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素朴な疑問
1233
:
エル
:2004/04/03(土) 20:11
垂迹堂というのは、色々な解釈があるようですね。化儀抄の解説本によれば、
古代、大石寺の信徒となるには、 入信の際に法払いをしますが、その時に所
持していた仏菩薩像などを大石寺に収めた。その仏菩薩像の保管場所を垂迹堂
と呼んでいた。と書かれてあります。
現在は、謗法払いといえば、燃やしたり金づちでこわしたりしますが、上代に
おいてはすべて大石寺、もしくは近隣のお寺に収めていたそうです。
『他宗の法華宗に成る時、本所持の絵像木造並に神座其の外他宗の守なんどを
法華堂に納むるなり、其の故は一切の法は法華経より出でたるが故に此経を
持つ時又本の如く妙法蓮華経の内証に事収まる姿なり、総じて一生涯の間大
小権実の仏法に於て成す所の所作、皆妙法蓮華経を持つとき、妙法蓮華経の
功徳と成るなり、この時実の功徳なり云云。』 化儀抄より
ここでいう法華堂が垂迹堂です。つまり、諸仏菩薩は、妙法蓮華経の一法から
出たものだから、また総て、妙法蓮華経の中に戻し、帰入させてしませば、本
来の姿、本来の形に戻る故という事ですね。
ただし、もちろん、ここには一般の信徒は立ち入り禁止で、礼拝はできなかっ
たと思います。
1234
:
犀角独歩
:2004/04/03(土) 21:17
エルさん:
「法華堂」は、阿弥陀堂などと言い分ける法華宗…天台法華宗と区別するときは日蓮法華宗…の堂宇を指す名称であると思います。たとえば亨師は「法華堂、法華宗は・足利時代に於ける日蓮宗等への通称なり」と注解しています。
これを垂迹堂とする根拠はいったいなんでしょうか。
1235
:
犀角独歩
:2004/04/03(土) 21:33
1234を補足します。
エルさんが引いた化儀抄の文を達師は以下のように略解しています。
「他宗の人が本宗に帰入した時は、今まで礼拝所持しておった、他宗の絵像、木像、並びに位牌及守り、あるいはお札等は皆、‘本宗の寺’に納めてしまいなさい…」(P75)
達師も法華堂を自宗寺院に充てるばかりで垂迹堂とは解していません。
1236
:
犀角独歩
:2004/04/03(土) 22:41
もう一つ、エルさん、質問させてください。
> 謗法払いといえば、燃やしたり金づちでこわしたりします
こんなことをする石山僧俗がいるんですか。
創価学会はかつてこのようなことをして、世間の顰蹙を買いました。実際、わたしの35年にわたった会員生活の日常でした。その後、石山には5年しかおりませんでしたが、こんなことをした話は聞いたことがありません。忠実に化儀抄の一文を守り、寺院に納めていました。
エルさんはたしか法華講と記されていたと思うのですが、こんなことを指導する末寺があるとはとうてい信じられないのです。向学のためにどちらの寺院か教えていただきたいところです。差し障りがあれば、ヒントだけでもけっこうです。
1237
:
愚鈍凡夫
:2004/04/03(土) 23:58
エルさん、天拝の件ですが、いつ頃から朝のみになったのか調べてみても分かりませんでした。ただ、次のような文証が残っています。
「一、仰せに云はく・当宗には日天を先づ拝し奉る事は日蓮事行の妙法を三世不退に日天の上に事に顕し・利益廃退無き事を敬ふとして・先づ日天・日蓮と意得て其の心を知るも知らぬも日天を拝し奉るなり云云」(「有師談諸聞書(雑々聞書)」)
なお、同じ文証が「日拾聞書」にもあります。
この書が真蹟であるならば、日有師のころには既に日天中心の天拝になっていたのかもしれませんね。
1238
:
犀角独歩
:2004/04/04(日) 05:41
横レス失礼します。
愚鈍凡夫さん。『化儀秘訣』に以下のようなことが記されています。
「天の勤め…天の食時…東に向ひ膝を立てゝ是れを読むこと如何、答へて云はく日天は少しも座し給はず、日夜共に四州を行道あり、早朝は東より出で給ふ故に東に向ふなり、又時の行者行き向ひ申す意にて膝を立つるなり」
郷門の勤行化儀なんだと思います。けれど、わたしはなにかこの一節が好きで初座は夜明けを待って立て膝で勤行をしていたものでした。まあ、法華講在籍期間はやめていましたが(笑)
1239
:
エル
:2004/04/04(日) 08:49
犀角独歩さん
> これを垂迹堂とする根拠はいったいなんでしょうか。
いえいえ、これは私が云っているのではなくて、解説本にそのように書かれて
あると紹介したまでです。
> 達師も法華堂を自宗寺院に充てるばかりで垂迹堂とは解していません。
なるほど、そうですか。
> こんなことをする石山僧俗がいるんですか。
うーん、どうなんでしょう。解説本をそのまま引用しますと、
『入信者が多くなった近年では、謗法の物は全部焼き捨てるようになったが、
古き時代においては、邪宗・謗法の人が本宗に入信してくる場合、それまで
祀っていた邪宗の本尊等は本宗の寺院に納めるのが通例であった。したがっ
て当時の寺院には垂迹堂といって、謗法の物を納める堂も用意されていたの
である。』小川只道著 暁鐘編集室発行
多分、入信者が多くなればそれだけ謗法物も多くなり、ついには、寺内には収
まりきれなくなり、処分せざるを得なくなったと解釈しているのですが。(^^;
1240
:
エル
:2004/04/04(日) 09:00
犀角独歩さん 追加レスです。
> これを垂迹堂とする根拠はいったいなんでしょうか。
すみません、法華堂とは本宗寺院の意味です。その中に在る垂迹堂に納めると
いう意味に訂正させていただきます。m(__)m
1241
:
犀角独歩
:2004/04/04(日) 11:13
エルさん:
お返事有り難うございます。
只道師・妙観講ですか。納得です。
> 謗法の物は全部焼き捨てる
なんともはや。すさまじいですね。あそこはいまでもそんなことをやっているのですか。
しかし、こうなると、有師が「本の如く妙法蓮華経の内証に事収まる」という点は成就しないことになりますね。いわば、親は尊敬し、その家を出た子は滅ぼすというやり方です。
日蓮宗では「おたきあげ」という儀式を用意して、やはり焼いています。
ただし、この場合は他宗のものに限らず、古い御守、達磨、仏壇、塔婆が主な対象で、供養行事の一環です。また、憎しみを篭めて在家が行うことではありません。
いずれにしても「燃やす」のは有師儀ではなく、むしろ他門儀に近いように思えます。なぜならば石山では「おたきあげ」の類の法事がないからです。
垂迹堂の件、少し文献をひっくり返してみました。
亨師の言として以下のようにありました。
「他宗に所望すれども出さず等とは、他宗他門の輩・信伏の時に・従来安置したりし権迹の仏菩薩の絵像木像を・当宗の垂迹堂に納むるに・中には定朝運慶の彫刻もあるべし・金岡雪舟の名画もあるべし・又は所望の弥陀もあるべし・観音もあるべし・今此を垂迹堂に納め置くよりも・当方に申し受けん、何貫文を進上すべし、何々事を為し進らすべし等と・種々に申し請ふものありとも・決して他に出すべからず、其故は権仏迹仏たる弥陀・薬師・観音・不動等は・其元一乗法華本仏の影現垂迹にして声縁菩三乗済度の為に出られたるものなるに・今一乗法華弘通の時機に遭ひ上りて・幸に本地の大法に帰る事を得たる姿なれば、無沙汰に放擲して・仮出の三乗に戻らしむべからず、垂迹堂に安置して・妙法醍醐の法味に飽かしむべしと
なり」(註解第11条)
たぶん只道師はこれに拠ったのでしょう。ただし「燃やせ」とは言っていません。
ここで亨師が突然、垂迹堂であると言い出すのはかなり突飛な印象があります。しかし、同師は慶応3(1867)年生まれですから、昔の事情、またそんな話を聞かれて書かれたことであると思います。
ただし、只道師がいう扱いとは随分違います。「垂迹堂に安置」というわけです。
保管、あるいは焼却処分ではなく‘安置’である点は看過できません。
エルさんは「ここには一般の信徒は立ち入り禁止で、礼拝はできなかった」と想像されていますが、亨師は「納め置くよりも…種々に申し請ふ」と、つまり、その垂迹堂でそれらを見た人の申し出を記すわけですから、立ち入り禁止というのはどうでしょうか。
中世の垂迹堂では天照大神の御神体の前に、ずらっと絵像、仏像が‘安置’され、そこで初座の読経が執行されていたというのは、有師・亨師の記述からすれば導き出せる想像です。
1242
:
愚鈍凡夫
:2004/04/04(日) 12:49
犀角独歩さん、「化儀秘訣」に次のようにありますね。有り難うございました。
**************************************************
問ふ天の勤め最初なること如何、答へて云はく諸経論の説相、天の食時は仏菩薩より前なり、之に依つて爾かなり、されば毘羅三昧経に云はく早朝は諸天衆の食時、日中以前は三世諸仏の食時、以後は畜生の食時、餓鬼の食時か、日中以前に斎食すべしと、是れは方等部の経なり、然りと雖も世間国土人天等の説相は相違無し、仮令成仏の用否は爾前経と法華経と有無不同之れ有り、然る間天の食時は仏より先なれば是れに準へて先づ天の勤め之れ有り、法味を供御に捧ぐる意なり、必ず天は勝れ本尊御影は劣り給ふには非らず。
疑つて云はく東に向ひ膝を立てゝ是れを読むこと如何、答へて云はく日天は少しも座し給はず、日夜共に四州を行道あり、早朝は東より出で給ふ故に東に向ふなり、又時の行者行き向ひ申す意にて膝を立つるなり。
**************************************************
1243
:
愚鈍凡夫
:2004/04/04(日) 13:23
**************************************************
日蓮聖人御影奴御下文、園城寺申状
上野の六大の老僧方、巡て守護し奉る可し、但し、本門寺建立之時は本堂に納め奉る可し。此の條、日興上人の仰せに依つて支配い奉る事此の如し、此の旨に背き異義成し、失タラン輩者、永く大謗法に為す可し。仍誠之状件如し
正慶二年発酉 二月十三日
日善(花押) 日仙(花押) 日目(花押)
**************************************************
この遺命によると、「生御影」・「御下文」・「園城寺申状」を本門寺建立の時に本堂に奉納せよとの事ですよね。それでは、この書に本門寺本堂に「掛け奉る」重宝となるべき戒壇の本尊(漫荼羅?)の指定がないのは何故でしょうか。
このとき既に、暗黙の了解があったと言うことでしょうか。 (゜ペ)ウーン
それと、「本堂」に「御影堂」を兼ねさせるというのは、「日興上人の仰せに依つて支配い奉る」ことであって、日興師の御遺命ということなのでしょうね。
1244
:
空き缶
:2004/04/04(日) 14:05
愚鈍凡夫さん、こんにちわ。
以前れんさんも引用されましたが、保田妙本寺所蔵の末法万年救護之大本尊の副書には「本門寺建立之時懸本御影堂可為末代重宝也 建治元年太才乙亥六月十七日 甲斐国波木井郷図之」(『千葉県の歴史』に掲載)とありまして、「本御影堂」「建治元年」「図之」が気になるところです。
誰が書いたものかもわかりませんが。蓮祖か?興師か?しかし「日蓮聖人真蹟集成」にも「日興上人全集」にも収録はされていませんね。
1245
:
エル
:2004/04/04(日) 14:41
犀角独歩さん
>なんともはや。すさまじいですね。あそこはいまでもそんなことをやっているのですか。
妙観講というのは私はよく知らないのですが、日蓮正宗では無いのですか?
