したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

素朴な疑問

652Jルーカス:2003/09/10(水) 14:06
御書、御妙判、御遺文と呼ばれるものの真偽について、『勝呂信靜(文学博士 立正大学名誉教授)前東京大学講師 前現代宗教研究所顧問』は浅井要麟教授の真筆偏重的な考察を柔らかく否定し、以下のように述べられております。この中に「日蓮宗の出版している御遺文についての凡例記載もあるので参考にして頂きたい。

「御遺文の真偽の問題を論じた学者は何人かいるが、中でもこの問題について厳格にして広範な文献学的研究を提唱・実行されたのは浅井要麟教授であった。
教授の提起された問題はきわめて多岐にわたっていて、その困難性のゆえになお未解決の問題も少なくないが、教授の影響力はまことに大きく、その学風は今日まで脈々と伝えられているのである。
 御遺文類の中には偽作の疑のあるものが少からず混入しているので、これを資料として用いる場合真偽の嚴重なチェックが必要であるということは、宗学研究者の間では常識になっているが、世間では案外このことは知られていないようである。この理由はいろいろ考えられるが、御遺文研究は近代的な文献学的研究であるにしても、伝統的な「祖書学」(ただしこの呼称は近代のものらしい)に属するものであるから、それは日蓮宗内部の学問として研究成果が外側に向かって十分に知らされなかったことがあると思う。さらに『昭和定本遺文』の編纂法も影響しているように思う。
 周知のように『定本遺文』は第一輯正篇(第一巻・第二巻)に真撰遺文四三四篇を、第二輯続篇(第三巻)に偽撰の疑ある遺文五五篇を収録している。この『定本遺文』は今日まで公刊された遺文集のうちもっとも権威あるものであるから、この真撰(第一輯)と偽撰(第二輯)の分類は決定的なものと思われがちである。ところが偽撰の疑のある御書であっても、古来伝統的に宗義上・信仰上、真撰のごとくみなされて来たものは第一輯の中に収められているが(この旨は巻末の凡例に示されている)、しかしそれがどの御書であるかは指示されていない。一般の研究者は真偽問題についての細かい議論を知らないから、第一輯正篇の中の御書なので間違いないと思って資料に取りあげると、専門家からそれは偽書であると指摘・非難されるようなことが起る。
 しかしひるがえって考えてみると、決定的な意味での偽書というものがあり得るのかどうか。どの点から見てもあるいは誰が見ても偽作であることが疑ない御書があるとすれば、それは偽書といってよい。しかし大多数の場合、偽作の疑が強いが、見ようによっては真作と見られるというものであって、真作の可能性が全くないということではない。一般に真偽を決定する客観的形式的な証拠というものは容易に見出されないから、拝読する人の主観によって真偽の判断が異なるということは十分に起り得る。第二輯続篇(偽書の部)に収められている御書にしても、それは同様であって、ある御書について、百人の学者のうち九十九人までが偽書説を唱えても、一人が真書説を唱えそしてそれに相応の根拠があれば、決定的な意味で偽書とはいえない。それは厳密にいえば偽書でなくて真偽未決であり、真偽が疑われているという意味において「疑書」と称すべきものである(ただし「疑書」という言葉が用語として定着しているかどうかは判らないが。)
 この点を考慮したからであろうか『昭和定本遺文』の凡例は、慎重に偽書という言葉をさけて真偽未決の趣旨の言葉を用いている。念のためその一部をつぎに引用しよう。
    凡 例 (前略)
  一、本書は右の内容を左の五輯に分って収録した。
   第一輯 正篇 著述・消息にして真蹟現存するもの、真蹟現存せざるも真撰確実なるもの、真偽確定せざるも宗義上・信仰上・傳統的に重要視さるゝものを収めた。
   第二輯 続篇 著述・消息にして真偽の問題の存するもの、其他を収めた。(下略)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板