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素朴な疑問
757
:
愚鈍凡夫
:2003/09/21(日) 19:09
富士年表より
333元弘 3 癸酉 後醍醐 北条守時 正慶 2 光厳 滅後 52年 日道
10月 日目法を日道に付す(聖691)10月 日行下之坊に住す(聖739)11.15 3祖日目太夫阿日尊・宰相阿日郷を伴い天奏上洛の途美濃垂井に入滅、荼毘に付す74(聖661・大過去帳)○日尊・日郷3祖日目の遺骨を奉して上洛天奏(聖662)○日郷遺骨を奉じて大石寺に帰り下之坊に納む(聖662・下之坊寺誌・別統)
富士年表では、1333(元弘3/正慶2)年10月、日目師は日道師に血脈付法し、心おきなく上洛の旅に出たが、志果たせず旅路の途中で入滅された。ということになっていますね。
なのに、日道師と日郷師の間に相続争いが生じたのは何故か。単なる土地問題ではなく、実際は宗門の主権争いではなかったかと思うのですが。
日目師は日道師・日郷師、どちらに法主の座を譲るとも決めていなかったのではないでしょうか。天奏から帰ってから考えれば良いと思っていたのではないでしょうか。
日道師は天奏に行く前に自分に相承があったと言い、日郷師は入滅前に自分に相承があったと言えば、どうなるでしょうか。
あとは、普段の教団内の力関係が物を言うということではないですか。
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