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海のひつじを忘れないようです

1 ◆JrLrwtG8mk:2017/08/19(土) 21:55:33 ID:rN6ohdMg0
紅白作品
微閲覧注意

69名無しさん:2017/08/19(土) 22:31:54 ID:rN6ohdMg0
小旦那様が手をひらひらと、虫でも追い払うような仕草をジョルジュたち三人に向ける。
ジョルジュはジョルジュらしい、あの満面の笑みをすでに浮かべていた。
とても上機嫌な様子で、脇を抱えるアニジャとオトジャに
「ジョルジュはいい子、ジョルジュはいい子!」と繰り返している。

小旦那様は渋面のまま背中を向け、三人から離れようとする。
ぼくも杖を使って、その後を追おうとした。

「最後にひとつだけ、とっても大事な決まりがあるんだ」

背中に、ジョルジュの声が投げかけられた。振り返る。
ジョルジュはアニジャとオトジャに代わる代わる頭を叩かれていたけれど、
まるで気にした様子なく、ぼくらのことを――小旦那様のことを見つめていた。

「教会の中はどこに行ってもいいけど、森にだけは入っちゃダメ」

「なぜだ?」と、小旦那様。

「森の外は、怖い場所だから。森の外へ出てしまうとね――」

ジョルジュが、口をつぐんだ。そして、ぼくは見た。
一瞬、ほんの一瞬だったけれど、ぼくは見逃さなかった。
その時、その言葉を放った時、ジョルジュの顔から、一切の感情が、抜け落ちたことを。



二度とママに会えなくなる。


.

70名無しさん:2017/08/19(土) 22:32:19 ID:rN6ohdMg0
わからないことばかりだった。
この教会についても、なぜこどもばかりがここにいるのかも。
結局ここがどこなのかも、カンポウシキとはいったいなんなのかも。
牧師と呼ばれるあの光の人は、本当に存在するのかも。
そして、あの、ひつじのことも――。

もちろん、それらはぼくが考えるべきことじゃない。
考える権利もぼくにはない。そもそもぼくが考えたくらいで解ける程度の謎なら、
小旦那様があっという間に解決してしまうはずだ。
だからぼくの考え、ぼくの思考になんて、価値は、意味は、どこにもないのだ。

それでも。

それでも、と、ぼく思った。それでもぼくは、気になった。
気になることが、ぼくにはあった。きっと、おそらく、たぶん、
小旦那様に任せては、わからずじまいな疑問が。

71名無しさん:2017/08/19(土) 22:32:41 ID:rN6ohdMg0
「あ、あの!」

ジョルジュを連れて準備へと向かおうとしていたアニジャとオトジャが、
いい加減呼び止められることにうんざりしていたのだろう、
ひどく不機嫌な様子で振り返った。その態度に、ぼくはたじろぎそうになる。
迷惑をかけているかもしれない。いや、明確に二人はいやがっている。
その事実に、ぼくはぼくを、罰したくなる。

けれど、ぼくは止まらなかった。ぼくはそのことが気になって仕方なかった。
ぼくを糾弾したあの少女のことが、気になって仕方なかった。
あの、ぼくが正気を失っていた時、そばにいた少女のことが。
アイスブルーの瞳。車椅子の、少女のことが。

彼女がぼくに何をいっていたのか、そのほとんどは記憶にない。
彼女はぼくを知っている様子だったけれど、ぼくには見覚えがなかった。
だからもしかしたら、あの痛罵はただ、彼女がぼくを
別の誰かと勘違いしただけなのかもしれない。その可能性は、決して低くないと思う。

それでも、ぼくには気になった。
唯一、彼女が放った言葉で唯一、明確に覚えているその言葉を。
ぼくに向けたとしか思えなかった、その言葉を。

72名無しさん:2017/08/19(土) 22:33:05 ID:rN6ohdMg0



あなたの罪を、忘れてはならない。


.

73名無しさん:2017/08/19(土) 22:33:32 ID:rN6ohdMg0
「マジョのおねえちゃん!」

「魔女」

「魔女」

ここに、車椅子の少女がいないか。
そう尋ねたぼくへの返答は、ジョルジュの好意的な反応と、
無感情な、しかし不穏な気配を漂わせる単語のシンクロという、二通りのものだった。
そしてその意味を追求することは、結局出来なかった。

アニジャとオトジャの二人が、手をブンブンと振り「またねー!」と
叫ぶジョルジュをついに連れ去っていってしまったから。
アニジャとオトジャとジョルジュ、
三人の姿は角を曲がったことで、完全に見えなくなった。

後にはぼくと、小旦那様だけが残された。



.

74名無しさん:2017/08/19(土) 22:34:03 ID:rN6ohdMg0



「あの、小旦那様、ぼく……」

「なぜ黙っていた」

ぼくは改めて、小旦那様に謝罪させてもらおうとした。
ジョルジュやモララーの前で感じた、小旦那様に対する違和感。
常ならぬ彼の態度には、ぼくが掛けた迷惑による苛立ちが、
そのすべてではないにせよ関係しているのではないかと思ったから。

許してほしいとは思わなかった。
許しを乞える立場でないことは自覚している。
ただ、罰してもらえれば。その怒りをぶつける矛先としてぼくを罰してくれれば、
彼の気持ちも幾分かは和らぐのではないかと、そう思ったのだ。

けれど小旦那様はぼくの謝罪を遮り、
ぼくの予想を裏切る発言を繰り出してきた。

「お前の主は、怪我の告白もできぬほどに信用ならない男か」

75名無しさん:2017/08/19(土) 22:34:53 ID:rN6ohdMg0
彼の視線がぼくの右足、物々しい治療を施された
その右足へと向けられていることに、ぼくは気がついた。
そして、ようやく理解した。彼にはぼくを咎めるつもりがないのだと。
ついてくるなと言ったのも、怪我をしたぼくの身を気遣ってのことだったのだと。

あまつさえ彼は、その非を、自らのものとして抱えていた。
その苛立ちは、自らの力不足に対する自戒であった。
彼は初めから、己の責任しか見ていなかった。


けれど、小旦那様、それは。
それは、ぼくにとって、余計に――。

余計に。

.

76名無しさん:2017/08/19(土) 22:35:16 ID:rN6ohdMg0
「俺はお前を、友のように思っている」

あなたは勘違いしている。
ぼくはあなたの友などではない。
ぼくにそんな資格はない。

「それは俺の、一方的な思い込みか?」

ぼくのために労を取らないでください。
もっと粗末に扱ってください。
やさしくしないでください。

「お前は俺の、なんだ」


ぼくは、あなたのひつじです

.

77名無しさん:2017/08/19(土) 22:35:39 ID:rN6ohdMg0
心の中の回答を、しかしぼくは、言葉にしなかった。
その答えを小旦那様が求めていないこと、
それくらいのことはぼくにも理解できていたから。

それでもぼくは、小旦那様の望む答えを口にすることもしなかった。
そんなことは、口が裂けても言えなかった。いまのぼくにできるのは、
小旦那様の後ろについて歩く、従順なひつじでいることだけだった。

小旦那様は、真っ直ぐぼくを見つめたままでいた。
真っ直ぐな瞳。ぼくはそれを、直視することができない。
ただ気配だけが、小旦那様の諦念にも似た空気だけが、ぼくにも感じ取れた。

「もう、歩けるのか?」

あやまたず、ぼくは答える。はい、と。

「その言葉に虚偽はないな?」

「ありません」

そこでようやく、小旦那様が、その目を閉じて視線を切った。
深く静かに息を吸い、吐き、そして彼の目が、口が、開く。

「……ならば小旦那である俺からお前に、指令を与える」



.

78名無しさん:2017/08/19(土) 22:36:03 ID:rN6ohdMg0



杖を置く。軽く身体をほぐし、次いで、思い切り地面を蹴りつける。
怪我したはずの、右足で。

結果は、思った通りだった。
本来在るべき足の痛みはもはやどこにも、
その影を残してはいなかった。


右足は完治していた。


.

79名無しさん:2017/08/19(土) 22:36:36 ID:rN6ohdMg0
              4

楽園。

それはどこにあるのか。
そこには何があるのか。
小旦那様は、ぼくをそこへ連れて行くと約束した。
けして見捨てないと、約束してくれた。

けれどぼくは、楽園を知らない。
そこには何が在るのか。
そこでぼくは何になるのか。
ぼくは、何も知らない。

もし。
小旦那様の楽園が、一切の苦痛から隔絶された場所であるならば。
あらゆる悲しみから切り離された場所であるならば。
ぼくをぼくから解放する場所であるならば。

果たしてそこは、ぼくに相応しい場所なのだろうか。
果たしてぼくは、そこにいてよい存在なのだろうか。


.

