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素朴な疑問
1289
:
地名
:2004/04/29(木) 22:15
同書より続く
「三 村山修験と富士行
(イ)富士行と頼尊
末代上人の流れをくむ者達が、ひき続く鎌倉時代にどのような行動をとっているかというと、具体的には「埋経」と「富士行(ぎょう)の創始」と「仏像寄進」という三点において、いささかなりとも解明していけそうである。…中略
…山頂に建てられた大日寺ゆかりの大日如来が、山中仏化の重要なにないてとして造立寄進されている…。
現在富士宮市元村山に保存されている大日如来のうちで最古の銘があるものは、先の埋経から40年後の正嘉三年(1259年)に北条時頼が寄進したという伝承が付随しているものである。村山浅間の社伝によれば、この年諸国に飢饉や疫病があいつぎ、群盗が各地にはびこったため、天下泰平を祈願して社殿を修理し、この仏像を造立寄進したという。…それと同時に、これと時を同じくするように日蓮上人が(末代の師匠智印が建立した)実相寺の経蔵にはいって、一切経論の研究にとりくみはじめたのである。その結果「立正安国論」が著述されて、日本の宗教界に大きな変転を現出していくのであるが、こうした揺れうごく時代に、富士信仰は着実に庶民の中に浸透していた。そのあらわれは、正嘉三年の仏像から58年ほど過ぎた文保年中(1317~9年)村山では“富士行”(ぎょう)というものが組織され、その頭主に頼尊という修験がおかれているのである。富士行とは簡単にいえば、富士山中にこもって修行する行為をただ山伏修験だけにまかせず、一般人が参加して自ら“行”をおこない、霊力または法力を得ていくべきだとするものであった。」
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