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素朴な疑問
825
:
アネモネ
:2003/09/25(木) 02:07
(つづき)
>こうなると、もしかしたら、この先、釈尊すら否定的に捉えることになるんじゃないのかと、・・・これはまったくのあてずっぽうですが・・・ともかく、そんな気がするのです。(ぜんぜんちがっていたら、ごめんなさいです)
いえいえ、まんざら違っているとは言い切れないです。説明させて頂きますと…。
久遠の釈尊となると、否定というか、キリスト教でいうところの絶対神と同じく、観念上のものではないかと思っています。(もちろんキリスト教の人にしたら、決して観念の存在ではないということになるでしょうけれども)
ただ別のスレッドでも書いたことですが、人間の人智を超えたなんらかの存在(それが「正法」であるとしても)を、擬人化もしくは神格化して捉えることで、そこから教えが生まれ、その教えによって人間が理性的に生きていく更なる智恵を築きあげてきたということはあるのではないかと思います。そういう意味では、全く否定しているというわけでもありません。
ただ自分自身がその遥かなる存在を自分の肌感覚として、強く体感なり実感なりしているかというと、そうではないわけです。たとえば自分なりに自然の摂理などを実感するときにそんなことを重ね合わせるようなことはあります。しかし、それであってもやはり自分の掴みは限りなく観念的なのではないだろうかと思うものなのです。
お釈迦さまに関しても、超人的な、神格化された存在として信仰を捧げるという強い気持ちはなくなりました。しかし、覚者とか人格者としての釈尊の奥深い思想と、そこから発生した仏教哲理(語彙が不適切かもしれませんが)には、大変興味を持っています。
とても体系的とはいえない雑然とした学習ながらも、自分の思想の糧にこれから少しずつでも学んでいきたいと思っています。
とはいえこれも随処で書いてきていることですが、私は元々がキリスト教の信仰の経験があり、思想的にその影響を色濃く受けてきています。ですらか、どうしても教義の置き換えで学んでしまうところがあると思うんですね。ですから、思い切って書きますが、私の中では、仏教もキリスト教も、習合もしくは融合されてしまっているといってもいいかもしれません。それが正しいことだとはいえません。あくまで私の個人的な受け止め方です。ただ、いずれにしても絶対のものとしての信仰は考えていないのは現状ですね。
>もしかしたら無意識のうちにもアネモネさんとの議論は回避したい、ということはあるかもしれません。
富士門ひとすじの信仰でこられた方々にしてみたら、私の書いていることは非常に異質な尺度なのかもしれません。
噛み合わない部分はあるかもしれませんが、しかし、この信心を広めようというのであるならば、私の書いている問題提起くらいはクリアしてもらわなければ話にならないでしょう。
地獄に落ちるよという脅しは、もはや私には通用しませんから、そのような言葉を使わずしてこの信仰の正しさを示す必要があるわけです。これまで当たり前に使われてきた言葉は、何の力も示せないものと思われます。
織田信長の時代、宣教師が日本に渡ってきて布教を始めようとしたわけですが、信長は日蓮宗のお坊さんと宣教師との法論をさせたと聞きます。そのときの勝負、詳細は知らないのですが、とにかく日蓮宗の完敗だったとのこと。
信長は比叡山を焼き討ちしたほどの人ですから、政治的な意図もあったことが伺えますが、しかしまたそれだけ僧侶の堕落が甚だしく、日蓮宗もその例外ではなかったと言われているわけです。誰のための宗教なのかという宗教者としての原点を忘れた姿にメスを入れた信長の政治的判断を、私は評価しているくらいです。
ただ、話が横路にそれますが、宣教師はスパイ的疑惑もあり、そのことを見抜いたのは家康だったといわれています。
宗教家の心の内を見抜くことは、並大抵のことではありません。
「絶対正しい」ということは、どこの宗教もいうのです。だけど、そんなにおいそれと真理にたどりつくものではないと思いますね。正しいと標榜する組織に所属しているから自分も正しいという、安易なものでもないでしょう。
結局は誰しも自分の人生の苦悩を通して、少しずつ悟っていくものではないでしょうか。その道のりの、少しばかりのヒントとなる助けのようなものが、宗教の教えではないかと捉えています。あとは、自分の理性で掴んでいくしかないものでしょう。…というところが、現時点での私なりのある種の掴みです。
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