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素朴な疑問

675犀角独歩:2003/09/15(月) 22:12

愚鈍凡夫さん:

いやいや、わたしは逆襲でも何でものではないですよ(笑)
いつも愚鈍さんが書かれていることには頷きながら読ませていただいております。

> 「日蓮宗の歴史・日蓮聖人在世当時の教団形成事情」

これは、どんな方がお作りになったものでしょうか。
典型的な形でテキストとしてはよいですね。

この文章のなかで、ちょっと不鮮明であると思うので補足します。

わたしは、宗旨建立といわれるものは潤色であると思うわけです。
いわば、叡山で免許を蒙り、登高座が許され、故郷に錦を飾る感じの初の高座説法であったという感じだったのではないでしょうか。もちろん、法華宗(天台宗)沙門としての説法です。

で、京に対峙する形で樹立する鎌倉幕府で、いまでいう新興宗教として蔓延りだした法然かぶれに、その法華宗の立場、ひいて言えば京の立場から鎌倉勢の流れも含めて念仏を批判した説法となったということであると思います。

なお、申状、あるいは天奏というと、なにか一国諌暁の如き様相であると想像しがちですが、ここいらを冷静に読み解いていくと、これは要するに、今で言う宗教法人としての許認可を求めることに趣旨があるように見えます。その場合、天皇家と武家とは別々に許可を取る二重手間があったとも見えます。

朗師はやはり叡山ではなかったのですね。頂師もそうですか。まあ、しかし、その師匠が天台僧であり、その人から得度すれば、叡山に学ばなくても法華宗・天台沙門であることになるでしょうね。ここいらへの遊学は、それ相当の資金力と人脈が必要であったと想像できます。

やや、関係しますが、興師の園城寺申状の代奏の信憑性は如何ばかりでしょうか。
なにより、「朕若し法華を持たば富士の麓を尋ぬべし」と言ったという伝説。これは嘘でしょう。弘安4年、蓮師は身延にあり、富士には南条家の私邸があるだけでなにもないわけです。そこに天皇が訪ねてどうするだと思うわけです。

ただ、興師は武家の出なので、公家代奏というのはどんなものでしょうか。目師、尊師が上洛を志せたのは、その出が公卿の流れであったからと思えます。


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