80名無しさん:2017/08/19(土) 22:37:02 ID:rN6ohdMg0
ひつじの教会。
ここはこどもの楽園と、ジョルジュはいっていた。
その言葉にどのような意味が含まれているのかは、知る由もない。
なにせ発言者があのジョルジュだ。その真意を探ることは簡単では
――少なくともぼくには、不可能だろう。
だからといって、無視することもできなかった。

光の人。
こどもだらけの教会。
それに――ありえない速度で治癒された、ぼくの右足。

この場所には何かある。通常の常識の内でのみ
通用する法則とは異なる規範で運営された、何かが。そう、小旦那様は考えた。
それが俺の求める楽園と同一のものであるかどうかはともかく、調べる必要はある。
万が一の可能性を考慮して。そう、小旦那様は言っていた。

だからぼくはいま、ここにいる。
教会の中でもとりわけ大きなスペースを有するこの場所、華やかな
――というよりはごったに賑やかな飾り付けが施されたこの広間に。
小旦那様と別れ、一人で。

81名無しさん:2017/08/19(土) 22:38:23 ID:rN6ohdMg0
「あ、あの、ちょっといいかな?」

広間には食欲をそそる薫りがフロア一杯に立ち込め、
その欲を駆り立てる元凶たる料理がテーブル狭しと並べ立てられている。
そしてそのテーブルの周りには大勢のこどもがひしめき合っており、
みな誰かとペアやグループを作って談笑したり遊んだり暴れまわったりしている。

その中でその子は、一人でいた。
鼻歌を歌いながらテーブルの上の料理を物色している。
ぼくはその子に狙いを定めた。そして一度大きく深呼吸すると、
その長い髪がかかる背中に向かって声をかける。

やわらかでおっとりした雰囲気の顔が、にこやかに振り返った。
安堵の息が漏れる。やさしそうな人。この人なら、なんとかなりそうだ。
少なくともいきなり怒鳴られたりなんてことは、おそらくないだろう。
小首をかしげてぼくの言葉を待っているその女の子に、ぼくは自分を紹介する。

「ギコちゃん〜?」

女の子はぼくの名前を聞くとむずかしい顔をして、
視線を上空へ泳がせたまま固まってしまった。
どうしたのだろう。ぼくはその行為に何の対処法も思い浮かばず、
再び彼女が動き出すのを何もできずに待ちぼうけた。

82名無しさん:2017/08/19(土) 22:39:03 ID:rN6ohdMg0
それにしても、彼女は思ったよりも背が高かった。
ぼくよりも頭半分ほどは大きい。ほわっとした雰囲気のせいで
なんとなく幼い気がしたけれど、実際はぼくよりもいくつか歳上なのかもしれない。
そんなふうにぼくが勝手に彼女を検分していると、やがて何かを得心したのか、
彼女は両手を合わせて打ち鳴らした。

「モララーちゃんから聞いてるよ〜。今日ここにきたばっかりの子だよね?
 私はワタナベっていうの、よろしくね〜」

彼女――ワタナベが自身の紹介を終えるやいなや、
ぼくの全身がやわらかい感触に包まれた。ワタナベの身体が、ぼくの身体と重なっていた。
どういうわけか、彼女に抱きしめられていた。

彼女はぼくから離れると、一本の針のように
硬直していたぼくに向かって微笑んだ。

「ぎゅってされるのは嫌い〜?」

「いや、あの……」

「私は、好きだよ〜」

好きとか嫌い以前に、あまりに突然だったのでなにより驚きが勝った。
いまも、いや、何をされたか理解の追いついたいまの方が心拍は高まって、
頭も混乱した。「あの」だの「えと」だの、意味を成さない言葉ばかりが出てくる。

83名無しさん:2017/08/19(土) 22:39:25 ID:rN6ohdMg0
「それで、私に何か用〜?」

あくまでも邪気のない笑顔で、ワタナベが尋ねてきた。
その言葉で、ぼくはいくらか冷静さを取り戻す。
そうだ、ぼくは理由があって彼女に話しかけたのだ。
彼女でなくても良かったし、こんなアクシデントは想定外だったけれど、
ぼくにはやらなければならない事がある。

小旦那様に与えられた、指令がある。

「カンポウシキって、なに?」と、ぼくは彼女にたずねた。


.

84名無しさん:2017/08/19(土) 22:39:48 ID:rN6ohdMg0



二手に別れると言い出したのはもちろん、小旦那様だ。
このひつじの教会を調査するにあたって、
小旦那様には何か独自に調べておきたいことがあるそうだった。

それが何かまでは話してくれなかったけれど、
その何かが小旦那様にとって無視できない事柄であることは、
その態度から容易に想像できた。
何よりも優先して調べるべきことなのだと、その目が言っていた。

しかし小旦那様にはひとつ、懸念があった。
カンポウシキ。アニジャとオトジャが言い残したこの言葉。
忙しなく準備に勤しむこどもたちの様子から見て、
このカンポウシキなる行いは彼らにとって大切な意味を持つイベントなのだと見て取れる。

そのイベントを見逃すことは、
このひつじの教会を調べる上で致命傷になるかもしれない。
小旦那様はそう考えた。

85名無しさん:2017/08/19(土) 22:40:12 ID:rN6ohdMg0
そこで、ぼくに指令が下った。
カンポウシキに出席し、このイベントについてはもちろん、
この教会に関する情報を可能な限り取得せよ、との指令が。
つまり見知らぬ人の輪に入り、親しげに話しかけてここの秘密を探れ、という命令。

ぼくは人見知りだ。初対面の人を前にすると何を話していいかわからず、
黙り込むか、どもってうつむくかくらいしかできないような有様だ。
ぼくには荷が重い指令だと、正直思わないでもなかった。

しかしこのぼくに、小旦那様の言葉を断るという選択肢は、
初めから存在していなかった。例えそれが火山の火口に
飛び込めという指令だったとしても、ぼくは迷わず身を投げる。

それにこの時のぼくは妙に落ち着かない気分で、
小旦那様の思いに報いなければならないなどと意気込んでいた。
ぼくが小旦那様のひつじであることを証明しなければならないという、
そんな気持ちが強まっていた。

だからぼくは、意を決して声をかけた。
ワタナベという名の、その女の子に。

けれど、実際のところ。
人選を、間違えたかもしれない。

86名無しさん:2017/08/19(土) 22:40:38 ID:rN6ohdMg0
「カンポウシキはね〜、あのね〜、カンポウシキでね〜」

「う、うん」

「とってもおめでたいことでね〜、ハッピーハッピーでね〜」

「そ、それで?」

「わいわいして、ごくごくして、ぎゅっぎゅなの〜」

「そ、そうなんだ……?」

「そう、そうなんだよ〜!」

まったくもって何一つわからなかった。
彼女の言葉の何もかもが理解不能だった。
けれどこの妙に間延びした話し方をする少女は同時に多弁であり、
おそらくは一生懸命カンポウシキについて話してくれていた。
曰くすったったんであり、くるりららんらんであり、わおわおうーであると。

その意味するところは不明だったが、
しかしこうして話してくれている以上無下に断ることもできず、
ぼくはしばらくの間、この彼女が織りなす擬音まみれなワタナベワールドを堪能した。
首をうなだらせながら。

87名無しさん:2017/08/19(土) 22:41:00 ID:rN6ohdMg0
ぼくの首が上がったのは、彼女ががつがつごいーんと言った時のことだった。
彼女の不可思議な擬音に反応したのではない。
広間の大扉が、重い音を立てて開いたのだ。

そして、それが合図であったのか、あれだけ賑やかだった室内が瞬時に静まり返った。
あれだけ饒舌に喋り続けていたワタナベさえも、
黙して扉の向こう側、長く続いた通路の奥へと視線を送っている。

その先に、何があるのか。目を凝らす。何も見えない。何も居はしない
――いや、何かが、何かがかすかに聞こえる。何かがこちらに近づいてきている。
ちりん、ちりりんと、軽い金の音が響いてくる。
そしてその音の主が、小さなベルを手に持ったその人が、
ゆっくりと歩むその全身を露わにした。ぼくは、目を見張った。


光の人――!

.

88名無しさん:2017/08/19(土) 22:41:38 ID:rN6ohdMg0
……いや、違う。違う、違う。気のせいだ。
あれは光の人ではない。あの時のことはおぼろにしか思い出せないけれど、
それでも違うと断言できる。光の人は大人だったし、そもそもそういう理解の及ばない何か、
どこかで、根本的に違っていた。

いま廊下を渡っている人物は、あの輝く光を放ってはいない。
よく見れば背もぼくとそれほど変わらない。
ローブで顔を覆っているため顔は見えないけれど、こどもであることは間違いなかった。

でも、それならどうしてぼくは、見間違えたのだろう。
それにこちらへと近づくあの人物は、一体誰なのか。

ぼくの頭に疑問が浮かぶ。
しかし二つ目の疑問については、すぐに解消されることとなった。

ローブをまとったその人物が、ついに広間へと入ってきた。
ちりんちりんとベルを鳴らして、広間の中を歩き始める。
その後ろを二人、カートを引いたこどもがついていった。
カートの中には何かのビンが、大量に運ばれている。

その内の一本を、ローブの人物が引き抜いた。
そしてその蓋を開けると、最も近くで座っていた少年の前でビンを傾け始めた。
こぽこぽと泡を立てて、赤黒い液体がビンからこぼれだしていく。
その液体は床へとこぼれることなく、
座っている少年の構える杯へと正確に注がれていった。

ローブの人が、ビンの口を上向けた。
少し垂れかけた液を拭い、わずかに移動し、
座っていた少年のその隣にいた少女の前で、再びビンを傾ける。
少女も少年同様、杯を構えてそれを受け取った。

この行為が、繰り返し、繰り返し、順番に、順番に、
ここに集ったこどもたちへと行われていった。一人の漏れなく、時間を掛けて。

89名無しさん:2017/08/19(土) 22:42:03 ID:rN6ohdMg0
その情景を眺めていたぼくの腕に、違和感が生じる。
ワタナベが、ぼくの腕をつついていた。左手に、空の杯を持って。
彼女は笑みを浮かべたまま、その杯をぼくの前へと差し出してきた。
これがぼくの分である、とでもいうように。ぼくは黙って、それを受け取った。

こどもたちの間を巡ってきたローブの人は、いよいよぼくのところにまでやってきた。
ぼくは他の子がそうしたように、杯を傾ける。傾けた杯に、液体が注がれていく。
果物の香りだろうか。濃く甘い匂いが、胸の奥にまで潜り込んでくる。

ビンの口が上向いた。これでぼくの順番は終わり、ローブの人は次の子の所へ行く
――はずだった。が、ローブの人はぼくの前から動かなかった。なんだ? 
ぼくは顔を上げ、ローブの人の、そのローブの下に隠れた顔を覗き見た。

あっと、声が漏れそうになった。
しかしその時にはもう、彼はぼくから離れて次の子の杯に液体を注ぎ始めていた。
去り際にウインクをしていった、その彼は。

この奇妙な巡行を終えると彼は、最後にお供の二人にも杯を傾けさせ、
広間の奥にある壇上へと登った。彼は自身も手に持った杯を掲げて、
謳うように朗々と、その大人びた声で語り始めた。

90名無しさん:2017/08/19(土) 22:42:26 ID:rN6ohdMg0

「これはあなたがための私の肉。あなたがための私の血。
 あなたと共に私は在り、永久<とこしえ>に生くる私はあなたとなる。
 さあ、契を結ばん。次と、次の次と、その次と次とへと永遠<とわ>に在らんがために。
 在るべき処へ還るために。

 さあ光の子よ、愛と慈悲に包まれし愛し子らよ。
 命の杯<さかづき>を傾け、いざ、還泡へと至らん――」
.