いちおう妙観講は、
「昭和55年8月、第六十七世御法主日顕上人猊下の御認可によって結成され
た、総本山塔中理境坊に所属する法華講中です。」
となっていますね。ただ、一説によると、創価学会が裏で金を出していて、色
んなスパイ活動をさせている謀略部隊だ。という人もいますね。顕正会とかと、
かなりやりあっているみたいですが。(^^;
>たぶん只道師はこれに拠ったのでしょう。ただし「燃やせ」とは言っていません。
いや確かに。
>中世の垂迹堂では天照大神の御神体の前に、ずらっと絵像、仏像が‘安置’
>され、そこで初座の読経が執行されていたというのは、有師・亨師の記述か
>らすれば導き出せる想像です
ハハ、そうですか。なんとも私どもから見たら、卒倒するような光景ですな。(^^;
1246
:
れん
:2004/04/04(日) 15:00
愚鈍凡夫さん・空き缶さん、こんにちわ。興師弟子の讃岐阿闍梨(水口)日源師の写本の存する本尊三度相伝には「本門寺ノ戒壇ハ西面ニ立ツ可キ也」とありますので、本門寺戒壇は本門寺本堂とは別棟との推測を持っています。本堂には文永十一年の大本尊を掛け蓮師御影と御下文・薗城寺申状を安置する事が大本尊副書と日興上人御遺跡事から推定されます。順師の摧邪立正抄には戒壇には本門大曼陀羅を安置とあります。しかし蓮師も興師も戒壇安置の曼陀羅を書き残してないので、戒壇安置の曼陀羅は時の貫首の書写曼陀羅で良いのではないかと愚考しております。
1247
:
愚鈍凡夫
:2004/04/04(日) 15:09
空き缶さん、こんにちは。こちらは雨です。
もうすぐ満開の桜が散るのではと心配です(酒を呑む口実がなくなるからと誰かが言っているような、いないような・・・・)。
建治元年(1275)といえば、「撰時抄」を執筆された頃ですよね。「御影堂」に御安置申し上げる「正御影」はどなたなんでしょうね・・・・・。
蓮祖が、ご自分の「御影」を造立して、「毎日甲斐甲斐しく給仕して拝め」とは言わないでしょうからね・・・・・。
釈迦牟尼像の場合は「御影堂」とは言わずに「釈迦堂」と言うでしょうし。
それとも、蓮祖には「本堂=御影堂」という図式があったのでしょうか・・・・・。
「だったら、そこに安置する本尊はどれだ? むむ・・・・・っ。眠れなくなりそう」
(-"-;A ...アセアセ
1248
:
愚鈍凡夫
:2004/04/04(日) 15:23
あっ、れんさんどうも。
ただね、先にも引用した日達師の言葉が気になるんですよ。
「その前に、大石寺の本堂並びに丑寅について昨年少々本にして出したことがございますが、それにもある通り、戒壇の大御本尊様は恐らくは昔はこの本堂(御影堂)に安置してありましたように思われるのでございます。
勿論、この只今の御影堂は三百四十年前の建立でございますが、それ以前、これよりも小さな本堂が、この前の二天門と称する門の裏の丁度真正面にあった様に思われるのでございます。その当時からこの本堂には戒壇の大御本尊様が安置せられた様に考えられます。」(「大日蓮」昭和48年2月号)
石山には戒壇堂=本堂=御影堂という図式があるように思うのですが。
戒壇堂と本堂(御影堂)が別棟であるとするならば、本堂に「戒壇之本尊」を安置した理由は何でしょうか。
1249
:
空き缶
:2004/04/04(日) 16:04
れんさん、愚鈍凡夫さんどうもです。
現代におけますところの通説では、「戒壇」とは「僧侶になるための受戒の儀式を執り行う場所」であると思いますが、富士の流儀ではなにか別の意味がありましたでしょうか?
もし通説通りでしたら、戒壇=本堂=御影堂との解釈も可能であると思います。日興上人が宗祖滅後、天台沙門を名乗らずに「私度僧」として振舞われたのは、日蓮門下の正しき受戒の場=本門の戒壇(本門寺本堂?)がいまだ建立されないうちは、私度僧として活動すべきとの思いがあったのではと想像します。
そして日蓮門下の受戒の場には宗祖の尊像(御影)があっても、全く不思議ではないと思うのです。
1250
:
れん
:2004/04/04(日) 16:26
愚鈍凡夫さん。返レスどうもです。しかし、達師が上代の石山本堂に弥四郎マンダラを安置していたと述べたその根拠はいったい何でしょうね。上代石山文献でそのようなことを述べた文献は無いのですが…、また本門寺本堂=本門寺戒壇という定義ならびに思想は西暦1400年代に日尊門流で成立し、恐らく左京日教師によって石山門流にもたらされた「百六箇抄」以前には遡れないのではないでしょうか?少なくとも、これまで管見に入った興師や興師門弟の確かな文献からは、本堂=戒壇という定義は管見では見いだすことが出来なかったのが実状です。m(__)m
1251
:
愚鈍凡夫
:2004/04/04(日) 17:02
空き缶さん、れんさん、レス有り難うございます。
「日興上人御遺跡之事」は、少なくとも日目師の時代には「弥四郎漫荼羅(戒壇之本尊)」が存在しなかったことの証拠の一つになりうると思っています。
それはそれとして、
この書には「日興上人の仰せに依つて支配い奉る事此の如し」とあって、日興師の遺命であることを記しているわけですよね。
そして、「此の旨に背き異義成し、失タラン輩者、永く大謗法に為す可し」との迫力ある脅し文句も添えられているわけです。
それでは、日興師は重須についてはどう位置づけていたのでしょうか。重須・石山両方に三堂を建立せよとの御遺命なのでしょうか。
それと、日達師は何をネタ本にして、ああいった発言をされたのでしょうかね・・・・・。
1252
:
犀角独歩
:2004/04/04(日) 17:48
空き缶さんも久しぶりに登場になって、またなかなか興味深い議論が展開されていますね。
なるほどと今更ながら、思った点がいくつかあります。
愚鈍凡夫さんが仰るように「奉納」であってたしかにこれは安置とは違いますね。
となれば、いわゆる御影式(御影の背に漫荼羅)という奉安形式によることを上代では定まっていなかったことが窺われます。
そこでれんさんが指摘されるよう戒壇堂は西面であるわけですね。
いちおう北山に本門寺根元は本堂で、そのほかに御影堂・垂迹堂が建ったのは、うーん、まあ、史実であろうと思われます。
ところで本堂=戒壇堂という考えはいったいいつ頃に興るのでしょうか。
元来、本堂と戒壇堂は空き缶さんがその用途から指摘されたように役割が違います。
これはまた御影堂もしかりですね。
ところが富士門では戒壇堂と本堂が中世から同一に論じられたうえ、さらに本堂と御影堂が一体化していきます。この解釈の変遷にはかなり時間の流れがあるわけでしょうね。
まあ、、本堂と御影堂の一体化、さらにはその一体化堂宇を戒壇堂としてしまった精師の建立は、原意からすれば飽くまで略式伽藍ほかならないことになります。
また、西面ということで直ちに想起されるのは五重塔なのであって、精師が本門戒壇本堂として御影堂を建立して、その伽藍整備の延長で建立されたこの西面の堂宇は相伝文から解釈すれば、まさにこちらこそ戒壇堂ということになるのでしょうか。そうとは思えないので単に別の思惑なのでしょうね。現石山アナウンスでは仏法西還を表すんだそうですが、わたしは五重塔は宝塔品の涌現宝塔を表す故に法華経の説相に併せて西面なのであろうと考えます。
これはまた近代に属することですが、正本堂は現時における事戒壇であるという意義付けであったわけですが、しかし、南面です。相伝を知ってか知らずか、はたまた無視したのか。これを杜撰というか、いい加減というか、どうも石山住職の考えることは理解に苦しみます。また、正本堂を事檀建立と意義づけていた学会も、何故、設計段階でこの点を指摘しなかったのか疑問が残ります。
それより何より、愚鈍凡夫さんが仰るよう、達師は何を根拠に御影堂に当初、弥四郎漫荼羅が安置されたと言ったのでしょうか?
何の根拠もなく言ったとは思えないんですが。それでも「まさかりみたいな手斧」という古い道具を使っているだけで鎌倉時代の作と決めてしまうほど短絡的なことも言うわけですから、この辺はどんなものでしょうか。
1253
:
犀角独歩
:2004/04/04(日) 18:45
1245 エルさん:
> 妙観講…日蓮正宗
ええ、そうです。
でも、石山といっても何も一枚板ではありません。
中途から要山義も加わりますし、昔はそれぞれの坊さんが弟子を取っていたわけですから、その法系の流れがあり違いもあります。
だいたい内事部と宗務院でも考え方針は違います。
妙観は達師の名前で、越洋さんの代でもその名前を使っているわけです。
> 卒倒するような光景
それが近代までの石山の実像なのでしょう。しかし、それでも現代の異常さからすれば、卒倒しそうになっているのはいつも周辺です。
なお、有師、亨師が奉納された絵像・仏像などの管理を言うのは法義上の理由ばかりではないと思います。紙幅の漫荼羅と違って絵や像は美術的、骨董としての価値もあるわけです。ですから、「これは謗法」と言って奉納させて「燃やしました」と言いながら、裏で売却して利を上げることはできるわけです。ですから、このような嫌疑を掛けられないために一切を見えるところに安置し身の潔白を示す必要性はあるでしょう。
その意味において有師、亨師の判断は実に常識的であるとわたしは思います。
1254
:
みかん
:2004/04/04(日) 19:01
大石寺において戒壇堂と本堂が混同されている件については、一昨年かいた未発表の文章で考察したところですが。
> 現代におけますところの通説では、「戒壇」とは「僧侶になるための受戒の儀式を執り行う場所」であると思いますが、富士の流儀ではなにか別の意味がありましたでしょうか?
