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歴史掲示板

45管理人:2012/01/31(火) 20:03:31
Re: 金印
秦野北斗さんへのお返事です。

そこでですが、次に卑弥呼以後の時代、250年〜350年代について話を進めてみたいと思います。ご指摘のとおり、私も韓半島との関わりが強くなる時期ではないかと見ています。


> 倭奴国王は韓半島の倭国に送ったお墨付きで大きな意味はない。
>
> > 糸島市の神社に「漢委奴國王」の金印が宝物として伝わっていたというのも、奴国の印を扱っていた役所が、外交・政務の中心地、伊都国だったからではないでしょうか。ただ女王がここにいたわけではないので、政務と王(ミコ)が、完全に居住地ともども分離していたことが伺えます。
>
> 韓半島から引き上げるとき、糸島市の神社に祭ったのでしょう。伊都国とは別物、
>

204年前後に公孫氏が帯方郡を建てた際に、韓・濊族を撃って、「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」との記載がありますね。その後238年に公孫氏が敗れて、魏が帯方郡を吸収していくわけですが、徐々に大陸との関わりが強くなっていく時期だろうと感じます。

景初2〜3年に、韓・濊に「邑君・長」の称号を与えて「印綬」を授けながら冊封関係を広げていく。

倭国も当然、周囲の韓・濊の動きを察知していたでしょうし、それで難升米を派遣した。
正始元年(240年)に、太守となった弓遵は、魏の詔書・金印紫綬を配下の梯雋に持たせて卑弥呼のもとへ送ってます。

卑弥呼に鏡を大量に配布するよう命じているのも、冊封支配を広める狙いもあったのでしょう。この鏡は女王国から「倭種」を治めるため、「倭国中」全域に配布されたこととでしょう。だから、島根でも桜井でも出てくる。

その後、245年に「難升米」に黄幢を賜与。

247年に卑弥呼は、太守王頎に「載斯烏越(サイシウエツ)」を使者として派遣して、狗奴国との戦いについて報告。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。

女王に就いた壹与は、帰任する張政に「掖邪狗」ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。(266年)

神功皇后紀にて
「六十六年。〈 是年。晋武帝泰初二年 晋起居注云 武帝泰初二年十月 倭女王遣重訳貢献 〉」

そして150年の空白の4世紀があり、(413年)の倭王讃による朝貢記事。


特に注目したいのは「難升米」が5年程度見えたのちに消えたのに比して、その後の「掖邪狗」が20年近く在職し続けていることですね。

「難升米」は、247年までに、女王国からいなくなったかに見えます。桜井あたりで黄幢や鏡を抱えたまま墓に眠っている可能性もあるでしょう。大和に先に入り込んだ物部氏の祖・ニギハヤヒかもしれません。

伊都國の官を爾支「ニキ」、副を「泄謨觚(エ(セチ)ボク・ボコ)・柄渠觚(ヒョウゴク・ヘイゴコ)」があるのですが、その「ニギ」という発音がニギハヤヒを思い起こさせますね。

この国について、「世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。」というのも、ここから使者が派遣されたことによるものでしょう。王もいて、ある程度女王国から独立した立場にあったのかもしれません。スイスみたいなものでしょうか。だから女王国は奴国が「北限」なんですね。

ただ、張政も掖邪狗と同様に20年も女王国にいたことになりそうです。もっともヒミコやイヨが、大和まで向かったかどうかは不明ですが、千人の侍女をかかえた籠り症のヒミコが、大和まで行ったかどうかは疑問がありますね。行ったとしたら次のイヨ以降ではないでしょうか。

そして空白の4世紀に入るわけですが、下記のページに、2〜3世紀の任那地域と北九州との関係、その後の3〜4世紀の畿内との遺物関係が指摘されてます。 http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_03.html
巴型・筒型銅器も出ているそうですが、巴型銅器は吉野ヶ里から復元されているように、北九州もので、ある時期から任那地域の首長にも渡されたように感じますね。

確かにこれらの銅器が、茨木・交野の前期古墳から出てくるのも、北九州・任那地域からの畿内への移動を示すようにも見えますし、舟形木棺とか朱の関連も同様な大陸遊牧民系の流れかと感じてます。

このあたりは、やはり313年の高句麗が楽浪郡を占領して、帯方郡の流民が三韓地域に流れ込んだこととも関係しているでしょうし、それ以前の流れもあっただろうとかんじます。




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