91名無しさん:2017/08/19(土) 22:42:53 ID:rN6ohdMg0
壇上の彼が、勢い良く杯を傾けた。
それと同時に、ぼくの前後左右のこどもたちが
――いや、ここにいる全員が、一斉に杯へと口をつけ、その中身を飲みだした。

ぼくも彼らに倣い、杯の中身を飲み干そうとする
――振りをして、周りの目を盗み、杯の中身をそっと捨てた。

小旦那様に予め言われていたのだ。
もし何かを飲み食いするよう勧められても、絶対に口をつけるなと。
なぜかは問わなかった。遵守することは決まっていたから。
けれどその時のぼくは、本当にこのような事態になるとは思っていなかった。
小旦那様は予想していたのだろうか。


おめでとーう!


広間の各所から、祝を謳う声が鬨のように上がり出した。
大きな音の波と化したそれは、そのすべてが壇上の彼へと注がれていく。
それを受けた彼は、満を持して、被り続けていたローブをついにめくった。

そこには、モララーがいた。
メガネを外したモララーがいた。

モララーが、宣言した。
さあ、『還泡式』の始まりだ、と。


.

92名無しさん:2017/08/19(土) 22:43:15 ID:rN6ohdMg0



「一番! ハインリッヒと!」

「ワタナベ〜、踊ります〜」

まるで乱痴気騒ぎだった。
熱気と狂乱と、よくわからない叫び声と、駆け回るこどもたちで
この場は満たされていた。先程モララーが演説を打っていた壇上では、
入れ代わり立ち代わりこどもたちが、自分の得意とする――のであろう特技を披露している。

盛り上がってそれら出し物に喝采を送る者もいれば、
自分たちの遊びに夢中で仲間の見せ場に対して見向きもしない輩も大勢いた。

「ぼ、ぼ、ぼくの勝ちー……」

「また勝った!」

「すげー! ショボンつえー!」

隣のテーブルでは早食い競争が行われていた。
ショボンと呼ばれた小柄な少年は、その体躯に見合わぬ食力で連戦連勝を重ねている。
勝ちを賞賛されてテレている態度と、
その脇で見る間に重ねられていく食器郡のギャップが凄まじかった。

ショボンの周りだけではない。
そこかしこで妙な競争が多発し、それに対して野次を送る者もあり、
そんなことは無関係とばかりに広間いっぱいを走り回る子もいた。
とにかく賑やかで、騒がしかった。

93名無しさん:2017/08/19(土) 22:43:40 ID:rN6ohdMg0
これが、『還泡式』……なのだろうか。

この行いに、何の意味があるというのか。
ただみんなで、バカ騒ぎをしているだけなのか。

ぼくは壇上の、その横に備え付けられたテーブルを見る。
そこにはこの騒ぎの開催を宣言した彼、モララーが座っていた。
モララーは数人のこどもと会話をしながら、時折広間全体を見回しては満足げな、
あるいは何か、単純なうれしさとは違う、一種複雑な顔を見せた。
まるで大人がこどもを愛おしんでいるかのような、そんな表情を。

ぼくにはよくわからなかった。
ここで行われていることも、モララーが見せた表情の意味も。
正直にいえば、ぼくは気が抜けていた。使命に意気込み決意を固めたところへ現れたのが、
ただみんなが楽しむだけのお祭りだったのだ。肩透かしを喰らった気分だった。

肩透かしを喰らった気分で、なんとなく、
ただなんとなく祭りを眺める傍観者へと、いつの間にか堕していた。
壇上の出し物を眺めた。駆け回るこどもたちを見つめた。
自分たちで定めた遊びで競争する、平和な戦士たちの勝敗を見届けた。

94名無しさん:2017/08/19(土) 22:44:05 ID:rN6ohdMg0
「お、お水……」

早食いチャンピオンのショボンが、食べ物をのどにつっかえさせたのか、
胸をどんどんと叩いていた。応援していたこどもの一人がコップをわたすと、
ショボンはそれを一気に飲み干す。それがいけなかったのかもしれない。
水分が気道に潜り込んだのかショボンののどはけほけほと異物を追い出そうとして、
その勢いのまま鼻から水が飛び出した。

それが恥ずかしかったのか、それとも単純にむずがゆかったのか、
ショボンは強い勢いで鼻をこすりだした。ごしごしと丹念に、丸い顔を歪めて。
しかし競争の真っ只中での勝負に無関係な行為は、
その勝敗において決定的で致命的な一打となる。

ショボンが鼻をこすっている間に、勝負相手が勝ち名乗りを上げた。
周囲から歓声が巻き起こる。

チャンピオンから陥落したショボンは、鼻を押さえながら、
本気で悲しそうな顔をしていた。そして慌てて、どもりながらもう一回、
もう一回と再戦を主張していた。その光景を見て、ぼくはくすりと笑った。

笑ってしまった。

95名無しさん:2017/08/19(土) 22:44:30 ID:rN6ohdMg0




めぇ、と鳴く、ひつじの声を、聞いた、気がした。


.

96名無しさん:2017/08/19(土) 22:44:54 ID:rN6ohdMg0
何を、笑った。お前が、何を、笑った。
お前にそんな権利が、あると思っているのか。
お前に何かを笑う権利があると、思っているのか。
お前に何かを楽しむ権利があると、思っているのか。
お前に何かを感じる権利があると、本気で思っているのか。

罪人である、お前が。

97名無しさん:2017/08/19(土) 22:45:20 ID:rN6ohdMg0
車輪の音が聞こえた。今度は幻聴ではなかった。

あの子だ。
車椅子乗りの、あの子
ぼくを糾弾した女の子。
陶器のように美しく――無機質な印象の少女。
アイスブルーの瞳。

彼女は車輪を回して、広間から出ていこうとしていた。
その様子はこの喧騒の中において奇妙なほどに冷静で、
彼女の周りだけ温度が数度、下がっているようにすら感じられた。
魔女。アニジャとオトジャが残した言葉を思い出す。

魔女でも、構わなかった。
優しく包み込む光よりも人を惑わし狂わせる暗黒の方が、
ぼくにはむしろ相応しい気がした。それに、彼女は何かを知っている。
小旦那様の――そして、ぼくの知らない何かを。

あなたの罪を、忘れてはならない。

ぼくは立ち上がっていた。そして、歩きだす。
車輪を回す、彼女の背に向かって。そこに佇む罪の在り処に向かって――。

98名無しさん:2017/08/19(土) 22:45:52 ID:rN6ohdMg0
「いーぃえぇーいっ!」

「べふっ!」

何かがぼくの首に組み付いてきた。
ぼくは情けのない声を上げて前のめりに倒れかける。
が、そのまま地面にぶつかることはなかった。

ぼくにぶつかってきた何かはそのままぼくの首を支点にして、
器用にも空中で旋回し目の前へと着地した。
そして倒れ掛かるぼくの身体を絶妙なバランスで支え、
大して力を込めているとも思えないのに余裕の様子で転倒を防いでいた。

「あんたが今日来た新人だね!」

ぼくは答えることができない。

「どうしたどうした、そんな変な顔して」

勝ち気な顔が目の前でにかっと笑う。

「悩みがあるならなんでも聞くぞ。ほらほら遠慮しなさんな。
 お姉ちゃんになんでもどーんと任せなさい!」

そういって胸を叩いた――様子の彼女に、
ぼくはやはり何も答えることができなかった。
彼女が胸を叩くところも見えなかったし、なんというか、近すぎた。

額と額が触れ合っていたし、彼女がまばたきする度その長いまつげが、
ぼくのそれをくすぐっていた。彼女の顔は、目の前と言うには
あまりにも近すぎる眼前に位置していた。

99名無しさん:2017/08/19(土) 22:46:12 ID:rN6ohdMg0
「ダメだよハイン〜、ギコちゃんが困ってるよ〜」

「ん? あ、そか」

横から投げかけられた間延びした声に反応して、
彼女がぼくの身体を押し出すようにして身体を離した。
そして体制を崩して腰を曲げていたぼくの頭へ手を伸ばすと、
申し訳なさそうにしているのかしていないのか微妙な笑みを浮かべながら、
その手を動かしてぼくの頭をなで始めた。

「びっくりさせちゃったならごめんなー。お姉ちゃんの癖なんだ、あれ」

「は、はぁ」

「まったくハインは、いつもそうなんだから〜」

「なはは」

100名無しさん:2017/08/19(土) 22:46:32 ID:rN6ohdMg0
ハインと呼ばれた彼女が、照れ隠しに頭をわしゃわしゃと掻いた。
ただし、ぼくの頭を。ぐらぐらと頭を揺さぶられながら、ぼくは目の前の人を観察する。
ぼくはこの人を知っていた。といっても、遠い昔からの知り合いというわけではない。
彼女を知ったのはついさっき。壇上で踊っているのを目撃した、というだけだ。

ここで催されたこどもたちの出し物はどれも楽しげではあったけれど、
根本的にはその場の盛り上がりに準じて好き勝手やるだけの、
――言い方は悪いかもしれないが――素人芸に過ぎなかった。
そのことが悪いというわけではないし、
実際に観客も盛り上がっていたのだから彼らの試みは成功しているのだと思う。

けれどハインとワタナベのペアは違った。
二人のダンスは大人顔負けに洗練されていた。
息のピッタリあった動き、指先にまで意識が行き届いたキレ、
わずか三分程度の舞台上で、彼女たちはその培ってきた
熱意と練習量を存分に披露していた。

特にハインの技の冴えは、素人目で見ても圧巻だった。
足の運び、首の振りひとつとっても、その動作の端々には華があった。
空気が、光が彼女の味方となって、まるでひとつの
神話世界を描き出しているようにすら感じられた。

だからぼくは、覚えていた。
このとても印象的な女の子のことを、知らず記憶していた。
こんなふうに人の頭をわしゃわしゃする子だとは思わなかったけれど。

101名無しさん:2017/08/19(土) 22:47:05 ID:rN6ohdMg0
「ナベから聞いたよ、知りたいことがあるんだって?
 お姉ちゃんにわかることなら、なんでも答えてやろう!」

