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死刑制度についてひと言お願いします

2179トーフ:2009/06/28(日) 00:35:32
ufloatさんへ。
レスありがとうございます。
ええ,全くおっしゃる通りです。外国と我が国(国ごと、地域ごと)では犯罪感が全然違うのであろう、と
思われますからね。私の死刑維持根拠もそういう風な数とあまり関係ございません。

ただ、比較的よく見かける言い回しに一言釘をさしたかったのです。「世界」というとき、
中東やアジア・アフリカを「なかったこと」にしているように思えまして。

カレーライスさんは死刑賛成派ですが、ちょっと私の考えとは離れておられる。
が、結論が同じなのでちと絡みにくいと言うか。お互いがんばりましょうという気持ち
です。

「死刑より終身刑が残酷」というのはある意味で解る、としても死刑と終身刑は
併存できるので、私は別に終身刑があってもよいという立場です。

ところで人権とは「人が国家以前に持っていた権利」である、と定義されますが、
人は国家がそれを禁ずる以前には個々に報復を行っていたのでありますから、報復権
は人権であり、国家がそれを個々人から奪っているのは人権侵害なのです。無論、
ある種の犯罪者を死刑にするのも人権侵害なのです。懲役にするのも人権侵害なのです。

私も人権意識の上昇に貢献できればこれ幸いです。

2180トーフ:2009/06/28(日) 01:16:18
紫煙狼さんへ。レスありがとうございます。
「世界」に関してはおっしゃる通りでございます。>>2179でufloatさんへ申し上げた
通りです。私に取り、あまり関係ございません。

で、ご質問にうまくお答えできる自信がございませんが、こころみます。
刑法には「保護法益」という概念があります。ご質問の「傷害罪」の保護法益は
「人の身体の安全」であり、「死体損壊罪」の保護法益は「葬祭に関する風俗と死体に
対する公衆の敬虔感情」です。ちなみに「殺人罪」は「人の生命」です。

「身体の安全」
「葬祭に対する風俗維持と、死体に対する公衆の敬虔感情」

を比較して解る通り、傷害罪は個人の身体を守ろう、とするものであり、
死体損壊罪は社会的な風俗を保護しようとするものなのです。他方、憲法において
「個人の尊重」を謳われていますから、個人身体の安全より、社会風俗の維持を重く
するような刑事立法はできにくい。(←されることもあります。立法側がそれが強い
公共の福祉性をもっていることを説得的に言えた場合)

以上が、死体損壊罪よりも傷害罪が「重い」ということの法的説明です。

で、なぜ3年で15年なのか、ということにはちとお答えしかねます。
今は死体損壊罪と傷害罪しか出てきてませんが、おそらくは、その他の刑法各条文の刑の量を比較し、
「このへんがバランスがとれているであろう」というような判断ではなかったかということ
だと推測します。

お答えになっていますでしょうか。

2181トーフ:2009/06/29(月) 06:33:31
えー私からひとつ皆様にご質問致したいです。特に死刑賛成反対ということでなく。
(大きくは関係あるかもですが)

私は以前、「絶対無制限人権は19条の内心の自由しかなく、生命ですら制限の対象である」
と、書きました。これは現行憲法の立場であります。根拠は有名どころの憲法教科書です。

すると、例えば国家が懲役囚に対し、内心の反省を迫るのは憲法違反ではないでしょうか。
せいぜい反省することを「勧奨」するぐらいが限度でしょう。
「反省したか否か」という「内心の精神活動」を根拠にして「したから刑期短縮」
「しないから満期」という扱いは、憲法19条に違反するのでは。

19条の内心の自由は絶対であるとすると、
人を殺した者は反省しても良いがしなくてもよい。
強姦をした者は反省しても良いがしなくてもよい。
以下略
と、こういうふうにならなければおかしいのでは。犯罪者には内心の自由は無いとするならば
憲法19条の内心の自由の保障は絶対ではなく、相対だということになるのではないでしょうか。

お暇ございましたら、皆様のご見解を伺いたい。

2182無精髭:2009/06/29(月) 14:11:41
>>2181
全く暇ではありませんが、興味深いご質問なので答えさせて戴きます。

トーフさんが根拠として挙げる憲法解釈が正しいとするなら、
須らく受刑者に自発的な反省を強要することは憲法違反に当たるでしょう。

しかし、国家が犯罪者の身体を社会から隔離すること自体は、内心の自由を
何ら制限するものではありませんよね。そこで、たとえば紫煙狼さんのように
監獄を隔離施設であると共に教育施設とも捉えるならば、受刑者に教育を施す
こと自体は、トーフさんが仰るように受刑者の内面に働きかける方法(勧奨)
とは言えても、やはり内心の自由を制限する方法とまでは言えないでしょうから、
そこに収容され規律に従う者の人権は、監獄を隔離施設としてのみ捉えた
場合と全く変わらない扱いを受けることになる、という解釈で構わないかと
思います。

無論、教育といっても強制的に受けさせる呈のものなので、これまでの懲役刑や
禁固刑などと同じく、矯正教育や社会復帰訓練なども刑罰の一貫となるでしょうが、
受刑者の内心の自由を否定したり外部からコントロールしたりするような教育方法
(洗脳や脳外科手術・内心の自由を損ねるような過激または過剰な投薬)でなければ、
憲法違反とは言えないのではないか、と思いますね。受刑者との合意を取り付けた
上で行うのなら別として(いや、ここんとこはどうなんでしょう?)。要は、受刑者は
自由な意思によって矯正教育や社会復帰訓練などの更正プログラムの受講(笑)や
参加を拒絶することは出来ませんが、同じく自由な意思によって自ら更正するか
どうかを決断することは出来る、ということではないでしょうか。

早い話が、更正プログラムも刑罰の一貫なんだから、受刑者には拒否ることは
出来ない、ということではないでしょうかねぇ。これは数多の教育機関にも当て
はまることで、教育される者にとってはカリキュラムを受けることは強制だけど、
その内容を覚える・覚えないのは自由だってことになるのではないかなあ。
もちろん刑罰ですから、授業に望む態度に従順さを求められるのは当然ですけどね。

ということで、

>「反省したか否か」という「内心の精神活動」を根拠にして「したから刑期短縮」
>「しないから満期」という扱いは、憲法19条に違反するのでは。

このように受刑者の内心を判断するだけなら、憲法には違反しないと思います。
問題は、そういった判定で刑期を変えるとかどうとか以前にあって、その判定材料に
なる当のもの(受刑者の内心)が、判定する側によって内心の自由を奪ってまで一方的に
作られたかどうかということにあるでしょう。繰り返しますが、内心の自由を何らかの
方法で奪っておいて外部から更正させる、というのは現行憲法のままでは明らかな違反
ですから。まあそれでも解釈の余地はあるでしょうから、絶対とは言い切れませんね。

さて、私個人としては

>19条の内心の自由は絶対であるとすると、
>人を殺した者は反省しても良いがしなくてもよい。
>強姦をした者は反省しても良いがしなくてもよい。
>以下略

は正しい見解だと思います。

ああ、そうそう。ちなみに少しググって見たのですが、戦前の憲法は「内心の自由」を
認めていなかったらしいですね。歴史を振り返ってみたら、成程と得心が行きました。

2183無精髭:2009/06/29(月) 14:28:28
ちなみに、内心の自由については別の解釈もあります。
こっちの方が私の懐疑癖にぴったりの解釈なんですけど。
笑わないでくださいね。本気で言ってますから。

「内心の自由っていうけど、人ってどれだけ自分の心に対して
自由を認めているのかな〜。大体、人の心って自由なものなのかな〜。
自分にだって自分の心も良く分からないし。」

例えば、私が誰かから「反省しろ。でないと殴るぞ」と迫られても、
私は反省した振りをしてその場を切り抜けることが出来そうです。
ですが、もし別の誰かから「反省してください。でないと泣いちゃう」
と言われたら、なんか悪いことしたなあ、とつい思ってしまいそう(笑)。
後者の場合、はたして私の内心の自由は保たれているのでしょうか?

・・・以上を読めばお分かりになるかと思いますが、>>2182みたいな
考え方など、はっきりいって私にはどうでもよろしいので、むしろ
こちらの考え方を発展させていきたいですね(笑)。

2184Ken:2009/06/29(月) 14:34:32
>>2181
なんか、すげー屁理屈なような気もしなくはないのですがw

基本的には髭さんと一緒ですけど、外科的手術とか物理的な方法で拷問・洗脳(眠らせないとか大音量の音楽をかけるとか)することによって反省を無理強いすれば憲法違反のおそれが出てくるんじゃないでしょうかね。

反省するのもしないのも自由ですけど、反省しない人はもっと刑務所に入っててもらいますよ、というだけだと思いますけど。

2185Ken:2009/06/29(月) 14:44:36
>>もし別の誰かから「反省してください。でないと泣いちゃう」と言われたら、なんか悪いことしたなあ、とつい思ってしまいそう(笑)。後者の場合、はたして私の内心の自由は保たれているのでしょうか?

むはは。それは恋愛のテクニックでんがなw
恋愛においては内心の自由はないでしょうなあw

2186紫煙狼:2009/06/29(月) 22:32:59
トーフさん、ご回答ありがとうございます。非常に一般的で説得力のある模範解答だと思います。

さて、法には保護法益があると言うのは当然の話ですね。で、傷害罪の保護法益は云々だよ、と
言いますが、当然、法によって守られるべきものは色々あって、例えば
>「傷害罪」の保護法益は「人の身体の安全」であり
というのも、実際は他にも色々な法益がある中でも、最も重視すべきものは「人の身体の安全」で
あるよ、というのが解釈として妥当ですよね?人体の安全を守るという事に社会通念的側面がない
とは決していえませんから。

ところが、生きている人に対しての保護法益は「人の身体の安全」つまり対人法益であるのに対し、
死体に対する法益は対故人法益ではなく対社会通念法益であることに私は着目します。つまり、法は
「生きている人を優先的に保護する」という観点が先にあり、死体は法的には生き物ではない物体だが、
それに対する通念的感情を勘案すると路傍の石と同列には扱えない、と私は解釈しています。
もう少し、奇抜な言い方をすれば、死体に対する埋葬とか葬儀とかいう概念が全くない世の中なら、
死体損壊罪は成立し得ないと考えています。(これが法学界の常識だ!なんて言いませんから安心して)

つまり、私の考えでは「一つの事件で失われる人命は少ないほうが良い」という前提の下に、被害拡大を
防ぐために現行犯人を殺害するのは許されても、被害拡大の心配がない状態で、より多くの血を流すような
方法論が正当化されるとすれば、それは「感情に根ざす理由」以外にありえないと考えているわけです。
簡単に言えば「許せねぇ!殺しっちまえ!」ってワケですね。報復を基盤とし…といいますが、この報復
自体が感情の賜物であることは言うを待たないでしょう。そして、報復の限度を何処にするべきかと考える
場合は、逆に感情を廃して勘案しなければ「情に流され」ると考えています。

トーフさんは「何をやっても何百人何千人をどんな殺し方で殺しても犯人の命を保障する」ルールが公共の
福祉に反すると言うご意見ですが、逆に「一つの事件の決着として新たな血を求める」というのもまた、
公共の福祉に利するとは言えないと言うのが私の考えです。法や法運用が条文やら判例やらで制限されるのも
また、情に流されすぎることによる差異を限定するためであると私は考えますので「公共の福祉=情」なので
あれば、情に流されることは公共の福祉に利するものですよね?しかし、公共の福祉は情を含まないわけでは
ありませんが、情がすべてでもありません。生きている人間を最優先として法が運用されるのであれば、
被害の拡大を防ぐ緊急措置以外の目的を持って人の生命を奪うことの違法性を阻却してはならないと考えるのです。
つまり「応報」の許される範囲にも限度があると言う考え方ですね。私何度も言っていますが「応報」のために
加害者の命を奪うことが許されるというのは、多数決で生かすか殺すかを決めてよいと言うことです。
つまり国民の大多数が「ユダヤ人であるという事を罪と認識し」「その罪は死に値する」と同意すれば、
「ユダヤ人であるだけで殺されても仕方ない」世の中が出来上がるわけです。
(もちろん、日本人がそこまでバカだとは思ってませんよ?憲法でも信教の自由が保障されてますし。)

これがね?人間と言うものは人為的に何らかの措置を取らなければ半永久的に行き続ける生き物であり、
矯正教育の結果に全く以って期待できないと言うのであれば、死刑には賛成せざるを得ません。
どこかキリの良いところでこの世からご退場願うのは当然でしょう。しかし、100年あれば人は死にます。
それを、我々の手で早める必要は感じません。むしろ更正を信じるほうが公共の福祉ではないでしょうか?

2187紫煙狼:2009/06/29(月) 23:01:57
で、面白いことを言っていますな(笑)

内心の自由を侵すから矯正教育を通して内心の反省を求めるのは違憲である…ですか。
そういう切り口は初めてなので、今まで考えてみたこともありませんでした(笑)

さて、私の考える更正というのは必ずしも前述した元殺人犯の彼のように、禁欲的に
自分を痛めつけるような生き方の中で反省を具現しなければならないもの…とは思って
いません。一言で言えば、犯罪を思いついても良いが実行に移さない自制心と社会性を
身につけてくれれば充分だと考えています。(そうやって生きていけば、自然と罪の深さに
気づくはずだと信じているからでもあるのですがね?)

もともと内心の自由と言うのは、内心の確認方法がないことと、考えているだけなら、
他者に迷惑や危害を加えることはないと言うのが前提となっているはずです。ですから
内心を取り締まらなくても「公共の福祉に反するとはいえない」わけであって、憲19にも
「公共の福祉に反しないかぎり」という文面がないのであると考えます。

逆にね?エスパー物の様に「死ねーーーー!」って思っただけで相手が「ちみゃー!」と
死んでしまうような(それが当たり前の)世界なら、内心だって公共の福祉に反しない限り
と付け加えなければ危なくて仕方がないでしょう?現在の科学では「呪いのわら人形」なんて
「不可能犯」だから「殺人未遂」に問われないのであって、これがところ変われば、つまり、
「呪いという物が本当に存在する」と信じられている国では呪いを掛けている事実が判明すれば
それを罪として裁くことができるわけですよ。

それと…内心の自由が教育によって侵されるとするならば、道徳教育なんてのは違憲も良いとこ
ですよね?天動説を信じている人に対して地動説を科学的に説明するのも違憲ですよね?なんて
言い出したら「教育すべからく内心の自由を侵すもの」となりませんか?(笑)
いや、何なら、私とトーフさんが議論しているうちに、私がトーフさんの考え方に傾倒したら、
トーフさんは私の内心の自由を侵したことになりますか?逆に、万が一、トーフさんも死刑は
廃止したほうが良いなんて思うようになったら、私はトーフさんの人権を侵したことになりますか?

そういう面で教育と言うものは、その人の持つ悪い面を、その人の持つ良い面で覆うためにある
と考える私は、矯正教育もまた同じあり方であるべきだと思うし、結果的にそれが一定方向の様相を
呈するものであっても、憲法で言う内心の自由の精神に反するものではないと考えます。また、反省
しないから(監獄から)出すとか出さないとか言うのが人権問題であるとするなら、その問題が起き
ないように「ちーっとも反省もしていないし更正もしていないし、シャバに出たらまたやろー」って
思っているような短期囚を「刑期が来た」という理由だけで出すほうが、ずーーーーーーっと、
大きな人権問題だと思いますね。(ここで犯されるのは囚人ではなく衆人の人権ね)

それから…「死にたい」という願望を持って自殺を図った人に医療行為を施すのは自殺を図った人に
対する内心の自由に反する行為かもしれませんが、それを禁じることは、そんな人でも助けたいと
願う医療人への内心の自由に対する侵害かもしれませんね。「内心の自由」と言う権利が何らかの形で
他人の「内心の自由」と衝突する場合は、結局、それが「公共の福祉」に反するものか否かで決着を
つけざるを得ないのではないでしょうか?(今は死にたくても、明後日には死にたくなくなっている
かもしれないでしょう?見捨てて死なせるのが本人のため、ってのは社会通念としていかが?)

2188紫煙狼:2009/06/29(月) 23:31:35
ちなみに…最新の憲法学では憲法をどのように定義するのか私は知りませんが、私の知っている一昔前の
憲法学では憲法を「国民から国家への要求」であると定義しますから、本質は国家に対して国民が守らせ
るべき要求の集合体が憲法であるとし、憲法の中に国民の義務が記載されているのは「何らかの間違い」
と解釈していたものですが、今はどうなんでしょう?上手い説明がついたんでしょうかね?

で、何故こんなことを言い出したかというと「犯罪者は須らく正常ではない」という持論から来るのです。
これは責任能力とか、そういうのとは全く関係のない話で、例えば、遊ぶ金に困ったら、生活に困ったら、
働いて金を稼ぐのが正常だよ、と。ここで犯罪を思いつくのも、まぁ普通かもね、と。でもその犯罪を実行
してしまうのは何らかの異常ですよ?と思うのね。この異常と言うのは「教育の不足」によるものかもしれ
ないし、将来的には成長過程における脳神経回路の異常と言う病気として扱われるかもしれない。

でさ、例えば、私が今日、胃カメラを飲んだら、癌病変が発見されました。と、するわね。しかも、それが
手の施しようのない末期で、治癒を目的とするのではなく延命を目的とした治療しか残されていない。かつ
その延命治療のために私のQOLが著しく損なわれ、生きている意味が見出せなくなることが明らかだよと。
私としては、そういう診断を受けたら例え短くてもQOLを守りたいから終末医療を選択しますよ。これが、
とにかく長時間心臓を動かしていたいと思ったら延命治療を選択しますよ。これって、どちらを選んでも、
自分と家族以外には影響のない選択ですからね。でも、じゃぁ、私が死には至らないものの悪性の伝染病で
治療のために隔離されます…ってのを拒否する自由があるものやら。。。まぁ普通に考えたらないわな。
ってことは、治療自体は拒否できても、隔離は拒否できないわねぇ。

つまりですね、犯罪を犯すという病気があって、それが他人に危害を加える可能性がある限り、
隔離されるのは仕方のない話で、治療を受けるか否かは本人の判断でもいいでしょう?
犯罪を犯すという病気が治癒するまでは隔離状態を保つのが公共の福祉でしょうねぇ。。。
もしくは、犯罪を犯すという無知があって、それが他人に危害を加える可能性がある限り、
隔離されるのは仕方のない話で、教育を受けるか否かは本人の判断でもいいでしょう?
犯罪を犯さないという英知を学ぶまでは隔離状態を保つのが公共の福祉でしょうねぇ。。。

そういう面からも強制教育には反対ですよ。あくまで矯正教育。そしてそれを受けるか否かは
本人の内心の自由としても、治療効果・教育効果が見られないうちは隔離せにゃならんわ。

2189トーフ:2009/06/30(火) 03:17:34
やーどうも紫煙狼さんレスありがとうございます。まず>>2189にレスさせて頂きます。

>>つまり、私の考えでは「一つの事件で失われる人命は少ないほうが良い」という前提の下
    に、被害拡大を防ぐために現行犯人を殺害するのは許されても、被害拡大の心配がない
    状態で、より多くの血を流すような方法論が正当化されるとすれば、それは「感情に根ざ
    す理由」以外にありえないと考えているわけです。簡単に言えば「許せねぇ!殺しっちまえ
    !」ってワケですね。報復を基盤とし…といいますが、この報復自体が感情の賜物である
    ことは言うを待たないでしょう。そして、報復の限度を何処にするべきかと考える場合は、
   逆に感情を廃して勘案しなければ「情に流され」ると考えています。

「刑法の本質は応報である」という前に、「罪刑法定主義≒法治主義」というのがあり、報復
の限度はあらかじめ記述されなければならないことになっています。判決が完全に感情によ
り出されてもその限度はあらかじめ記述された範囲を超えることは出来ない。私が「刑法の
本質は応報」と申しますのは、立法段階においては「一般的抽象的な報復感情」を立法者
が考えて刑罰法規を作るのです。で、そうやって出来た刑罰法規に違反する人間が現れ
たとき、その一般的抽象的な報復感情を「この犯人」に適用する、のが刑事裁判なのです。
だから、被害者とその同時代人の法適用時=裁判時点の具体的報復感情と立法時の
一般的抽象的報復感情はずれていることが少なからずあるだろう、と見積もれます。被
害者の具体的報復感情と立法時の一般抽象報復感情は葛藤するのです。その葛藤が同時代人に
堪え難いものになれば(例えば軽すぎる・重すぎる)、「法の改定=新たな立法」となり、その新たな立法
が「一般的抽象的な報復感情」を記述したものとなり、具体的事件に適用される、という循環です。
「裁判時点の報復感情は立法時点の報復感情で制限される」ということです。
以上のことをお解り頂いた上で、死刑は感情に根ざすのです。懲役も感情に根ざすのです。

「多数決によって殺すか生かすか決める社会」とおっしゃるが、民主体制で死刑を維持する
以上はそういうことです。おっしゃられた「ユダヤ人」の例は憲法上14条でありえそうもないですが。

民主体制で懲役刑を維持する以上は
「多数決によって自由を取り上げるか否か決める社会(懲役等)」なのです。

それと、「生きている人間」と「生きている人間を殺して生きている人間」は「社会通念」から
して同じではない.
同じならば死刑云々の前に殺人罪自体が制定されないと思います。

2190トーフ:2009/06/30(火) 03:55:16
kenさん 無精髭さん、レスどうもありがとうございます。

なんであんな質問を書き込んだかと申しますと、
私も常識的にはお二方と同じように思えますが、私が参照した憲法教科書3冊全てに「絶対だ」
と書いてあることの意味が犯罪者との関係でよくわからなかったのです。

人の内心は外部から判定できない以上は、「矯正・更生したかしないか」の判定は、
ある場面である態度をとった(泣いたとか)・ある文章を記述したとか日常の起居とか
の「外部的行為」から判定せざるを得ず、「面従腹背」の問題を回避できそうも無い以上、
「矯正・更生プログラム」に過度の期待をすべきでないなーなどとつらつら考えていたもの
ですから。

監獄において「宗教者による悔悟」が強制されてはならない、というのは比較的わかるのですが
ね。

やっぱり、「反省しようがしようまいが、罰=報復は受けてもらうぞ」というのが刑罰の本質
ではないでしょうかね。

2191トーフ:2009/06/30(火) 05:46:18
>>2188に対してレスさせて頂きます。

というかその前の>>2189は紫煙狼さんの>>2186に対するレスです。間違えました
すいません。

憲法が「国民の国家に対する要求」というのはおおよそ正しいと思います。
「おおよそ」といったのは、「要求」という単語にちょっとした違和感を感じたからです。
我々は、自民党なり、民主党なりを支持して国会で多数をしめ、「立法」という行為により
自己の政治的要求を達成します。これが「法治主義」です。
憲法はこのような法治主義に対して限界を設けるものなのです。
「国家を統治するのは法に基づく」←法治主義
「しかし、作ってはならない法がある」←立憲主義

つまり、「国民が国家に対し、立法の限界を示したもの」なのです。
憲法を超えてはいかなる多数政党も立法出来ないタイプ(及び限度)の法がある。

で、現行憲法には納税・勤労・教育・12条の一般倫理義務が「国民の義務」として書かれて
いますが、私が調べてみたところ、紫煙狼さんがおっしゃっておられるごとく
「何かの間違い」で正しいんじゃないでしょうか。
例えば伊藤正己 憲法第3版 弘文堂によると、
「近代憲法の本質にそぐわない」「しかし、諸国の憲法でも伝統的に一定の義務規定が
おかれることがある」「それ自体としては法的意味をほとんど持たない」
などと書かれています。まあ「形式的な伝統美」みたいなもんですかね。

「犯罪者はおよそ異常」というのはまあわかります。「ゴルゴみたいに殺せる奴は稀だ」
という意味で。
でもしかし、「他人を害する可能性がある限り、隔離するのはやむを得ない」というのは
・・・・・?ま、たとえ話だとしても、
この世に「他人を害する可能性の無い人間」というのは存在できるのでしょうか。
かつての殺人犯も私もあなたも人殺しをする「可能性」はある。
「可能性」によって永久隔離されてしまってはたまらない。

ところで全然関係ないですけど「須く」というのは当為命令義務を表すのでは。
「須く」に「およそ・すべて」といった意味がありましたっけ?

