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歴史掲示板
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Re: 「掖邪狗」=武内宿禰?
管理人さんへのお返事です。
検索するのが速いですね。
> 枯野(からぬ)の船というと、伊豆国に応神天皇がそれをつくらせた伝承が残っているようですね。秦野さん的には、すると伊豆=伊都ということでしょうか。
地名は表音に成っている。魏志倭人伝:対馬国(つしまこく)、『隋書』倭国伝:都斯麻国(つしまこく)がよい例です。
日本書紀、この文章の枯野(からぬ)は長さ十丈(30m)になる。遣唐使船クラスになる。
どうも、鳥船(とりふね)、八咫烏、烏奴が混在している。烏の意味は案内人を指すと思われ、神社数は五百寵の塩から500社になる。
諸国から五百の船が献上された。それが武庫の港(釜山の忠武港)に集まった。釜山=狗耶韓国で新羅と倭の境界に位置する。任那日本府はこの辺になる。
仁徳天皇の詩はどこで歌われたか未だ特定、出来ない。韓半島は間違いないが。
日本書紀 応神天皇の処
五年冬十月伊豆国に命じて船を造らせた。長さ十丈の船ができた。ためしに海に浮かぺると、軽く浮かんで早く行くことは、走るようであった。その船を名づけて枯野といった。
−--船が軽く早く走るのに、枯野と名づけるのは、道理に合わない。もしかすると軽野と
いったのを、後の人がなまったのでなかろうか。
三十一年秋八月、群卿に詔していわれるのに、「官船の枯野は、伊豆の国から奉ったものであるが、いまは朽ちてきて用に堪えない。しかし長らく官用を勤め、功は忘れられない。その船の名を絶やさず、後に伝えるには何かよい方法はないか」と。群卿は有司に命じて、その船の材を取り、薪として塩を焼かせた。五百寵の塩が得られた。それをあまねく諸国に施された。そして船を造ることになり、それが武庫の港に集まった。そのとき新羅の調の使が武庫に宿っており、そこから失火した。その延焼で多数の船が焼けたので新羅の人を責めた。新羅王はこれを聞き、犬いに驚いてすぐれた工匠を奉った。これが猪名部らの先祖である。
前に枯野船を塩の薪にして焼いた日に、あまりものの焼け残りがあった。その燃えないのを不恩議に思って献上した。天皇は怪しんで琴を造らされた。その音はさやかで遠くまで響いた。このとき天皇が歌っていわれるのに、
枯野塩焼其余、琴作、掻弾由良之門、
カラヌヲ、シホニヤキ、シガアマリコトニツクリカキヒクヤ、ユラノトノ
門中海岩触立浸欄木亮々
トナカノイクリニ、フレタツ、ナヅノキノ、サヤサヤ。
「枯野」を塩焼きの材として焼き、そのあまりを琴に造って、かき鳴らすと、由
良の瀬戸の海岩(海中の石)に触れて、生えているナズの木が、潮に打たれて
古事記 仁徳天皇の処にに書かれている
この御世に、免寸河の西に一つの高樹ありき。その樹の影、旦日に當たれば、淡道島に逮び、タ日に當たれぱ、高安山を越えき。故、この樹を
切りて船を作りしに、甚捷く行く船なりき。時にその船を號けて枯野と謂ひき。故、この船をもち旦夕淡道島の寒泉を酌みて、大御水献りき。
この船、破れ壊れて塩を焼き、その焼け遺りし木を取りて琴に作りしに、
その音七里に響みき。ここに歌ひけらく、
枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り かき弾くや 由良の門の
門中の海石に 觸れ立つ 浸漬の木の さやさや
とうたひき。こは志都歌の歌返しなり。
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