ハインはそういって突き出した胸を叩く。今度はその姿がきちんと見える距離で。
しかしハインに問われたぼくはそうして胸を叩く彼女ではなく、その後ろ、
広間の出口へと知らず知らず視線を向けていた。
そこにはすでに、車輪の後も、あの冷たい気配もなくなっていた。

「魔女……」

「うん?」

ぼくの独り言をハインが拾った。
声にするつもりではなかった言葉を聞かれてぼくは少々焦りながら、
けれどいい機会かもしれないとそのまま質問した。

「車椅子の女の子のことが、ちょっと、気になって」

「なんだ、女の子のことを知りたいなんて、ギコはおませだな!」

「ち、ちがっ……!」

狼狽するぼくを見て、ハインが快活に笑う。
ぼくは彼女の誤解を否定しようと、先ほどとは比べ物にならないレベルで焦燥した。
しかし誤解を解消するその機会を、ぼくは逸した。
ハインの顔は困ったことを聞いてしまった、とでもいうように見る間に曇り、
その口も目も閉じてしまったから。その様子にぼくは、不安を覚える。

102名無しさん:2017/08/19(土) 22:47:26 ID:rN6ohdMg0
「あの……」

「あたしもよくは知らないんだ。あの子が何を考えてるのか。何をしてるのか。
 そもそも名前も聞いたことないしな。いつも一人でいるし、なんかこう、
 他人を寄せ付けないようにしてるみたいでさ」

ハインがぽつり、ぽつりと語りだす。
慎重に、言葉を選んでいる様子で。

「あの子がいつここに来たのかは、誰も知らない。
 どこから来たのかも。普段は人前に姿を現さないんだけど、
 気づくと遠巻きにこっちを見て、ノートに何か書き込んでるみたい。

 何を書いているのかはもちろんわからないけど、
 自分たちのことを見ながら無言でペンを動かす姿を
 気味悪がってる子は結構いるよ。魔女、とか言ってさ。

 ジョルジュなんかは妙に懐いてるし、あたしも別に、
 何かされたわけじゃないから陰口みたいなことはしたくないんだけど――」

「何にも話してくれないだもん。怖がられたってしょうがないよ〜」

103名無しさん:2017/08/19(土) 22:47:56 ID:rN6ohdMg0
ワタナベが横から割って入った。
ハインはワタナベの言葉に何か不満げな表情を浮かばせるが、
頭を掻いて――今度は自分の頭だ――、結局それを否定することはしなかった。

「ま、あたしが知ってるのはこんなとこ。
 せっかくの恋の相談なのに、役に立たないお姉ちゃんでごめんなー」

「……ところで、ひとつ気になったのだけど」

本気か冗談かわからないハインのからかいには取り合わず、
魔女の少女のことも一先ず置いて、ぼくは質問を続けた。
あの子がどこから来たのかわからないと言っていたけれど、
ここにいるこどももみんな、別の場所からやってきたのか、と。

ハインの答えはぼくの予想通りだった。
ここで暮らすこどもは一人の例外なく、森を越えてやってきたらしい。
元々ここに住んでいたわけではなく、外からやってきたのだと。
であればこどもたちは何故に、この教会を目指したのか。

森の外は、怖い場所。
ジョルジュの言葉を反芻する。

104名無しさん:2017/08/19(土) 22:48:16 ID:rN6ohdMg0
「ギコだって、そうだろ?」

思考の上に、ハインの言葉が重なる。
みんながここへ来た理由。ぼくがここへ来た理由。

――ぼくのことなど、どうでもいい。

「ハインはどこから来たの?」

「あたし? あたしは……」

話題をそらすために軽く振った問いかけ。
しかしハインは予想外に困惑した様子で、何かを思案して
――いや、思い出そうとしているようだった。

ハインはぼくがいることも忘れた様子で、目を見開き、
ぶつぶつと何かをつぶやいている。あたしが。あたしがいたのは確か。あたしは、確か――。

105名無しさん:2017/08/19(土) 22:48:51 ID:rN6ohdMg0
「ねえねえ、二人共〜」

ワタナベの呼びかけが、ハインを現実に引き戻した。
二人分の視線を集めたワタナベは壇上を指差し、

「ジョルジュちゃんが、わうわうぴーぴータイムだって〜」

「お、やっとか!」

歓喜の声を上げたハインが、ぼくの首に腕を回してきた。
ほほとほほとが密着する。体温が直に伝わってくる。
ぼくはどぎまぎしてしまってほとんど無抵抗のまま、
手近な椅子にダイブするハインに引きずられる。

「ギコは見るの初めてだよな、あいつの動物鳴きマネシリーズ。
 あれがまた、おもしろいんだ!」

そういうハインの声が、ほほを伝って全身の骨に響く。
ハインは自由な方の腕で壇上を指差した。
壇上ではジョルジュがいろいろな動物のモノマネをしている。

どれもこれも聞いたことのない名前の動物ばかりだったけれど、
名は体を表すというべきか、それとも声を表すというべきか、
ジョルジュは一発で“それらしい”と分かる鳴き声を演じ分けて見せていた。

106名無しさん:2017/08/19(土) 22:49:13 ID:rN6ohdMg0
驚きなのが、ジョルジュがリクエストを受け付けていたことだ。
誰かが動物の名前――それもやはりでたらめな、
魚と鳥とうさぎがごちゃまぜにされたような名前を叫ぶとジョルジュは即興で、
そいつは確かにこんな声で鳴くだろうなとうなづきたくなる鳴き声を披露してみせた。

何人も同じようにジョルジュにリクエストして見せたがジョルジュはどれもこれも、
その動物が本当に存在するかのように完璧に“鳴きマネ”て見せていた。
ジョルジュにしかできない、個性的で楽しい芸だった。

けれど正直ぼくはこの時、ジョルジュのこの特技をほとんど聞いていなかった。
ほほから伝わるハインのあらゆる振動にどきどきしてしまい、
それどころじゃなかったのである。

「あー、やっぱおもしろいなあ、あいつ! ナベ!」

「うん、準備、できてるよ〜」

「うっしゃ、それじゃあたしらも一発かましてくるか!」

ジョルジュの独演に興奮した様子のハインは、
ぼくの首に回していたその細長い腕を解き、
ワタナベと手を取り合って壇上へと駆けていった。
「ギコもお姉ちゃんの活躍、ちゃんと見てくれな!」そう言い残して。

ようやく、一息つく。

107名無しさん:2017/08/19(土) 22:49:35 ID:rN6ohdMg0
「ギコ!!」

「ぶふっ!」

本日二度目となる情けない声を息と共に漏らし、
今度は支えなくぼくはそのまま椅子から転げ落ちた。
勢い良くぶつかってきた物体が、そのままぼくの身体に乗っている。

その過剰に元気で手加減を知らない物体の正体は、
先程まで壇上で独自の芸を披露していた、ジョルジュその人だった。

「ギコ! ジョルジュの鳴きマネすごかったでしょ!
 ね、ジョルジュとってもすごかったでしょ!!」

言葉に詰まる。
ごめん、ハインに気を取られて、ほとんど聞いてなかった。
そんなこと、目の前できらきらと目を輝かせているジョルジュに言えるわけがない。
……適当に話を合わせるしかない!

「う、うん、すごかった。ジョルジュはとってもすごかった」

「ギコは何が一番好きだった?」

「おごふっ!」

108名無しさん:2017/08/19(土) 22:50:09 ID:rN6ohdMg0
三度目である。今回は物理的な衝撃以上に、ぼくの肺腑を的確にえぐってきた。
ジョルジュがきらきらと輝かせた目で、ぼくの返答を待っている。
純真無垢そのものの瞳で、ぼくを見つめている。
ダメですムリですぼくにはもうどうすればいいかわかりません助けてください小旦那様。

しかし小旦那様がこんなどうでもいいことでタイミング良く助けに現れることなどありえず、
ぼくはただ目を泳がせるばかりだった。そんなぼくに助け舟をよこしてくれたのは、
誰あろう、ジョルジュ本人だった。

「ジョルジュはね、ジョルジュは、
 オオタテガミヒトコエひつじが一番好き! 愛されてるから一番好き!」

「ぼ、ぼくも、それで……」

「やっぱり!」

ジョルジュが嬉しそうにバンザイする。
一回だけでは喜びを表現できなかったのか、二回、三回と大ぶりに腕を振り上げている。
何とか機嫌を悪くさせないで済んだらしい。助かった。
そう安堵するぼくの上でジョルジュは、
オオタテガミヒトコエひつじについていろいろと説明してきた。

109名無しさん:2017/08/19(土) 22:50:38 ID:rN6ohdMg0
全身はふわふわした毛に覆われているけれど、
たてがみだけはつやつやしていてひんやりしているとか、
角は巻いているけどこどもは小さいからまだ真っ直ぐだとか。

ずいぶん凝ってるな、とぼくは思う。
想像上の動物の説明にしては設定が詳細で、
まるで実在しているかのようなリアリティがそこにはあった。

オオタテガミヒトコエひつじはとっても元気で、友達や家族思いで、
みんなとってもとっても仲がいいんだ。かわいくて、ふわふわで、みんなに愛されてるんだ。
そういうジョルジュの顔は、まるで自慢のペットを紹介する飼い主のように、
少々の自尊心と、多大な愛情とが入り混じっていた。

ぼくは取り繕う気持ちだけではなく、
本心からその長い名前のひつじに興味を抱き始めていた。
だからぼくは、もう一度その子の声が聞きたいな、とお願いした。
ジョルジュはぼくのお願いへ、端的に返答した。

110名無しさん:2017/08/19(土) 22:51:09 ID:rN6ohdMg0
「いま、してるよ?」

え?
想定外の答えに、言葉を失う。
けれどジョルジュはぼくの驚きなど気にする様子もなく、
笑顔のまま、言葉を、続けた。


ギコは何の真似をしているの?

.