2192Ken:2009/06/30(火) 15:30:27
>>2175アムネスティの死刑廃止国リストを見て、その国の人口推計を足し算していき、世界総人口から引き算すると、人類の70~80%が「死刑のあるエリア」で暮らしていることになります。死刑は人類の常識ではないでしょうか。(↑はたぶん2006年頃のデータだと記憶しています)

その計算はすごくずるいですw
人口トップ10のうち死刑存置国でないのはブラジルとロシアだけです。ひょっとすると人口の多寡と死刑の存廃に相関関係があるのかもしれないですね。

>>2179ただ、比較的よく見かける言い回しに一言釘をさしたかったのです。「世界」というとき、中東やアジア・アフリカを「なかったこと」にしているように思えまして。

アフリカ53カ国のうち13カ国が死刑廃止している。また20カ国が死刑執行していない。合計すると53カ国のうち死刑を行っていない国は33カ国である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E5%88%91#.E3.82.A2.E3.83.95.E3.83.AA.E3.82.AB

アフリカは死刑存置国のほうが少数派ですね。アジアにもカンボジア、ネパール、パラオ、東チモール、ラオス、パプアニューギニア、スリランカといった死刑存置国ではない国があります。中東というかイスラム国はおおむね死刑存置国ですね。死刑存置国を勝手に分類しちゃいますけど

・イスラム国
イラン、イラク、サウジアラビア、インドネシア、マレーシア、バングラデシュ、パキスタン、アフガニスタンなど。イスラム国では刑罰はおおむね重く、レイプ被害者の女性が逆に鞭打ちにあったりします。文字通りの応報刑キサースとかあります。あまり日本の参考にはならないです。

・共産主義国
中国、北朝鮮、キューバ、ベトナム。個人の自由が著しく制限させる政治体制なのでさもありなん、という感じ。やっぱり日本の参考にはならないです。

・コモン・ローの国
アメリカのみ。日本と同じ島国で治安のいい国にニュージーランドという国があるんですけど、死刑は廃止されてます。

・大陸法の国
日本のみ(かな?)。フランス、ドイツといった国が日本にとって一番参考になるのでは。死刑を廃止したところで普通にしてますよね。

・それ以外
アフリカの一部の国、中南米の一部の国、アジアだと台湾、フィリピン、韓国、シンガポール、インド。

2193Ken:2009/06/30(火) 15:33:59
>>すべからく

「すべからく」の正しい用法は「政治家はすべからく襟を正すべし」みたいに、最後に「べき」とか「べし」がつくことになっている。そんでこれは「政治家は全員襟を正すべきだ」という意味ではない。すべからくは「全て」という意味ではない。「すべからく○○すべし」という一種の定型句だ。つまり、「政治家はすべからくバカだ」という用法は誤りで、この場合は「政治家は総じてバカだ」とか「政治家は概してバカだ」とか「政治家はおしなべてバカだ」と書くべきところ。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%B9%A4%D9%A4%AB%A4%E9%A4%AF

やべー、俺も誤用してたw

2194無精髭:2009/06/30(火) 20:49:13
「姑息」とか「役不足」なんかと同じですよね(笑)。
多くの人が意味を誤解して使っていますよっていう話。

でも、「すべからく」というのはちょっと特別らしくて、
Kenさんもこれをお読みになったかと思いますけど、
http://www.kotono8.com/wiki/%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%8F
「全て」を「すべからく」と言い換えることを高級表現だと
思い込んでしまうのは、周りが誤用しているから自分も誤用して
しまっているというよりは、周りが使わない言葉をわざわざ使う
ことで自分自身に箔を付けるみたいな心理が働いているからでは
ないか、とのこと。

ちなみに命令形にも対応しますので、最後が「せよ」とかでも
好いみたいですね。

2195無精髭:2009/06/30(火) 21:18:53
>>2191
>でもしかし、「他人を害する可能性がある限り、隔離するのはやむを得ない」というのは
>・・・・・?ま、たとえ話だとしても、
>この世に「他人を害する可能性の無い人間」というのは存在できるのでしょうか。
>かつての殺人犯も私もあなたも人殺しをする「可能性」はある。
>「可能性」によって永久隔離されてしまってはたまらない。

…トーフさん。誰かさんみたいな曲解(?)は勘弁して戴きたいっス。
紫煙狼さんはそんなスケールの大きな話なんかされてないですよ?
下記を再度お読みになればお分かりになるかと思います。

>>2188
>で、何故こんなことを言い出したかというと「犯罪者は須らく正常ではない」という持論から来るのです。
>これは責任能力とか、そういうのとは全く関係のない話で、例えば、遊ぶ金に困ったら、生活に困ったら、
>働いて金を稼ぐのが正常だよ、と。ここで犯罪を思いつくのも、まぁ普通かもね、と。でもその犯罪を実行
>してしまうのは何らかの異常ですよ?と思うのね。この異常と言うのは「教育の不足」によるものかもしれ
>ないし、将来的には成長過程における脳神経回路の異常と言う病気として扱われるかもしれない。

上記を読んでもまだ分からないと仰る場合は、トーフさん自身が引用
された部分をよぉーく確認されればさすがにお分かりになるでしょう。

>つまりですね、犯罪を犯すという病気があって、それが他人に危害を加える可能性がある限り、
>隔離されるのは仕方のない話で、(後略)

一言で申しますと、犯罪を犯してしまった者(病人)は隔離されるべきで、
隔離された者の中に治療を拒む者があれば、そいつを永久隔離すべきである
というのが紫煙狼さんの主張でしょう? これがなあんで「私もあなたも
人殺しをする可能性がある」という論旨に繋がっていくんです? 
可能性も何も、現に犯罪を犯してしまった者についてしか紫煙狼さんは言及
されていませんから、「可能性によって永久隔離する」とかどうとかいう
話なんかされていないことになりはしませんかね。「(他人を害する)可能性が
実現してしまった人間については、とりあえず隔離しなければならないのでは
ないでしょうか?」というのが、紫煙狼さんの論旨の出発点じゃないですかね。

2196無精髭:2009/06/30(火) 21:29:07
これはトーフさんだけでなく、カレーさんにも言えることですが、
本当に本当に相手のレスをよく読んで戴きたいです。相手の言葉を
誤読しないよう心がけること、これは議論の鉄則でしょう?

これで曲解なんかされた日にゃあ議論をする気が失せますので。

2197トーフ:2009/06/30(火) 23:14:42
無精髭さんへ。レスありがとうございます。

一応紫煙狼さんの病人の話をたとえ話として受け取った上でレスさせて頂いております
ので、無論、こっちの読み方が間違っていればいつでも修正致します。
>>2195で引用なさった部分で紫煙狼さんは

責任能力とは関係なく、とおっしゃっておられますが、
「犯罪を犯したものに対してのみ隔離する」のなら、「責任能力」は無関係ではありません
よ?
犯罪が成立した=責任能力があったということですから、私は紫煙狼さんのレスを
保護処分のことをおっしゃっておられるのかも、と一応思いましてレスさせていただいたの
です。
少年法3条で「虞犯少年」という概念がありますが、これは「触法する恐れのある少年」
という意味で、「触法の可能性」によって家庭裁判所の審判に付されることになっています。

こういう保護処分のことをイメージしてレスさせて頂いたのです。こういうことを少年のみで
なく、成人一般にまで広めよう、というご主張なのかな?と。

いずれにせよ、ご本人からのつっこみがあるでしょう。

2198無精髭:2009/06/30(火) 23:43:52
下記のように並べてみますと、ずいぶんと趣が違って見えますよね。。。

紫煙狼さん>>2195これは責任能力とか、そういうのとは全く関係のない話で
トーフさん>>2195で引用なさった部分で紫煙狼さんは責任能力とは関係なく、とおっしゃっておられますが、

でもトーフさんがどういう疑問を以て>>2191をお書きになったのかは分かりました。
まあたぶん、トーフさんが仰るようなことは紫煙狼さんの念頭にはないんじゃない
でしょうかね。トーフさんの杞憂だと思いますけど。

私が申しているのは、なんていうか、もっと簡単な話でしてね(笑)。

オタマジャクシとカエルがいるとするでしょう?

で、カエルになる可能性を持つのはオタマジャクシだけですよね。なぜといって、
カエルには、もうカエルになる可能性はないから。つまり、カエルという状態は、
オタマジャクシがカエルになったということ―――カエルという状態が実現した、
まさにそのことに他ならないわけです。

上記、オタマジャクシを現時点で犯罪を起していない人間、カエルを犯罪を犯した
者とするならば、紫煙狼さんの考えもお分かりになるのではないでしょうか。

「でもオタマジャクシはいずれカエルになるでしょう?」という突っ込みは
しないでくださいね(笑)。

2199無精髭:2009/06/30(火) 23:51:11
ちなみに、紫煙狼さんは病人のお話を例え話としてではなく、
大真面目に論じていらっしゃるかと私には思われます。

これ以上の解説は私には分不相応の行為となりますので
控えさせて戴きます。

2200無精髭:2009/07/01(水) 00:09:02
>>2189
私から見ると、トーフさんと紫煙狼さんの見解って重なっているんだけど
交差していない、という観があるのですがね。

紫煙狼さん>>つまり「応報」の許される範囲にも限度があると言う考え方ですね。
トーフさん>>判決が完全に感情により出されてもその限度はあらかじめ記述された範囲を超えることは出来ない。

ここまでは同じなんですが、

>>「応報」のために加害者の命を奪うことが許されるというのは、多数決で生かすか殺すかを決めてよいと言うことです。
>>立法段階においては「一般的抽象的な報復感情」を立法者が考えて刑罰法規を作るのです。

この違いは目茶目茶大きいです。とっても大事なところですよ。
違いを簡単に言い表すと、紫煙狼さんは報復感情がどんなに集まっても・
どんな代表者に担われたとしても、抽象的・一般的なものにはなりえないと
仰っているのに対し、トーフさんはそもそも立法者には職務上(権利上)
一般的抽象的報復感情しか持ち得ず、具体的報復感情の由来は先の感情と
対決するために刑罰法規とは全く別のところにある(とも言えないか)、
と仰っている風に、私なんかからは見て取れます。

おそらく>>2186では紫煙狼さんの念頭には一般的抽象的報復感情という概念は
なかったのではないかと思います。私見では、紫煙狼さんはトーフさんの区別を
無視して、立法者による一般的抽象的報復感情(長いなぁ)を具体的報復感情の
総体として捉えていらっしゃるように思えます。ですから報復感情と言っても、
個々においてはさまざまな違いがある以上、その総体との偏差はかなり大きいはず
なんですが、やはり個々人(大多数)の報復感情を一部の人間が代弁したものに
過ぎませんから本質的には何ら変わりはない。こんなもの法の下で正当化できる
かいっ!というお立場ではないかと。別スレでこれに近いことを仰っていたと
記憶しております。


>以上のことをお解り頂いた上で、死刑は感情に根ざすのです。懲役も感情に根ざすのです。

刑罰に根ざすとされているのは、一般的抽象的報復感情のことですか?
それとも具体的報復感情のことですか? 気になってものでして。

2201紫煙狼:2009/07/01(水) 00:53:26
くけけけけ(笑)

人が仕事に四苦八苦している間に随分とあったみたいね(笑)
まずは訂正から行きましょうか。うん。「すべからく」は英訳すると「needo to」だよね。
ただし、私としては「日本人特有の「和」という概念は日本語にも生きていて、省略しても
意味の通じるものは省略するすることを妨げられない」という言い訳の下、「犯罪者はすべ
からく正常ではない(と解釈すべし)」の一部を省略したまでよ、と強がって見せましょう(笑)

「正常ではない」の逆には「正常である」と言う言葉がありますわ。で、この話に限定すれば、
この正常値には血中脂肪の許容値と同じかそれ以上に幅があるはずですね。つまり、私が言う
正常と言うのは「安易に犯罪という手段を用いて問題解決を図る」という志向を「あえて、
犯罪ではない方法で解決しようとする問題解決能力の有無」でカバーできるか否かであって、
逆に、例えどのような事情があったとしても犯罪を思いつくことすら許されない状態とは思って
いないよ?それを実行に移さない良識さえ身につけてくだされば充分でござんせんか?(笑)

次に、立法時に報復の幅を限定する、と言っても、その立法時の報復感情に誤りがある、
もしくは、その立法時の報復感情が足りないと判断された場合、法律は新規追加されたり、
削除されたりするものじゃないですかね?たとえば、尊属殺人罪と言うのは、後に
「法の下の平等に反する」と言う理由で違憲判断があって、その立法時の報復感情が憲法により
否定されて削除されたものでしょう?もし、この報復感情が正しいものであったとするなら、
むしろ憲法が改正されていたのではないでしょうか?(憲法改正というのは大事意だから、
易きに流れた…と解釈しますか?それはそれで法運用の趣旨として大事だなぁ。)

でね?懲役も感情に根ざすものであり、死刑もまた感情に根ざすものである、立法段階において正と
しても、犯罪者を(その虞れがなくなったと判断されるまで)隔離することは同一犯による新たな
被害者を出さないために必要であると感情論以外での理由付けが可能ですなぁ。しかしですよ?
更正するなら出すがよし、しないなら出さぬも当然、という尺度で測ったときに、更正の可能性と
ともにその生命までも奪うという刑罰に感情以外の理由付けが可能ですかしら???
そして、トーフさんは「多数決で命を奪う…民主主義とはそういうものよ」と民主主義なんて大層な
物を持ち出して説明つけたもんだから、私に言わせりゃ「死刑」も「民主主義」も随分安く見られた
ものだなぁ…と人事ながら憤慨しますな。

そういう言い方をするなら、私は「懲役」自体にもかなーり疑問を持っておるわけですよ。
憲法では「犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」と規定されて
いますから、憲法が意見であるか否かと言う議論をトーフさんとするつもりはないよ?だって、
私が「懲役っ言っても結局は強制労働じゃねーの?」って言っても、トーフさんは「憲法を読め」と
言って来て相手にしてくれないのが分かりきっているからね。でも、厳密に私の考えを挙げるなら、
懲役と言う名の合憲強制労働も「基本的に」正しいとは言い切れないと思うなぁ、ってのが感想ですね。
ただし、穏やかに社会生活を送りながら働いている人達の税金で囚人を養うってのも、合理的におかしい
話ですよね?犯罪を犯して監獄内で働かずに生涯を安全にすごせる、なんて報復以前にロジックとして可笑しい。
ならば、自給自足のための労働を犯罪者に許す…って形の一種の請願作業的なものとして監獄内労働は
存在するほうが合理的だし、シャバでも働かずに飢え死にする人が居るんだから、監獄内でも働かない
ことが飢えに直結してもかまわないと思いますよ?ただし、生活保護のように働けない理由がある者に
関しては、保護するべきだと思いますがね。(単なる怠け者にも生活保護が出ているなら、監獄内でのんびりも
許すしかなかろうと思いますね。)

2202トーフ:2009/07/01(水) 01:01:58
無精髭さんへ。>>2200にレスさせて頂きます。

私の言う「一般報復感情(長いので略してみましたw)」と
紫煙狼さんがいっておられたという「具体報復感情の総体」はほとんど同じ意味だと思われます
よ。少なくとも、一般報復感情と具体報復感情が全く別の所からくる、というのは全然違います。

たぶん「立法」の意味について誤解があるのではないかと思います。
刑罰法規であれ、民法であれ、「立法」するときには「一般性・抽象性」を考えなければ
立法になりません。「トーフは何々をしてはならない」では憲法違反の立法でしょう。
「人は」とか「日本人は」とかでないと立法できない。
同じく、「傷害罪は懲役15年だ」「いや16年だ」「いや5年でよい」という個別具体的報復
感情を勘案して立法者が「15年」がよいだろう、という判断をして、
日本刑法=日本人の一般的抽象的報復感情として記述される、のです。

具体的個別的報復感情→代表者による一般的抽象的報復感情の認定→立法(刑罰法規)
と、こうなります。

「根ざす」のは個別具体報復感情ですが、「法治主義」を前提にする限り、立法時点と
裁判時点は必ず時間がずれます。裁判時点の裁判官がいかにその事件が起こった当時の
個別的具体的報復感情を共有してしまっても、立法時点の一般的抽象的報復感情を超えて
判決を出すことは許されない。と、こういうことを>>2189で申し上げたつもりです。

「法治主義」が前提にして頂けないと、この説明は無駄になると思いますが。

2203紫煙狼:2009/07/01(水) 01:21:30
さて「責任能力の有無を問わず」に引っかかられたご様子。

コレの意味することは一言ですよ?責任能力が無いとされる事由って何よって話ね。
明らかな精神異常により判断力等がなかった、とされれば責任能力は認められませんね。
逆説的に、責任能力を認めると言うことは、被告人が正常であると言う診断ですよ、と。
そこに対して、私は「責任能力を問うことのできる異常」もあるのでは?と言っている
わけです。(それが所謂「罪に問われて刑に服している人たち」なんですがね?)

つまり善悪の判断がつき、その行為が悪であると理解しつつ、犯罪と言う手段をとってしまう
弱さ、もしくは犯罪以外の方法が見えなくなってしまう視野狭窄を私は「異常」と表現している
わけで、G13型トラクターの3文広告を出さねば姿も現さず、挙句、法人口座しか門戸を開いてい
なかったはずのスイス銀行に報酬を振り込ませる「有限会社ゴルゴ」さんを想定しなくても、
犯罪を犯すという状態、犯罪を犯せるという状態自体が正常な判断とは相反するものであるとの
話をしているわけですよ。

そして、私だって、何らかのきっかけで犯罪に手を染めるかもしれませんわね。トーフさんだって
何らかのきっかけで犯罪に手を染めるかもしれませんわね。でも、現状ではその心配は殆どないで
しょう?逆に「ぜーったいに犯罪に手を染めることなんてありえませーん。だって、犯罪という
方法を思いついたことすらないですもーん」なんて聖人君子が居たら、そりゃ素晴らしい心がけでは
ありますし、他人に危害を加える虞れがまーったく無いんですから、全然かまいませんがね?それも
「正常」と表現していいのかどうか迷いますわな。まぁ「正常」の幅の中に含んでしまっても、
何の問題も生じませんし、更正の目標値をここに設定するのも構いませんが、トーフさん程度の
「犯罪に手を染める可能性」まで危険性が減少したら「正常に戻った」と判断していいと思いますよ?

もう少し言えば、癌で言うところの5年生存率ですかね。癌病変を体から取り除いて後、5年間無事に
生存していた者は「完治した」と判断するらしいですね。私の妻も癌病変を取り除いて2年経ちました。
あと3年後には「完治した」と判断されるでしょう。同様に満期だろうと何だろうと出所後一定期間は
犯罪志向の再発を小さな芽の内に摘み取るために仮出所と同様の保護観察期間があってよいと思いますよ?
もちろん、小さな芽が出たからと言って即隔離と言うのは行き過ぎだと思いますから、それはそれ、
アルコール依存症から回復した人たちの集まりのように、もう一度戻ってしまいそうな自分を励まし、
同じ悩みを持つもの同士で悩みを打ち明けあえばよろしいのではないでしょうかね?
(まぁ、そういう集団が一致団結してより凶悪な犯罪を犯す心配も、なきにしもあらずですが。)

2204紫煙狼:2009/07/01(水) 01:44:19
ちなみに、トーフさんは法律家の卵と言うことですから、犯罪者と話をする機会も、被害者や被害者遺族と
話をする機会も多いでしょう?カレーさんに聞いたことと同じ事を伺いますがね?どういう感想を持つことが
多いですか???

私は職業がシステムエンジニアで、およそ法律とは関係のない生活を送っていますがね?ここで投稿する際は
必ずメアドを明記していますよね?おかげで、元犯罪者さんからも、被害者さんからも、被害者遺族さんからも
案外頻繁にメールが舞い込んでくるのですよ。で、そういう人は私がどういう信念の持ち主か知っていて、
「死刑廃止を唱える紫煙狼に死刑を熱望する被害者遺族から」メールが来たりするわけです。そして、最初は
ケチョンケチョンに私に悪口雑言を並べていた被害者や被害者遺族さんも、じっくり話をしているうちに、
死刑廃止に理解を示してくれるとはいえないまでも、実際に会って下さる所までは話が進んだりするわけです。

で、被害者さんの話を聞いていると、その報復感情の強さには私も「軽視してはいけないもの」を感じます。

しかし「私と話したことがある被害者さん(もしくは遺族さん)」に限定すると、最終的に彼ら(彼女ら)が
熱望しているのは加害者の破滅(または死)ではないと言うことが伝わってくるんですね。もちろん、私が
曲解している可能性は否定しませんが、私には彼ら(彼女ら)の叫びが「血反吐はくほど泣き叫んで悔い改めよ!」
という声に聞こえるのです。そこで、私は暴挙を覚悟で伺うわけです。「加害者が悔い改めることなく死刑になる」
のと「死刑にはならないが、心から反省し悔い改める」のでは、どちらを望みますか?と。(現13例)

その場で即答された1例を含め、全ての例で「簡単に死なれて、この事件が終わった事になるより、後悔のなかで
苦しみながら生きながらえて欲しい」というのが答えでした。うち2例は「でもアイツが後悔するなんて思えない。
だから少しでも長い時間、死の恐怖におびえさせて、最後には残忍な方法で殺して欲しい」という但し書きがつき
ましたね。

トーフさんは、この言葉に「死刑永久存置」の必要性を感じ、私は「矯正教育の必要性」を感じるのでしょうね。
「でもアイツが後悔するなんて思えない。」の答えとして「矯正教育を通じて後悔の念を呼び起こさせることが
可能になる日が来る」と考えるか「そうだ、後悔なんかするわけがない。いや、後悔なんて求めるな。国家が殺して
事件を終わらせてやるよ」と考えるか…。ここは埋まらぬ溝かもしれません(苦笑)

2205トーフ:2009/07/01(水) 03:33:48
紫煙狼さんへ。先に>>2204にレスさせて頂きます。

私も被害者遺族にあったことや、公刊されたものを読みますが、
「死刑になること」と「事件が終わったことにすること」を一緒にしてはいけない。

私のお会いした被害者遺族で「報復感情」を否定された方はいません。読んだ範囲でも
「報復感情」自体を否定されている方はおられないという認識です。意外に多いと思ったのが
ご自分の手で殺してやりたいとおっしゃられる方です(父親というステータスを持つ人に多かった)。
国家が死刑にするのもいやだ、ということです。

それよりも実際的な問題としまして、殺人被害者遺族の方々は周りの無神経言動に対し
とても苦しんでおられる、というのが正直な感想です。司法関係者は
ご存知の通り、「判決が出た以上一丁上がり」ですし、親しいと思っていた友人やら隣近所の
ひとでも「私も犬を飼っていたからわかる」などと口にしてしまったりというようなことです。

一言で申せば事件当事者(遺族含む)とその他の人間では事件を境目にしまして、時間の流れ
が一変する、ということでしょうか。

被害者遺族がいた場合、その遺族は「楽しむ」ということに対して非常に拒否的になられる。
遺族が複数人で家族だった場合、家庭崩壊の危機はいたるところにある。それに対し、
加害者の家族は割合「団結」していたりするのです。それまた被害者遺族にとり、つらいこと
なのです。

被害者遺族にとり、報復感情とともに、事件と直接関係ない周りの人の態度がとても重い
比重でのしかかっているのだなぁ、と私は感じております。

お会いになる機会が多いそうですが、もしかして
「被害者遺族の感情を死刑につながるかつながらないか」という視点でしか話を聞かない、
ということだったら、お止め頂きたいなぁと思います。そういう話の聞かれ方もつらいのですよ。
遺族にとり。

私が死刑との関係で被害者遺族がお話になったことから汲み取るところによれば、
「とりあえず死刑になってくれ、お前が生きていること自体に耐えられない」というような
ところでしょうか。
「刑罰(死刑を含む)」は遺族にとり、スタート地点に等しいもので、断じて終わりではない。

まあ、私が考えているのはこのあたりです。

2206トーフ:2009/07/01(水) 04:40:58
で次に>>2201にレスさせて頂きます。

前にちらっと話題になったような記憶があるのですが、
おっしゃられることを全て認めたら、「殺人と窃盗」の軽重はつくのか、ということです。
「窃盗でも更生しない以上20年30年隔離し続ける」
「殺人罪でも更生した以上10日で釈放する」
というのがありえないと紫煙狼さんもお認めになったような記憶が。

「更生したのに釈放しない」という場合があることをお認めになる以上、それは「応報」を
考えているからではないですか、というのが私の疑問なのです。

紫煙狼さんのお立場で、「隔離期間」の長短を決めるのは、何なのでしょう。
「病気」のお例えが本気だとされると、なおった以上釈放せねばならないのではないですか。

私の理解によれば懲役=強制労働にも疑問をもたれていますが、それを
「労働なしの隔離」としたとしても、「犯罪を犯さない以上隔離されない」わけですから、
そこで「応報」が考慮されていることになるのですが。隔離を受け入れるかどうかは本人に
選択ができないわけでしょう。

それが多数人に受け入れられ、刑罰法規として記述されればそれが「一般的抽象的報復
感情」となるのですが。で、その法が具体的事件に適用され、「具体的報復感情」との
葛藤が堪え難いものになれば法が改定される、という循環は>>2189に書いた通りです。

紫煙狼さんがおっしゃっておられるようなことは、「少年」が人を殺した場合に実現している
かと思いますがどうでしょう。少年法のことですが。こういうことを一般化しようということなのでは
ないのでしょうか。このへんのことについてもコメント頂ければと思います。

2207紫煙狼:2009/07/01(水) 13:53:17
>>2205

まず最初に
>「被害者遺族の感情を死刑につながるかつながらないか」という視点でしか話を聞かない、
>ということだったら、お止め頂きたいなぁと思います。そういう話の聞かれ方もつらいのですよ。
の部分ですが、犯罪被害者の居場所を突き止めて押しかけていくわけではなく、あくまで、相手側からの
アプローチがあったときのみの話ですので、そういう意味では、私も暇人ではないし、相手も暇ではないし、
無駄な時間をすごすつもりも、すごさせるつもりはありませんから、私は可能な限り中立的立場として
お話を伺うスタンスを自分なりに守っていると思っています。また、相手も私のスタンスを知った上での
関係ですので、おそらくご心配のようなことはないと思っています。
もっとも…相手のほうからアプローチがある場合のみという時点で、任意に抽出した無作為的なデータでは
ないという自覚もありますので、世の中の全ての犯罪被害者がそう思っている!という主張でもありません。

それ以外の>>2205については「そういう意見もあって当然」もしくは「それが普通でしょうね」という感じで
特に抵抗はないです。その上で
>「死刑になること」と「事件が終わったことにすること」を一緒にしてはいけない。
という意見も私としては同じ意見なのですが(むしろその後に残された日々こそが事件の本質にさえ感じます。)
私にアプローチしてくる被害者や遺族さんは、そうは考えないようです。つまり、トーフさん的にも私的にも
「終わりじゃないよ」と思っても、そう思ってくれない被害者さんや遺族さんがいるというデータは、
特記事項的な意味合い程度はあると思います。

これは、私が死刑廃止派であるという前提が邪魔しているのかもしれませんが、
「死刑が執行されても、時間が終わるというわけではないですよ」という話をすると
「きれいごとをぬかすな!」と叱られる事が多いです。
(私が現状においては存置派である、というご認識を頂いていてもね。)
そういう意味では、私にアプローチをしてくる被害者さんや遺族さんの多くは、
自分の心の中で整理がつく前に司法によって何らかの決着をつけられ、終わったことにされるという
不安があるから、私のような者を捕まえて心情を吐露したいのでしょうね。。。

2208Ken:2009/07/01(水) 14:34:09
>>お会いになる機会が多いそうですが、もしかして「被害者遺族の感情を死刑につながるかつながらないか」という視点でしか話を聞かない、ということだったら、お止め頂きたいなぁと思います。そういう話の聞かれ方もつらいのですよ。遺族にとり。

それは大きなお世話でしょ。先方は紫煙狼さんの文章を見て、紫煙狼さんが死刑廃止論者であることを知りつつ、コンタクトしてくるわけですから。

メールアドレス欄にそんな有意義な使い方があるなんて想像できなかったです。数年のうちで13件、ということですよね。私の感覚的には非常に多いです。第三者に単に話を聞いてほしい方がそれくらい多いほど、刑事事件の被害者・遺族の対応がなおざりにされてきた、ということなのでしょう。

2209紫煙狼:2009/07/01(水) 23:18:42
>>2206
>「窃盗でも更生しない以上20年30年隔離し続ける」
判決時点において窃盗罪の判決が20年以上になるなんて、ありえないと思いますよ。
ただし、実際の収監後の様子によって釈放が先伸ばしされた結果としての20年30年なら、
あっても問題は無いと思います。次に
>「殺人罪でも更生した以上10日で釈放する」
とすると抑止効果は期待できませんよね?ですから、更生してもなお収監し続ける必要を感じます。

以上から総合してこのように纏めていただきたいですね。

懲役又は禁錮に処せられた者に(特に著しいと認めるに足りる)改悛の状があるときは、有期刑については
その刑期の三分の一を、無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる。

これによって判決における刑期と言うものが無意味にはなりませんよね?トーフさんは報復を基本として刑法に
刑期が規定されると仰いますが、私は報復的側面より抑止効果としての刑期を考えますから「この程度の罪で
こんなに拘禁された日にゃたまらねぇ!」と思うように刑期を刑法で定めて構わないと思います。
しかし、人間の更生力、可能性を信じる私としては、更生した者を永久に隔離するのも、更生する可能性が
残されている者を永久隔離する方法も良しとしません。基本は全ての犯罪者に社会復帰の可能性を与える
のが前提です。

さて、抑止効果を求めて刑期を定める以上、更生していてもそれが著しいと認めるに足りない者に関しては、
刑期満了まで監獄内で生活していただくのが正しいと思います。つまり、仮出所と言うのは稀であって構わない
わけです。これは4年制大学で卒業に必要な単位数を2年で集めたら2年で卒業させるのかしら?法学の知識が
驚異的に高ければ、法科大学院どころか高校を卒業していない中学生でも司法試験の受験を許可しますか?
同様に、運転能力と安全意識の高さ、交通法規を遵守する精神の持ち主なら、18歳未満でも普通自動車免許の
受験資格を与えますか?と同義です。

ただし、著しく評価すべきものがあれば、特例として飛び級を認めても良いよ、という事ですね。実際、諸外国には
飛び級の制度があるところもありますから、それが社会通念として一般的になれば、必ずしも仮出所が稀でなくても
構いませんよ?大切なのは「飛び級するってすごいね」と思われる程度に困難が伴う必要がありますが。。。

で、これって、そんなに少年法に近いですかね?私が少年法に疎いと言う理由もさることながら、少年院に送られた少年
が、どのような過程を経て社会復帰しているのか現実を存じ上げないので、コメントするには少々勉強しなければならな
いようです。少年法では更生しない少年は社会復帰させないのですか???