日蓮の本門戒壇構想は、南都の小乗戒壇院、叡山の(迹門)大乗戒壇院に継ぐ戒壇院として構想されたはずです。
ご存じのように、本門寺の戒壇堂たるべき「正本堂」を、「正本堂」と名付け、僧侶の授戒の場ではなく、大人数の一般信徒の戒壇板曼荼羅への参拝の場所として使用していたわけです。
これがどこから来るのかですが、富士門流史に詳しくない私にはよくわかりませんが、
三大秘法禀承事(私は偽書だと思います)の
「三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釈等も来下して・給うべき戒壇なり」
という記述が、戒壇堂を、僧侶の授戒の場という本来の意味ではなく、一般信徒の修行の場という解釈に変えてしまった原因であろうと思います。
1255
:
エル
:2004/04/04(日) 19:21
犀角独歩さん
>その意味において有師、亨師の判断は実に常識的であるとわたしは思います。
いや、確かに確かに。なかには国宝級の、一級資料に値するようなものも含ま
れているかもしれませんからね。
これ以上は「なんでも鑑定団」の世界になってきますので、控えさせていただ
きます。m(__)m
1256
:
犀角独歩
:2004/04/05(月) 04:59
みかんさん:
> 大石寺…戒壇堂と本堂が混同…未発表の文章で考察
是非とも拝読したいところです。
本堂と御影堂の一体化はたとえば、池上本門寺も戦災の焼失後の再建でそうなりました。つまり他山でも例のあることですね。
しかし、御影堂と一体化した本堂が戒壇堂というのは尋常成らざることですよね。
これが石山では精師の時代にまず起きた。それでも弥四郎漫荼羅を宝蔵に引っ込めていったんは収束させる。けれど、「現時における事の戒壇」正本堂といい、今度は御影堂とは切り離した形でまた復活した。けれど、それを取り壊して奉安堂といい、名前と意義付けばかりの内拝で、実質公開の堂宇を建立。
実際のところ、正本堂にしても、奉安堂にしても、石山観光の目玉に過ぎないわけですから、真面目にその意義を考えること自体ナンセンスですね。
しかし、元来、通仏教では意義を異にした本堂、御影堂、戒壇堂が、石山ではどんなふうにアレンジされ、右に左にされてきたかを俯瞰することは、その欺瞞性を割り出すためには必要な作業であると思えます。
みかんさんの考察に期待します。
1257
:
空き缶
:2004/04/06(火) 00:55
皆さん、こん○○わ。
大石寺には上代と現在、本堂が無いのですね。
日精師の代と創価学会と一緒にやっていた時には「本堂」(正本堂)と呼べるものがあった。
しかし、一宗の総本山に本堂が無いというのも変わってますね。
やはり国主が本門寺を建立する日まで、本堂は置かないという事でしょうか。とすると、本門寺本堂=本門戒壇というのが大石寺側の解釈とも思われますが、いかがなんでしょうか。
1258
:
犀角独歩
:2004/04/06(火) 06:10
1257 空き缶さん:
れんさんも指摘されていますが、御影堂棟札には「本門戒壇本堂」と記されているわけです。つまり、御影堂がその時代から現代に至る一貫した本堂なのではないでしょうか。
ただし、それに拘わらず新たに本堂を建て足したので、こっちが正しい本堂、正本堂という不可思議な名前を付したのでしょう。
こうなると、自寺の歴代である精師が本堂としたものを邪な本堂と言ったも同じです。
何故ならば、正しいの反対が邪であるというのが石山一般の用語用法だからです。「正邪」というやつです。ぜんぜん考えずに命名していると思うわけです。
1259
:
エル
:2004/04/06(火) 15:52
愚鈍凡夫さん
> エルさん、天拝の件ですが、いつ頃から朝のみになったのか調べてみても分か
> りませんでした。
愚鈍さんが調べても分からなかったということは、文献に関しては残ってない
のかもしれませんね。
> この書が真蹟であるならば、日有師のころには既に日天中心の天拝になっていたのかもしれませんね。
了解しました。いろいろとありがとうございました。(^o^)
1260
:
愚鈍凡夫
:2004/04/07(水) 08:10
エルさん、お早うございます。
レスを下さったことに気づきませんでした。
> 愚鈍さんが調べても分からなかったということは、文献に関しては残ってない
> のかもしれませんね。
そんなことはありません。小生の知識は僅かなものです。それに資料を調べる方向性が間違っているのかもしれません。
だから、エルさんが調べていけば、目的とする資料に行き当たるかもしれません。
1261
:
福田里敏
:2004/04/09(金) 18:32
堀日亨著「身延離山史」を読んでいるのですが、この中で、立像釈迦佛と久成釈尊木像について触れられているのですが、この二体の違いは、何でしょうか?よろしく、お願い致します。
1262
:
犀角独歩
:2004/04/09(金) 19:29
1261 福田里敏さん:
はじめまして。いま、書棚を見たのですが、あったはずの該当書がどこに行ったのかわかりません。該当の文書を抜き書きしていただくとお持ちでない方も考証の便宜に充てられるのではないでしょうか。
あくまで、成句からだけですが、
> 立像釈迦佛
興師『宗祖御遷化記録』にある
「一御所持仏教の事 御遺言に云く。
仏は釈迦の立像、墓所の傍に立て置く可し云云」
という随身の一体仏。
> 久成釈尊木像
とは、蓮師『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』にいう
「未有寿量仏 末法来入始此仏像可令出現歟」という「現折伏時成賢王」が出現して立てる「一閻浮提第一本尊」のことというのが門下教学共通の認識であろうかと存じます。
尤も亨師は石山義からこれを敢えて漫荼羅本尊と会通しているのでしょうか。
しかしながら『三時弘経次第』には
「本門の寺 付属の弟子 上行菩薩 日蓮聖人。 冨士山 久成の釈迦仏 本化垂迹の師檀 末法。 垂迹神 (天照太神八幡大菩薩) 当御代」
とあり寛師説・人法本尊=弥四郎漫荼羅は成り立ちません。
富要中の中世の文献を追うと「久成釈尊」とは要山義の如くであり、意味するところは、本門寺建立の時、建立すべき仏像を言います。これを先だって立ててしまった尊師を批判するというのがその用法です。
以上、『身延離山史』を手放しで記しました。
本文をお持ちの方の解説を待ちます。
1263
:
福田里敏
:2004/04/09(金) 20:00
犀角独歩さん。お久し振りです。本門法華堂の福田です。と、いっても、法華堂からは、離れましたが・・・
独歩さんのおっしゃるとおりです。なるほど、久成釈尊木像とは、曼荼羅本尊と、理解していいのですね。てっきり、釈迦像とは違う、釈尊木像でも、あるのかと、思っておりました。
堀上人は、原殿書を提示した上で、「一般に立像佛の執着があまりにも強いので此に対する方便として久成の釈尊を揚げられたのである、始成無常の小乗教の単己一体佛の立像佛を暫く破排して久成教主釈尊が聖人の本懐法華本門の妙法五字七字に即する本佛と仮定せられて此が宗門の目的、人本尊との様に仰せられた、本書には四菩薩脇士の事を云って無いが五人所破事や門徒存知の追加には四菩薩を添加して本化的に改めよとは興師御自身の御説と成っておる、此には五老側の追随もあったのであるけども、立像佛の余炎は中々消えなかった」
1264
:
福田里敏
:2004/04/09(金) 20:09
その直後に、堀上人は「立像佛の再建を止むる為に久成佛を持出し其が出来上るまでは御筆の曼荼羅を暫用せよなんどはさぞかし御意苦しい事であったろうが、波木井一族の中に対しては其すら能くこそ云えた全く自分の力でない大聖人の御冥加であると自賛せられておる。」
と述べられております。
1265
:
犀角独歩
:2004/04/09(金) 20:16
あ、福田さん?、そうでした。「はじめまして」もないものでした。失礼しました。
> 久成釈尊木像とは、曼荼羅本尊
というのが亨師の説であろうと類推したと言うことです。
富士では「三大秘法の時は久成釈尊を以つて本尊とするなり法の本尊を以て事行の南無妙法蓮華経と名くる」とくるわけですから、そうなるでしょう。
勿論、わたしは反対の立場です。
1266
:
福田里敏
:2004/04/09(金) 20:37
犀角独歩さん。今回も、ありがとうございました。
また、何かありましたら、よろしく、お願い致します!
1267
:
犀角独歩
:2004/04/09(金) 20:39
> 1266
いえいえ、どういたしまして。
何せ資料手放しですので、お礼には及びません。
もっと適切な解説をなさる方はいらっしゃると思います。
1268
:
みかん
:2004/04/20(火) 20:07
素朴な疑問です。どなたかお教え頂ければ幸いです。
1)随身仏はその後どうなりましたか
2)南部(「みなべ」とも読める)と身延(みのぶ)は語源的関係がありますか
3)富士山本宮浅間大社と日興門流寺院にはどのような交流、関係がありますか。
1269
:
顕正居士
:2004/04/25(日) 01:39
>>1266
みかんさん。
1 随身仏(立像釈尊)は法華宗陣門流の本禅寺にありますが、今のがほんものか否かは
わかりません。重文などの指定はないようです。
「立像釈尊について」
http://www.hokkeshu.com/hoto/028/028_ryuzo.htm
2 南部と身延は無関係でしょう。ア→オ、エ→ウという変化は生じにくい。みのふ(蓑夫)
→みのぶ(身延)そのほかの説があります。
3 浅間大社
日源、日興の実相寺は末代上人が開基し、富士山信仰と密教が習合し、富士山を「大日蓮華山」
と呼んだ。
「末代上人について」
http://www.izu-higane.jp/kenkyu/uenishi.htm
実相寺の富士山信仰は日蓮宗の富士派(興門流)に精神的には継承されているはずですが、
富士登山などの具体的な行法は聞きませんし、浅間大社との関係についてもわかりません。
また神仏判然令(廃仏毀釈)以前の神仏習合のすがたは今は急速に忘却されているようです。
1270
:
菱村正敏
:2004/04/26(月) 07:26
横レス失礼。
>日源、日興の実相寺は末代上人が開基し、富士山信仰と密教が習合し、富士山を「大日蓮華山」
富士山を「大日蓮華山」と呼んだという出典先を教えてください。
1271
:
犀角独歩
:2004/04/26(月) 08:50
> 1270
富要10巻内に限る検索に過ぎませんが
産湯相承事
日蓮は富士山自然の名号なり、富士は郡名なり実名をば大日蓮華山と云う
五人所破抄
富士とは郡の号、即ち大日蓮華山と称す
百五十箇条
興仰に云く…大日蓮華山相応の故なり
類聚翰集私
日蓮は富士自然の名号なり富士は郡の名なり、実名をば大日蓮華山と云ふ
日蓮・夜は白蓮・日神昼・月神は夜、爰を以て重須の鎮守は八幡大菩薩・月よみの御神なり、師弟共に以て大日蓮華山と自然の名号なり
東方有小国・唯有大乗種姓の日本国の駿河富士郡大日蓮華山より本門の戒壇院立つて、あまふの原に六万坊立て…
駿州富士郡の大日蓮華山・先師自然の名号有る山の麓・天生原に六万坊建立有るべし差図の様を付属の事。
六巻抄文底秘沈抄第二
神道深秘二十六に云わく、駿河國大日蓮華山云云。
凡そ富士大日蓮華山は日本第一の名山
日蓮の二字の事
富士は郡の名、実には、大日蓮花山と名くる
富士は大日蓮花山なり
臨終用心抄
寛延元戌辰暦八月廿七日在山之砌り書写し奉り畢んぬ。
大日蓮華山門流優婆塞 了哲日心
五人所破抄見聞
南贍部洲第一の山に最も本門の事の戒壇可き在る建立大日蓮華山也
富士と者郡の号、即称す大日蓮花山
六人立義草案(日要)
冨山は大日蓮花山と号して日天能住の山也
申状見聞私(日我)
法花本門の戒壇大日蓮華山也
観心本尊抄文段上
戒壇の霊場をば大日蓮華山と名づく
撰時抄愚記上
山は則ち大日蓮華山
取要抄文段
神道深秘 二十六 に云く「駿河の国には大日蓮華山」云云
取要抄文段
神道深秘 二十六 に云く「駿河の国には大日蓮華山」云云
日順詮要抄…駿河国富士山に本門の戒壇立つ可きなり。富士山を天下晴れて大日蓮華山と云うなり
当体義抄文段
大日蓮華山と名づくるなり。この名は神道深秘二十六に出ず。
寿量品談義(日寛)
大日蓮華山と云ふなり。是れ則ち山の
頂き八葉の白蓮花に似たる故なり。三国伝十二(終往)見又陰長記下学集云云
日蓮大聖人守護の神明は日の神、国は大日本国、処は大日蓮華山
続家中抄
広瀬本城創草記に云く(詳師御筆)
南閻浮堤大日本国駿州多宝富士大日蓮華山大石寺末流
観心本尊抄首日相聞書
大日蓮花山なり。故に能居の人亦日蓮と名づくるなり、是の如く重々大事の法門口外すべからず
富士大石寺明細誌
末寺大日蓮華山、下之坊
1272
:
菱村正敏
:2004/04/26(月) 17:02
富士山の呼び名については、興味があります。
富士山は様々な呼び名がつけられていますが、私の考えるところで
は大日蓮華山という呼び名は日蓮正宗系のみで通じる富士山の呼び名
のような気がしています。
富士山−史話と伝説− 名著出版 という本には富士山の別名が
「富士山由来記・富士山縁起・秘中抄・秘名抄・遊方所略・駿国雑
志・類聚名物考・藻塩草」などから取り上げられて百数十ほど掲載
されています。ただし、大日蓮華山という呼び名は掲載されていま
せん。
ただ、確かに叡山文庫にあった神道深秘の写本には「大日蓮山」と
ありましたが、最澄に仮託されたといわれる神道深秘の原本?に
「大日蓮華山」とあるかどうかは不明です。
もし、地名呼び名などの汎用的な一般書において富士山が
大日蓮華山と呼ばれている旨を述べているものがございましたら
お知らせください。わたしは見つけることが出来ませんでした。
で、呼び名というのは案外と伝承されていくものと承知しています。
わたしは富士山の呼び名として「大日蓮華山」が人々のあいだでは実
質的には伝わってはいなかったような気がいたしますが、いかがですか?
