[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
3501-
3601-
3701-
3801-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
素朴な疑問
1
:
管理者
:2002/02/20(水) 13:44
1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/28(月) 18:47
スレッド立ち上げの要請がありましたので、立ち上げます。皆様、気軽に御発言ください。要請文は以下の通りです。
>私の場合、皆様のように難しい事はわかりませんが、いわゆる「素朴な疑問」は
>あります。そのような質問でもよろしいでしょうか?
>もしくは、そのようなスレがあればいいのですが・・・
1178
:
愚鈍凡夫
:2004/03/23(火) 20:03
犀角独歩さん、からかわないで下さい。 σ(^◇^;)
お話中のところ失礼します。まだ資料があったものですから。
**************************************************
日蓮宗の念珠は、宗祖日蓮上人以来、華厳宗などの南都六宗で用いられている古い形式のものを使用していたが、室町末期頃より現在の形のものも用いられるようになったといわれる。
以後、広く日蓮宗各派に用いられる基本形となり、顕本法華宗、仏立宗、などの各派、祈祷用の各種のものなど、房の組み方の違いがみられるぐらいである。
「念珠の歴史」より
***************************************************
とのことでした。
「念珠の歴史」
http://www.nenjudo.co.jp/page/nenju-rekisi.htm
数珠の歴史に関しての追加資料です。
「念珠経典」
http://homepage3.nifty.com/koyasan/nenju2.html
「念珠とは」
http://www.juzz.net/nenju_towa.html
そうすると、日蓮宗系の2房の方(父珠・釈迦牟尼仏)の小さな輪は何を意味しているんだろうと考えたりしますね。 (^_^;
「もうええっちゅうねん!!」(by 外野席)
1179
:
エル
:2004/03/24(水) 08:54
愚鈍凡夫さん 情報ありがとうございます。
南都六宗のものが、念仏の平念珠や天台のソロバン念珠と違い、形から姿から、
もっとも法華の理をよく現わしていたのかもしれませんね。
ただ、興尊の数珠と現在の数珠は、例の1房の有無だけで、その他に大きな違
いはありませんね。あと、房の色は、日蓮正宗は白ですが、他の日蓮宗は赤と
か紫とか茶とか色々ありますね。
> そうすると、日蓮宗系の 2 房の方(父珠・釈迦牟尼仏)の小さな輪は何を意味
> しているんだろうと考えたりしますね。 (^_^;
父珠が釈迦牟尼仏になるのでしょうか。父珠というのは、心一境法性珠がある
方ですよね。日因抄を読めば、
「右釈迦智は右手に之れを掛くべし、多宝境は左手に之を掛くへし」
とありますね。という事は、2房が右にくるように持つという事でしょうか??
1180
:
犀角独歩
:2004/03/24(水) 11:00
エルさん:
> 興尊の数珠
の話題が出ていますが、これは石山で展示されたことが何度かあります。
わたしは七百遠忌の時に見ましたが、七宝造の色も鮮やかな大きなものでしたよ。
見た瞬間、「これじゃ、中指に掛けられない」と思いました。
あと三房はどこかの日蓮系の宗派も使っていた曖昧な記憶があります。
