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素朴な疑問

1管理者:2002/02/20(水) 13:44

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/28(月) 18:47

スレッド立ち上げの要請がありましたので、立ち上げます。皆様、気軽に御発言ください。要請文は以下の通りです。

>私の場合、皆様のように難しい事はわかりませんが、いわゆる「素朴な疑問」は
>あります。そのような質問でもよろしいでしょうか?
>もしくは、そのようなスレがあればいいのですが・・・

735アネモネ:2003/09/19(金) 11:44
ガンコさん

こんにちは。私もこのような専門的な宗史の話になると、とてもついていけないのですが…ただ…少し論点が外れるかもしれませんが…

>興上人・日目上人の御健在の時に、そんなことが起こりましょうか? たとえ盗難事件が事実であっても、大石寺が犯人だなんて・・・そんなバカな話がありましょうか?

そう信じることが信仰の形なのかもしれませんが、しかし見方を変えれば、それが固定観念である場合もあるかと思います。
私は、無きにしも非ずではないかと思います。

>・・・まさか、日目上人さまほどの御方がそんな盗人猛々しいことをあそばすでしょうか? そんなバカな・・・って思います。

日目上人さまがそのような直接の命を下さなくとも、門弟の人などがその信念の為、日目上人さまの為、大石寺の為と、独断で実行する場合もありますしね。
そういうことは、現代の石山系にも見受けられることではないでしょうか。
例えば、職権によって知り得た国家機密を教団組織に漏洩させる学会信徒の行動は、昔から多く聞かれて問題視されていることですね。最近で記憶に新しいのは、NTTドコモの個人情報を漏洩させた事件がありました。教団で培われた信念体系の中にあっては、それが正しい行いと思って行動しているわけです。世間一般の良識的行動を基準に考えられることではありません。
また先日、独歩さんが紹介された顕正会の暴行事件にしてもそういう範疇のことといえるでしょう。恫喝し暴行してでも折伏をすることが正しいと信じているわけですね。ほんの一例ながら、潜在的にそのような行為は多いのかもしれません。
また、そのようなところまでエスカレートしなくても、小さな例は山ほどあります。Pundarikaにも少し書いたことですが、
http://jbbs.shitaraba.com/study/3050/pundarika.html

折伏をするために、相手の人を騙してお寺や組織に連れ出すということは日常茶飯事に行われていることであり、そういうことと盗難事件、国家機密漏洩は、同じ信念体系の延長的行動だと私は考えます。五十歩百歩といえるでしょう。
もうひとつ例をあげれば、30万登山成功のために、一人が何度も登山参詣することで数字を達成したわけですが、そのことにしても、私は仏法に対する背信行為ではないかと思い、盗難事件と同じだと思っています。
しかし、組織や権威を信じてやまない信念体系に陥っている人にとって、どのような手段をとろうとも目的達成こそが果たさなければならない正しい行いとなっているわけです。
ですから、そんなバカなと思うことが無いとは限らない。むしろ、この教団の今日の思考と行動パターンから類推すれば、問答さんの推測は十分考えられることだと思われますが。

>日興上人は重須に御移りしてからが長いわけですが、それでもなお、条々事・御遺蹟事を見るならば、まさしく大石寺御開山上人としての威厳を如実に示しているもの、と読めるのではないかと思います。

日興上人が御移りする内情は、いろいろあったんじゃないでしょうかね。
学会や顕正会が宗門から分裂していった本当の内情も、表向きにアナウンスされていることばかりではないようですから、同じようなことが700年前にもあったんじゃないかと、私なんかは想像します。
それこそ、そういう宿業・因縁を繰り返してきている教団なんじゃないかとさえ感じるくらいですよ。まあ、こういう捉え方こそ、まさに教団で刷り込まれた思考ですが。

736空き缶:2003/09/19(金) 12:14
ガンコ さま
「日目上人」「日興上人全集」は持っていて損はないと思います。
ただし「日興上人全集」はチョッと高いです。どちらもまず古本屋から探されることをお勧めいたします。
「日目上人」は継命新聞社刊行で正信会の寺院で受け付けてくれると思いますが、在庫があるかわからないので直接新聞社に問い合わせたほうが早いかもしれません。
「日興上人全集」は「御書システム」のホームページからメールで問い合わせてみてはいかがでしょうか。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/index.html

定価7000円+送料で7500円だったと思います。
御書システムは実費分だけで購入できます。「注法華経」以外のものは真撰・偽撰・真偽未決全てが収録されており、それぞれの真偽についても数字で示されており、わかりやすいです。
確か1000円だったと思いますよ。ただしデータベースソフトが体験版なので3ヶ月しか使えませんが。データベースソフトは製品を購入すると3万円近くしたと思います。

「興風談所」「継命新聞社」の営業担当みたいになってしまいましたが、資料としての価値は認めざる得ないでしょう。

737犀角独歩:2003/09/19(金) 13:04

ガンコさん:

興目両師の話題ですか。
わたしは基本的に問答さんの推測は外れていないと思っています。
また反面、盗難事件については代師の流れの捏造ばかりでもなさそうだと思います。
その理由は「本尊紛失の使節」は重須文献『日順阿闍梨血脈』にも現れるからです。
重須の本堂と檀所はそれなりの確執があったことは窺えるわけです。その相反するなかで両方から同一事件の記述が見られるとすれば、代師側の一方的な捏造だけとは言えないというのがその根拠です。
本堂は河合方、それに対して、檀所の初代は中山方の出で向師を経た澄師。前者が縁戚上の継承者であるのに対して、後者は学風上の継承者と見えます。
石山から讃岐へ至る仙師との問答は何で起きたのか、わたしは常々不思議に思ってきました。読不の論争。そういえばそれまでのことですが、事はそんなに簡単なのでしょうか。

興目の話に戻りますが、時系列で見る限り、興師は南条方(のちの大石の寺)には1日しか逗留しなかったようで、石山の実質的な初代住職は目師でしょう。また、そこはいまで言う総本山なんて言う大袈裟なものではなくて、縁戚者・目師を歓迎して堂宇を結んだ程度のもの。そこを早々に去って興師は河合方重須に拠点を構えるわけです。

重須における興師の事跡を偲ぶと、そこでは常師の義子、あの天才・澄師との活発なやりとりが彷彿としたり、それを次ぐ順師との有り体も鮮やかに想像されますが、そこには目師の存在は、それほど、浮かんでは見えません。

もし、石山が言うように目師が興師の継承者であれば、重須において、第二席を暖めて、教鞭を振るうのは目師であったはずです。ところがそこに目師の影は見えないわけです。時折、使いに供養を持参されることはあったように見えますが、重須に教鞭を振るう興師の謦咳の係る位置に見えるのは、やはり、澄師でした。

しかし、その澄師は夭逝し、あとを次ぐ順師は眼病を患うことになります。
当時の寺院継承はまったくの地頭の縁戚相続でした。ですから、南条方では目師からその甥の道師。ここで他家の郷師は暇が生じることになります。
重須本堂では河合方で興師からまたその母方の甥・代師に。これでうまくいくはずでしたが、石山で仙師と議論をして、自ら北山を退して、西山へ。このとき、一方で強く教勢を誇るに至る檀所との暇が生じていたのではないのかとわたしは想像するわけです。
興師が寂すると、その9カ月後に目師も寂します。
ここで南条方は動いたように見えます。ここでは目師ではなく、次世代の動きとなっているように見え、この動きは目師の遺志とも違うように感じます。一種の覇権争いと見えます。その時に道師に代表される石山は重須を呑み込もうとしたのではないのか?と想像します。重須本堂は代師退出後、妙師を迎え、石山と親密度を増すことになるようですが、ここで檀所派はどのような消長を示したのか、わたしは杳として掴めません。

この時点で、それまで“疎遠”であった石北の一体感が生じ、条々事に見られる如き脈絡で語られる“極めて短い”蜜月一経過があったのではないのでしょうか。
この蜜月では代師と、そして、郷師は追いやられることで平衡が保たれた。
そのようななかで、いわゆる盗難と言われた事件もあるいは起きていたのかも知れません。

いずれにしても、南条方の覇権争いには辟易とした感慨を懐かざるを得ないわけです。
まあ、資料手放しで、わたしが雑駁に憶測する上古史に過ぎませんが。

738ガンコ:2003/09/19(金) 14:53

空き缶さん、どうもありがとうございました。

739ガンコ:2003/09/19(金) 14:56

アネモネさん、どうもです。

>日目上人さまがそのような直接の命を下さなくとも、門弟の人などがその信念の為、日目上人さまの為、大石寺の為と、独断で実行する場合もありますしね。
>そういうことは、現代の石山系にも見受けられることではないでしょうか。
>また先日、独歩さんが紹介された顕正会の暴行事件にしてもそういう範疇のことといえるでしょう。恫喝し暴行してでも折伏をすることが正しいと信じているわけですね。>ほんの一例ながら、潜在的にそのような行為は多いのかもしれません。

顕正会の問題は頭が痛いのですが、まあ、あまり言い訳がましいことは言えませんし・・・
おそらく顕正新聞を詳細に検討していけば、さまざまの問題を惹起せざるを得ない要素がふんだんに読み取れるのだろうと、考えています。学会に対して、あるいは御宗門に対して、過剰ともいえる攻撃的言動は否定できません。
そこから逆に考えて、はたして日目上人には、日興上人に対して斯様な言動があったのか? もちろん記録にあらわれていれば話は早いのでしょうが、こうしたある種の裏面史のようなものはなかなか表にあらわれては来ませんから、みなさん、いろいろと推論をお述べになっていらっしゃるわけでしょうけど・・・

わたくしの勝手な印象で申しますと、日興上人は御隠尊猊下の御立場でいらしたのだろうと思います。
幕末から明治には日霑上人が長くいらして磐石の観がありましたし、昭和のはじめは堀上人その他、いく人もの御隠尊猊下がいらしました。ここ四半世紀の大石寺には御隠尊がいらっしゃらない。これがある意味で問題を生み出しているのだろうと思えます。じつに今の御宗門は危うく見えます。余計なお世話かも知れませんが・・・
ようするに、日目上人にとっては、日興上人が控えていて下さることがどれほど心強いことであったか、計り知れないものがあります。けっして、日興上人に対して、穏やかならざる気持ちを懐かれるとは思えません。また、御二人が同じ年に御遷化あそばしていることからも、わたくしはその思いを強くするところです。
もちろん、単なる印象を述べているに過ぎませんが・・・

740ガンコ:2003/09/19(金) 15:11

独歩さん・・・

ご説明をうかがっていると、なんとなく日目上人というのは今で言う“窓際族”のような気がしてしまいます。そんなバカな・・・って思うんですけど。
もし冷遇されていたなら、それこそ「背き了んぬ」になっていそうなものです。

日頂師にしても富士に戻ってからあまり活躍したという話を聞きませんが、これも冷遇でしょうか?

741問答迷人:2003/09/19(金) 20:23

ガンコさん

>日目上人というのは今で言う“窓際族

窓際族であったかどうか、僕にはわかりませんが、結果的に大石寺の第四世となった日道師は、日目師の弟子では無く、日興師の新六だったことは、何を意味しているか、考える必要があると思いませんか? 僕は、重須本門寺根源を本山と見立てれば、大石寺、当時の「上野の法華堂」は末寺に過ぎなかったのではないかと考えています。そうすると、日目師は単なる末寺の住職、ということになりますね。

742アネモネ:2003/09/19(金) 23:12
ガンコさん

>顕正会の問題は頭が痛いのですが、まあ、あまり言い訳がましいことは言えませんし・・・おそらく顕正新聞を詳細に検討していけば、さまざまの問題を惹起せざるを得ない要素がふんだんに読み取れるのだろうと、考えています。学会に対して、あるいは御宗門に対して、過剰ともいえる攻撃的言動は否定できません。

これは、顕正会だけの問題ではないですね。
顕正会も法華講も、そして創価学会も、思考と行動パターンは同じでしょう。
ただ、法華講にはいわゆる権威の象徴である板曼荼羅があるという点において、なりふり構わぬ行動にまでは迫られないということにおいて、大きく目立った反社会的行動が表沙汰になることがないということがいえるかもしれません。しかし、考え方は基本的に同じです。もしもその権威そのものが虚構であるとしたならば…ということは絶対有り得ない、いやあってはならないことだという思いは、いずれの組織も同じものでしょう。つまり、そこから身動きがとれないところでの、宗史の考証や検証ですから、どうしても限界がありますね。信じ込まされている人にしか通用しない話に終わってしまうわけです。

>ようするに、日目上人にとっては、日興上人が控えていて下さることがどれほど心強いことであったか、計り知れないものがあります。けっして、日興上人に対して、穏やかならざる気持ちを懐かれるとは思えません。

