レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。
歴史掲示板
-
Re: 邑
管理人さんへのお返事です。
陳寿は皇帝の使いで邪馬台国に来たと考えると、護衛兵と共に来たと考えるべきです。
観光ツアーで行ってきました。現地の人が何里と言っていました。では、『隋書』には距離を知らないと書いてあるぞ?。どちらかが嘘を言っている。陳寿は茶を濁したのでしょうか。陳寿は茶を濁す様なら死罪でしょう。『隋書』を見る限り、陳寿は最低でも海南島まで行っている。文章はよく描写できています。
陳 寿(ちん じゅ、建興11年(233年) - 元康7年(297年))は、三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。字は承祚(しょうそ)。巴西郡安漢の人。俗説では、蜀漢の将であった陳式の末裔と言われているが根拠は無い。甥に陳符・陳莅(兄の子)・陳階(弟の子)。『三国志』の著者である。自身の伝は『晋書』にある。
『隋書』倭国伝
倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。
倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。
その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。その地形は東高西低。都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、儋耳と相似するという。
> ただ、その測量を行ったのは、弥生時代中期に入った集団のもので、魏の使者が計ったものではありません。魏の使者の多くは文官ですから、測量自体することは無理だったろうと感じます。どこからか過去に計った数値を聞いたのでしょう。ただその後、魏の軍隊が入ったとしたら、測量の可能性はあったと感じます。
>
> 同様に「方数百里」の記載も、彼らが計ったわけではなく、どこからか聞いたものだろうと感じます。
>
> その場合は、「方」の用法も、過去のおそらくは漢代の書き方を参考にすべきかもしれません。
>
> 対馬という島をよく調べていくと、南北の長さが50キロ近くあるのに比して、東西が5キロくらいしかないんですね。
>
> また壱岐島との比較でも面積は4倍くらい違うわけです。
>
> ただ魏志では、
> 「對海【馬】國・・方可四百余里」
>??「一大國・・・方可三百里」
>
>
> これも対馬にいくとわかるのですが、対馬というのは、2つの島なんですね。途中で橋を渡ります。
>
> 名前の意味自体は魏志の時代から対になった二つの島という意味なのでしょう。
>
> 対馬の記載には、船に乗って南北を行き来する記載があるのですが、壱岐島には南北にはいくものの、船に乗る件はでてきません。対馬が2つの島で船に乗らないと両方いけないからでしょう。壱岐は丸い島ですからね。
>
> 対馬国の都があった島だけ測量した可能性も考慮すべきではないでしょうか。
>
> それで案山子さん注目の「方可」の語ですが、仮に方形区画の斜線を意味するとしたら、さらに壱岐島と対馬のどちらかの島の測量値が近くなりそうです。
>
> 対馬の南北の長さは、壱岐島までの間の海の長さに等しいくらいで、いわゆる1千里もあるわけです。
> 魏志では、この1千里を省略してしまったのでありまして、明らかにおかしいですね。
>
> もともと、南の島、あるいは北の島は、距離計算から除外して考えていたので、そういう省略が起きてしまったと考えることがでるのではないでしょか。
>
> 魏の使いはいつもどちらかの島にしか行ってないんです。
> あえて対馬のところで「土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。」と記しているのも、陸行が困難であるから、船で直接、壱岐に行くように諭しているようにも見えます。
>
>
|
|
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板