むしろ、わたしが石山の数珠との違いを感じたのは房の色でした。他派は紫とか色付きですが、石山は白でしょう。この白房が最も大きな違いと見えます。
> …父珠…心一境法性珠…日因抄…右手に之れを掛く
同類の記述は、因師の2代あとの芳師(元師)『対俗三衣談』にもあります。
わたしはこれを昭和56年10月14日にはじめて読んだのです。その読後記に
「去る9月21日に総本山参拝(七百遠忌)の砌、富士重宝展を観ず内に興師蔵の数珠有り。形は此れ392頁の図(以下、リンク)に似る。然し末代我等の数珠、其の形異なる。其の由来全く知らず。当今、心一境法性珠ある父珠のを左中指に掛くる事、元師の時とは異なるか」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/juzu.gif
と自ら記してありました。いみじくも今エルさんの疑問を、わたし自身20年以上前に懐いていたことがわかります。しかし本日に至るまで、納得の行く説明を聞いた試しはありません。慣習というのは案外、そんなものなのかも知れません。
中指に掛けることも、宥・寛・養・詳・東・教師いずれもそうであったと芳師は記し、併せて因師もそうであったわけですから、ほぼこの時代にはそのように行われていたのでしょう。けれど、興師の数珠を見る限り、中指に掛けられる大きさの珠ではありませんでした。合掌した両親指に掛けるのが至当と思えました。また郷門我師は人差し指と中指に掛けていたというわけで、同じ興門でも相違があることがわかります。さて、どこから変わったのでしょうか。
1181
:
エル
:2004/03/24(水) 11:44
犀角独歩さん お返事ありがとうございます。
> わたしは七百遠忌の時に見ましたが、七宝造の色も鮮やかな大きなものでしたよ。
> 見た瞬間、「これじゃ、中指に掛けられない」と思いました。
日興上人御所持の数珠は、七宝と半装束の2つが現存しているようですね。
そのうち、七宝をご覧になられたということですね。 それだけ巨大だと、
荘厳念珠でしょうか。(^^;
> あと三房はどこかの日蓮系の宗派も使っていた曖昧な記憶があります。
両2房は不授不施派と要法寺系で、その他日蓮宗は3房のようです。
> むしろ、わたしが石山の数珠との違いを感じたのは房の色でした。他派は紫
> とか色付きですが、石山は白でしょう。この白房が最も大きな違いと見えま
> す。
たぶん、白房にも薄墨衣と同じように深い意味があるのでしょうね。
> と自ら記してありました。いみじくも今エルさんの疑問を、わたし自身 20
> 年以上前に懐いていたことがわかります。しかし本日に至るまで、納得の行
> く説明を聞いた試しはありません。慣習というのは案外、そんなものなのか
> も知れません。
恐縮でございます。m(__)m
どうやら、伝に混乱が生じているようですね。日因抄には、昔は数珠伝があ
ったが、火事で焼けたみたいなことが書かれてありますね。残念無念。
>けれど、興師の数珠を見る限り、中指に掛けられる大きさの珠ではありませ
>んでした。合掌した両親指に掛けるのが至当と思えました。
ますます尺六の荘厳数珠のようですね。尺六とは一尺六寸の意で、主に儀式
用で使う念珠です。現在でも、真言とか念仏とかでも使っていますね。
半装束の数珠の方は、写真では大きさがよく分かりませんが、みるかぎり通
常の大きさのようですね。しかし、今回同じような疑問を感じた方がおられ
たという事が分かっただけで、大きな収穫でした。(^o^)
1182
:
愚鈍凡夫
:2004/03/24(水) 21:03
エルさん、どうも。
蓮祖は天台宗の僧でしたから、修行僧時代は天台宗の数珠を使っていた可能性が高いですよね。それを、「華厳宗などの南都六宗で用いられている古い形式のものを使用していた」というのは、何故でしょうか?