わからなくもないところですが、でも、どうでしょうね。確かに、教団ではそのように教えられましたが、今となってはそんなご教示も私にとってはまるで信用できないところです。教団にとって、ただ都合よく美談に仕立てて語り継がれてきただけのことではないかと、私などは穿った見方をしてしまうところです。
そもそも、人の心の内面までは、誰にもわかりません。その内心とは別に、振舞わなければならない、それぞれの立場というものはあったといえるでしょう。
ただ、少なくともいえることは、本門寺を建てるということが日蓮聖人の御遺命だったとしても、お寺を建てるには、お寺なり土地なりの寄進が必要なわけです。また、お寺が建立されれば、それが継承されていかなければならないわけで、覇権争いの火種になるのは目に見えていることでしょう。そのようなお寺の権威と、その所有権という、いかにも生臭い人間の奥深い欲望的な側面には目を背けて、ただ宗教的建前の清廉な部分のみだけを見ようとするのでは、どこまでいっても本質や真実は見えないものと思われます。
もちろん、私のこの穿った見方が、全面的に本質であるとは、一概にはいえません。何れにしても証明されてこそのことです。
しかし、私が敢えてガンコさんに申し上げたいと思うことは、信仰上の強い思いだけでもって宗史を見ていたのでは、まあどんなに時間と労力を費やしたところで、結局は手前味噌に終始するだけだろうということです。
耳の痛いことと思われますが、しかし私のように、ひねくれた見方にも堪えうるだけの論考や論証が示されて、はじめて正当性が証明されるものでしょう。
信心のない者にはわからないとよく言いますが、史実的なことはむしろ、信心が邪魔をして本質が見えないことのほうが多いのではないでしょうか。

>また、御二人が同じ年に御遷化あそばしていることからも、わたくしはその思いを強くするところです。

因縁的に日目上人は、日興上人の後を追って亡くなられたとでも考えておられるのでしょうか。だとしたら、それはおかしくありませんか。だって、日目上人は、天奏の途中といういわば志半ばの死であり、本当ならば死にたくなかったはずです。生まれ変わってでも天奏を成し遂げるとまで言われる伝説さえ残っているくらいですから、相当に無念の死だったのではないでしょうか。そんな天奏よりも、日興上人と同じ年に亡くなることのほうが仏法上意味深いことということなのでしょうか。こじつけにしか思えません。
そんな御法門上、最も大事な勤めを目前にして、日興上人がお迎えにでも来られたということなのでしょうか。
同じ年に亡くなられたことを、情緒的に捉えることも、信仰のうちかもしれませんが、史実的考証に堪えうる観測とは言い難いですね。
むしろ、そのような思いが足枷となって、そこから一歩も前へ進めないでいるのではないかと感じるところです。

743顕正居士:2003/09/19(金) 23:57
本末関係

というのは今日にはもう存在しません。寺院はそれぞれが宗教法人で、ただし別の
宗教法人との間に「包括関係」を結ぶことができます。

わたしが理解する範囲では「本末関係」というのはわが国中世の土地法制にあった
概念で、軍事力が優れた者が軍事力が劣った者を「安堵」(安全保障)する意味で
「所有権」とはぜんぜん異なる「重複的支配権」とおもいます。(たてまえの律令
制度のもとでは全国の土地の一切が京都の政府の国有である、しかし実効支配する
軍事力、警察力、司法力ともにない)。上古の富士派寺院(というかその根源、
拠点)は領主によって安堵されており、本末関係の概念を適用するならばそれぞれ
の布教拠点が南條氏その他とこの関係を締結していたのであり、それらの拠点の間
に独自には安全保障の関係は無かったでしょう。関東には比叡山、興福寺のような
巨大な軍事力はありませんでしたから仏教領主間の「本末関係」は発達しなかった
と考えます。

744空き缶:2003/09/20(土) 01:11
私の個人的推測
身延山→日蓮聖人の御霊蹟
大石寺→朝廷が法華をたもった時の本門寺建立の場所
重須→日興門流の人材育成機関

日興上人は本門寺建立構想は正応3年10月13日を持って日目上人に引継ぎ、自身は後継者の育成に本格的に取組み始める。
しかし日興上人御存命中には本門寺は建たなかった、したがって日目上人は最後に命がけの天奏にむかわれた。

「日順阿闍梨血脈」は重須に正本が残っているそうですが、順師の著作そのものがどうなんでしょう。写真もみたことがないし、真偽問題も大大的には取り上げられていませんし。
これが本当に価値ある存在ならば、二箇相承は真撰ということでしょう。

745れん:2003/09/20(土) 03:58
横レス失礼します。目師へ授与の興師の書写本尊は三幅現存しており、正慶元年十一月三日のものには「最前上奏仁新田卿阿闍梨日目授与之、一中一弟子也」(日興上人御本尊集NO.282)とあります。脇書の「一中一弟子也」という言葉遣いは特例であり、日道師より日行師への本尊脇書には「上奏代日行日道弟子一之中一也」日代師より日任師への本尊脇書には「日代一弟子日任授与之」とあって、それぞれ付弟への本尊授与書(脇書)は興師の前例に倣っているので興師が目師を付弟とされたのは史実と言えると存じます。興師目師の不仲説は後世の想像でしょう。

746犀角独歩:2003/09/20(土) 06:11

空き缶さん:

> 大石寺→朝廷が法華をたもった時の本門寺建立の場所

これは蓮師、興師、どちらの考えと言うことですか。
この根拠は何でしょうか。
石山が建ってる場所は南条家の領地ですね。
なぜ、そんな場所に朝廷が本門寺を建立するわけですか。

> 日興上人は本門寺建立構想は正応3年10月13日を持って日目上人に引継ぎ…

記された既述は、所謂、譲座本尊の日付ですね。
なぜ、この日が本門寺構想を引き継いだ日といえるのでしょうか。
また、この日を以て引き継いだとすると、それ以前に本門寺構想があったことになりますが、確実な興師の文献で、これを示すものは何でしょうか。
さらに、これ以降は後継者育成に取り組み、目師にそれを譲ったということですが、例えば

嘉元元(1303)年11月1日(西山文書)
嘉元2(1304)年5月(西山文書)
嘉暦2(1327)年8月
元徳2(1330)年3月

などと、その後も申状が記されています。
このことから類すると、目師に譲ったと言えないとわたしには見えます。
譲ったとされる根拠は何でしょうか。

> 「日順阿闍梨血脈」

仰るとおりですね。

> これが本当に価値ある存在ならば、二箇相承は真撰ということでしょう。

この脈絡の意味は計りかねますが、二箇相承と日順阿闍梨血脈の両方が真書でかつ、目師相承もありとすれば、興師は複数相承主義者であることになるのだと思います。

747犀角独歩:2003/09/20(土) 06:31

れんさん;

先日は有り難うございました。

> 最前上奏仁新田卿阿闍梨日目授与之

これはかなり確実な資料であると思えます。
「最前」とは「もっともさきに」という意味で、つまり、いちばん最初に上奏したという意味になろうかと思います。そうなると弘安4年の興師代奏は嘘であることになりますね。

> 「一中一弟子也」という言葉遣いは特例…興師が目師を付弟とされたのは史実

「一中一弟子也」とは何を意味するのでしょうか。
なお、「日興第一弟子」との表現は興師は複数の弟子に使っています。
れんさんに提示するのでは釈迦に説法ですが、ロムの方の参考に資します。
『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』で記述順に挙げると

寂日房、新田卿日目、下野公日秀、少輔公日禅、摂津公日仙、了性房日乗、南部六郎入道、七郎次郎平時光、六郎兵衛入道、新兵衛入道道念、四郎光家、四郎信綱

で、「第一」と言いながら、何人も存します。

> 興師目師の不仲説

上述の流れは、興目不仲説という意味ではなくて、石北不仲説でした。

748犀角独歩:2003/09/20(土) 06:36

> 746の補足

嘉暦2(1327)年8月 日興に代り三位日順上洛天奏

という記述が富士年表に見られます。
これは日宗全 2-336 に記載があるととなっています。

749空き缶:2003/09/20(土) 11:24
「これは蓮師、興師、どちらの考えと言うことですか。
この根拠は何でしょうか。
石山が建ってる場所は南条家の領地ですね。
なぜ、そんな場所に朝廷が本門寺を建立するわけですか。」

「御下文」信者の私としましては朝廷の考え、もしくは「三時弘経次第」が日蓮聖人談・日興上人筆となっていますので、その辺の思想ではないでしょうかと思っています。
大石寺のある場所は日興上人有縁の地であり、日興上人が選んだ「本門寺予定地」だったと推察しています。そして予定地のまま終わってしまったにもかかわらず、後の世に「総本山」を名乗るようになってしまいました。

「記された既述は、所謂、譲座本尊の日付ですね。
なぜ、この日が本門寺構想を引き継いだ日といえるのでしょうか。
また、この日を以て引き継いだとすると、それ以前に本門寺構想があったことになりますが、確実な興師の文献で、これを示すものは何でしょうか。
さらに、これ以降は後継者育成に取り組み、目師にそれを譲ったということですが」

「譲座本尊」の日付、その通りです。この辺は私個人の「日興上人身延離山は本門寺建立のため」「御下文」「三時弘経次第」等にもとづくものであり、憶測の域を出ないものです。

嘉元元(1303)年11月1日(西山文書)
嘉元2(1304)年5月(西山文書)
嘉暦2(1327)年8月
元徳2(1330)年3月
これらは幕府への申状だったと記憶してますが、違ってましたらすみません。

750犀角独歩:2003/09/20(土) 12:08

空き缶さん:

> 「御下文」信者の私

あ、そのようなお立場ですか。なるほど。

> 「三時弘経次第」が日蓮聖人談・日興上人筆

これも理解できました。

> 大石寺のある場所は日興上人有縁の地であり、日興上人が選んだ「本門寺予定地」

わたしは、その場所を重須(北山)であると思ってきました。
突っ込みとかではなく、なぜ大石寺であるとお考えになるのですか。大行はたしかに興師の「第一弟子」と書き残されますが、それ以上に本門寺予定地とお考えになる理由は何かありますか。

> …幕府への申状

そのとおりであろうかと思います。
わたしは天奏と混同してしまいました。
失礼しました。

751犀角独歩:2003/09/20(土) 12:26

> …幕府への申状

ただ一つ、

「嘉暦2(1327)年8月 日興に代り三位日順上洛天奏」

がその例外として記載されています。
お恥ずかしい話なのですが、日宗全を所蔵しておりません。
もしお持ちでしたら、既述した同書2巻336頁をご確認いただき、その信憑性に対するご意見をいただければ幸甚です。

752空き缶:2003/09/20(土) 12:53
独歩さん
日宗全2巻336頁は「日順阿闍梨血脈」の3ページ目です。
ぱっと見た限りでは、そのような文は見当たりませんが。
漢文なので、よくわかりませんが今度目をさらにして良くみてみます。

私は興師は身延を離山されて、有縁の富士周辺を「視察」されて景観や土地の広さなどから適当な場所として、「もし立ててもらえる時はここがいいかな」ぐらいの感覚で現在の大石寺周辺を定めたと考えています。
重須本門寺説は一番可能性が高く、私の個人的見解は馬券でいえば「大穴」みたいなものです。
妙本寺でも日蓮・日興・日目の流れを指示してますからね。根本的にはここが出発点になっているのかな、と自分でも思います。

753犀角独歩:2003/09/20(土) 13:43

> 752

有り難うございます。
富士年表の記述の意味がわかりました。
言うところは、仰せのとおり『日順阿闍梨血脈』ですね。該当は、

「嘉暦第一の暮秋には険難を凌いで本尊紛失の使節を遂げ、同号二年八月に身命を捨てて禁裏最初の奏聞を致す」(富要2-22)

のことを指しているのでしょう。偶然にも、話題にしている盗難事件との絡みとなっています。

興師は漫荼羅本尊複数に脇書して「本門寺」と記されています。
これは一本門寺内の複数の堂宇に懸ける意味なのか、本門寺を複数建立することを前提にしてのことなのか、今ひとつ、判断が着きかねます。わたしは後者ではないのかと思っています。しかし、そうなると、そのなかで取り分けて、天皇帰依で建つ本門寺はどのように書き分けているのかが、読めません。

上古は複数相承で目師は郷師にもちろん何某かの相伝・相承を示していると思っています。郷師は好感を持つ人物の一人です。美濃の垂井で、尊師と共に目師を荼毘に付し、その遺骨半分を富山に持ち帰りました。不思議なことにその遺骨を納めたのは「大石寺」ではなく、下之坊。この遺骨はいったい何処にあるのでしょうか。

わたしは、石山で蓮師灰骨というものこそ、実は目師のものではないのかと仮説を述べたことがあります。道師『御伝土代』ではなぜか目師の既述は中途半端です。このようなことから、道師の石山は目師軽視、つまり、目道不仲で、むしろ、目師は尊郷を重視していたのではないのかと思えるわけです。

しかし、先にも記しましたが、当時の寺院相続は完全な地頭縁戚に基づくものですから、石山は道師へ、しかし、法義、その他の信頼は尊郷両師に強く、けれど、尊師は興師六人の弟子に漏れることから、郷師の信任のほうが篤かったろうと思えます。

ただし、悲しいかな歴全、日宗全が手許にありませんので、道師に係る文書は『御伝土代』以外、手許にありません。他の確実な文献から道師の目師への信伏随従が窺えるものがあれば、どなたでも、この記述に批正を加えていただければ幸甚です。

754空き缶:2003/09/21(日) 11:21
独歩さん
「ただし、悲しいかな歴全、日宗全が手許にありませんので、道師に係る文書は『御伝土代』以外、手許にありません。他の確実な文献から道師の目師への信伏随従が窺えるものがあれば、どなたでも、この記述に批正を加えていただければ幸甚です。」

日蓮宗宗学全書2巻に『御伝土代』以外の日道上人の遺文が7通でていますので、チョッと良くみてみます。
あと関連文献が「富士諸山文書」(興門資料刊行会)にでているかもしれませんので、こちらもみて見ます。
しかし、漢文がよく読めませんので、「○○の持ち腐れ」状態なんですよ。

