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素朴な疑問

680犀角独歩:2003/09/16(火) 07:02

○園城寺申状に係る石山文献の記載

『富士年表』
1281|弘安4辛巳|天皇/後醍醐|武家/時宗|聖寿/60|12月 ○日興 園城寺申状を代奏す(初度天奏)(聖613)
1281|弘安5辛午|天皇/後醍醐|武家/時宗|聖寿/61(聖滅1年)|2.29 園城寺下文を賜る(石蔵写)

ところが富要、亨師の言では

「一、園城寺申状及び御下し文。
 大聖人の代官として日目上人始めて天奏を遂げたり、此れを富士の眉目として誇りたるも今や正本写本共に逸して空篋を西山に存するのみ、鳴呼悼ましいかな」

と、なぜか、目師の代奏となっています。
この齟齬を説明するように『日蓮大聖人正伝』では

「日興上人の代奏
 一国を苦悩と悲哀のどん底に陥れた蒙古の再襲にも、幕府は大聖人の諌言を聞き入れることはなかった。この上は朝廷に奏上する外に道はないと考えられて、大聖人は申状を認め、日興上人に代奏を命ぜられた。これが『園城寺申状』である。
『富士門家中見聞』に
「同(弘安)四年には聖人園城寺の申状を書いて日興に給う。日興、師の御代官として奏間の便節を勤めたまえり」(聖613)
とある。
 そして、翌弘安5年(1282年)にも、再び日目上人に命じて天奏をされたという。
 この時、奏聞を受けた後字多天皇は、伝奏を通じて園城寺の碩学に対し、大聖人の諌状の判定を命じ園城寺の碩徳の答旨は、正像末三時弘経の次第を説き明かし、謗法を対治して正法を立つべしとの大聖人の道理に叶った憂国の諫言に対して、絶讃の言葉を惜しまなかったと伝えられている。
 後宇多天皇は大いに喜び、「朕、他日法華を持たぱ必ず富士山麓に求めん」との言葉を添えて、「下し文」を下賜された。
 これが「弘安五年の御下し文」でしある。
 この『申状』と「下し文』二書は、重宝として日興上人の滅後は大石寺の六老によって巡守されていたが、目目上人の滅後、日代系の西山に伝わって紛失したと伝えられている」(P401)

繰り返しになりますが、弘安4、5年には大石寺は富士にはなかったのであって、その一点を採っても、こんな話は信頼できません。
なお、紛失については、亨師は

「大石寺より転じて時の南条宗家に保管せられたるが、此の時綱時長の父子代共に大石寺の道師の敵となりて終る所明ならず、又従つて開山滅後廿四年を経過せる此置文の時は日助の手に御影のみ収納して申状御下文は其儘南条家に在りて引渡を肯ぜざれば、国主に訴へて其権力を借りても僧衆へ回収すべしとの此の置文の意なるが、其儘南条時長一家の没落と共に紛失したりしや又は一度取りかへしての後西山本門寺にて紛失したりしやを知らず、但し此より百二十余年後の妙本寺日要の談には東台他に戸(東光寺か)に在りと云へば若し此談を正とせば日助系の西山徒の責に係るなり、偏に後賢の研究を仰ぐ」

とは言います。


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