文」51「大黒送状」58「行者仏天守護抄」65「聖人御系図御書」66「大黒天神供養相承事」130「此経難持十三箇秘訣」179「祈構経言上」180「観心本尊抄文科」182「授職潅頂口伝抄」184「遠藤左衛門尉御書」197「与平内左衛門書」202「放光授職潅頂下」297「無作三身口伝抄」298「無常遷滅抄」389「大黒天神御書」453「兵衛志殿御返事」465「松野後家尼御前御消息」492「彼岸抄」494「撰法華経付属御書」500「法華本門宗要抄」501「上野五郎左衛門尉御書」503「同地獄御書」505「本寺参詣抄」560「波木井殿御書」507「法華和讃」508「読誦法華用心抄」512「蓮華房御書」515「臨終一心三観」516「末法一乗行者息災延命所願成就祈祷経文」
◎真偽未決書
本書では次の17書を真偽未決書として不収録とした。
4「獅子頬王抄」5「尭舜兎王抄」6「諸願成就抄」11「十王讃歎抄」12「八大地獄抄」13「間答抄」19「回向功徳抄」55「善神擁護抄」75「法華大綱抄」112「寿量品得意抄」153「真言宗私見聞」156「法華宗内証仏法血脈」249「成仏法華肝心日伝身遣抄」440「当体蓮華抄」502「身延山御書」513「時節到来抄」514「万法一如抄」
◎重複書
本書では、203「南条平七郎殿御返事」は「種々御振舞御書」(本書1055頁)末文との重複書、520「阿育王御書」は前半部が「高橋入道御返事」(本書893頁)、後半部は「南条殿女房御返事」(本書1227頁)との重複書として削除し、534「来臨曇華御書」も前述のごとく重複書として不収録とした。
<不収録の真書>
『新定御書』に収録されている中、次の9書は真書であるが、信仰に資するところが少なきものとして収録しなかった。
8「六因四縁事」9「不動・愛染感見記」10「戒之事」174「直垂御書」194「合戦在眼前御書」366「十月分時料御書」376「弘安改元事」396「阿育多王御書」495「春の始御書」
また、336「立正安国論(広本)」重複書として収録を控えた。なお文義不詳の断簡類は収録しなかった。(P9)
としています。
わたしは真書をこのように左右する姿勢は頷けません。
自宗に都合の好いように編纂を進めることを蓮師への冒涜であると受けとめています。
652
:
Jルーカス
:2003/09/10(水) 14:06
御書、御妙判、御遺文と呼ばれるものの真偽について、『勝呂信靜(文学博士 立正大学名誉教授)前東京大学講師 前現代宗教研究所顧問』は浅井要麟教授の真筆偏重的な考察を柔らかく否定し、以下のように述べられております。この中に「日蓮宗の出版している御遺文についての凡例記載もあるので参考にして頂きたい。
「御遺文の真偽の問題を論じた学者は何人かいるが、中でもこの問題について厳格にして広範な文献学的研究を提唱・実行されたのは浅井要麟教授であった。
教授の提起された問題はきわめて多岐にわたっていて、その困難性のゆえになお未解決の問題も少なくないが、教授の影響力はまことに大きく、その学風は今日まで脈々と伝えられているのである。
御遺文類の中には偽作の疑のあるものが少からず混入しているので、これを資料として用いる場合真偽の嚴重なチェックが必要であるということは、宗学研究者の間では常識になっているが、世間では案外このことは知られていないようである。この理由はいろいろ考えられるが、御遺文研究は近代的な文献学的研究であるにしても、伝統的な「祖書学」(ただしこの呼称は近代のものらしい)に属するものであるから、それは日蓮宗内部の学問として研究成果が外側に向かって十分に知らされなかったことがあると思う。さらに『昭和定本遺文』の編纂法も影響しているように思う。
周知のように『定本遺文』は第一輯正篇(第一巻・第二巻)に真撰遺文四三四篇を、第二輯続篇(第三巻)に偽撰の疑ある遺文五五篇を収録している。この『定本遺文』は今日まで公刊された遺文集のうちもっとも権威あるものであるから、この真撰(第一輯)と偽撰(第二輯)の分類は決定的なものと思われがちである。ところが偽撰の疑のある御書であっても、古来伝統的に宗義上・信仰上、真撰のごとくみなされて来たものは第一輯の中に収められているが(この旨は巻末の凡例に示されている)、しかしそれがどの御書であるかは指示されていない。一般の研究者は真偽問題についての細かい議論を知らないから、第一輯正篇の中の御書なので間違いないと思って資料に取りあげると、専門家からそれは偽書であると指摘・非難されるようなことが起る。
しかしひるがえって考えてみると、決定的な意味での偽書というものがあり得るのかどうか。どの点から見てもあるいは誰が見ても偽作であることが疑ない御書があるとすれば、それは偽書といってよい。しかし大多数の場合、偽作の疑が強いが、見ようによっては真作と見られるというものであって、真作の可能性が全くないということではない。一般に真偽を決定する客観的形式的な証拠というものは容易に見出されないから、拝読する人の主観によって真偽の判断が異なるということは十分に起り得る。第二輯続篇(偽書の部)に収められている御書にしても、それは同様であって、ある御書について、百人の学者のうち九十九人までが偽書説を唱えても、一人が真書説を唱えそしてそれに相応の根拠があれば、決定的な意味で偽書とはいえない。それは厳密にいえば偽書でなくて真偽未決であり、真偽が疑われているという意味において「疑書」と称すべきものである(ただし「疑書」という言葉が用語として定着しているかどうかは判らないが。)
この点を考慮したからであろうか『昭和定本遺文』の凡例は、慎重に偽書という言葉をさけて真偽未決の趣旨の言葉を用いている。念のためその一部をつぎに引用しよう。
凡 例 (前略)
一、本書は右の内容を左の五輯に分って収録した。
第一輯 正篇 著述・消息にして真蹟現存するもの、真蹟現存せざるも真撰確実なるもの、真偽確定せざるも宗義上・信仰上・傳統的に重要視さるゝものを収めた。
第二輯 続篇 著述・消息にして真偽の問題の存するもの、其他を収めた。(下略)
653
:
Jルーカス
:2003/09/10(水) 14:07
(つづき)
右において「其他」というのは極めてあいまいで、何を意味するのかこれだけではよく判らないが、ともかくこの凡例によるかぎり、『昭和定本遺文』においては偽書は存在せず、存在するのは真偽の問題のあるもの、つまり真偽未決の御書である。真偽未決であれば、平均化して五十パーセントは真作の可能性があるとせねばならない。しかるに学界の傾向として、疑書を偽書と同一視し、それを日蓮聖人の思想にあらずとして全面的に排除しようとするところに問題があるように思われるのである。
厳密性を重視する学者のなかには、真蹟の現存あるいは曽存が確認される御書のみを用い、他は一切資料として採用しないという研究法を取っている人がいる。有力な学者で現にこのような人がいるのである。たしかにこれは一つの見識である。しかし偽書と称されるものは厳密にいえば上述したように「疑書」であるから、真作の可能性を含むものとせねばならない。それを全面的に排除することは、日蓮聖人の宗教思想を実態よりも狭小に限定することになりかねないと思う。それは偏った日蓮像を作りあげることにもなるであろう。
これに対し偽書あるいは疑書ということを考慮せず日蓮聖人の名において伝えられるものは、すべて真撰として取り扱うという立場もあり得る。しかしこれによっては日蓮聖人の思想から、そこに混入しているかも知れない他の夾雑的な思想を区別し除去する方法を取り得ないという欠点が生ずる。
以上に対し聖人の御書を、真撰の確実視される御書を基本的資料、偽作の疑のある御書、真偽未決の御書を補助的資料として区別し、まず基本的資料によって聖人の思想を拝察し、それに矛盾しないかぎりにおいて補助的資料を基本的資料に準ずるものとして採用するという方法があり得ると思う。私にはこの方法がもっとも妥当であるように思われるのである。」
654
:
犀角独歩
:2003/09/10(水) 14:50
> 652〜653
なるほど。そうすると、このような学的姿勢からしても現石山の真・偽・未決の編集方針はおかしいということが、Jルーカスさんの仰りたいことなのでしょうね。
以上の議論は真筆・偽書・未決に基づくものであって、真跡についての議論ではありませんね。わたしは以上のような経過的な研究を離れ、最も確実視できる蓮師遺文、つまり、真跡を以て最小値の蓮師思想をまず素描することが大切であると思っています。
これはたしか池田さんが百六箇抄講義で指摘し、肯定していた点ですが、同抄は、多くの加筆があり、それはその書の相伝者複数のものであるということでした(石山で言えば、歴代住職)。
それをすべて「日蓮大聖人の教え」としてとらえるのが信心であるといった講義内容であったと記憶しています。昭和40年代の話ですから、いまの学会教学とは隔世の感があります。まあ、それは置いて、そのような姿勢はたしかに信仰としては馴染むでしょうが、しかし、純粋に蓮祖の原型思想に迫り、そこから信仰を立てようという考えとは馴染まないものがあります。また、この二つは相争って始まらないので、「偽書も真書主義」「真跡主義」と自らの立場を闡明にして発言することで、余計な摩擦は減るでしょう。
わたしはもちろん真跡主義で、蓮師原型教学の素描、その後の変遷の素描を別に分けて考えるほうが世間一般の理解を得やすいと信じます。
655
:
Jルーカス
:2003/09/10(水) 15:05
> なるほど。そうすると、このような学的姿勢からしても現石山の真・偽・未決
の編集方針はおかしいということが、Jルーカスさんの仰りたいことなので
しょうね。
そうではありませんよ(笑)。
だって平成新編は「御書全集」ではありませんからね。
廉価で手に入るように、選抜した御書しか載せてませんからね。
対して、平成校訂の方「偽書・真書・未決書」を全て掲載させるようですがね。
656
:
顕正居士
:2003/09/10(水) 15:13
勝呂信靜『御遺文の真偽問題』
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho32/s32_086.htm
コピペ=長文をウェッブからコピーしかつその所在を示さない行為
は掲示板あらしであるのみでなく、著作権の侵害であるから
管理者におかれてはコピペ投稿を発見したら削除されるよう勧めます。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3374/
657
:
犀角独歩
:2003/09/10(水) 15:58
顕正居士さんから著作権に関する注意がありました。
わたしが引用したのは、書籍からのものですので、書籍名、出版社、頁数を載せ、その保護に当たることと致します。
『新編 日蓮大聖人御書全集』日蓮正宗大石寺版
昭和27年4月28日発行
昭和44年7月3日44版発行
発行所 宗教法人創価学会
P5から転載
『平成新編 日蓮大聖人御書』大石寺
平成6年7月16日発行
発行 日蓮正宗総本山大石寺
P8〜11から転載
658
:
犀角独歩
:2003/09/10(水) 16:07
Jルーカスさん:
> 選抜した御書
選抜した御書というより、『例言』に藤本潤師の署名で独自の真偽検討委員会で審議し、「偽書・真偽未決…不収録」と明示してあります。
もっとも、たしかに真書に関しては、不都合なものは省いて選抜してありますね(笑)
それにしても「偽書であるとしても偽書といえない、真書の可能性は捨てられない」としたら、いつも言われることですが、日朗譲状と二箇相承は真っ向から相反することを書いたことになります。すると、蓮師は老人性の痴呆にでも陥っており、いろんな矛盾することを書いてしまったことになってしまうのでしょうか(大笑)
わたしは、蓮師は死の直前、体力は衰え筆を持つ力は失せても、頭ははっきりしていたのではないのかと、真跡その他の信頼できる文献から見る限り思うのですが。
659
:
Jルーカス
:2003/09/10(水) 17:23
> コピペ=長文をウェッブからコピーしかつその所在を示さない行為
> は掲示板あらしであるのみでなく、著作権の侵害であるから管理者
> におかれてはコピペ投稿を発見したら削除されるよう勧めます。
このような事はありません。
以下、先ほど、法務省民事局現役参事官に問い合わせたので、その上で、
回答いたします。
既にWEB上の無料サイトに公開されているものを、同じくWEB上の公開
サイト(掲示板等)にコピペしても、そのことで即「著作権の侵害」には
なりません(なお転載が出来ないようにガードされている文書を、ガードを
除去してコピペするのは別の意味で違法でしょうが)。
たとえば小生がこの「現宗研」のサイトから引っ張ってきた物を、小生が
営利的に出版する著作物に何の出典元も明らかにせずに、載せればそれは
「著作権の侵害」になります。
また、販売されている書籍を勝手に、WEB上に載せれば、それにより著作権
の侵害になります(この場合、無料サイトで営業利益を得ていなくとも、そう
なります)。
しかるに今般の小生の場合は、そのどちらにも該当しておりません。
また、さらに裁判で云う「予備的抗弁」をしておきますと「仮に著作権に該当する
と仮定しても、既に論者の氏名を明らかにしてますので、そこで著作権法、及び同
施行規則に基づく『著作者名明示義務』は果たしてますので面責されるハズです
(この場合通達によれば「具体的出典場所」が無くとも「著作者名」を表示して
おけば、十分とされております)。
それよりも、今般の顕正居士さん、貴殿の書き込みには、小生に対する「名誉毀損」
の疑いがあります。もっとも「Jルーカス」自体は単なるHNですので、問題ないです
がもし実名での掲示板でしたら名誉毀損になるでしょう。
まず、私が著作権の侵害をしているか否かは、裁判所が判定するものであり、もし
警告を発するなら「疑い」の2文字をいれるべきです。
しかるに、貴殿は司法権を有する裁判所でもないのに勝手に断定した文書(疑いの
2文字の無い断定文書)を、公開上で表現しました。
これは以降は、注意されることをお勧めします。
省みるに私の投稿は、掲示板のルールにも触れておらず、また法的にも問題は無いと
思われますので、その旨御了解下さい。
(と言うわけですので、独歩さんの投稿にも全く違法性は見られません)
660
:
Jルーカス
:2003/09/10(水) 17:25
> 659
×「面責されるハズです」
○「免責されるハズです」
663
:
愚鈍凡夫
:2003/09/10(水) 20:06
うわっ!! 知らぬ間にこんなにレスが進んでる。 \(◎o◎)/!