先に大石寺と重須の大穴私観を述べましたが、興風談所の「興風」第11号(日興上人研究特集)の「重須本門寺と大石寺」の章を再読してみました。
そこで
大石寺・・・本門寺建設予定地(朝廷が決めた場所ではなく、日興上人が見積もった場所)
重須 ・・・本門寺モデルルーム
のような気がしてきました。
日興上人は現在の大石寺の建っている付近は「下見」程度で通り過ぎていると思います。
身延はやはり墓所としてしかみていないと思いますね。

755犀角独歩:2003/09/21(日) 16:37

空き缶さん:

大穴説はおもしろいですね。
当たったら、頭を下げなければいけません(笑)

> 現在の大石寺の建っている付近

読み流すところですが、なかなか意味深な言い回しですね。
そう、いまの場所に当初の「大石の寺」があったとは限りませんよね、たしかに。

延山に対する見解はそのとおりだと思います。
ただ、元来は釈迦立像、註法華経も置かれていたはずですから、それより、少し意味するところは広かったかも知れませんね。

756れん:2003/09/21(日) 17:52
横レス失礼します。確実と言えるかどうかはともかく、目師と道師との師弟関係が窺えるものは、目師へ授与された興師本尊にあります。「元亨四年十二月二十九日、最前上奏之仁卿阿闍梨日目。(道師添書)日道相傳之日郷宰相阿闍梨授与之」「正慶元年十一月三日、最前上奏仁新田卿阿闍梨日目授与之一中一弟子也。(道師添書)日道相傳之」何れも日興上人御本尊集に御筆写真掲載。前者は保田妙本寺蔵、後者は大石寺蔵です。右ご参考までm(__)m

757愚鈍凡夫:2003/09/21(日) 19:09

富士年表より
333元弘 3 癸酉 後醍醐 北条守時 正慶 2 光厳 滅後 52年 日道
10月 日目法を日道に付す(聖691)10月 日行下之坊に住す(聖739)11.15 3祖日目太夫阿日尊・宰相阿日郷を伴い天奏上洛の途美濃垂井に入滅、荼毘に付す74(聖661・大過去帳)○日尊・日郷3祖日目の遺骨を奉して上洛天奏(聖662)○日郷遺骨を奉じて大石寺に帰り下之坊に納む(聖662・下之坊寺誌・別統)

富士年表では、1333(元弘3/正慶2)年10月、日目師は日道師に血脈付法し、心おきなく上洛の旅に出たが、志果たせず旅路の途中で入滅された。ということになっていますね。
なのに、日道師と日郷師の間に相続争いが生じたのは何故か。単なる土地問題ではなく、実際は宗門の主権争いではなかったかと思うのですが。
日目師は日道師・日郷師、どちらに法主の座を譲るとも決めていなかったのではないでしょうか。天奏から帰ってから考えれば良いと思っていたのではないでしょうか。
日道師は天奏に行く前に自分に相承があったと言い、日郷師は入滅前に自分に相承があったと言えば、どうなるでしょうか。
あとは、普段の教団内の力関係が物を言うということではないですか。

758空き缶:2003/09/21(日) 19:48
独歩さん
「富士諸山文書」の大石寺文書に大石寺関係の在家分の書状が掲載されています。
内容的には南条家の「譲状」のようなものが多いのですが、南条時光から時忠への直筆譲状に気になる一文があります。
南条左衛門二郎入道を指して「御下文の正文はこの入道のもとに有」と出てきます。
「南条左衛門二郎入道」ってどなたのことでしたっけ?ここに出てくる「御下文」って、例のものでしょうか。

759れん:2003/09/21(日) 19:57
所謂道郷論争ですが、当時の確かな文献には道師と郷師が争ったことを証するものは皆無に等しく、道郷二師の論争を記すのは両師の門下に互いに門流意識が確立した室町中期以降の文献からであることは注意すべき事柄だと存じます。このことから道郷両師の間に目師跡をめぐる論争はなかったと私は考えています。郷師の付弟の日賢師(後日傳に改名)の大石寺東坊地相続図を読むと道郷両門下による東坊地係争のおおもとが南条家の所領相続の分割性にあったことが判明します。上記の文献によるかぎり道郷論争は寧ろ行師と傳師の係争と理解すべきと存じます。

760空き缶:2003/09/21(日) 20:14
れんさん
その通りですね。私も文献を再読してみてそう思いました。
そして、「万年救護本尊」と「正御影」が遷座されたのは日時師と日伝師の代であり、日時師の代に大石寺の現在の御影ができていることから、
日禅授与の本尊の模写も日時師の代と推察できます。やはり阿部管長の鑑定目はなかなかのものと思います。
よって過去に道師模写の有師彫刻との私観を述べましたが、時師模写の有師彫刻でほぼ確信しました。

761れん:2003/09/21(日) 20:20
また、石北の関係ですが、日代師の退出後重須の坊主職に就いた日妙師の申状には日目申状案が副進ぜられており、手元にある日妙師書写本尊の相貌は目師の書写本尊と同じで目師の書写本尊を踏まえて本尊を書写されているので、当時の重須に石山の目師に対する悪感情はなかったと推察します。もし、目師ないし目師門下が、嘉暦年間の重須重宝の盗難に関与していたならば、そしてそれを重須側が知っていたとするならば当時の重須側が石山の目師のものをもちいたりはしないと思うのですが…。

762愚鈍凡夫:2003/09/21(日) 20:32

確か、南条五郎左衛門時綱(時光の五男)から東坊地一帯の寄進を受け、その後、日郷一門が蓮蔵坊を統括していたと思うのですが(最終的には大石寺の所領となります)、その発端が、日道師と日郷師の、所謂、堀日亨師が「宗義の諍」とだけ記した宗義論争にあるのではないかと思うのです(勿論、裏付ける証拠はないです)。
小生がこの問題に関心を持っているのは、生御影のことが気になっているからです。
日郷師が持ち去ったのか、日伝師が持ち去ったのか分かりませんが、重須の生御影が日法師作なのか、この持ち去られた生御影が日法師作なのか、この辺が気になるのです。
勿論、重須から盗まれものが石山に伝わったのかも知れませんが。

763れん:2003/09/21(日) 20:51
空き缶さん、石山の所謂板曼陀羅が偽作ならば空き缶さんの仰る通りかも知れません。ただ筆者不明ながら、万年救護本尊の別幅副書には救護本尊は本門寺建立の時“本御影堂”に懸ける本尊とされており、主師の石山境内図では本堂と御影堂は別棟ですので、保田の所伝によるかぎり救護本尊は御影堂の御影の後ろに懸ける本尊で本堂に懸ける本尊では無いと存じます。では本堂に懸ける本尊は?板曼陀羅が蓮祖直造であってもなくても、真偽にこだわらなければ板曼陀羅でいいと私は思います。私も累代法華の方と同じで戒壇本尊に流れる法を信じているからです。

764れん:2003/09/21(日) 21:12
愚鈍凡夫さん、日時師談の大石記に「日興上人重須に御座の事をば大行勿体無き由申され、大石寺の御坊何れにも御座有らんこそ然るべきに、石川か領に御越しは然るべきも無き由を強いて申されけるに、上人の仰せには、身は病気の者なれば今少し山近く居てたきぎ火にあたり候はん。但し身は石川が領にて候へど已に本門寺の朽木書の御堂をば大石に立て申し、随って身延沢に立て申したりし御仏をも入れ申す。毎月入堂すべし。心本無くば思し召すべからすと苦ろに仰せられしなり」という記述があります。文中の身延沢で立て申した仏は蓮祖御影と推察されます

765れん:2003/09/21(日) 21:29
事実、従開山伝日順法門には「身延山には日蓮聖人九年・其後日興上人六年御座有り、聖人御存生の間は御堂無し、御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計として造り玉ふ、御影を造らせ玉ふ事も日興上人の御建立なり」とあり大石記の記述を傍証しています。また尊師実録には弘安七年の時点での身延山の御影堂の存在が記されているので、蓮祖滅後弘安七年までに、安置の蓮祖御影が建立されたと推察します。それが興師身延離山後上代石山に安置された御影で、重須の生御影は石山安置の御影をもとに新たに造立されたものと推察しています。

766空き缶:2003/09/21(日) 21:41
れんさん
私は誰が造ろうと偽物とは思いません。これは私が板曼荼羅に関する所見を最初に述べるときに前置きさせていただきました。
どうか気を悪くされないで下さいね。私としては日主上人の説はチョッと説得材料にかけてしまうんです。
話は変わりますが、
れんさんは興風談所の諸資料に精通されているとみました。
池田令道師がどのような論理展開で、二箇相承を否定されたか「身延相承書と池上相承書について 」のスレッドにて教えてください。

767愚鈍凡夫:2003/09/21(日) 22:19

小生もれんさんのような仮説を立てて見たことがあります。しかし、この仮説はすぐに捨てました。その理由は、
顕正居士さんが引用されていた、
「第一に生御影、即ち重須に在すなり」(当家三衣抄)

それから
「翌日重須本門寺に詣るに其の道廿余町是は興師御隠居の霊地なり当上人日健に謁す宿坊本行坊取次即日、正御影を拝し奉り朗師の落涙の流跡残りて今に見ゆ、其の外御形貌殊勝千万の躰たらく正身の聖人に値ひ奉る心地して感涙心肝に銘ず、暫く看経誦経し稍終て大坊に帰り振舞畢つて暮に大石寺に帰る。」(祖師伝)

「大聖仰に日く背脊甚た痛し云云仍之を相止む、今に以て御影後欽目高し故に生御影と号し奉る、又正御影と申す今重須に之在り云云、」(有師物語聴聞抄佳跡)

これらの文証がネックとなったからです。
個人的に、「万年救護本尊」は日郷師が、石山の「生御影」は日伝師が持ち去ったのだと思いますが、このことは、石山では誰でも知っているはずです。にもかかわらず、これらの文証が存在するのは何故か。納得のいく仮説は立てられませんでした。
故に、重須の「生御影」が日法師作であるとの結論に落ち着いたのです。

768れん:2003/09/21(日) 22:55
空き缶さん
私は決して気を悪くしてはいないのでお気になさらずにm(__)m有師の聞書に「当門流の起請の次第、其の寺の住持より案文を給て其の起請の主の執筆と相対して御影堂の正面にて書て其のまま本堂の正面に備へ奉り」云々とありますので、其の寺の本寺である当時の石山にても本堂と御影堂が別棟であったと推察します。郷門の本乗寺日会師の大石寺久遠寺問答事にも「大石寺本尊堂」とあるのは、参考になると思います。二箇相承について令道師の見解は師の著「富士門流の信仰と化儀」にあります。それについては日を改めて指定の板にレスします。

769空き缶:2003/09/21(日) 23:11
れんさん
「大石寺本尊堂」とは「大石持仏堂」の事でしょうか?

もし別なものであれば、有師の代に造られたものではないでしょうか?
目師の代には本堂=御影を安置する場所、とみえますが。

770れん:2003/09/21(日) 23:17
愚鈍凡夫さん。凡夫さんの疑問ももっともだと私も思います。しかし、引用された寛師の三衣抄の文にせよ、祖師伝の陽師の文にせよ、佳跡の因師の注釈文にせよ、興師より三百年近く後の江戸期に記されたもので、私としてはそのまま鵜呑みには出来ないと思います。それらに比べて興師に近い順師・時師の記述の方が江戸期にしるされた伝説より、まだ信用できると思いますが…、まぁ、もしかしたら石山の御影(保田蔵の)も重須の生御影も日法師の彫刻かもしれません。また、案外重須のが蓮祖在世造立で石山のは蓮祖滅後の造立という推測もアリかもです。

771空き缶:2003/09/21(日) 23:19
こちらの掲示板にきて大正解だったと感じます。
皆様の書き込みが、私の愚脳を整理してくださいます。

私は今、大石寺→像の御影、重須→絵の御影と感じています。

772れん:2003/09/21(日) 23:44
空き缶さん。大石寺本尊堂とは大石持仏堂の事でしょうか?とのご質問ですが、証すべき文献がないので何とも言えません。私見では傳師の東坊地相続図を眺める限り、本尊堂は石山御堂、持仏堂は白蓮坊(大坊)の一角の持仏堂という感じがします。本堂と御影堂が別ならば有師の代に造られたのではないかとのご意見ですが、別棟に造ったとすれば有師では無く新たに蓮祖御影を建立した時師ではないかと思います。目師の代云々は証する文献が無いので私は何とも言えないのが実情です。明日は仕事なので今日はこの辺で失礼いたしますm(__)m

773空き缶:2003/09/22(月) 00:49
れんさん
『私見では傳師の東坊地相続図を眺める限り、本尊堂は石山御堂、持仏堂は白蓮坊(大坊)の一角の持仏堂という感じがします。』
東坊地相続図の写真は「千葉県の歴史」に出てますね。もしかして、れんさんもお持ちなんですか?
ここの「大石寺新御堂」は正御影を安置した場所ですね。
恐らく目師の代からあった御堂から日伝師が正御影を遷座したときに造った堂だと思います。
興風11号によれば、確かに大石持仏堂と白蓮持仏堂は同じものらしいです。(堀師の説ですが)なにやら日代師のいたところとでてますね。
そこに安置されていたのは日興上人の御本尊のようです。日興→日代授与の本尊で、現在は行方不明みたいですね。

774犀角独歩:2003/09/22(月) 11:31

758 空き缶さん:

> 「南条左衛門二郎入道」ってどなたのことでしたっけ?