2210ufloat:2009/07/01(水) 23:33:00
最近になってほんの少しだけ改善されてきてはいるようですが、刑事事件における
「被害者置き去り」の姿勢は、多くの被害者・遺族の方々が指摘するところですね。

>メールアドレス欄にそんな有意義な使い方があるなんて
紫煙狼さんの人徳の賜物でしょう。仮に私がメールアドレスを明記していたとしても、
送られてくるのは怪しい広告ばかりなり。仮に被害者の方からメールが来たとしても、
悪口雑言を送りつけられるところから始めて、自分の意図を理解してもらえるかどうか。
トーフさんが懸念されているようなことは120%ないでしょう。そのような不誠実な
態度では、そもそも「悪口雑言」から「対話」を生み出せるとは思えません。

2211紫煙狼:2009/07/01(水) 23:36:09
>>2208
最初のころは全部イタズラだと思っていたんです。でも、あまりに熱心に面会を求める声が
「元殺人犯」を名乗る人からありまして、私も酔狂に付き合おうと思ってお会いしてみたら、
これが本当に自分が犯した事件の記事の切抜き等を持ってきていて、その事件について
訥々と話し始めてくれたのです。正直驚きました。
その後、彼の口利きで、多くの「元犯罪者」さんたちとお話をする機会に恵まれました。

そういう経緯で、全部が全部イタズラと言うわけでもないな、と思って、それまでよりは
何倍も誠意を持って一つ一つにお答えするようにしていましたが、私自身、被害者さんや
被害者遺族さんから「会って見ませんか?」と持ちかけられるとは夢にも思っていませんでした。

2212トーフ:2009/07/02(木) 02:11:25
紫煙狼さんへ。レスありがとうございます。>>2209へレスさせて頂きます。

んー「抑止効果」というのは「応報」を前提にしないとでてこないのではと申し上げているのです。
お気づきだとは思われますが、「刑罰の本質は応報である」と認めてもそこから論理的には
「死刑」はでてこない。無論「懲役」もでてこず、罰金もでてこない。出てくるのは
「刑の軽重」なのです。死刑廃止国の刑法でもその本質は応報なのです。ドイツ刑法とか
フランス刑法とか。スウェーデン刑法はちとちがってて、「制裁」という概念を導入していますが
「刑の軽重」がある限り、その本質は応報なのです。
紫煙狼さんのお立場で死刑が廃止されると、終身刑か現在の無期懲役が最高の刑になる
のでしょうが、その「最高の刑に該当する罪としない罪」が分けられないでしょう、ということです。

少年法は、身柄は拘束されますが、拘束された後、少年院や少年感化院等で行われる
のは「罰」でなく「矯正教育」ということになっていることから、「そういうものかな?」として
お聞きしたまでで、別に他意はございません。釈放されないということはないでしょうが、
「出所するかしないか」は犯した罪の重さによるのでなく、もっぱら「矯正の進み具合」
だと聞き及んでいます。年齢により拘束すらされないこともあるようです。中学生(たぶん
2年生)の事例で、同級生を殺しておきながら3日目に普通に登校してきた事例があります。
うろ覚えですが、ご必要ならソースとってきます。

すべての犯罪者に更生の機会を、ということを認めたとして
紫煙狼さんのお立場ですと、「再犯者・累犯者」はどのように扱われるのでしょうか。

「事件が終わったこと」になるのはあくまで私や司法関係者や精神科医といった第三者にと
ってであり、残された遺族にとっては「大事な人がいない時間」がえんえん続く。
被害者の遺族はご自分を責めることが以外に多いという印象です。「あのとき外出をとめれ
ばよかったのだ」とかいうふうに。でも、希望がない訳でなく、15年20年という単位の時間が
立てば、なんとか笑ったり楽しんだり外出したり、事件のことをご自分の「客観的な記憶」
として捉えることができるようになれる、こともあるようです。

宜しくお願いします。

2213トーフ:2009/07/02(木) 04:23:59
紫煙狼さんへ。追加レスさせていただきます。書き忘れました。

紫煙狼さんは殺人者殺人被害者両方お話をお聞きしておられるようですが、
殺人者が話す内容は、たいがい被害者遺族にとり、「精神的なセカンドレイプ」だという
のが私の認識です。とりわけ法廷においては、殺人犯人と弁護士の言動により、深く傷つけ
られます。「被害者にも落ち度があったのだ」という方向の言動によってです。例えば
殺人罪ですと、「あいつは金を返さなかったのだ」
強姦罪ですと、「被害者は露出の多い服を着ていたのだ」とかいわれることによりです。

これらの理由は「殺されても仕方がない理由」「強姦されても仕方がない理由」にはもちろん
なりえない。結局、「言わない方がマシ」な言動でしょう。が、現在の裁判官は結構こういう
言動を聞いてしまって刑を割り引いてしまう。

紫煙狼さんがお会いした被害者遺族さんはどのようなことをおっしゃられておられたか、
また紫煙狼さんご自身のお考えでも結構ですからお伺い致したいです。

2214ufloat:2009/07/02(木) 06:54:15
例によって割り込み、失礼いたします。

>>2212
応報の側面を必ずしも否定するつもりはありませんが・・・。
「応報」というより「社会の安全のため」とは考えられないでしょうか。
窃盗より殺人の方が重いのは、さらなる犯行に及ぶ可能性がある人間を社会から隔離し、
かつ抑止効果によって同様の犯罪を抑制する必要性がより高いからではないでしょうか
(このようなことを書くと、たまに「犯罪者は全部死刑が社会にとって最も安全だ」
などと言う人が現れますが、これでは今までの議論が全部無駄になります。
そもそも刑罰は犯罪者とはいえ人間の人権を制限するわけですから、抑止的に運用
されるのは当然で、無節操に認められてはいけませんわな)。
抽象的危険犯との兼ね合いからしても、「外患誘致」なるものが日本の刑法における
最高の罪であったりする点を考えても、第一義として「社会の安全」ははずせない
のではないかと愚考いたしております。

# しかし、トーフさんのおっしゃる「応報」論は、「応報」の言葉の響きのせいで
# 多少受け入れがたくなっている印象が否めないような・・・。

2215トーフ:2009/07/02(木) 09:49:22
ufloatさんへ。レスありがとうございます>>2214にレスさせて頂きます。

「社会の安全の為」を第一義にすえるのは消防や病院・水道・衛生管理などなど行政一般
であり、刑罰の本質をそうとらえると、そもそも「罰」を与えることの意味が解らなくなるので
はないでしょうか。

紫煙狼さんもufloatさんも「犯罪抑止」というお言葉を
お使いになられますよね?私はこれを日常用語に言い直すと「恫喝」のことだと理解しており
ます。「抑止」と書いてある所で「恫喝」と読み替えられないところはちとあやしい。
「それをすればこれをするぞ」「殺人すれば死刑だぞ(終身刑だぞ)」という恫喝のことを
「抑止」というのです。「死刑になってもいいもん」という人には恫喝=抑止が効いてない訳です.
抑止力=恫喝力です。核抑止=核恫喝力です。
で、罰金より懲役のほうが抑止力が大きく、懲役より死刑の方が抑止力が大きく、
絞首刑よりも八つ裂き刑の方が抑止力=恫喝力が大きい、と一応考えられる訳ですよね。
で、この「抑止の大小」をつけるのは「応報の感情」ではないですか、と申し上げているのです。
でさらに、窃盗をどの刑に属させるか、立ち小便が死刑で良いかとか刑法に位置づけるのも
「応報の感情」ではないですかということなのです。

さらに、「応報感情」を前提にしないと、「刑が限定されない(にくい)」ということもあります。
「目には目を・歯には歯を」という言葉がありますよね?これには
「目を奪われたのだから相手の目を奪う以上のことはしてはならない」
「歯を奪われたのだから相手の歯を奪う以上のことはしてはならない」という
報復を限定する機能があるのです。
他方人間の持つ「危険性」やら、「更生」やら、未来に向かう要素は無限ですから、
刑罰を限定する機能を持たない(持ちにくい)のです。ゆえに近代憲法下の刑法として
採用されにくい。罪と罰はあらかじめ限定されていなければならない=罪刑法定主義
ですから。


抽象的危険犯・具体的危険犯の分類は刑法の下位概念ですから、関係ないと思います。
「外患誘致罪」はそもそも「危険犯」ではないので、どっちでもないです。「外患誘致罪」が
仮に罰金2千円でも「刑罰の本質は応報」です。

私の「応報論」とおっしゃって頂きましたが、「刑罰の本質は応報だ」というのは
刑法学の通説なので、受け入れ難い、とおっしゃられても・・・・刑法教科書でも普通に
「応報」と書かれています。
まあでも、私の説明は解りにくいかも・・・・・努力いたします。

2216Ken:2009/07/02(木) 15:02:59
>>2150「死刑が公共の福祉に合致するか否か具体的に論じないと意味が無い」とのお言葉ですが「何をやっても何百人何千人をどんな殺し方で殺しても犯人の命を保障する」というルールが公共の福祉に反するのは私には明らかで、具体的ではないでしょうか。

それは私にとって具体的ではないですw
あと極端な例はダメだってばw
「何百人何千人」殺したんだったら、死刑廃止論者だって「処刑したほうがいいかも」って思っちゃうでしょw

死刑のような問題は、法理論としてだけ論じるのは片手落ちで間違っており、実態論としても論じる必要があります。「具体的に論じる」というのはそういう意味です。

私の言いたいことはもうトーフさんが書いてますけど、「刑罰の本質は応報だ」と言ってみたところで刑罰が一意に決まるわけではなく、どの犯罪にはどういう刑罰が適切であるのかは具体的に実態として論じるしかないです。「殺しまくったけど...10日めで釈放」というのは明らかに罰が軽い例ですが、逆に「盗みで死刑」という場合、ほとんど全ての人は「それはどう考えても重過ぎるだろ」となるわけです。しかしながら、盗みで死刑になる国・時代というのは存在したわけで、どういう罪にどういう罰が適切であるのかは「今の日本で」という文脈で具体的に考える必要があります。法理論は不要だ、という意味ではないです。

トーフさんは最高刑は死刑であるべき、と主張しているだけみたいですね。今の日本で何百何千人殺すのは戦争しか思い浮かばないので、内乱罪と外患罪を残して死刑を廃止、ないし殺人罪には死刑を適用しない、というのでも私は何も文句ないです。

>>また、現在までの世論調査にで、死刑維持すべきという意見が常に多数を形成していることや、ドナーカードのように、「あなたを殺した人間をいかなる刑罰に処してほしいですか?」というようなカードを自分で書くことになれば、「死刑」の選択がこれまた圧倒的多数であろうと私には思われます。

各種世論調査では8割の人が死刑を支持するそうです。しかしながら、多数派が必ずしも正しいわけではありません。正しい判断は、それを下すために必要な情報全てを手に入れることができて、はじめて下すことができます。日本の死刑制度はこの前提を満たしていないので、これら8割の人々の判断が正しいという保証はないです。

>>kenさんは「死刑が公共の福祉に合致するかどうか確信がもてない」とおっしゃいましたが、懲役刑や、禁固刑・罰金刑などについてはもっておられる?おられるとしたら、どのようなご理由なのでしょうか。

そういう意味ではないので、直接的な答えにはなってないですが...。
上のほうの冤罪死刑に関する議論なんかを参照してもらうといいのですが、死刑は他の刑罰と本質的に異なります。そのため、他の刑罰と異なりいろいろと予防規定があるわけでしょう。18歳未満はダメだとか。死刑はもっとも深刻な人権の制限なのでその適用には他の刑罰よりも慎重さが求められるわけです。

無期懲役と比べて死刑のほうが抑止効果がある、というのはそうでしょうが、それは実際どれくらいなのか。はっきりと区別できるくらいの差があるのか。なんとなく死刑のほうが刑罰として効果がありそう、というくらいだったら死刑は適用しちゃダメよ、というようなことが言いたかったのです。あるいは、懲役刑のほうが罰金刑よりも罰として効果はありそうなんですけど、この場合、その差がそれほど明確でなくても懲役刑が存在するのは構わないですよ、死刑ほどは深刻な人権侵害ではないので、というようなことが言いたかったのです。

2217トーフ:2009/07/03(金) 04:32:39
kenさんへ。レスありがとうございます。>>2216へレスさせて頂きます。

「最高刑は死刑であるべき」と考えているのはその通りなのですが、私は殺人にも死刑が
適用されなければならず、一人を故意に殺せば死刑が原則だと考えております。
なので、「それだけ」というのは・・・
「何百何千と殺しても〜」というのは「廃止したら」そうなるでしょう、ということです。
kenさんは死刑自体は肯定され、それが適用される罪について私と違いがある、ということ
と理解してよろしいのでしょうか。

「多数派が正しい」の「正しい」の意味がよく分からないのですが、民主体制においては、
多数を獲得しなければ、法律にならない。改定もできない。廃止もできない。
別に死刑に限らず、「正しいという保障」など、およそ国家の行為にありますかね?
「必要な情報を全て得られて下された判断」の具体例って過去にありますでしょうか。

私は「正しい・正しくない」というよりも、言論の自由を前提とした「民主体制下における多数
獲得競争の勝敗」から、死刑反対派も賛成派も逃げるべきでない、と思います。
民主体制は「少数派が多数派を統治することを認めない」のですから。
今日の少数も明日の多数を獲得すべく、言論を鍛えるべきではないでしょうか。
今日の多数も昨日の少数に逆転を許さぬよう、言論を鍛えるべきではないでしょうか。

しつこいようですが、私は死刑もその他の刑罰も本質は「応報」なので、本質が異なる、
とは考えません。自分の大切な人が31歳によって殺されたのか、13歳によって殺されたかは
全然関係ない。その18歳の規定は廃止されるべきと考えます。(最も、ある年齢以下の人間
は何をやっても無罪、とするほかないのではないかと思います。12歳未満ぐらいは・・・)
しかし「冤罪問題の本質」として、死刑をみるならば、それは他の刑罰とは違う、というのは
解ります。やってしまうと取り返しがつかない、という意味で。

私の立場では、抑止効果は応報を前提としますから、
抑止効果は、「懲役より死刑の方がいやだ=懲役より死刑の方が重い」と考える・感ずる人の
数によるので、ひょっとして懲役のほうがいやだ、と考える人が多くなると死刑の抑止力が
下にくることもある、と想像できます。
しかし、私の社会観察の雑感によれば、幼児のころから、「命を大切に」と家族ぐるみ学校ぐるみ
地域ぐるみ国家ぐるみで言い続ければ、まあ、普通は「自由よりも命が重い」という価値観
=応報感情は維持されるでしょう、と思います。

すいませんが、2−3日レス返すことが出来ないかも知れません。

宜しくお願いいたします。

2218無精髭:2009/07/03(金) 08:25:35
>>2202
心配ご無用。私としては、トーフさんの前提をとりあえずは受け入れるという形で
話を進めるつもりです。そうでないと有意義な議論とはならないでしょう。

>少なくとも、一般報復感情と具体報復感情が全く別の所からくる、というのは全然違います。

相分かりました。トーフさんに関しては勘違いしておりました。でも、紫煙狼さんに関しては
どうしても勘違いとは思えませんなあ。もしトーフさんの仰るとおりだとしますと、>>2200
指摘させて戴いたトーフさんと紫煙狼さんの見解の違いがなぜ起こるのかとか、その後の
紫煙狼さんのレス(>>2201)において、憲法や民主主義の話に絡めてトーフさんに対する反論が
試みられているのはなぜなのかとかいったことに、上手く説明が付かなくなるのではないでしょうか。
うーん。少なくとも私が考える「特殊報復感情の総体」はトーフさんの仰る「一般報復感情」とは
やっぱり違うように思われますね。

1.具体的個別的報復感情
2.代表者による一般的抽象的報復感情の認定
3.立法(刑罰法規)

1.と2.の間には、内容に差異がある、さまざまな具体的な報復感情の混在状態があって然るべき
だろうということを申したかったわけです。そういう相で捉えられた特殊・具体と、立法における
一般・抽象の違いが一目で分かるように、二つを列記して見ますと次のとおりになります。

・(全ての)日本人は○○をしてはならない。
・1億2千万人いる日本人(全て)は○○をしてはならない。

つまり、具体的にこれという数量に基づいているかどうか、その数値が特定可能な単位から
構成されているか否か、換言すれば固有の単体まで特定できるか否かの違いです。この国に
いる全ての日本人にとって…ということと、現時点においてこの国にいる全ての日本人にとって…
ということとは相違しますよね。「総体」という言葉を選んだのが悪かったのかも知れませんが、
個々においてはさまざまな違いを有する特殊報復感情をいくら掻き集めて来ても、それだけでは
一般的・抽象的な報復感情に結実しないのは自明でしょう。

だからといって、トーフさんの御説に反する見方ではないことはお分かり戴けるかと思います。
……今のところはね(笑)。

2219紫煙狼:2009/07/03(金) 23:17:43
>>2212
>すべての犯罪者に更生の機会を、ということを認めたとして
>紫煙狼さんのお立場ですと、「再犯者・累犯者」はどのように扱われるのでしょうか。
ここでいう再犯・累犯と言うのは、刑法で定めるとおりの再犯・累犯ですよね?
つまり、執行を終わり若しくはその執行の免除を得た後、5年以内に更に第2の犯罪を犯し、
有期懲役に処すべき場合、又はそのような犯罪が3回以上続く場合をいうのですよね?

そこで一度立ち返って欲しいのですが、私は「矯正教育ならぬ強制教育が横行している結果
更生という目標を達成することなく刑を終えて社会復帰している者が居る」これは間違いで
「立派に更生したと言えない限り社会復帰を許すべきではない」と繰り返しています。
その目的を再犯・累犯の防止としているのですが、この行き違いに気づかれませんか?

従って、矯正教育が拡充され、更生が見られない者は釈放されず、更生した者も特段評価すべき
事由がない限り満期まで釈放が許されないという仕組みが整備された場合において、再犯・累犯
者が出るとすれば、それは余程の事情であると考えざるを得ませんし、そこに余程の事情が見出
されないのであれば、正しい矯正教育を受けていなかったか、もしくは更生していないのに
見誤って釈放したかのどちらかでしょう。

もちろん、トーフさんが今後5年間の間に犯罪を犯すことは無いと言う確証はありません。
おなじく、私が今後5年間の間に犯罪を犯すことは無いと言う確証もありません。
しかし、私は5年生存率という概念を基に、満期釈放の元囚人に関しても、一定期間、
保護観察するべきであると言っているわけで、再犯・累犯を防ぐような社会整備が必要であると
主張していると言うのは読み取っていただけませんでしたか?

少なくとも私は現状において再犯・累犯が後を絶たないというのは犯罪者の問題もさることながら、
矯正教育の粗末さや、元犯罪者に対する監視管理の不行き届きを原因と考えています。

日本の大学は欧米の大学と比較して入学するのは難しく卒業するのは簡単である…などと言われる
のを散見しますが、大学も監獄も、入るに易く出るに難い存在であるべきです。一定時間の経過だけで
出してしまうのは愚の骨頂ではないでしょうか???

2220紫煙狼:2009/07/04(土) 00:25:34
>>2213
>これらの理由は「殺されても仕方がない理由」「強姦されても仕方がない理由」にはもちろん
>なりえない。結局、「言わない方がマシ」な言動でしょう。が、現在の裁判官は結構こういう
>言動を聞いてしまって刑を割り引いてしまう。
それは現在の裁判官の判断ミスでしょう。犯罪者の法廷や監獄内での言動により被害者や被害者遺族が
不必要な精神的苦痛を被るのは明らかな二次犯罪であり、マトモな判断力ある判事なら、
「この期に及んで反省が見られず、厳しい罰を持って臨むべき」と判断するのではないでしょうか?

基本的に私は「余程の事情」つまり、長年にわたり被害者に苦しまされてきたことによる鬱積した思いが
犯罪の引き金となったような場合を除いて、この手の発言は「罪を重くするのみ」と考えます。従って
>強姦罪ですと、「被害者は露出の多い服を着ていたのだ」
などと言う発言をする加害者はより重い罰を持って処断するしかないでしょう。ただし
>殺人罪ですと、「あいつは金を返さなかったのだ」
に関しては、必ずしもこの限りではありません。無論、お金を返さないことが殺害されることの正当な
理由になりえないことは明白ですが、あらゆる手段を以ってしても金銭を返却してもらえず、結果、
当の貸した本人のほうが立ち行かない状態に陥り、鬱積した思いが募る一方、返さなかった被害者が
貸した本人より裕福な暮らしで豪遊していたとしたら、少なくとも加害者から恨まれるに充分な理由足りえます。
これを以って加害者の罰を割り引くべきか否かは別としても、事件の全貌を明らかにする上ではこの発言も
合理的な動機を示す上で重要な発言であると考えます。

世の中には、本当に無辜の人間が被害者になる事件があるとともに、加害者ほど重罪ではないにせよ、
被害者の誠実とは言いがたい言動が事件の引き金になっている場合もあるわけで、これに関しては、
被害者や被害者遺族が精神的な苦痛を感じるものであっても、避けてはいけないものであると思います。

と、まぁ、ここまでは私個人の意見。

私と話したことのある被害者や被害者遺族の人々は、本当に無辜の被害に遭われた方々のみですので、
「何か恨まれるようなことでもしたのか、あるなら言ってみろ」という意見が大半でした。
でも、知らぬは遺族ばかりなりではないですが、本当に被害者にも刑事罰で臨むべき不実が存在している
ような場合で、遺族は全くその事実をあずかり知らなかったような場合、犯罪者の挙げる動機が、
衝撃的なものであれば衝撃的なものであるほど、受け入れがたいでしょうね。そして被害者の知られざる
不実を受け入れるにせよ受け入れないにせよ「だからって、殺していい理由にはならんだろ!」と思うの
でしょうね。もともと被害者にも被害者遺族にも「感情的になってはいけない」なんて通りませんから。

2221紫煙狼:2009/07/04(土) 00:25:58
一人の男性が痴情のもつれの結果殺害されると言う事件を想定して…。

最初にメディアに載るのは「男性の他殺死体が発見された」というニュース。
次には「女性が逮捕された」というニュース。その次のニュースは?
「逮捕された女性がどのような供述をしているか:というニュースですよね?

で、この殺害された男性が、家族(親兄弟)にとっては、非の打ち所の無い自慢の息子で、
彼らにとっては、殺された男性が「恨み一つかう様な男ではない」と信じきられていて、
でも、実際は、この殺害された男と言うのは、逮捕された女性以外にも何人もの女性と
同時進行で性的関係を含む交際をしており、この男に貢がされていた女性数知れず、
その中の一人たる女性が犯行に及び逮捕された…。

こんな事実関係が存在した場合、女性が裁判で犯行動機を語ることは「精神的なセカンドレイプ」
なのでしょうか?少なくとも、被害者遺族は、そう感じるだろうと思うのですが。。。
弁護側は、その女性の証言を裏付けるために、上手く行けば、被害者男性に弄ばれていた
他の女性を証言に呼ぶでしょう。裁判が進むほど、被害者の素行の悪さが露呈する場合、
少なくとも第三者の同情の目は、被害者たる男性より被害者に向けられるかもしれませんね。
安っぽく浅はかな正義を振り回す馬鹿者共なら被害者遺族の家に「殺されて当然!」なんて
FAXや投げ文をするやも知れませんね。(もちろん、それはあってはならないことです。)
しかし、逮捕された女性が犯行動機を語ることを被害者遺族の気持ちを慮るがために制限し、
真実を白日の下にさらけ出す事ができなくなるのは社会的な損失です。

以前、舎弟が兄貴分の子供を橋の欄干から突き落とし殺害すると言う事件がありましたね。
この事件、殺されてしまった子供たちには何ら落ち度は無いのは明らかですが、その親、
つまり兄貴分に舎弟が酷い扱いを受けていた、という事実が明らかになるにつれ、世間の同情の
目が、被害者遺族たる兄貴分より、加害者たる舎弟に移っていった…という事があったと思います。
もちろん、この例では被害者は何ら落ち度が無いのですし、兄貴分の子供と、まるっきり通りすがりの
子供なんてのは法の下では平等であるべきで、舎弟は「自己の中に鬱積した恨みを何のいわれも無い
赤の他人に対してぶつけた」という意味では死刑判決を受けても不思議ではないように感じます。
そういう意味では「日野OL放火殺人事件」も同様で、現住建造物放火殺人罪で二人もの人命を
奪っておきながら無期懲役判決で済んでいると言うのは、私には不思議で仕方がありません。
この被害者が、舎弟に苦痛を与え続けた兄貴分の子供でなかったら、不実でキャシーを苦しめ続けた
師匠なり師匠の妻の子供で無かったなら、どのような判決が出ていたでしょうか???

