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素朴な疑問
810
:
アネモネ
:2003/09/23(火) 20:07
横レスごめんなさい。
>800
ガンコさん
どうも私の投稿は、言葉が過ぎるようで後が続かなくなってしまうところがよくありませんね。気をつけようとは思っているのですが、入信以来、常に気になってきたことが私の中で、大きな宗教テーマとして横たわっているものですから、どうかご容赦ください。
ガンコさんに対して、個人的感情でもって批判をしているわけではありません。あくまで書かれているその内容について、問題提起しているということをご理解くださって、お付き合いください。
>情緒的であろうとじぶんでも思ってます。
この点は、誰しも同じでしょう。私も相当に情緒的ですし、その点は随分と独歩さんに手厳しく指摘されてきました(笑)しかしまた、仏教から情緒的なものを全て取り去ることはできないということも、同時に教わりました。
そのとおりですね。人間が幸せになるための内面的な教えなのですから。むしろ教えそのものは、最も情緒的な範疇のことなのではないでしょうか。
ただしかし、宗史や教義の真偽となると趣旨が違ってきます。
歴史的な考証からの教義研鑚には、感情的な思いは妨げになることのほうが多いでしょう。
ところが、信仰的立場にある場合、その信仰的情緒によるアプローチとその伝承のみを絶対的なものとして捉えてしまうわけです。
だからますます一般社会との溝が深まるばかりでしょう。
しかもそれが、真実であるかどうかは証明されなくていいとまで開き直られる。
開き直りはよくないです。それは、真理への追求や探究心を怠っているだけのことではないでしょうか。その点においてはむしろ私の目からみると、日蓮の真の仏教探究の精神から大きく外れているのではないかと感じるところなのです。
>ただ、言い訳を申しますと、大聖人の御書を拝読していてつくづく思うのですが、大聖人の仏法は法義的な部分と情緒的な部分のさかいがない、法義と情緒が混然一体となったところにものすごい魅力がある、と思うんです。
仰りたいことは、よーくわかります。
日蓮さんの情緒的な部分は私も大好きです。しかしガンコさんが捉えているように、本当に日蓮さんは、情緒的な感情だけで、仏教を研鑚していたのでしょうか。
私はそんなふうには感じられないんですね。日蓮の学術的思考方法はいたって合理的手法なのではないかと思いますが、どうでしょう。
むしろ教義を情緒的に自在に表現できるところまで、それだけ緻密に科学的に教義研鑚を積み重ねてきた実績が大きいということではないでしょうか。だからこそ、法論に強かったのではないかと思うのです。
ですから、日蓮の残した書に、「法義的な部分と情緒的な部分のさかいがない」というのは、日蓮さんのことではなく、そう思うガンコさんの見方のことを意味しているのでしょう。
しかし恐らく、非常に科学的な研鑚と論考を駆使しする学術法と、そこで掴んだことを、さらに人々の魂に訴える情緒的豊かな表現の術も両方兼ね備えた、非常に魅力ある方だったのではないかと思われます。
ついそこをゴッチャゴチャに捉えてしまいがちですが、しかし私は日蓮さんの、あの当時における合理的な研究姿勢にこそ、見習うべきことが多くあるはずではないかと思っています。
本物を見抜くためには、そういう姿勢を養うべきで、八正道に相当することかもしれません。
ただしそんな日蓮さんにも限界はあったと思うのです。何よりも、時代的な限界です。それはそのまま日蓮教義の限界にも通じるものではないかと私は判断しました。これを覆すだけの史実が証明されれば話は別ですが。
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