111名無しさん:2017/08/19(土) 22:51:33 ID:rN6ohdMg0
誰かに呼ばれたジョルジュは、飛び跳ねながらぼくの上から去っていった。
ぼくは、立ち上がった。そして、気づく。
首からかけたハーモニカを、無意識の内に握っていたことに。

壇上ではワタナベとハインが、いまも踊っていた。
相変わらずの洗練されたキレのある動き、息のあったコンビネーション。
そしてなによりも、その全身から発せられた
“生きている”という力をまざまざと見せつけてくる躍動。

ハーモニカを握る手に、力がこもっていた。
ぼくは一本一本、丁寧に、丹念に、ハーモニカから指を剥がしていく。
力を込めすぎて赤く充血していた指を、折るようにして剥がしていく。
そして残された二本、親指と小指へと手を伸ばす。最後の支えを奪おうとして。
小指が、ハーモニカから剥がれかけた。

その時だった。その声が聞こえたのは。
その声はモララーが通ってきた大扉の方角から聞こえてきた。
まさか。ぼくはそう思いながら、反射的に声のした方へと身体を向けていた。

112名無しさん:2017/08/19(土) 22:51:58 ID:rN6ohdMg0


ああ、やはり。


そこには、あれがいた。
あれ。ふわふわの体毛に覆われた、あれ。
森の中で出会った、あれ。
ぼくの――ぼくの、あの子を思い起こさせる、あれ。

ひつじ。
ひつじがいた。
そこには、ひつじがいた。


モララーが、ゆっくりと立ち上がった。


.

113名無しさん:2017/08/19(土) 22:52:44 ID:rN6ohdMg0
               5

ない。どこにも、ない。
白い扉。ジョルジュの言っていた、やつが潜む場所。
あいつがいるかもしれない、最果ての地。

バカなことを。
どうかしている。
気が狂ったに違いない。

自分でもそう、思う。
なぜなら、あいつは死んだのだから。
その死に俺は、触れたのだから。

俺が、この手で――。

.

114名無しさん:2017/08/19(土) 22:53:07 ID:rN6ohdMg0
ベルの軽やかな音が、聞こえた。
遥かな遠い通路の先で、何かが茫洋と動いている。
ベルを鳴らして、次第次第とこちらへ近づき、その全貌を明らかにしていく。

影は、ふたつ存在した。
四足の獣と、その後をついて歩く二足の何か。ちりんちりりんと、ベルが鳴る。

まさか。
影が、光へといでた。

ひつじ。
あの、歌うひつじ。
“あの歌”を歌ったひつじ。

そして、その、背後には――
光の――


.

115名無しさん:2017/08/19(土) 22:53:30 ID:rN6ohdMg0
いや、違う。違う、違う、違う。
これは、あいつではない。あの時の光――牧師と呼ばれる存在ではない。
深々とローブを被ったそいつは、俺よりは多少大きいものの、
明らかにこどもの体躯をしている。ならば、こいつは、なんだ。
それに、この気配は――。

四足の獣と、ローブの怪人が、接近してくる。
俺は、それを見ていた。動かず……いや、動けず、
そいつらが近づいてくるのを、呼吸もおろそかに、
ただ、見つめていた。

そして、獣と怪人が、俺の目前まで迫り
――そのまま、脇を通り過ぎていった。
ベルの軽い音が、背中から聞こえてきた。

116名無しさん:2017/08/19(土) 22:53:51 ID:rN6ohdMg0
待て。

声が出せなかった。

待て、待て、待て。

動けない。振り向くこともできない。
ベルの音が遠ざかる。俺から離れ、消えてなくなる。
引き止めねば。食らいつかねば。逃すな、動け、叫べ。
ここで、ここで動かなければ――


あいつへの手がかりが、消えてなくなる。

.

117名無しさん:2017/08/19(土) 22:54:20 ID:rN6ohdMg0
「待て!!」

声が、出せた。身体も、動く。
その場で振り返る。ローブの人物は、まだそこに立っていた。
歩くのを止め、背を向けた格好のままその場に立ち止まっている。
俺はその背に向かって、一歩、一歩と近づく。

「失くしたものを今も必死に探しているんだね」

その歩みが、止まる。聞き覚えがある。
この声は。こいつは。いや、それよりも。

「お前に何がわかる」

なぜだか無性に、腹が立った。
思えば初対面の時から、こいつのことは気に食わなかった。
なんでも知っているというような一歩引いた態度で、妙に大人ぶるこいつのことが。
まるで大人そのものであるかのような、こいつのことが。

そしてやはりこいつは、俺の言葉などまるで意に返さぬ様子で、
あくまでも穏やかに俺の言葉へ返答する。

118名無しさん:2017/08/19(土) 22:54:42 ID:rN6ohdMg0
「みんな同じなのさ。ここに集った者はみな、『罪深きこどもたち』なのだから」

「はぐらかすな」

背中を向けたローブが、くすりと笑った。

「きみは少し、ぼくに似ている」

なに?

俺の言葉を待たず、そいつはゆったりと振り返った。
そしてその深々と被っていたローブに手をかけると、
隠されたその影を白日の下へと晒した。

そこには、俺の思った通りの顔があった。
そこには、俺の想像とは異なる顔があった。
そこには、人と人でないものの境界に位置する顔があった。
そこには――。

119名無しさん:2017/08/19(土) 22:55:26 ID:rN6ohdMg0


「福音の時は来たれり。モララーなる罪業の楔は
 この天地海の理よりあまねく消滅せしめ、光と共に永遠を分かつものなり。
 それ即ち幸いなるかな。幸いなるかな」


.

120名無しさん:2017/08/19(土) 22:55:52 ID:rN6ohdMg0
光り輝くあの存在の、レプリカがあった。
俺の思い描いていた顔と、劇的に変わっていたわけではない。
そいつはモララーだった。
聖句を謳い両の腕を広げたこの人物が、モララーであることは間違いなかった。

ただ、モララーの顔は、薄い燐光を放っていた。
牧師のそれと比べれば柔く抑えたものでこそあるが、
本質的なその輝きを鑑みれば、その二者の間に差を見つけることは俺にはできなかった。

よくよく見れば、光を放っているのは顔面だけではなく、
広げた両腕の先、ローブからはみ出した手も同様だった。
あるいは全身がそうなのかもしれない。

光そのものとなりかけている、生。

「惑う者である限り、失しものは見つからない」

モララーが指先でつまんだベルを鳴らす。

「きみが外から持ち込んだ執着を、一度手放してみることだ。
 それがきっと、遠き海路の第一歩へとつながるだろうから」

121名無しさん:2017/08/19(土) 22:56:14 ID:rN6ohdMg0
一度、二度、三度……規則的に鳴らされるベルの音は、何かに似ていると感じた。
それが何かはわからない。しかしそれは身近な、
極身近なところで聞いたことのある、何かだったはずだ。

「お前は……、いや、お前たちは、いったい何だ?」

「ぼくもきみと同じさ。けれどぼくの惑いは、彼のおかげで真の解消を得た」

彼。そういった時のモララーは、ここで再会して以降に見せたどんな表情とも違う、
俗っぽい、良くいえば人間らしい顔をしていた。
それがどんな感情を含んだ表情なのかまでは読み取ることはできなかったし、
モララーもまた、すぐに元の顔つきへともどった。

そしてその奇妙に達観した瞳で、俺のことを直視してきた。
目を通し、皮膚を貫いたその奥の、隠された秘部を覗き見るような視線で。

「いま正にこの場所で起こった出会い。
 最後の邂逅者がきみであるという動かしがたい事実。
 これはけして偶然ではないのだと、ぼくは覚者の確信を得る。
 故にぼくは、きみへと送ろう。モララーとして生きた生命の、最後の忠告を」

モララーが俺の目の前で、燐光を放ちながら薄闇の奥へと消えていった。
完全にその姿を消し去っても、その声だけは遠ざかることなく、
俺のすぐそばで、耳元で木霊した。

122名無しさん:2017/08/19(土) 22:56:49 ID:rN6ohdMg0


きみが“彼”を思うのならば――永続的でありつつ、
悲しいほどに脆く儚いこの楽園の存続を望むのであれば、
現し世に囚われし者、――に注意することだ。
そいつはきっと、きみの障害になるだろうから……。

何が正しくて、何が間違っているのか。
ぼくにはもう、わからないけど、ね――

.

123名無しさん:2017/08/19(土) 22:57:13 ID:rN6ohdMg0
金の軽い音が、廊下中に響き渡った。
暗闇の奥から、何かが転がってくる。それは、ベルだった。
ベルが俺の足元まで転がってきた。それを拾った時にはもう、声も、姿も、気配も、
俺のもの以外のなにもかもが消え失せていた。辺りには静寂が立ち込めている。
俺は、モララーがそうしたように、ベルを振った。

音が、した。
俺の手の中から、ではない。
小さなベルの音とは違う、大きな、もっと大きな音。


鐘の音が、鳴り響いた。


教会中に響き渡っているであろう、礼拝の調べ。
その規則的な律動へと合わせるように、どこからともなく現れいでた音楽が、
俺の耳を越え胸を越え、拍動する心臓にまで呼応した。

それは、音。

それは、声。

それは、歌。

それは――。

124名無しさん:2017/08/19(土) 22:57:36 ID:rN6ohdMg0



そうだ、俺はあいつと、約束した。
お前を楽園へ連れて行くと、約束した。
そして、必要だといったのだ。
お前の歌が。
楽園には、必要だと。

俺の……俺の、楽園には――。


.