この記述が正しいとすれば、ちょっと不思議な感じもしますね。理由は何でしょうか。
日本天台宗の変遷に対する抗議の気持ちからなのでしょうか・・・・・。(`ヘ´) プンプン。
たとえそうだとしても、南都六宗で用いられる数珠を使用する理由にはなりませんね。
それと日興師の数珠ですが、重須での生活の方が長いわけですから、重須には伝わってないのでしょうか。伝わっているのであれば、石山のものと比較してみたいですね。
また、房の色が白いのは、
「其の色薄墨なる事は名字即を表する也、謂く泥色の中に於て六即を分つ、但だ是れ白色なるは理即也、薄墨なるは名字即也乃至黒色なるは究竟即也。」(「法衣供養談義」 富要3-283)
これは衣の色に対するものですが、意義付はこれと同じでしょうか。
数珠のかけ方の左右の件ですが、
右手が清浄(仏)、左手が不浄(凡夫)という解釈から言えば、釈迦牟尼仏は右手というのが作法としては正しいような気がします(因みに小生は左利きですが σ(^◇^;))。
こんなふうに、数珠一つをとっても色々と疑問点が浮かんでくるものですね。
1183
:
エル
:2004/03/25(木) 17:14
愚鈍凡夫さん こんにちは
> 日本天台宗の変遷に対する抗議の気持ちからなのでしょうか
天台宗の数珠は特殊ですからね。ソロバンの玉のような形をしています。
「円形は是れ法性の妙理を表するなり。」の仰せとは程遠いです。
天台大師が、あのような形の数珠を所持していたとは思えないのですが。(^^;
> 右手が清浄(仏)、左手が不浄(凡夫)という解釈から言えば、釈迦牟尼仏は右手
> というのが作法としては正しいような気がします。
ただ不思議なのは、日因抄には、
「右釈迦智は右手に之れを掛くべし、多宝境は左手に之を掛くへし」
「故に右の十珠記子即百千記子位なり、左二十珠即千万億の記子なり」
とあります。これでは2房の方が多宝で、3房の方が釈迦という事になります
よね。つまり、四菩薩側が多宝で、反対側が釈迦という矛盾が生じています。
それとも、釈迦=母珠、多宝=父珠という事なのでしょうか???
1184
:
愚鈍凡夫
:2004/03/25(木) 18:51
エルさん、どうも。
「緒留は等覚位なり達磨は妙覚の故に妙覚極果を越えず則之れに過くる上位之れ無き故なり」(袈裟数珠の事)
房が3本ある方の親珠が「緒留(母珠・多宝如来)」で、2本ある方の親珠が「達磨(父珠・釈迦牟尼仏)」ですから、右手側が2本であることは間違いないと思います。
エルさん引用のこの文証とも矛盾しませんが。
「右釈迦智は右手に之れを掛くべし、多宝境は左手に之を掛くへし」
「袈裟数珠の事」を改めて読み直してみて、次の文証があったのには驚きました。
「又、類雑三(五十六)に数珠経を引いて云はく母珠を越ゆべからず驀過越罪千万なり数珠は仏の如くせよ、勢至経に云はく平形を以ゆる者此れは是れ外道の弟子なり我か弟子に非らず、我か弟子必す円形の念珠を用ゆべし、次第を越ゆる者は妄語の罪に依り当に地獄に堕つべし文。
日因云はく此の中の数珠経は金剛瑜伽念珠経の文なり而るに引文甚だ謬りなり、母珠を越ゆべからすの句之れ無し、又千万の二字之れ無し、又勢至経と云ふ経録に之れ無し、口伝に平形念珠経を引くなり。」(袈裟数珠の事)
「数珠教を引いて云く母珠を越ゆべからす驀過越法罪千万云云、此の経は金剛瑜伽の文なり、然るに不応越母珠の句之れ無し、又慎莫の二字を置いて而も千万の二字を加ふる甚だ謬りなり、但し録外御書四(四十五)数珠教を引いて云はく不応越母珠過越諸罪数珠は如せよ仏の、勢至教に云く超越次第者依因果妄語之罪当堕地獄云云、此勢至経の文何れに在りや、又数珠経に云はく不応越母珠等の二句之れ無し(更詳)、今之れを案するに義引なるべし、」(袈裟数珠の事)
では、「母珠を越ゆべからず驀過越罪千万なり数珠は仏の如くせよ」、「平形を以ゆる者此れは是れ外道の弟子なり我か弟子に非らず、我か弟子必す円形の念珠を用ゆべし」とは、いったい何経からの引用なんでしょうか。日因師は義引と仰せですが。
「袈裟数珠の事」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu1_14.htm
「天台宗(数珠と掛け方の図解あり)」
http://www.butudan.co.jp/page03810.html
1185
:
七師外道