>>646
:眠りの小五郎さんへ。
> つまり、貴方たちの教義解釈の基準が、富士門流側ではなく、日蓮宗側に傾倒
> しているから、そういう判断を下してるんじゃないか、と思うんですよ。
そうじゃないでしょう。基準をニュートラルに戻して、そこから蓮祖の法門を考察し直そうとしているのじゃないですか。小生は、そう感じます。
> 富士の流義に立って、本気で富士門流を想うなら、まず「どうして真蹟が失わ
> れたのか?」という点から考え始めるはずです。
犀角独歩さんのレスと重なりますが、この件についての眠りの小五郎さんのお考えはどうなのですか。ぜひお示し下さい。
「西山は重須より完全に独立し、同じ本門寺の寺号を称し、その伝統の正潤を争い、それがためにその後真偽未了の偽書謀書が次々に作られ、或いは西山が大石寺と結び重須を攻撃し、重須は保田の妙本寺の日郷系と結び大石寺や西山を攻撃し、いつ果てるとも知れぬ内訌をくり返し来ったのである。」(松井日俊『富士日興門下教団分裂略史』改訂新版 P46〜47)
富士門にもこのような内紛の歴史があります。
故に、蓮祖のみならず、各山歴代の書も真偽問題の対象にすべきだと思います。遠回りのようですが、ここからしか蓮祖の法門は見えてこないように思うからです。
664
:
連苦 体得人
:2003/09/13(土) 20:14
今、全国紙には「某S会」の誇大広告が「我が者ズラして席巻中」ですが、どこからも「疑義や抗議」も出ませんです、。 ヤハリ「言論テロ、、」の影響が及んで居るのでしょうか、、? 宗教法人=無税とは??でしょうか、、?
665
:
空き缶
:2003/09/14(日) 16:48
新人の「空き缶」と申します。
日向上人の幕府への申状は「日蓮聖人遺弟」と書かれていると思いますが、何時「天台沙門」と名乗ったのかご存知の方は教えてください。
「弟子分本尊目録」の本六定置のあとに「五人一同に天台沙門と名乗れり」とでてきますが、これは日澄初代学頭からの情報をもとに書かれたと推察しますが、どうなんでしょうか?
日興上人は何を根拠に日向上人・日持上人が天台沙門と名乗られたといわれるのか、ご存知の方、是非ご教示ください。
666
:
愚鈍凡夫
:2003/09/14(日) 19:40
>>665
:空き缶さんへ
「日澄図する所の要集は実に後代の亀鏡たり、視聴共に貴重せしむ、末学必ず応さに流伝すべし、但し本師補任六人の内・五師は天台沙門と注進し日興独り先聖の遺弟と挙ぐ」(日順阿闍梨血脈)
「一、五人一同に云く、日蓮聖人の法門は天台宗なり、仍つて公所に捧ぐる状に云く天台沙門と云云」(富士一跡門徒存知の事)
とあり、日興師以外の五老僧が「天台沙門」と名乗ったことが記されています。
真偽問題を横に置いて、『富士一跡門徒存知の事』にある、「公所に捧ぐる状」がその根拠じゃありませんか。
これを富士門では、我が身の保身のために権力に迎合した、蓮祖の御心に背く恥ずべき行為であると五老僧を弾劾しています。
しかし、このことを逆に五老僧擁護の立場で考えると、『立正安国論』がカギになるのではないかと思います。
というのは、中山法華経寺蔵本には、「天台沙門日蓮勘之」との文があります。このことが五老僧が「天台沙門」を名乗る切っ掛けになったのではないでしょうか。
つまり、蓮祖は幕府を諌曉する時、敢えて「天台沙門」を名乗りました。このことに習ったのではないかという考えです。
蓮祖の御遷化後も幕府の厳しい弾圧は続いたと思われます。したがって、蓮祖亡き後の脆弱な教団を守るため、『立正安国論』執筆当時の蓮祖の法華弘通に習ったのではないでしょうか。これは飽くまでも、五老僧擁護の立場で考えた場合ですけどね。
667
:
空き缶
:2003/09/14(日) 20:21
愚鈍凡夫 様
日昭師・日朗師は確かに天台沙門と名乗りました。日頂上人は天台法華宗の沙門と名乗りました。
しかし日向上人は先にあげた通り、「日蓮聖人遺弟」としています。日持上人については幕府への書状は真筆・写本ともに残っていません。
この辺がいまいちピントきません。「門徒存知事」はいまいち信頼を置きかねているんですが・・・
昭・郎二師は立正安国論に習ったことは間違いないと私も思います。この二師の御本尊を見ても書写の形式を取っておらず、まるで日蓮聖人の代わりを勤めているかのようです。
その点、日興上人と日向上人は本尊は書写形式をとられ、幕府への申状も弟子の立場で書かれていると思います。
そこで、何をもって「天台沙門」と名乗ったといわれたのかが知りたいと思いまして。
668
:
愚鈍凡夫
:2003/09/14(日) 21:21
小生も『富士一跡門徒存知の事』は『日興跡條條事』同様、信頼を置いていません。ただ、「天台沙門」と記した権力者宛の書状が存在するのではと思ったから引用しました。
> 日昭師・日朗師は確かに天台沙門と名乗りました
とは、日昭・日朗が幕府に出した『愁訴状』(内容は、国家の安泰、蒙古への祈祷。拝見したことがないので詳細は分かりません)のことですか。
この『愁訴状』は日向師・日持師同意の上でのことらしいですね。
これは推察ですが、このことがあって、
「仍つて公所に捧ぐる状に云く天台沙門と云云」(富士一跡門徒存知の事)
との記述になっているのではないかと思います(富士門では『愁訴状』のことが伝えられていたのではないでしょうか)。
やはり、蓮祖の先例にならったと思います。手続き上、幕府としても罪人日蓮の弟子と名乗るよりも、「天台沙門」と名乗った方が受け入れやすかったのではないでしょうか。
669
:
空き缶
:2003/09/14(日) 23:53
愚鈍凡夫 様
日蓮宗宗学全書第1巻に日昭師・日朗師・日頂師・日向師の申状がでています。
それぞれべつべつのもので、連名の署名・花押等はないようです。
幕府への申状と『愁訴状』はべつもののようですね。日蓮宗宗学全書第1巻にはでていません。
また、日高師等の中老も「日蓮聖人遺弟」と名乗っていますね。
天台沙門とは日昭師・日朗師の特有の表現みたいです。
670
:
愚鈍凡夫
:2003/09/15(月) 16:23
空き缶さん、そうですか。有り難うございます。
日昭師は鎌倉浜法華寺、日朗師は鎌倉比企谷妙本寺・武蔵池上本門寺を拠点として弘教していたわけですから、ある意味、背に腹は代えられないといったところもあったのでしょうか。
幕府の膝元での弘教ですから、弾圧もすごかったんだと想像します。
671
:
犀角独歩
:2003/09/15(月) 19:58
愚鈍凡夫さん:
ちょっと、横レスで質問させてください。
「天台沙門」という名乗りについてですが、これは案外、“本則通り”の名乗りであったと考えることはできないのでしょうか。
例えば、蓮師は天台沙門と名乗るのは公では当然のことであると思えるわけです。なぜかと言えば、比叡山に学んでいるからです。わたしは個人的には蓮師に立宗の意志があったのかという点で疑問を抱いています。むしろ、ある時期まで、純天台の復古主義であったと思えるわけです。
また天台宗の相承からは 伝教−円仁−恵亮−良源−源信−覚超−長豪−忠尋−皇覚−範源−俊範−日蓮 という相承譜であるとされます。
なお、蓮師自ら「法華宗」と言われます。この名称は蓮師滅後、日蓮宗の規模が確立されてからは、天台法華宗と区別され、(日蓮)法華宗の如き用例は発生するものの、元来は天台宗を意味するものでした。そうなると、天台沙門の名乗りはごく当たり前のこととなります。
昭師も蓮師と同じく比叡山に学んでいるわけですから、天台沙門に違いありません。
わたしは朗師の修学・遊学その他には詳しくないのですが、得度は建長6(1254)年で、蓮師自身、(天台)法華宗として認識の時代からの弟子です。となれば、公に状を捧げるのに、天台沙門の名乗りは自然なこととなります。
また、蓮師自体、晩年、一草案を身延に得て久遠寺と呼称していたように見えますが、弟子の多くは天台宗寺院に寄宿していたわけで、世間的な地位はいわば天台僧であったに違いありません。興師自身にしても蓮師の晩年(弘安元(1278)年33歳)に至るまで四十九院の供奉僧でありながら、蓮師の弟子となっていた経緯がありました。ですから、この時点で、四十九院その他でもし文書を書くことがあれば「四十九院僧」であることを明記していたと思われます。
それが重須にあって、「日蓮聖人の弟子」と記したかどうか、わたしはこの点でも消極的ですが、しかし、仮にそのような呼称を以て公に文書を進上できたとすれば、それは重須本堂並びに檀所を、河合の庇護で得ていたればこそではないでしょうか。また、その時点ではもちろん、四十九院の供奉僧の社会的な地位は退して長らくの事件が経過していたわけです。
むしろ、昭朗両師が「天台沙門」と名乗っていたとしたら、それはその時点で、比叡山と何らかの関係が存していたからで、これは蓮師の「本弟子」の決定とは別の話であるとわたしには思えます。
つまり、「○○沙門」の名乗りはそれら社会的な地位に拠るのであって、信仰上の師弟子から述べるものではなかったように思えます。
これはまた比叡山に遊学した順師にしても、仮に叡山系で文書の提出などがあれば、たぶん、「天台沙門」と記していたのではないでしょうか。
現在で言えば、大学で先生をやる坊さんが公式の文書で肩書きに「○○大学 ○○○○」と書いて、自寺院の名前を書かないとしても、自宗・自寺院・宗派を蔑ろにしたことにはならないようなものではないかとわたしは考えるのですが、どのようなものでしょうか。
ただし、蓮師の場合は、早くも40歳には伊東流罪に処され世間一般からすれば罪人視されたうえ、特に特定寺院の供奉僧その他の役を得ていたわけではなく、むしろ、社会的地位としては比叡山出身からはたしかに法華宗・天台沙門ではあったものの、その名乗りを跨がざるを得ない対世間的な事情が度重なる処罰待遇の中で生じていったのではないのかと、これはまったくの憶測ですが、想像しています。
併せて、興師の派祖意識の確保、重須教学の振興と確立、その時点では、根拠地も確保されているわけですから、自ずと自宗意識も萌芽していったと想像できます。伝順師文書の中にすでに「日蓮宗」の名称が見られるのはその好例ではないのかと、わたしは考えています。
ご意見をお聞かせいただければ幸甚です。
672
:
空き缶
:2003/09/15(月) 20:54
日昭師・日朗師は新弟子を比叡山で受戒をさせていたと聞いたことがあります。
日昭師・日朗師の書く、曼荼羅御本尊は主題の下に自身の名前が入っており、日蓮聖人は天台・伝教と同じく「人師・論師」の段にかかれています。
日興上人の他師との違いは、やはり佐渡流罪に付き添われたからでしょうか?