125名無しさん:2017/08/19(土) 22:58:03 ID:rN6ohdMg0
               6

きみにひとつ、わがままを頼みたい。

それが、モララーがぼくに残した最後の言葉だった。
彼は決して無理強いをしなかったし、あくまでもお願いという立場を崩さないでいた。
だからぼくには、断ることもできた。断ろうと思えば、いくらでも断れたはずだった。
けれど、ぼくは断らなかった。彼の頼みを受け、それに、口をつけた。

ハーモニカを、吹いた。

「すごーい!」

「どこで覚えたのー?」

「ぼくにも教えてー!」

吹くつもりなんてなかったんだ。二度と吹かないと決めたんだ。
だけど、モララーだったから。頼んできたのが、彼だったから。
彼には得体の知れない力があった。ぼくを縛る、何かを持っていた。
記憶の断片を刺激するその不明が、彼に逆らうことを是とさせなかった。

126名無しさん:2017/08/19(土) 22:58:23 ID:rN6ohdMg0
それに、ひつじがいた。
歌うひつじが、ぼくを見ていた。
ひつじが、ぼくを待っていた。
ぼくのハーモニカを、待っていた。

だからぼくは、吹いた。
それを待つ者のために。

だけど。
だからこそぼくは、自分のために吹いたわけではない。
自分のためなんかじゃ、けしてない。

断じて――断じて。

127名無しさん:2017/08/19(土) 22:58:50 ID:rN6ohdMg0
「ギコ! すげーよギコ! おねえちゃん、びっくりした!」

だから、やめてくれ。

「感動したっていうか、うまく言葉にできないんだけど」

お願いだ。

「何か、ほんと何か、よくわかんないんだけどさ」

それ以上。

「涙、出てきちまったんだ――」

ぼくを、認めないでくれ。

128名無しさん:2017/08/19(土) 22:59:10 ID:rN6ohdMg0


鐘の音が、鳴り響いた。


ぼくを取り囲んでいたこどもたちが、一斉に輪を崩した。
小さい子も、大きい子も、誰もが等しく同じ方角に身体を向け、
両手を組み合わせていた。目を閉じ、まるで祈りを捧げる聖者のような格好をして
――そして、歌いだした。

歌は、みなみな好き勝手に歌ってばらばらだった。
歌は、まるでひとつの調べを奏でているかのように調和していた。
独唱でもあり、合唱でもある、不思議な響き。
歌のための、歌。
その根幹を成す、鐘の音の律動。

意識ではない。
ぼくの内の無意識が、周りの彼らと同じ行動を取らせた。
手を組み、目を閉じ、歌を思う。

“自己”ではない。
大勢の中の、意味を持たない一。
口を開き、ぼくはそれになろうとする――。

129名無しさん:2017/08/19(土) 22:59:33 ID:rN6ohdMg0



声は、でなかった。
強い力がぼくの首を引っ張り、倒れそうになったから。
思わず目を開く。

目の前には、ジョルジュがいた。
ジョルジュが、首からかけたぼくのハーモニカをつかんでいた。
ハーモニカを見ていたジョルジュが、ぽつりと、こう、つぶやいた。


ハーモニカって、すごいんだね。





.

130名無しさん:2017/08/19(土) 23:00:18 ID:rN6ohdMg0



             『二章 笑うひつじ』へつづく


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131名無しさん:2017/08/19(土) 23:00:39 ID:rN6ohdMg0
今日はここまで

132名無しさん:2017/08/19(土) 23:05:08 ID:pt0s.Ztc0
おつ

133名無しさん:2017/08/20(日) 19:34:19 ID:Ji4r3yq60
すごく引き込まれる
続きが楽しみだ

134名無しさん:2017/08/20(日) 19:52:04 ID:feTKrJiA0
すっごく不穏な雰囲気なのに、教会の子供達はとっても可愛らしくて、続き読むのがこわい
ジョルジュと流石兄弟のやり取り好き
あとモララーのcv石田彰で再生される

135名無しさん:2017/08/20(日) 21:40:06 ID:sRmmAC9s0
               0

労働こそが救いだった。
朝も、昼も、晩も、体を動かし、頭を働かせた。
忙しく行動している間だけは、忘れることができた。

トソンのことを、思い出さずにすんだ。
トソンの最後を、思い出さずにすんだ。
……もう、なにも考えたくはなかった。


.

136名無しさん:2017/08/20(日) 21:40:36 ID:sRmmAC9s0
やるべき仕事は山程あった。
長い間ろくにスタッフも雇わず店を切り盛りしていた父が、
俺の“通過儀礼”を機に引退、隠居してしまったから。

ここ数年父を手伝っていたとはいえまだまだ不慣れな兄と、
ずぶの素人同然である俺たちでは勝手の分からぬことも多く、
毎日が手探りの状態で効率化を図る域にも達してはいなかった。

兄と共に父に助言を仰ごうともしたが、無駄だった。
仕事から離れた父は退屈にやられたのか、早々に痴呆を発症してしまった。
俺の恐れた怪物は、そこにはもう、いなかった。役目を果たした父を切り捨てたのだろう。
次の世代へと乗り移ることによって、消えた。

そんなわけで、俺達はなにもかもを自力で果たさなければならなかった。
俺と兄は業務形態を流動化させるため、仕事を分担することに決めた。
父について回っていたため多少は顔の利く兄が主に外勤を、
兄の手が回らない内仕事を俺が担当することに自然と分かれていった。

137名無しさん:2017/08/20(日) 21:40:59 ID:sRmmAC9s0
その中でも俺は特に、商品の管理を任された。
日常的な給餌や檻の中の清掃はもちろん、
店の評判を落とさぬよう商品の育成や健康管理にも力を入れた。

特に病気には気をつけた。
商品はひとつの檻の中に通常一○から一五匹をまとめて管理している。
どれか一匹が病気に罹り、それが感染性のものであったとしたら
檻の中の商品がまるごと使い物にならなくなってしまう危険性がある。

それだけで済めばまだ良い方で、
病気であることに気づかないまま発送してしまえば
それこそ信用問題になりかねない。故に病気の有無の診断は、
商品の品質保持という観点において最も注意を払うべき仕事のひとつであった。

138名無しさん:2017/08/20(日) 21:42:02 ID:sRmmAC9s0



その日は商品の定期検診が行われる日だった。
腕は良いが愛想のない街の医師が、一日掛けてすべての商品を検診する。
問題が見つかった商品は一匹。いつもなら三匹ないし四匹ほどは引っかかるので、
今回はむしろ運の良い方だった。それも病気ではなく、栄養失調とのことらしい。

検診の結果に胸をなでおろしつつも、
問題が発見された商品の処分について検討を始める。
それは一ヶ月前ここへ来たばかりの、まだ年若い商品だった。

初めて目にしたときから、気にはなっていた。
多くの商品は、ここへ連れてこられる時大きく泣きわめくか、暴れるか、
あるいはそのまま死んでしまいそうなほど沈鬱な表情を見せる。

態度は様々であるが、ここへ送られてきたという事実に対するマイナスの感情を、
行為や言葉において発散させているという一点においては変わりない。
そういった者たちは初めのうちこそ衰弱したりもするが、
そのうちに順応して他の商品同様、売買に適した陳列物となるものだ。

だが、この商品は違った。
この商品には初めから、感情というものが見受けられなかった。
何をされても反応を示さず、生きながらに死んでいるようだった。

生きていなかった。

こういったタイプには、稀に遭遇する。そしてその末路は、どれも同じ。
商品として不適格であるとの烙印を押され、檻から出されることになる。
すべてがすべて、そうであった。

とはいえ百回続いたものが、百一回目も同じであるという確証はない。
なによりもいまの我が店に、可能性を考慮せぬまま商品を廃棄する余裕などない。

139名無しさん:2017/08/20(日) 21:42:27 ID:sRmmAC9s0

時代は刻々と変化する。
前世紀から続いた市民革命の波は民主化運動という新たな、
そしてより大きな津波となって、大陸全土に波及した。

いや、大陸に限らない。
海を越えた言語や文化の大きく異なる国ですら、
この世界的な流れからは逃れることができないでいるようだった。

民主主義は人権という概念を掲げ、信奉していた。
人権。人が人として保証される権利。信教の自由。発言の自由。
そして、自分の生き方を自分で決めるという、生き方の自由。
完全なる平和で平等な世界。

絵空事だと、俺は思う。

だが世の中には、その絵空事を本気で信じている人間が、
俺の考えている以上に多いようだった。自由の氾濫に、いったい何の価値があろうか。
行き着く先は結局、自由と自由、権利と権利の奪い合いに過ぎないだろうに。
幸福とはきっと、そんなところには存在しない。

140名無しさん:2017/08/20(日) 21:42:58 ID:sRmmAC9s0
それでも、人権という言葉が騒がれた当初の思想は理解できないでもなかった。
それはすなわち、“私の”権利を認めよという叫びだったからだ。
俺の、私の、ぼくの権利を認めろ。短絡的で直裁的な、けれど人間らしい主張。

それが奇妙に歪みだしたのは、いつからなのか。
彼らの思想は人権とはどこまでの人間を含むのか、
人間とはどこから人間なのかというラインの線引へとシフトしていった。
女は人間なのか。老人は人間か。こどもは、障害者は、異教徒は
――うちで扱っている商品は?

得意先の数は目に見えて減っていった。
兄の責任とはいえない。誰も彼もが及び腰になっていた。
周囲の目に、強硬派の襲撃に、新しく制定されるという噂の法律に。

それでもまだうちは、同業他社に比べマシな方だった。
父の築いたパイプはそれなりに強固であったし、
兄もそれらを断ち切られぬよう日夜奔走していた。
それにこの稼業はまだ、多くの者に求められていた。
買う側はもちろん、売る側にとっても。社会がこの仕事を必要としていた。

故に俺も、働けた。あれこれ考えることなく、働く時間を得ることができた。
これからもそうだ。これからもそうするために、
俺はこの店を潰させるわけにはいかなかった。
そのためには、可能性を考慮せぬまま商品を廃棄する余裕などなかった。

141名無しさん:2017/08/20(日) 21:43:32 ID:sRmmAC9s0



俺は件の不良商品を、まっとうな商品にする方法がないか検討した。
寝る間も惜しんで考えた。考えないために、考えた。そして、思いつく。
不良商品が連れてこられた時に没収したハーモニカを吹かせてみてはどうか、と。
何かの切っ掛けにでもなればいい。その程度の気持で。

不良商品は感情らしきものを、その時初めて露わにした。
不良商品は俺の命令を拒絶した。予想外に激しい抵抗を受け面食らいつつも、
このいままでにない反応に俺は、何がしかの成果を
得られるかもしれないという期待を抱いた。

事態は根比べの様相を呈していた。
そいつは頑なにハーモニカを吹くこと――いや触れることすら拒み、逃げようとした。
檻からは出ようとしないくせに、このハーモニカからは逃げた。
何か恐ろしいものでも見ているかのような目つきで。

しかし俺も、その時にはもう後には引けなくなっていた。
他に片付けなければならない仕事はいくらでもあったが、
躍起になった俺はそれでも不良商品に迫り、何時間でもその前に座った。
一睡もせずにほぼ一日座ったままだったこともあった。

142名無しさん:2017/08/20(日) 21:44:02 ID:sRmmAC9s0
先に折れたのは、不良商品だった。
不良商品は震える手でハーモニカをつかみ、何度も何度も俺のことを見ながら、
俺が決して首を振らないことを認め、そしてついに、それに口をつけた。

何を恐れていたのかと訝りたくなるような音色が、
不良商品の持つ楽器からこぼれだした。不良商品の技量は、
明らかに昨日今日で培ったものではない。
長大な時間を、おそらくは一日と休まずに励んでようやく身につけたであろう熟練の技。
奏でられるその音楽は、この不良商品が――彼が生きた存在であることを明確に語っていた。

けれど、そんなものはどれも、些細な事柄に過ぎなかった。

俺は、不良商品に掴みかかった。

143名無しさん:2017/08/20(日) 21:44:26 ID:sRmmAC9s0


それは。
その歌は。
その曲は。
俺の。
トソンの――

.