時光の子・節丸ですね。
わたしが嫌いな(笑)『仏教哲学大辞典』からの転載ですが、
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/nanjokakeizu.jpg

> ここに出てくる「御下文」

これは違うと思います。
「時忠嫡子と為るによつて代々御下文并に手続の文所相添へ譲る」
「暦応元年十二月四日の下し文に云く、南条節丸申す田畠在家等の事」
という文書があります。

775空き缶:2003/09/22(月) 12:22
独歩さん
日蓮宗宗学全書2巻の道師の遺文には、特筆すべき事項はみつかりません。(私が漢文を読みきれていないだけかもしれませんが)

776愚鈍凡夫:2003/09/22(月) 12:32

日代師の話題で思い出したのですが、
祖師伝に、

「御遺言の置状御遷化記録と名く執筆日興なり、日照日朗日興日向の四人の裏判之れ有り、此の正文は日興御付法の日代の御相続にして今永祿二己未年西山本門寺に之れ有り」

とあり、『御遷化記録』が永禄2年(1559)には、西山本門寺に所蔵さていたことが記されています。ということは、永禄12年(1569)に武田信玄が大石寺・重須本門寺を焼討ちする前に、すでに西山本門寺に所蔵されていたことになります。
これを読んだ時、
「日代さん、ひょっとして『日代置文』って、『御遷化記録』を合法的に手に入れるためのヤラセ?」
なんて考えてしまいました(ア〜ッ、恐ろしい・・・・・かな?)。

777犀角独歩:2003/09/22(月) 12:53

れんさん:

いくつか質問させてください。

(1)郷師、石山退出の理由
わたしは唯授一人相承は上古にはなかったと類推します。
ですから、道郷の法統争いはあまり考えていません。
しかし、東坊地の争い、郷師とは無縁であれば、郷師の石山退出はどのような理由が考えられるのでしょうか。

(2)戒壇本尊
文献考証の雄としてわたしはれんさんのご投稿に着目しています。
さて、文献的な立場からするとき、記される「戒壇本尊」を板漫荼羅、あるいはそこに「流れる法」というのは何を意味するのでしょうか。
本門戒壇と言えば、蓮師法門に違いありませんが、戒壇本尊なるものは文献的にどう考えられるわけですか。

わたしは戒壇本尊とは勝手な造語である。そう思います。
理由は当掲示板で何度か書きました。
「本門戒壇願主弥四郎国重法華講衆等敬白 造立如件」
とは弥四郎国重が造立したという意味にしか読めません。
また、「本門戒壇」の四字は蓮師の字ではなく、さらに文脈からすれば弥四郎の筆と言うことになります。つまり、この本尊を本門戒壇と蓮師は言っていないということです。それはつまり、漫荼羅諸尊が蓮師の筆であるとしても、戒壇本尊とはまったく言えないことを意味します。本門戒壇の願い主弥四郎が彫刻した漫荼羅以上の意味はありません。
文献的に考えて、蓮師法門に「本門戒壇」の成句はあっても、「戒壇本尊」という成句はありません。

「戒壇本尊」の起源を れんさん はどこに求められるのでしょうか。

(3)身延沢で立て申した仏は蓮祖御影
これはいかなる根拠に拠るのでしょうか。
同じ解釈をわたしは石山教学文書で読んだことがあります。
しかし、身延に立てた仏とは蓮師随身の「釈迦一体像」のほか、考えられないのではないではないでしょうか。
御影を「仏像」に凝らすのは教師の文献に初めて見られるとわたしは認識していますが、これは間違っていますか。

(4)持仏堂
持仏堂とは、仏像を安置する堂宇を言いますね。
漫荼羅本尊を持仏堂に懸けるとしてもその前には仏像が置かれていたと考えるのはごく自然なことと思えます。

漫荼羅中、妙法蓮華経を本尊と見做すことは本尊問答抄に既に見られますが、漫荼羅を持仏堂の“仏”と見做すことが興目両師の文献から窺えるものでしょうか。

むしろ、持仏堂という堂宇が建立される段階では釈迦仏像、あるいは一尊四士という仏像が用いられていて、その後の推移で撤廃されたと考えるほうが自然なのではないでしょうか。興師が一尊四士を「我義」とされ、澄師がそれを盗んだとする事例が伝わりますが、これは興門初期に置いては一尊四士の仏像奉安様式があり、それが持仏堂に安置されていたと考えるほうが自然と見えます。実際、現在の日蓮宗寺院では本堂(持仏堂)には釈迦像、御影堂には御影像という伽藍形式は一般です。

ご投稿を拝見する限り、持仏堂には漫荼羅しか安置されていないようなお考えと見えますが、仏なしの持仏堂、あるいは漫荼羅を仏と見做す持仏堂という考えはいったい如何なる文献的な根拠に基づくのでしょうか。

ご教示をいただければ有り難く存じます。

778犀角独歩:2003/09/22(月) 12:55

> 775

空き缶さん、有り難うございました。
わたしも近く図書館に行って捲ってみます。

779空き缶:2003/09/22(月) 13:31
愚鈍凡夫さん

「御遺言の置状御遷化記録と名く執筆日興なり、日照日朗日興日向の四人の裏判之れ有り、此の正文は日興御付法の日代の御相続にして今永祿二己未年西山本門寺に之れ有り」

これは「祖師伝」のどのへんにでてますか。
御遷化記録の裏判は「日照日朗日興日向」の四師ではなく「日昭日朗日興日持」の四師です。
もし、祖師伝の表記自体が「日照日朗日興日向」となっているとすれば、祖師伝はチョッと正確さに欠ける史伝書かもしれません。

780空き缶:2003/09/22(月) 14:13
横レスです
日興上人の御消息文の中で御影を指して仏といわれているものですが

南条殿御返事(正本:妙蓮寺)「ほとけしやう人」(仏聖人)
七月七日の御返事(正本:大石寺)「仏」
ぼんの御返事(正本:大石寺)「ほとけしやう人」(仏聖人)

その他、「法主聖人」「法花聖人」(法華聖人)などと使われます。
日興上人ならば、日蓮聖人御影や曼荼羅本尊をもって「持仏堂」に安置する可能性は考えられなくも無いと思われます。

781犀角独歩:2003/09/22(月) 14:20

空き缶さん:

富士門では「ほとけしやう人」を、すぐに ほとけ=しやう(聖)人 と解してしまうわけです。しかし、そうでしょうか。

わたしは蓮師も対する思いもありますが、お釈迦様に対する恭敬もあります。そのような人間からすれば ほとけ(釈尊) と しやう人 と該当の文書を読みますよ。

なぜならば、蓮師は終生、釈迦一体像を随身された方であるからです。
そして、興師が我義とされるのは一尊四士です。蓮師を上行と見做す思想は興師にあったと思います。そうなれば、仏菩薩への敬慕は釈尊と上行に代表される四菩薩。つまり、仏聖人は仏菩薩を意味するのであり、釈尊・上行を指すものであると拝せるからです。

その意味から持仏堂安置本尊は仏(釈尊)菩薩(四菩薩)で一尊四士ではなかったのかとわたしは類推するわけです。

782犀角独歩:2003/09/22(月) 14:38

持仏堂からは離れますが、仏聖人と聞けば、わたしは釈迦牟尼仏と日蓮聖人と思います。
しかし、たぶん、これは日蓮門下の一般的な感覚ではないでしょうか。
仏=聖人などという考えは興門でも、教師の石山訪問以降の話でしょう。

783空き缶:2003/09/22(月) 14:45
独歩さん
私は先にあげましたように、他の呼び名である「法主聖人」「法華聖人」などからいって、「ほとけしやう人」=御影であると思いますよ。
またダイレクトに「聖人御影」(曽祢殿御返事 正本:保田妙本寺)といわれているものも有ります。
別な曽祢殿御返事(いずれも正本:保田妙本寺)には「佛」と表記されていたり、「日蓮聖人」と表記されたりしています。
前後の文脈からみても、御影をもっていわれていると思われますが。

784空き缶:2003/09/22(月) 15:58
続きです
しかし、現在の大石寺でいわれるような「久遠元初自受用身」のような思想は微塵もなかったと思います。
ましてや、「一尊四士」をもって「謗法」などとする考えも、日興上人には微塵もなかったと思います。
日蓮聖人=上行菩薩の認識であったであろうし、釈尊と日蓮聖人を比較するようなことも考えられません。
ただし、日蓮聖人のことを仏様のように敬っていたとは解釈しています。

785犀角独歩:2003/09/22(月) 17:55

空き缶さん:

日蓮本仏に一度でも泥んだ感覚からすれば、仰ることはぜんぜん不自然に感じないと思います。しかし、わたしは興師が、蓮師、あるいは御影を「ほとけ」と呼ぶなどと言うことは断じてあるはずがないと思います。

ですから、法華聖人といえば法華経と日蓮聖人、法主聖人といえば釈尊法主と日蓮聖人である可能性を最後まで否定しません。
空き缶さんが仰る考えはもちろん正信会などでも一般的に受け入れられていることは百も承知の上で記しています。

また、例えば『辨阿闍梨御返事』に

「御神馬一疋 用途三貫文令進給 御状法主聖人御神殿奉備候了 恐々謹言」

などとあると言います。ここでは馬を神馬・御影堂を御神殿と言いますが、馬の神様ということではないですし、神殿に御影があるからといって日蓮聖人を神様といっているわけでもないと拝せます。

「聖人」という語彙は元来の中華思想の語であって、孔子なども聖人と呼びます。そのような仏教外の聖人と分けて仏教の聖人という意味で「仏聖人」という成句を使った可能性もわたしは視野に入れています。

786犀角独歩:2003/09/22(月) 18:15

つづきです。

仏、法華、聖人という語彙に絡む考証ですが、要するにこれは三宝を言うわけではないでしょうか。釈尊=仏・法華=法・聖人=僧です。最後の聖人は菩薩である上行への恭敬を孕むか否か、わたしは慎重です。御宝前はたしかに「聖人の御影」の前も言うでしょうが、そこには自ずと三宝尊への恭敬も含めた表現となっていると考えることはできないでしょうか。

「日蓮聖人のことを仏様のように敬っていた」という素朴な感情はわからなくもありませんが、仏法の尊敬(そんぎょう)を廃した仏教に興師が陥っていたとわたしは考えられないのです。

787空き缶:2003/09/22(月) 18:31
独歩さん
人それぞれの解釈があっていいと思います。
参考までに
「民部公御房御返事」では「先師宝前」
「ぬくま殿御返事」「六郎入道殿御返事」等では「しやう人の御法前」などの、御影の表記の仕方もあります。

788愚鈍凡夫:2003/09/22(月) 18:36

>>779:
空き缶さんへ
「駿州富士山重須本門寺釈の日興伝」の真ん中当たりです(但し、nbのHPの富要集05-019からです)。

横レスさせてください。
以前、空き缶さんは、保田妙本寺では『蓮祖生御影』を御本尊と呼んでいると仰ったと思うのですが、「久遠元初自受用身」=「日蓮本仏論」を打ち立てていないとしたら、教義上どういう解釈になっているんですか。日寛説のように、「久遠実成自受用身」=「日蓮本仏論」なのでしょうか。

789空き缶:2003/09/22(月) 19:13
愚鈍凡夫さん
ほんとですね!
私の手持ちの富士宗学要集5巻には20ページに出てました。
確かに「日昭日朗日興日向」となってます。
原稿の段階でミスしたのか、「祖師伝」そのものが間違っているのかわかりませんが、驚きです。

790空き缶:2003/09/22(月) 19:20
愚鈍凡夫さん
保田の教義については、本尊以外はほぼ大石寺と一緒です。
だから御講とかには出席しないんです。
個人的には宗史・教義で納得がいく場所はないんです。
ただ、保田にある御影を正御影だと思っていましたから(今も思ってますが)たま−に行くだけです。
今年は一応、仕事の休みは取れたので、「お虫払い」に行く予定です。
ここの掲示版にきて、宿題を多々いただいたような気がしますので、気になるものは再度この目で確認してきます。

791犀角独歩:2003/09/22(月) 19:46

空き缶さん:

解釈はいろいろあると思います。また、それを信条としたい人がいれば、それはそれでしょう。ただし、元来意味するところと後世の解釈をごちゃまぜにしてはいけないと思うわけですよ。

『穆作抄』に

「造仏破立の事
 当家の意は脱益の釈尊をば造立し奉らず只日蓮聖人の御影を造立し奉る可き事・御本尊に契当せり」

とあります。このような御影像を本尊と見做す考えが興師にあったのか、…解釈ではなく、あくまで、興師の素意… それを探りたいと思っているばかりです。

792れん:2003/09/22(月) 21:45
独歩さん。私は東坊地相続図等の当時の文献からみて郷師の石山退出は無かったと思います。その辺の事は興風十三号に坂井師が「道郷論争と大石寺東坊地の係争」と題して論考されているのでご一読をお薦めします。戒壇本尊の起源ですが、順師の従開山伝日順法門に戒壇本尊妙法五字とあるので、私は狭義にはごく単純に上行所伝の妙法五字が戒壇本尊だと見ています。身延沢に立て申した仏の解釈ですが、蓮祖随身仏の釈迦立像は蓮祖御遷化記録に墓所傍可立置とありますので、御堂には安置しなかったと思います。なので、私は単純に興師が蓮祖滅後身延沢で御