673
:
愚鈍凡夫
:2003/09/15(月) 20:58
犀角独歩さん、今晩は。
むむっ・・・・・。ガンコさんから逆襲があるかと思ったら、犀角独歩さんでしたか(読みが浅かった)。(^◇^;)
「日蓮聖人はもともと天台宗の僧侶でした。青年期、その根本道場である比叡山をはじめ各地で研鑚を積んだ後、これも比叡山横川系の天台宗寺院であった故郷安房の出家寺・清澄寺に戻り、ここで聖人は初めて法華経の優位性を主張し、当時の天台を席巻していた浄土教を厳しく批判します。この時をもって日蓮宗の立教開宗としているわけですが、必ずしもそう断じ切っていいものかどうか。すなわち日蓮聖人はこの時、中国天台宗の祖である天台大師智邈から日本天台宗祖の伝教大師最澄へと連なる系譜において法華経こそが最も重要な経典なのだと、当時の天台宗で主流となっていた密教や浄土教に対し、その法華経回帰を主張されたとみられるからです。
その後もしばらくの間は自らを「天台沙門」と称され、正統天台の正嫡であるとの姿勢を明確に打ち出されます。そして続々と日蓮聖人のもとに集まってくる弟子たちにもまた天台出身の僧が多く、有名な高弟6人(六老僧)のうち日朗・日頂両師を除く4人までが天台宗から馳せ参じたのでした。ちなみに日蓮聖人の遺文および曼荼羅授与書その他の文献から名前が確認できる弟子66人中20人が天台僧であったとされています。しかも教団形成の重要な時期であった身延入山後の晩年や滅後に至っても、各地の天台宗寺院に寄住していた弟子たちがいたほどで、こうしたことからも日蓮聖人とその門下がいかに天台宗と関わりが深かったかが分かります。」(※註1)
確かにこの意味で言えば、蓮祖が「天台沙門」を名乗ったのは当然と言えると思います。
ただ、ここで面白いのは天台宗出身でないのにもかかわらず、日朗師・日頂師が「天台沙門」を名乗っていることです。確か、日朗師は日昭師と叔父甥の関係にあり、その縁故で蓮祖に帰依したのだったと思います。日順師は、聖滅後に「天台法華宗沙門」と名乗ったとのことですよね。このことから弘教の都合上、蓮祖の先例に習って「天台沙門」を名乗ったのではないかと思ったのです。
※註1 「日蓮宗の歴史・日蓮聖人在世当時の教団形成事情」
http://www.sattva.jp/menu2/hou-history.html
674
:
愚鈍凡夫
:2003/09/15(月) 21:12
訂正
誤 日順師は、聖滅後に「天台法華宗沙門」と名乗ったとのことですよね。
正 日頂師は、聖滅後に「天台法華宗沙門」と名乗ったとのことですよね。
です。悪しからず。 m(__)m
675
:
犀角独歩
:2003/09/15(月) 22:12
愚鈍凡夫さん:
いやいや、わたしは逆襲でも何でものではないですよ(笑)
いつも愚鈍さんが書かれていることには頷きながら読ませていただいております。
> 「日蓮宗の歴史・日蓮聖人在世当時の教団形成事情」
これは、どんな方がお作りになったものでしょうか。
典型的な形でテキストとしてはよいですね。
この文章のなかで、ちょっと不鮮明であると思うので補足します。
わたしは、宗旨建立といわれるものは潤色であると思うわけです。
いわば、叡山で免許を蒙り、登高座が許され、故郷に錦を飾る感じの初の高座説法であったという感じだったのではないでしょうか。もちろん、法華宗(天台宗)沙門としての説法です。
で、京に対峙する形で樹立する鎌倉幕府で、いまでいう新興宗教として蔓延りだした法然かぶれに、その法華宗の立場、ひいて言えば京の立場から鎌倉勢の流れも含めて念仏を批判した説法となったということであると思います。
なお、申状、あるいは天奏というと、なにか一国諌暁の如き様相であると想像しがちですが、ここいらを冷静に読み解いていくと、これは要するに、今で言う宗教法人としての許認可を求めることに趣旨があるように見えます。その場合、天皇家と武家とは別々に許可を取る二重手間があったとも見えます。
朗師はやはり叡山ではなかったのですね。頂師もそうですか。まあ、しかし、その師匠が天台僧であり、その人から得度すれば、叡山に学ばなくても法華宗・天台沙門であることになるでしょうね。ここいらへの遊学は、それ相当の資金力と人脈が必要であったと想像できます。
やや、関係しますが、興師の園城寺申状の代奏の信憑性は如何ばかりでしょうか。
なにより、「朕若し法華を持たば富士の麓を尋ぬべし」と言ったという伝説。これは嘘でしょう。弘安4年、蓮師は身延にあり、富士には南条家の私邸があるだけでなにもないわけです。そこに天皇が訪ねてどうするだと思うわけです。
ただ、興師は武家の出なので、公家代奏というのはどんなものでしょうか。目師、尊師が上洛を志せたのは、その出が公卿の流れであったからと思えます。
676
:
愚鈍凡夫
:2003/09/15(月) 23:23
犀角独歩さん、再び今晩は(阪神タイガース優勝でかなり酔ってます)。
/^^)/\(^^\チャンチャカチャン。
本門正宗のHPにこんな記述があります。
「謹上 民部公御房 白蓮(花押) 御返事
つまり、日目上人の元亨の申状(園城寺申状)は、この時、日盛師が比叡山で書写された奏状を書式手本として日興上人に依って文案され、日目上人に依って奏上されたのであります。この奏上の結果、嘉暦三年の秋、富士に後醍醐天皇の論旨が下されたのであります。後醍醐天皇の叡慮に接した日興上人は日蓮大聖人の御遺命の「大本門寺』勅許の確信を深められ、日蓮大聖人が富士門の門下に授与された各々の「大曼荼羅」に嘉暦四年に「但可為大本門寺重宝也」或は「懸本門寺、可為末代重宝也」「可為本門寺重宝也」の文言を加筆されたのであります」(※注1)
「日目上人は大聖人の御予言の「一国二王」即ち、弘安十年(一二八七)九月、幕府の横車に依って後嵯峨上皇の遺詔に叛した後深草上皇(持明院統)の治世が成立して後嵯峨上皇の遺詔を受けた亀山天皇(大覚寺統)との二統に分れ対立しました。
こうした情勢の中で大覚寺統の後醍醐天皇は討幕を志され元亨三年(一三二三)の秋、廷臣、日野資朝を東国に下し味方をつのったのであります。当然、日蓮大聖人の「王仏冥合」の教えを信奉していた新田小野寺一党は日目上人に進め、日目上人は時至れりと国諌の書を認めて上洛し天奏を果たされました。この[国家諌暁』の奏上文は世に「園城寺申状」と云われ、伝えられております。その認められた内容は次の如くでありました。」(※注2)
※注1
http://www.namaki.com/hedit539.htm
※注2
http://www.namaki.com/hedit537.htm
犀角独歩さんの投稿とは直接関係ないですが、早坂鳳城氏がこんな論文を書いていますので紹介します。
「天皇本尊論について」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho29/s29_138.htm
677
:
空き缶
:2003/09/15(月) 23:44
横レス失礼します
「園城寺申状」とは日興上人の初七日に目師等の連名にて書かれた「日興上人御遺蹟事」に出てくるあれでしょうか?
個人的には「武田の兵乱」で紛失したのは「二箇相承書」ではなく「園城寺申状」と「御下文」ではないかと推察していますが。
箱だけは西山本門寺に現存していると聞いたことがあります。
678
:
犀角独歩
:2003/09/16(火) 05:42
愚鈍凡夫さん:
まったくユーモアに富んでいますね、愚鈍さんは。笑わせてくれますね。小野寺直さんですか。彼のことについては、ここでもけっこう書きました。四半世紀前のわたしの知り合いです。彼の言うことはみんな作り話ですよ。まあ、作り物は話だけではなく、漫荼羅から何からそうですが(笑)
いずれにしても、引用のものは石山で言うところとまったく史観を異にしていますね。こちらとは別の作り話なのでしょう。わたしは「御下文」というのは元々筺しかなかったのであろうと推測しています。つまり、こちらも作り話であろうと。
「作り話」と記すと、では「作り話である証拠を示せ」と言われそうですが、なくなったと主張されるものが元々なかった証明なんかできませんよね。なかったんですから(笑)
なお、早坂師の「天皇本尊論」、要するに神本仏迹論といいますか、これらは日蓮系の尊皇形態の典型でした。狸祭事件で川に投げ込まれた石山の、例の坊さんもこの同轍の考えであったのでしょうね。
そもそも『日蓮二字の事』に「故に妙法、釈尊、蓮祖、天照大神は一体の異名なり」というところと、清水師がいう天皇本尊論とは同轍なのであって、この早坂師の批判は、ただちに戦前までの石山教義そのものを批判するものとなります。
もっとも伝尊門『百六箇抄』では広宣流布の暁の天皇は興師であるとしています。
以下、ここのところまでの流れと関係ありませんが、日目再来説をいう、顕正会、あるいは石山の広宣流布観が、その基とするところとも違ったことを説明したわたしの小文です。
□日目再誕説
石山では保田と要山の伝承を自山のものの如く扱い、日目再誕説を捏造しました。
これは以下の保田文献に、まず根拠が求められます。我師『申状見聞』に
「目上御遺言に曰く此の申状奏せず終に臨終す此の土の生を受ける所用無しと雖も今一度人間に生れ此の状を奏す可し、若し此の状奏聞の人未来に於て之れ有らば日目が再来と知る可し」
これは実は、保田・要師が実際に行ったことで、この人物こそ、目師の再来人であるという伝説が保田で次に生じるのですが、大石寺では、この遺言だけを採って自山向けにアレンジし直します。この場合、『日興跡条々事』という大石寺文書の「本門寺建立の時は日目を座主と為し、日本乃至一閻浮提の山寺等に於いて半分は日目嫡子分として管領せしむべし」という件と連合されます。
なお、尊門に代表される富士門における広宣流布観は上述の日目再来説より更に強固です。広宣流布の暁には日目のみならず、蓮師、興師、そして、朗師の4人を四菩薩に凝らし、以下のように言われます。
「日興先をかくれば無辺行菩薩か・日朗後をひかうれば安立行菩薩か・日蓮大将なれば上行菩薩か・日目は幡さしなれば浄行菩薩か…上行菩薩は大賢臣と成り・無辺行菩薩は大賢王と成り・浄行菩薩は大導師となり・安立行菩薩大関白或は大国母と成り、日本乃至一閻浮提の内一同四衆悉く南無妙法蓮華経と唱へしめんのみ、四大菩薩同心して六万塔を建立せしめよ、何れの在所為りとも多宝富士山本門寺上行院と号す可きなり時を待つ可きのみ」(百六箇抄)
やや煩雑な記述なので整理すれば
日蓮−上行菩薩−大賢臣(実質的為政者)
日興−無辺行菩薩−大賢王(天皇)
日目−浄行菩薩−大導師(本門寺法主)
日朗−安立行菩薩−大関白/大国母(天皇の補佐、あるいは皇后)
であると言うわけです。そして、広宣流布の時はこの4人は、それぞれ以上のような役柄で再来して、「日本乃至一閻浮提の内一同四衆悉く南無妙法蓮華経と唱」えさせるばかりであるといい、そして、この四菩薩の変化、日蓮・日興・日目・日朗の四人が心を合わせて六万坊を建立すると言います。極めつけは「何れの在所為りとも」ともいい、本門寺の建つべき場所に特定がありません。蓮師が臣であることを前提に、天皇(興師)・関白/皇后(朗師)・本門寺住職(目師)で六万坊、戒壇建立で、その結果、万民に題目を唱えさせるという筋書きになっています。
いやはや、すごい。これを現在で軋轢のない形に書き換えたのが目師再誕説であって、どこぞの会の言う「御遺命守護」など、この相伝に比べれば、実に矮小です。天皇本尊論とはまた違う富士門の尊皇思想と言うところでしょうか。
679
:
犀角独歩
:2003/09/16(火) 06:27
小野寺さんのことについては、以下のところで書きました。
「富士山本門寺について教えて下さい」
http://fujimonshinto.hp.infoseek.co.jp/keijiban/honmonzi.htm
12から書きました。
680
:
犀角独歩
:2003/09/16(火) 07:02
○園城寺申状に係る石山文献の記載
『富士年表』
1281|弘安4辛巳|天皇/後醍醐|武家/時宗|聖寿/60|12月 ○日興 園城寺申状を代奏す(初度天奏)(聖613)
1281|弘安5辛午|天皇/後醍醐|武家/時宗|聖寿/61(聖滅1年)|2.29 園城寺下文を賜る(石蔵写)
ところが富要、亨師の言では
「一、園城寺申状及び御下し文。
大聖人の代官として日目上人始めて天奏を遂げたり、此れを富士の眉目として誇りたるも今や正本写本共に逸して空篋を西山に存するのみ、鳴呼悼ましいかな」
と、なぜか、目師の代奏となっています。
この齟齬を説明するように『日蓮大聖人正伝』では
「日興上人の代奏
一国を苦悩と悲哀のどん底に陥れた蒙古の再襲にも、幕府は大聖人の諌言を聞き入れることはなかった。この上は朝廷に奏上する外に道はないと考えられて、大聖人は申状を認め、日興上人に代奏を命ぜられた。これが『園城寺申状』である。
『富士門家中見聞』に
「同(弘安)四年には聖人園城寺の申状を書いて日興に給う。日興、師の御代官として奏間の便節を勤めたまえり」(聖613)
とある。
そして、翌弘安5年(1282年)にも、再び日目上人に命じて天奏をされたという。
この時、奏聞を受けた後字多天皇は、伝奏を通じて園城寺の碩学に対し、大聖人の諌状の判定を命じ園城寺の碩徳の答旨は、正像末三時弘経の次第を説き明かし、謗法を対治して正法を立つべしとの大聖人の道理に叶った憂国の諫言に対して、絶讃の言葉を惜しまなかったと伝えられている。
後宇多天皇は大いに喜び、「朕、他日法華を持たぱ必ず富士山麓に求めん」との言葉を添えて、「下し文」を下賜された。
これが「弘安五年の御下し文」でしある。
この『申状』と「下し文』二書は、重宝として日興上人の滅後は大石寺の六老によって巡守されていたが、目目上人の滅後、日代系の西山に伝わって紛失したと伝えられている」(P401)
繰り返しになりますが、弘安4、5年には大石寺は富士にはなかったのであって、その一点を採っても、こんな話は信頼できません。
なお、紛失については、亨師は
「大石寺より転じて時の南条宗家に保管せられたるが、此の時綱時長の父子代共に大石寺の道師の敵となりて終る所明ならず、又従つて開山滅後廿四年を経過せる此置文の時は日助の手に御影のみ収納して申状御下文は其儘南条家に在りて引渡を肯ぜざれば、国主に訴へて其権力を借りても僧衆へ回収すべしとの此の置文の意なるが、其儘南条時長一家の没落と共に紛失したりしや又は一度取りかへしての後西山本門寺にて紛失したりしやを知らず、但し此より百二十余年後の妙本寺日要の談には東台他に戸(東光寺か)に在りと云へば若し此談を正とせば日助系の西山徒の責に係るなり、偏に後賢の研究を仰ぐ」
とは言います。
681
:
犀角独歩
:2003/09/16(火) 07:04
【680の訂正】
誤)1281|弘安5辛午|…
正)1282|弘安5辛午|…
682
:
ガンコ
:2003/09/16(火) 13:32
愚鈍凡夫さん
>ガンコさんから逆襲がある
とんでもありません。
正直に告白すれば、幕府提出用の安国論が「天台沙門日蓮」となっていることすら、空き缶さんの投稿を読むまで知らなかったくらい無知なんですから、とてもお話についていけるものではありません。
それから、早坂先生の論文に出てくる「国体擁護の大曼荼羅」とはなんでしょうか?
