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素朴な疑問

650アネモネ:2003/09/10(水) 12:24
眠りの小五郎さん

はじめまして。
私などが申し上げるのは僭越ですが、真偽を怪しむことがいかに重要なことであるかを、あなたはまるで理解されていないと思い、少しばかりレスさせて頂きます。

>「現代に真蹟が残ってない」という、たったそれだけの理由で、真偽を怪しんだり、偽書と断定したりすることは早計であり、

真蹟が残っていない書をそのまま偽書だと片付けているものではないでしょう。
しかし、なぜ真蹟がないのかということの原因はいくつか考えられるわけで、その原因の中に偽書だったからという要因が全くないとは言い切れないわけですね。それはひとつひとつの御書について、現存している写本などから、さまざまな検証が続けられているわけですから、眠りの小五郎さんが考えているほど単純に決め付けているものではないでしょう。
むしろ、これまでがあまりにも真蹟の現存していない御書の取り扱いについて軽く考えてきたことのほうが、むしろ大変大きな問題なわけです。実際に教義体系が違ってくるほどのことですから、深刻です。危険視する気持ちは別の意味でわかります。
わかりますが、そのことを真摯に受け止めて向き合い、そこから教義を問い直しているのがこの掲示板ではないでしょうか。

>しかも、ややもすれば、自他の信仰を破壊しかねない、たいへん危険な行為だからですよ。

その信仰が本当に正しいかどうかの証明を怠るほうが、もっと危険だと思われます。
日蓮の書としての真偽がはっきりしていないものは、はっきりしていないものです。
はっきりしていないのに、日蓮が書いたものであると断定して信仰をさせることのほうが、よほど危険です。
教義が違ってくるのですから、大変なことです。
眠りの小五郎さんは、構築された教義体系が崩れることを恐れているのでしょう。その危険を感じていることはわかりますが、その教義体系が正しく日蓮の教義であるか否かは、御書の真偽に大きく関わることであるということに向き合わなくてして、何を根拠に正しい日蓮の教義であり信仰だと言い切れるのでしょうか。
もしも偽書だったら、正しいと信仰している教義は捏造されたものとなるわけです。
捏造された虚構の日蓮教義を信じ込まされていたとしたら、どうしてくれるのでしょう。
その危険性についてはどうお考えですか。
真偽がはっきりしない以上、やたらと信仰はできません。真偽の真を訴えたいなら、確固たる証明をして頂きたいものです。

>つまり、貴方たちの教義解釈の基準が、富士門流側ではなく、日蓮宗側に傾倒しているから、そういう判断を下してるんじゃないか、と思うんですよ。

眠りの小五郎さんは、富士門流側と日蓮宗側という対立軸という思考でしか、ここの内容を把握できていないのでしょう。
私は、個々の御書の真偽についてどうこう言えるほどの教学も見識もありませんが、少なくともここの掲示板での議論が、富士門流側か日蓮宗側かといった単純論争ではないことくらいは、理解しております。その点は私からも申し上げておきたいと思います。

>富士の流義から遠く離れた場所で、どうやって富士門流を語るおつもりですか?そんなことをしようとしても、出てくる言葉は「富士否定」ばかりでしょう。

いわゆる発起人が、富士門流から教義を学んできた人たちなのですから、掲示板の名称として使われることは自然なことです。その流派で伝えられてきた流儀が果たしてどこまで宗祖の心にかなったものであるかということを問い直してきているのです。
つまり祖道の恢復に志を向けてひとつひとつ研鑚と議論を重ねてきているわけです。
富士の流儀にただ固執するだけの立場とは、祖道に対する取り組み姿勢からしてまったく違うのです。理解されないことかもしれませんが。
名称から難癖つけ、揚げ足ばかりをとられては、かえって富士流儀の浅はかさみたいなものが、あなたの人間性を通して露呈するばかりに見え、それが富士門流の姿だったのかと、ますます残念な思いにかられます。
もはや立場の違いもありますから、私などが申し上げることもないことかもしれませんが…。


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