:2004/03/25(木) 21:12
房の数は2×2が本来のもので、父・母(佛・経)の輪(法輪=教)を子が掛ける姿である。
掛け方も中指に掛けるというのは近世になってからの事と思われる。
蓮祖及び上代においては台家と異ならぬ掛け方であったと考えるべきである。
また「信徒は留房(玉房)、僧侶は払い房」などと云うものもあるが真俗の別もの無い。
興門において数珠の房の白きは幣束の義意を持つが故である。
また珠も塗り珠を用いてはならないが、これも同様の意を持つ。
因みに三門の朱きは鳥居の義を事に表している。
1186
:
七師外道
:2004/03/25(木) 21:27
訂正
真俗の別もの無い⇒真俗の別も無い
猶、蓮祖、興門の真義については不明であるものの、御真跡管見記、明星口伝、十の口伝、等から推察が出来よう。
又、丑寅重視も同様である。
現今、他門は云うに及ばす石山においても蓮祖、興尊の神佛義の会通は不可能であろう。
1187
:
エル
:2004/03/26(金) 08:46
愚鈍凡夫さん こんにちは
> 房が3本ある方の親珠が「緒留(母珠・多宝如来)」で、2本ある方の親珠が「達
> 磨(父珠・釈迦牟尼仏)」ですから、右手側が2本であることは間違いないと思
> います。エルさん引用のこの文証とも矛盾しませんが。
えーとですね。
●房3本 母珠 多宝 左手
●房2本 父珠 釈尊 右手
という事ですよね。ところが、日因抄には、
「右の十珠記子即百千記子位なり、左二十珠即千万億の記子なり、一珠は無数
位なり既に無数位一つなり、又水精を用ゆるは無数の功徳成する故なり、然
れば右の十の記子は百千数位、左の廿一は千万億無数の記子なり、皆三十種
波羅密を表して卅即一珠と為す者なり。」
とあって、これが矛盾ではと思ってるわけです。つまり、房の21珠の方、も
う少し詳しく述べますと、心一境法性珠のある方を左に掛けよと言われている
わけです。心一境法性珠のある方は2房の方ですから、これでは、房2本が左
手にこなければおかしいですよね???
1188
:
愚鈍凡夫
:2004/03/26(金) 12:09
エルさん、こんにちは。
「次に左右の露は行者の一身を表す、卅一珠は但是十波羅密、分別して卅一珠と為す、其の故記憶珠子なるが故に右の十珠記子即百千記子位なり、左二十珠即千万億の記子なり、一珠は無数位なり既に無数位一つなり、又水精を用ゆるは無数の功徳成する故なり、然れば右の十の記子は百千数位、左の廿一は千万億無数の記子なり、皆三十種波羅密を表して卅即一珠と為す者なり。」(袈裟数珠の事)
仰る意味は分かります。
でも、そうなると四菩薩から遠い方が釈迦牟尼仏で、四菩薩に近い方が多宝如来ということになってしまいます。個人的に違和感があります(小生は数珠を手に掛ける場合、無意識に2房の方を右に掛ける習慣がありますから。)
この辺の処、どう思われますか。
「然れば右の十の記子は百千数位、左の廿一は千万億無数の記子なり、皆三十種波羅密を表して卅即一珠と為す者なり。」
これって「右の十の記子」、「左の廿一」と数えておいて、「皆三十一種波羅密を表して」ではなく、「皆三十種波羅密を表して」とし、「卅即一珠」とするのは結構苦しい解釈だとは思いませんか。「三十種波羅密」とするのであれば、何故「右の十の記子」、「左の廿」と数えないのでしょうか。その上で「数取り珠」を加えて「卅即一珠」とするほうがすっきりすると思うのですが。まあ、五字七字に引っかけて5×2=10、7×3=21と言うことでしょうかね。
1189
:
エル
:2004/03/26(金) 16:04
愚鈍凡夫さん お返事ありがとうございます。
> この辺の処、どう思われますか。
いやですから、日因上人はなぜ矛盾した事を言われているのか、それが??な
のです。
で、愚鈍凡夫さんは、右手2房のかけ方をしてらっしゃる。私は逆で右手3房
です。まぁ、そのように指導をうけたから掛けているだけなのですが。(^^;
日因抄には、先代は皆作法に迷えりみたいな事が書かれてありますが、日因上
人は日寛上人より後ですから、先代のなかには日寛上人も入っているのですよ
ね。ある意味スゴいですね、この発言は。(^^;
1190
:
愚鈍凡夫
:2004/03/26(金) 21:19
エルさん今晩は。
結局、石山では数珠の掛け方は口伝として伝えてきたということでしょうか?