独歩さん
「日興先をかくれば無辺行菩薩か・日朗後をひかうれば安立行菩薩か・日蓮大将なれば上行菩薩か・日目は幡さしなれば浄行菩薩か…上行菩薩は大賢臣と成り・無辺行菩薩は大賢王と成り・浄行菩薩は大導師となり・安立行菩薩大関白或は大国母と成り、日本乃至一閻浮提の内一同四衆悉く南無妙法蓮華経と唱へしめんのみ、四大菩薩同心して六万塔を建立せしめよ、何れの在所為りとも多宝富士山本門寺上行院と号す可きなり時を待つ可きのみ」(百六箇抄)
去年の秋にもご教示くださいましたが、どういうわけか、わたくしの手元にある御書には該当する御文を見つけることができません。どういうわけでしょうか?
683
:
犀角独歩
:2003/09/16(火) 14:12
愚鈍凡夫さん:
678を読み返して誤解があるといけないので、補足です。
わたしが「笑う」と言ったのは阪神タイガース優勝の件とそれに続く絵文字です。
あと、ほとんど富士門のなかでパロディー化している小野寺さんの件を単に提示されているから、ブラックユーモアが効いている、そんな意味でした。好感を持ってのことです。
もちろん、愚鈍さんご本人のお人柄と見識を笑うという意味ではありません。
そんな穿った見方をされる方でないと百も承知していますが、万全を期して補足しました。
ガンコさん:
> 手元にある御書には該当する御文を見つけることができません。どういうわけでしょうか?
理由は簡単です。編集されて都合の悪いところはカットしてしまってあるからです。わたしの引用は『富士宗学要集』創価学会発行 第1巻 昭和53年5月19日第5刷 P22 からのものです。
亨師の編註に拠ると
「日辰上人・日我上人等古写本に依って之を写し一校を加へ、又後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて読者の注意を促す便とせり」(P25)
と言います。ここでいう疑義というのは写本で見て後人の書き込みとわかり、さらに富士義に合わないものということでしょう。後人の書き込みで義が都合が悪くなければ一本の傍線、都合が悪ければ二重の傍線となっています。わたしが引用した所は、もちろん、二重線となっています。戦後の編集本、神本仏迹を窺わせれば、自分たちと違うと言いたいわけでしょう。
なお、以上のような「添削」は各所に見られます。重書とする寛師文段に著しく、富士一跡門徒存知事では富士戒壇の主張が興師であるのに、それを蓮師のものと書き添えたり、御義口伝では六老僧と註法華経に関する記述は削られています。こんな例は枚挙に暇がありません。
御書の真・偽・未決どころか、編集によって、都合よく書き換えられている事実、この点を見落とすと、また騙されることになります。
684
:
犀角独歩
:2003/09/16(火) 14:30
以上の『百六箇抄』の記述は、御書全集(学会版権)、平成新編(石山版権)ではカットされています。
しかし、富要(学会版権)では載り、また、たしか元々は浅井さんは印刷製本を請け負っていたと記憶する『日蓮正宗聖典』では以下のように多少の出入りがありますが、載っています。つまり浅井さん妙信講はこの記述を“聖典”として、かつては取り扱っていたわけです。もしこの記述を現在隠して用いないのであれば、「言うことが変わった」とわたしは言いたいわけです。
(わたしが所蔵している『日蓮正宗聖典』は版が新しいので、旧版(初版)とは、発行人・頁数が違っているかも知れませんが、該当の記載は昭和53年12月28日再版・編集者/代表 堀米日淳・発行者/細井日達・発行所/宗祖日蓮大聖人六百八拾遠忌記念 聖典刊行会 P372です)
685
:
ガンコ
:2003/09/16(火) 15:28
>編集されて都合の悪いところはカットしてしまってある
>編集によって、都合よく書き換えられている事実、この点を見落とすと、また騙される
やれやれ、頭が痛いですね。しかし、そんなバカな話があるもんですかね。ちゃんと、御宗門の見解を聞いてみたいところです。
浅井先生は、けっこう、なにげに使っているんですよ。本年の日興上人御報恩勤行会でも、百六箇抄にいわく、かくかくしかじか、あれ? 聞いたことないぞ? うちに帰って調べて見ても該当する御文がないのでした。
また、十年位前のやはり日興上人会でも、御相伝書には「日興先をかくれば無辺行菩薩か」とある・・・なんて言っていまして、この時は御相伝書とは何を指すのかさえ知りませんでしたから、今頃になって思い出したわけです。
おそらく顕正会で御書全集を造れば入れると思いますけど、どうも今の調子じゃ当分はできそうにないですね。
686
:
犀角独歩
:2003/09/16(火) 16:19
> そんなバカな話があるもんですかね
683〜684に実例を挙げてのことです。
否定の仕様もないでしょう。
さらに言えば、現宗門では「真書であるが信仰に資するところが少なきものとして収録しなかった」(平成新編 P11)として9書を挙げています。あろうことか、蓮師の真書と拝せるものであっても、現石山で言う“信仰”に資するものは収録すらしないというのです。これは換言すれば、蓮師の言う信仰と現石山の言う信仰に歪みがあるということでしょう。だいたい、宗祖、それも本仏と仰ぐ蓮師の書で「信仰に資する所が少ない」とはよくぞ言ったものです。
> 顕正会で御書全集を造れば
造るわけはないですよね。
墨筆を読める人間すらいないでしょう。第一、それぞれの御書の真・偽・未決を論ぜず、十把一絡げ、自分たちが引用するものはすべて蓮師の御書としたうえ、さらに切り文して継ぎ接ぎして、思う所に任せて編集された教学ですから、全集なんか、会員に読まれたすぐにその実態がばれてしまいますものね。「そんなバカな」ことはしないでしょう(笑)
687
:
犀角独歩
:2003/09/16(火) 16:20
また、打ち間違えてしまいました。
【686の訂正】
誤)現石山で言う“信仰”に資するものは収録すらしないというのです。
正)現石山で言う“信仰”に資するところ少ないものは収録すらしないというのです。
688
:
愚鈍凡夫
:2003/09/16(火) 18:36
犀角独歩さんへ。
>>683
:
承知しておりますので、気遣い無用でございます。
>>678
:
>>680
:
のレス、勉強になりました。有り難うございます。
「「日蓮聖人御影並びに御下文園城寺申状 上野六人老奏の方巡に守護し奉る可し、但し本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條日興上人の仰せに依って支配し奉る事かくの如し(以下略)」(原文漢文・法主全1巻P213)
この念書に挙げられた御下文と園城寺申状について少し説明を加えれば、弘安四年、大聖人はご自身最後の一大事として天奏を日興上人に命じ、日目上人を代理人として京都に遣わされました。その時に奏上されたのが園城寺申状です。天皇がその内容について園城寺の碩学に諮られたところ、時宜に適せりとの賞賛があったことから、「園城寺申状」と呼ばれてきました。天皇は天奏に及んだ大聖人の御心を嘉(よ)みせられ、「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」と再び訪れた日目上人に託して遣わされたのが下文です。」(興詳伝P126)
というのが、富士門の公式見解なんでしょうね。
>>682
:ガンコさんへ
「国体擁護の大曼荼羅」とは、
「この「国体擁護の大曼荼羅」は、大正3年11月、大正天皇の即位記念として、日蓮宗より清水梁山氏の説明書を添え奉献されている。いわゆる奉献本尊である。」(天皇本尊論について)
とあるように、日本国の安泰と興隆を祈願し、日蓮宗より皇室に奉納した大曼荼羅ということではないですか。また、
「日本仏法の使命のもとに、「国体擁護の大曼荼羅」をもって、全世界を統一して行こうとしたねらいが、清水梁山、高橋善中氏らにはあったようである。」(天皇本尊論について)
とあるように、「戒壇之本尊」の皇室版といった意味合いも持っていたのではないでしょうか。皇室関係のニュースなどで聞いたことがないですから、案外、皇室からは無視されているのかも知れませんね。
689
:
空き缶
:2003/09/16(火) 19:22
犀角独歩さん 横レス失礼します。
「繰り返しになりますが、弘安4、5年には大石寺は富士にはなかったのであって、その一点を採っても、こんな話は信頼できません。」
とありますが、弘安4,5年に大石寺がなかったことと「御下文と園城寺申状」が信用できないのとどのように関係があるのでしょうか?
これらにまつわる古事の中に「大石寺」という固有名詞がでてくるのですか?