144名無しさん:2017/08/20(日) 21:44:59 ID:sRmmAC9s0
演奏が止まった。
不良商品が、きょとんとした顔で俺を見上げている。

どこで、それを。
出かかった言葉を、飲み込む。

違う。そうではない。
そうではない、のか。

お前なのか。
トソン、お前なのか。
お前が、導いたのか。
俺の前に、こいつを。
お前の歌を。

導いたのか。
“楽園”の、ために。

ならば。
ならば、俺は――



こいつを、死なせてはならない。

145名無しさん:2017/08/20(日) 21:45:41 ID:sRmmAC9s0



「お前、名は」

「ぼくは――」

腕を、伸ばす。そいつの目の前へ。
そいつは目を伏せ、困惑しつつも――
やがて意を決したように、俺の手を取った。

血にまみれた俺の手を、にぎった。



その日より、俺の周りに人間が一人増えた。
ハーモニカ吹きの、友人が。


.

146名無しさん:2017/08/20(日) 21:46:17 ID:sRmmAC9s0
           二章 笑うひつじ


              1

平穏を持て余していた。
ここ、『ひつじの教会』は、その名が示す通り
ひつじのようにふわふわと平和な場所だった。

やんちゃが盛りのこどもたちは四六時中飛び回っていたけれど、
それを強く咎める者はいない。何をしても、何をしなくても許される。
ここはそんな場所だった。

ぼくは概ね、ここの住人に受け入れられた。
特に年齢の低いこどもたちはぼくの口癖が大層お気に召したらしく、
いつの間にかぼくは彼らの面倒を見るという役どころに立たされていた。
そのこと自体は苦痛ではなかったし、全力で挑んでくる
彼らの相手をするのは長い自由を紛らわせるのに適していた。

自由。そう、ぼくは自由に晒されていた。
小旦那様は相変わらず何かを探っている様子だったけれど、
詳細を話してくることはなかった。ぼくはただ、待てとだけ命じられていた。
だからぼくは、その命令を忠実に守っていた。

147名無しさん:2017/08/20(日) 21:47:22 ID:sRmmAC9s0
『還泡式』とやらは、周期的に開かれた。
祝われるのは毎回違うこどもだったけれど、内容に大きな違いはなく、
みんな好き勝手に踊ったり、競争したり、笑ったりしていた。
あの儀式的な乾杯も、ひつじがその日の主役を連れて行くのも、
鐘の音が教会中に鳴り響くのも、すべて変わりなかった。すべて。

こどもの楽園。

ジョルジュが言っていた言葉の意味が、いまならわかる気がした。
ここはこどもが、こどものままでいられる場所。
こどもでいることを許されている場所なのではないかと、ぼくには感じられた。
変わらぬ愛を注ぎ続ける、絶対的な庇護者の下で。

光の人。

ここはやさしい場所だった。
ここは奇跡で満ちていた。
ここには愛が溢れていた。



それがぼくには、耐えられなかった。

148名無しさん:2017/08/20(日) 21:47:47 ID:sRmmAC9s0
やさしさも、奇跡も、愛も、ぼくには必要なかった。
それらを受け取る権利など、ぼくにはなかった。

ぼくに必要なのは、もっと鋭利なもの。
ぼくが受けるべきなのは、もっと冷たいもの。
ぼくに、ぼくに与えられるべきなのは――。


.

149名無しさん:2017/08/20(日) 21:48:15 ID:sRmmAC9s0



「それ、ちょうだい」

箒を棄てたジョルジュが、当然顔で手を伸ばしてきた。

その日ぼくは、裏庭で掃除をしていた。
別に何か当番が決まっているというわけではない。
おそらくはぼくらが手を加えなくともここは綺麗なままなのだろうし、
実際ほとんどの子は掃除などしたことがないといっていた。

だからこれは、ぼくの我侭からでた行いだ。
落ち着かなかったのだ。ただ住まわせてもらっているという、その事実が。

そんなわけでぼくは、存在しない塵を
かき集めようと裏庭に伸びた石畳を箒で掃いていた。ジョルジュと一緒に。

ジョルジュはふだん、掃除などしない。
箒など、扱ったこともないのかもしれない。
その証拠に彼の箒さばきは、床を掃くというより地面を
くしゃくしゃにかき回しているといった風情だ。
ジョルジュには初めから、掃除などするつもりはなかったのだ。

用事は他にある。
それは何か。
決まっている。

そして、ジョルジュが箒を棄てた。

150名無しさん:2017/08/20(日) 21:48:42 ID:sRmmAC9s0
ジョルジュがぼくのハーモニカを欲しがっていることは、
だいぶ前から察しがついていた。いや、あの日。
モララーの還泡式が行われたあの時にはすでに、気がついてはいたのだ。

しかしぼくは、それに気のつかないふりをしていた。
ジョルジュのアプローチは迂遠でどうとでも判別のつくやり方であったし
――それにぼくは、期待していたのかもしれない。

「ちょうだい」

ジョルジュの腕が、さらにぐいっと伸ばされた。
ぼくは動かなかった。焦りか、あるいは苛立ちを募らせるジョルジュの顔を、
ただ何もせず、ぼうっと見つめた。

「ちょうだい」

ジョルジュが一歩迫ってきた。ぼくは動かない。
逃げることも、ハーモニカを明け渡すこともしない。
黙ってジョルジュを見つめる。たぶん、きっと、ものすごい無表情で。

ジョルジュの顔が、著しく歪んだ。

「ちょうだい!」

151名無しさん:2017/08/20(日) 21:49:03 ID:sRmmAC9s0
ジョルジュが飛びかかってきた。
ぼくの胸元、首からかけられたハーモニカに向かっての直進。
まともに受けたぼくの肺から、酸素が一気に吐き出された。けほけほと咳き込む。
ジョルジュはそんなぼくの様子など一顧だにせず、
宙空で揺れるハーモニカを強引に奪い去ろうとしていた。

ジョルジュが引っ張るごとに、ハーモニカから首へと掛かった紐も引っ張られ、
ぼくはバランスを崩してよろめいた。反射的な行動だった。
その時ぼくは息苦しさに喘いで周りをよく見れていなかったし、
それが何か確かめるより先に身体が倒れないよう
支えとなりそうな手近なものへと手を伸ばしていた。

あっと思う間もなく、ぼくに押されたジョルジュが、石畳の上に転がった。
代わりに転倒を免れたぼくは、駆け寄ることもなく、
無様にもどうしていいかわからずに硬直したままになっていた。

ジョルジュがむくりと、起き上がった。
何が起こったのかわからない。そんな様子で、呆けた顔をしながら、
地面に擦れたのであろう顔面をさすっている。

その手と、鼻から垂れ落ちてきた液体とが、ぶつかった。
ジョルジュは自分の手に触れたものが
何であるのか確かめるため、それを眼前へと導いた。

真っ赤な血が、ジョルジュの瞳に映された。


絶叫が、木霊した。

152名無しさん:2017/08/20(日) 21:49:25 ID:sRmmAC9s0
何かがぼくのほほをかすめた。肩を、腕を、足をかすめて飛んでいった。
それはかすめるだけでなく、実際にぼくの身体にもぶつかってきた。
部位の別なく飛来する物体が、容赦なくぼくを打ち据えた。

それは、ジョルジュの仕業だった。
声を大に泣き叫ぶジョルジュが、
手近に転がったものを手当たり次第に投げつけてきた。

固いものがぼくの額に直撃した。
それは先程までジョルジュの使っていた箒の柄だった。
鋭い痛みにぼくは身体を折り曲げ、反射的に傷を手で覆った。
じわりと手の中で、熱いものが広がる。不快な感触だった。
実に気持ちが悪く、吐き気を催させた。

153名無しさん:2017/08/20(日) 21:49:51 ID:sRmmAC9s0



しぃもきっと、そうだった。


.

154名無しさん:2017/08/20(日) 21:50:44 ID:sRmmAC9s0
ジョルジュは泣きわめいていた。
近くに放れるものがなくなり、ただ座り込んで泣き叫んでいた。
だからぼくは、ジョルジュに近づいた。ジョルジュは泣くことに夢中で、
ぼくが近づいていることに気づいていないようだった。
ぼくはそんなジョルジュの首に、それを掛けた。

ぼくのハーモニカを、ジョルジュの首に掛けた。

ジョルジュがようやく、自分の首へと何かが掛かったことに気がついた。
それに手を伸ばし、てのひらの中で弄び、そして、
ぼくを見ながら、しゃくりあげながらこういった。

絶対に許さないから。

ジョルジュが教会へと去っていった後、
ぼくはいまだに痛む額を抑えながら、ジョルジュが放ったものと、
自分で出した箒の二本を拾い、それらを片付けようとしていた。
これで良かったのだと、そう自分を納得させながら。

それでも。
ハーモニカの掛けられていない首は、いやに軽かった。
まるで、そう、まるで――自分が、自分でないかのように。


「なぜ笑っているの」

.

155名無しさん:2017/08/20(日) 21:51:04 ID:sRmmAC9s0
とっさに、振り向いた。
誰も居ないはずの裏庭。人気の失せたその場所に、彼女はいた。

アイスブルーの瞳。
気配なく、蜃気楼のように漂う陶器の少女
――車椅子の魔女、その人が、そこにはいた。


.