1273
:
顕正居士
:2004/04/26(月) 19:20
>>1272
菱村さん。ひさしぶりでございます。
大日蓮華山あるいは八葉蓮華山というのは本地垂迹の上からいった美称で、日常にこう呼ばれた
わけではないとおもいます。「日蓮」とは元来無関係でありまして、胎蔵界・大日如来の中台・
八葉院に富士八峰をたとえたのです。八峰の名はもと中台八尊でしたが、神仏判然の令によって
今の名称にあらためられました。富士山の興法寺と浅間神社の関係は仏主神従で輪王寺と東照宮
の廃仏以前に似ていたのでないでしょうか。
「富士山の廃仏毀釈」
http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/bunka/furufuji10.htm
室町時代の「富士曼荼羅」の山頂の部分に「大日蓮華山」とあったと覚えていますが、写真が
小さいので確認できませんでした。
「富士曼荼羅」
http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/bunka/man.index.htm
末代が山頂に大日寺を建立したのが本地垂迹の富士山修験のはじめと伝承しているのですから、
「大日如来の八葉蓮華の山」というのは信仰のとおりの名であります。
1274
:
菱村正敏
:2004/04/26(月) 21:53
どうも。顕正さんもご無事な様子、何よりです。
さて、富士山には表大日裏薬師という言葉があったようで・・・。
これも何度か書いたことがありますが、富士山は大日堂や薬師堂という
のがあったところに、富士信仰という庶民信仰もかぶさっていたと思い
ます。
富士信仰は時代の流れのなかで大小強弱はあったかもしれませんが
過去より民衆から支持されたものの一つだと認識しています。
それでもし、「大日蓮華山」という呼び名がいわゆる富士信仰という
庶民信仰のなかで使われていたら、もう少し一般的な地名本にに残って
いたのではないかということを考えています。ところが、実際のところ、
日蓮正宗系のなかでしかこの呼び名を見つけることができませんでした。
果たして「大日蓮華山」がいわゆる広い富士山信仰によっても呼ばれて
いた名前なのかどうか・・・。
もちろん、大日如来を中心とした富士八峰は芙蓉八朶とも呼ばれて
蓮華云々も了解するところですが、それがダイレクトに呼び名になった
とするのは日蓮正宗系だけのもつスジ書きではないかなと考えています。
1275
:
地名
:2004/04/26(月) 22:22
八須日忍師の本には以下のように記されております。ご参考の一助まで。
「大石寺廿六代日寛は六巻抄の文底秘沈抄の本門戒壇篇に「霊山浄土とし何処を指すや」
中略
「三には謂く大日蓮華山と名る故に、神道深秘廿六に云く。…神社考二に云く富士縁起に云く…」
中略
「大日蓮華山とは林羅山が「神道秘伝」(寛師の「神道深秘」は間違いと)に大日如来の蓮華の山と云い、「峰は八葉の蓮華に似たる故に蓮華王山と名く、不動・文殊・薬師・観音・阿弥陀・大日・経ヶ嶽と云い真言の金、胎両部曼荼羅と卜部兼倶の十八神道即ち吉田神道により大日蓮華山は命名されたものである。…神社考も…羅山り著書である。」「…富士縁起(吉田十二部神道)…」と。
1276
:
菱村正敏
:2004/04/27(火) 04:30
>「三には謂く大日蓮華山と名る故に、神道深秘廿六に云く。…神社考二に云く富士縁起に云く…」
ありがとうございます。と言うことは
林羅山の神道秘伝あるいは神社考、それと富士縁起というもののなかに
「大日蓮華山」というものとして記されているということを日忍という人
が披露しているということでしょうか?
それから、「日寛の神道深秘は間違い云々」とは何を意味しているのか
良く分かりません。もし、その辺をご存じならお知らせください。
1277
:
地名
:2004/04/27(火) 05:50
菱村さん
八須日忍師の編著者兼発行者「創価学会に答う」昭和38年・辻説法会発行所のP189〜190、P144〜148に記されている部分を摘記しました。
P147に「更に面白いのは「大日蓮華山」だ。「神道深秘に云く」と云うが「深道深秘」(私注:深道は神道のタイプミスかと思います)とは誰の著書か、これは「林羅山」が書いたもので元の名を「神道秘伝」と云う、之を日寛が世をゴマカス為めに「秘伝」を「深秘」とすりかえて引用したので「深秘」なんと云う本をいくら探してもない。漸く「神道秘伝」に同文があった。」とあります。
私自身は林羅山の著書には当たっておりませんので、上記のように略して記しました。失礼いたしました。
1278
:
翡翠
:2004/04/27(火) 13:39
横からスミマセン。
菱村氏のレスにもありましたが、寛尊が閲覧された「神道深秘抄」は最澄選で
はないですか?
こちらの1117番にありますね。
http://www.zenbunka.or.jp/05_databases/wakan/wakan_tosho3.htm
ただし、この中に大日蓮華山という名称が出てくるかどうかは知りません。
1279
:
菱村正敏
:2004/04/27(火) 21:01
神道深秘なる書物(ただし写本です)は叡山文庫で閲覧させて
もらったので、存在していたのは確実です。もう記憶だけですが
たぶん天台宗典籍集?か何かを調べていたときに神道深秘が叡山
文庫に収められていることを知って、当文庫を訪ねたものでした。
わたしが閲覧した当該写本には先に書いたように「大日蓮山」と
の記述で富士山が紹介されていました。
1280
:
菱村正敏
:2004/04/27(火) 21:12
追加
ちなみに、神道深秘は当文庫の好意にあまえてコピーさせて
いただきました。最近は日蓮系に興味が失せたこともあり、こ
のコピーもメモ用紙にしています。一部分はすでに使用し捨て
てしまっているかもしれませんが、これを機に必要な方がいら
っしゃいましたら、お申し出いただければ差し上げますよ。
1281
:
地名
:2004/04/27(火) 21:55
1279 菱村さん
>ただ、確かに叡山文庫にあった神道深秘の写本には「大日蓮山」と
>ありましたが、最澄に仮託されたといわれる神道深秘の原本?に
>「大日蓮華山」とあるかどうかは不明です。
「神道深秘」(写本)には「大日蓮山」とあるのですよね。
林羅山にどのように記されているか調べてみます。少しお時間をください。
下記の早坂師も八須師と同様のように言われていると思われます。
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/03/03_086.htm
ご指摘、大変勉強になりました。
1282
:
みかん
:2004/04/28(水) 02:12
>>1269
顕正居士さん
大変参考になりました。ありがとうございました。
>> 菱村さん
林羅山の当該文献は、「神道大系論説編20」に載っているかもしれませんが、
最近図書館に行ってませんので確認できません。
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN02590727
>> 地名さん
八須日忍さんという方はどういう方か判りますでしょうか。
1283
:
菱村正敏
:2004/04/28(水) 05:31
林羅山の本朝神社考はみたことがあります。ただ、そのような
文言を調べるためにみたわけではないので・・・。何かのおりに
わたしも見てみましょう。神道秘伝・富士縁起はみてませんが探
してみます。
ただ、文底秘沈抄のなかの文脈としては
「神社考四−二十に云わく、富士縁起に云わく、孝安天皇九十二年六月
富士山涌出す、乃ち郡名を取って富士山と云う、形蓮華に似て絶頂に八
葉ありと云云。」
上から想像するに神社考・富士縁起ではその地の郡名から「富士山」と
呼称されたということを述べるにとどまり、両書は大日蓮華山と呼称され
たことを示すものではないような気もします。
1284
:
犀角独歩
:2004/04/29(木) 12:38
「大日蓮華山」語は『産湯相承書』が初出ということになるのでしょうか。
では『産湯相承書』の初出は、となると、教師の『類聚翰集私』(1488年成立)と言われるようですが、道師『御伝土代』に酷似する記述が散見できます。
『産湯相承書』の成立をいつに見るのか、取り分け、「大日蓮華山」の記述部分は何時の時代であるのか、実に興味が惹かれます。
1285
:
地名
:2004/04/29(木) 17:17
富士山と大日蓮華山について、少しずつですが各種資料より摘記させていただきます。
「富士信仰の成立と村山修験」遠藤秀男氏、地方史研究家、富士宮市
「1.富士信仰のはじまり
古代における富士信仰は、おおよそ『万葉集』にうたわれた讃辞で言いつくされているが、なかでも富士山を女神としてとらえた『常陸風土記』によって、その原初的発想をとらえることができる。…富士山は美しいが心冷たい女神で、祖神尊(みおやのみこと)が一夜の宿を求めた…すげなく断る…そこで尊(みこと)は筑波岳に出向いてそこで…饗応をうけた…反対に富士山には…雪をふりつもらせて…しまったという。…富士山は『駿河国福慈岳』(ふじ)と記されて、人びとの関心をひきながらも近づきえぬ美女として、ひとり東海…に凝立してきた…。
だが、それを万葉人はもっと現実的に、…生活…感覚の中から…とらえようとしていた。その例…
巻三雑歌部
「大和の国の 鎮(しず)めとも 座(いま)す神かも 宝とも 生(な)れる山かも 駿河なる 不尽(ふじ)の高嶺は 見れど飽かぬかも」
山部赤人の長歌
「天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺を 天の原 ふりさけ見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見へず 白雪も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける」
…いずれにしても富士山は神そのものであり、人間の足跡などとうていおよばない神秘神霊の高岳であることで一致していたのであった。
そのため、富士山を表記する文字もさまざまに用いられており、前記の福慈・不尽・布士のほか、不時・不自・富岻・浮士など、奈良時代から平安時代の初期まで、さまざまな字音をあてていたのであるが、そこにもおのずから字義がこめられていて、不時(季節はずれに雪がふる)とか不尽(一年中雪が尽きない)など、『常陸風土記』の延長を思わせる伝承が息づいていることを見逃せない。
中略
