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素朴な疑問

753犀角独歩:2003/09/20(土) 13:43

> 752

有り難うございます。
富士年表の記述の意味がわかりました。
言うところは、仰せのとおり『日順阿闍梨血脈』ですね。該当は、

「嘉暦第一の暮秋には険難を凌いで本尊紛失の使節を遂げ、同号二年八月に身命を捨てて禁裏最初の奏聞を致す」(富要2-22)

のことを指しているのでしょう。偶然にも、話題にしている盗難事件との絡みとなっています。

興師は漫荼羅本尊複数に脇書して「本門寺」と記されています。
これは一本門寺内の複数の堂宇に懸ける意味なのか、本門寺を複数建立することを前提にしてのことなのか、今ひとつ、判断が着きかねます。わたしは後者ではないのかと思っています。しかし、そうなると、そのなかで取り分けて、天皇帰依で建つ本門寺はどのように書き分けているのかが、読めません。

上古は複数相承で目師は郷師にもちろん何某かの相伝・相承を示していると思っています。郷師は好感を持つ人物の一人です。美濃の垂井で、尊師と共に目師を荼毘に付し、その遺骨半分を富山に持ち帰りました。不思議なことにその遺骨を納めたのは「大石寺」ではなく、下之坊。この遺骨はいったい何処にあるのでしょうか。

わたしは、石山で蓮師灰骨というものこそ、実は目師のものではないのかと仮説を述べたことがあります。道師『御伝土代』ではなぜか目師の既述は中途半端です。このようなことから、道師の石山は目師軽視、つまり、目道不仲で、むしろ、目師は尊郷を重視していたのではないのかと思えるわけです。

しかし、先にも記しましたが、当時の寺院相続は完全な地頭縁戚に基づくものですから、石山は道師へ、しかし、法義、その他の信頼は尊郷両師に強く、けれど、尊師は興師六人の弟子に漏れることから、郷師の信任のほうが篤かったろうと思えます。

ただし、悲しいかな歴全、日宗全が手許にありませんので、道師に係る文書は『御伝土代』以外、手許にありません。他の確実な文献から道師の目師への信伏随従が窺えるものがあれば、どなたでも、この記述に批正を加えていただければ幸甚です。


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