さて、ここは死刑存廃を話し合うスレですので、スレ意図に従ってまとめると、現行法制で死刑が存在し、
実際に死刑判決が出るような犯罪も少ないくない現在において、死刑を回避した理由を思議に思うような
事件もあります。むしろ他の事件とのバランスを考えると死刑にならないのは不公平だと思うような事件
もあります。私は死刑が正しいとは思いませんし、将来的に廃止するべきであるとは思っていますが、
上記2例が死刑判決にならずに、他の事件では死刑判決が下されるのであれば、公平を保つと言う意味では
死刑判決を下すことのほうが公平であると考えます。

2222紫煙狼:2009/07/04(土) 00:49:53
ところで…これは純粋に皆さんがどう感じるのかを教えていただきたいだけなのですが…。
以下に挙げる事件の判決を現在の法制度下で考えた場合、どれくらいが妥当でしょうか?
ただし、加害者は明確な殺意と計画性を持って犯行に及んでいますが対象は誰でもよく、
被害者となった人は、たまたま運悪くそこを通りがかった無辜の人間とします。

<一人の加害者が3人の被害者を殺意を持ってメッタ殴りにして死に至らしめた>
この場合、死刑判決が出ることに疑問を抱くものは居ないでしょう。

<一人の加害者が一人の被害者を殺意を持ってメッタ殴りにして死に至らしめた>
被害者が一人の場合、余程の事が無い限り死刑判決が出ない傾向がありますが、
逆に、最近の傾向では「被害者が一人であると言うことが死刑回避の理由にはならない」
という話もありますので、死刑判決が出てもおかしくはないですよね?

上記2例は単独犯による犯行なので、比較的判断しやすいのですが、複数犯の場合は
かなり微妙な判断が要求されると思います。以下の例には、上記の条件の他に、
・犯行グループの特定の者がリーダー格であると言う事実が無い。
・誰が一番最初に手を出したかは、事件後の調査でも明らかにできなかった。
・少なくとも最初の一撃が致命傷になったとは言えず、何度も殴打されているうちの
 何打目かが致命傷になっており、それを加えたものは特定できない
・本当は特定の誰かを殺害する予定であったが、その相手が現れず、手ぶらでは帰れない
 と言うワケのわからない集団意識が血を求め、結果として通りすがりの無辜の人間が
 被害者となった。

<5人組みの犯行グループが10人の被害者を殺意を持ってメッタ殴りにして死に至らしめた>
5人の犯人が10人の被害者を殺害しているわけですから、犯人一人当たり2人の被害者を
殺害したと考えると、一人の加害者が複数の被害者を殺害している以上、5人全員が死刑判決と
いう結論に至ってもそれほど疑問を抱くようなものではないのではないでしょうか?

<5人組みの犯行グループが5人の被害者を殺意を持ってメッタ殴りにして死に至らしめた>
この場合、犯人一人当たり一人の被害者を殺害している計算になります。被害者が一人の場合、
余程の事が無い限り死刑判決が出ない傾向がありますが、逆に、最近の傾向では「被害者が一人
であると言うことが死刑回避の理由にはならない」という話もありますので、死刑判決が出ても
おかしくはないですよね?

<20人組みの犯行グループが一人の被害者を殺意を持ってメッタ殴りにして死に至らしめた>
一人の被害者の命を贖うために20人全員を死刑にすることはありえるのか???

2223無精髭:2009/07/04(土) 08:24:29
>>2222
>・犯行グループの特定の者がリーダー格であると言う事実が無い。(1)
>・誰が一番最初に手を出したかは、事件後の調査でも明らかにできなかった。(2)
>・少なくとも最初の一撃が致命傷になったとは言えず、何度も殴打されているうちの
> 何打目かが致命傷になっており、それを加えたものは特定できない(3)
>・本当は特定の誰かを殺害する予定であったが、その相手が現れず、手ぶらでは帰れない
> と言うワケのわからない集団意識が血を求め、結果として通りすがりの無辜の人間が
> 被害者となった。(4)

上記4つの条件(特に(2)と(3))を受け入れなければならないとすると、非常にまずい
という気が・・・(汗)。「5人組みの犯行グループに対する10人の被害者」のケースでは、
(2)と(3)の条件と「犯人一人当たり2人の被害者を殺害したと考えると」という部分
とが相容れないと思いますし、「5人組み(略)に対する5人の被害者」のケースでは、
「犯人一人当たり一人の被害者を殺害している計算」の部分が(2)と(3)で不明とされて
いる事実関係があるにも関わらず、被害者と加害者が同じ人数だからと言う理由でそこの
ところの帳尻を合わせてしまうのはどうなんでしょう(笑)。

><20人組みの犯行グループが一人の被害者を殺意を持ってメッタ殴りにして死に至らしめた>
>一人の被害者の命を贖うために20人全員を死刑にすることはありえるのか???

私は何もシェンさんの仮定の仕方にケチを付けたかったのではなくて、上記のような事件を
考える場合、犯行に関わった者全員に対して死刑を適用すべきかどうか判断を下す上で、
確証とは言えなくても、事実関係をある程度明瞭にしてくれる情報というのは無くては
ならないものなのだな、とシェンさんの例えを読んで改めて気づかされたのでした。で、
本当は想像したくもないことですが、一人を殺害するのに20人が協同的に動くというのは、
想像以上に事実関係の解明を難しくするのではないかと思いました。犯行現場に目撃者が
いたとしても、いや人数において犯行グループを上回る目撃集団が取り巻いていたとしても、
上の(2)と(3)における不明な事実を明らかにすることは相変わらず難しそうです。

加害者が20名ならまだしも、50名…100名…とどんどん増やして考えてみますと、事実関係を
知りたいという欲求は強くなれども、明確な形でそれを知ることはもはや不可能と言っていい
でしょう。互いに相手の主張する事実を否定しあうといった証言や単なるデマの数々が出て
きそうで、何だか厄介なことになりそう。

ただし、たとえば加害者100名に対し被害者1名という構図で、加害者グループの各人が自らの
犯行において他のメンバーと同等の責任を持つと判断しても良いほどに事実関係が判明している
場合は、それに加わる者一人ひとりの責任が同じになるというような集団リンチとは具体的に
どういうものなのかという方法的問題や、そもそもそういった犯行が実際にありうるか否か
という現実的な問題を考慮しないなら、たとえ良心の声に逆らうことになろうとも全員を死刑に
処さなければならないのではないでしょうか。苦渋の決断ここに極まれり。泣いて馬謖を斬る
みたいなものなんじゃないでしょうかねぇ。

2224紫煙狼:2009/07/04(土) 11:09:28
まぁ、仮定に挙げる条件があまりに非現実的なのかもしれないですね。
実際の事件というのは、非常に複雑なものですからシンプルに考えようと
するほうが間違っているのかもしれないのですけど、例えが酷過ぎましたね(笑)

たとえば、刑法に「金10万円を盗んだものは懲役1年とする」という条文があったとして、
単独犯が10万円を盗んだら懲役1年。これは非常にわかりやすいなぁ、と思うんです。
では2人がかりで10万円を盗んだ場合、どう考えればいいのかな?という事が言いたかったのです。
2人がかりで盗んだ場合、一人当たり5万円盗んだと考えて2人を懲役6月にするのか、
それぞれ10万円を盗む犯行に加担したと考えて2人とも懲役1年にするのが正しいのか、ですね。

で、いわゆる法学的な考え方や実践的な司法での回答と皆さんの感覚はどこまで合致するのかなぁ。
というのが、私の質問の意図だったんです。


実際には複数犯による犯行では何だかんだ言って、罪の重い人と罪の軽い人に振り分けてしまえて、
そこはかとなく、納得できないでもない判決が出てて、それは大したものなんですけど、
本当に全員が同じ程度に責任を追及されるべきような事件が発生して、全員に反省の痕も見られず、
結果、同じ程度の罰を課すしかないような状況において、罪は加害者の人数で頭割りするものか、
加害者の頭数分罪は増えるものなのか…なんです。

私、こればかりはどっちが正解ともどっちが間違いとも言えない気がするんですね。それこそ無精髭さんの
言うとおり、事実関係が明瞭でないと考えようがない。なので、そもそもそういう仮定をするほうが間違って
いるのかもしれません。けど、一度疑問に思ってしまうと頭から離れなくなる性質なんで(笑)

2225Ken:2009/07/04(土) 12:42:24
もっと具体的な情報がないと判断に迷いますね。誰がどういう順番で何をしたのかが分からない場合、裁判を維持するのは難しそう。

・20人対一人
加害者が増えることによって罪が希釈される場合も増大する場合もあると思います。

強姦の場合、加害者が集団のほうが一人の場合よりも罪が重くなりますよね。集団強姦罪。この場合、無抵抗の被害者に一方的に集団で危害を加えたということで、凶悪性が認められて罪が重くなるのでしょう。被害者が一人であっても死刑判決が考慮されるようになるのでは。あと、常識的に考えて20人いると中心的な人物が必ず出てくるので、その人がとりあえず死刑になる可能性が高まるのでは。

逆に、集団心理から抑制が効かなくなり殺人に至った、という場合は「加害者が20人」というのは罪を軽くする方向に働くと思います。

具体的にどういう経緯で殺人に至ったのかが決まらないとなんともいえないですね。

・5対5
これは集団同士のけんかでありそうですね。そういう場合だと罪は軽くなるのでは。

・5対10
被害者のほうが多いので武器で脅されたとか言う状況ですかね。銀行強盗グループが行員を人質にとった後に殺害したとか。殴り殺すというのはちょっと変ですが。そうだとすると凶悪性が認められて死刑の可能性が高まると思います。

2226Ken:2009/07/04(土) 12:45:03
すげー速さで流れちゃうんでメモメモ...

>>2142自分の考えに対する他者からの批判は常に自分の(考えの)ためになる、という理念

これは箴言ですねえ。それがないと確かに掲示板という媒体を使う意味はないです。

>>2154ところがここで、宅間守元死刑囚の処刑に対する被害者遺族や、いわゆる有識者の意見の中に興味深いものがあります。「もっと反省させてから処刑するべきであった」しかもこれは必ずしも少数意見ではなく、むしろ、あの事件にかかわってしまった人の多くが、同じように考えている(らしい)事に私は注目していて「凶悪犯罪者が自分の侵した罪の深さに打ちひしがれて更生する」こと自体は、被害者感情をいくぶんなり、抑える効果があるのではないかと思うのです。宮崎勉元死刑囚に関しても、結局、執行されるまで謝罪のひとつもなく、罪の重さを自覚することなく執行されたことに口惜しさを感じている人は少なくないようでした。

こういう視点は紫煙狼さん独自ですよね。

2227Ken:2009/07/04(土) 12:53:21
>>2217
んー、なんか残念なコメントですね。いろんな意味で。

民主主義においては多数派の要求が通るのは当たり前であって、だからこそどうやって少数派の意見を尊重しその権利を擁護するのかが醍醐味なんですけどね。たとえば、子どもの権利の話が出たんですけど、虐待に遭う子どもというのがときどきいるわけですよ。でも彼らは団結して自分達の権利を主張することなんてできないし、一義的に責任を負うべき親が当てにならないという状況なわけで、だから無関係な第三者の大人が代わりに彼ら少数派の人権を擁護する必要があるわけです。18歳未満でも死刑というのは無茶ですよ。子どもはいろいろと義務から免れている代わりに権利もいろいろと制限されてますからね。そういう法改正に対して投票権を行使することもできないわけでしょ。大人並みのの責任を果たせというのであれば大人並みの権利も認めてあげないと不公平ですよね。でもそうすると無茶苦茶なことになるでしょう。

>>「何百何千と殺しても〜」

一度は意味が分かったと思ったけど、やっぱり分かんなくなりました。死刑が廃止されるだけで何百何千人殺す人が出てくると思っている人は絶対に死刑廃止を認めないでしょうね。

>>kenさんは死刑自体は肯定され、それが適用される罪について私と違いがある、ということと理解してよろしいのでしょうか。

これはそういう意味ではなくて、死刑廃止国には平時の犯罪に関して死刑を廃止した国というカテゴリーがあるんですけど、厳密に言うとこれは死刑存置国に当たるわけですが、日本がたとえ完全に死刑を廃止しなくてもこのカテゴリーの国になれたらいいなあ、という意味です。

>>「必要な情報を全て得られて下された判断」の具体例って過去にありますでしょうか。

必要な情報がないせいで間違った判断を下した、という例はいくらでもあります。ここの掲示板で読んだ話だったと思うのですが、昔、青島幸男というタレントが東京都知事に立候補したときの話なんですけど、青島さんはなんだか人気があるということでなんとなく彼に投票した若い女性の方なんですけど、彼氏にその話をしたらものすごく怒られたと。当時、都市博という万博が計画されており、青島さんはその中止を訴えて当選したわけなのですが、この彼氏というのは建設関係の仕事をしていてそれでは商売上がったりだと。青島さんが都市博中止を公約にしていたり、そうなると彼氏が困る、という情報を彼女があらかじめ知っていたら当然違った判断を下していたでしょうね。

これは明らかに彼女が情報入手をさぼっていた例ですが、正しい判断を下すために必要な情報を手に入れるのが難しいケースも多々あるわけですよ。たとえば違法に献金を受けたことを隠したまま当選した政治家とか。これもその事実を知っていたら投票しなかったのに、と考える有権者は当然出てきますよね。だからこそ誰からどれだけ献金を受けたのか、情報開示が大切になるわけです。

あるいは、公共工事なんかでも、政府に「○○建てますよ」と言われても我々は「はい、どうぞ」とはならんわけで、一体費用はいくらかかるのか、どれだけの効果が見込めるのか、代替案はないのか、施工業者はどうやって選定するのかその具体的な手順など、いろいろな情報の開示を要求するわけですよ。そうじゃないと本当にそれが必要かどうかについて正しい判断を下せないから。日本の死刑制度に関してはそういう視点が全く欠けていて大勢の人が無条件に支持するというのは私にとって不条理で気持ち悪いです。

>>私の社会観察の雑感によれば、幼児のころから、「命を大切に」と家族ぐるみ学校ぐるみ地域ぐるみ国家ぐるみで言い続ければ、まあ、普通は「自由よりも命が重い」という価値観=応報感情は維持されるでしょう、と思います。

これはトーフさんの意見として承りましたが、死刑のほうが懲役刑よりも明白に罰として効果があるという客観的事実を裏付ける証拠とは到底言えないです。殺人認知件数が一番多かったのが1954年の3,081件。これに対して2007年は1,199件だそうです。だいたい50年で約1/3に減った計算になります。死刑は1954年以前から一貫して存在していたので、殺人がこれだけ減ったのは死刑以外の要因によるということになります。2007年には殺人件数が1,199件であるのに対して、死刑判決を受けた被告人は46人しかいないそうです。つまり、殺人に関与してもめったなことでは死刑になりません。死刑が犯罪を抑止している、という説は私にとって限りなくあやしいです。人々がそこまで自分の死のリスクを客観的に評価できるのであれば、タバコを吸う人とか、抗争に巻き込まれて殺されるかもしれないヤクザになる人とかいなくなるでしょう。

2228Ken:2009/07/04(土) 12:59:58
2213>>これらの理由は「殺されても仕方がない理由」「強姦されても仕方がない理由」にはもちろんなりえない。結局、「言わない方がマシ」な言動でしょう。が、現在の裁判官は結構こういう言動を聞いてしまって刑を割り引いてしまう。

んー、一般論で言えば情状酌量が認められれば減刑理由になりますから被告が裁判官にそれを主張するのは当然なわけで、一概に「言わない方がマシ」とは言えんでしょう。もちろん、挙げられたような個別の具体例は酌むべき事由には該当しれないかもしれないですが。たとえば、被害者が自宅に押し入られて強姦に遭った場合と被害者が自発的に加害者宅まで付いて来て強姦に遭った場合とで量刑に差が出るのは仕方がないかなあと。そこいらあたりを被告が主張するのはありかなあと。後者のケースが強姦に当たらないという意味ではないです。念のため。

そういうことを主張するのは被害者側が傷つくからダメ、というのだと被告にとって著しく不公平なのでは。被告が自分の言い分を主張できないのであればそもそも裁判を開く意味なんてないですよね。それとは別に、被害者側がむやみに傷つかないで済む措置は当然必要だとは思いますが。

2229Ken:2009/07/04(土) 13:09:31
上のほうのカレーさんの死刑モラトリアムの説明がすごく変なので補足。

全米規模で死刑が停止されたのは1967年じゃなくて1972年です。そのきっかけとなったのは更生プログラムとかじゃなくて、Furman v. Georgiaという裁判で連邦最高裁が死刑を違憲とする判決を下したからです。その後各州で死刑の評決方法等見直され、それを連邦裁が考慮して死刑を合憲と判断し、死刑が再開されました。死刑の停止と再開はもっぱら法律的な問題です。その後もちょくちょく州レベルでは死刑が停止されてます。
http://en.wikipedia.org/wiki/Capital_punishment_in_the_United_States
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%AD%BB%E5%88%91

この更生プログラムの話はものすごく奇妙です。死刑をLWOPで代替したのだったらそれを再開するのに更生プログラムなんて関係ないです。LWOPには更生もへったくれもないから。

2230ufloat:2009/07/04(土) 20:07:22
最近私生活が大変なことになっていて(2214書いた後で、今初めて書き込みを見ています。
ほとんど浦島太郎です)、ろくなことが書けない状態です。申し訳ございません。
頭がまともに機能しないので、議論に参加するのは落ち着いてからにしまして・・・。

>>2222
>少なくとも最初の一撃が致命傷になったとは言えず、何度も殴打されているうちの
>何打目かが致命傷になっており、それを加えたものは特定できない
紫煙狼さん他の論客の方はご存知でしょうが、知らない方のために少々。
殺人ではなく傷害の場合で、この状況にも当てはまるとは言い切れませんが、
「同時傷害の特例」なるものがありますね。
ひとまず、紫煙狼さんの出題について考えてみましたが、思考レベルがひどい状態ですので、
何かとんでもないことを書いているかもしれません。

・20人組が1人を殺害
そもそも1人殺害で死刑になるケースが多くないので、「死刑」の思考は難しいですが、
残酷な身代金目的誘拐殺人、強姦殺人のような1人殺害で死刑のケースを想定しまして。
理論上は20人とも死刑になってもおかしくはないでしょう。
ただ、20人もいれば多くの加害者が「殺害?冗談だろ」程度に考えて、Kenさんの
おっしゃる通り、集団心理や後に引けない状態になって殺害してしまう場合が
ほとんどのはずですので、この場合は軽重をつけることになるでしょう。
20人死刑の明確な例としては、日本で殺人を犯して無期懲役になり、仮釈放中に殺人を
やればほぼ死刑ですが、1人殺害によって死刑となる理由をそこに求めた場合はどうでしょう。
20人全員が殺人での無期懲役の仮釈放中または脱走者で構成されていて、それらが
1人を殺した場合、20人死刑への疑問はかなり少なくなるのではないでしょうか。

・5人が5人を殺害
ケンカではKenさんと同様の結論になりますので、別の観点から。
例えば5人の集団が、被害者5人のグループを見つけて、「こいつらを殺してやろう」と
拉致あるいは襲撃し、殺害したような場合を考えてみます。
5人いれば集団心理は十分に発生しますので、その場合は先の場合に準じます。
明らかに全員が一様に殺意を持ち、特に犯行を主導した人間もなく、その上で
殺害がなされたのであれば、5人殺害並みの刑罰となっても仕方がないでしょう。

・5人が10人を殺害
これも先と同様です。ただ、リーダーがいて「全員2人ずつ殺せ」と命じ、全員が
それに従ったのであれば、自身による殺害2人、指示による殺害8人ということで、
リーダーは10人分、その他は2人分の罪となったとしても矛盾はないでしょう。
5人が一様に殺意を持ち、主導者なしに全員が積極的に殺害を決めたのであれば、
役割や直接の殺害人数にかかわらず、全員が10人殺害分の責を負うことはあるでしょう。
例えば加害者5人グループは以前から殺人のベテランであるものの、それらについては
日本の主権が及ばなかったり、時効であったりして手が出せず、今度新たに10人が
殺害を目的に拉致され、加害者1人が10人を殺害し、4人がそれに加わっていなかったと
しても、他の加害者4人も被害者10人を殺害する意思は(前例もあることですし)
明確にあったと考えられますので、加害者全員を10人殺害の罪としてもおかしくありません。

2231紫煙狼:2009/07/05(日) 03:47:44
そもそも刑法に何を求めるか…で見解の相違が起きるのは当たり前な話でして。

まず最初に刑法と刑罰が正しく運用されていることを前提に「犯罪の抑止効果」がなければ
刑法というのは成立し得ないと思うのですね。「要請」という言葉に違和感を抱かれる専門家さんも
いらっしゃるようですが、私はあえて「要請」という言葉を使い続けさせていただくなら、
憲法は「国民からの国家への要請」であり、これを遵守するのは国家の義務であり公務です、と。
それに対して、国家が公務を執行するのに妨害となるような行為をしないように国民に要請するのが
そのほかの法律、なかでも刑法はその意味合いが非常に大きいと思うのですね。

ということは、国家としては「A」という犯罪が発生したときには「B」という罰にしますよ、
と刑法で定めつつ、本当は「A」という犯罪が発生しては困るわけですから「B」という罰には
抑止効果としての意味合い(これを恫喝とするならそれもよし)が求められるわけです。

死刑が正しいとか間違っているとか、そういう話を抜きにして、死刑という刑罰のもつ抑止効果が
もっとも強力であるとした場合「全ての刑事罰に対し死刑を適用する」という刑法なら、抑止効果の
面では最も強力になりうるわけで、本当に抑止効果だけを求めるなら、それもアリです。
ただし、実際には、現在死刑が存在するにもかかわらず、死刑が適用される犯罪がゼロにならない事を
考慮すると、何らかの出来心で軽い刑事犯罪を犯した者が、これで死刑になるなら何をやっても同じだ!
とばかりにエスカレートする場合も充分考えられるし、逆に死刑がなかったとした場合、
「ぐへへ、なんにん、ころしても、おれは、しけいには、ならない」のごとく、手のつけられないような
野獣が出てくる場合も、確かに考慮しなければなりませんね。
そういうバランスを考える基礎として、一般的応報感情を持ち出さざるをえないのは仕方のない話で、
トーフさんの言うとおり、立法時でのバランスよい刑罰を定める尺度は一般的応報感情なのでしょう。

ただし、この一般的応報感情というのは汎用であるがゆえに、応用は利くものの該当する犯罪全てに対して
ベストな選択となりえるかどうかはわからない話で、したがって、犯罪に対する刑罰は一定の幅をもたせて
決めておき、運用時にベストな選択ができる余地を残す…というのが正しい解釈であって、報復感情の暴走を
抑止し制限するという事自体は、副産物的なものであると考えています。ハムラビ法典の解釈に関しても
「報復の限度を定めたもの」と解釈するようになったのは近代であり、この法典を定めた者の手記でも発掘
されないかぎり、どのような意図を持って定められたものであるかを正確に理解することは無理でしょう。

とはいえ、副産物的にでも応報感情の暴走を抑止制限することができるのであれば、それに越したことはない。
なので、どこに着目するかは、その時代における法学的な解釈でかまわないわけで、それが立法時の目的と
大きく異なるものであっても、なんら問題は起きないわけです。

2232紫煙狼:2009/07/05(日) 03:48:08
では、実際問題として「これ以上殺したら死刑になっちゃうじゃないですかぁ」という理由で第2第3の
殺害をあきらめたという事例があるかというと、少なくともそのような証言をした凶悪犯は一人も居ませんね?
無論、死刑怖さがゆえに殺害までは思いとどまった…という犯罪者も相当数居るのかもしれないのですが、
これもまた数字として表されては居ませんね。

そして、必ずしも参考になるとは思えないものの、死刑を廃止した各国の状況を見る限り、テロ犯のような
無差別大量殺戮は死刑廃止によって一時的に増大する、というデータがあるということは、海外のテロ犯は目的
遂行のためであっても、無関係な市民を巻き込むことに若干なりの良心の呵責がある…ということでしょうか?

死刑廃止によって諸外国人による日本での無差別テロが増えたら、そりゃたまりませんね。
でも、日本赤軍の例を思い出すと、むしろ逮捕された仲間を救うために「死刑にするな釈放しろ」と次の犯罪を
犯した例もあるわけで、この手の「死刑にさせたにために国家を恫喝する目的での第二の犯行」は死刑廃止によって
抑止される可能性もありますね。(もちろん、釈放を求めて…というのはなくならないかもしれませんが。)
まして「死刑になりたいがゆえに無差別に大量に殺戮を繰り返す」という犯罪は死刑廃止によって抑止されると
考えざるを得ません。

つまり、死刑の犯罪抑止効果最強説は磐石のものではなく「ある種の」に対して正で、別種には誤なわけで、
世の中の犯罪のどれが「ある種」に属し、どれが「別種」に属するかは空想の範囲を超えないわけです。
(もう一度言いますが、日本は風土が独一だから、海外のデータは参考程度にしかなりませんよ?)