だが、それだけで富士信仰のすべてを語りつくすわけにはいかない。山体そのものを神とみたてたおおらかな時代が過ぎて、人智が発達してくると、山そのものが持つ荒々しいエネルギーや神秘感に対して畏怖の念を抱くようになり、そこに祈る姿が生まれてくるからだ。祈りはやがて山中に祀堂を建て、それを通じて神と人との融和をこころみようとする積極さに移行していく。その動きがつぎにのべる「浅間神社」の成立と「大日堂」の建立にかかわってくるのであるが、じつは富士山の場合、こうした動きのひきがねになったものは、噴火というまことに物理的、現実的な胎動であった。
中略
1286
:
地名
:2004/04/29(木) 17:21
同書より続く
2.末代上人の富士登頂
(イ)末代以前(富士山記)
富士山に山岳仏教を最初にもちこんだ人物は、いったい誰であったろうか。それについては古くは、必ず役の行者を嚆矢として取りあげているが、現在の学問ではそれを事実とは信じていない。…夜になると海上を走って…富士山頂で修行して帰ったという『日本霊異記』に拠っている。…
ところが、平安時代にはいって富士山頂をきわめた者がいたことは、『本朝世紀』の久安5年(1149年)の条に末代上人が山頂に大日寺を建立したという記事があることで知られている。彼こそ富士山を仏化して、山中練行の霊場にもりたてていった。“富士修験”の先駆者であり、自他ともに高い評価を与えねばならぬ人物であるが、それに先だつこと290年ほど前に、すでに山頂まで登攀した者があったことを示す記録が残されている。それはまことに驚くべきことであったが、貞観6年の大爆発の直後にまとめられた文献で、書きしるした者は京都の文人、都良香であったという点において、登山事実は、地元の人間が異常な興味をもって噴火のあとをたどってみた結果の報告であったろうと考えられる。
良香の死は元慶三年(879年)であり、記録はその4年前まで書き続けられていることから、おおよその年代推定は可能であるものの、報告者の何たるかについては、まったく言及されていない。…中略…なぜなら富士山について二人の国司は、それぞれつぎのように記述しているからである。
駿河国宮、富士郡正三位浅間大神大山火
甲斐国宮、駿河国富士大山忽有暴火
つまり富士山を見る目は、当時ほとんどの者が「駿河なる富士」と決めてかかっていたことを示している。そうした考え方を踏襲して、良香の『富士山記』も、「富士山者在駿河国」と書き出し、「山名富士取(富士)郡名也」と断定しているのである。
1287
:
地名
:2004/04/29(木) 19:22
同書より続く
(ロ)末代上人と村山
末代上人は、またの呼称を“富士上人”ともいわれた。それは彼が富士登山を数百度して、山頂に大日寺を建て、はては鳥羽法皇の帰依をうけて宮中の諸士から大般若経の書写をしてもらい、それを山頂に埋経した実績によるものである。その間の事情は、『本朝世紀』久安五年(1149年)の条に明らかであり、…
「久安五年四月十六日、丁卯、近日於一院、有如法大般若経一部書写事。卿士・大夫・男女・素緇多営之。此事、是則駿河国有一上人、号富士上人、其名称末代、攀之大日登富士山、已及数百度、山頂構仏閣、号寺。」
その大日寺はどの程度の規模であったか、後世まったく記述に接しないが、現在浅間神社の奥宮のある位置を明治以前は“表大日”(おもて)と呼んでいたので、おそらく登山道を登りつめた所にこうした祀堂をもうけて、入峯(にゅうぶ)中の修行拠点または山神定置の場にしたのであったろう。山神は、この頃、浅間大神に代わって、垂迹仏である大日如来が、全山を統治するものとしてかなりの比重をもって祀られていた。だが、そこにいたるまで、末代も本地垂迹の融和についてかなり苦悩していたとみえて、浅間大神=浅間大菩薩=大日如来というつながりの解明に多くの歳月を費やしている。その間の事情を『地蔵菩薩霊現記』によってみると、
「垂迹浅間大菩薩、法体は金剛昆廬舎那の応作、男体に顕れ玉ふべきに、女体に現じ玉へり。然れば即本迹各別なれば、末代に不信の衆生多くして、二仏の中間に迷ひ、済度も又覚束なく思し(おぼし)奉る。所詮我捨身(しゃしん)の行を修め、後代の不審を晴さんと思立て、御岳の半に座して、樹下石上にして、百日断食して、正しく神体を拝み奉とぞ祈りぬ。」
つまり、浅間大菩薩は男体であるはずなのに、コノハナサクヤ姫(女神)を山神と祀る神社側と大きく相違していたのである。そこで百日の断食をこころみることになり、その満願の日暁、虚空から声が伝わってきて「汝のいる所から東南に百八歩すすみ、谷下を掘れ」と教えられる。その結果彼が得たものは、富士山にそっくりの形をした水晶であった(そこを後世、水晶ヶ岳と呼ぶ)。
心の迷いは晴れた。神仏は男女を超越した世界に住みたもうものであると覚った時、はじめて彼は庶民の絶対的崇拝をうけることになったのである。その後……
「その身は猶も彼の岳(富士山)に執心して、麓の里村山と白(もう)す所に地をしめ、伽藍を営み、肉身を斯(ここ)に納めて、大棟梁と号して、当山の守護神と現れ玉ふ。」
というごとく、富士宮市元村山に居を占めて活動を続け、ついには即身仏(ミイラ)となってまつられるにいたるのである。彼を祀った建物は「大棟梁権現」と呼ばれ、江戸時代後期の地誌『駿河国新風土記』は、
「大棟梁と号し此山の守護神となるといへる社、今に村山浅間の傍に大棟梁権現の社あり。村山の三坊の山伏辻之坊は浅間社、池西坊は大日堂、大鏡坊は大棟梁権現と分て別当なり。」
と報告している。」
1288
:
地名
:2004/04/29(木) 21:49
同書より続く
「このように死後まで尊崇されて富士山の守護神とたたえられた末代は、いったいどのような素性の人だったのであろうか。まず『駿河国新風土記』の著者は、彼は駿河の人であるとし、「此人はじめ伊豆山に住し、今に伊豆日金山にその旧跡あり」と述べている。また『地蔵菩薩霊現記』は、彼が伊豆で“走湯”(はしりゆ)などの噴火炎熱の地獄をみて庶民の救済を思いたった、と書いており、富士登山に命をかける以前の末代の姿をしのぶことができる。…
そのうえ駿河の岩本に実相寺を開基した智印上人と特別な関係になっていた。実相寺は富士川に間近く、東海道の要所にあたって建てられた古刹であり、智印は京の人。それゆえ久安年中に当寺を建てるにあたって、鳥羽法皇の院宣による霊像を安置したというほど、中央とのつながりは緊密であった。その智印との関係は、つぎのとおりである。
「第一最初院主上人(智印、世貴言阿弥陀上人)者、鳥羽仙院之御帰依僧、末代上人之行学師匠也。」(文永五年、日興上人筆「実相寺衆徒愁状」による)
つまり末代はこの智印を師として見聞を広め、修行と布教につとめながら、富士山を征服していったのであり、実相寺が完成した久安年中には、すでに世人に認められる大日寺の建立など、めざましい活躍をしていたことになる。したがって実相寺建立にあたって彼の協力は絶大なものがあったろうと推定されるし、前記の如法経を富士山頂に埋めた行為もこれと無縁ではなかったろうと思われる。ともあれ、末代上人はそれまで神の山であった富士山に山岳仏教を導入して、麓の村山に修験者の居住する僧房を建て、興法寺や大棟梁権現など、後世の“富士修験”の基本的形態を完成したのであった。しかも彼はミイラとして残され、彼の行徳を慕う者達によって、ますます富士山は(師匠の智印が阿弥陀上人と尊崇されたと同じように)浄土信仰の色彩を強め、そこにいたる時は現世安穏と来世の極楽が約束される霊山として、定着していったのである。」
1289
:
地名
:2004/04/29(木) 22:15
同書より続く
「三 村山修験と富士行
(イ)富士行と頼尊
末代上人の流れをくむ者達が、ひき続く鎌倉時代にどのような行動をとっているかというと、具体的には「埋経」と「富士行(ぎょう)の創始」と「仏像寄進」という三点において、いささかなりとも解明していけそうである。…中略
…山頂に建てられた大日寺ゆかりの大日如来が、山中仏化の重要なにないてとして造立寄進されている…。
現在富士宮市元村山に保存されている大日如来のうちで最古の銘があるものは、先の埋経から40年後の正嘉三年(1259年)に北条時頼が寄進したという伝承が付随しているものである。村山浅間の社伝によれば、この年諸国に飢饉や疫病があいつぎ、群盗が各地にはびこったため、天下泰平を祈願して社殿を修理し、この仏像を造立寄進したという。…それと同時に、これと時を同じくするように日蓮上人が(末代の師匠智印が建立した)実相寺の経蔵にはいって、一切経論の研究にとりくみはじめたのである。その結果「立正安国論」が著述されて、日本の宗教界に大きな変転を現出していくのであるが、こうした揺れうごく時代に、富士信仰は着実に庶民の中に浸透していた。そのあらわれは、正嘉三年の仏像から58年ほど過ぎた文保年中(1317~9年)村山では“富士行”(ぎょう)というものが組織され、その頭主に頼尊という修験がおかれているのである。富士行とは簡単にいえば、富士山中にこもって修行する行為をただ山伏修験だけにまかせず、一般人が参加して自ら“行”をおこない、霊力または法力を得ていくべきだとするものであった。」
1290
:
地名
:2004/04/29(木) 22:43
同書より続く
「富士山中奉納物一覧
年号 奉納物 場所 銘文(抜粋)
1.正嘉三年(1259年) 大日木像 南口村山 敬白奉造立倶金頭大日如来壱体、願心聖人覚尊
2.至徳元年(1384年) 古鏡 須走口六合 略
3.文明十年(1478年) 大日木像 南口村山 奉造立金剛界大日尊形再興、大宮司前能登守忠時
4.文明十三年(1481年)不動明王 南口村山 略
5.延徳二年(1490年) 大日鉄像 頂上剣ガ峰 略
6.明応二年(1493年) 十一面観音 頂上東斎の河原 略
7.明応四年(1495年) 大日鉄像 頂上大日堂 略
8.文亀三年(1503年) 大日懸鏡 頂上釈迦割石 略
9.大永八年(1528年) 大日如来 頂上東斎の河原 略
10. 天文三年(1534年) 中宮社棟札 吉田口五号 略
11. 天文四年(1535年) 大日懸鏡 吉田口五合五勺 略
12. 天文十二年(1543年)大日如来 頂上剣ガ峰 略
13. 天文廿二年(1553年)地蔵 吉田口五合五勺 略
14. 永禄三年(1560年) 大日懸鏡 吉田口五合 略
15. 天正十九年(1591年)大日懸鏡 南口八合 略
(駿河志料・駿国雑誌・村山史料などより)」
1291
:
地名
:2004/05/01(土) 07:37
富士浅間神社 火の山だった富士山:そもそも富士という山名はアイヌ語で火を意味する「フチ」に由来するといわれている。なお、「アサマ」という口葉は、長野県の浅間山に眼らず、火山を意味し、富士の山神に対し「浅間大神(あさまのおおかみ)」と命名している。後世、浅間大神は、木花開耶姫(このはなのさくやひめ)と同一視された。浅間神社の祭神である木花開耶姫は、山々を司る神様である皇孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)の皇后である。/「せんげん」と「あさま」:古い祝詞では、浅間神社と書いて「あさまのじんじや」と読ませている。江戸時代に入って、いつとはなしに「せんげんじんしや」というようになったが、いまでも正式の社号は「あさまのじんじゃ」である。なお、「浅間」と「先現」の文字の誤用から、浅間が用いられるようになったとの説もある。(神社・千葉県柏市) [97-09-02]