日蓮宗と逆なのは何故でしょうね。それぞれの珠の意義から言えば、日蓮宗の掛け方の方が理に叶っていると思うのですが。 (゜ペ)ウーン
いやはや小生が驚いたのは、真偽未決書とはいえ「戒法門」の文証に真っ向から喧嘩売ってるような記述ですね。ある意味、凄い度胸だと思います。 (・・;)
「日因云はく此の中の数珠経は金剛瑜伽念珠経の文なり而るに引文甚だ謬りなり、母珠を越ゆべからすの句之れ無し、又千万の二字之れ無し、又勢至経と云ふ経録に之れ無し、口伝に平形念珠経を引くなり。」(袈裟数珠の事)
「数珠教を引いて云く母珠を越ゆべからす驀過越法罪千万云云、此の経は金剛瑜伽の文なり、然るに不応越母珠の句之れ無し、又慎莫の二字を置いて而も千万の二字を加ふる甚だ謬りなり、但し録外御書四(四十五)数珠教を引いて云はく不応越母珠過越諸罪数珠は如せよ仏の、勢至教に云く超越次第者依因果妄語之罪当堕地獄云云、此勢至経の文何れに在りや、又数珠経に云はく不応越母珠等の二句之れ無し(更詳)、今之れを案するに義引なるべし、」(袈裟数珠の事)
とくるわけですから。
1191
:
エル
:2004/03/27(土) 11:14
愚鈍凡夫さん こんにちは
ようするに、日因上人は、母珠も数に入れて数えて、母珠にいきあたったら、
引き返さずに繰り越せ、そして、数珠を一巡しろ、それが正しいやり方だ。
と言われているのでしょうか。なんかそのように読めるのですが。(^^;
これが事実だと、犀角独歩さんが僧侶から教わったというやり方と、真っ向
から対立しますね。
> 結局、石山では数珠の掛け方は口伝として伝えてきたということでしょうか?
資料はあったが焼けたみたいなことが書かれてありますね。
> 「行者謹んで次第を超越する勿れ、勢至経の如きんば妄語の罪に因って当に
> 地獄に堕つべし、亦復母珠を超ゆること勿れ」(六巻抄当家三衣抄第六)
ところで、ここで述べられている「次第」とは何のことでしょうか?四菩薩
の事?