そこを突き詰めていったときに、

更生?抑止?んなもん関係ねーよ、とにかく、報復が全て。起きた犯罪をいかに処理するかが全て。
更生しようが関係なく死刑にしなきゃ意味ないじゃん。更生させるなんて内心の自由の侵害だぜ?
おいおい、抑止なんてワケわかんねー事言い出すなよ。あくまでやらかした馬鹿をどうやって処理するかを
刑罰で決めているだけで、どんな刑罰を用意してもやる奴はやるし、やらない奴はやらねぇよ。
あんなもん恫喝なんだから、せいぜい強めに脅かしておいて、それでも犯す奴ぁガンガン捕まえればいいんだよ。
で、刑法で決まっているとおりに一定期間強制労働なりさせて時間が来たら外に出す。再犯したって
知ったことじゃねーよ。更生させちゃだめなんだから。勝手に自分で更生するのはかまわないけど、
こっちが何かしてやる筋合いはありゃしねーよ。いいんだいいんだ、再犯の時にはもっと重い罰を与えるし、
いずれ死ぬだろ?ってか、法律を変えるならアレだな、再犯者は死刑だな。

なんて意見が出てもおかしな話ではないですよね。

2233ufloat:2009/07/05(日) 08:36:44
>>2215
ざれ言をすみません。手元の本を思い返してみても、トーフさんの「応報」の範囲は
やや広めのような・・・という印象を受け、これによって議論がまとめらないような
気がしたものですから。言葉の取り方次第でしょうか。余裕ができたら本を読み返してみます。
それで、根本の相違点に立ち返るなら、
1.「重い」(と社会通念上認められたり、社会の安全を損ないかねない)罪ほど
重い罰を与えるのが刑法の基本である。
2.その罰をもって犯罪者への威嚇をなし、一般の人には法に信頼を抱かせ、
また危険な犯人を社会から隔離する。
3.その結果として、犯罪が減少し、社会を安全にしたりといった効果が生じる。
トーフさんは(1)を訴えておられるわけですね(違ったらご指摘ください)。
私は(2)や(3)を中心に主張していて、これでは話が通じない、と。
ご主張了解いたしましたが、念のために1つお考えを確認させてください。
「再犯性の高い犯罪において、犯人隔離による社会の安全のみを目的として
罪を重く設定するのもトーフさんのおっしゃる応報に含まれるか」。
教科書の説ではなく、トーフさんご自身の感じ方で結構です。
例えばAとBという犯罪があって、両方とも同等程度の罪とみなされているとして、
Aは再犯が多いがBはほとんどない。普通の人はまず起こさない犯罪であるし、
再犯者は威嚇してみても効き目なし。仕方がないから、社会の安全のために
犯人を長く隔離することにして、Aの罪はBより重くなる、といった状況です。

ところで、このスレッドで出すに足りるほどのものかは分かりませんが、
毎日新聞が1週間ほど前から以下のような連載を行っているようです。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20090629ddm041040132000c.html
「ネット君臨」や「WaiWai」の問題があったりする新聞社ですし、話半分に
見ておくのは当然ですが、参考までに。

2234老婆心:2009/07/05(日) 09:35:14
このスレッドでの議論を拝見しますと、論者の方々が、裁判員となられ、
とりわけ、死刑の適用が問題となる事件を担当された場合、相当、つっこんだ
議論がなされるとともに、結論がでるまで、3日間や4日間程度の審議期間
では足りないだろう、と思われます。

死刑という「刑罰」の問題については、少なくとも、現行の日本の刑法を
解釈する場合に限定すれば、以下の「枠」が考えられると思います。
(釈迦に説法となることをご容赦ください)

殺人罪を例にとりますと

1.殺人罪の「構成要件」(殺人罪の成立の第一段階として、刑法が要求する
 定型化された条件)に該当し、

2.正当防衛、緊急避難、正当行為等の「違法性阻却事由」(構成要件に該当
 することで、「推定」された違法性をゼロにする正当事由)がなく、
 「違法性」が認定されても、

3.責任なし(責任無能力)
 
であれば、殺人罪は成立せず、「無罪」となります。

上記の3の「責任無能力」は、よくニュースになる、「心神喪失」に該当
する場合となりますが、「心神喪失」がなぜ、「責任なし」で「無罪」と
なるか、といいますと、簡単な説明によれば、以下になると思います。
 
 ●「心神喪失」とは、
  (1)自分の行為の是非(善悪)を弁別(識別、区別)する能力ナシ
  (2)上記(1)の能力があっても、自己の行為をコントロールする
    能力ナシ
  の(1)か(2)のいずれかに当たる場合、といわれています。

 ●そして、「心神喪失」に該当する場合は、
  「反規範的人格態度」がみてとれず「非難可能性」がない
  から、殺人罪の成立に必要な「責任」がない、ので、
  殺人罪「不成立」となり、「無罪」となる。


上記の説明によれば、死刑に限らずですが、「刑法上の刑罰」を科すために
は、最終的には、当該被告人が、どんなに危険な人物であると評価される
場合でも、その人物が、自分の「自由意思」に基づき、犯行を回避できた
にもかかわらず、「敢えて」その犯行を実行した、のではなく、
その人物が「自由意思」による自己決定ができず、その人物に
「反規範的な」「人格態度」があるとはいえず、その人物を「非難」できない
のであれば、その人物に「犯罪」は成立せず、「無罪」となる、ということ
になるます。
あとは、「保安処分」「措置入院」など、「刑罰」以外の制度・処置に
よって、その人物に対応するしかない、となります。

もし、「刑法」「刑罰」の目的が、応報と教育、一般予防と特別予防
の混在されたものとしても、社会的に高度に危険な凶悪犯等で、
「矯正の可能性」もなく、したがって、「教育しても無駄」、
「特別予防」における「再犯防止」のための処遇も不可能であれば、
「究極の特別予防」ともいえる、死刑による「永久抹消・抹殺」を求める人
がいてもおかしくないと思います。
それでも、現行の刑法の解釈によれば、「心神喪失」で「責任なし」であれば
「無罪」となり、現状の「刑法以外」の「処遇」では、その人物の生命を
奪うことはできないことになります。

かように、「刑法」「刑罰」の問題には、「人格態度」「非難可能性」と
いう、人間は、どういう場合に、「非難」されるのか、
「人格態度」とは何か、という、ある意味、「哲学的」な思考が要求され
ると思います。
「死刑」という刑罰を考えるにあたって、被害者感情、再犯可能性、
抑止力、という要素を考えると同時に、「刑罰」を人間に科すとは何か、
という哲学の問題がなければ、本質的な議論にならないような気がします。

2235無精髭:2009/07/05(日) 09:57:49
>>2234
ウィキペディアにも「(刑法学は)法学の中でも哲学との近似性が特に強い分野である。」という記述が
見えますね。このことは私にとって意外なことでしたけど。個人的な感想を書かせて頂くなら、現時点で
最も食指が動かされたと言うか、最も哲学に接近したかに思える書き込みはシェンさんの>>2222ですねえ。

>>2215
そうですねえ。ここへ来て、論旨の繰り返しも多くなってきたと思うんですけど、
そのわりに私の頭の中では無数の「はてなマーク」が飛び交っていますよ(苦笑)。

>私の「応報論」とおっしゃって頂きましたが、「刑罰の本質は応報だ」というのは
>刑法学の通説なので、受け入れ難い、とおっしゃられても・・・・刑法教科書でも普通に
>「応報」と書かれています。
>まあでも、私の説明は解りにくいかも・・・・・努力いたします。
刑法学の枠内で議論されているのならばともかく、その範疇外にある他の人の主張に対する反論にまで
刑法学の通説とやらを無批判・無反省に援用されてしまいますと、ただの権威論証にしか聞こえません。

>>2163
>刑法の本質が「応報」にある、というのは>>2150に書いたように、
>「応報を基礎として一般予防・特別予防を考慮する」ということで、
>「応報という基礎がないのに一般予防特別予防を考慮すべきでない」ということです。
>通説です(だと思います)。根拠は刑法学の有名教授の教科書を参照しています。
>大谷・大塚・前田 の各刑法総論の教科書を参照して記述しています

もちろん異説も存在するのですよね? ならばそれについても簡単にご紹介して戴いた後、
なぜにトーフさんの仰るような応報刑論の方が定説扱いされているのかをご教示賜りたいです。
特に、>>2155で過去に紫煙狼さんが学んだと仰った通説が現在どう扱われているのかとか、
それを含め各種異説はトーフさんの仰る通説との関係においてどういう風な位置づけをされて
いるのかとか、そこら辺をぜひとも解説していただきたいです。お出来になる範囲で構いませんので。

あと、たとえば、どこからどこまでが刑法学の教科書を敷衍した考えで、どこからがトーフさん
ご自身のお考えであるという区別も(私のような素人にも分かるように)付けて下さると嬉しいです。
もし教科書なり参考書なりを敷衍した考えとご自身のお考えとが不可分なものでしたら、その旨を
強調していただきたいです。

というかですね、刑法学の学説を根拠に持論を展開されちゃったら、同等の知識を持たない限り
相手の方はただ御説を拝聴するというだけに終始してしまい、全く議論にならないですよね。せいぜいが
論旨展開の仕方に茶々を入れる位が関の山でしょう。だからといって、お前も俺と同程度の刑法学の
知識を得てから議論に望めというのもおかしいでしょう? だってここは専門的な議論をしなきゃ
いけないという場でもないわけですから。トーフさんだって難しい法律について学ぶ上で大変な
苦労をされておられることでしょうから、ましてやそれを当たり前だ常識だと聞かされる私のような
ド素人の困惑度が如何なるものかはたやすくご想像が付くでしょう(苦笑)。

問題なのはそれだけではありません。上述しましたような措置を取って戴くことにより、トーフさん
の仰る学説が本当に通説かどうかという証明がなされると同時に、それを聞く者に検証の可能性が
与えられることでしょう。そしてそこにおいて一旦合意が得られさえすれば、議論の方向性は
より明確になりますし、争点とすべき問題も絞られてくるはずです。あるいはそこで意見の一致を
見ないのであれば、そこを対立点として議論を保留し各々がそのことを銘記しておく、それだけでも
議論に参加する者にとってはだいぶ勉強になるかと思います(少なくとも私にとってはw)。

以上、飽く迄これが通説だとトーフさんが仰る学説以外の学説に対する全く以て不公平な扱い方が気になりました。
お分かりになるかと思いますが、ufloatさんの>>2233と少しく重なる部分もあります。

私が何でこんな些細なつまらないことに拘るかと言うとですね・・・私の場合、あまり誉められたものでは
ありませんが、その分野の定説だろうが何だろうが(ここの誰の書き込みでも)一応疑ってかかることに
しております。言い換えれば、理解を保留するのですね。と言ってもそれは、一主張として理解しはする
けれども信じることまではしない、ということでなくて、そのディテールに注目することで出てくる新たな
問題を意識することによって故意に分からないことにしてしまう、ということです。まぁ、一切は自分の
エゴのためなんですけど。。。

2236無精髭:2009/07/05(日) 10:14:21
>>2218の補足

たとえば1億2千万人の日本人がですね、衆議院議員480名と参議院議員242名に厳選されるにしても
ですよ、国会議員における各々の報復感情は全然抽象的ではないですよね。トーフさんの仰るとおり、
法案化もしくは法文化されない限りは決して抽象的とは言えないのでしょうけど。

ところで、もしかしたらトーフさんの考えでは特殊報復感情には内容の違いはなく程度の差のみ存在すると
捉えられているかも。要するにどんな報復感情にも「復讐を遂げたい」とか「やられた分をやり返したい」
という共通の志向性があるから、そこのところを内容と捉えれば違いなどないのだと。個々の特殊
応報感情に差異があるとすれば、強弱、つまるところ「復讐を遂げたい気持ちが強い」とか「やられた
分をやり返したいという気持ちが弱い」といった程度の差になるのかもしれません。どのように報復したい
かと思うことと、報復したいという気持ちがどのくらい強いかということとの違い。その恨みはどんな感じ
かということと、恨みがどのくらい強いかということとの違い。

でも、トーフさんが上のような見解をお取りだと致しますと、私の感情観とはだいぶ捉え方が異なると
言わざるを得ませんね。たとえば個々人において感情の内容が応報への欲求ということで一致するにしても、
どんな手段で応報を遂げたいか、とか、どんな応報を望むかという点では、その人が受けた被害の内容・
あるいはその人の身体・精神・生活・財産・家族等々に即して将来被るかも知れない犯罪被害の内容という
ものによるはずでしょう? それと、個々人の犯罪被害やその可能性は感情・意識レベルでそもそも比較
できるものなのかという問題も出てきそうです。「お前にこの気持ちが分かってたまるか」と言われたら、
本当のところは分かりませんと答えるしかないでしょう。しかし、ちょっとは分かる、いや分かる気がする、
というのもやはり実感としてありますけど、でもその人の心の中にまでは入って行けない以上、外側から
見たり感じたりして比較できるようなものでしょうか、果たして「感情」というのは。

・・・感情があらゆるモラルの根底にありそれを支え・生み出すような源泉である、という思想だったら
まあ分かりますけどね。

2237Ken:2009/07/05(日) 13:56:03
>>2232そして、必ずしも参考になるとは思えないものの、死刑を廃止した各国の状況を見る限り、テロ犯のような無差別大量殺戮は死刑廃止によって一時的に増大する、というデータがあるということは、海外のテロ犯は目的遂行のためであっても、無関係な市民を巻き込むことに若干なりの良心の呵責がある…ということでしょうか?

この話は深入りする前にカレーさんにソースを出してもらったほうがいいです。テロはもっぱら政治的緊張によってもたらされます。めったに起こらないタイプの犯罪がある何かの社会政策と関連していることを示すのはとても難しいと思います。あとまあ、自爆テロとかいう、そもそも自分が死んじゃうテロもありますよね。

>>応報
トーフさんは単に「応報」という言葉は教科書にも出てくる普通の言葉で、他の言葉で言い換えることができないと言っているだけなのでは。Ufloatさんが応報という言葉のせいで誤解を受けた、という旨の話をしていたので。

「刑罰の本質は応報である」というのはその通りなんでしょうけど、だから何wって感じです。それである特定の罪にどんな罰が適当であるのかが決まるわけでもなく。「公共の福祉は個人の権利に優先する」というのもその通りなんでしょうけど、だから何wって感じです。「公共の福祉に反するのだからエロゲーは規制されて常考だろ」「公共の福祉に反するのだからダガーナイフは規制されて常考だろ」となるわけでもなく。それをいつでも許しちゃうと何にもできなくなっちゃう。牡蠣剥き器も規制対象になったみたく。

>>同時傷害の特例
は知らんかった。

2238無精髭:2009/07/05(日) 14:53:57
>>2168
>(略)ワリに合わない」と思わせる前提には、「あんなことをしたらこんなめにあうべきだ」
>という「応報感情」を前提にできた「刑罰法規」が必要でしょ?といっているのです。

わたしがだいぶ前に犯罪抑止力について書いたことに相通ずるなあと思いました。
文章の体裁もなさない、愚考でしたけど。

刑罰法規ってのを法文化された元の形のまま知っている人たちってどのくらい
いるのかなあ、と思いますね。あるいはその意味を理解できない人たちって
どのくらいいるのかなあ、と。はたまた、刑罰法規の中身を詳しく知らないで
いる国民がほとんどなのではないか、と。全く知らない人だっているかもなあ、と。

刑罰法規に向き合う国民の中にも色々いるかと思うのですが、そういう人たちに
向けて刑罰法規を流布させる努力って、犯罪抑止(殊に一般予防)には必要ですよね。
で、もし刑罰法規に無関心・もしくは無知な者がいて、何かの弾みで犯罪を犯して
しまった場合、国がその努力を怠ったということは言えないのかな、と思うんですけど。
まあ仮に言えたとしても、例によって「これから再発防止に努めていく所存でございます」
「善処致したく存じます」とお茶を濁される可能性大ですが。

犯罪抑止って直接に刑罰法規に因るのではなくて、近所・学校・勤務先等での
うわさ―――「ねえねえ○○さんとこのお子さん、万引きの次はバイクを盗んで
捕まったらしいわよ」「うちのお父さんは痴漢なんかしてないやい!」「いやあ、
運悪く一時停止違反で捕まっちゃって、減点食らったよ」などなど、こういった
卑近な事例の中で、処罰について更に詳しい経緯が語られる、その上で刑罰法規も
国民の中に根付いていくのではないかと。

中島義道氏だったか、日本って国は街の至る所に、「ゴミはくずかごへ」とか
「お年寄りに席を譲りましょう」とか「水は大切に」とか、要らぬ注意書きがして
あって、まるで視覚的にも「集団から外れた行為は慎め」などと命令されている
ようで、いちいちが喧しい、といった主旨の文章をどこかで読んだ記憶がありますけど、
それこそ刑罰法規が街のそこら中に記してあったら(記号化してあったら)
好いのにね(笑)。

2239無精髭:2009/07/05(日) 17:04:03
>>2184
でも、ググって見れば分かるかと思いますが、内心の自由に対する
取り扱いについては法学では大真面目に議論されているようですよ。

http://plaza.rakuten.co.jp/topclassmeruma/diary/200906080000
http://plaza.rakuten.co.jp/topclassmeruma/diary/200906080001

私個人としてはこういう哲学議論になっても面白く感じられませんが。

>>2185
笑わないでください。
ところで話は変わりますが、、、

受刑者の反省を促すには、被害者側の怒りや憎しみよりも、悲しみや苦しみ
の方が断然効果がありそうですね。お恥ずかしながら私なんかも、たとえ
こちらに非があっても向こうから猛烈な怒りをぶつけられたら、却って
「そこまで怒らなくてもいいじゃん」などと冷ややかになったり反発したく
なったりすることがありますが、向こうが悲しんでいるのを見るとすぐさま
「やりすぎちゃったかな」と後悔してしまうことはありますからねぇ。

その点犯罪者だって他人に共感・同情する心が少しでも残っているなら、
被害者側の憎しみに共感・同情することはありえないでしょうが、その
悲しみに共感・同情することはありうるかも知れません。被害者側の
憎しみに共感して一緒に自らが犯した罪を憎むなんてことは馬鹿げて
いますが、その悲しみに共感して一緒に被害者側の惨状を悲しむことは、

「お前がやったんだろ? まるで他の奴がやったみたいな態度で悲しんでんじゃねーよ!」

といった反発を招くこと必至ですが、それでもより深き反省へと向かう
兆しとして評価できるのではないでしょうかね。

2240紫煙狼:2009/07/05(日) 20:30:30
「応報」とは「何かよろしくない行為」を行った者に「罰という苦痛を与える」という意味ですよね?
従って応報刑主義では「罰の内容は一般的観点から見て苦痛であること」が必要となるかと思われます。
たとえば「百叩きの刑」が現存するとして「百叩き」は一般的に見て耐えがたい苦痛ですから、たとえ、
その刑の受刑者が被虐趣味の持ち主で、叩かれると喜んでしまうような者であっても、そんな例外的な
事例はあまり考慮する必要が無く、あくまで一般人から見て苦痛であれば事足りる。
同様に、死刑になることを望んで犯罪を犯すような特殊な例を深く考慮する必要も無く、あくまで一般
的に見てこの上ない苦痛であるだろう死刑を課す事で「応報」は実現するのですね。そして、応報が
刑法のベースであると定義し、その上に抑止効果だの更生教育だのを築きあげるのであれば、逆に、
抑止効果だの更生教育なんてものは無くても、そんなものは成立し得なくても、ベースである応報さえ
実現できれば、最低限の刑法の役割・目的は果たされたことになる。

抑止効果だの更生だのってのは、オマケみたいなものだから、それも実現できれば越したことは無いが、
それが刑法本来の役割・目的ではないよ、と解釈していいのでしょうか???


もし、上の解釈が正しいとしたら、刑法によって齎される世の中は「犯罪の無い世の中」ではなくて
「犯罪者が痛い目に遭う世の中」ですよね?それって即ち私たちの求める世の中でしょうか???
なるほど「犯罪を犯しても痛い目に遭わない世の中」ってのは不条理に過ぎる面はありますが、本当は
大多数の人が「犯罪の無い世の中」を夢見ているのではないでしょうか?既に起きてしまった犯罪を
何らかの形で処罰しなければならないのは当然としても、その処罰には「こんな悲しいことが二度と
起きません様に」という願いがこめられているものだと思うのです。
そして、基本的に「立法」は起きてしまった犯罪を基に後追いの形でなされるのが普通ではないでしょうか?
「人道徳的に許されざる問題が発生したが、罪罰法定主義の下、それを処罰する条文が無い」という悔しさ
を基に「今後、二度と同じ間違いを犯す者が現れないように」という願いの下、刑法の新条文が立法され
るのであって「今度、同じ間違いを犯す者が現れたら処罰することができるように」立法するのではないと
思うのですね。(もちろん、立法した以上、同じ間違いを犯す者が現れてしまったら処罰しますけど。)

つまり、司法の現場を目指すトーフさんにとっては、起きてしまった犯罪をどう処理するかが重要だから
究極までそぎとった場合に「応報が実現すればそれ以上は求められても困る」のであって、司法の現場と
程遠い我々一般市民はむしろ「犯罪が起きてしまったら困る」のです。既に起きてしまった犯罪以上に、
これから同様の事象が起きないようにどうするのか、どうしてくれるのか、の方がより重要なのです。
これはね、法学上の通説なんてどうでもいい話で、むしろ、この望みを満たすことのできない通説なんて
世間知らずの学者のうわ言でしかないわけです。無知と言われようが蒙昧と言われようが、望みはそこな
んだから仕方が無いんです。我々の望みを、平和への願いを満たせない学者なんてのは要らないんです。

従って、ある罪に対して刑法上は死刑にすることが出来ないと分かっていても、同じような犯罪が二度と
起こらないことを願う人々の心は抑止効果を高めるために「厳罰化」の傾向を持つのだと思います。
最近では「危険運転致死傷」なんてのは最たる例だと思いますし「危険運転致死傷」が制定されたにも
かかわらず、それが援用されない限り、実際の抑止効果につながらないから「なして業務上過失致死なのよ」
と号泣するのであって、厳罰化を求める声は必ずしも応報を求めるのではなく、実効的抑止効果を求める
声であると私は解釈しています。でなければ…「どうせ犯罪はなくならないんだから、犯罪者を少しでも
重い罰に処してやればいいんだ」なんて、あまりに悲しすぎます。

2241紫煙狼:2009/07/05(日) 20:30:57
ただね、侍文化の正当なる後継者たる我々日本人は、基本的に「犯した罪を一命を以って償う」という
ハラキリ習慣がスキなのね。実際は死んだところで、死んでもらったところで何の解決にもならないし、
被害者や遺族の苦しみの日々なんてのは、むしろ、そこからがスタートですよね。事件によって止まって
しまった時計が動き出すのは、加害者が処罰されてからなら早いほうで、むしろ、それよりずっと後に
なって、ようやく少しずつ動き出すものですよ。場合によっては、本当にそこで時間が止まったまま、
天寿を全うしてしまう遺族も居ておかしくないですよ。

まして、加害者が自分の罪の重さを自覚し、その償いとして自ら死を選ぶならまだしも、加害者は全然
自分の犯した罪の重さを認識することすらなく、機械的にある日突然、絞首台に引き立てられる。
加害者的にワケも分からんうちに、とにかく「怖い!イヤだ!」という思いの中で命を奪われる。
そりゃ、被害者も同じ恐怖を味わった…いや、むしろ被害者はそれ以上の恐怖の中で死を迎えざるを
得なかったわけですから、死刑を執行するに当たって、加害者に罪の自覚が無いのならせめて恐怖だけ
でも味わっていただきたいと言う感情論には大いに賛同するものがありますがね?それでもやっぱり、
罪の意識に苛まれると言う過程を経てからであって欲しいわけです。

たとえば、たとえばよ?確定極刑囚には「○年○月○日に執行します」って予め教えていいと思うんです。
(さまざまな理由で、現在は執行の日を教えないことになっていますが、私はその理由含めて教えるべきと主張します。)
そして、極刑囚の部屋には、常に首をくくれる設備を与えておけばいいのです。自ら死を選ぶもよし、
処刑の日を待つもよし。死刑に処すと言うのは大変な業を背負うことなんですから、受刑囚の精神異常や
体調不良を理由に執行を一時停止するのは間違いですよ。刑を執行するためには、執行の直前まで生きて
いてもらわなければならないという考え方もナンセンスです。死んでもらうのが目的の死刑なんですから、
自分で死んでくれたらラッキーと思っていいはずです。そこを突き詰めていくと鳩山さんじゃないけれど、
死刑ってのは法務大臣の「死刑執行命令書」に従って執行されるのではなくて、法務大臣の「死刑執行延期
命令書」によって執行が延期されるのが正しい姿で、それを作成してもらえない死刑囚は、本当に確定後
半年以内に執行されればいいんです。「○年○月○日に執行します」も判決時に判事が明示すればいい。

だってね?恐怖って麻痺するのよ。最初は確かに、看守の足音を聞いただけで「自分の番かも」って恐怖するよ。
でも、それが一年経ち、二年経ちするうちに「どうせ今日も俺の番はこねぇな」ってなるよ。そしてある日突然、
「自分の番」がくる。その時になって慌てふためくのは目に見えているでしょう?だったら、死刑囚に人間として
尊厳を持ったまま最後の日を迎えていただくには、だまし討ちの恐怖ではなく、明示された最後の日が一日一日
近づいていく焦燥であったほうが、何倍も深い後悔を引き出すことができると私は考えます。


そして…40年以上も死刑執行が延期され続け、延期され続けるに足りるだけの悔恨と更生を認められた死刑囚には
仮出所と言う栄典があっても良いと思います(笑)いや、言い方を変えるなら、現在では死刑のための収監は死刑執
行に着手したものと解釈するので、拘置所内で何十年も死刑執行されずに生き延びていても刑の時効は成立しませんが、
それは「法務大臣の怠慢ゆえに執行されないで生き続けてしまった極刑囚が刑を免除される」という不条理に対する
答えだと私は考えますので、逆に「法務大臣の怠慢は即執行につながる」システムの中で、何十年も刑の執行が
延期され続けると言う事態は、一定期間を以って刑の時効にしてもいいのでは?もしくは、延長何回の記録を以って
特別恩赦の対象として自動的に無期懲役に減刑されてもいいのでは?と思うのです。