「閼伽出甕【第6版】神社・神道」サイトから引用いたしました。
1292
:
地名
:2004/05/06(木) 21:24
「地名辞典」によれば、
「富士山は「万葉集」以来一貫して「駿河なる富士」と認識されていた。中略
「富士」の称について、都良香の「富士山記」(本朝文粋)は富士郡の郡名より起こるとする。
これに対し「竹取物語」は不死の薬を頂上で焼いたから、あるいは、そのための勅使が士(つわもの)を数多く引連れて登ったがゆえに士に富む山で富士山とする両説をあげて物語を結んでいる。
なお、般若山や芙蓉峯など異名も数多く、辞書によっては数十種を載せるものさえ見受けられる。」と。
1293
:
犀角独歩
:2004/05/10(月) 22:37
地名さん:
貴重な資料のご呈示、ロム者の一人として感謝申し上げます。
過日、知り合いの神道研究家(こちらの常連さんでは知己の方も大勢いらっしゃる方です)から、富士の由来について、ややお話を伺いました。
結局のところ、大日蓮華山の名の由来はわかりませんでしたが、今更、「あ、なるほど」と思ったことがあります。大日・蓮華・山であって、大・日蓮・華・山ではないことです。当たり前すぎることを書いていますが、富士山頂に旭日が昇るとき、富士の裾は蓮華の姿であり、太陽が大日であれば、富士山は蓮台の様相を示した名のであろうと思った次第です。山頂に旭日を懐く富士は確かに壮観です。
あと、「浅間」のことですが、これには「仙元大菩薩」の名を挙げ、浅間は「あさま」を語源とするのみならず、「せんげん」=仙元がその訓の語源になっているという指摘を受けました。
これらのことについて、わたしはまるで不案内ですので、この拙い投稿が、地名さんをはじめ、皆さんのご投稿で、予想を超えた膨らみを持ってくれればと、ささやかな希望を懐いております。
いずれにしても富士周辺のこと、真言立川流、神仏習合、山岳信仰、神道のタームから読み解かないとならないと改めて思う昨今です。
1294
:
エル
:2004/05/11(火) 08:36
念珠の時はお世話になりました。m(__)m
nb さんの掲示板で、念珠について少しやり取りがありましたね。
http://bbs4.otd.co.jp/401307/bbs_plain?base=10009&range=1
これによると、日因上人は、数取りする時には母珠も数えるべきだという事を
云われているようですね。
ところで、108珠は隙間がないくらい、キチキチに作られてますよね。
弟子珠のように隙間がない。あれで、どうやって数を取ってたのでしょうか。
それとも、上代の数珠は隙間があったのでしょうか。(^^;
1295
:
風来坊
:2004/05/12(水) 11:31
管理人様、皆様
すでに過去話された内容かもしれませんが、ご教示いただきたく存じます。
日目師が亡くなった時、第四世を決める段階で、日道師と日卿師の間で争いがあったと
聞いたのですが、詳しくはどのようなものだったのでしょうか?
また、その事実が残されている書などはあるのでしょうか?
もしそれが本当ならば、その時点で血脈相承なるものがなかったことに
なるように思うのですが、いかがでしょうか?
血脈相承などなかったとしたほうが、二人の争いもわかるような気がするのですが。
ご教示よろしくお願い致します。
1296
:
れん
:2004/05/12(水) 13:10
風来坊さん初めまして。道郷論争の事ですが、郷師の付弟の日賢(日伝)師の文書によると、大石寺の東坊地は南条時綱氏から日郷師に寄進されたのに対し、西坊地は南条左衛門三郎氏より日道師の付弟日行師に相続されたことが記されております。そして日行師が東坊地の所有権を主張したことにより、伝師との間に東坊地の係争が起こったというのが史実です。道郷両師には論争は無かったでしょう。また、今日石山にて言われるが如き血脈相承が有った事を証する当時の正文献も皆無であって、今日の大石寺で言われる血脈相承は後世の成立と見てよいでしょう。
1297
:
風来坊
:2004/05/12(水) 14:18
れんさん
はじめまして。
御丁重なる御返事ありがとうございます。
道師と郷師の争いはなかったのですか。私の聞き間違いかもしれません。
小耳にはさんだところによると日目師が京都に布教に行かれるにあたって、郷師を同行させて、
道中、日目師が美濃の垂井で亡くなられた。
そして、大石寺に帰ってみたら、すでに道師が住職に納まっていて、
そこから三年ほどの争いが二人の間で起こった。
こんな話を聞いたことがありましたもので、いろいろな書をあさってその
信ぴょう性を探ってみたのですが、結局見つからずに質問させて頂いた
ところでございます。
了解です。史実にはなかったということですね。ありがとうございました。
1298
:
問答迷人
:2004/05/12(水) 14:44
風来坊さん
れんさん
>そして、大石寺に帰ってみたら、すでに道師が住職に納まっていて、そこから三年ほどの争いが二人の間で起こった。
これは、大石寺のアナウンスですね。実際は、日郷師が大石寺に戻ったとき、日道師はまだ北山にいて北山で日代師の跡を狙っていたが果たせず、大石寺に戻り日郷師の追い出しを図った、というのが史実ではなかったでしょうか?資料の裏づけ無しに書いていますので、この辺りの事情にお詳しい、れんさん、間違っておりましたら、訂正の程よろしくお願いいたします。
1299
:
菱村正敏
:2004/05/12(水) 16:45
みかんさん
>林羅山の当該文献は、「神道大系論説編20」に載っているかもしれませんが、
ご指摘のとおりに当該書に掲載されていました。神道秘伝折中俗解という
名称が付されていますが、これは神道秘伝という書物のやさしい解説書とい
うような意味なのかどうかわかりませんでした。で、神道秘伝折中俗解を見
たところ、富士山=大日蓮華山の指摘もそれに類似する記述も見当たらない
ように思います。
大日蓮華山という呼称がいつ発生したのか、それは正宗系以外のさらに
ふるい書物をあたるしかありませんが、正確にいえば神道深秘の写本には
大日蓮山とあります。ということは大日蓮華山という呼称は正宗系以外の
書物には記載されていないのではないかと大胆な予想をしておきます。
余談ですが、林羅山がべつのところで仏家が「日の神は大日なり。大日の
本なるが国、ゆえになづけて日本国という」ということを指摘していました。
これと似ているようにすると
「本仏は大日蓮なり。大日蓮の山なるがゆえに、名付けて大日蓮山という」
本朝神社考および神社考詳節などにも大日蓮華山に関する呼称は
見つけることができなかった旨も追記しておきます。
1300
:
三学無縁
:2004/05/12(水) 17:31
風来坊さん
問答迷人さん
たしかに、道郷二師の問題、石山初期の大きな問題であると思います。
目師の京都行に随伴したのが、郷師と尊師であるという説の初出はいつごろまで遡ることができるのでしょうか。
今、まったくの資料なしなのですが、せいぜい家中抄あたりではなかったでしょうか。
ただ、家中抄よりも早く、房山のだれかの記述では、随伴したのは道師と尊師で、郷師は石山におられた、というものがあったように記憶しています。
尚、道師がいたのは北山ではなく、「下坊」とあったように思います。
「下坊」がどこであるか今特定できませんが、それが事実であるとしたら、道師に石山留守居つまり四世の自覚はなかったことになるのではないでしょうか。
郷門否定は行師時師あたりによる必死のあがきのように思えます。
1301
:
風来坊
:2004/05/12(水) 18:04
問答名人さん
三学無縁さん
ご教示誠に有難う存じます。
そうなんです。私もこの話を耳にした時は大きな問題として詳しく論じたいもの
だと考えたのですが、それを証明する書がないのです。
ですので皆様にお力を頂ければと質問させて頂いたものでございます。
どちら様かお詳しいかたいらっしゃいましたらご教示のほどよろしく
お願い致します。
1302
:
風来坊
:2004/05/12(水) 18:13
問答名人さま
>日道師はまだ北山にいて北山で日代師の跡を狙っていたが果たせず、大石寺に戻り
日郷師の追い出しを図った、というのが史実ではなかったでしょうか
なるほど。となると、少なからず何らかの争いのようなものはあったということ
なのでしょうかね。
そうであるとすると、もし唯受一人血脈相承なるものがあったとしても、
日道師は血脈相承を受けたことを、郷師はじめ周りの者達に証明することが
できなかったということになりましょうか。
となると、ここだけを取ってみても、唯受一人血脈なる相承など
なかったと考えることができましょうか。
もちろん、今までの皆様の議論の中で、そんな血脈相承などあとから
つけたものであることは了解しているところなのですが、
もう一つそれを証明といいましょうか、否定をする史実になりえる
のではと思った次第です。
1303
:
風来坊
:2004/05/12(水) 18:41
皆様あわせて質問させてください。
二年以上教学の研さんを怠っておりましたので、低レベルな質問ですし、
もう話されたことかもしれませんが、お許しを。
二箇相承は北山から盗まれてと独歩さんや問答名人さんの過去ログで
拝見したのですが、それが記されている書を教えて頂きたく存じます。
よろしくお願い致します。
1304
:
顕正居士
:2004/05/12(水) 19:22
日目天奏に日郷が随行したことは『祖師伝』(広蔵日辰・富要5巻)にあります。
二箇相承紛失は『二箇相承紛失由来』(保田日我・富要9巻)にあります。
1305
:
れん
:2004/05/12(水) 19:40
問答名人さん。日道師が大石寺に住したという文献は残っておらず、目師滅後は下之坊に定住した様ですので、道師が大石寺住職になったというのは後世成立の見解でしょう。また、日郷師も大石寺住職になったという文献もありませんから、実際は行師(西坊地)・郷師(東坊地)そして実態は不明ながら「上野六人老僧」を中心に合議的に運営されていたと思います。ただ道師は「日目上人一百箇日」追善の曼陀羅を書写していますから、目師滅後の日目門下の中で曼陀羅を書写を出来る立場には居たでしょう(郷師の曼陀羅書写は道師滅後に始められている)。
1306
:
問答迷人
:2004/05/12(水) 19:53
風来坊さん
顕正居士さんが、保田の文書を示してくださいましたので、僕からは二箇相承の、北山の文書を提示させていただきます。
