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素朴な疑問
1287
:
地名
:2004/04/29(木) 19:22
同書より続く
(ロ)末代上人と村山
末代上人は、またの呼称を“富士上人”ともいわれた。それは彼が富士登山を数百度して、山頂に大日寺を建て、はては鳥羽法皇の帰依をうけて宮中の諸士から大般若経の書写をしてもらい、それを山頂に埋経した実績によるものである。その間の事情は、『本朝世紀』久安五年(1149年)の条に明らかであり、…
「久安五年四月十六日、丁卯、近日於一院、有如法大般若経一部書写事。卿士・大夫・男女・素緇多営之。此事、是則駿河国有一上人、号富士上人、其名称末代、攀之大日登富士山、已及数百度、山頂構仏閣、号寺。」
その大日寺はどの程度の規模であったか、後世まったく記述に接しないが、現在浅間神社の奥宮のある位置を明治以前は“表大日”(おもて)と呼んでいたので、おそらく登山道を登りつめた所にこうした祀堂をもうけて、入峯(にゅうぶ)中の修行拠点または山神定置の場にしたのであったろう。山神は、この頃、浅間大神に代わって、垂迹仏である大日如来が、全山を統治するものとしてかなりの比重をもって祀られていた。だが、そこにいたるまで、末代も本地垂迹の融和についてかなり苦悩していたとみえて、浅間大神=浅間大菩薩=大日如来というつながりの解明に多くの歳月を費やしている。その間の事情を『地蔵菩薩霊現記』によってみると、
「垂迹浅間大菩薩、法体は金剛昆廬舎那の応作、男体に顕れ玉ふべきに、女体に現じ玉へり。然れば即本迹各別なれば、末代に不信の衆生多くして、二仏の中間に迷ひ、済度も又覚束なく思し(おぼし)奉る。所詮我捨身(しゃしん)の行を修め、後代の不審を晴さんと思立て、御岳の半に座して、樹下石上にして、百日断食して、正しく神体を拝み奉とぞ祈りぬ。」
つまり、浅間大菩薩は男体であるはずなのに、コノハナサクヤ姫(女神)を山神と祀る神社側と大きく相違していたのである。そこで百日の断食をこころみることになり、その満願の日暁、虚空から声が伝わってきて「汝のいる所から東南に百八歩すすみ、谷下を掘れ」と教えられる。その結果彼が得たものは、富士山にそっくりの形をした水晶であった(そこを後世、水晶ヶ岳と呼ぶ)。
心の迷いは晴れた。神仏は男女を超越した世界に住みたもうものであると覚った時、はじめて彼は庶民の絶対的崇拝をうけることになったのである。その後……
「その身は猶も彼の岳(富士山)に執心して、麓の里村山と白(もう)す所に地をしめ、伽藍を営み、肉身を斯(ここ)に納めて、大棟梁と号して、当山の守護神と現れ玉ふ。」
というごとく、富士宮市元村山に居を占めて活動を続け、ついには即身仏(ミイラ)となってまつられるにいたるのである。彼を祀った建物は「大棟梁権現」と呼ばれ、江戸時代後期の地誌『駿河国新風土記』は、
「大棟梁と号し此山の守護神となるといへる社、今に村山浅間の傍に大棟梁権現の社あり。村山の三坊の山伏辻之坊は浅間社、池西坊は大日堂、大鏡坊は大棟梁権現と分て別当なり。」
と報告している。」
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