793れん:2003/09/22(月) 22:10
影を建立した史実が興師門弟の記述から確認できるので、「身延沢に立て申した仏」を蓮祖御影と理解したまでのことです。持仏堂安置の本尊の件ですが、栃木信行寺蔵興師書写曼陀羅に「嘉元四年四月八日、白蓮持佛堂安置也」(日興上人御本尊集NO.65)とあり、また、西山蔵興師書写曼陀羅に「元亨二二年八月二十九日、大石持佛堂本尊日代闍梨」(日興上人御本尊集NO.207)とありますので、以上の史料から、これまた単純に持仏堂には曼陀羅本尊が安置されていたと理解していました。明日は朝早くから仕事ですので、今日はこれで失礼します。m(__)m

794空き缶:2003/09/22(月) 22:57
れんさん
「興風十三号」はすでに在庫切れです。坂井師の「道郷論争と大石寺東坊地の係争」について書き込みお願いします。

795空き缶:2003/09/22(月) 23:39
独歩さん
「興師の素意」については、興師の遺文の解釈の仕方によってしまうと思います。
私のような御影信仰者の解釈では、やはり御影を信仰の対象にしていたとしか思えません。
「ほとけしやう人」「法華聖人」「法主聖人」が独歩さんのいわれるとおりだったとしても、「聖人御影」や「しよう人の御宝前」などで表現された御消息は、まさしく御影にご供養の品々をお供えしている模様を伝えているとしか思えません。

796犀角独歩:2003/09/23(火) 08:46

れんさん:

有り難うございました。
もう少し、突っ込んだご回答を期待しましたが、お忙しいようですね。
蓮師在世に興師門下で御影が作られていた。そんな確実な資料があるのですか。
「…までのこと」という表現をお使いになっていましたが、考証家らしからぬ表現ですね。「戒壇本尊」という語彙と思想の発生、持仏堂の奉安様式の変遷、この2点を知ることは学会を含む石山系グループの現行の信仰形態が当初如何なる形のものであったかを知る重要な鍵であると思います。

坂井師の論文のこと、有り難うございました。
知己の人物なので、直接、ご本人に訊いてみることといたします。

空き缶さん:

興師が、仰るような御影信仰者であるという点はまったく同感です。
蓮師に見られない御影信仰を新しく立てた人であるとわたしも理解しています。
ただし、その点を申し上げているのではなくて、蓮師を仏と見做していたかどうか、御影を仏像と見做していたかどうか、そのような考えは興師にはなかったのではないのか、という点を申し上げているのです。

もちろん、蓮師を仏を見做す信仰形態はあるでしょう。それは、しかし、蓮師の考えとは違うということを考え、受け入れざるを得なかった2年間でした。


以下、お二人に申し上げるわけではありません。
自分の信仰形態を揺るがす事実に足を踏み入れる勇気がなければ考証はただの言葉の遊戯になってしまうと思います。

797れん:2003/09/23(火) 10:37
独歩さん。昨日今日と仕事で多忙のため、舌足らずの回答となりすみませんでした。戒壇本尊という語彙は富士門下においては文献上順師が初めて使用した様です。しかしこれは決して板曼陀羅を指しているのでは無く、法躰である上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字そのものを指していると考えられます。佐渡の如寂房日満師の著作の日満抄には久遠寺本尊なる語彙が出て来ますが、これがどの本尊を指すのかわかりません。御影の件ですが、蓮祖在世では無く蓮祖滅後弘安七年までに興師が御影像を造立したことを記した興師門下の記述があると書いたのですが…。そ

798れん:2003/09/23(火) 10:52
の文献は順師の従開山伝日順法門と大師の尊師実録です。独歩さんのお言葉「自分の信仰形態を揺るがす事実に足を踏み入れる勇気がなければ考証はただの言葉の遊戯になってしまうと思います」を肝に銘じておきます。実はもう私自身は日蓮本仏論はとうの昔に捨てております。ただ、真筆現存の九郎太郎殿御返事に「法華経は仏にまさらせたまう法なれば」とありますので、蓮祖には法華経(能生)勝、仏(所生)劣という考え方はあったと愚考しています。もう仕事の休憩が終わるので、とりあえず失礼いたします。m(__)m

799犀角独歩:2003/09/23(火) 11:08

れんさん:

重ねてご教示、痛み入ります。
大変に参考になりました。
また、スタンスも理解させていただきました。
有り難うございました。

800ガンコ:2003/09/23(火) 13:06
みなさん、こんにちは。

独歩さん
>以下、お二人に申し上げるわけではありません。
>自分の信仰形態を揺るがす事実に足を踏み入れる勇気がなければ考証はただの言葉の遊戯になってしまうと思います。

これは、ここ最近の投稿者では、わたくしがいちばん当てはまるんでしょう。なにしろ、悪名高い顕正会の会員を名乗ってるくらいですから。

れんさん
>実はもう私自身は日蓮本仏論はとうの昔に捨てております。

ああ、やっぱりそうでしたか。れんさんの初登場の頃の書き込みを拝見していて、なんとなくそんな気がしていました。わたくしはまだまだ捨てたもんじゃないと思いますけどね。

アネモネさん
おっしゃるとおり、わたくしの言ってることは一事が万事、情緒的であろうとじぶんでも思ってます。これが法義を論ずるに適さないだろうことも自覚しております。ただ、言い訳を申しますと、大聖人の御書を拝読していてつくづく思うのですが、大聖人の仏法は法義的な部分と情緒的な部分のさかいがない、法義と情緒が混然一体となったところにものすごい魅力がある、と思うんです。この点を考慮するならば、むしろ現代的な証明を必要としない・・・うああ、こんなこと書くと、またなに言われちゃうかわかりませんね。ええ、もちろん、みなさんに読んでいただく以上は、少しでもマシな投稿を心掛けたいと思っております。

問答名人さん
重須が本山で、上野は末寺であると? もやは正宗信徒を卒業されたようでありますが、わたくしは現段階で折衷案として、日興上人はどちらを本山であるとか末寺であるとか、そういう御考えはなかった・・・と申し上げておきます。(これじゃあ、正宗信徒失格かしら?)

801犀角独歩:2003/09/23(火) 13:12

800 ガンコさん:

> わたくしがいちばん当てはまる…

まあ、そういう自覚ならば参考にしてください。
ただし、これは誰彼のことを言っているわけではありません。
わたし自身の自戒です。

802愚鈍凡夫:2003/09/23(火) 14:20

れんさんご苦労様です。
小生は、『日順雑集』で「戒壇本尊妙法の五字」の文を見ました。

「一、私に云く戒定慧とは妙法蓮華経なり、難じて云く戒定慧は三なり五字は一なり如何、答ふ三にして而も一、一にして而も三なり、戒壇本尊妙法の五字は面は三にして其の躰一なるか」(日順雑集)

「行者既に出現し久成の定慧・広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし」(本門心底抄)

それで、『日順雑集』の文証と、『本門心底抄』との整合性を知りたくて、現在の北山はこの『本門心底抄』の文証をどう解釈しているのか、藤波太郎さんに質問したことがあります。

803ガンコ:2003/09/23(火) 15:30

独歩さん

>法主聖人といえば釈尊法主と日蓮聖人である可能性を最後まで否定しません。

いささか話題が古いですが、どなたもおっしゃらないので、生意気を承知で申します。

滝泉寺申状に
「法主聖人時を知り国を知り、法を知り機を知り、君の為民の為、神の為仏の為、災難を退治せらるべきの由勘へ申すと雖も御信用無きの上・・・」
とありまして、文意は明らかに大聖人を指し示すと読めます。

この御書は、大聖人と日興上人の合作と言いますが、この部分は大聖人の御筆によるとのことですので、「法主聖人」は大聖人御みずからの御名乗りであろうと拝せます。

もっとも「法主」とはなにを意味するか、よくわかりませんが・・・

ちなみに、浅井によると、御法主上人との呼称は大聖人御一人のものであるから、御歴代は貫首上人と御呼びすべきである、とのことです。

804犀角独歩:2003/09/23(火) 16:05

ガンコさん:

その一説をわたしが知らないわけがありませんでしょう(笑)
ですから、最後まで法主が釈尊である可能性を捨てないと記したのです。
まあ、蓮師が自称したとすれば、力が入りすぎたと言うことでしょう。
この言葉が何を意味するのか、しかしこれは、当時一般の語彙の使用のされ方に通暁しないとわかりませんでしょうね。

「法主」「貫首」、浅井さんがなんて言ったかは知りませんが、石山ものばかりじゃなく、もっと仏教一般の勉強をしたほうがいいですね。社会がどうだ、政治がどうだという以前の問題です。あまりにも不勉強ですよね。ですから、薄っぺらいテキストしか作れないわけです。それはともかく、法主がいけないのなら、なんで一介の会代表が「先生」なんて言われているんでしょうか。我々の師匠は日蓮聖人を置いてないはずだと言い返したくなります。先生とは師匠と言うことです。師と三徳に一つ、すなわち、仏徳の内ですよ。そんな美徳で自分を呼ばせる神経で「法主」がどうのはナンセンスでしょう。

805犀角独歩:2003/09/23(火) 16:06

【804の訂正】

誤)師と三徳に一つ
正)師とは三徳の一つ

806ガンコ:2003/09/23(火) 17:34

>その一説をわたしが知らないわけがありませんでしょう

これは、失礼しました。

>ですから、薄っぺらいテキストしか作れないわけです。

う〜ん、そうですかねえ。
ただ、ちょっと前に顕正会版の御書全集について、当分できそうにないと申したのは、どうも他のところの研鑽におっつかない、という感じがしたものですから・・・ようするに、造るからには現時点で最高レベルのものを造らないとわらわれちゃうだけでしょうから、そうなるといつまで経っても出来しないだろうという気がしたのでした。

法主上人については、わたくし個人としては「法主聖人」と「法主上人」でちがいますから、いいだろうと思ってます。

「先生」は世間的にも多用されるところですから、まあ、そんなに目くじらをお立てにならなくても・・・(うふふ)

807犀角独歩:2003/09/23(火) 17:43

802 愚鈍凡夫さん:

この対比、なるほどと思いました。

日順雑集では

虚空不動戒−戒壇┐
虚空不動定−本尊┼妙法蓮華経
虚空不動慧−五字┘

なっていて、これはたしかに理壇論。
ところが本門心底抄では

「行者既に出現し久成の定慧・広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定後難を招くあり寸尺高下注記するに能へず」

で事壇論。ここに整合性はないと見るほうが至当と思えます。

雑集には「戒壇・本尊・妙法の五字は面は三にして其の躰一」とあり、のちに寛師が一大秘法という雛形が既にあったことを再確認しました。ちょっと驚きです。しかし、ここで「山家大師云く虚空不動戒・虚空不動定・虚空不動慧・三学倶伝名て妙法と曰う」を引証するわけですが、蓮師はこの考えに基づいて「三つの法門」を立てたかどうか、わたしは疑っています。御本尊七箇相承、本尊三度相伝でもこの点は現れていません。伝興師・上行所伝三大秘法口訣では現れます。これはいつ頃の成立なんでしょうか。

余談ですが、国主帰依が戒壇堂というのは後天的な考えで、実際は本門寺建立の意味が先行していたのだと思うのです。それが、やがて、迹門戒壇(比叡山)を簡ぶ本門戒壇思想が生じて換言されていった歴史があるように思えます。興師の「本門寺」とは直接的に戒堂を指す表現ではないですよね。

なお、心底抄に「戒壇の方面は地形に随ふべし」とありますが、本尊三度相伝では「本門寺の戒壇は西面に立つ可き」となっています。

関係ありませんが、正本堂は南面ですから、この相伝に外れていました(笑)
こんな指摘はどこもしないわけで、なんだか、そもそもそれぞれがいい加減だと思うわけです。話がずれていますが。

808犀角独歩:2003/09/23(火) 17:47

ガンコさん:

> 目くじらをお立てにならなくても

誰かにも、以前そんなこと言われましたっけね。

809心者雖念不直相鴨:2003/09/23(火) 17:58
 初歩的な質問かもしれませんが、富士門流の各派(教団?)では、現在のチベット仏教をどのように評価なさっているのでしょうか?
また、空海以降の密教に対する評価はいかがでしょうか?なにか、文献がありましたら教えてください。

810アネモネ:2003/09/23(火) 20:07
横レスごめんなさい。

>800
ガンコさん

どうも私の投稿は、言葉が過ぎるようで後が続かなくなってしまうところがよくありませんね。気をつけようとは思っているのですが、入信以来、常に気になってきたことが私の中で、大きな宗教テーマとして横たわっているものですから、どうかご容赦ください。
ガンコさんに対して、個人的感情でもって批判をしているわけではありません。あくまで書かれているその内容について、問題提起しているということをご理解くださって、お付き合いください。

>情緒的であろうとじぶんでも思ってます。

この点は、誰しも同じでしょう。私も相当に情緒的ですし、その点は随分と独歩さんに手厳しく指摘されてきました(笑)しかしまた、仏教から情緒的なものを全て取り去ることはできないということも、同時に教わりました。
そのとおりですね。人間が幸せになるための内面的な教えなのですから。むしろ教えそのものは、最も情緒的な範疇のことなのではないでしょうか。
ただしかし、宗史や教義の真偽となると趣旨が違ってきます。
歴史的な考証からの教義研鑚には、感情的な思いは妨げになることのほうが多いでしょう。
ところが、信仰的立場にある場合、その信仰的情緒によるアプローチとその伝承のみを絶対的なものとして捉えてしまうわけです。
だからますます一般社会との溝が深まるばかりでしょう。
しかもそれが、真実であるかどうかは証明されなくていいとまで開き直られる。
開き直りはよくないです。それは、真理への追求や探究心を怠っているだけのことではないでしょうか。その点においてはむしろ私の目からみると、日蓮の真の仏教探究の精神から大きく外れているのではないかと感じるところなのです。

