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素朴な疑問

704犀角独歩:2003/09/17(水) 07:53

空き缶さん:

お考えはこうですか。
 下文には伝わるとおり「富士山嶺」という記述があった
 この記述は申状の内容に富士を窺わせる記述があったからではないのか
 故に興師は富士を目指した。

たしかに、このような類推は可能ですね。
わたしは弘安4年の代奏自体、作り話であると思っていますが、上述のような推理はロマンがあります。

わたしは、興師が富士を目指したのは、目師の縁戚、また蓮師の檀那でもあった南条家があったからであろうと通り一遍にとらえています。しかし、それでも、南条領地の隣が興師の縁戚である河合であり、両師にとって“富士”が拠点となっていくことは、蓮師も憶念できた可能性は否定できませんね、たしかに。

やや視点は変わりますが、興師と、いわゆる“富士信仰”の関係は、派祖・興師となっていくうえで、重要な意味をもっていると想像しています。

下文、園城寺申状ともに現存しない以上、何とも言えませんが、何が手がかりを得れば、わたしも空き缶さん同様、その存在から種々考えてみたいと思います。

なお『日興聖人事跡事』については、わたしは偽書ではないのかと思っているのです。
その理由はこの状の日付にあります。「正慶二年癸酉二月十三日」となっています。
下文、申状より何より、この状で問題になるのは「御影」のことです。
正慶2(1333)年は言うまでもなく興師の寂年、日付は2月7日でした。となると、この状はその直後に記されたものであることになります。

以前に問答さんがご指摘くださったことですが、重須では盗難事件がありました。

「正中二年十一月十二日の夜日蓮聖人御影堂に於て日興に給はる所の御筆本尊以下廿鋪、御影像一鋪、併に日興影像一鋪聖人御遷化記録以下重宝二箱盗み取られ畢ぬ」

「正中二年」とは1324年です。つまり、『日興聖人事跡事』が記される9年前に既に御影を失っていたはずです。それにも関わらず、この状には「御影」の文字が見られるわけです。これはどうにも納得のいかないところです。

以上から、わたしは弘安五年下文、園城寺申状、さらに日興聖人事跡事はなにか脈絡のある“作り話”ではないのかと思っているわけです。

とはいうものの、空き缶さんの類推に、既述したとおり、惹かれるのも事実です。


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