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素朴な疑問
1285
:
地名
:2004/04/29(木) 17:17
富士山と大日蓮華山について、少しずつですが各種資料より摘記させていただきます。
「富士信仰の成立と村山修験」遠藤秀男氏、地方史研究家、富士宮市
「1.富士信仰のはじまり
古代における富士信仰は、おおよそ『万葉集』にうたわれた讃辞で言いつくされているが、なかでも富士山を女神としてとらえた『常陸風土記』によって、その原初的発想をとらえることができる。…富士山は美しいが心冷たい女神で、祖神尊(みおやのみこと)が一夜の宿を求めた…すげなく断る…そこで尊(みこと)は筑波岳に出向いてそこで…饗応をうけた…反対に富士山には…雪をふりつもらせて…しまったという。…富士山は『駿河国福慈岳』(ふじ)と記されて、人びとの関心をひきながらも近づきえぬ美女として、ひとり東海…に凝立してきた…。
だが、それを万葉人はもっと現実的に、…生活…感覚の中から…とらえようとしていた。その例…
巻三雑歌部
「大和の国の 鎮(しず)めとも 座(いま)す神かも 宝とも 生(な)れる山かも 駿河なる 不尽(ふじ)の高嶺は 見れど飽かぬかも」
山部赤人の長歌
「天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺を 天の原 ふりさけ見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見へず 白雪も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける」
…いずれにしても富士山は神そのものであり、人間の足跡などとうていおよばない神秘神霊の高岳であることで一致していたのであった。
そのため、富士山を表記する文字もさまざまに用いられており、前記の福慈・不尽・布士のほか、不時・不自・富岻・浮士など、奈良時代から平安時代の初期まで、さまざまな字音をあてていたのであるが、そこにもおのずから字義がこめられていて、不時(季節はずれに雪がふる)とか不尽(一年中雪が尽きない)など、『常陸風土記』の延長を思わせる伝承が息づいていることを見逃せない。
中略
だが、それだけで富士信仰のすべてを語りつくすわけにはいかない。山体そのものを神とみたてたおおらかな時代が過ぎて、人智が発達してくると、山そのものが持つ荒々しいエネルギーや神秘感に対して畏怖の念を抱くようになり、そこに祈る姿が生まれてくるからだ。祈りはやがて山中に祀堂を建て、それを通じて神と人との融和をこころみようとする積極さに移行していく。その動きがつぎにのべる「浅間神社」の成立と「大日堂」の建立にかかわってくるのであるが、じつは富士山の場合、こうした動きのひきがねになったものは、噴火というまことに物理的、現実的な胎動であった。
中略
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