>ただ、言い訳を申しますと、大聖人の御書を拝読していてつくづく思うのですが、大聖人の仏法は法義的な部分と情緒的な部分のさかいがない、法義と情緒が混然一体となったところにものすごい魅力がある、と思うんです。

仰りたいことは、よーくわかります。
日蓮さんの情緒的な部分は私も大好きです。しかしガンコさんが捉えているように、本当に日蓮さんは、情緒的な感情だけで、仏教を研鑚していたのでしょうか。
私はそんなふうには感じられないんですね。日蓮の学術的思考方法はいたって合理的手法なのではないかと思いますが、どうでしょう。
むしろ教義を情緒的に自在に表現できるところまで、それだけ緻密に科学的に教義研鑚を積み重ねてきた実績が大きいということではないでしょうか。だからこそ、法論に強かったのではないかと思うのです。
ですから、日蓮の残した書に、「法義的な部分と情緒的な部分のさかいがない」というのは、日蓮さんのことではなく、そう思うガンコさんの見方のことを意味しているのでしょう。

しかし恐らく、非常に科学的な研鑚と論考を駆使しする学術法と、そこで掴んだことを、さらに人々の魂に訴える情緒的豊かな表現の術も両方兼ね備えた、非常に魅力ある方だったのではないかと思われます。
ついそこをゴッチャゴチャに捉えてしまいがちですが、しかし私は日蓮さんの、あの当時における合理的な研究姿勢にこそ、見習うべきことが多くあるはずではないかと思っています。
本物を見抜くためには、そういう姿勢を養うべきで、八正道に相当することかもしれません。
ただしそんな日蓮さんにも限界はあったと思うのです。何よりも、時代的な限界です。それはそのまま日蓮教義の限界にも通じるものではないかと私は判断しました。これを覆すだけの史実が証明されれば話は別ですが。

811アネモネ:2003/09/23(火) 20:07
(つづき)
>この点を考慮するならば、むしろ現代的な証明を必要としない・・・

ならば、日蓮の教義はもはや現代には無用の長物でしょう。捨てたほうがマシです。
またそう信じる人だけが勝手に信じていればいいのです。ただし、人を脅したり蔑んだりして、迷惑をかけたり、惑わしたりすることを一切やめて、自分たちだけがひっそりと信じることです。しかし、そうはいかない教えも伝えられてきている以上、公言する因果に対しての現代的な証明を開き直ったり、無神経であっては困ります。それが布教者の責任というものでしょう。
証明もされずに信じ込まれる弊害とその社会的影響や問題というものが、大きく横たわっているのですから、しっかりと目を向けてほしいものです。
そのことに対する意識の希薄さが、そのまま教義研鑚の姿勢や、社会的意識にもあらわれているのではないでしょうか。
人が苦しんでいることに平然といられるとしたら、仏教徒でありながら、仏の心に反していると私は批判します。
それが因果だからというならば、尚更その証明を求めます。
実際にこの宗教によって苦しめられている人がいるのですから、証明することの必要性に決して無神経にならないでほしいのです。
信仰しながらでも、苦悩すべきことではないでしょうか。

結局、書き進めるうちにまた語気が強くなって申しわけないですが、これは、ガンコさんに対する個人的な批判ではありません。その考え方そのものに対する問題提起です。重ねて言いますが、顕正会だからということでもありません。私にとっては、法華講も顕正会も創価学会も同じなのです。

>少しでもマシな投稿を心掛けたいと思っております。

投稿がどうこうではないのです。考え方の問題だと思います。
人の言葉を気にして繕う必要はないと思います。
批判を受けることで、この信仰に対して問題意識を持たれることを私は望んでいます。
もちろん、私の記述にも問題があれば、どんどん批判なさっていいんです。
私が常に訴えてきていることとは、信仰そのものを否定ではなく、信仰のあり方なのです。

812愚鈍凡夫:2003/09/23(火) 20:46

>>809:心者雖念不直相鴨さんへ
始めまして、愚鈍凡夫です。
富士門系では密教と言うより、真言宗と捉えていますから、破折対象としか見ていないようです。密教を東密・台密としてではなく、顕教・密教の立場で見ていくと得るものがあると思うんですけどね。

日蓮正宗系のチベット密教の論文や著書は知りませんが、
日蓮宗系ではこんな論文があります。

「『チベットの死者の書』にみる人が死んでからの四十九日間」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho29/s29_213.htm

813心者雖念不直相鴨:2003/09/23(火) 21:40
愚鈍凡夫さんへ
ご教示ありがとうございました。カナダの大学にいたとき、仏教徒だというと「お前のセクトでは、ダライラマの信仰についてどう考えているのか?」とよくたずねられました。
ダライラマはだれでも知っているのに、一般のカナダ人は当然池田さんや日顕さんのことは知りませんからこうした質問は当然かと思いましたが、私は恥ずかしいことに何も答えられず、NSCの仲間に聞いても(教理については)みな関心がなかったり知らなかったりでした。
最近この掲示板のことを知ったので、長い間忘れていたこの問題をふと思い出して質問させていただきました。

814空き缶:2003/09/24(水) 01:47
独歩さん
私の日興上人の御消息文の解釈でいけば、日興上人は日蓮聖人を仏様と同等の方と思っていたと思いますよ。
一尊四師を「謗法」とはいっていなかったと思いますが、さりとて必要とも思われていなかったのではないでしょうか。
御影と曼荼羅で十分だと思っていたと思います。
曼荼羅御本尊の書写の仕方が、他の老僧達と違うことから宗祖観にも相違があったとは思いますよ。
日向上人とその門流は、日興上人と本尊書写の形式が同じですが、保田に伝わる「御本尊七箇大事」と身延に伝わる「御本尊七箇大相承」がほぼ同文であることから、日興上人の本尊書写を日向上人は学んでいたのではとも思います。(これは決して上下関係を表すものではありません)

815犀角独歩:2003/09/24(水) 09:06

空き缶さん:

> 私の日興上人の御消息文の解釈でいけば、日興上人は日蓮聖人を仏様と同等の方と思っていた

空き缶さんが個人信条としてどのように解釈してどのように信じようがそれは内心の自由に属することですから、他人がとやかく言うことではないでしょう。しかし、その個人的な解釈を事実であると他人に提示するとなると、それは事情が変わります。

言われるところの消息とは、興師の許に御影供養を届けた弟子檀那への返状を主に言うと思われますが、その場合、御影を顕彰した形で述べるのは当然でしょう。しかし、それが直ちに興師の仏本尊観の全体であると即断するのは短絡ではないでしょうか。

だいたい、御影本尊でよければ、興師は漫荼羅書写は意味のないことになります。
また、漫荼羅を如何なる意志に基づいて書写されたかが問題になるわけです。

以下、執行海秀師の2論文は秀逸です。
熟読をお薦めします。

□興師の本尊観とその後の興門における本尊観の変遷については
『初期の興門教学に於ける本尊意識の展開』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_003.html

□興師の著述の真偽については
『日興の著作と真偽論』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_004.htm


ご自身の信じたい形状から遺文を拝するのではなく、遺文からその著者の本意を探り、そこから信仰をお考えになることもお薦めするものです。l

816犀角独歩:2003/09/24(水) 09:13

810〜811 アネモネさん:

「ガンコさんへの」ということではなくて、ここに記されている日蓮観にわたしは賛成です。

817空き缶:2003/09/24(水) 13:18
独歩さま
私は「原殿書」も含め、真筆不伝書は基本的に判断材料外に置いてきました。
また、順師の著作については真筆現存のものも慎重に扱っています。
少なくとも、日目→日郷からの流れにおいて、「一尊四士」は造られた形跡もなく、宗祖を末法救済の人・あるいは仏様同等の方として信奉してきたことは事実であると思います。
日興上人の真筆現存の書簡からいえば、日興門流は「日蓮聖人」を信仰対象とし、寺院には御影+曼荼羅、門下は曼荼羅のみが信仰姿勢として正しいものと思います。
寺院に「御影」を安置することは、寺院参詣=日蓮聖人のもとへ参詣することの意義と、寺院の管長=日蓮聖人の生まれ変わりでは無いことを、明確にする為であると思います。
大石寺に真筆があるといわれていた、「与波木井実長書」に身延を指して「久遠実成釈迦如来の金剛法座也」、「上行菩薩日蓮上人の御霊屈也」との文言があり、波木井実長に対し釈迦立像に四菩薩を加えて久遠の釈尊とするよう指示されている文言もあります。
しかし、現在この書状の真筆は大石寺には無く(消去ったのか?)真意ははかりかねます。

818ガンコ:2003/09/24(水) 16:17

アネモネさん

>どうも私の投稿は、言葉が過ぎるようで後が続かなくなってしまうところがよくありませんね

わたくしにかぎって申しますと、元来がズボラなものですから、なかなかお返事が書けないだけです。本仏論のほうでも感想をいただきましたがそのままですし、宅間のほうでも宿題があります。うやむやにしているように見られかねないですが、頭の回転がひじょうに遅いので、じつはみなさんがすっかり忘れた頃になって、ようやく文章化にこぎつけている、という有様なのです。

うっかりすると、個人攻撃になりかねないので、どなたもそういう議論はされないのだと思いますが、この際ですから、アネモネさんについて、わたくしがどのように感じているか、率直に書いてみたいと思います。(削除になるかも?)
このところ、日蓮の限界、法華経の限界、等とおっしゃっていますが、素朴な疑問として釈尊の限界についてお聞きしたいところです。というのは、じぶんはてっきり、アネモネさんは日蓮本仏論に辛いのかと思っていたんです。しかし、よく読んでみると、じつは日蓮信仰全般にわたって激辛である、という気がしてきたんです。こうなると、もしかしたら、この先、釈尊すら否定的に捉えることになるんじゃないのかと、・・・これはまったくのあてずっぽうですが・・・ともかく、そんな気がするのです。(ぜんぜんちがっていたら、ごめんなさいです)
もし、わたくしのような印象を多くの人が懐いているとしたならば、もしかしたら無意識のうちにもアネモネさんとの議論は回避したい、ということはあるかもしれません。

>>この点を考慮するならば、むしろ現代的な証明を必要としない・・・
>ならば、日蓮の教義はもはや現代には無用の長物でしょう。捨てたほうがマシです。
>またそう信じる人だけが勝手に信じていればいいのです

そうですね。そういうようなことをおっしゃるだろうと思って、予防線を張っていたんですが、みごとに中央突破されてしまいました。
ちなみに、わたくしがこの掲示板を好きなのは、はなはだ矛盾しているようなことを申しますが、すでに(大勢として)日蓮本仏論を否定していること、さらには日蓮信仰すら否定しかねない、もっと言えばあらゆる信仰ないし宗教そのものに対しても懐疑的である、といったところなのです。

819ガンコ:2003/09/24(水) 16:20
とくにわたくしの所属する教団では、この信心は絶対である、と言います。金剛不壊という言葉もありますし、ちょっとやそっとのことで壊れてしまうようなチャチなものではない、ということなのですが、それは本当なのか? 言葉だけなのではないか? つまり、妄想・幻想のたぐいではないのか? ・・・何のことはない、アネモネさんが追求されていることをわたくし自身も考えているわけです。
ですから、もし、この掲示板でいとも簡単に否定されてしまうほどのチャチなものであるならば、それこそさっさと足を洗うべきだろう、との割り切った考えもあります。

じっさい昨年末には、顕正会問題のひとつとして本尊疑惑がありますが、真相しだいによっては脱退すると宣言しました。
まさに、こういった問題は情緒などというもののはいり込む余地はないわけで、もし疑惑が本当だったら情状酌量の余地はないと考えます。
この際、さらに付け加えるならば、戒壇の大御本尊についても同様のことが言えようかと思います。
顕正会的に申せば、国立戒壇に安置し奉る御本尊ですから、もし、この先、顕正会によって国立戒壇の問題が全日本的にクローズアップされるようになれば、大石寺の板曼荼羅を鑑定すべし、との声がどんどんふくらんでいくことでしょう。そうなったら、わたくしは鑑定すべきだと思っています。

ところが日蓮本仏論というのは、ややおもむきが異なるように思うのです。いわゆる人本尊開顕の書とわれわれが申し上げている開目抄などは、いちいち御文をあげたらキリがないくらい、もう情緒的ったらありゃしない、と思います。これは大聖人に失礼なもの言いかもしれませんけど、わたくしはそう拝しています。

もっとも、アネモネさんのおっしゃるように
>日蓮の残した書に、「法義的な部分と情緒的な部分のさかいがない」というのは、日蓮さんのことではなく、そう思うガンコさんの見方のことを意味しているのでしょう。

ええ確かに、わたくしの偏った読み方なのかもしれないと、つねに反省をしています。どなたかにも「偏っている」と言われましたしね。
この辺のことは、本仏論のスレで引き続き論じていくつもりなんですけど、ぜんぜんスピードが上がらなくって・・・どこか故障しているのかも?

最後にまた、アネモネさん個人について申し上げますが、絵画でいえば細密画というか、ものすごくディテールにこだわってらっしゃる・・・かたやガンコはアバウトというか、単にデタラメなだけかもしれませんが、まあ、同じ対象を描くにしても技法がちがえば単純には比較できないわけで、そんな感じで議論がかみ合わないということはあるかもしれません。ただ、繰り返しになりますが、史実であるとか、本物か偽物かということに情緒は無用であって、その点においてガンコははなはだ甘い、ということはそのとおりであって、今後の改善目標にしたいと考えております。

820犀角独歩:2003/09/24(水) 18:11

空き缶さん:

ジャンプ先を間違えました。失礼しました。

『日興の著作と真偽論』
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_004.html

>「与波木井実長書」…現在この書状の真筆は大石寺には無く(消去ったのか?)