富士山麓=大石寺との見解でしょうか。
690
:
愚鈍凡夫
:2003/09/16(火) 21:05
横レス失礼します。
空き缶さん、
犀角独歩さんは、富士五山を代表して大石寺といわれたのではないですか。
弘安4年といえば、蓮祖は身延にいらして、門下の育成に尽くされていたわけです。弟子の方々も各地で活発に弘教していた頃ですね。
故に、後に興門派が富士五山に分裂するとは誰も予想していなかったはずです。
なのに、まるで蓮祖の戒壇構想の地が富士であると予想したかのように、
「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」
との下文を天皇から賜るのはおかしいと仰っているのだと思います。
691
:
素朴 111
:2003/09/16(火) 23:02
今一度「素朴」にリターンさせていただきたい。 小生は「過去の後遺症てき弊害からか”事物的な対象”に惹かれまする、。
当欄では「他者は破権門理いたしまするが、、、」「では貴殿はいかなる修行こそが”成仏”の根源、根因”かと断ずる」という点が全く分かりません、。
日蓮サンが強調した「仏の境涯はいかにして獲得、、??」については、未だ???のようですが、、。 そろそろ「それなりのお答えがご期待できるでしょうか、、??」。
692
:
顕正居士
:2003/09/16(火) 23:07
日向師が天台沙門と名乗った申状というのは
『五人所破抄』に「天台法華宗の沙門日向日頂謹んで言上す」とあるもので
『御伝土代』には「日頂日向一紙の申状」と云うものです。
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/mokuji.htm
「国体擁護の大曼荼羅」というのは「大日本国衛護曼荼羅」のことではないか
とおもいます。紫宸殿御本尊の類いでしょう。
「富士山麓」は『日蓮一期弘法』の
「国主被立此法者富士山本門寺戒壇可被建立也可待時而已事戒法謂是也」
とおなじことであり、
五一相対、興師付法、富士戒壇などがすでに富士派共通の教義になった後に
大石寺などとの抗争に優位を占めるため北山本門寺で作成されたのでしょう。
693
:
空き缶
:2003/09/16(火) 23:12
愚鈍凡夫さん
園城寺申状の中に、富士戒壇論に近いことが書かれていた可能性を、私は模索しています。
真筆・写本ともに現存しませんので確認しようがないんですが、「日興上人御遺蹟事」は正本が大石寺に現存しますので、そこに書かれていることは一応信用していますが。
また、正本は伝わっていませんが日興上人の書といわれる「三時弘経次第」には富士山本門寺説が示されています。
「三時弘経次第」は「日目上人申状案」(正本:保田妙本寺)の文面にでてきますから、正本は現存しなくとも確かに存在した書簡であると考えています。
694
:
空き缶
:2003/09/16(火) 23:44
顕正居士さん
『御伝土代』には「日頂日向一紙の申状」と云うものです。
文面をみると、確かに引用されているのは、日頂上人の申状そのものですね。
この日頂上人の申状を日向上人も同意の上、提出されたと日興門流では伝わったのですね。
やはり「弟子分本尊目録」のそれは「日澄上人」からの報告をもとに書き起こされたものと確信しました。
695
:
愚鈍凡夫
:2003/09/17(水) 00:11
顕正居士さん御教示有り難うございます。
御指摘の文証、これらのことですね。
「天台法華宗の沙門日向・日頂謹んで言上す。桓武聖代の古風を扇ぎ伝教大師の余流を汲み立正安国論に准じて法華一乗を崇められんことを請うの状。右謹んで旧規を検えたるに祖師伝教大師は延暦年中に始めて叡山に登り法華宗を弘通したもう云云。又云く法華の道場に擬して天長地久を祈り今に断絶すること無し詮を取る。」(五人所破抄)
「日向日頂一紙ノ申状ニ云ク、天台ノ沙門日向日頂等謹テ言ス、桓武聖代の古風を扇ぎ伝教大師の余流を酌む、祖師伝教大師叡山に登り法華宗を弘通する時、権門の邪見に於て取り砕くが如し、自余の正義に至つては泉の如く涌ク以来日本一州ノ山寺叡山ノ末寺タル条世以テ隠れなし人亦これを知る」(御伝土代)
空き缶さん、これが『園城寺申状』だと思うので、長文ですが引用します。
「日蓮聖人の弟子駿河の国富士山住日目誠惶誠恐庭中に言上す。殊に天恩を蒙り且つは三時弘経の次第に任せ且つは第五百歳の金言に依り永く爾前・迹門を停止し法華本門を尊敬せられんと請ふ子細の状。
副へ進ず、一巻 立正安国論文応元年の勘文並に三時弘経の図等。
右謹んで案内を検へたるに仏法は王法の崇重に依りて威を増し王法は仏法の擁護に依りて基を闢(ひら)く、是を以て大覚世尊未来の時機を鑒(かんが)みて世を三時に分ち法を四依に付して以来、正法千年の内、迦葉・阿難等の聖者先に小を弘め大を畧し竜樹・天親等の論師次に小を破し大を立つ、像法千年の間、異域には即ち陳・隋の両主の明時に智者十師の邪義を破し、本朝には亦桓武天皇の聖代に伝教六宗の僻(びやく)論を改む。今末法に入っては上行出世の境、本門流布の時なり。正・像己に過ぎぬ、何ぞ爾前・迹門を以て強ちに御帰依有るべけんや。料(はか)り知んぬ讎佞(ざんねい)叡聞を隔て邪義正法を妨(さまた)ぐ、如来得道の昔、尚魔障有り、何に況んや未代をや。然るに聖主の御宇の今や時機己に又至れり、弘通の期幾日ぞや、中ん就く天台・伝教は像法の時に当って演説し日蓮聖人は末法の代を迎へて恢弘(かいこう)す、彼れは薬王の後身、此れは上行の再誕なり、経文に載する所解釈に炳焉(へいえん)なる者なり。凡そ一代の教迹の濫觴(らんしょう)は法華の中道を説かんが為めなり、三国伝持の流布盍(なん)ぞ真実の本門を先とせざらんや、若し瓦礫(かりゃく)を貴んで珠玉を棄て燭影を捧(ささ)げて日光を哢(ろう)せば只風俗の迷妄に趁(おう)て世尊の化導を謗ずるに似たるか、華中に優曇有り、木中に栴檀有り、凡慮覃(およ)び難し、併ら冥鑑に任す。偏(ひとえ)に堯・舜の道を嗜み揚墨の門に立たず。今、適(たまた)ま聖代に逢ふ、早く下情を達し将に上聴を驚かさんとす。
天裁を望み請ふ且は仏意を察せられ且は皇徳を施され、速に爾前・迹門の邪教を退け法華本門の妙理を弘められば海内静謐にして天下泰平ならん。
元亨三年(一三二三) 十二月廿二日」
「日蓮聖人の弟子駿河の国富士山住日目誠惶誠恐庭中に言上す。」
とはありますが、富士戒壇説とは結びつきませんね。
696
:
愚鈍凡夫
:2003/09/17(水) 00:22
これが2度目の上奏文だと思います。ソースは何れも昨日紹介した本門正宗のHPです。
「日蓮聖人の弟子日目誠惶誠恐謹んで言す。殊に天恩を蒙り、且は一代説教の前後に任せ、且は三時弘経の次第に准じて正・像所弘の爾前迹門の謗法を退治し、末法当季の妙法蓮華経の正法を崇められんと請ふの状。
一巻、立正安国論、祖師 日蓮大聖人文応元年の勘文
一通、先師日興上人申状 一通、三時弘経の次第
右謹んで案内を撥へたるに一代の説教は独り釈尊の遺訓なり、取捨宜しく仏意に任すべし、三時の弘経は即ち如来の告勅なり進退全く人力に非ず。抑も一万余宇の寺塔を建立し恒例の講経陵夷を致さず、三千余の社檀を崇め如在の礼奠怠懈せしむることなし、然りと雖も顕教・密教の護持も叶はずして国土の災難日に随って増長し、大法秘法の祈祷も験なく自他の叛逆歳を逐うて強盛なり、神慮測られず仏意思ひ難し、債ら微管を傾け聊か経文を披きたるに仏滅後二千余年の間、正・像・末の三時流通の程、迦葉・竜樹・天台・伝教末の残したまふところの三秘法あり。所謂、法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字となり、之れを信敬せらるれぱ天下の安全を致し国中の逆徒を鎮めん、此の条、如来の金言分明なり、大師の解釈炳焉たり、中ん就く我が朝は是れ神州なり、神は非礼を受けず、三界は皆仏国なり仏は即ち謗法を誡む、然れば即ち爾前迹門の膀法を退治せば仏も慶ぶ神も慶ぶ、法華本門の正法を立てらるれば人も栄え国も栄えん、望み請ふ殊に天恩を蒙り諸宗の悪法を乗損せられ一乗妙典を崇敬せらるれは金言しかも愆たず、妙法の唱閻浮に絶えず玉体恙無くして宝祚の境、天地と彊まり無けん、誠惶誠恐謹んで言す。
元弘三年十一月日」
697
:
空き缶
:2003/09/17(水) 00:31
愚鈍凡夫さん
ありがとうございます。しかしというか、やはりというかこの書面中にも
副進に「三時弘経の図等。」とありますね。これは恐らく「三時弘経次第」の事だと思うんです。
そうなると、「三時弘経次第」には富士山本門寺の事がかかれていますので、「御下文」の存在もあながち否定できないと思うのです。
「三時弘経次第」
一仏法流布の次第
一正法千年流布 小乗 権大乗
一像法千年流布 法華 迹門
一末法万年流布 法華 本門
今ま末法に入つて本門を立てゝ国土を治む可き次第。
桓武天皇と伝教大師と共に迹化付属の師檀と為つて爾前を破つて迹門を立てゝ像法を利益し国土を護持する事之を図す。
迹門の寺 付属の弟子は 薬王菩薩 伝教大師。
比叡山 始成の釈迦仏 迹化垂迹の師檀 像法。
垂迹神 (天照太神八幡大菩薩) 桓武天皇。
今ま日蓮聖人は共に本化垂迹の師檀と為つて迹門を破して本門を立てゝ末法を利益し国土を治む可き之を図す。
本門の寺 付属の弟子 上行菩薩 日蓮聖人。
冨士山 久成の釈迦仏 本化垂迹の師檀 末法。
垂迹神 (天照太神八幡大菩薩) 当御代。
天照太神の勅に曰く、葦原千五百秋の瑞穂の国は是れ子孫の王たる可き地なり、宜しく就て治む可し。
孝経に云はく、先王正直の徳を行ふときんば四方の衆国皆法則に順従するなり。
原文は漢文。nb様のページよりコピーさせていただきました。
698
:
愚鈍凡夫
:2003/09/17(水) 00:36
日付けが合いませんが(ひょっとして書写の日付?)、文面がなんとなくそれらしいですね。
本門正宗の話は犀角独歩さんが仰るように胡散臭いですが、使用している文証は本物を使っているみたいなので。
それでは、寝ます。
699
:
空き缶
:2003/09/17(水) 00:38
愚鈍凡夫さん
2枚目の方は、まさしく保田妙本寺所蔵の「日目上人申状案」です。しかし一部改ざんされています。
ちょっと見づらいかもしれませんが、真筆写真を「MSNコミュニテイ」の「大本山妙本寺」にアップしていますので、
宜しければ御覧下さい。
700
:
犀角独歩
:2003/09/17(水) 01:14
空き缶さん:
> 弘安4,5年に大石寺がなかったことと「御下文と園城寺申状」が信用できないのとどのように関係があるのでしょうか?
既述でわたしは主に石山の文献を紹介しました。つまりは、石山の言い分を挙げたわけです。その意味で、「大石寺」の名称を挙げたわけです。
> これらにまつわる古事の中に「大石寺」という固有名詞がでてくるのですか?
出てきません。出てこないので、関係がないと言っているわけです。
> 富士山麓=大石寺との見解でしょうか。
というのが、石山の見解でしょう。上に挙げるごとくです。
せっかく、ご質問いただきましたので、次いでわたしのほうからも質問させていただきます。
空き缶さんは「富士山麗」とはどこを指すとお考えですか。
御下文と園城寺申状、もし、その全文すら伝わらないとしたら、あるのは伝説ばかりとなります。
そもそも、あの謹厳実直な興師が蓮師述の申状、また下賜された下文が実在していたら、それを書写し遺さないわけがありません。
その意味から、『日興上人御遺跡事』の信憑性自体をわたしは疑っています。
なお、これは空き缶さんとは関係ありませんが、小野寺さんがいうところのストーリーの脈絡からは何も記していません。わたしは事実関係を問題にしているのであって、彼のいうところはまるで問題にしていません。
愚鈍凡夫さん:
有難うございます。仰るとおりです。
富士五山というより、弘安5年の段階では石山はおろか、富士に係る脈絡は何も存在しないということを言いたかったわけです。
それより何より、本弟子六人すらまだ決まっていない段階です。五一相対はおろか、興門派もなければ、富士門もありません。
そもそも蓮師において、富士に対する特定の思い入れすら窺えません。
天皇は、身延に返信するのに、なぜ「富士山麗」と言ったかということです。むしろ、当時すでに久遠寺の名称が用いられていたとしたら、この固有名詞を挙げるほうが自然でしょう。
まさか「身延山は富士山麗のうち」などと言い出す人はいないと思います。
701
:
犀角独歩
:2003/09/17(水) 01:38
> 695
愚鈍凡夫さん、これは園城寺申状ではないでしょう。
これはなんでしょうか。
以下の申状をご覧ください。
「日蓮聖人の弟子駿河の国富士山住日興誠惶誠恐庭中に言上す。殊に天恩を蒙り且つは三時弘経の次第に任せ且つは第五百歳の金言に依り永く爾前迹門を停止し法華本門を尊敬せられんと請ふ子細の状。
副へ進ず、一巻、立正安国論文応元年の勘文並に三時弘経の図等。
右謹んで案内を検へたるに仏法は王法の崇重に依りて威を増し王法は仏法の擁護に依りて基を闢く、是を以て大覚世尊未来の時機を鑒みて世を三時に分ち法を四依に付して以来、正法千年の内迦葉阿難等の聖者先に小を弘め大を畢し竜樹天親等の論師次に小を破し大を立つ、像法千年の間異域には則ち陳惰両主の明時に智者十師の邪義を破し、本朝には亦桓武天皇の聖代に伝教六宗の僻論を改む。
今末法に入つては上行出世の境本門流布の時なり、正像巳に過ぎぬ何ぞ爾前迹門を以つて強ちに御帰依有るべけんや、料り知んぬ讎侫叡聞を隔て邪義正法を妨ぐ如来得道の昔尚魔障有り何に況んや末代をや、然るに聖主御字の今や時機巳に又至れり弘通の期幾日ぞや、中ん就く天台伝教は像法の時に当つて演説し日蓮聖人は末代の代を迎へて恢弘す、彼れは薬王の後身此れは上行の最誕なり、経文に載する所解釈に炳焉なる者なり。
凡そ一代教迹の濫觴は法華の中道を説かんが為なり、三国伝持の流布盍ぞ真実の本門を先とせざらんや、若し瓦礫を貴んで珠玉を棄て燭影を捧げて日光を哢せば只風俗の迷妄に趁つて世尊の化導を謗ずるに似たるか、華中に優雲有り木中に栴檀有り凡慮覃び難し併ら冥鑑に任す、偏に��舜の道を嗜み揚墨の門に立たず、今適ま聖代に逢ふ早く下情を達し将に上聴を驚かさんとす、天裁を望み請ふ且は仏意を察せられ且は皇徳を施され、速に爾前迹門の邪教を退け法華本門の妙理を弘められば海内静謐にして天下泰平ならん、日興誠惶誠恐謹んで言す。
喜暦二年八月日」
