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Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
秦野北斗さんへのお返事です。
ご指摘のとおり、松浦までの距離の短さは確かに気になりますね。
> 海沿いに回った距離は史籍の文中に2千里余り(行程)と記述があります。当時の港の名前も確定しています。言える事は、松浦ルートは存在しないのです。また、陳寿は壱岐(一支国)の大きさを測っています。距離数値は秦野距離で換算しています。添付
おそらく狗邪韓国から対馬までの距離についてですが、対馬北部から南部まで陸行しているものと考えます。
同様に壱岐も南北に陸行してから、松浦(唐津方面)へと向かうので、両島の陸路の記載があるんですね。
とすると、距離としては、狗邪韓国から対馬の北端までの間の海の距離、そして対馬の南端から壱岐の北端までの距離、壱岐の南端から松浦の北端までの距離が記されていると看做すべきかもしれません。
それでも、やや距離差が大きいですけど、島の長さを含まない分、3つの距離差は少なくなります。
そうすると、やはり魏使は、毎回海路と陸行を、倭国側の船を借りて行き来したように見えますね。
それで松浦に寄ったかどうかですが、個人的には、松浦、つまりマツロ国は唐津の半島だと思うんです。
そこで伊都国を、その東南だといっているのが気になります。本来なら東にあたるはずですよね。
狗邪韓国、対馬、壱岐の方角についても、本来東南であるべきところを、南と記載したので、東であるべきところも、東南になってしまった、そういうふうにも見て取れます。
対馬で狂うんですよね。対馬に行くとわかるのですが、南北に長く伸びていて、北岸から見る(考える)韓国・壱岐と、南岸から見る(考える)韓国・壱岐とでは全然方角が異なるんです。
ところが、対馬という長い島を、短い小さな島だと勘違いすると、韓国・壱岐の方角がここで大きくずれてしまうのでしょう。
この辺の方角の狂いは、魏の使いの特有のミスだと思います。
それ以前に九州に入った漢・・系の測量集団はしっかり南北を理解してますし、おそらくは邪馬台国自身も南北の観念はしっかり理解していたはずです。理解していなかったのは魏使だけということになるでしょうか。
この辺の要素は、さらに詳しく抽出して、本来の方位を確認していく必要があるでしょう。
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