156名無しさん:2017/08/20(日) 21:51:30 ID:sRmmAC9s0
              2

「もう一度聞くわ。なぜ笑っているの」

ぼくは口元を手で覆った。
そんなことをして、いまさら彼女に隠せるとは思っていない。
そんなことは考えちゃいない。ぼくの行為は、彼女に向けたものではなかった。
ぼく自身が、気づいていなかったのだ。自分が笑っていた、ということに。


笑っただって?
つまりそれは、喜んだってことか?
……それじゃ、何の意味も、ないじゃないか。


てのひらからむせ返りそうな、鉄っぽくも生々しい臭気が立ち込めてくる。
彼女はぼくから視線を外さない。ぼくは彼女を一瞥すると、
その視線から遠ざかるため、その場を去ろうとした。

157名無しさん:2017/08/20(日) 21:52:11 ID:sRmmAC9s0
「逃げることは許さない」

彼女の操る車輪がぼくの進路を塞ぎ、ついでその場で器用に旋回した。
車椅子ごと向きを変えた彼女とぼくは、再び正対する。

彼女の顔からは、何を考えているのか、何を思っているのか、
まったく読み取ることができなかった。無表情というよりも、
あまりに屹然としすぎていて理解を越えているといった風情だ。
ぼくとさほど変わらない背格好であるというのに、
彼女からはこどもらしい稚気を一切感じ取れなかった。まるで――大人のようだった。

彼女が再び、同じ言葉を発した。
ぼくは答えなかった。答えることができなかった。

彼女のことはずっと、気にしていた。
周りのこどもたちの言うとおり彼女は時折人前に姿を現しては、
何事かをノートに記述していた。輪の中に一切交じることなくこちらを
“観察”している姿は確かに不気味で、
魔女と呼ばれても仕方のないものがあるとぼくですら思った。

それでもぼくは、彼女と接触したかった。
『あなたの罪を忘れてはならない』。この言葉が、頭から離れないでいた。
罪。ぼくの罪。彼女は明らかに、ぼくを咎めていた。

158名無しさん:2017/08/20(日) 21:52:33 ID:sRmmAC9s0
彼女はぼくが何をしたのか知っているのかもしれない。
ぼくがどんなに下劣でおぞましい存在であるか、知っているのかもしれない。
もし、そうであるなら。本当に、そうであるならば。
彼女こそが、真に、ぼくの求めていた――。

けれどぼくは、彼女に近づかなかった。
機会がなかったわけではない。彼女に近づく機会はいくらでもあった。
彼女はいつも一人であったし、声をかけようと思えば
いくらでもそうできたはずだった。それでもぼくは、近づくことをしなかった。
小旦那様に、禁止されていたから。

初めてここの鐘を聞いたあの後、再会した小旦那様はぼくに厳命した。
車椅子の魔女に関わるな、と。理由はわからない。
しかし、理由などどうでもいいのだ。命令されたのならば、それを守る。
自分の考えも、感情も、必要ない。なぜならぼくは、ひつじなのだから。
故にぼくは彼女、車椅子の魔女を避け続けてきた。今日、いま、この時までは。

159名無しさん:2017/08/20(日) 21:53:06 ID:sRmmAC9s0
「罪を裁いて欲しい。つまりは、そういうことなのでしょう?」

彼女の言葉は、ぼくを凍りつかせるのに十分な威力を持っていた。
身体が動かなくなる。視野が狭まり、視界の中に彼女しか映らなくなる。
破裂しそうな心臓が耳内を圧迫して、外からの音が弾かれる。

「跪きなさい」

その中で、彼女の声だけは明瞭に身内へと響き渡った。

「早く」

逆らい難い力を持ったその言葉に、ぼくはついに従ってしまう。
彼女の前に、跪く。依然狭まったままの視野の中心に、彼女を据えて。
彼女の手が伸びた。視界から消えた手、そしてその指先が、ぼくの額に触れた。
額の上を、指先が這った。同時、鋭い痛みが神経を伝った。未だ熱を発する額の傷に、
魔女の細長い指が触れていた。切れた額の外周を、彼女の指がなぞる。

160名無しさん:2017/08/20(日) 21:53:31 ID:sRmmAC9s0


「モララーは革命政権下において発足された少年治安維持隊の隊長を務め、
 実の両親を含む反乱分子及び不安分子の徹底的な虐殺に加担した」


彼女の陶器のような手が、ぼくの額から後頭部へと回った。

.

161名無しさん:2017/08/20(日) 21:53:53 ID:sRmmAC9s0



「ショボンは不義を働いた父と無関係であることを証明するため、
 母に言われるがまま助けを懇願する父のその肉を貪り食ったわ」


その手がまた、額へともどってくる。

.

162名無しさん:2017/08/20(日) 21:54:19 ID:sRmmAC9s0



「結合双生児として母のほとを破り生まれてきたアニジャとオトジャは、
 癒着していた三人目へと栄養を流さないことによって自分たちだけ生き永らえた」


ぐるぐると、ぐるぐると、彼女の手が後頭部と額への行ったり来たりを繰り返す。

.

163名無しさん:2017/08/20(日) 21:54:43 ID:sRmmAC9s0


「ここにはね、あなたの想像など及びもつかない地獄を生きた子だっているの。
 あなただけが罪を背負って生きているだなんて考え、おこがましいにも程があるわ」


.

164名無しさん:2017/08/20(日) 21:55:28 ID:sRmmAC9s0
話し終えるのと同時、魔女がぼくの頭から手を離した。
ついさっきまで彼女の手が置かれていた場所に触れる。
そこには仄かに残った人が発する熱と、ざらついた感触の、布製の何かが巻かれていた。
何重にも巻かれたそれは、じくじくと痛む額の傷をすっぽりと覆っていた。

道を塞いだ時と同様に、彼女の車輪が器用に旋回する。
そして彼女はそのまま背を向け、その肢体に比して大きめな車椅子を動かし始めた。
まるでいまここで行われたやりとりなど、初めからなかったかのような様子で。
車輪が回る。彼女の背が、ゆっくりと遠ざかる。

「……ここは」

ぼくはつぶやいた。独り言のように、まったく独り言ではない言葉を。
彼女を引き止めたいという、卑劣な下心を込めながら。その目的は果たされた。
彼女はその背を晒したまま、車輪を止めた。

しかしぼくは、その背に視線を預けつつ、言葉を続けることができずにいた。

165名無しさん:2017/08/20(日) 21:55:51 ID:sRmmAC9s0
いまならまだ、引き返せる。
ぼくは魔女の問いに応答していない。

跪けという言葉には従ったものの、それは逃げることができずに
やむを得ず行った緊急手段にすぎない。この額の――手当だって、
彼女が勝手にしたことだ。いまならまだ、そう言い張ることができる。
小旦那様の命令に背いていないと、自分で認めることができる。

お前は、なんだ。

ぼくは、小旦那様のひつじだ。

己が思考も、感情も、必要のない生き物だ。
なにをされようと、何が待ち受けていようと。
黙って、従っていればいいのだ。
ただ、黙って――



――その、はずなのに。
なぜ、どうしてぼくは、ぼくの足は、ここから離れようとしないんだ。
ぼくの目は、彼女の背を見つめているんだ。ぼくの心は、彼女の話に囚われているんだ。

車輪の軋む音が、耳の奥をつついた。
ぼくは叫んでいた。待って、と。明確に、彼女に向かって。
そしてぼくは、禁を破った。

166名無しさん:2017/08/20(日) 21:56:22 ID:sRmmAC9s0




この教会は、罪を忘れてしまう場所なの?


.

167名無しさん:2017/08/20(日) 21:56:46 ID:sRmmAC9s0
初めてここへ来た時に彼女から投げかけられた呪いの言葉。
奇妙に明るく悩みのないこどもたち。そして、そしてなにより
――あの歌うひつじを見ても、動揺しなくなりつつある自分。

違和感はずいぶん前から抱いていた。初めて還泡式に出席したあの日、
突如として出現したひつじを前にしたぼくは、
自分が再び正気を失ってしまうのではないかと危惧した。

けれど結局心配していたような事態にはならず、
冷静とはいえないまでも気を狂わせるような失態を演じる羽目には陥らないで済んだ。

慣れたのかもしれない。ぼくはその時、そう思おうとした。
初めて遭った時の衝撃が強すぎたために、却って耐性ができたのかもしれないと。
それにあの時ひつじは、歌わなかったから。だから平気だったのかもしれない、と。

けれど二回、三回と還泡式を迎え、その度ひつじと再会したぼくは、
ひつじを見ても妙に平然としている自分に疑いを強めていった。
慣れの一言では説明のつかない心の平衡。なんで。どうして。
問いかけても得られない答え。

ぼくは、何かに焦っていたのだろう。
ジョルジュがぼくに怒りをぶつけた時に笑ったのも、きっとそのせいだ。
自分が罰せられるべき存在であると確認できた安心感が、口元を緩めさせた。
すべては正体不明の違和感に振り回されて。

けれど魔女の語りし物語群が、それらの疑問に答えを示した。

168名無しさん:2017/08/20(日) 21:57:18 ID:sRmmAC9s0
彼女の話には奇妙な点が少なくともふたつ、存在していた。
一つ目は、アニジャとオトジャについて。彼女は二人を結合双生児だと言っていた。
ふたつの命、ふたつの魂が、ひとつの肉体に
分かちがたく結合して生まれてきた存在であると。

しかしぼくの知っているアニジャとオトジャは、
よく似た――というより見分けがつかないほどに同一ではあるものの、
その身体は別々の意志で動くふたつの肉体だ。
個性的で、日常的にジョルジュを叩く、ふたつの別個な生命だ。

彼女がうそをついているのだろうか。
あるいはうそとは言わないまでも、何かを勘違いしているのか。
その可能性は、十二分にある。ぼくは車椅子の魔女という人物のことをほとんど知らない。
だから彼女が悪意を持って騙ったとしても、ぼくにはその真偽を判別することはできない。

それでもぼくは、彼女を信じた。

『あなただけが罪を背負って生きているなんて考え、おこがましいにも程がある』と、
真剣に語っていた彼女のことを。


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