亨師はこの状に就き「興師申状の三、祖滅四十六年、写本要山等に在り、五人所破抄に引用せるものにして公家上奏の分なり」としています。
「日興」とあるところを、「日目」に差し替えたものを目師が提出されるはずはないと思います。第一、園城寺ではなく、「公家」と亨師は注しています。
第一、園城寺申状、弘安4年蓮師の案ではありませんか。
御下文は、「弘安五年の御下し文」と成句化しています。なのに、なぜ、元亨3年の目師案が園城寺申状なのですか。
> 696
この申状の日付、「元弘三年十一月」とは、目師が美濃の垂井に、天奏を遂げずに寂した日時です。つまり、我師『申状見聞』に「此の申状奏せず終に臨終す」と言われる状と思われます。園城寺申状との脈絡はこちらもないものと思われます。
702
:
犀角独歩
:2003/09/17(水) 02:22
> 692 顕正居士さん:
「富士山嶺」に就き、ご教示、有り難うございました。
703
:
空き缶
:2003/09/17(水) 03:17
犀角独歩さん
『空き缶さんは「富士山麗」とはどこを指すとお考えですか。』
私も富士山周辺であると思います。
個人的には日興上人の身延離山は先に書き込みましたように、地頭の謗法では無く「御下文」の存在によると考えています。
ようするに日興上人は身延を誰かに任せて早く富士方面に行きたかったのではと思っています。
文献的な根拠が乏しいので、あくまで私観ですが。
704
:
犀角独歩
:2003/09/17(水) 07:53
空き缶さん:
お考えはこうですか。
下文には伝わるとおり「富士山嶺」という記述があった
この記述は申状の内容に富士を窺わせる記述があったからではないのか
故に興師は富士を目指した。
たしかに、このような類推は可能ですね。
わたしは弘安4年の代奏自体、作り話であると思っていますが、上述のような推理はロマンがあります。
わたしは、興師が富士を目指したのは、目師の縁戚、また蓮師の檀那でもあった南条家があったからであろうと通り一遍にとらえています。しかし、それでも、南条領地の隣が興師の縁戚である河合であり、両師にとって“富士”が拠点となっていくことは、蓮師も憶念できた可能性は否定できませんね、たしかに。
やや視点は変わりますが、興師と、いわゆる“富士信仰”の関係は、派祖・興師となっていくうえで、重要な意味をもっていると想像しています。
下文、園城寺申状ともに現存しない以上、何とも言えませんが、何が手がかりを得れば、わたしも空き缶さん同様、その存在から種々考えてみたいと思います。
なお『日興聖人事跡事』については、わたしは偽書ではないのかと思っているのです。
その理由はこの状の日付にあります。「正慶二年癸酉二月十三日」となっています。
下文、申状より何より、この状で問題になるのは「御影」のことです。
正慶2(1333)年は言うまでもなく興師の寂年、日付は2月7日でした。となると、この状はその直後に記されたものであることになります。
以前に問答さんがご指摘くださったことですが、重須では盗難事件がありました。
「正中二年十一月十二日の夜日蓮聖人御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ」
「正中二年」とは1324年です。つまり、『日興聖人事跡事』が記される9年前に既に御影を失っていたはずです。それにも関わらず、この状には「御影」の文字が見られるわけです。これはどうにも納得のいかないところです。
以上から、わたしは弘安五年下文、園城寺申状、さらに日興聖人事跡事はなにか脈絡のある“作り話”ではないのかと思っているわけです。
とはいうものの、空き缶さんの類推に、既述したとおり、惹かれるのも事実です。
705
:
愚鈍凡夫
:2003/09/17(水) 12:36
昨夜の続きです。
富士年表から天奏の部分だけを抜き出してみました。
1281弘安 4 辛巳 後宇多 北条時宗 御歳 60歳
12月 ○日興園城寺申状を代奏す〔初度天奏〕(聖613)
1333元弘 3 癸酉 後醍醐 北条守時 正慶 2 光厳 滅後 52年 日道
2.7 二祖日興重須に入滅88(大過去帳・聖598) 2.8 日興葬送(宗全2-270) 2.13 日目等、日興の遺誡により大聖人御影並びに園城寺御下文守護につき違背なきよう誡む(聖586・石蔵) 11.15 三祖日目太夫阿日尊・宰相阿日郷を伴い天奏上洛の途美濃垂井に入滅、荼毘に付す74(聖661・大過去帳) ○日尊・日郷三祖日目の遺骨を奉して上洛天奏(聖662) ○日郷遺骨を奉じて大石寺に帰り下之坊に納む(聖662・下之坊寺誌・別統)
次に、『三時弘経次第』の最後の部分を抜き出してみました。
「編者曰く本山蔵一紙の古写本(筆者不明)に依つて之を写す、猶開山上人御正筆中に此と同義の本迹法門あり、今其の要文を録す。
日興上人正筆「本門弘通事」の中に在り。
迹門比叡山 日枝山 吾山 御社
本門富士山 蓮花山 大日山」
弘安4年(1281)の天奏の際に、上奏文・立正安国論と共に、他の高僧を差し置いて日興師の『三時弘経次第』を添えるというのはどうですかね。う〜ん、蓮祖がそれを許すでしょうか。
可能性は低いようですから、やはり、
「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」
との後宇多天皇の下文は不自然ですね。
それと、
「編者曰く本山蔵一紙の古写本(筆者不明)に依つて之を写す、猶開山上人御正筆中に此と同義の本迹法門あり、今其の要文を録す。日興上人正筆「本門弘通事」の中に在り。」
とありますが、筆者不明の古写本を写したのであって、これが必ずしも日興師の作とは限らないですよね。後世の誰かが日興師の『本門弘通事』を抜き書きした可能性を否定できないのではないでしょうか。日付がないのがその可能性を示唆していると思います。
むしろ、元弘3年(1333)の天奏の際、上奏文に添えるのであれば、『本門弘通事』ではないでしょうか(但し、拝見したことはありません)。
この天奏問題、クリアしなければならないハードルが高いですね。
ちなみに西山本門寺の寺宝に『園城寺申状』がありますが(ほんまかいなぁ。空箱のこと?)
【寺宝】紺紙金泥法華経等国宝 3点/方等三昧経等重美13点/日蓮聖人御舎利/日蓮聖人真筆 万年救護本尊/日興上人御舎利/日興上人真筆・本尊/園城寺申状/大柊(天然記念物)/その他多数あり
http://www.kotobuki-p.co.jp/kensaku/data/30ho28.htm
706
:
空き缶
:2003/09/17(水) 13:39
愚鈍凡夫さん
『弘安4年(1281)の天奏の際に、上奏文・立正安国論と共に、他の高僧を差し置いて日興師の『三時弘経次第』を添えるというのはどうですかね。う〜ん、蓮祖がそれを許すでしょうか。』
→大石寺説でいうと「三時弘経次第」は日蓮聖人から日興上人への口伝でしたっけ。この説が正解なら私としては納得できるんですが。
犀角独歩さん
「正中二年十一月十二日の夜日蓮聖人御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ」
→この文書は、日興上人の御筆でしょうか。ご教示ください。
日興上人の御消息文から、何時頃まで「御影」が本門寺にあったか調べてみようと思いましたが、日興上人の御消息は「年」が記載されていませんので、調べようがありませんね。
707
:
犀角独歩
:2003/09/17(水) 15:13
空き缶さん:
非常に鋭い突っ込みをいただきました。
有り難うございます。
該当の文書は精師・家中抄のものです。引文で「日興在判」とあるものの、その正本は存していなかったと記憶しています。
この盗難に類する事件が窺えるのは『日順阿闍梨血脈』です。しかし、こちらもその正本は存していなかったと記憶します。
ただし、興師正本『宗祖御遷化記録』が重須から失したのは事実で、このことから、何らかの盗難事件が発生したことは史実のように思われます。
以上の次第ですから、愚鈍凡夫さんが仰るように、蓮師に就き、真跡主義を貫徹するのみならず、本日に至るまでの文献類も同主義をもって捌くのであれば、正中2年11月13日の興師在判書から『日興聖人事跡事』の批正することはやや蛮勇であったかも知れません。
708
:
空き缶
:2003/09/17(水) 17:05
犀角独歩さん
ありがとうございます。家中抄は私も度々引用させていただいていますが、もう一度よく読んでみます。
実は以前「三井寺」にメールにて「園城寺申状」について問い合わせたことがあります。しかしお返事はもらえませんでした。
709
:
犀角独歩
:2003/09/17(水) 18:00
空き缶さん:
石山の富士宗学要集から該当の記載を検索してみました。
初出は、どうやら、広蔵辰師のほうが先のようです。
『祖師伝』辰師(富要5-35)
駿州富士山本門寺釈の日代伝 …
正中二年十一月十二日の夜日蓮聖人御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ、日興帰寂の後も若し弟子分中に相続人と号して出さしむるの輩は門徒の怨敵大謗法不孝の者為るべき者なり、謗法罪に於ては釈迦多宝十方三世の諸仏日蓮聖人の御罸を蒙るべし、盗人の科に於ては御沙汰と為て上裁を仰ぐべし、若し出で来らん時は日代阿闍梨之れを相続して本門寺の重宝為るべし仍て門徒存知の為に置き状件の如し。
正中二年十一月十三日 日興御判。
『富士門家中見聞抄目録』精師(富要5-201)
日代伝 …
一、正中二年十一月十二日の夜、日蓮聖人の御影堂に於いて日興に給ふ所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、并に日興影像一鋪、聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ、日興帰寂の後若し弟子分の中に相続の人と号して之れを出さしむる輩は門徒の怨敵、大謗法、不孝たるべき者なり、謗法の罪に於ては釈迦多宝十方三世の諸仏、日蓮聖人の御罰を蒙るべし、盗人の科に於ては御沙汰として上裁を仰ぐべし、若し出で来らん時は日代阿闍梨之れを相続して本門寺の重宝たるべし、仍って門徒存知の為に置き状件の如し。
正中二年十一月十三日 日興在判
また、石山59亨師も『富士史料類聚』に同文を挙げています。
しかし、ここでわたしは読み落としていたのですが、以下のような記載がありました。
「日代八通の譲状は房山にては要師等要山にては辰師等仰いで之を信ぜりと云へども、方便品読誦の解釈に伴ひ重須を擯出せらるるに就いては、能擯の横暴を極論路する者無きが如し、今又遡つて八通状の内容を検するに疑義百出するも既に正本紛失の上は且らく論弁を避くべし」(富要8-161)
一考を要すると思いました。
ただし、家中抄に「正中二年十月十二日の夜御影堂に於て御筆本尊御遷化記録以下盗取
られ給へり、此の故に御弟子衆紛失の使節を勤め給ふ。」との既述は、『日順阿闍梨血脈』の「嘉暦第一の暮秋には険難を凌いで本尊紛失の使節を遂げ」ると一致します。代師八通の譲状のなかで、この盗難の記載はやや信憑性は高いように思えます。
わたしは歴全、日宗全が手許にないために富要に引く所で見るばかりです。その他、資料で御覧になり、既知のことがございましたら、ぜひ御披露ください。
710
:
空き缶
:2003/09/17(水) 18:41
犀角独歩さん
度々ありがとうございます。
わかりました。日蓮宗宗学全書2巻P136の日興上人から日代上人への置状の一つですね。
通称8通遺状と呼ばれるものの一つですね。歴代法主全書には掲載されていないようです。大石寺お得意の「自分達の都合に会わないものは削除」とも思えますが、
しかし、8通の内1通も正本が残っていないのは誰がどう考えても怪しいですね。
御影に関して妙本寺説では、日目上人が最後の天奏の直前に小泉久遠寺を経由して保田妙本寺に遷座されたといいます。
したがって妙本寺では、北山のそれも含めて宗祖御在世中に日法上人が彫られた御影は妙本寺のものだけといいます。
道郷紛争を契機に、大石寺からは重宝類が激減してしまいましたが、この紛争は後の代まで続き、大石寺六世の日時上人も妙本寺に御影の返還を求めており、この書状の正本は小泉久遠寺に現在もあります。
したがって、妙本寺のいうこともあながちでたらめではないのかなと思っています。
711
:
愚鈍凡夫
:2003/09/17(水) 20:00
横レス失礼します。小生も気になって正御影のこと、調べてみました。
1279(弘安2)年10月12日 甲州(山梨県)波木井郡山中において、弟子和泉阿日法彫刻
1289(正応2)年 日興師が駿河国(静岡県)上野郷に移す。
1298(永仁6)年2月15日 大石ヶ原の法華堂の仮奉安所より「大聖人生御影尊像」を始め、「諸聖教」を重須に遷座。
1325(正中2)11月12日夜 蓮祖御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ。(祖師伝)
1279(弘安2)年10月12日 甲州(山梨県)波木井郡山中において、弟子和泉阿日法彫刻
1289(正応2)年 日興師が駿河国(静岡県)上野郷に移す。
1336(延元1/建武3)年 日伝師が大石寺本堂の正御影を小泉久遠寺に持ち去る(その辺の事情を語る文献は皆無)
1388(元中5/嘉慶2)年10月13日 新たに日時師が大仏師越前法橋快恵に命じて彫刻させ、開眼供養(現在の御影)。
1342(興国3/康永1)年 小泉久遠寺から妙本寺に遷座
2つの系列があるようですね。
712
:
問答迷人
:2003/09/17(水) 21:35
横レス失礼します。
二つの系列ではなく、繋がっていると僕は思います。
1279(弘安2)年10月12日 甲州(山梨県)波木井郡山中において、弟子和泉阿日法彫刻
1289(正応2)年 日興師が駿河国(静岡県)上野郷に移す。
1298(永仁6)年2月15日 大石ヶ原の法華堂の仮奉安所より「大聖人生御影尊像」を始め、「諸聖教」を重須に遷座。
1325(正中2)11月12日夜 蓮祖御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ。(祖師伝)
1336(延元1/建武3)年 日伝師が大石寺本堂の正御影を小泉久遠寺に持ち去る(その辺の事情を語る文献は皆無)