2242紫煙狼:2009/07/05(日) 21:05:25
ちなみに…私事で恐縮ですが。私は常に

「私が何らかの事件に巻き込まれ生命を絶たれた場合、その方法がいかに残忍であり、犯行動機がいかに自己中心的であり
 反社会的なものであったとしても、被害者が私一人に限定される場合において、私は加害者の更生可能性を信じ、加害者
 に社会復帰の可能性を持たない刑罰を下すことに絶対的な反対を意思表示するものとします。」

という遺書を持ち歩いており、常日頃から家族に対してもそれを支持するようお願いしています。もっとも…私ひとりだけが
被害者である場合、通常で考えて死刑はないと思いますし、この遺書が判決に影響するとも思えませんがね。

2243紫煙狼:2009/07/05(日) 23:17:28
そういえば…皆さんにとって私と言う人物は「何があっても死刑廃止論を変えない人間」と映っているかもしれませんが、
実はたった一つの条件さえ満たしていただければ、存置どころか死計賛成論者に鞍替えしてもいいと思っているんですよ(笑)

非常に簡単な話でね?「極刑囚は各種人体臓器の交換部品として適合者が現れるまでの間、生存を許される。」

わたし、これなら文句つけないな(笑)角膜が欲しい人が現れたら、角膜を取り除いた状態で死刑囚を生き延びさせ、
腎臓が欲しい人が現れたら、必要な数だけ摘出する。それで死刑囚が死んでも「それが刑罰」ですよ。
場合によっては確定二日後に心臓が欲しい人が現れて、即執行かもしれないし、場合によっては、延々と適合者が
現れず、うん十年生き延びてしまうかもしれないけれど、それはそれ、臓器を腐らせてしまうのも勿体無いですからね。
病気等で苦しんでおられる方々のためには新鮮な臓器のストックが多いほど適合の可能性が増えるのですから、
「凶悪犯の命が人命救助のために使われる」のであれば「これ以上ない償い(公共の福祉)」でしょう。

まさか「凶悪犯の命を奪うこと」を是認する人が「凶悪犯の臓器を奪うこと」に否定的だとは私は思えないし、
「凶悪犯の臓器で生き延びるくらいなら病気で死んだほうがマシだ!」って思っている適合者待ちの患者さんなんて、
極めて少ないのではないでしょうかね?あと、新薬の治験にも有効活用させていただけばいいと思いますよ?
なんなら、改造拳銃の殺傷能力を確認するのに利用していただいても結構。

「よっぽど人道的でしょう?」

2244loveless:2009/07/06(月) 00:38:35
少し横道・・(本スレにはついていけてないw)
>>2243
>非常に簡単な話でね?「極刑囚は各種人体臓器の交換部品として適合者が現れるまでの間、生存を許される。」

臓器の中でも「心臓」は、ある種の個性をもたらすとの研究結果もあります。

これが正しければ、死刑囚の人格(というか好み)の一部が、一般市民に移植されるというのは、ちょい嫌な気もしますw


ま、移植を待つ人にとっては、それでも欲しいという切実な人の方が多いと思いますが・・

2245無精髭:2009/07/06(月) 11:20:32
>>2243
仰るような条件が満たされさえすれば死刑賛成論者へ転向してもよいとのことですが、お言葉ですが、
それでもシェンさんの鞍替えの可能性を信じる方はまだ現れないでしょう(笑)。

まずその条件ではシェンさんご自身が今まで唱えてきた死刑廃止論と比較して余りに不釣合いです。
しかも、そちらで提起されていた問題をクリアするような画期的なアイディアとは到底言えないですし、
それどころかシェンさんの廃止論の批判の対象にすら該当してしまうのではないかと。シェンさんの
死刑廃止論における教育・更正論とか司法制度改革論とか生命・倫理論などと呼ぶべき考えを無意義に
してしまうようなアイディアとも何だか思えませんし。自らの死刑廃止論では緻密で用心深い主張を
展開されていらっしゃるのに、逆に存置論を主張する段となるとシェンさんらしくない性急な結論、
カレーさん風に言えば未来のベストよりも現在のベターを求めていらっしゃるように感じられてしまい、
何ともはや何ともはや。刑罰を教育や治療と捉え返すことでその意義を生み出そうとするシェンさんの
刑罰論の根幹も放棄されてしまわれているようで、、、。ああ、全ての犯罪者に対して更正という
奇跡を信じると仰った、あの理想主義はどこへ行ったのでしょう!?

何はともあれ、たったそれだけの条件が揃ったのみでは、現代の死刑賛成論者とは宣言できても、
未来の賛成論者とまで断言なさることができるのでしょうか。

・・・冗談はさておき・・・

刑執行後の死刑囚からの臓器摘出を合法化・特例化せよという提案ならともかく、同様の目的から
執行方法改善案と称して脳死刑とか臓器移植刑とか本気(というか真面目な論調)で主張しちゃう
人って、検索すると結構出てくるんですね。死刑囚の命を利用しようとする前に、老婆心さんじゃ
ないけど、死刑問題よりももっと基本的な問題を片付けるのが先なんじゃない? と言いたいの
ですが。臓器移植についてこれまで問題視されてきた事の数々は、一応形式上はドナーが死刑囚
だからということで扱わずに済むとしても、率直に言って生命倫理上または死生学上の未解決な
問題が山積でしょう。

心臓を移植の為に取り除いた後、角膜や腎臓その他の臓器がまだ残っている場合、それらを守る為に
人工心臓を植え付けるなどの延命治療を施すか否かという問題もあります。移植医療に代わる手段と
しては色々と課題の多い代用臓器ですが、生きるために最低限必要な臓器を取り除かれてしまった
死刑囚を生かすためになら、否、死刑囚の身体に残っている臓器を新鮮な状態のまま保持しておく
ためになら、代用臓器による延命治療を受けさせるのも決して悪くない手だと言えるだろう。
移植手術の結果みすみす死なせてしまうのなら―――まだまだ使い道のある他の臓器をダメに
してしまう位なら、当人の意思なんぞ無視して延命治療でギリギリまで生かしておけばいい、
所詮死刑囚なんだから、と。

もちろん生前死刑囚にドナー登録してもらった上で刑執行後に臓器を除去するというのならまた
話は別でしょうね。その場合は強制的にドナー登録させるのも構わないのではないでしょうか。
その為には絞首刑と言う執行方法も見直さねばなりますまい。それでも死後となれば提供可能な
臓器は限られて来るでしょうがね。しかし、生きている人間から臓器を取り出してゆく刑、
それを死刑の新たな執行内容として認めたとすれば、死後も臓器を取り出すことはどうなのでしょう?
臓器を取り出すという(死)刑を終えた死刑囚の抜け殻からその上更に臓器を取り出すことは
許されるのでしょうか? ところで死刑囚の遺体って一体全体誰の所有物なのでしょうね?

2246無精髭:2009/07/06(月) 11:21:34
たとえば臓器移植刑を施した結果そのままでは死んでしまうと言う場合、それはそれで死刑という
刑罰としてちゃんと成り立っているわけですが、そこで残された・まだ有用性のある臓器等を守る為に
延命治療を施すことは許されるかという問題があります。なぜそれが問題なのかというと、延命治療
は死刑と真逆の目的の上でなされますので、一人の死刑囚に対し死刑と延命治療を施すと言うことは
一度執行された刑罰をその刑罰に耐えられる状態に戻した後再び受けさせるということになります
から。ならば延命治療も刑罰として含める必要がありましょう。しかし延命治療それ自体は刑罰では
ないですし、第一死刑として定められた臓器移植刑によって延命治療が必要となる身体にされて
しまった訳です。これではカレーさんが熱弁を振るって絶対的終身刑の残酷性・非人道性を訴えた
ところのあの負のスパイラルに近いのではないでしょうか。とは言え、どのような臓器にもおそらく
レシピエントはかなりの数いると思われますから、移植に関する手続きや手術は迅速に行われるでしょう。
従って、現状では絶対的終身刑の非人道性に比するほどの長さの延命治療はおそらく行われないと
思われますけど。

しかも、従来の死刑においても執行が規定の期間を越えて延期されている間は絶対的終身刑のような
側面があったと言えるわけで、そのような死刑執行前段階も死刑という刑罰内容に含まれるといった
複合的解釈が許されるのだから、臓器移植と延命治療の反復刑として死刑を定義することもあながち
暴論とは言えないのではないかと言われてしまえば、確かにそうかも知れませんねと答えるしかない
ですが。

>>2>>9のえふさんみたいに地雷撤去作業に従事してもらうと言うのも捨て難いでしょう。日本の領土内に
地雷原があったらねえ…。しかし、そんな人柱みたいなことや生体実験などを国家が刑罰として正当化
してしまえば、国際問題の引き金となってこの国の孤立を招くことになるかも。そうなったらそうなったで
「公共の福祉に反する」やも知れませんね(笑)。「公共の福祉」を死刑制度の正当理由に持ち出すなら、
国内だけでなく国外にもやはり目を向けなければなりません。

ところで、死刑囚からの臓器移植というのは既に中国では実際に行われているとのこと。もちろん
シェンさんが仰った条件とは違って死後に行われますが。でもこんなソースもありました。
(グロ注意です)http://hyouhei03.blogzine.jp/tumuzikaze/2008/06/post_f4cc.html
こんなブログをご紹介してしまったので絶対にKenさんからダメ出しを食らうと思いますが(苦笑)、
あえて挙げてさせていただきますよ。刑の執行の方法として見ても、死後の摘出手術として見ても、
野蛮でないとは言えないのではないでしょうか。シェンさんのご提案は、日本の死刑制度の秘密主義を
解くきっかけになるかも知れないと私は思いましたが、もしも死刑制度が今よりもずっとオープンに
なったとして(レシピエントを決定しなければいけませんし、臓器移植となれば出来るだけ速やかに
成し遂げなければならないでしょう。そこで死刑囚のドナー情報や死刑執行(手術開始)日時などの
事前の情報開示はむしろ必須です)、国民にとっては生理的にも道徳的にも耐えられるものとなるで
しょうか。

上記に関して真面目な論考はこちら。
http://homepage1.nifty.com/awaya/hp/ronbun/r008.html

2247無精髭:2009/07/06(月) 19:04:34
>>2224
いやあ、シェンさんが出して下さった例えって「女子コンクリ」スレ495番のレスの考えを
敷衍したものでしょう? あの発想については刑法学の難しい話は抜きにして考えても、
不可思議と言う他ない心理傾向を自らの内に感じてしまいましたね。

で、折角シェンさんが>>2222について補足して下さったおかげでそのご質問の意図も明確に
なったというのに、このまま話を終わらせてしまうのはもったいない気がしますので、
もうちょっとだけ愚考を巡らせて見ましょうかね。

>たとえば、刑法に「金10万円を盗んだものは懲役1年とする」という条文があったとして、
>単独犯が10万円を盗んだら懲役1年。(中略)では2人がかりで10万円を盗んだ場合、どう
>考えればいいのかな?(中略)一人当たり5万円盗んだと考えて2人を懲役6月にするのか、
>それぞれ10万円を盗む犯行に加担したと考えて2人とも懲役1年にするのが正しいのか

二者択一ですのでね。簡単に答えさせて戴きますと、後者の方が市民向きって感じがしますね。
一体全体なんで、犯行によって奪われたもの(アクション)に対しその罰則によって失われる
もの(リアクション)が等価であるべきだという理由から、加害者が複数人の場合は責任を
分担したり罰則を等分したりしなければならないという発想が生まれてくるのか、理解に
苦しむといったところが市民の感覚ではないでしょうか。換言しますと、「金10万円を盗む」
という犯罪は「懲役1年」という刑罰に釣り合うものと規定されているにしても、別に犯人が
一人である場合とも二人である場合とも記されている訳ではないのに、単独だろうが複数
だろうが犯人が条文の内容そのままに処罰されないなんて、法律さんよぉ、一体どういう
了見なんでえ!?

話が変わりますが、例えばですね・・・
「Aから10万円を盗むのにBとCが協力し合った場合」と「Aから10万円を盗もうとしてBが
それを遂げた後、Cも10万円を盗もうとしてそれを遂げた場合」とは同罪かどうか。また、
後者は「BとCがAから10万円をそれぞれ別々に盗もうとしたのが重なった場合」と比較できる
でしょう。しかしBとCの犯行が偶然重なった場合とBとCが協力して犯行に及んだ場合とは
被害者Aの立場からすれば区別が付かないでしょう。盗まれそうな金額には差があれども、
加害者BとCの二人がお金を取ろうとした場合に互いに協力していようが奪い合っていようが、
二人の手からお金を守らなければいけない状況に関しては違いなどないからです。

言い忘れておりましたが、もちろんどの場合でも、Aは手元に20万以上のお金を持っていると
します。そして加害者は犯罪に着手する前から10万円しか盗まないと決めているとします。

市民における断罪意識においては、徒党を組んで犯行に及ぶと言うのは単独犯よりも卑劣
であるという感覚が根強くあると思うのですが。それこそ集団窃盗罪とか集団強盗罪とでも
いったものがあれば非常に宜しいのでしょうが。共謀罪というのはありますけど、犯行が
着手されているか否かという点を差し引いても、市民の報復感情にマッチした集団○○罪
という概念とはかなり毛色の違うものだと思われますが。

2248無精髭:2009/07/06(月) 19:05:09
上のレスでゴルゴがどうしたとの話が出ていたと思いますが、同時殺害の例えを捻り出して参りました。

20人の狙撃手が各々の動機と目的を以て一人の要人を暗殺するために彼の心臓なり頭部なりに
照準を合わせていたとしましょう。狙撃手たちはお互いのことは全く知らず、それぞれ単独で
行動していますので、自分以外の者も同一人物の暗殺を企てているとは露知らないのは無論です。

で、この狙撃手たちはとてつもなく腕が好いですから、まさにこの瞬間だというような狙撃の
タイミングを掴むことや狙いを外さぬことにかけては並ぶ者がないほどの名手です(正確に言うと
彼らは狙撃手世界ベスト20ですのでその中で横並びには並んでいるわけです)。なので、一人
ひとりが寸分違わぬタイミングを見逃さすに引き金を引いて狙った急所を撃ち抜くことが出来るのです。

さて、この20名が各々別々の場所から同時にここぞとばかりの好機を捉えて正確に頭を撃ち
抜いたとしましたなら、1名で暗殺した場合と全く同じ罪で20名全員が裁かれるべきでしょうか。

>>同時傷害の特例

私も知りませんでした! 刑法学における概念の豊富さには尻込みしてしまいますね

2249紫煙狼:2009/07/06(月) 23:44:56
>>2248
本当にタイミングが合えば、見た目一発の銃弾で倒されたように
みえるよね?そして暗殺された要人を司法解剖したら弾丸が20個
出てくる…。法医学者もびっくりだ(笑)

さいとうたかおも喜ぶぞーw

2250Ken:2009/07/07(火) 12:00:32
>>内心の自由

最近この記事が気になったんですよね。

「国旗・国歌、嫌いなら辞めよ」=起立しない教員に−上田埼玉知事
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090701-00000137-jij-pol

式典で国歌斉唱時に起立しないのは服務違反として処罰の対象にはなるかもしれないですが、日本の国旗や国家が嫌いだというのは感情として内心にとどまる限りは当然認められるべきで、やっぱりこの発言は憲法違反かなあと。

余談ですが、新憲法の制定は国際法違反だから無効だと主張するのは、「パトラッシュ特製ミートローフ」を犬料理だと思い込むのと同じくらいアホですね。50年前に占領は終わっているのに何を今さら。ポツダム宣言では「民主主義的傾向の復活。言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重の確立」という条件も呑んでますし。ポツダム宣言と新憲法を否定するためには、もう一回戦争やるくらいの根性がないとダメですね。

2251Ken:2009/07/07(火) 12:03:35
>>2241侍文化の正当なる後継者たる我々日本人は、基本的に「犯した罪を一命を以って償う」というハラキリ習慣がスキなのね。

「死んでお詫びする」という表現がありますけど、死刑はこれを犯罪者に強要する制度なんじゃないかなあと。みんなにとって応報とか抑止とかぶっちゃけどうでもよくて、これが日本で死刑が広範な支持を受けている理由だと私も思ってました。でも、実際には死んだところで何かが変わるわけでもなくお詫びにもくそにもなってないですよね。米国には「死んでお詫びする」という概念自体がないですね。だからこんな記事も。

水道水と自殺率低下の関係報道から英米の日本人観が
http://dictionary.goo.ne.jp/study/newsword/wednesday/20090506-01-2.html
今年3月には米保険最大手AIG幹部の巨額ボーナスにからんでアメリカの上院議員が「あの連中は国民の前で謝るだけでなく、日本人の例にならって自殺するか辞任すべきだ」と発言し、かなり物議をかもした

2252Ken:2009/07/07(火) 12:06:32
>>死刑囚からの臓器移植

だいたい私の言いたいことは髭さんが書いてますけど、もうこれは紫煙狼さんの妄想ですね。どう考えても死刑廃止よりもそっちのほうが難易度が高いです。それを盾に死刑廃止からは鞍替えしないというはらなのかもしれないですが。本人の健康のためではなく、生きたまま臓器を取り出すのはどう考えても拷問です。生体角膜移植と目潰しの刑に外見的な違いはないです。

トーフさんも書いてますけど、死刑自体は違憲ではなくても処刑方法については違憲となりうる、との判断を最高裁は示しています(1948年死刑制度合憲判決事件)。処刑方法は厳密に決まってなければならず、手術の途中で死んじゃったというのは憲法違反の可能性が大です。

あと、技術的にも生体移植というのは単に移植の難易度を上げているだけで意味がないです。日本で生体移植が比較的盛んなのは伝統的に脳死が認められてなかったせいであって、そんなのわざわざやりたいお医者さんはいないでしょう。一番ありうるのは処刑直後の臓器摘出ですが、このへんもお医者さんにノウハウがないと踏み切るのは難しそう(窒息死後の臓器の状態が不明)。ですから、処刑方法の変更が必要になってくるでしょう。また、その場合お医者さんが刑場に足を踏み入れることになりますが、それも執行する側にとっては都合が悪いでしょう。

日本は脳死が限定的にしか認められておらず脳死移植が低調なわけですが、そういう国が死刑囚からの臓器移植を始めると、臓器供給源として死刑を利用している、という疑いの目がどうしても向けられることになります。あるいは臓器移植を求める社会的圧力のせいで死刑判決が増える、といったことも考えられます。それが一番まずいです。

死刑囚がドナーの意思表示をしていたらひょっとして角膜くらいは移植できるかもしれないですが。

2253Ken:2009/07/07(火) 12:10:23
こういう記事がありますね。

Doctors Worried as Americans Get Organs of Chinese Inmates
http://www.nytimes.com/2001/11/11/international/11ORGA.html

米国人が中国で死刑囚から臓器提供を受けているという記事。日本人も中国に渡っているそうです。中国以外に、台湾と南米でも死刑囚からの臓器提供が行われているそうです。でも、米国ではありえねーという感じみたいです。臓器提供は本人の自由意志でなければならず、牢屋に入っている人、なかでも死刑囚にそれを保証するのは無理だから。

2254トーフ:2009/07/08(水) 19:31:56
やーどうもレスが遅れまして申し訳ございません。まず、
>>2219 >>2220へレスさせて頂きます。
無論、紫煙狼さんの案のもとでの再犯のことをお伺いしたのであって、現行制度の
再犯のことではないのです。紫煙狼さんの矯正・更生では失敗がないことを前提にしても
よいのでしょうか。お答えを頂いているような文面でもありますが、紫煙狼さんの「矯正・更生」
が失敗して再犯・累犯となった場合のことをもう一度お伺いしたいです。

「精神的なレイプ」の質問は、私の「説得的な動機は存在しないのではないか」という
疑念に基づいています。「恨み」と「殺人」が結びついてもおかしくないが、「傷害」と結びつい
てもおかしくないし、「暴行」でもよいし、「その他非犯罪的報復」となってもおかしくない。
「動機」に関する証言が客観的な証拠を得られた場合(例えば日記とか、隣近所の人がのべ
つ目撃していたとか)を除き、被害の大きさで量刑を決めるべき、とこう考えて居ります。
純粋動機(加害者がそういっているだけ)の場合は無視すべきであろうかと思います。
「動機」の部分にマスコミ的ニーズがあったとしても。

2255トーフ:2009/07/08(水) 20:06:06
kenさんへ。レス遅れて申し訳ございません。>>2227にレスさせて頂きます。

ちと、「少数派」の理解がおかしいかと思います。「虐待にあう子供」は少数でしょうが、
それを認めない人間は多数でしょう。「殺される人」は少数でしょうが、殺人を罰すべきだと
考える人は多数です。

私の考えでは、「市民的責任」と「他者を害さない責任」は同じではないと思います。
投票権などを含む20歳を境として与えられる「市民的権利及び責任」と
「他者を害さない義務」を同列には考えられない。殺人は体が成体になれば「できる」のです。
もっとも、窃盗や「ケンカ」といえるような暴行・傷害について、大人と違う扱いをしてもよいか
な?とは思います。が、「凶悪犯罪(殺人 傷害致死 放火 強姦)については成人と同じ扱いを
すべきだと考えます。これらの考えは主に私の「量刑は主に被害の大きさから決定すべき」
という考えと、被害者遺族にとり「31歳に殺されようが、13歳に殺されようが同じ」という点
を基礎にしています。
「抑止力」に関してですが、刑罰法規そのものが発する抑止力なんぞ知れていますよね。
まあ、ない訳ではないですが、抑止力は「刑罰法規実行組織」による所が大きいかと
存じます。平たく申せば警察・検察・裁判所・監獄のことです。いかなる「死刑」が定められた
としても、法実行組織がヘナヘナであれば抑止力は無いに等しい。無論、死刑が廃止されても、
「法実行組織」によっては死刑があった場合よりも治安がよくなる、ということは十分ありえます。
と、いうか「抑止力」を客観的証拠で表すことなんて無理なんじゃあないでしょうか。
kenさんは懲役刑には普通に賛成しておられるのでしょうが、その抑止力を客観的証拠で
表すことができますか?

「何百何千殺しても〜」というのは死刑が廃止された状態をそのように表現したものです。
別にリアルにそのような人間がでてくる、という予想を立てている訳ではございません。

2256トーフ:2009/07/08(水) 20:37:09
ufloatさんへ。レス遅れて申し訳ありません。>>2227へレスさせて頂きます。

私のいう「応報」は範囲は広くないとおもいますよ(自分で思っているだけか?w)。「刑の軽重
」が出てくる限り、それは応報の感情を基礎とする、と言ってるだけですから。「刑罰が応報
であること」を認めてもそこから直接死刑が出てきたり、懲役が出てきたり、罰金が出てきたりしない。
なので、「懲役何年」と決まった人間に対して、「矯正・更生技術」が適用されるのは私の
立場にとっても必要なことだと思います。しかし、「懲役何年」と決めるのは「応報」を
前提とする、と言っている訳です。応報よりも先に「矯正・更生に何年かかるか」という発想
をしない、というような意味です。

で、ご質問の1・2・3ですが、2・3は1を前提にしなければでてこないと思うのです。
「国会によって立法された刑罰法規」でないと、およそ国民を拘束する根拠がない訳です
から。刑罰法規に根拠をもたずに国民を拘束する法律ができるんだったら、1は関係なくなり、
応報も前提にしなくてもよいかと思います。

再犯可能性の件についてですが、「初犯」の部分は応報で、「再犯可能性」の部分は応報ではない、
と思います。再犯可能性に限らず、「可能性」を罰することはできない、というのが憲法の
立場であろうかと思います。なので、おっしゃる通り「再犯可能性」によってのみ重くなって
いるのならば、その重くなっている部分は「社会の安全確保」のためによって重くなっている
のだ、と思います。「可能性」を根拠に拘束している点で、ある種の精神病患者を強制隔離
するのと同じような人権問題を含む、とは思いますけれども。

お答えになってますでしょうか。

2257トーフ:2009/07/08(水) 21:39:38
紫煙狼さんへ。レス遅れて申し訳ありません。>>2240以下にレスさせて頂きます。

刑罰である以上、「何らかの苦痛」である必要があるでしょう。「矯正・更生のみ」が理不尽
であることは紫煙狼さんもお認めだと認識しています。

お書きになったことはほぼ私の見解に対するご理解として正しいと思うのですが、
少し説明を。
私も「これから起こりうる犯罪」に対し、刑法刑罰法規ができることは別にそう多くはない、
と思いますよ。むしろ、仮に紫煙狼さんがおっしゃる「矯正・更生」が「技術」として確立
するならば、それを監獄で実行するのでなく、家庭から学校から会社から行えば、そもそも
犯罪が起きないわけでしょう。刑法は「すでに何かやった人」を前提にしていますから、
応報の観点は免れません。が、「まだ何もしていない人」は応報と関係なく、犯罪から遠ざかる
ための技術の適用を受けてもよい。拘束はできませんが。
これをすれば、「死刑を維持しつつ死刑に該当するような犯罪が起きない社会」が実現
する、かもしれませんよね。

「犯罪が起きないような社会にする努力」と「死刑」は別に矛盾しないでしょう。するんですか?

