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素朴な疑問
653
:
Jルーカス
:2003/09/10(水) 14:07
(つづき)
右において「其他」というのは極めてあいまいで、何を意味するのかこれだけではよく判らないが、ともかくこの凡例によるかぎり、『昭和定本遺文』においては偽書は存在せず、存在するのは真偽の問題のあるもの、つまり真偽未決の御書である。真偽未決であれば、平均化して五十パーセントは真作の可能性があるとせねばならない。しかるに学界の傾向として、疑書を偽書と同一視し、それを日蓮聖人の思想にあらずとして全面的に排除しようとするところに問題があるように思われるのである。
厳密性を重視する学者のなかには、真蹟の現存あるいは曽存が確認される御書のみを用い、他は一切資料として採用しないという研究法を取っている人がいる。有力な学者で現にこのような人がいるのである。たしかにこれは一つの見識である。しかし偽書と称されるものは厳密にいえば上述したように「疑書」であるから、真作の可能性を含むものとせねばならない。それを全面的に排除することは、日蓮聖人の宗教思想を実態よりも狭小に限定することになりかねないと思う。それは偏った日蓮像を作りあげることにもなるであろう。
これに対し偽書あるいは疑書ということを考慮せず日蓮聖人の名において伝えられるものは、すべて真撰として取り扱うという立場もあり得る。しかしこれによっては日蓮聖人の思想から、そこに混入しているかも知れない他の夾雑的な思想を区別し除去する方法を取り得ないという欠点が生ずる。
以上に対し聖人の御書を、真撰の確実視される御書を基本的資料、偽作の疑のある御書、真偽未決の御書を補助的資料として区別し、まず基本的資料によって聖人の思想を拝察し、それに矛盾しないかぎりにおいて補助的資料を基本的資料に準ずるものとして採用するという方法があり得ると思う。私にはこの方法がもっとも妥当であるように思われるのである。」
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