1388(元中5/嘉慶2)年10月13日 新たに日時師が大仏師越前法橋快恵に命じて彫刻させ、開眼供養(現在の御影)。
1342(興国3/康永1)年 小泉久遠寺から妙本寺に遷座
正中2年の盗賊が、大石寺であれば、辻褄が合いますね。僕は、そのように考えています。
713
:
愚鈍凡夫
:2003/09/17(水) 22:22
ウワ〜〜オ!! キャー!ビックリ!! (*゜ロ゜)ノミ☆(;>_<) バシバシ
だから・・・・・。だから・・・・・。ゴックン。 (;^_^A アセアセ…
2つの系列って言ったのに・・・・・。 (-_-;) (T_T)
714
:
空き缶
:2003/09/17(水) 23:25
愚鈍凡夫さん
問答迷人さん
そうですか、日目上人の最後の天奏前ではなく日目上人滅後のことだったのですね。
日伝上人は旧称日賢上人のことで、実質的な妙本寺の二代目であり、連蔵坊を日郷上人に寄進した南条時綱の子息ですね。
日時上人の御影返還を求めた書状が、何故「小泉久遠寺」にあるのかやっとわかりました。この当時はまだ小泉久遠寺に御影はあったのですね。
今川氏の下文によれば、日時上人は不当に東御堂と坊地を占拠し、終息傾向にあった紛争を再度激化させたようです。
駿河守護の今川氏の判断は日伝上人側にあったのですが、地頭興津氏が日時上人と癒着していた為、結局連蔵坊は大石寺のものとなってしまいました。
土地は大石寺のものとなってしまっても、宗祖御影だけは護りきったというところでしょうか。
715
:
空き缶
:2003/09/17(水) 23:50
続きです。
「1325(正中2)11月12日夜 蓮祖御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ。(祖師伝)」
→これについては、もとの出典が先にあげた8通遺状の一つなので、西山側のいい分を取り入れていたのでしょう。
重須から大石寺ではいくら交通の便の悪い時代といっても、距離的に目と鼻の先であり「盗難」というよりは、何らかの事情があって「遷座」したと考えるほうが妥当だと思いますが。
代師等重須高弟達に不穏な動きでもあったのでしょうか。
716
:
愚鈍凡夫
:2003/09/18(木) 00:28
ただね、奇妙なことが1つあるんですよ。富士年表によると、
1325正中 2乙丑後醍醐北条高時滅後 44年日目
11.13 石川妙源重須御影堂寄進の置状を日興に奉る(8-161)
とあるんですよ。変だと思いませんか。
泥棒が入った明くる日なんですよ、これが。
蓮祖の正御影は盗まれてないはずなんですよね。重須本門寺では大騒ぎだったはずなのですが、「重須御影堂寄進の置状」を日興師が受け取るというのは変ですよね。
この富士年表も石山の御都合主義と言ってしまえばそれまでですけど。
717
:
顕正居士
:2003/09/18(木) 00:42
日寛師は『当家三衣抄』に法衣の色が薄墨であるべき証拠に宗祖の御影を挙げ、
「次ぎに引証とは、第一に生御影、即ち重須に在すなり。第二には造初の御影、
即ち当山に在すなり、蓮師御伝記八に云わく、弘安二年富士の戒壇の板本尊を
造立し奉る時、日法心中に末代の不見不聞の人の為めに聖人の御影を造らんと
欲するの願有り、故に先ず一体三寸の御影を造って便ち袂に入れ聖人の高覧に
備え奉る、而して免許を請うに聖人此の御影を取って御手の上に置き笑を含ま
せられ即ち免許有り、之れに因って等身の御影を造り奉りて、而して聖人の
御剃髪を消し御衣を彩色し給うなり云々。一体三寸とは即ち造初の御影なり、
等身の御影とは即ち是れ生御影の御事なり、此の両御影並びに是れ薄墨の素絹、
五条の袈裟なり。第三に鏡の御影、今鷲の巣に在り、亦是れ薄墨の法衣なり。」
http://nakanihon.net/nb/rokkann6.html
と述べています。鏡の御影とは法華宗本門流の大本山鷲山寺にかつて在り、今は
千葉の浄光院に在る水鏡御影(重要文化財)でしょう。重須の生御影とはむろん
北山本門寺第一の重宝蓮祖生御影でしょう。
http://www.ba.wakwak.com/~honmonji/syoumieison.htm
保田妙本寺には同一縁起の等身の御影、すなわち同じ御影が在るのでしょうか?
718
:
空き缶
:2003/09/18(木) 01:55
顕正居士さま
保田の御影は等身で北山のそれに似ていると思います。お顔がちょっと違うような気がします。
あと、左右の手でもたれているお経ですが、北山のは中央部分が欠落しているように見えますが、保田のはつながっています。
お色直しをしたからでしょうか。法衣は薄い灰色です。
写真を取りたいと思うんですが、勤行・住職の話のあとすぐに閉めて鍵をかけてしまうんです。
日興上人の御本尊(板に彫刻してありますが)は常時開けっ放しなんですがね。
保田では御本尊といえば「御影」と「万年救護本尊」との認識が強いんでしょうか、御影堂の前には「御本尊の前ですから・・・・」といった注意書きがあったと思います。
719
:
空き缶
:2003/09/18(木) 02:09
続きです
「千葉の浄光院」とは中山法華経寺の境内にある「浄光院」のことでしょうか?
今は「祖師堂」に遷座されているみたいですね。こちらは法衣は日蓮宗らしく豪華ですね。
720
:
愚鈍凡夫
:2003/09/18(木) 13:02
「妙法華寺に伝わる古文書『玉沢手鑑草稿』の「日昭譲状」に
一、生御影 絵は大蔵也、居子(椅子)にて御説法、曽谷夫婦聴聞の体也、御経第六巻の初、宗祖御筆也、授与法名法蓮、蓮花比丘尼、文保元年十一月十六日」
とありますから、画像も「生御影」と呼んでいたんですよね。
ほ【舗・鋪】
①みせ。「店―(テンポ)」「茶―」
②しきならべること。「―装」
③地図など、畳みものの本を数える語。
(「広辞苑」第4版より)
「蓮祖御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ。」(祖師伝)
盗難に遭った「御影像一鋪」とは画像であった可能性は有り得ないですか。
721
:
犀角独歩
:2003/09/18(木) 14:28
> 720
この推理、面白いですね。
仮にそうなると、いわゆる御影式奉安は不可能ということになりますね。
人法一体を表すという御影像の後ろに漫荼羅を置く奉安形式です。
賛成したいところです。
盗難の際、等身大の木彫像を運び出すとすればかなり大事で、「気がつかないものか」と訝しく思っていました。ですから、紙幅漫荼羅、絵像を持ち去ったというほうがはるかに現実味があります。
いま、富要中「舗」「鋪」の用例を調べてみましたが、たしかに(紙幅)漫荼羅を数える単位とし使われていました。それに対して、仏像は「体」で数える用法となっています。となれば、影像は画である可能性を大きいと思えます。
わたしは愚鈍凡夫さんの推理に頷きました。
722
:
愚鈍凡夫
:2003/09/18(木) 19:26
犀角独歩さん、有り難うございます。
盗まれた「御影像一鋪」が絵であったと考えれば、それぞれのピースがうまく嵌ると思います。
あと、生御影像を重須に遷座した後、石山で新たに造立したとか、生御影像が2体あったことが証明できればいいんですが。
723
:
顕正居士
:2003/09/18(木) 20:00
空き缶さん。
「浄光院」は中山法華経寺の浄光院です。「水鏡御影」は画像です。
http://www.city.ichikawa.chiba.jp/furusato/bunzai/kjyub6.htm
等身の御影が日郷師の頃に大石寺にも在ったということでしょうね。
『元祖化導記』の「三十 御身骨を身延山に移し奉ること」に弘安五年の
十月二十九日に日法師が御影像を建立したという「或る記」を引いている。
http://www.ginpa.com/karagura/kedoki2.html
#30
正応元年(1288年)の『波木井清長の状』に「本尊並びに御聖人の御影」
とあるから、身延離山の頃に聖人御影が在ったことは間違いないでしょう。
724
:
空き缶
:2003/09/18(木) 20:32
顕正居士さん 犀角独歩さん 愚鈍凡夫 さん
そういえば、日郷上人の置文にかかれているのも「鋪」の字で数えられています。
日郷置文は手元に正本の写真もありますが、素人目でみても「鋪」であることがわかります。
保田に渡った御影とは画像の御影なんでしょうか、しかし日法上人は絵はかかれていないと思うんですが。
板曼荼羅は法華宗の山梨の末寺(ここも名称は妙本寺といいます)に今も残っていますので、彫刻の術を持ち合わせていたことは事実と思います。
大親友の日春上人の三十三回忌に彫った、板曼荼羅ですね。主題の下に「日蓮大聖人」と彫られており、大石寺のものとは似ても似つかないものですが。
日時上人の御影等の返還を求めた書状には、そうした表記が無い為何ともいえませんね。
日伝宛て日時書状(抜粋)「人目ないと申、早々如本御影をも還○○候へ」(正本:小泉久遠寺)
725
:
空き缶
:2003/09/18(木) 21:06
続きです
祖師伝や家中抄に引用されている「蓮祖御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ。」
ですが、やはり元となっている「日興置状」自体が怪しいとおもうんですが。祖師伝等のそれは「日興置状」と全くの同文ですので、これらの史伝書が参考にしたものの真偽自体が
私としてはいまいちです。日興→日代の置状8通は1通も真筆が残っていませんので。
日朝師や日寛師の説についても若干時が下りすぎているのかなとも思っています。
上代真蹟を元に推察すると、盗難は無く「日興上人御遺蹟事」執筆後に大石寺遷座、時師・伝師の紛争中に小泉久遠寺経由で妙本寺入りと推察いたします。
726
:
顕正居士
:2003/09/18(木) 22:59
現宗研の次のページ
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho33/s33_185.htm
の日代置状の引用では「御影像一鎮」となっています。仏像を「鎮」と数える
ものかはわかりませんが。この中にいう
『聖人御遷化記録』は平成4年に重要文化財に指定されています。
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/paper/1997/97102002.htm
「若し出来る時は、日代闍梨之を相続して本門寺の重宝と爲すべし」
(「出来る時」は「出来(しゅったい)する時=出て来る時」でしょう)
出て来たから「西山」本門寺の重宝として今もあるのだろうか?あらかじめ
「富士山本門寺」(日蓮一期弘法)というのに似ている妙な文章とおもいます。
727
:
空き缶
:2003/09/19(金) 00:02
顕正居士さん
御遷化記録は西山に確かに現存しています。これも手元に写真がありますが、確かに日興上人の筆です。
日昭師・日朗師・日興師・日持師の四師の花押もついています。(日向師・日頂師は他行)
日興上人から日代師への置状の件は、写本の原文を見たことはありませんが、恐らく読み下しの違いだと思います。
728
:
愚鈍凡夫
:2003/09/19(金) 00:05
ずっと「生御影」のことを調べていたんですが、石山の「生御影」に関して、こんな説があるんですね。石山の「生御影」を奪ったのは日伝師ではなく、日郷師であるといった。
日目師遷化後に戻った日郷師が東坊地の所有権で日道師と対立し、結局、南条家の後ろ盾を受けた日道師が優勢になり、形勢不利となった日郷師一派が御影堂安置の尊像・什宝を持ち去った。小泉久遠寺に移動させ、後に保田妙本寺に移動。
有師物語聴聞抄佳跡にこういう記述を見つけました。石山の等身大の御影の作者については分かりません。
「大聖仰に日く背脊甚た痛し云云仍之を相止む、今に以て御影後欽目高し故に生御影と号し奉る、又正御影と申す今重須に之在り云云、今御生仏の寸尺を記せん御長金さし弐尺六寸五分、御ひざ両の御そでまず壱尺八寸五分余、又横ふかさ御うしろより御ひざのまへまで弐尺弐寸余あり、又御耳の長さ三寸、御つむりの丸さ御耳の上まで弐尺八寸、又御つむりのたけ・ぼんのくぼより御鼻筋の通りより御あごまで弐尺、又両御眼の長さ壱寸四分、又御衣の袖八寸宛両方へ出るなり、又御ひざのあつさ五寸弐分已上、古筆之有り、今之を書写し奉るなり次に最初仏長け弐寸弐分なり、此最初亦造初御影とも六坪の御影とも看経所の御影とも号するなた、当山に之有り日奉の作なり」(有師物語聴聞抄佳跡上)
729
:
空き缶
:2003/09/19(金) 00:27
愚鈍凡夫さん
日伝師の正本をみると、当初の道郷の紛争は西坊地(道師陣営)と東坊地(郷師陣営)といった大石寺境内内で行われていることになっています。
したがって、郷師の代には小泉久遠寺への遷座の前に西から東もしくは北(本堂)から東坊地への遷座が先にあったと推測します。
よくよく「妙本寺文書」(千葉県史料財団刊行 千葉県の歴史)をみていくと、これまでの自分の憶測とずれがあることに気づく日々です。
「千葉県の歴史」はなかなかいいですよ。写真も多く使われており、妙本寺関係の文書は他の刊行物で右に出るものは無いと思われます。
道師滅後に郷師は伝師に東坊地の譲状を書いていますね。郷師一派の大石寺離山の時期はもう少し史料をよく読んでみます。
730
:
愚鈍凡夫
:2003/09/19(金) 00:28
>>728
:の続き
ちなみに、日伝説のネタ元はここからでした。
「蓮蔵坊72年の係争」
http://gappo.cool.ne.jp/yowa/60/6011.htm
731
:
空き缶
:2003/09/19(金) 00:38
ところで「御下文」の話はどこまでいったんでしたっけ。
732
:
ガンコ
:2003/09/19(金) 09:52
みなさん、おはようございます。
このところ、専門的なお話が続いていて、とてもついていけるものではありませんが、幸いにも板が素朴な疑問なので意見を申し上げたいと思います。
問答名人さん、
>正中2年の盗賊が、大石寺であれば、辻褄が合いますね。僕は、そのように考えています。
そんなバカな・・・と思います。時代がもっと下れば、そういうこともあるかなあと思うんですが、日興上人・日目上人の御健在の時に、そんなことが起こりましょうか? たとえ盗難事件が事実であっても、大石寺が犯人だなんて・・・そんなバカな話がありましょうか?