この書とその顛末は実に興味深いですね。

821愚鈍凡夫:2003/09/24(水) 20:33

横レス失礼します。

日蓮宗・日蓮正宗、共に時代に応じて教義を変化させてきたと思います。
蓮祖亡きあと、時代の様相がすっかり変わってしまって、それに合わせざるおえなかった。そんな事情もあるでしょう。
また、僧団を在家集団が経済的に支えるような体制が確立して、在家に迎合した論理展開をせざるおえなかった事情もあったのではないかと想像します。
これからも、当然の如く新しい形態が生まれていくでしょう。
もしかしたら、日蓮門下は統一化されるどころか、逆に細分化され、多様化していくかも知れません。
だから、一信仰者として「曼荼羅正意論」、「生御影正意論」、「教主釈尊正意論」があっても何ら差し支えないと思います。
だからといって、研鑚と思索を止めてしまうと、単なる曼荼羅依存症、御影依存症、仏像依存症になってしまいすが・・・・・。

教団の姿勢として、
日蓮の名を冠していても、実質、蓮祖の法門を離れ、新しい展開を模索する教団もあるでしょう。そして、時代と併走しながら、なおかつ蓮祖に回帰しようとする流れもあるでしょう。また、変化を頑なに拒む教団もあるでしょう。
その中から、自分の主義主張に合った教団を選べばよいと思うのですが、相互理解を忘れ、唯我独尊に走らぬように常に自教団をチェックすることを怠ると、危険だと思います。

822空き缶:2003/09/25(木) 00:03
私も愚鈍凡夫さんのご意見に賛同です。
色々な考え方を互いに認め合うことが必要だと思います。
宗派は異なっても日蓮門下として、話し合いと相互理解が必要だと思います。
その意味で、以前「若鷲」では「門下連合」への期待を書き込みました。

ここの皆さんと比べれば、私は「駆け出し」にすぎません。
これからも学ばせていただきます。

823犀角独歩:2003/09/25(木) 01:07

愚鈍凡夫さん:

821のご意見に賛成です。
その賛成を前提に申し上げることですが、それと、蓮師、興師などの素意がどのようなものであったのかという議論は別問題だと思うわけです。それはある面、信仰、主義主張と離れた分析・研究に近いものであると考えます。

わたしは、それまで蓮興両祖の考えと教えられてきたことが、実際とかけ離れていたことに愕然としてきました。

「それぞれの解釈だから」というオブラートにくるんで、事実を隠蔽してきた社会にいた自分にとって、真実を追究する正直さだけは捨てないでいたいと思います。

「○○は○○の生まれ変わり」という、“それぞれ”の勝手な考えも考えとして認めることも必要ですが、それが事実と違っていれば、それを考証することは決して否定されることではないと思うからです。

もちろん、愚鈍凡夫さんのご意見はそのような意味ではないことはわかっているつもりです。

824アネモネ:2003/09/25(木) 02:06
ガンコさん

ご丁寧なレスをありがとうございます。
ガンコさんの忌憚のないご意見、私は嬉しく思います。

>しかし、よく読んでみると、じつは日蓮信仰全般にわたって激辛である、という気がしてきたんです。

それはそうなんです。全般というところが、厳密には少し違うかもしれませんが…。日蓮さんから学ぶところはたくさんあります。第一、私は日蓮宗の檀家に育ったこともあって、個人的に日蓮さんというお坊さんに親しみを持ち、また日蓮さんが好きで入信したわけです。最近でこそ欠点も見るようになり、限界も認めるようになりましたが、やっぱり基本的には敬慕してます。他のお坊さんを通して仏教を学ぼうとなると、どうも腰が重いんです。
依法不依人とはよく戒められたものだと思いますね。人間の心は、人によって感応し動かされてしまうのもまたひとつの真理なのでしょう。お釈迦さまご自身が、魅力的な人であったとしたならば、尚のこと、依法不依人という教えの意図するところにも納得させられる気がします。
つまり人の魅力に惑われるのが人間の弱さでもあるわけです。

もともと、私は教義そのものよりも、日蓮というお坊さんに対する興味のほうが強かったわけで、大石寺から出されている本だけでは物足りず、一般書店で手に入る日蓮本をけっこう読み、。また立正佼成会が製作したという日蓮の映画も観たりもしましたしね。
私なりの思い入れもあって、それこそ私の中で、理想化した日蓮像というものがあったわけです。本仏論とは少し違った意味での日蓮像だったといえるでしょう。
真理への探求、そして民衆救済と釈尊への思い…またその信念、度重なる迫害を乗り越えながらも魂に訴えかける血の通った書を残した筆力と強靭な精神力にも、強く惹かれたものです。
しかし、そのような私の中で築かれた日蓮像と照らして、その後の日蓮系の宗派の中から、日蓮を彷彿させるような人が見受けられないのではないかという思いが強くあるわけですね。仏法を求める志が全然違っていると感じてしまうのです。これは、まさに私の拙い感性で感じるところのことですから、言ってしまえば、私の思い込みかもしれません。しかしそういう大きな失望感はずっとありますね。もっといえば、特に石山系は日蓮の長所よりもむしろ欠点のほうが今日に色濃く受け継がれてしまってきているのではないかとさえ思うくらいなのです。

825アネモネ:2003/09/25(木) 02:07
(つづき)
>こうなると、もしかしたら、この先、釈尊すら否定的に捉えることになるんじゃないのかと、・・・これはまったくのあてずっぽうですが・・・ともかく、そんな気がするのです。(ぜんぜんちがっていたら、ごめんなさいです)

いえいえ、まんざら違っているとは言い切れないです。説明させて頂きますと…。
久遠の釈尊となると、否定というか、キリスト教でいうところの絶対神と同じく、観念上のものではないかと思っています。(もちろんキリスト教の人にしたら、決して観念の存在ではないということになるでしょうけれども)
ただ別のスレッドでも書いたことですが、人間の人智を超えたなんらかの存在(それが「正法」であるとしても)を、擬人化もしくは神格化して捉えることで、そこから教えが生まれ、その教えによって人間が理性的に生きていく更なる智恵を築きあげてきたということはあるのではないかと思います。そういう意味では、全く否定しているというわけでもありません。
ただ自分自身がその遥かなる存在を自分の肌感覚として、強く体感なり実感なりしているかというと、そうではないわけです。たとえば自分なりに自然の摂理などを実感するときにそんなことを重ね合わせるようなことはあります。しかし、それであってもやはり自分の掴みは限りなく観念的なのではないだろうかと思うものなのです。
お釈迦さまに関しても、超人的な、神格化された存在として信仰を捧げるという強い気持ちはなくなりました。しかし、覚者とか人格者としての釈尊の奥深い思想と、そこから発生した仏教哲理(語彙が不適切かもしれませんが)には、大変興味を持っています。
とても体系的とはいえない雑然とした学習ながらも、自分の思想の糧にこれから少しずつでも学んでいきたいと思っています。
とはいえこれも随処で書いてきていることですが、私は元々がキリスト教の信仰の経験があり、思想的にその影響を色濃く受けてきています。ですらか、どうしても教義の置き換えで学んでしまうところがあると思うんですね。ですから、思い切って書きますが、私の中では、仏教もキリスト教も、習合もしくは融合されてしまっているといってもいいかもしれません。それが正しいことだとはいえません。あくまで私の個人的な受け止め方です。ただ、いずれにしても絶対のものとしての信仰は考えていないのは現状ですね。

>もしかしたら無意識のうちにもアネモネさんとの議論は回避したい、ということはあるかもしれません。

富士門ひとすじの信仰でこられた方々にしてみたら、私の書いていることは非常に異質な尺度なのかもしれません。
噛み合わない部分はあるかもしれませんが、しかし、この信心を広めようというのであるならば、私の書いている問題提起くらいはクリアしてもらわなければ話にならないでしょう。
地獄に落ちるよという脅しは、もはや私には通用しませんから、そのような言葉を使わずしてこの信仰の正しさを示す必要があるわけです。これまで当たり前に使われてきた言葉は、何の力も示せないものと思われます。

織田信長の時代、宣教師が日本に渡ってきて布教を始めようとしたわけですが、信長は日蓮宗のお坊さんと宣教師との法論をさせたと聞きます。そのときの勝負、詳細は知らないのですが、とにかく日蓮宗の完敗だったとのこと。
信長は比叡山を焼き討ちしたほどの人ですから、政治的な意図もあったことが伺えますが、しかしまたそれだけ僧侶の堕落が甚だしく、日蓮宗もその例外ではなかったと言われているわけです。誰のための宗教なのかという宗教者としての原点を忘れた姿にメスを入れた信長の政治的判断を、私は評価しているくらいです。
ただ、話が横路にそれますが、宣教師はスパイ的疑惑もあり、そのことを見抜いたのは家康だったといわれています。
宗教家の心の内を見抜くことは、並大抵のことではありません。
「絶対正しい」ということは、どこの宗教もいうのです。だけど、そんなにおいそれと真理にたどりつくものではないと思いますね。正しいと標榜する組織に所属しているから自分も正しいという、安易なものでもないでしょう。
結局は誰しも自分の人生の苦悩を通して、少しずつ悟っていくものではないでしょうか。その道のりの、少しばかりのヒントとなる助けのようなものが、宗教の教えではないかと捉えています。あとは、自分の理性で掴んでいくしかないものでしょう。…というところが、現時点での私なりのある種の掴みです。

826アネモネ:2003/09/25(木) 02:08
(つづき)
>わたくしがこの掲示板を好きなのは、はなはだ矛盾しているようなことを申しますが、すでに(大勢として)日蓮本仏論を否定していること、さらには日蓮信仰すら否定しかねない、もっと言えばあらゆる信仰ないし宗教そのものに対しても懐疑的である、といったところなのです。

私は今回、ガンコさんのこのレスを読んで、正直感動しました。富士門の信仰にある人が、なかなか書けるものではありません。だけど、私は言論の自由と解放を少しでも掴んだガンコさんに、個人的にはエールを送りたい気持ちでいます。
そもそも宗教とは、人間の精神の開放と自由を目標としたものではないかと私は思っているのです。自分の内心で思っていることが自由に言葉にできる。今の社会ではかなり当たり前のことですが、石山系組織の中では、まったく閉ざされています。
私も投稿したばかりの頃は、この掲示板を読むことだって謗法ではないかと思ったものです。罰が当たるんじゃないかと思いつめ、寝覚めの悪かった日もありました。また思い悩んで、眠れなかったりすれば、実際に体調も悪くなります。それこそ罰だろうか?と心配することもあったくらいです。
しかし、それは罰でもなんでもなくて、むしろ謗法ではないかと脅迫観念にとらわれている心が、自分を追い詰めている心身症に他ならなかったわけです。
戒壇本尊や本仏論への絶対的信仰の呪縛から精神が解放されていくに従って、脅迫観念は消え、今では掲示板に参加しても沈鬱な気分にさいなまれることもなく、爽快な気分で日々を送れるようにもなったわけです。
もちろん、一人の人間としての苦しみや悩みは、当然のこと抱えています。しかしそれは、罰というものではなくて、私自身がこの世に生きている証であり、そう思えば、生きていること自体が、かけがえのないことだと感じるときさえあります。

>つまり、妄想・幻想のたぐいではないのか? ・・・何のことはない、アネモネさんが追求されていることをわたくし自身も考えているわけです。

その疑問こそ大事なことですね。日蓮さんもお釈迦さんも、仏として立てる以前に、まず私たちと同じ人間だったということ。これは紛れもない事実なわけですね。これこそこの掲示板を通して気付かされたことです。
やはり日蓮さんは魅力あるお坊さんですが、しかしそれだけに固執せずに、広く一般仏教についての教養も深めてみることは、とても有意義なことだと思います。そうすると、広い仏教の体系的全体像の中での日蓮の位置づけも掴め、そうすると見方も変ってきます。
もちろん、そういうことは石山系では厳しく咎められるわけですが、私は、せめてそうしたことに対しての、意識くらいは解放すべきだと思うのです。罰などを恐れることなく、自由に学び、その結果、やっぱり石山が正しいと思えるならばそれでいいわけです。そういう時間や心の猶予があっていいはずですし、またその猶予を自らの意思で切り開いていくべきではないかと思っています。

>じっさい昨年末には、顕正会問題のひとつとして本尊疑惑がありますが、真相しだいによっては脱退すると宣言しました。

自分が教団で学んできた教義については、徹底的にこの掲示板を使って追求し直してみることは大事ですね。同じ疑問を抱いて取り組んできた人が多く参加しているわけですから、ひとりきりで取り組むよりは、思いの他、最短距離で答えが出ることが多いでしょう。
人と意見や議論を交わすこは、意識の活性化につながり、柔軟な考え方ができるようになりやすいといえるのではないでしょうか。

>そうなったら、わたくしは鑑定すべきだと思っています。

それこそが真の探究心ですね。私なりに言えば、日蓮門下が忘れてはならない教祖の精神かと思います。

>とわれわれが申し上げている開目抄などは、いちいち御文をあげたらキリがないくらい、もう情緒的ったらありゃしない、と思います。これは大聖人に失礼なもの言いかもしれませんけど、わたくしはそう拝しています。