本門寺宝物目録(富士宗学要集9巻20頁)
(編者注記)祖滅五百四十七年の集なり北山本門寺にあり、此の抄録の文書は年月日あれども当時用ひたるものとも見へず、又入文に怪しむべきありて全く其の正偽を知らず、単に当時の宝物の概数を知るの料とするのみ。
一、日蓮聖人御直筆漫荼羅大小弐十幅。
一、日興上人御真筆漫荼羅大小五十幅。
一、日蓮大上人御真筆本門寺額。
一、日興上人御真筆日妙聖人へ御遺状二通。
一、日蓮大上人御真筆一部八巻御経。
一、日蓮大上人御真筆紺紙金泥御経一部一巻。
一、日蓮大上人御真筆御聖教。
一、日興上人 同 上 同 上。
一、日蓮大上人同 上 貞観政要一部七軸。
一、天 神 同 上 法師功徳品。
一、日蓮大上人同 上 二箇の相承。
一、日蓮聖入所持御珠数一連。
一、日興上人 御申状三通。
一、同 上 御自筆本尊授与目録一巻。
一、同 上 同 上 日澄聖人御遺状一通。
一、日 代 同 上 五人立義抄一巻。
09021
一、日 源 同 上 安国論二巻。
一、日興聖人同 上 本尊七箇相承一巻。
一、同 上 同 上 教化弘経七箇の口決一巻。
一、同 上 同 上 産湯相承一巻。
一、同 上 同 上 文底秘法相承一紙。
一、同 本門寺御棟札一枚。
以上。
右の通に御座候処先文に相誌し候天正九年武田勝頼家臣理不尽に奪ひ取り候に付き御注進申上げ候。 天正九年巳三月十七日 富士山本門寺、本妙寺、行泉坊、西之坊、養運坊、大乗坊。 増山権右衛門殿。
1307
:
問答迷人
:2004/05/12(水) 20:02
れんさん
有難うございます。
>上野六人老僧」を中心に合議的に運営
なるほど。これは一番有り得る事ですね。蓮祖が六老の選定を以って後継者を定められた如くですね。
>道師は「日目上人一百箇日」追善の曼陀羅を書写
この辺りが、唯授一人説に依って脚色され、道師が大石寺の第三代住職とされたのかも知れませんね。勉強になりました。有難う御座いました。
1308
:
顕正居士
:2004/05/12(水) 20:23
二箇相承
が北山本門寺にあり、西山本門寺の意を受けた武田軍に奪われたのは間違いのない史実でしょう。
奪われる以前に大石寺との紛争から今川氏の裁判に証拠書類として提出されたこともあります。
(だから二箇相承が日蓮の筆であるという意味ではありません)
血脈相承
血脈相承は室町時代に普及した諸芸伝授の様式で花道などに今日もあります。歴史上、最も有名
なのは「古今伝授」で、形式的なものではなく、たいへん時間もかかりました。
大石寺でいう血脈相承も同じですが、「唯授一人」の切紙相承が日蓮以来行われており、これの
伝受者だけが大石寺の貫主となる資格があるという考えとおもいます。この儀式は後世にできた
にしても、高齢の日目師が大石寺の相続者を決めないで天奏に立たれたのは不思議です。日目師
には日興師の譲状があるのに。70年におよぶ紛争にいたったことから考えると、すでに南条家(
新田小野寺家)に内紛があって相続者を決められなかったのかも知れません。
*宗教上のことは「合議運営」はあるでしょうが、道郷紛争は財産相続、大石寺(蓮蔵坊)の土地
を争う事件でした。
*切紙相承 両巻血脈などは「唯授一人」ではないので、切紙だと想像します。
1309
:
れん
:2004/05/12(水) 20:54
顕正居士さん。血脈相承についてのご見解参考になりました。有難うございました。
石山における切紙相伝の目録は三学無縁さん・犀角独歩さんが示された完則師記の大石寺宝蔵目録に記載があります(内容不明)。郷門の切紙については、目録ともに「千葉県の歴史」所収の保田妙本寺文書・宮崎県史所収の定善寺文書に収録されていますので、風来坊さんにぜひご一読をお薦めいたします。
1310
:
空き缶
:2004/05/13(木) 02:39
「蓮蔵坊」とは「御堂」(御影安置の場所)のことではないでしょうか。
「蓮」とは日蓮聖人、「蔵」とは聖人おわします処、つまり「蓮蔵坊」にまつわる争いは「御影」(興目両師からの相伝)の争奪戦だと思います。
「千葉県の歴史」や「富士宗学要集9巻」に、日時師が日伝師に御影の返還を求めた書状が掲載されていたと思います。
一時的に御影を遷座した「小泉久遠寺」も、「蓮蔵坊」の機能拡大版ですから。
1311
:
犀角独歩
:2004/05/13(木) 11:04
1303 風来坊さん:
> 二箇相承は北山から盗まれてと独歩…
この件に関しましては、1304に顕正居士さんが挙げてくださった資料に基づいて、曾て記したことでした。石山信仰下にあったときは、この我師の証明を金科玉条と考え、二箇相承真筆の挙証に数えておりましたが、1308に同じく顕正居士さんが「二箇相承が日蓮の筆であるという意味ではありません」と仰る如く、いまではわたしはこれが蓮師真筆の証とならない考えるに至りました。
なお、蛇足ですが、今川家云々の経緯については『大石寺誑惑顕本書』にもその記述が載っています。ただし、これは北山宣揚文書ですから、二箇相承が重須こそ、富士山本門寺であることを証明する真筆として扱われております。
ここで今更申し上げることはありませんが、興門下では富士山本門寺とは北山・西山の両寺院の名称です。
以上のことから、わたしは北西両山を跨ぐ人、すなわち代師・若しくはその法類が、二箇相承捏造に何らかの関わりを持ち、その当初においては‘大日蓮華山’大石寺とはまったく関係のない文書であったと考えられます。その後、この存在を知った石山において、広宣流布の暁には石山は富士山本門寺と改称する未来の証明書として扱われるに至ったのであろうと考えます。しかし、実際は既にある富士山本門寺を蓮師に仮託して宣揚することを目的にした文書であったと思われます。つまり、富士山本門寺は未来に石山が改名するためのものではなく、既にある富士山本門寺を証明するためのものであったということです。
尤も、こんなことは今更ここに記すことではありませんが、ロムの皆さんのために取り敢えず整理して標しました。
1312
:
犀角独歩
:2004/05/13(木) 11:09
れんさん:
> 郷師の曼陀羅書写は道師滅後に始められている
このご指摘に殊の外、わたしは目を引かれました。
道師はたしか郷師に書写漫荼羅を下しておりましたっけ?
となると、郷師は道師を自分の上位、もしくは興(目)を継ぐ師匠として仰いでいたという類推は成り立つことになるのでしょうか。また、れんさんはそのようにお考えですか。
1313
:
れん
:2004/05/13(木) 19:39
犀角独歩さん。日道師は元亨四年十二月二十九日に興師が書写し目師に授与された曼陀羅を目師滅後「日道相伝之日郷宰相阿闍梨授与之」と添書して日郷師に授与してます。道師は石山住職となった事を証する文献は皆無ですが、道師が目師百箇日追善の曼陀羅を書写し、また目師へ授与の興師曼陀羅を郷師へ授与している事実からは、道師は目師滅後の目師門下の長老として目師門下を代表する立場にはあったのではないかとは推察します。ただ道師と郷師の文献上の接点は上記の興師曼陀羅の添書のみで道・郷両師に師弟関係があったのかは分かりません。
1314
:
犀角独歩
:2004/05/13(木) 19:53
れんさん、今回のご投稿を拝見し、種々考え直すところがありました。
有り難うございました。
1315
:
問答迷人
:2004/05/13(木) 22:36
れんさん
>道師は目師滅後の目師門下の長老として目師門下を代表する立場にはあったのではないかとは推察します。
なるほど。道師に対する認識を新たにいたしました。有難うございました。
一つ御質問と言うか、お願いがあります。日本書紀が編纂された目的は、大和朝廷の正統性を主張するためであったと思います。古来、歴史が編纂される動機は、歴史に対する興味というよりは、現体制を正当化する目的でなされる場合が多いように思います。日蓮門下最古の歴史書、御伝土台を道師が書いたことの意味合いについて、僕は、第四世としての、自らの立場を正当化する目論見ではなかったかと考えてきましたが、この点に付いて、何かご見解をお持ちでしたら、ご披露いただけませんでしょうか。
1318
:
れん
:2004/05/14(金) 07:24
問答名人さん。私は道師の御伝土台の編纂の動機について、何らの見解を持っておりませんが、道師が御伝土台を編纂された動機の一つは、興目両師滅後の富士門流の内部における混乱(代師仙師の方便品読否論争と代師重須擯出)等が契機なったと思ってました。つまり蓮興目の三師の事蹟を通じて富士門流の法門を示し後世に伝えるのが目的ではなかったかと考えておりました。しかし問答名人さんのお言葉に触れて、道師が御伝土台を編纂した目的の一つには、富士門流内での日目門流の正統性を主張することにあったのではないかとも愚考しております。
1319
:
犀角独歩
:2004/05/14(金) 09:10
れんさん、問答名人さん、わたしも質問させてください。
『御伝土代』は元号の記述の間違いが指摘されますが、このようなことは富士周辺の、他の諸師の文献でも起こることでしょうか。
もう一点。この書は未完で、特に目師の記述はまるで途切れています。この理由はどのようにお考えですか。この書は御伝として三師(蓮興目)の系譜を挙げた点で際立っているわけです。もし道師が目師直系を主張するのであれば、むしろ、目師の項で筆を投げ出さず、自分との関わりまで記してもよさそうなものと思えるのです。いや、むしろ、そのことこそ、書かなければならなかったのではないでしょうか。それを書かなかった理由。諸般の事情で完結しなかったというより、たとえば、道師にとって、ある時期に、急速に目師への興味を失ったなどの理由は考えられないのでしょうか。
1320
:
犀角独歩
:2004/05/14(金) 09:11
れんさん、問答名人さん、わたしも質問させてください。
『御伝土代』は元号の記述の間違いが指摘されますが、このようなことは富士周辺の、他の諸師の文献でも起こることでしょうか。
もう一点。この書は未完で、特に目師の記述はまるで途切れています。この理由はどのようにお考えですか。この書は御伝として三師(蓮興目)の系譜を挙げた点で際立っているわけです。もし道師が目師直系を主張するのであれば、むしろ、目師の項で筆を投げ出さず、自分との関わりまで記してもよさそうなものと思えるのです。いや、むしろ、そのことこそ、書かなければならなかったのではないでしょうか。それを書かなかった理由。諸般の事情で完結しなかったというより、たとえば、道師にとって、ある時期に、急速に目師への興味を失ったなどの理由は考えられないのでしょうか。
1321
:
風来坊
:2004/05/14(金) 10:29
問答名人さん・独歩さん・れんさん
御返信賜りまことにありがとうございました。
独歩さん
>尤も、こんなことは今更ここに記すことではありませんが、
ロムの皆さんのために取り敢えず整理して標しました。