> 日蓮宗と逆なのは何故でしょうね。それぞれの珠の意義から言えば、日蓮宗の
> 掛け方の方が理に叶っていると思うのですが。 (゜ペ)ウーン
大石寺は日蓮宗と逆の持ち方をしてますね。という事は、日因上人の教えに
反してる?? 戸田城聖氏は右2房だったらしいですね。それで、一時期、
学会は大石寺と逆の持ち方をしていたらしいです。
1192
:
愚鈍凡夫
:2004/03/27(土) 12:22
エルさん、こんにちは。
> ようするに、日因上人は、母珠も数に入れて数えて、母珠にいきあたったら、
> 引き返さずに繰り越せ、そして、数珠を一巡しろ、それが正しいやり方だ。
> と言われているのでしょうか。なんかそのように読めるのですが。(^^;
そうではなくて、日因師は数珠経に「不応越母珠」の文は存在しないと言っているのだと思います。"母珠を超えろ"とは言っていないと思います。
>資料はあったが焼けたみたいなことが書かれてありますね。
言いたかったのは、統一されたマニュアルのようなもを代々伝えなかったのだろうかと言うことです。
日寛師がここで「次第」と言われているのは、エルさんが引用されている文証の前文の、
「夫れ数珠とは此れ乃ち下根を引接して修業を牽課するの具なり〜(中略)〜此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし云々。」(当家三衣抄)
を指していると思います。
信者は、これらのことを良く理解して弁えなさいとの意味だと思います。
確かに、日因師の御指南を額面通り受け取ると、右手に3本房の方を掛けなさいと言っているように思いますね(珠の数からいって)。
右手に3本房を掛けるとして、「右の十の記子」が気になるんですが、これは「数取り珠」を指しているのでしょうか、それとも、「10大弟子」を指しているのでしょうか。どちらなんでしょうね。
1193
:
犀角独歩
:2004/03/27(土) 23:10
横レス失礼。
> 一子を過ごすべし
の「一子」は「一期」、すなわち、一期生のことであろうとわたしは読んできましたが、お二方いかがでしょうか。
間違ってますでしょうか?
1194
:
エル
:2004/03/28(日) 06:10
ちょっとググってたら以下の発言を見つけました。いやー、皆さん同じような
疑問を持たれてますね。
http://www.sfken.com/fujinomiya/pslg4083.html
でも、ここでも諸説いろいろあって、ハッキリとしたことは分かりませんでし
た。
1195
:
愚鈍凡夫
:2004/03/28(日) 13:02
犀角独歩さんのご質問の狙いが何処にあるのか分かりませんが、「一子」を小生も「一生涯」との意味ととらえています。
エルさんがご紹介下さったHPの4117に
> この中に、念珠の図が載っているのですが、なんと、左と右も房は2本!!!( 富士宗学要
> 集1巻 359ペ−ジ )
> 当時( 江戸時代後半 )の念珠が、今と違っていた証拠です。
とありますが、これは犀角独歩さんが
>>1180
に紹介下さった数珠のことだと思います。そうすると、日因師が「左二十珠即千万億の記子なり」、「左の廿一は千万億無数の記子なり」と記述しているのは何故でしょうか。
日因師の時代には、3本房が存在した証拠ではないかと思います。
1196
:
愚鈍凡夫
:2004/03/28(日) 13:06
訂正
絵の右側に20珠がきているので小生の勘違いでした。
(_ _(--;(_ _(--; ペコペコ
1197
:
エル
:2004/03/29(月) 07:02
ざっと、まとめてみました。m(__)m
■数珠の7不思議
1、父珠をどちらに掛けるのが正しいのか。その理由は?
(文献には、父珠を右に掛けるということだけで、なぜ右に掛けるのかとい
う理由・根拠が明らかになっていない。
虚空会の儀式に従えば、インドは右尊左卑だから右側が尊いこととなる。
御本尊をみても、釈迦は右側に位置している。我々から見ると左側。また、
右遶三匝の意もある。そのためか。)
2、そもそも、どっちを父珠と呼ぶのか。その理由は?
(富要集の念珠の図は日因抄と反する。)
3、途中から1房増えたのは何故なのか。
(数取り用だからと云われているが、そもそも数珠は数取り用の意味も含め
て作られているのだから、新たに1房増やす理由にはならない。では、両
2房の時はどうしていたのか。)
4、房が増えれば当然珠の数も増える。
(日芳師は、左右の房の30珠は諸法の三千を現わすと云われているが、
現在は40珠で、すでにこの義は崩壊している。)
5、房の形が出家と在家で違うのは何故なのか?
