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歴史掲示板

4管理人:2012/01/15(日) 01:52:52
ヒコ・クサカ
秦野さん、こんにちは。さっそく日下部についてご意見ありがとうございます。
日下部で「クサカベ」と読みますが、もとはそうすると「ヒコ+ベ(部民)」ということになりそうですね。沙本毘古王。彦坐王、日子坐王・・、確かに「ヒコ」が強調されているように感じます。

仁徳天皇の大草香・若草香王の部民との説もありますが、こちらは「クサカ」の読みに変化していて、クサカという地名なり氏族のもとで育った皇子、という感じもします。

あと雄略天皇の時の日下部連使主の記事が、比較的信憑性があるように感じます。この反乱伝承と、垂仁の時の伝承が類似性を持っていることを考えると、後者から、前者の伝承が派生したのではないかと感じます。

おそらく宮中・地方等の相違で伝承、天皇の代は異なるものの、実は同じものという具合ですね。

ヒコと呼ばせて、また別のところではクサカと呼ばれた。それぞれ話す言葉が違うとかいう線もないでしょうか。時代によるかもしれません。

隅田八幡鏡の銘文で

「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」


男弟王がいわゆるヲヲド王で継体なのですが、継体の父親が彦主人王と言うんですね。継体自身も袁本杼命・男大迹王・彦太尊と言うらしいのですが、

その「日十大王年」とあるのも、「ヒコ大王」の年と読めれば、「日十」「彦」「ヒコ」という連関が出てくると思うんです。

だから「日下」とかいて、「ヒコ・ヒカ」と読ませた可能性があって、継体のころの読みの話で、欽明の時代になって朝廷で使えはじめたという線になるでしょうか。

オキナガ・ワニは新漢人と極めて関わるの深い系統で、滋賀・吉備・そして九州日田・八女方面へと流れた、その辺の話ではないかと感じます。

それで白鳳時代になると草壁王、草香部キシとかいう氏族が出てくるのですが、日下の読みを、和風に変えている、避けている、忌んでいる・・・という線で、仁徳紀のあたりに、草香・・が代替えされて記載されていく・・。

ヒコと、後代のクサカは、宮中でも使う言語が変ってきたことを示すのかもしれません。

もちろん、この辺は推論にすぎませんが、勘としてそんなことを考えてみました。




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