本当に申し訳ございません。しばらくさぼっていたもので・・・。
もう一度過去ログ必死に読み返していきます。
1322
:
風来坊
:2004/05/14(金) 10:30
顕正居士さん
すいません。書き漏れしてしまいました。
御返信賜り有難う御座いました。勉強させて頂きます。
1323
:
れん
:2004/05/14(金) 20:16
犀角独歩さん。御伝土代の元号の記述の間違いは、蓮師の誕生の年のことでしょうか。少なくとも、上代の門弟の正本の存する文書では改元後の元号を記述する例はなかったと記憶しています。目師伝未完の件ですが、因師自筆の日目上人日道上人御系(本源寺蔵)には日道上人御自筆三師御伝記に曰くとして「十月十三日大聖人御遷化に値い奉り恋慕を懐き身延に還御す一山の供衆に列して御番役を勤む其の後弘安六年奥州に下向し新井田において法華堂を建立す以下これを略す」とあり、この文は現存本に無いので、現存本を補訂したものの曽存が推定されます。
1324
:
犀角独歩
:2004/05/15(土) 10:11
れんさん:
> 御伝土代の元号の記述の間違いは、蓮師の誕生の年のこと
ええ、それもあります。あと、
「日興上人御遺告、元徳四年正月十二日日道之を記す」
の‘元徳四年’です。同3年元弘に改元されていますから、この遺告が記されたとする1332年は「元弘二年」です。また、この書が道師本であると決定を下したのは亨師となろうかと思います。しかし、これは本当に同師のものでしょうか。
先に完則図をご覧になった由、記述されてお出ででしたが、『大石寺宝蔵目録』に『三師伝 日時筆 一巻』とあります。
亨師は『御伝土代』の編註に「『在世一代乃至于時応永十年癸未九月廿二日』の三行あるに依り後師誤りて日時上人作の三師之伝とせし事あり今因に之を記し置く」とします。ここにいう『三師伝』とは遠霑講寺完則師が目録に言う『三師伝』のそれであろうと思うのです。
わたしは『御伝土代』の
「日蓮聖人の云く本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏」
「三身即一の有縁の釈尊」
という‘釈尊を無作三身・三身即一の本仏’とする語法及び教学が同師の段階で確立していたのであろうかと?とやや疑っている面があります。また、記述は『産湯相承事』『種々御振舞御書』を彷彿とするところもあるわけで、これらが出揃い、三師に仮託できる時期はいつか?と考えるとき、亨師の説を斥けて完則師の頃に言われたとおり、『三師伝』(御伝土代)は時師の作と考えたほうがよいのではないのかと思える節があります。
ただし、残念ながら筆跡鑑定に関してはその現物すら閲覧したこともないので何とも言えません。しかし、石山、亨師は元より、川澄師、また正信会各師の筆跡鑑定能力は如何ばかりものかとわたしは手放しに信用しない面もあります。
勝手なことを記していますが、同書の元号問題を取り沙汰したのは以上の経緯からでした。
1325
:
空き缶
:2004/05/15(土) 12:45
犀角独歩さん、こんにちは。
「御伝土代」については、ほんの一部ですが「図録 日蓮聖人の世界」に写真が収録されえちます。
同じく同書には道師の諫暁八幡抄の自署・花押の写真が掲載されておりますが、これだけではなんとも判断できませんね。
あえてこの少ない資料をもとに暴論を述べれば、両書は遺筆ということになるのではないでしょうか。
この辺は資料豊富な、れんさんのご意見を是非お願いしたいです。
1326
:
空き缶
:2004/05/15(土) 13:22
興風談所「御書システム」のHP、コラムに日道師の自署・花押の筆写真が出ていました。
↓
http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/colum_ft.html
あとは菅野慈俊師の「御本尊集」(奉蔵於奥法賓)に、道師書写曼荼羅の写真が出ているはずです。
やはり独歩さんの危惧そのものではないでしょうか。
1327
:
地名
:2004/05/16(日) 17:40
1293 独歩さん
>神道研究家から富士の由来について話を伺う。
>結局、大日蓮華山の名の由来はわかりませんでしたが、「あ、なるほど」と思った。
>大日・蓮華・山であって、大・日蓮・華・山ではないことです。
仕事が忙しくなかなか書き込みできず失礼しました。
上記の点は私も調べた過程では日蓮の山だという明確な根拠が得られておりません。傍証すらすると仏教では大日如来に関連ありという例証ばかりです。
>当たり前すぎることを書いていますが、富士山頂に旭日が昇るとき、富士の裾は蓮華の姿であり、太陽が大日であれば、富士山は蓮台の様相を示した名であろうと思った次第です。
>山頂に旭日を懐く富士は確かに壮観です。
このようなご理解もあるのですね。勉強になりました。
>「浅間」のことですが、これには「仙元大菩薩」の名を挙げ、
>浅間は「あさま」を語源とするのみならず、
>「せんげん」=仙元がその訓の語源になっているという指摘を受けました。
>これらのことについてこのが、膨らみを持ってくれればと希望を懐いております。
この点も「仙元」という用語の使用例があるようですね。
>いずれにしても富士周辺のこと、真言立川流、神仏習合、山岳信仰、神道のタームから読み解かないとならないと改めて思う昨今です。
そうですね。大日蓮華山という用語例は最澄の神道秘伝のようです。ただこれは私が調べた限りでは「最澄伝授」となっており最澄にまで遡れるのかよくわからないところがあります。
天台神道、真言神道、山岳信仰、神仏習合、法華神道等が入り組んでいるように思われます。
1328
:
地名
:2004/05/16(日) 18:47
「神道深秘」 最澄 (私注:立正大学図書館資料・出所不明とあり。また資料の冒頭の脇に「此書伝教大師とは偽也、日蓮上人の作なり、そのころにてにてみるべし」とあり。真偽等定かではありません。)
「神道灌頂儀式次第 大師伝授」
「十一 浄土通穴秘伝事」
「大師尋云、予諸国諸の霊山霊地を廻り見聞するに、常陸国には筑波山、伊豆には箱根山、出雲不老山、略、出羽国には羽黒山、下野には日光山、駿河には大日蓮華山、安房国には清澄山、能登には石動山、越中には立焔山、加賀越前には白山、甲斐には身延山、白根嶽、中略、」
とあります。大日蓮華山とあるばかりで、その由来等は記されておりません。
1329
:
地名
:2004/05/16(日) 18:54
所報33号で「日興上人「本門寺根源」初期道場の位置について」石川修道(現代宗教研究所研究員)師の論文から引用いたします。
「『神ハ日神』(天照大神)とは、『日本』の国名と関連し、日本の象徴たる大日蓮華山(富士山)と関連してくる。日蓮聖人が一切経閲覧のため入蔵された岩本実相寺は、富士山岳信仰の本山である。「富士修験の祖」と言われたのが『富士上人松代〔まつよ〕=末代』である。平安時代末に書かれた『本朝世紀』に
『久安五年(一一四九)(鳥羽法皇)富士山頂に仏閣を造り大日寺と名づけ、数百度登山し、写経を埋経した(取意)』
とある。昭和五年富士山頂の浅間神社奥宮再建の時、経箱があり、「承久」(一二一九)の年号と「末代聖人」の名があった。末代は駿河の人で、岩本実相寺の智印に行学を学んで、天台真言の密教を身につけ、富士山を修行道場とした。日興、日頂、日持、日弁、日位等は、実相寺、四十九院の影響を強く受けた筈である。日蓮聖人も岩本入蔵のとき、富士山岳信仰を学ばれた筈である。岩本実相寺は鳥羽法皇の「勅願寺」である。「神の本地は仏」であり、仏は神の姿で現われるという神仏合体の宗教観が「浅間神社の本地は大◎日◎如来」という大日信仰と富士信仰が合体した。富士山頂は、地蔵岳、阿弥陀岳、観音岳、釈迦岳、弥勒岳、薬師岳、文殊岳、如来岳(大日)の名があり、胎蔵界曼茶羅の『中台八葉院』の仏教世界を大日如来が統一仏として現われているという真言密教を、日蓮聖人は天照大神=『釈尊が本地』と把え、天照大神の本名『大日霎貴〔オオヒルメ〕』が、富士山の相と把えたのであろうと考えられる。大日如来の『大日』でなく、天照大神の本名『大日〔オオヒ〕』霎◎女◎である。それが重須本門寺に伝わる『本化垂迹天照大神宮』であると考えられる。」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho33/s33_185.htm
1330
:
地名
:2004/05/16(日) 19:04
「五人所破抄に学ぶ 下」山梨県青年部編、聖教新聞社、2000年2月P91〜105から引用します。
「大日蓮華山」についての語句解説で
「富士山のこと。略して日蓮山ともいう。伝教大師の作と伝えられる「神道深秘」に記されている。
大日蓮華山という呼び方は文学作品、記録文等の一般的な文献には見られず、修行僧、修験者の間で呼ばれていたと推察される。」とあります。
日蓮山についても調べてみたのですが現在のところ日蓮山という表記について確認できていません。
学会の山梨県青年部編でも「神道深秘」については「伝教大師の作と伝えられる」とある点に注意が惹かれます。
1331
:
地名
:2004/05/16(日) 19:43
1330より続く
同書では「富士の語源については古来より様々な見解が述べられているが、「富士火山」(田中収編著、山梨大学・大月短期大学地学研究室、P31)によれば、次表のように大きく分けると日本語とするものとアイヌ語とするものの二つとなる。
氏名 解釈 意味
高田興清 フジナ(吹息穴)の略 火山
森宗芳 フシロ(斑白)の略 頂上に常に雪がある
河野道春 フセのなまり 物を覆せた形
バチュラー アイヌ語のフンチ又はウンチヌプリ 火山又は火の女神の山
志賀重昂 アイヌ語 費の女王
鏡味完二 古代日本語フジ なだらかな地形
1332
:
地名
:2004/05/16(日) 20:02
同書の続き
「次に、富士山の名前についてであるが、古来より様々な名前で呼ばれてきた。ここでは「「富士山」史話と伝説」(P73〜75、遠藤秀男著、寺田書店)を参考にそれぞれの文献に記された呼び名を挙げてみる。
1.富士山頂経ヶ岳より出土した「富士山由来記」十種異名
養老山・花角山・行向山・来集山・妙光山・仙人山・穀聚山・天地和合山・磐石山・富士山
2.富士吉田市村上の「富士山縁起」十五種異名
不盡山・理智山・蹲虎山・行向山・四八山・四方山・富士山・来集山・仙人山・穀聚山・般若山・養老山・天童山・七宝山・妙香山
3.「秘中抄」九種異名
竹取山・羽衣山・東山・未通女子山・四季なか山・国の深山・神楽山・鳥の子山・波の深山
4.「秘名抄」十種異名
神路山・三重山・見出山・二十山・三上山・新山・塵山・常磐山・鳴沢の高嶺・藤嶽。」
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