死刑囚の扱いに関してはほぼ同意見です。恩赦などについても。
隠すことはよくない。一定の範囲を限って公開すべきであろうかと思います。
公開すべきだと思います。

だれの言動だったかちと失念しましたが、「死刑囚は死刑になる前に、3回学校をまわって
(命の大切さ)について講演したあと、最後のごちそうを食べ、その後執行する」というような
ことをいっていました。これはどうなのでしょう。死刑囚は他人を殺したし、自分もこれから
殺されるということで、「命」について語る資格がある、ということなのでしょうかね。いったい
どんな話をするのか興味がありますが、ちと悪趣味かも、とも思います。

>>2242で遺書のお話を書いておられますが、「私=紫煙狼さん」の部分を「ご兄弟」「ご両親」
「ご友人」等に置き換えても、その遺書にあらわれたご信念は成り立つものなのでしょうか。

私は解りやすくて、自分が残忍に殺された場合も、親兄弟友人が残忍に殺された場合も
死刑を要求しますが、ここらへんについて紫煙狼さんのお考えを伺えれば、と思います。

宜しくお願いします。

2258紫煙狼:2009/07/09(木) 00:42:52
>>2254
>紫煙狼さんの矯正・更生では失敗が(中略)ことをもう一度お伺いしたいです。
私の場合、矯正・更生に失敗している場合は釈放しない…を前提としていますから、
この前提に立って再犯が起こりうるとすれば、考え方は二通りで、
・矯正教育によって更生していたが(一般人が犯罪に走るのと同じ確率で)犯罪を犯した。
・矯正教育の定着度・更生の度合いを見誤って釈放した結果、再犯した。

トーフさんが言うように、人は誰しも犯罪を犯す可能性がありますが、その程度には大きな
差があるものと考えています。いつ犯罪を犯してもおかしくないラインをギリギリで渡りながら
一生涯犯罪を犯さないものも居れば、およそ犯罪とは縁のない生活のまま生涯を終えるものも居ます。
前者の場合、一度収監されていると言う事実と矯正教育を受け一定の効果を示した上での犯行ですから、
逆に、そのような人が再度犯罪に走るとすれば、そこには「犯罪を正当化するには至らなくとも、
ある程度理解できる事情によるもの」が存在しなければなりません。それが無ければ、後者に該当すると
考えます。
後者については「どこまでの矯正教育効果が見込めるか」と同等に「どこまで正しく計測できるか」と
いう問題があり、言い方は悪いですが、この場合は釈放した行政に対する責任の追及もされるべきと
考えています。(その結果、釈放されるものが減るのは一向に構いません。)

>私の「説得的な動機は存在しないのではないか」という疑念に基づいています。
もし犯罪を正当化しうる動機があったなら、それは違法性を阻却されるでしょう。従って、犯罪として
裁かれ、何らかの罰を受けるのであれば、そこにはその犯罪を正当化しうるだけの動機は存在しなかった
と受け止めてよろしいのではないでしょうか?
ただし、正当化しうるとは言えないまでも、十分同情に値する動機で犯罪を犯した例もないではありません。
面白半分で人を殺害した者と、悩みに悩んだ末、視野狭窄に陥り殺害しか思い浮かばなかった者を、結果の
重大さのみで重軽つけるのは正しいのでしょうか?もしそれだけで量刑を決定付けるのであれば、被告人が
罪を認めている事件に関しては審議することなく判例どおりの刑罰を与えれば良くなりますね。より極端な
言い方をすれば、判事と言う人間ではなく、ある種のコンピュータが自動的に判決を出しても構いませんね。
検察官の公務は被告人の犯行事実を明確にするのみ。結果の重大さは後で変更することはできない以上、
弁護の意味もありませんから、弁護人も不要となりますね。犯罪心理学なるものも無用の長物ですね。

私は裁判が被告人のために行われるものである(時限の全貌を明らかにし、被告人に申し開きの機会を与え、
被告人の人間としての成長を促す刑罰を決定付けるもの)と考えていますので、強い抵抗を覚えます。

たとえば…ビジネスシーンで考えて、A社とのアポイントをとってあったB社の担当者が不慮の事故で
死亡した場合、A社としてはアポイントをキャンセルされる理由としてB社担当者の事故死は
「正当な理由」とはなりえなくとも「説得的な理由」にはなりうると考えます。ビジネスの世界では、
どのみち「アポイントをキャンセルする」を正当化できる理由は存在しえ無い点では犯罪と同様です。

2259無精髭:2009/07/09(木) 01:25:04
>>2249
私の筋書きでは次のようなオチがつきます。20発同時命中で要人の
頭部が弾け飛んでしまい捜査当局がおろおろしているところへ
暗殺者全員が自首して来る。そして容疑者20名を取り調べている
うちに、ある者のクライアントが、もしくはある者が所属している
組織を束ねているボスが、実は同じ人物であり、容疑者20名に対し
個別に暗殺を指図していたことが明らかとなった。(閉幕)

…我ながらシュールな内容だと思いますた。(スレ違い失礼しました。)

>>2251
>「死んでお詫びする」という表現がありますけど、死刑はこれを犯罪者に強要する制度なんじゃないかなあと。

ある者が取り返しの付かない不始末を仕出かしてしまった場合に死ねば詫びたことになるのであれば、
別の者が彼を殺したら詫びさせたことになる、という理屈でしょうか。私見では、自死と他殺は明らかに
異なる事象でありますから、生命の消滅という点で繋がるにしても、詫びを入れるという点では同じ結果
には繋がらないと思います。大体私には、死ねば詫びたことになるのだと思い込むことと、「死ねば詫びた
ことになる」と言って自殺を強要することの間では、詫びを入れることについて微妙に意味合いが異なると
思われる位ですから、自死と他殺の両事象にそこまで明確な相違があるのなら、当然気になって仕方がない
ことですね。

・死ぬ→詫びる
・殺される→詫びさせられる

たとえ「死んで詫びる」ことが可能だとしても、殺されてしまえば「詫びた」ことにはならないわけです。
「詫びさせられた」ことにはなろうとも。殺すことで詫びさせるにはどうしたらいいかというと、

・死ぬ→詫びる

なので、

・殺される→死ぬ→詫びる

というふうに、当人の意思(「死ぬ」の部分)を介入させることで死刑に対して受動的だったのを能動的に
変えるだけ好いです。

犯罪者は死刑に処されることで詫びたことになるのだと多くの日本人が本当に考えているとするなら、
その多くの日本人にとっては犯罪者の心の中のことなどどうだっていいということになりそうですね。

>>2061
>ちなみに、日本も平安時代は長らく死刑が停止していた時期がありました。

そうそう。こちらにレス致すのを失念しておりました。ネットの死刑議論を観ておりますと、たまに出てくる
話なんですけど、ホントかね、といつも思っておりました。で、下記のリンク先の記事(特に、「死刑廃止の謎
本当に死刑は執行されていなかったのか?」)をお読みになれば納得戴けるのではないかと思いますが、
http://www.geocities.jp/aphros67/020800.htm
この頃の日本は予想に違わず、事実上の死刑停止状態ではなかった模様ですよ。現代とは統治体制も刑罰体系も
異なるわけですから、lovelessさんが仰ったような現在の日本と平安時代の日本を比べるよりも(地理的に同一の
国を歴史的に比較するよりも)、同時代において日本と他の国を比較する方が有意義な気がします。もし現在の
日本と過去の日本といった歴史的な比較をなさりたいのであれば、比較対象には近代化した時点からの日本を
お選びになることを強くお勧め致します。近代化や近代国家というタームを共通項にすることで、死刑制度に
関する比較はより有意義なものになるかと思います。

ところで、死刑執行が停止されていた時期は代わりに流刑が行われたりしたようなので、その時代において流罪
がどのように捉えられていたのか気になったので、ちょっと調べてみました。
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2003/030606.html
>(略)日本では流罪はすなわち、共同体からの追放による社会的生命の剥奪を意味していたと考えられている。
ということはです、その頃は自国といっても今と比べて外に広がりを見せるような大規模なものではなく、内に
こもるような小規模なものだったわけです。そして、今のように自国の外はすなわち他国というような決まりも
事実もなく、ある国或いは共同体と別の国或いは共同体との間には手付かずの空間があるのが当たり前だった
ということです。社会的隔離という点で比較しても、その頃と今とでは正反対であり、今は自国の内部での
拘束状態・無力化を意味するのに対し、その頃は自国の外部への追放や自国内での名誉剥奪を意味していた
ということになるでしょうか。まあ、流刑地の罪人に対しては、現在社会的隔離した上でやらせることと同じこと、
すなわち強制労働を科していたとのことですがね。

2260紫煙狼:2009/07/10(金) 00:42:32
昨日も今日も帰りが遅くて…。

>>2257
>刑罰である以上、「何らかの苦痛」である必要があるでしょう。「矯正・更生のみ」が理不尽
>であることは紫煙狼さんもお認めだと認識しています。
ごめんなさい。正直に言うと理不尽だとは考えていません。抑止効果を考慮しなくて構わないのであれば、
殺人犯が1週間後に釈放されても構わないのです。(もちろん、更生していると言う前提ですが。)
しかし、抑止効果を求めるには更生してなお収監され続けると言う面が必要であると言うだけです。
従って、実のところトーフさんの言うところの「応報」なしに「刑期の規定はできない」というのは
私にはまったく理解できません。むしろ「リスクとリターン」でリスクが上回るように考えれば
良いだけだと思っています。つまり「人を殺して得られるリターン」よりも「捕まって刑罰を受けた場合の
リスク」が高くなるように刑罰を定めることに「応報」という言葉を利用する意図がわかりません。
もちろん「人を殺しても捕まらないし刑罰も受けない」というのは、およそ応報とは間逆に位置するもので、
「何かの入力に対し、何らかの出力をする」ことを「応報」と表現するのであれば異は唱えませんが。

「自動販売機に120円を入れてボタンを押して商品を購入する」と言う行為は120円を投入するというリスクに
対して「出てくる商品が希望のものである」というリターンがあり、このリターンがリスクを上回るから、
商売が成り立つ。まして「自動販売機に120円を入れてボタンを押しても商品が出てこない。」という結果を
先に知っていれば、最初から小銭を投入するものは居ないですよね?
(故障中と書かれている自動販売機に小銭を投入するほうがバカなんです。)
しかし、もしかしたら世の中は広いですから、商品を購入することより自動販売機に金銭を投入することに
喜びを感じる変わり者も居るかもしれません。つまり、刑罰なんて何でもいいからとにかく犯罪を犯したくて
仕方が無い人ですね。こういう人には矯正教育として、それがいかに馬鹿げた事であるかを教育するべきと
考えています。

そして、矯正教育が拡充されれば同じ刑期でもリスクは高くなると考えています。前述で私は犯罪者を病人扱い
しましたが、そこに対してトーフさんは「治ったら即時に出さなければならない」と言いましたね?それでは、
受刑者本人にとってリスクがリターンを上回った、と表現できたとしても、第三者の目にはそう映らない。
従って「治っても退院させてもらえない」期間が必要であると言うだけのことです。

ついでですが、私の考える矯正教育と言うのは、いわゆる学校教育や家庭での教育とは異質なるものです。
それが必ずしも学校や家庭で応用できぬものではないとは考えませんが、犯罪者に対する完璧な矯正教育が
可能であれば、犯罪を未然に防ぐことができると論理の飛躍をするのは早計と考えます。
そう…たとえばインフルエンザに対するタミフルのようなものでしょうか。毎日タミフルを飲んでいれば
インフルエンザには罹患しないよね?と言われたら、私はタミフルはインフルエンザの特効薬ではあるが、
予防効果を狙って毎日飲むのであれば副作用の虞を考慮せねばならぬと答えるでしょう。
ある意味、社会復帰したいという囚人の心理につけこんで、矯正教育を受けたいという同意をえて、洗脳
に近いような方法論をとることも辞さないということです。

2261紫煙狼:2009/07/10(金) 00:54:39
>>2259
>私の筋書きでは次のような(中略)ことが明らかとなった。
その昔、ピーター・セラーズ主演の映画「The Pink Panther Strikes Again」では、
ピーター演ずる「クルーゾー警部」のアホさ加減に振り回され精神に異常をきたした元上司が
世界中の凶悪犯罪者たちを束ね、世界を破滅させるほどの強力な兵器を持っていることを
武器に、世界征服を仄めかし、野望を諦めるのと引き換えに「クルーゾーを殺せ」と全世界の
政府を脅迫。26カ国が「とびっきり腕利きの殺し屋」をクルーゾー殺害に向かわせるが…
という状況がコミカルに描かれていました。

まぁ、映画を見ていただければ一番良いのですが、この26カ国から派遣された殺し屋は、
功を焦ってでもなければ、クルーゾーの計略にはまるでもなく、単に偶然に偶然が重なって
同士討ちとなり全滅します。

20人の殺し屋がいっせいに一人の標的を狙った場合…。何人かは同士討ちとなることを祈りたい(笑)

2262紫煙狼:2009/07/10(金) 01:29:37
>>2257
>>2242で遺書のお話を書いておられますが、「私=紫煙狼さん」の部分を「ご兄弟」「ご両親」
>「ご友人」等に置き換えても、その遺書にあらわれたご信念は成り立つものなのでしょうか。
たとえば…私の妻・母・妹・友人の一部に関しては、私がなぜこのような遺書を持ち歩くか理解しており、
私の見解に同意してくれておりますから、それらの方々が何らかの犯罪に巻き込まれ命を落とすとも、
私の信念に変わりはありません。(必要に応じ助命嘆願をするでしょう。)
ただし、私の父は私の見解に対して懐疑的(お前がそう望むなら、お前が殺されたときは犯人の助命嘆願を
してやっても良いが、自分が殺されるとなると犯人に対する助命嘆願はしてほしくない)という意見ですので
これはまた軽視するべき問題ではないので「私の信念に反して助命嘆願ができない」ですね。
ただし、積極的に「死刑を望む」という発言も私から引き出すことはできないでしょう。

残りの友人と、それ以外の人々に関しては、もともと「私が犯人(被告人)に対して死刑を望む」とか
「助命を望む」とか口出しする立場にはありません。敢えて言うなれば、私の見解に懐疑的な友人に、
「俺が殺されたら、その時は犯人に死刑を望んでくれ」と言われても「オレにそういう期待をするな」としか
答えるツモリはありません。少なくとも、たとえどんなに愛する者が殺害されたとしても、私が犯人に対して
「死刑にしてやってください」という発言をする可能性はほぼゼロです。
状況が許せば「死刑にならないように助命嘆願をし」状況が許さなければ「死刑になることに反対しない」だけで
どのような理由があろうとも、どのような相手であろうとも、私が(正義の達成のために)人の死を望むことは
おそらく一生涯ありません。

まぁ、過去にそういう経験が無かったとすれば、こう断言することも無かったんでしょうが…。

2263無精髭:2009/07/11(土) 01:05:33
以下はふざけて申せば冗談投稿、真面目に申せば実験的投稿ですので、もしお目を通すことがございましても真に受ける
ようなことがあってはなりませんよ。

>>死刑囚からの臓器移植
むしろシェンさんの中では死刑廃止のための諸条件が整うよりもそちらの方が難易度が低いと位置づけられているのでは
ないでしょうか。Kenさんの死刑廃止論についてすごく大雑把な見方をした場合、死刑制度の効力を、制度面においては
他の刑罰・司法制度改革・犯罪被害者救済制度などで分担的に代替し、抑止面においては警察組織改革や自治体レベル
での治安政策・教育や福祉や労働等への社会政策などから生まれる諸効果によって綜合的に代替する※、という調子に要約
できるのではないかと勝手ながら妄想しておりますけれども、他方で、シェンさんが構想する死刑廃止後のビジョンが
実現するには更なる科学技術の飛躍的な進歩や市民道徳の向上(国民一人一人の自然感情の理性化)が不可欠です。
たとえKenさんの挙げる死刑廃止条件が揃ったとしても、現時点では存置派であると豪語するシェンさんはまだ死刑廃止
条件は満たされていないと仰るか、Kenさんが挙げた条件を死刑廃止条件とは認めないと仰るかのいずれかでしょう。
難易度で言ったら、
Kenさんの説く死刑廃止<<<<生体移植刑<<<<シェンさんの説く死刑廃止
といった感じに並ぶのではないでしょうか。
ですので、私が前々から感じていたことですが、現時点においてこちらのBBSの論客の中で最も死刑廃止という現実に
近づいているのはKenさんということになるのでしょうね。まあそれも当たり前の話で、こちらでもう一人の廃止論者
と目されているシェンさんは、ご自身でも宣言されたように、現時点では廃止派よりも存置派寄りの論客なのだから。

ちなみにシェンさんが唱える死刑廃止論は、遵法精神による法律への徹底的な解釈や、司法制度本来のあり方の再認識や、
刑罰の意義の捉え直しや、行刑施設や矯正教育の改革などなど、主に法律と刑罰の2つの論点に絞られているようです。

※以上のように死刑を代替刑を導入することでお役御免という風に廃止しようというのではなく、死刑の機能や意義を事細か
に分析した上でその一つ一つを複数の手段によってより効率良く・より効果的に代替することで、死刑制度がなくとも立ち
行ける社会をつくろうというのがKenさんのご主張ではないかと考えております。そして、そういう理想的な条件が整った
社会では死刑制度はその本来の機能や意義を奪われたも同然であり、結果として無効化乃至形骸化せざるを得ないし、
そこへ「死刑は野蛮である」「人権思想の普及を阻害するものである」というとどめの一撃を与えてやれば国民も死刑を
廃止した方が都合が良さそうだと思い始めるだろう、といった狙いがおありかとお察ししております。

さて、シェンさんは未来における廃止論者とのことなのですが、もし現時点で死刑囚からの生体移植を理由に死刑賛成派に
転向されてしまわれたりしたら、将来再生医療がもっと進んで他人からの臓器移植が全く必要とされなくなった時、
なおもシェンさんは死刑賛成派の立場にとどまるおつもりなのかすごく気になったのですよ。―――というか一方で
あれだけの死刑廃止論を展開なされてきたにもかかわらず、その持説を放棄してまで賛成派に転向なされるというので
あれば、シェンさんにとって死刑囚からの生体移植は死刑賛成を唱えるのに十二分に説得的な理由であるはずですから、
臓器移植自体が廃れてしまったとしてもそのまま死刑賛成の立場にとどまらなきゃおかしい(とどまっていただかなきゃ
納得できない)訳です。ましてや、シェンさんの死刑廃止論のSF的要素である受刑者の矯正教育や内面把握技術の科学的
な確立よりも、再生医療の進歩の方が実現可能性においては勝っているように思われますから、なお更性急な鞍替え理由
を挙げてしまわれては後々のことを考えますと、シェンさんにとって非常にまずいことになるでしょうね。「いやあ、
死刑囚から生体移植が行われることを条件に死刑賛成派に鞍替えしたけれども、今じゃ移植医療そのものが必要なくなった
みたいだから、また死刑廃止派に戻らせてもらうよ(笑)」と言われて「やあやあ、待ってましたよw 歓迎×2」なんて
感じで迎えてくれるような懐深いかつての同志などどこにもおりませんや(笑)。

私が>>2245
>何はともあれ、たったそれだけの条件が揃ったのみでは、現代の死刑賛成論者とは宣言できても、
>未来の賛成論者とまで断言なさることができるのでしょうか。
と申したのは、以上の考えが頭にあったからです。

2264無精髭:2009/07/11(土) 01:06:41
でも、>>2242>>2262を拝見させていただき上記については全くの杞憂であることが分かりましたので、今では安堵
しております(笑)。シェンさんは現時点では表向き死刑存置派でいらっしゃるにせよ、個人的には(あるいは
感情レベルでは)死刑反対派であり続ける、この気持ちは動かせないだろう、というご決意みたいなものが私にも
しかと感得されましたのでね。加えて、死刑廃止派から未来永劫的存置派へと転向される可能性というか余地は以前
からご自身で仰っているようにお持ちであるとお見受けいたしました。無論、論理的な存置論に触発されて・あるいは
合理的な議論を通じて、という条件付きでのようですが。しかしながら、死刑賛成派への転向の可能性はほぼゼロなので
しょうね。

個人的には死刑反対派でありながら、同時に公や言論の面においては死刑存置派であるということは矛盾しないこと
なのだなとやっと分かりました。

シェンさんが死刑議論において、個人的な信念や信条を極力口外しないように気をつけておられる主な理由の一つは、
そういう感情論やそれに類した主張を前面に出しすぎると、見解や立場を異とする人とは水掛け論に終始するのみで
話し合いにすらならないからでしょうね。結局自分のためにもならないでしょうし。そんなの虚しいだけです。一方、
どこかで相手との妥協点を模索したり理を分けて説き聞かせたりする謙虚な心構えをもって相手と接していれば、
相手もその点についてはこちらを見習ってくれるかも知れませんし、あわよくばその先には共通理解の上に立った
未知なる世界=結論が開けているかも分かりませんよね。

シェンさんには三つの顔があるように私には見えます。

死刑存置派としての顔 偽悪的側面。他方で遵法精神の権化。現実論。
死刑廃止派としての顔 未来構想。理想論。
死刑反対派としての顔 個人的な思想信条。感情論。

「減刑命令書・死刑執行延期命令書」とか「生体移植刑や仕方ないよね刑などの人道的(?)な処刑法」とか
「独房内での自殺許可」などなど、存置派をあっと言わせるようなアイディアの数々は、人は存置論的な考えを
徹底すると耐え切れずに廃止論的な考えに移らざるを得ないという仮説を実験的に検証するための道具とも取れ、
とても興味深いものがあります。

驚くべきことは、シェンさんは死刑廃止論と死刑反対論を同レベルで論じないように注意されていることでしょう。
ネット上の死刑議論を見る限り、この二つを区別せずに論じるのが通常の死刑廃止論者のようなのですが、
シェンさんはそこのところをよく弁えていらっしゃる。

以上は申し上げるまでもなく>>2074を横目に見ながら死刑存廃の立場について自分なりの解釈を記述したものです。
シェンさんを死刑廃止派であると同時に死刑反対派でもあると申すのは暴論どころか名誉毀損に近いものがあるかも
しれませんが、お気づきのように、私の理解する「死刑反対派」は「何がナンデモ死刑は廃止すべき」みたいな
結論ありきの立場を指す言葉ではないですね。ですから、シェンさんのみならず、私やおそらくKenさんも公共の場
向けの言論としての死刑廃止論とは別に、めいめい私的な領域・限られた人間関係でしか通用しない死刑反対論を
持っている訳ですが、それを殊更積極的に死刑存廃議論で述べようとは思いませんし、わざわざ死刑賛成派の方々に
向けて一方的にまくし立てるのも反発を招くだけなのでどうかとも思いますから、シェンさんのお立場や謙虚さ?
自己抑制?は痛いほどよく分かります。

ところで私の文脈では、シェンさんのように死刑反対派でありながら死刑存置派であることは可能なのですが、
死刑賛成派でありながら死刑廃止派であることはちょっときついかなって感じがします。

それと、同じ死刑廃止派の立場にありながら私やKenさんがシェンさんと決定的に異なるのは、存置派との妥協策
として執行方法の見直しや死刑執行無期限停止などを持論に盛り込もうとするところでしょうね。もし死刑が死文化
しているのなら、それはそれで残しといてもいいじゃん、野蛮時代の骨董品・歴史的遺産乙wって感じなのですがね(苦笑)。

2265トーフ:2009/07/11(土) 14:00:09
紫煙狼さんへ。レスありがとうございます。 >>2258 >>2260へレスさせて頂きます。

紫煙狼さんのお立場では「抑止効果」というのは何を基にしてでてくるものなのでしょう。
「リスクとリターン」とおっしゃりましが、
「こういうことをすればああいう国家からの応報が返ってくる」というのは
「リスクとリターン」の関係では。なにゆえ(例えば詐欺罪に)刑罰という「リスク」を
与えることに同意なさるのか。「殺人にリスクを与えなければならない」という判断の前提に
「応報」があるでしょう、といっているのです。だいたい、「害悪・不利益」
でなければ、「リスク」にならないのではないですか。刑「罰」法規を制定する事自体が
おかしくなるのでは。

「応報」によらなければ、刑の軽重がでてこない、と申し上げました。殺人と立ち小便の
軽重・殺人と窃盗の軽重・殺人と詐欺の軽重、また、同じ殺人同士でも「ヒドい殺人」
というのが存在しているという認識があるわけです。これらの「軽重」は伝統的・経験的な
応報感情を基にしているでしょう、といっているのです。←一般抽象応報感情です。民主体制的な。

紫煙狼さんのおっしゃる「抑止」「リスク」などの具体的な意味がつかめておりません。
「応報と無縁の抑止力」の具体例がおありならばあげて頂きたいと思います。

弁護士が争うべき点は法律解釈・判例解釈・証拠評価・被害評価(大小)など多岐に渡り、
「無用」はいいすぎでしょう。というか紫煙狼さんの認識では、弁護士は動機を争う職業だ、
という認識だったのでしょうか。私は簡単に「被害の大小」と書きましたが、それも当然、
実際の事件では争わねばならない。
また、犯罪心理学は私の認識ですと、「犯罪が起こる前=犯罪予防学問の一種」だという
認識なので、「裁判時点」では特に使用されるような性質の学問ではない、
という認識です。ゆえに今ままでも裁判においては「無用の長物」だったのでは。無論「裁判後」の
更生・矯正においては有用です。死刑囚には無用です。

遺書についてのご回答ありがとうございました。

で、またちょっと聞きたくなるような文面が。「過去にこういうことがなければ」とお書きですが、
さしつかえなければまたお聞きしたいです。過去レスにおありなら、レス番号でもお示し頂ければ。
宜しくお願いします。

2266紫煙狼:2009/07/12(日) 05:18:12
ちょっと疲れたから、数日〜数週間のお休みをいただくね。
(仕事やら何やら…私生活が良く言えば充実してて、悪く言えば忙殺されているんだ。)
今まで、犯罪被害とは無縁であることを装ってきたけれど、しばらくお休みをいただく代わりに、
告白しておくね。。。

もう15年以上前、私には憧れの女性が居てね。恋愛と言うにはあまりに稚拙で、あまりに純粋で。
その人との肉体関係を想像することすらできないほど、その人がトイレに行く姿すら想像できないほど
とにかく、心酔していた人が居たわけですよ。もうちょっと正確に言うと、当時私には恋人が居て、
その恋人とはちゃんと恋愛していて、将来のことも真剣に考えていて、最愛の人は恋人でしたが、
憧れの女性に対しては神格化していたのかもしれないし、凄く尊敬していた。今になって思えば、
その憧れの人が高嶺の花過ぎて、当時の恋人で妥協していたのかもしれないけれど、そこはよくわからない。

ただ、一つだけいえるのは、僕が生涯のパートナーとして選ぶとすれば、その当時の恋人だし、
もしまかり間違って、憧れの女性から愛情を告白されても、僕はその人を守るという責任の重さに
押しつぶされて、結局自滅していたと思う。たぶん「貴女には僕よりふさわしい人が居る!!」って
言って、憧れの人を傷つけていたかもしれない。生涯をかけて守りたいと思うパートナーが居る男としては
非常に不適切な表現だが、母親・恋人・憧れの人、3人が同時に命の危険に晒されていたとして、
もし、誰か一人を選択しなければならないとすれば僕は躊躇せず憧れの人を救った後で、母や恋人に
対する自責の念で後追い自殺していたかもしれない。それくらい大切な人だよ。

