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素朴な疑問

737犀角独歩:2003/09/19(金) 13:04

ガンコさん:

興目両師の話題ですか。
わたしは基本的に問答さんの推測は外れていないと思っています。
また反面、盗難事件については代師の流れの捏造ばかりでもなさそうだと思います。
その理由は「本尊紛失の使節」は重須文献『日順阿闍梨血脈』にも現れるからです。
重須の本堂と檀所はそれなりの確執があったことは窺えるわけです。その相反するなかで両方から同一事件の記述が見られるとすれば、代師側の一方的な捏造だけとは言えないというのがその根拠です。
本堂は河合方、それに対して、檀所の初代は中山方の出で向師を経た澄師。前者が縁戚上の継承者であるのに対して、後者は学風上の継承者と見えます。
石山から讃岐へ至る仙師との問答は何で起きたのか、わたしは常々不思議に思ってきました。読不の論争。そういえばそれまでのことですが、事はそんなに簡単なのでしょうか。

興目の話に戻りますが、時系列で見る限り、興師は南条方(のちの大石の寺)には1日しか逗留しなかったようで、石山の実質的な初代住職は目師でしょう。また、そこはいまで言う総本山なんて言う大袈裟なものではなくて、縁戚者・目師を歓迎して堂宇を結んだ程度のもの。そこを早々に去って興師は河合方重須に拠点を構えるわけです。

重須における興師の事跡を偲ぶと、そこでは常師の義子、あの天才・澄師との活発なやりとりが彷彿としたり、それを次ぐ順師との有り体も鮮やかに想像されますが、そこには目師の存在は、それほど、浮かんでは見えません。

もし、石山が言うように目師が興師の継承者であれば、重須において、第二席を暖めて、教鞭を振るうのは目師であったはずです。ところがそこに目師の影は見えないわけです。時折、使いに供養を持参されることはあったように見えますが、重須に教鞭を振るう興師の謦咳の係る位置に見えるのは、やはり、澄師でした。

しかし、その澄師は夭逝し、あとを次ぐ順師は眼病を患うことになります。
当時の寺院継承はまったくの地頭の縁戚相続でした。ですから、南条方では目師からその甥の道師。ここで他家の郷師は暇が生じることになります。
重須本堂では河合方で興師からまたその母方の甥・代師に。これでうまくいくはずでしたが、石山で仙師と議論をして、自ら北山を退して、西山へ。このとき、一方で強く教勢を誇るに至る檀所との暇が生じていたのではないのかとわたしは想像するわけです。
興師が寂すると、その9カ月後に目師も寂します。
ここで南条方は動いたように見えます。ここでは目師ではなく、次世代の動きとなっているように見え、この動きは目師の遺志とも違うように感じます。一種の覇権争いと見えます。その時に道師に代表される石山は重須を呑み込もうとしたのではないのか?と想像します。重須本堂は代師退出後、妙師を迎え、石山と親密度を増すことになるようですが、ここで檀所派はどのような消長を示したのか、わたしは杳として掴めません。

この時点で、それまで“疎遠”であった石北の一体感が生じ、条々事に見られる如き脈絡で語られる“極めて短い”蜜月一経過があったのではないのでしょうか。
この蜜月では代師と、そして、郷師は追いやられることで平衡が保たれた。
そのようななかで、いわゆる盗難と言われた事件もあるいは起きていたのかも知れません。

いずれにしても、南条方の覇権争いには辟易とした感慨を懐かざるを得ないわけです。
まあ、資料手放しで、わたしが雑駁に憶測する上古史に過ぎませんが。


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