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歴史掲示板

5秦野北斗:2012/01/15(日) 19:33:20
継体天皇
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継体天皇

秦野著作、徐福と邪馬台国で韓半島の地図を読み取り。越の特定、地図添付

越は韓半島南部越国(倭奴国)、(モッポ)
『日本書紀』では、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。
上記文章から韓半島南部に越(倭奴国)になる。その名は出雲風土記、国引き神話にも登場する。越前地方(近江地方説もある)でなく、韓半島南部越国(モッポ)

注、『日本書紀』の解釈に間違いが多く、地名は韓半島南部に存在する。しかし、総て日本の地名を当てはめている。韓半島南部の筑紫は白村江のキーポイントになるが、九州の筑紫になっている。

『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『記紀』では省略されており、辛うじて鎌倉時代の『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇) ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。『上宮記』逸文は近年、黛弘道の研究によって推古朝の遺文である可能性も指摘され、その内容の信憑性や実際の血統については前述の通り議論が分かれているものの原帝紀の編纂(欽明朝か)と同じ頃に系譜伝承が成立したものと思われる。

『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。

『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため大連(おおむらじ)・大伴金村らは越前に赴いて、武烈天皇とは血縁の薄い男大迹王をヤマト王権の大王に推戴した。これを承諾した王は、翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。
ウィキペディア
彦主人王に接近したい。






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