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Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
秦野さん
さっそく情報ありがとうございます。特に引用の下記の箇所は行程を考える上で重要です。
帯方郡より倭に至るには、海岸に沿う、水行で歴韓国、南へ(倭奴国)、東へ北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。
陸路を使わずに沿岸航路をたどってます。これがおそらく当時の魏の船の航路方法なのでしょう。ただ海流に乗らないので手漕ぎで遅いわけです。沿岸に何度も立ち寄って数十日かけて狗耶韓国へと向かったのでしょう。
「一海を渡り、千余里」からすると、確かに船の速度から本来の距離をだいたい割り出してますね。
「船で南北の市(物々交換の場)に出かけて、糴(てき=穀物を買い求める)する。」を読むと、まだ対馬までは南北の観念は東西に逆転してないわけです。
次の壱岐についても同じで
「又南に一海を渡ること千余里、...一大國に至る。・・・竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす。」
この場合も、南北は、松浦と対馬との間にある南北の観念で、まだ方位がここでも逆転してないわけですね。
「郡より女王國に至ること萬二千余里」も、
帯方郡から狗邪韓国までが七千余里+対馬まで1千余里+壱岐まで1千余里+松浦まで1千余里+伊都国まで500里+奴国(すなわち女王国の属国の北限の境界にある国)まで100里で、おおよそ1万2千里という意味だろうと感じます。ソ連のウラジオストク州からモスクワまでのような感じでしょう。
それとは別に女王国の都するところまでが陸行1ヶ月、水行10日かかったわけですね。
その間の属国のことを「以北」としているので、ここでもまだ南北の観念が見えます。
もちろん途中で陸路を通った可能性もあります。
ただ、そうすると船を乗り捨てなければならないわけでして、完全に現地人の案内に寄らないとたどり着けないことになるでしょう。多くの鏡や宝物を運ぶには、船が便利ですが、陸路を使う場合は、人手が必要です。
ともあれ「使訳(通訳を連れた使節)が通じるのは三十国。」ところを経由しないといけません。
同様に女王国への行程も、主に沿岸航路沿いに、使訳が通じる国を経由して、数十日かけて向かったものと感じます。
「乍南乍東」は、おおむねの意味で、かならずしもいつも同じ方角ではないといっているのでしょう。
【乍ち】たちまち 非常に短い時間の内に行われるようす。またたく間に。すぐに。 ある物事・行為が急に起こるようす。にわかに。 【乍ら】ながら 〜しつつ。二つの動作が平行して行われることを表す。
興味深いのは、投馬国と女王国については、「南」としか方角が記されてない点です。「乍南乍東」とは記さなかったんですね。だから、この両国の方位は、おおむね伊都国もしくは不彌国から「南」だった。
ただし、投馬国は船だけで20日かけて向かうのに対して、女王国は陸行で1月、加えて(もしくは)水行で10日かかる場所。その相違は地形的な条件が絡んでます。
確かに対馬について、「土地は山が険阻で、深い林が多く、道路は獣や鹿の小道(獣道)。」とあることを考慮すると、以前ご指摘いただいたとおり、他の諸国は、そこまではひどくない「道」であったと感じます。
この国の道だけがひどいので、こういう形でピックアップされているのでしょうね。
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