だって、これを基準に日興上人御遺蹟事を読むと、空恐ろしいことが浮かんできてしまうんですもの。
「日興上人御遺蹟事 日蓮聖人御影、並びに御下し文、園城寺申状。 上野六人老僧の方、巡に守護し奉るべし。但し本門寺建立の時は、本堂に納め奉るべし。此の条、日興上人の仰せに依って支配し奉る事此の如し。此の旨に背き異義を成し失いたらん輩は、永く大謗法たるべきなり。誡めの状件の如し。 正慶二年癸酉二月十三日 日善在判 日仙在判 日目在判」
重須の御影を盗んできて、しばらく隠していた。そして、日興上人の御遷化を待って、上記のように“日興上人の仰せ”と偽っておもむろに御影を登場させた。・・・まさか、日目上人さまほどの御方がそんな盗人猛々しいことをあそばすでしょうか? そんなバカな・・・って思います。
むしろ、富士門においては、大本門寺構想というのが共通の目標としてあるわけで、それを基準に考えをめぐらせれば難しいところはないと思います。
先の日興上人御遺蹟事にしても、日興跡条々事にしても、いずれも本門寺建立をうたっているわけです。まさか、北山本門寺のことだと考える人はいないでしょう。弘安二年の大御本尊を北山本門寺に懸け奉るべし、とか、日蓮聖人御影並びに御下し文園城寺申状を北山本門寺本堂に納め奉るべし、などと矮小化して考える人はまずいないと思います。
日興上人は重須に御移りしてからが長いわけですが、それでもなお、条々事・御遺蹟事を見るならば、まさしく大石寺御開山上人としての威厳を如実に示しているもの、と読めるのではないかと思います。
盗難事件の犯人を大石寺とするのは、日興上人と日目上人が反目しているとのお考えなのでしょうか? とても想像できません。
733
:
空き缶
:2003/09/19(金) 11:09
ガンコさん
お久しぶりです。「日興上人御遺蹟事」の連名に連なっている「日善」ですが、妻帯していたかどうかご存知ですか。
日目上人の兄の「頼綱」が「日善」と称していたのですが、同一人物でしょうか。
私も盗難事件は代師もしくは代師系の誰かの捏造説であろうと思っています。興師→代師の置状8通は真筆が無いだけではなく、内容や時代背景からいってかなり怪しい書状だと思います。
代師にとって日目上人は目の上のたんこぶであったと思いますし、「日興上人御遺蹟事」の連名の一人に、仙師も加わっています。
ただ、「日興跡条々事」については写真をみる限り素人目ではどう見ても日興上人の他の書簡とは筆跡が違いますね。
かつて某掲示板で、「二箇相承」や「日興跡条々事」が「御伝土台」に出てこないのは不思議なことだと申した方がいました。
そういえばそうだなと、私も思っています。
ちなみに興風談所の「日興上人全集」には真筆現存のものは、ほとんど写真が掲載されています。使えますよ。
734
:
ガンコ
:2003/09/19(金) 11:42
>「日興上人御遺蹟事」の連名に連なっている「日善」ですが、妻帯していたかどうかご存知ですか。
>日目上人の兄の「頼綱」が「日善」と称していたのですが、同一人物でしょうか。
ごめんなさい。そういうことは、ぜんぜん知らないんですよ。
ただ、常識的に日興上人と日目上人の関係が正常であれば、盗難事件はありえないと思ったのです。
>ただ、「日興跡条々事」については写真をみる限り素人目ではどう見ても日興上人の他の書簡とは筆跡が違いますね。
そうですか。
すると正信会のほうでは、日興跡条々事を真偽未決としているのでしょうか?
いずれにしても、日興上人全集と日目上人全集、入手したいと思います。お寺にじかに行って買えますか?
735
:
アネモネ
:2003/09/19(金) 11:44
ガンコさん
こんにちは。私もこのような専門的な宗史の話になると、とてもついていけないのですが…ただ…少し論点が外れるかもしれませんが…
>興上人・日目上人の御健在の時に、そんなことが起こりましょうか? たとえ盗難事件が事実であっても、大石寺が犯人だなんて・・・そんなバカな話がありましょうか?
そう信じることが信仰の形なのかもしれませんが、しかし見方を変えれば、それが固定観念である場合もあるかと思います。
私は、無きにしも非ずではないかと思います。
>・・・まさか、日目上人さまほどの御方がそんな盗人猛々しいことをあそばすでしょうか? そんなバカな・・・って思います。
日目上人さまがそのような直接の命を下さなくとも、門弟の人などがその信念の為、日目上人さまの為、大石寺の為と、独断で実行する場合もありますしね。
そういうことは、現代の石山系にも見受けられることではないでしょうか。
例えば、職権によって知り得た国家機密を教団組織に漏洩させる学会信徒の行動は、昔から多く聞かれて問題視されていることですね。最近で記憶に新しいのは、NTTドコモの個人情報を漏洩させた事件がありました。教団で培われた信念体系の中にあっては、それが正しい行いと思って行動しているわけです。世間一般の良識的行動を基準に考えられることではありません。
また先日、独歩さんが紹介された顕正会の暴行事件にしてもそういう範疇のことといえるでしょう。恫喝し暴行してでも折伏をすることが正しいと信じているわけですね。ほんの一例ながら、潜在的にそのような行為は多いのかもしれません。
また、そのようなところまでエスカレートしなくても、小さな例は山ほどあります。Pundarikaにも少し書いたことですが、
http://jbbs.shitaraba.com/study/3050/pundarika.html
折伏をするために、相手の人を騙してお寺や組織に連れ出すということは日常茶飯事に行われていることであり、そういうことと盗難事件、国家機密漏洩は、同じ信念体系の延長的行動だと私は考えます。五十歩百歩といえるでしょう。
もうひとつ例をあげれば、30万登山成功のために、一人が何度も登山参詣することで数字を達成したわけですが、そのことにしても、私は仏法に対する背信行為ではないかと思い、盗難事件と同じだと思っています。
しかし、組織や権威を信じてやまない信念体系に陥っている人にとって、どのような手段をとろうとも目的達成こそが果たさなければならない正しい行いとなっているわけです。
ですから、そんなバカなと思うことが無いとは限らない。むしろ、この教団の今日の思考と行動パターンから類推すれば、問答さんの推測は十分考えられることだと思われますが。
>日興上人は重須に御移りしてからが長いわけですが、それでもなお、条々事・御遺蹟事を見るならば、まさしく大石寺御開山上人としての威厳を如実に示しているもの、と読めるのではないかと思います。
日興上人が御移りする内情は、いろいろあったんじゃないでしょうかね。
学会や顕正会が宗門から分裂していった本当の内情も、表向きにアナウンスされていることばかりではないようですから、同じようなことが700年前にもあったんじゃないかと、私なんかは想像します。
それこそ、そういう宿業・因縁を繰り返してきている教団なんじゃないかとさえ感じるくらいですよ。まあ、こういう捉え方こそ、まさに教団で刷り込まれた思考ですが。
736
:
空き缶
:2003/09/19(金) 12:14
ガンコ さま
「日目上人」「日興上人全集」は持っていて損はないと思います。
ただし「日興上人全集」はチョッと高いです。どちらもまず古本屋から探されることをお勧めいたします。
「日目上人」は継命新聞社刊行で正信会の寺院で受け付けてくれると思いますが、在庫があるかわからないので直接新聞社に問い合わせたほうが早いかもしれません。
「日興上人全集」は「御書システム」のホームページからメールで問い合わせてみてはいかがでしょうか。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/index.html
定価7000円+送料で7500円だったと思います。
御書システムは実費分だけで購入できます。「注法華経」以外のものは真撰・偽撰・真偽未決全てが収録されており、それぞれの真偽についても数字で示されており、わかりやすいです。
確か1000円だったと思いますよ。ただしデータベースソフトが体験版なので3ヶ月しか使えませんが。データベースソフトは製品を購入すると3万円近くしたと思います。
「興風談所」「継命新聞社」の営業担当みたいになってしまいましたが、資料としての価値は認めざる得ないでしょう。
737
:
犀角独歩
:2003/09/19(金) 13:04
ガンコさん:
興目両師の話題ですか。
わたしは基本的に問答さんの推測は外れていないと思っています。
また反面、盗難事件については代師の流れの捏造ばかりでもなさそうだと思います。
その理由は「本尊紛失の使節」は重須文献『日順阿闍梨血脈』にも現れるからです。
重須の本堂と檀所はそれなりの確執があったことは窺えるわけです。その相反するなかで両方から同一事件の記述が見られるとすれば、代師側の一方的な捏造だけとは言えないというのがその根拠です。
本堂は河合方、それに対して、檀所の初代は中山方の出で向師を経た澄師。前者が縁戚上の継承者であるのに対して、後者は学風上の継承者と見えます。
石山から讃岐へ至る仙師との問答は何で起きたのか、わたしは常々不思議に思ってきました。読不の論争。そういえばそれまでのことですが、事はそんなに簡単なのでしょうか。
興目の話に戻りますが、時系列で見る限り、興師は南条方(のちの大石の寺)には1日しか逗留しなかったようで、石山の実質的な初代住職は目師でしょう。また、そこはいまで言う総本山なんて言う大袈裟なものではなくて、縁戚者・目師を歓迎して堂宇を結んだ程度のもの。そこを早々に去って興師は河合方重須に拠点を構えるわけです。
重須における興師の事跡を偲ぶと、そこでは常師の義子、あの天才・澄師との活発なやりとりが彷彿としたり、それを次ぐ順師との有り体も鮮やかに想像されますが、そこには目師の存在は、それほど、浮かんでは見えません。
もし、石山が言うように目師が興師の継承者であれば、重須において、第二席を暖めて、教鞭を振るうのは目師であったはずです。ところがそこに目師の影は見えないわけです。時折、使いに供養を持参されることはあったように見えますが、重須に教鞭を振るう興師の謦咳の係る位置に見えるのは、やはり、澄師でした。
しかし、その澄師は夭逝し、あとを次ぐ順師は眼病を患うことになります。
当時の寺院継承はまったくの地頭の縁戚相続でした。ですから、南条方では目師からその甥の道師。ここで他家の郷師は暇が生じることになります。
重須本堂では河合方で興師からまたその母方の甥・代師に。これでうまくいくはずでしたが、石山で仙師と議論をして、自ら北山を退して、西山へ。このとき、一方で強く教勢を誇るに至る檀所との暇が生じていたのではないのかとわたしは想像するわけです。
興師が寂すると、その9カ月後に目師も寂します。
ここで南条方は動いたように見えます。ここでは目師ではなく、次世代の動きとなっているように見え、この動きは目師の遺志とも違うように感じます。一種の覇権争いと見えます。その時に道師に代表される石山は重須を呑み込もうとしたのではないのか?と想像します。重須本堂は代師退出後、妙師を迎え、石山と親密度を増すことになるようですが、ここで檀所派はどのような消長を示したのか、わたしは杳として掴めません。
この時点で、それまで“疎遠”であった石北の一体感が生じ、条々事に見られる如き脈絡で語られる“極めて短い”蜜月一経過があったのではないのでしょうか。
この蜜月では代師と、そして、郷師は追いやられることで平衡が保たれた。
そのようななかで、いわゆる盗難と言われた事件もあるいは起きていたのかも知れません。
いずれにしても、南条方の覇権争いには辟易とした感慨を懐かざるを得ないわけです。
まあ、資料手放しで、わたしが雑駁に憶測する上古史に過ぎませんが。
738
:
ガンコ
:2003/09/19(金) 14:53
空き缶さん、どうもありがとうございました。
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