(戸田氏は出家と在家の区別をするために左右逆転したと云われているが、
すでに房の形が出家と在家で違うわけだから、新たに逆持ちをする必要は
ない。それとも戸田氏の頃は房の形は同じだったのか。それとも、これは
作り話なのか。)
6、日興上人の七宝の数珠には房がついていない。荘厳念珠だからか。
7、繰っていて、母珠にたどりついたらどうするのか?
(日因抄では、教典にそのような内容はないと云っている。)
ところで、日因抄には父珠という言い方は出てきませんね。二つとも母珠とい
う言い方をされてますね。
1198
:
エル
:2004/03/30(火) 14:33
また別の質問に参りました。よろしくお願いします。
大石寺では、江戸時代から客殿一カ所において五座の勤行が行なわれるように
なりましたが、それ以前は、以下のそれぞれの堂にて勤行が行なわれていたと
聞きます。
1. 天堂 初座
2. 本堂 二座
3. 御影堂 三座
4. 客殿 四座
5. 墓所 五座
で、質問なんですが、天堂にも御本尊が祀られていたのでしょうか?
それとも、堂の中は何もなく、今日の我々がするように、東天に向かって唱題
していたのでしょうか。 よろしくお願いします。
1199
:
エル
:2004/04/01(木) 17:01
大聖人から日興上人へ授与されたと云われる、以下の御本尊について教えてく
ださい。
執筆年月日 「文永九年大歳壬申正月元旦」
授与文 「問答第一行戒智徳筆跡付法の沙門日興に之を授与す」
所蔵 「要法寺」
これは、御真筆なのでしょうか? よろしくお願いします。
1200
:
三学無縁
:2004/04/01(木) 17:43
横レス失礼します。
さきほどまで独歩さんとお会いしていろいろと話していました。
その場でもビックリマークが互いに飛び交ったのですが、別れた後、連絡をいただき、さらにビックリということになりました。
ネットで公表可能かどうかの判断は独歩さんにお任せしたいと思いますが、石山はまさにビックリ箱の大蛇、誤変換です、王者でした。
鮮明な弥四郎マンダラの写真がないのが残念ですが、相貌・座配が活字化されたものだけでも大きく異なっていました。
もっともそのうちのひとつは、活字ではなく、古文書に記された相貌図なのですが。
謎が謎を呼ぶ、石山には明瞭なモノは皆無なのかもしれません。
あわてて途中下車し、ネットカフェに飛び込んで少々興奮しながらカキコしています。
1201
:
犀角独歩
:2004/04/01(木) 18:34
三学無縁さん:
先ほどはどうも有り難うございました。
いつもながら、蘊蓄には深く頷かせていただくと共に、今更ながらの新発見に時の経つのを忘れました。
それにしても、四半世、紀石山・学会問題に関わって来られた三学無縁さんに、ここまでびっくりしていただけるとお話のし甲斐もあろうという者です。まあしかし、「素朴な疑問」なんてものではないので、投稿するのであれば、該当するスレッドを選ばなければなりません。さてしかし、記してよいかどうか。
取り敢えず、先のお話の分析表はファックスします。
…私信を公開の場で失礼しました。
半分はわたし宛のレスト云うことでご勘弁ください。
それと「弥四郎マンダラ」、漢字で書けば「弥四郎漫荼羅」、たしかに造立者の名にちなんでいてこの記述はなかなか。わたしも使わせていただこうと思います。
1202
:
れん
:2004/04/01(木) 21:30
エルさん、初めまして。お尋ねの要法寺蔵の文永九年の曼陀羅は、私もお筆写真を見たことがないので分かりませんが、安国会の御本尊集に収録されてないところを見ると真偽の問題があるものでしょう。この外要法寺には建治二年太才丙子正月元日、附法沙門日興授与之とある曼陀羅が伝承されていますが、これも真偽の問題があるものでしょう。あとは身延山に弘安五年太才壬午八月三十日、付法第一智徳沙門日興授与之とある蓮師曼陀羅がかつてあったそうです。こちらは、身延山で出した年表に出ているので、一応信頼してよいと思います。右参考まで。m(__)m