あの過酷な佐渡の地で、あれだけの書を残されたというその筆力には、ただただ圧倒されるばかりです。仮に書いている内容がそのまま現代には通用しないものだとしても、私は、その思いとか精神力、忍耐力などには多いに学ばされるものだと思っています。

827アネモネ:2003/09/25(木) 02:09
(つづき)
>ええ確かに、わたくしの偏った読み方なのかもしれないと、つねに反省をしています。どなたかにも「偏っている」と言われましたしね。

少し補足しますと、法義的に考えるべきか、情緒的に考えるべきか、現代的にいえばそのTPOがゴチャゴチャになっている傾向があるのではないかと思うのです。もちろんガンコさんに限ったことではありません。信念体系にある人々と言えばいいでしょう。
たとえば、他人の不幸に対して、特に不信の人に対しては、まるで三世を見通すかのように、法義による因果を語ることが多いわけです。しかし私はたとえそれが不信の人であっても、同苦を心がけるようになりたいと思うのです。そんなときこそ、情緒的に感応し、心を砕く人でありたいと思うのです。
逆に、教え込まれた宗史に関わることなどについては、なるべく情緒的にならず合理的に考えるべきだと思うわけです。
要するに、そうしたTPOにおける判断の手法が、逆ではないかと思うわけです。
自画自賛の手前味噌や、井の中の蛙にならないためには、その意識の使い分けを判断すべきではないかと思います。

>絵画でいえば細密画というか、ものすごくディテールにこだわってらっしゃる・・・かたやガンコはアバウトというか

私、突っ込みは細かいかもしれませんが、だけど本質は案外と大雑把です。大雑把でも大局的な見方を心がけようと思っています。なんというか、樹を見て森を見ずに陥りたくないなと思うのです。

また、長くなりました。大幅に本題の議論を脱線させてしまったかもしれません。
ともかく、広宣流布だからといって無鉄砲に行け行けに飛び出す前に、まず自分の信仰について、それこそ日蓮がそうだったといわれるように、自問自答を続けるべきなのでしょうね。
そういう意味において、閉塞的な組織にはその期待はとうてい持てませんから、謗法の謗りを覚悟でここに参加されている方々は、とても信仰に対して前向きな取り組みをされている方々だと私は感じております。また私は、はなはだ異質な存在ではありますが、これからも続けてここに交わらせていただきたいなと思っております。

828愚鈍凡夫:2003/09/25(木) 21:52

>>822: 空き缶さん、有り難うございます。

>>823: 犀角独歩さん、有り難うございます。

勿論小生も、互いの信仰姿勢を認め合い、相互理解を深めることと、教義を検証し、少しでも宗祖の素意に近づこうとすることは、別次元の問題だと思います。
そして、共に重要な課題だと思います。

829ドプチェク</b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2003/09/26(金) 01:10
こんばんわ。
昨年秋以来、久々に書き込みをさせていただきます。

いきなりおかしな事を申しますけど、富士門流の各宗派・教団、それに、日蓮系の他門流・他教団の信徒は、ほとんど同じ相貌の曼荼羅本尊を拝んでいても、当然、所属している宗派・教団が違うわけなのですし、それぞれの曼荼羅は違う人により書写される事になりますよね。
それら各宗派・教団の曼荼羅が、基本的に日蓮聖人真筆どおりの形式を用いて書写されている場合、それぞれの曼荼羅の間に、功徳とか罰とかいったようなものにおける優劣は存在しているのでしょうか?

私は、21年前、創価学会に入った時には(現在は、所属こそしていても、学会に対して相当に批判的な為、一定の距離を置いています)、日顕上人が書写された曼荼羅を拝んでいたのですけど、12年前に起きた宗創戦争により、9年前に創価学会員用の曼荼羅(栃木県の浄圓寺に現存するという、第二十六世日寛上人が書写された曼荼羅のコピー)に代えてもらったのです。
少し前、ある掲示板において、元学会員で現在は法華講に所属している人の書き込みによれば、創価学会員用の曼荼羅は偽物で、拝んでいたら不幸になるというお話なのでした。
私は前々から、その手のお話を迷信だと思っていたのですけど、でも、ここ最近、実際のところはどうなのか?といった疑念が生じて来ました。
それと、出版社名も執筆者名も覚えていないのですが、もうずいぶん前、「創価学会員は、なぜ功徳が失ったか?」というようなタイトルの書籍を書店で目にした事があります。
現在の創価学会がやっている事は、目を覆わんばかりのあまりのひどさですけど、それと曼荼羅とは、果たして無関係なのでしょうか?

これは、もしかすると私の単なる思い込みに過ぎないのかもしれませんが、私自身は、どうも現在拝んでいる創価学会員用の曼荼羅よりも、以前拝んでいた日蓮正宗の曼荼羅の方が、何故か?ピタッと来るとでも言うのでしょうか、同じ拝んでいても、以前の曼荼羅と現在の曼荼羅とでは、自分なりに感じる何か?が異なっているような気がするのです(自分でも、それがいったい何なのかはわかりませんけど)。
そんな私とは正反対に、私の知っている創価学会員の中には、あまりにも一方的な思い込みが強すぎるせいなのか、以前拝んでいた日顕上人書写の曼荼羅よりも、現在の日寛上人の曼荼羅の方が、拝んでいると、実にさわやかな気分になれるとか何とか言っていた者がいましたけど、正直、私には、そんな彼らの気持ちが前々から到底理解できませんでした(そういった人たちは、創価学会によるマインドコントロールの弊害を大いに被っているのではないかと思われます)。
ちなみに、創価学会員用の多くが拝んでいる日寛上人の曼荼羅は、相貌が日蓮正宗の曼荼羅に比べ、菩薩・諸天善神の名称がかなり省かれている、いわゆる略式のそれです。

また、この1年位の間で、信仰というものが次第にわからなくなって来て、今現在、色々と迷っている状態の私なのです。
いきなりおかしな事を申しまして、すいませんでした。

830顕正居士:2003/09/26(金) 02:23
ドプチェクさん。

曼荼羅という物体に仏力や法力があるのではなく、曼荼羅を媒介として仏力や法力
と信力がまじわるところに功徳が生じるのであります。「心は工(たく)みなる画師
の如く、種々の五蘊を造る」。日寛師の御形木が好きでないというのはドプチェク
さんの心理のあらわれですから、如法(合法的)に気に入った御形木をいただけば
それでよいのであります。日蓮聖人の真蹟曼荼羅は多数が現存しておりますから、
守護する寺院の檀徒になるなどの志によって、如法に御形木をいただけることがある
でしょう。日蓮宗学、日蓮宗史、真蹟曼荼羅、各寺院重宝の縁起などを一定学んだ
あとなら、おのずから好きな曼荼羅が決まることもあるでしょう。

日寛師の御形木は創価学会でながく用いてきたものであり、日蓮正宗と分離の後も
如法性(合法性)に問題がない。日蓮正宗を離脱した日寛師真蹟を守護する寺院から
提供されているからです。

831Jルーカス:2003/09/26(金) 07:54
私は他宗になっている創価学会が、どのような本尊を下付しようとも勝手であり、やれ「偽本尊」だのと言うのは好きではありません。

それより、創価学会の問題で気になるのは「賃貸借契約」で借りていた「御形木御本尊」を返して来ないことだと思います。
そもそも、日蓮正宗では「常住御本尊は授与(所有権移転)」であり「御形御本尊は御貸し下げ(所有権留保)」だったハズです。
既に所有権取得している「常住御本尊」をどうしようと勝手でしょうが、未だ所有権が日蓮正宗にあるものを、寺院に返さないのは、創価学会では国法的にはどう捌いているのでしょうか。

832刑法007:2003/09/26(金) 21:33
 紛れもなく「借りた物を返却シナイのは”詐欺罪〜窃盗罪”」でしょう、、か、、?
 今すぐ、法律事務所(除く公明系)に御相談を、、!!

833ガンコ:2003/09/27(土) 16:22

アネモネさん

うああ、またまた、なが〜い文章ですねえ。これは脅威です。

少し話題を変えさせていただきますが、アネモネさんご自身はいわば日蓮正宗を卒業されたといっていいかと思います。(もちろん、正宗側からいえば退転というでしょうが)

さて、問題は、卒業どころか入学すらしていない人について、どのように捉えるべきなのか? であります。
もうひとつには、入学はしたものの卒業できない人はどうするか? です。

おそらく、最初の問題は、今日においては信教の自由の時代であるから、べつにそういう人がいてもおかしくないし、どうこうするべき筋合いではなく、そんなこと論ずるのはナンセンスである、なんておっしゃる人もいるかと思います。しかし、わたくしが考えたいのは、この掲示板の参加者の多くはかつてどこかの教団に所属していて、そこではじめて仏法にめぐりあったわけですが、ようは、そういう人しか通じない話をわたくし達は論じているのだろうか? という疑問があって、けれどもアネモネさんはもっと普遍的な議論をしているとの自負をもっていらっしゃるように感じますし、そうすると、この信仰に縁をしていない人にも話が通じなければいけないと思うのですが、現実問題としてとてもついていける話ではないし、じっさい、この掲示板を見ることすらないわけでして、そうなると、ようは、アネモネさんのような境地に到達するためにはどうしたらいいかといえば、けっきょく、どこかの教団を経なければ到達できないのではないか? という問題を考えているわけです。

もうひとつの問題・・・たとえ入学しても卒業できない人はどうするか・・・ということの意味は、ぞくの言葉で“ハマッテいる人”ということではなく、ようは、落第生のことです。つまり、アネモネさんはみごとに卒業され、いまは新たな道を歩んでいらっしゃるわけですが、それはそれ相応の能力をお持ちだったからではないのか? という気がするわけでして、能力のない人は卒業ではなく落第であり、いずれは除籍となるわけで、けっきょく、なんにも身につかずにタダの人に戻ってしまう可能性が高いと思われるわけで、そうすると、むしろ留年し続けても教団に所属していたほうがアネモネさんのような境地に達するための近道になるのではないか? という考え方も成り立つように思うのです。

つまり、わたくしのような無能力者は教団にしがみついていないとダメであり、また、じつは大多数の人がそうなのではないか? という風に考えているのです。

834ドプチェク</b><font color=#FF0000>(Liye31iI)</font><b>:2003/09/27(土) 17:24
顕正居士さん

>>830

そうなんですか。
こんな言い方をするのはどうかと思いますけど、人間同士の間にそれぞれの好みや相性の違いがあるように、曼荼羅に関してもそういうのがあるんでしょうかね(詳しい事はわかりませんが)。
浄圓寺に現存するという日寛上人の曼荼羅の原物は見た事がないのですが、創価学会員に授与されているそれは、書写した人の筆跡のせいで、文字がすごく見難い為、私自身は違和感を覚えてしまいます(それが、書写された人によるものなのか、それとも、日寛上人ご自身によるものなのかは、わかりませんけど)。
ここ最近、私自身の中で、創価学会が用いている日寛上人の曼荼羅に対して疑念が生じて来た理由は、ちょうど時期的に学会が日蓮正宗と決別した12年前から(学会が、現在の曼荼羅を配布し始めたのは、その2年後です)、ある面で、以前よりもますますおかしくなって行ったという現実と、それに、私個人に関しても、物事が思いどおりに運ばない事が多かった為なのでした。
ちょっと神経質になり過ぎていたのかもしれません。
ありがとうございました。


Jルーカスさん

>>831

私は法的な事については知らないのですけど、創価学会がそれまでの日蓮正宗の曼荼羅を、特に日寛上人のそれへと取り替えた後、日顕上人書写のものをどうしているのかとなると、大いに「?」ですね。
以前、どこかの掲示板で目にした事があるのですが、学会は日顕上人書写の曼荼羅を自分たちで勝手に処分しているというお話でした。
数年前、学会は会員に対して日顕上人書写の曼荼羅を日寛上人のそれへと取り替えるよう、大々的な運動をやっていましたけど、あれなんか、まさに愚の骨頂と言うべきですね。
学会員で未だに日顕上人書写の曼荼羅を持っている人は、多分、学会の中では異端者扱い、もしくは変人扱いされてしまうのではないかと思われます。
私の場合、9年前に取り替えてもらったのですが、その当時は、まだ大々的な運動ではなかったものの、申し出に対してあまり深く考えていませんでした。
でも、もし今の私だったら、拒否するでしょうね。
それと、あまりよく知らないのですけど、学会が昨年頃から入会者へ携帯本尊を授与しているという事については、いったい、彼らは何を考えているのか?と思っています。
何でも携帯の方が普通のそれよりも、若干金額が上だというお話にどこかで接した事がありますので、もしかすると金儲けの為にやっているのではないか?と、そんな疑惑を抱いてしまいますね。
まぁ、今の私にとっては、もはや学会がこれから先、どのようになって行こうとも、半ばどうでもいい事なのですが、ただ、いつまでも調子に乗って、あんな馬鹿な真似ばかりをしていたら、そのうちいつか、何かとんでもないしっぺ返しを受けるのではないか?と、漠然とではあるものの、そんな風に思っています。


刑法007さん

>>832

>今すぐ、法律事務所(除く公明系)に御相談を、、!!

そうでしょうねぇ。
創価学会絡みのトラブルでは、間違っても創価学会=公明党系の人間に頼めば、大変な事になるでしょう。
無論、公明党の議員など以ての外。
何しろ、あそこからは、これまで社会的に糾弾されるべき馬鹿な事を仕出かした、犯罪者の類が結構出ていますから。


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