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素朴な疑問

1288地名:2004/04/29(木) 21:49
同書より続く
「このように死後まで尊崇されて富士山の守護神とたたえられた末代は、いったいどのような素性の人だったのであろうか。まず『駿河国新風土記』の著者は、彼は駿河の人であるとし、「此人はじめ伊豆山に住し、今に伊豆日金山にその旧跡あり」と述べている。また『地蔵菩薩霊現記』は、彼が伊豆で“走湯”(はしりゆ)などの噴火炎熱の地獄をみて庶民の救済を思いたった、と書いており、富士登山に命をかける以前の末代の姿をしのぶことができる。…
そのうえ駿河の岩本に実相寺を開基した智印上人と特別な関係になっていた。実相寺は富士川に間近く、東海道の要所にあたって建てられた古刹であり、智印は京の人。それゆえ久安年中に当寺を建てるにあたって、鳥羽法皇の院宣による霊像を安置したというほど、中央とのつながりは緊密であった。その智印との関係は、つぎのとおりである。
「第一最初院主上人(智印、世貴言阿弥陀上人)者、鳥羽仙院之御帰依僧、末代上人之行学師匠也。」(文永五年、日興上人筆「実相寺衆徒愁状」による)
つまり末代はこの智印を師として見聞を広め、修行と布教につとめながら、富士山を征服していったのであり、実相寺が完成した久安年中には、すでに世人に認められる大日寺の建立など、めざましい活躍をしていたことになる。したがって実相寺建立にあたって彼の協力は絶大なものがあったろうと推定されるし、前記の如法経を富士山頂に埋めた行為もこれと無縁ではなかったろうと思われる。ともあれ、末代上人はそれまで神の山であった富士山に山岳仏教を導入して、麓の村山に修験者の居住する僧房を建て、興法寺や大棟梁権現など、後世の“富士修験”の基本的形態を完成したのであった。しかも彼はミイラとして残され、彼の行徳を慕う者達によって、ますます富士山は(師匠の智印が阿弥陀上人と尊崇されたと同じように)浄土信仰の色彩を強め、そこにいたる時は現世安穏と来世の極楽が約束される霊山として、定着していったのである。」


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