その人が犯罪に巻き込まれた。正直に言うけれど、一般的応報感情から言っても軽い犯罪。
そんなことで人生を悲観したりするほうがおかしいのではないかと言うほど、ちょっとした犯罪。
詐欺事件でね。結婚詐欺じゃないよ。単なる詐欺事件で被害額も凄く少なかった。今の僕の月給は決して
多くないけれど、その1/3にも満たないほど小額の詐欺。執行猶予つきの判決。

でも、彼女はそれが元で精神に異常をきたし、半年後に自殺した。
僕が呼ばれて病院に行った時は、まだ息があって。ご両親に一生懸命、最後の力で謝っていた。
そんな彼女がね、僕を呼んだのは、彼女の死をご家族の次に深く悲しむのは僕だと彼女が知っていたから。
彼女は弱々しく僕の手を握って、微笑みながら言ったんだ。
「泣いちゃダメだよ、誰も恨んじゃダメだよ、彼女(僕の恋人のこと)とお幸せにね。」
それから一時間もしないうちに、彼女は還らない人となった。

僕の友達には病院で知り合った人が多く居て…つまり、僕の友達の多くが既に還らない人になっていて、
知り合いや友人の死には、ちょっと慣れていた。そんなに遠くない将来、きっとまた会えると思っているから。
こういうときだけ都合よく死後の世界を信じることにしている。でも、僕にとって憧れの人の自殺は僕の人生を
暗闇に引きずり込むに十分だった。悲しいとかじゃなくて、もう、真っ暗になった。

無精髭さんは覚えているかもしれないけれど、僕には恨んでも恨んでも恨みきれない人が居る、って言ったよね。
その人がこの地球上のどこかで息をしているかもしれないと思うと、今僕が吸った空気の中にそいつの呼気が
20兆分の一でも含まれているなら、僕は窒息死を選びかねない、そんなことを言った覚えがある。
その気持ち、今でも持ち続けている。今は僕も結婚して、妻の大病(脳腫瘍&癌)という山を乗り越えて、
平穏無事に幸せな毎日を送っているにもかかわらず、彼女を苦しめた詐欺犯に対する恨みの気持ちは少しも
変わっていない。妻には申し訳ないけれど、未練タラタラなのかもしれない。

2267紫煙狼:2009/07/12(日) 05:18:35
もう、ね、法律なんてどうでもいいんだ。本当はそいつを見つけ出して殺してやりたいって気持ちもあるんだ。
でも…。そいつにも今では大切な人が居るのかな、とか、そいつのことを物凄く大切に思っている人が居るのかな、
なんて考えるとね。これ以上悲しい思いをする人はいらない、出してはいけない、そう思う。

彼女のご両親から、数年前まで、たまに手紙が届いていた。最後の手紙にはこう書いてあった。

今、君は死刑に反対しているんだね。風のうわさで聞いたよ。きっと苦しんだだろうね。その結果なんだよね。
正直に言って、素晴らしいことだと思う。私達は娘の本当の気持ちを理解できていなかったのかもしれないね。
これ以上、私達が手紙を送ったら、君は一生、娘から逃れられなくなるから、これを最後にもう手紙はしないよ。
誰よりも…親である私達よりも深く娘のことを愛してくれてありがとう。私達は君に愛された娘を誇りに思う。


愛なんて、そんな…。そんなおこがましい感情ではないですよ。条件さえ揃えば死刑賛成に転じてもかまわないと
公言しているような男ですよ。ただ…もし本当に死後の世界があって、もう一度彼女に会うことができるなら、
僕は感情に流されなかったと胸を張って会いたいだけですよ。彼女はきっと微笑んでくれるはずですから。


なんて、どこにでも転がっているような話ですよ。だから僕は被害者遺族ですらないし、本当にご家族を失った
遺族の皆さんと肩を並べてお話できるとは思っていませんよ。同じ苦しみを共有できるとは思っていませんよ。
ただ…その詐欺犯がどんな最期を遂げようとも、僕の負の感情は消えないし、この気持ちは相手の安否とは
無関係に僕の命ある限り続くもので、どのみちそれが変わらないなら、せめて、その詐欺犯の関係者が悲しむような
そういうことは無いほうが良いし、もちろん、詐欺犯には再犯してほしくない。

実は、一度だけ、事件から何年もたってから、その詐欺犯に会ったことがある。すごく信じられない話だけど、
彼女のご両親がそいつと僕を引き合わせてくれた。そいつを目の前にして、僕は生まれて初めて初対面の相手に
怒りとも恨みとも付かぬ感情のせいで血の気を失った。頑張っても笑顔は作れなかった。ご両親も同じだった。
ご両親は裁判にも出ていたのだから、初対面ではないけど、でもやっぱり、その声は絞り出すような声だった。
今はどうか知らないけれど、そいつ、少なくともその時はまじめに働いていた。心から後悔していた。
僕は最後の最後まで、一言も声を出すことができなかった。でも別れ際、とうとう耐え切れなくなって、
そいつの胸座をつかんで、拳を振り上げていた。でも、殴れなかった。「二度と、誰も苦しませるなよ、誰も悲しま
せるなよ」そう言って、あとは涙で顔をぐしゃぐしゃにするしかなかった。


そいつと別れた後…僕は殴ることすらできなかった不甲斐なさを、彼女のご両親にわびた。
そうしたら、母親が涙でくしゃくしゃの笑顔で首を横にふった。お父さんが、僕の方に手を置いて、
「よく耐えてくれた。あれで、あれでいいんだ。」

その手のぬくもりが、今でもこの肩に残っている。

2268紫煙狼:2009/07/13(月) 01:08:59
昨夜の文章だけでは片手落ちだな。少し付け加えるよ。

なぜ、今までそういう経験について話をしてこなかったか…。
誰にも聞かれなかったから、という面はあるね。無精髭さんも私の気持ちを
慮って、深く追求すること…それについて質問することはしないでくれた。
それから、私は思うところあって、犯罪被害とは縁の無い人物であることを
強調しておきたかった。(以下のほうが重要だよ)

私がかつてこのような経験をした人物であると言うことを公言することによって、
ここのBBSが不幸自慢の掲示板になることを最も恐れていたと言うのが本音だよ。
私が自分の経験を語ることによって、自分の発現に重みを持たせてしまうと、
今度は別の者が「私は父を殺された」「僕は母を殺された」「俺は恋人を殺された」
「親兄弟を殺された」そういう者が溢れかえるのを恐れていたんだ。
そしてそれらの者たちが「被害にあったことも無いやつに何が分かる!」と言い出すのを
とても、とても恐れていたんだ。

トーフさん、貴方も犯罪被害に遭った事があるんだろう?きっと私より辛い目に遭われているね。
でもなければ、わたしの遺書に関して「他の人が対象であっても信念は揺らがないか」などと
死刑廃止を訴えるものに対して相手を小ばかにしたようなことは口にできないはずだ。
何処の世界に「僕は死刑反対ですが、僕の家族が殺された時には死刑を望みます」なんて
支離滅裂なことを赤面もせずに言うやつがいる?つまり貴方はあの質問を通じて、僕の信念が
揺らがないことを確認したうえで、次にはそういう経験を持つ人の気持ちについてどう思うのか
訊きたかったのだろう?しまいにゃ、紫煙狼は被害者の気持ち等理解できていない、そう結論付
けることで私の言い分をShutOutするハラだったのではないか?(私の邪推であって欲しいが。)

私の投稿を読んだ者の多くは「それって作り話でしょ?」と思っているはずだ。
なにしろ、あまりにドラマチック過ぎて、私自身、夢だったのではないかと思うほどだ。
所詮、ネットでの告白話なんてのは、信憑性に欠けるからね。正直な話、私だって、これが自分の
経験談でなければ、眉唾物だと思わざるを得ないような話だよ。だから、作り話と思われるなら、
それはそれで一向に構わないさ。むしろ、そのほうが私にとっても好都合かもしれないよ。

だがね、唯一つだけ私が強く思っていて、みんなにも強調したいのは
「その死刑廃止論は、不幸が自分や自分の身の回りに降りかかっても揺らぐことは無いのか?」という
質問ほど、相手の主張を馬鹿にした物言いは無いといういうことさ。内心穏やかでいられるわけが
ないだろう。それはすでに論客のする手法ではなく下種のやることだよ。

そもそも…私は何度も言っているが、言い負かすために言論を鍛えるとか、言い負かされないように
言論を鍛えるというモノの言い方ほど、傲慢で身の程知らずな言い分は無いのだよ。何か唯一無二の
正解が予め用意されている問題に対してなら、それもあるのかもしれないが、こと考え方感じ方の
問題に対して唯一無二の正解が最初から用意されているわけではないだろう?互いに互いの考え方
感じ方を吸収して自分の糧として初めて、こういう議論に意味が出てくるんだ。


さぁ、また近い将来、仕事が一段楽したら戻ってくるとしよう。。。

2269loveless:2009/07/13(月) 21:03:06
ちょっと前に、今の日本は死刑廃止となるきっかけがない、と書きましたが間違っていました。

早くも、今年の後半には、そのきっかけが訪れそうです。


昨日の選挙で確信・・・

2270トーフ:2009/07/14(火) 22:18:01
紫煙狼さんへ。>>2268にレスさせて頂きます。

邪推です。ShutOutって。別にお答え頂かなくてもよかったわけです。
お答え頂いた後で、このようなレスをなされても戸惑いますね。後でハラが立ってきたわけ
なのでしょうか。せめて邪推なさる前に私のレスを待って頂きたかった。
もう話が広がらないようにコメントはしません。失礼な質問だったら、これから
お答えになる前に「それは失礼だ」と言って頂きたいと思います。

私の考えによれば、「議論に勝敗がある」と考える人の方が謙虚です。
なぜならば、「自分が敗北することがある」ことを前提に出来るからです。負けぬ為に
いろいろ勉強したり調べたりするからです。勉強したり、調べたりするのは謙虚さの
具体的な現れでしょう。

次にお帰りのさいは
「応報と無縁の抑止はあるのか・その具体例」という点についてお伺い致したいと思います。
もう議論を続けたくない、ということだったら、その旨おっしゃって頂ければ退散いたします。

2271ufloat:2009/07/15(水) 00:21:08
>>2266-2268
私などが何か書くのもためらわれますが・・・。
少し前に、結婚を控えていた被害者が強姦され、自殺した事件があったよう記憶していますが、
このニュースを見た時と似た感情を抱きました。
事件自体は単なる「詐欺」でしょう。しかしながら、被害者の身近な人にとっては
まさに殺人に匹敵する痛みがあると考えると、本当にやりきれません。
「身内が殺されても死刑反対と言えるか」といった踏み絵を迫る人には、私も以前から
疑問を持っていました。仮にそうなったとして、紫煙狼さんのお考えはぶれないにしても、
中にはぶれる人もいないとは言い切れません。しかし、それが何だというのでしょう。
遺族には、遺族になってみなければ分からないことが色々あるのは確かです。
しかし、それをもって死刑反対の人が賛成に転向したとしても、非難されるいわれは
ないはずです。なぜなら、遺族となることで「遺族でなければ分からない」判断材料、
新たな要素が手に入り、それを元に意見を精錬させた結果なのですから。
これは、例えば自分や家族の冤罪により、死刑賛成派が反対に回るような場合でも同じです。
紫煙狼さんの信念と異なる可能性は承知の上ですが、「もし身内が〜」なる質問は、
上記のような理由により、大変空虚なものであると私は考えています。

>>2270
>負けぬ為にいろいろ勉強したり調べたりする
正直、私にとってはこれ自体が謙虚に見えません。
勉強したり調べたりする行為を「自分の成長のために」行うのであれば謙虚でしょうが、
「負けないため」や「相手を言い負かすため」に行うのは謙虚とはいえないでしょう。
少なくとも私は、このBBSで「負けないため」に記事を書いたことはありませんし、
「負けないため」や「勝つため」に勉強したこともありません。
ただ、自説を進化させたり、他者との合意を探ったりするための勉強はしています。

2272無精髭:2009/07/15(水) 01:10:49
言いたいことは一足先にufloatさんに言われちゃいましたけどね。>>2270が少しおかしいのでレスレス。

>私の考えによれば、「議論に勝敗がある」と考える人の方が謙虚です。
>なぜならば、「自分が敗北することがある」ことを前提に出来るからです。負けぬ為に
>いろいろ勉強したり調べたりするからです。勉強したり、調べたりするのは謙虚さの
>具体的な現れでしょう。

「物は言いよう」って感じがしますけど(汗)。それは単に負けず嫌いってだけなんじゃあないですかね?
少なくとも議論相手に対しては全くと言っていいほど謙虚とは言えませんね。だって、議論に負けそうになったら、
いろいろ勉強したり調べたりして今よりももっとスキルアップした後で、相手を言い負かそうと言う肚なのでしょう?
これのどこが謙虚なんですか? 自分のやることに対していくら謙虚であろうが、相手に対してその謙虚さが
全く伝わらなければ、謙虚であること自体には何の意味もないでしょう。そもそも自分の為に勉強したり調べたり
することなんて、謙虚な行為とは言いませんよ。「自分が敗北することがある」と認めることは謙遜の証かも
知れませんが、それを「前提に出来る」から謙虚だというのはよく分かりませんね。

あと、「議論に勝敗などない」と考えた場合、「自分が敗北することがある」ことは前提に出来ないかも知れませんが、
勝敗とは無縁のところで、つまり議論のテーマに関して「自分は無知、あるいは間違っているかも知れない」ことは
前提に出来るでしょう。あるいは、議論の勝敗の有無以前の話として言わせて戴きますけど、議論に参加・そこで
発言する上で、「相手やその考えを尊重する」とか「常に相手の真意を汲むように努める」とか「皆が共通の問題に
取り組む上で個々人は出過ぎた真似をしないように心がける」みたいな謙虚さは持ち合わせていなければいかんでしょう。

ところで、「議論に勝敗はない」と考える人は傲慢なんですか? では「死刑存廃問題に正誤はない」と仰った
カレーさんは傲慢ってことになるのですかね(笑)。確かにそこに正誤がなければ各々の主張は互いに交錯することも
ないわけで、従って論破されることもないでしょうから、論者は各々自分の主張の中で自足していられますねぇ。人に
よってはそれを傲慢と見る向きがあるかも知れませんが。一方でカレーさんに倦厭されていたKenさんはとても謙虚な
お方となるわけだ(爆)。

それともトーフさんの言い分では、「議論に勝敗がある」と考える人はそう考えない人に比べて謙虚さに勝るというだけで、
そう考えない人も一応は謙虚であることには相違がないということですか? 謙虚さが足りないというだけで。

2273無精髭:2009/07/15(水) 01:45:38
大切なことを書き忘れておりましたが、、、

まあディベートをなさりたいのであれば事前のルールの明確化は無論必須でしょう。そして、中立の立場に立った判定者
がいなければいけませんよね。まあ、元来このBBSにはいませんけどね。トーフさんの理想とする形式で議論を行うには、
プレイヤーが自分の都合の好い様にルールを決めるなんてのは以ての外で、ちゃんと議論に参加する者全員の合議によって
決めるなり、たとえば勝敗を判定する第三者が用意しておかなければならないでしょう。でないと、議論の途中で勝敗の
条件が変わったりするなどのとんでもない事態が起きてしまいますので。個々人が意見を言いっ放しのまま自分の勝ち
(相手の負け)だとか勝手に思っているだけで、外部における何らかの基準による判定を全く求めようとしないのだと
したら、勝敗のある議論の中の主張としてそれは無意味と言わざるを得ないでしょう。

2274無精髭:2009/07/15(水) 02:16:12
トーフさんに気づいて戴きたいことはですね。簡単に申し上げると以下のとおりです。

「議論に勝敗がある」と考えれば、当然「自分が敗北することがある」という前提を受け入れなければなりませんが、
でもそれは「議論に勝敗がある」ことを前提にしなければそもそも前提に出来ないことなんですよ。だから、トーフさんが
議論に勝敗を求める以上は、謙虚とか傲慢とかいったこととは無縁に、自分が敗北する可能性は絶対に受け入れざるを
得ないわけで、その代わりに自分が勝利する可能性を保有することがやっとこさできるということなんですね。

自分が敗北する可能性を認めたとしても、他方で自分が勝利する可能性をちゃっかし認めてしまっている以上は
謙虚とは言えませんし、自分が相手との議論で事実敗北してしまったとしても第三者の判定によって勝敗が決した
のなら、それだけでは自分は謙虚だとは言えませんでしょう。その場合、自分から負けを認める(判定に対し不服を
言わずに素直に受け入れる)というのが潔さであり、謙虚さの具体的な表れなのでしょうなあ。

2275トーフ:2009/07/15(水) 03:31:36
ufloatさんへ。>>2271へレスさせて頂きます。

>>2271の前段はあなたの想像ですよね。
私が「他人が〜」の質問をする→紫さんお答え→私が「ご回答ありがとうございました」
で、もう一つ気になることが→紫さんお答え→さらに紫さんがトーフは下種だ

この流れでなんで私が踏み絵をせまったり、転向を非難することになるのか。もう一度読み
返して頂きたい。踏み絵をせまったりした箇所があるなら具体的に指摘して下さい。お待ち
しています。

無精髭さん・ufloatさんへ。>>2272 >>2273へレスさせて頂きます。

んー別にそれ以外の議論哲学をお持ちの方が傲慢だといっているわけでなく、
勝敗を予感できる方のほうが相対的に謙虚ではないかということです。
少なくとも一方的に傲慢だと言われるのは間違いではないかと思います。

勝敗というのもkenさんへのレスで申し上げたことですが、民主体制なんだから「多数決」という勝敗
を無視すべきでない、ということです。現在死刑があるわけですから、私は「勝者」の側に
いるわけですが、廃止派が多数になれば廃止される訳でしょう。無論、目の前の議論相手を
「負かす」ことも考えている訳ですが、そこにそれほどこだわっている訳でない。
意識するのはこの掲示板を見ながら発言せずに見守っている人たちです。私は彼らに影響を
及ぼして、リアル政治活動で、死刑維持派に回ってもらいたい、というのが私のハラ
といえばハラなのですが。彼らとて、「アホ(に見える)意見」に動かされるようなことはないだろう
と信ぜられます。無論よりよい反論にであえば自己の成長にもなろうかと思います。そして
また強力になるんですw

ですから、ヒゲさんのおっしゃる議論相手への思いやりやら、マナーなどは完全に尊重しますよ。
もしあったら具体的に指摘して頂ければ良い。自分の無知など当然の前提です。
しかし、無知のままでいたくない=勝ちたいと思うから勉強したり調べたり、ということです。

私は「正誤の判定がつくこと」は議論の対象ではない=勝敗はなし=多数決の対象でない
       「正誤の判定がつかないもの」は議論の対象である=勝敗あり=多数決の対象
と、こう考えて居るわけです。ですから「死刑論議」は勝敗の対象です。

以上申したような理由から「ルールの明確化」などめんどうな作業はごめん被りたいです。
どのような議論哲学をお持ちでも私としては特にこだわらないです。一方的に「傲慢だ」
と言われてむかっと来ただけですよ。

ufloatさんもヒゲさんも「相手のおかしいところに質問したりつっこんだり」のやりとりは
okなのでしょう?その点が同意を得られていれば別に問題ないかと思います。

2276紫煙狼:2009/07/15(水) 13:03:52
仕事が忙しくて文字通り「心を亡くして」いたようです。
で、仕事中である禁を犯して消火活動に参りました。

まず、トーフさん、ご気分を害された部分に関して深くお詫びします。
なぜ、このようなことが発生したかという原因を私なりに分析したのですが、
トーフさんがお使いになられる言葉の節々で、私はトーフさんが意図した意味では
ない受け取り方をしていたのではないかと思います。

「応報」という言葉を辞書で調べると
応報〜行為の善悪に応じて受ける苦または楽の報い。果報。

と出てますね。トーフさんの言葉の使用法は全く問題なかったのですが、
一般的に日常生活を送っていて「応報」という言葉が使用される場合は
比較的「復讐」的側面を強調して使用されるほうが多いと思います。
そのため、私も「応報感情」と「復讐感情」を混同したままトーフさんの
文章を読んでいたと、今更ながら反省しております。

そういう意味では「ある入力に対して必ず出力が必要である」という表現であれば
私なんかはSEですからイメージしやすかったのですが、そこは私の勉強不足です。
そして「ある入力に対して必ず出力が必要である」を前提とするなら、
「応報と無縁の抑止はあるのか・その具体例」が存在しないのは自明でしょう。

と、言うように、一事が万事、トーフさんが意図したとおりにはトーフさんの
文章は私に伝わっていなかったようです。その点、私にも深く反省すべき点はありますが、
トーフさんはそこが理解できていらっしゃったはずなので、もう少し早くご指摘いただければ
このようなことにならずに済んだものを…といささか残念です。

次に言論を鍛える云々ですが、ここは私、トーフさんの表現が悪いと指摘させていただきます。
「言い負かされないように」というのは語弊のある表現です。トーフさんが意図していたのは
むしろ「騙されて丸め込まれることがないように」ですよね?
ただ、私は最終的に私が納得できる論理にめぐり合えるなら、それは喜ぶべきことだし、
もともと相手を論破するつもりはありませんので、私の考え方が正しく相手に伝わった上で、
ご意見をいただけるなら、反論も大歓迎するものである点、トーフさんと似たり寄ったりです。

2277紫煙狼:2009/07/15(水) 13:04:37
(ああ、後20分)

従って、トーフさんは「相手の意見を最大限尊重し、それを理解する」ことを前提に、
その後の議論のあり方について「互いに切磋琢磨すべし」と言っているのであれば、
これも全く私としては異議のないところです。


さぁ、ここまでを前提として、もう一度伺いますが、なぜ私の家族親族が同じ目にあっても
私の信念が揺らがないものであるか?というご質問(ご確認)をなさったのでしょう?
正直な話、トーフさんのこれまでの投稿とは明らかに意趣の異なる質問ですよね?
私の邪推が下種な勘繰りであったと素直に認めて、ここを深くお詫びしますので、
逆に、トーフさんはそこから何を展開するつもりだったのかお聞きしたいです。
「ふーん、そうですか、そりゃよかったね。」というためではないですよね?
そして、私の信念が揺らがないものであるとしても、多くの被害者や遺族さんはそうは
お考えになられないという事実は私も受け入れるものであり、それを軽視するべきだとも
思ってはいません。

ただし…被害者感情慰撫を刑罰に求めるのは誤りであるというのは私は以前にも投稿しており、
そもそも「感情のために人命を奪う」という行為を多数決の結果を持って正当化するという
方向性に疑問を持つものです。これがユダヤ人大虐殺の本質と同義であると考えるからです。
ゆえに、私は死刑に対しても「感情のために人命を奪う」のではなく、他の意味・他の意義が
ない限り、死刑という制度自体を正当化することはならないと考えます。

純粋な応報刑主義自体は「ゆるされない」と考えるからこそ、教育刑主義・目的刑主義が派生
したわけですよね?そして、日本の刑罰のほとんどが「教育刑主義・目的刑主義」的な説明を
くわうるに十分なものですが、死刑のみ「教育刑主義・目的刑主義」的な説明を加えることが
できない。ここが問題なのであって、逆にトーフさんにお伺いしたいのですが、
死刑の「教育刑主義・目的刑主義」的な意義って何ですか?

<時間切れ>

2278トーフ:2009/07/15(水) 16:22:02
紫煙狼さんへ。>>2276 >>2277へレスさせて頂きます。

いやーお早いお帰りでなによりです。掲示板よりもお仕事を大事にして頂きたい。
リアル生活のほうが歯車が狂うと大変ですから。

で、あの質問なのですが、別に他意はない訳です。ほんとに。そういうような
「遺書」を持っている人に出会ったのはなにせはじめてなものですから、少し聞いてみただけです。
しいて「意図」を申せば、「死刑(を含む刑罰)」には他人の死に対するリアクションという
側面がある訳ですから、紫さんご本人の死に対するご信念は解りましたが、では他人の死に
対するリアクションは?というような興味はあった、と思います。
紫さんは前にも「死刑は今んとこおいておいてもよい」とか申されていた記憶があったので
どんなお答えになるのか、興味があったわけです。ですから、私としましては興味本位で
お伺いしたので、おっしゃるようなそこをつっこんで矛盾をつくような意図は全くございません。

というか紫さんを含む他の方々の今回の反応を見て、「そんなにしたらあかん質問をしたのか」
という驚きがある、ってのが正直な感想です。
「個人的信念・体験」も場に応じ時に応じて私も書くでしょうが、議論のメインは
「客観的な論の応酬」と思いますので、個人的信念は個人的信念としてお伺い致したい、という
ことです。無論お答えを拒否されてもよいかと思います。

で、お尋ねの教育刑・目的刑ですが、
「目的刑主義」というのは刑罰を一般予防目的・特別予防目的で捉える考え方
ですよね。これは応報刑主義の「派生」といいえると思います。死刑には普通に
一般予防効果も特別予防効果もありますよね。別に死刑廃止に有利に働くような
原理ではありません。むしろ死刑を正当化するかと思います。現在では。
で、教育刑主義というのは私の理解によれば、「派生」原理ではなく、死刑を含む
刑罰全体を否定しようとする主義なのです。「派生」ではなく、「対置」でしょうか。
現在生きている学者さんで「教育刑主義」を唱えておられる方はどうもいらっしゃらない
ようです。あまりにも「憲法秩序」と整合性がない。

wikiで「刑法学」のページで「近代学派」の項目を見て頂くとある程度つかめるかと思います。

現在の懲役のなかで行われる「矯正・改善」処置は「教育刑主義」とは関係ありませんよ
念のため。「教育刑要素」ぐらいはあるかもしれませんが。

日本の刑罰は目的刑主義的な説明を加えるに十分かもしれませんが、
教育刑主義的な説明はちょっと加えられません。

日本の懲役は応報を前提として懲役何年と決まった以上、何年後かに出ることになる訳
ですから、懲役期間=応報期間を無駄にしない、ということです。平たく申せば。
なんで、あたりまえですが死刑には本人教育要素はない。

前にも書いたような記憶があるのですが、ユダヤ人と日本の死刑は何の関係もないのでは
ないでしょうかね。
ユダヤ人虐殺が起こったのはドイツだけ、他に死刑のある国もいっぱいあったのに。
大戦中の日本人のユダヤ人に対する態度は概ね好意的なものではなかったでしょうか。
ナチスと同盟を組んでいたのに。

そのユダヤ人の話は理解しにくい。話が飛びすぎではないでしょうか。


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