1203
:
れん
:2004/04/01(木) 21:47
エルさん。話が前後しますが、初座の天拝が行われていた天経は、上代では御堂としての立派な建物があるわけではなく、土を踏み固めた土壇が本体だったようです。主師の代に天堂が建立されたようです。初座は蓮師の時代から行われていたようで、身延山三世日進師の口述をまとめた「日進聖人仰之趣」に蓮師の逸話として「一、聖人ハ天ノ御為二番々ツモツテ老僧連二御経ヲ読セ玉フ二、ハヤク来ル者ヲハニクシト、ヲソクヨメト仰セラルル也云々」とのエピソードを伝えております。右ご参考まで。m(__)m
1204
:
愚鈍凡夫
:2004/04/01(木) 22:46
蓮祖には、外で三光天子を拝む信仰形態があったことが広く知られています。
清澄山における立教開宗の唱題誓願のときも、暗いうちから拝み始められ、まず月天・明星(虚空蔵)を、そして、昇りゆく日天を拝まれたと推察できます。
この三光天子を拝む信仰形態を記した文を遺文から引用すると、
「夜もひる(昼)も高き山に登て、日月に向て大音声を放て上を呪咀し奉る。其の音声一国に聞ふと申す。」(種種御振舞御書)
「御日記ニ云ク、毎年四月八日より七月十五日まで九旬が間、大日天子に仕させ給ふ事。〜(中略)〜日月天の四天下をめぐり給フは仏法の力なり。〜(中略)〜法華経の序品には普香天子とつらなりまします。〜(中略)〜日蓮モ又此ノ天を恃たてまつり、日本国にたてあひて数年なり。」(四条金吾釈迦仏供養事)
「日月に向て大音声を放て上を呪咀し奉る。」「日蓮モ又此ノ天を恃たてまつり、日本国にたてあひて数年なり。」とあります。
1205
:
犀角独歩
:2004/04/02(金) 00:18
れんさん、愚鈍凡夫さんのご紹介にもあったとおり、蓮師に天拝思想があったように思えます。けれど、通日蓮宗の勤行にその名残は見られませんね。わたしが不思議に思っている点の一つです。
1206
:
地名
:2004/04/02(金) 03:56
「天を拝む」というのは、神道の方の関係からでしょうか。
1207
:
地名
:2004/04/02(金) 04:17
1200、1201について・感想
「弥四郎曼荼羅」というのは非常におもしろい表現です。
>相貌・座配が活字化されたものだけでも大きく異なっていた。
>もっともそのうちのひとつは、活字ではなく、古文書に記された相貌図なのですが。
三学無縁さんの、ここの部分の記述はかなり深い内容のような気がします。
1208
:
地名
:2004/04/02(金) 04:25
「天を拝む」について、
1186の七師外道さんの「現今、他門は云うに及ばす石山においても蓮祖、興尊の神佛義の会通は不可能であろう。」という記述、特に日蓮、日興の神佛義といわれるものとの関係について思いを致しました。
1209
:
エル
:2004/04/02(金) 09:06
れんさん はじめまして。
> 安国会の御本尊集に収録されてないところを見ると真偽の問題があるもので
> しょう。この外要法寺には建治二年太才丙子正月元日、附法沙門日興授与之
> とある曼陀羅が伝承されていますが、これも真偽の問題があるものでしょう。
なるほど、そうですか。しかし、両本尊とも元旦というのが気になりますね。
私の記憶では、元旦のあとに日食とかの文字があったと思うのですが、定か
ではありません。(^^;
ところで、要法寺の建治二年の御本尊は現存しているのでしょうか?
> あとは身延山に弘安五年太才壬午八月三十日、付法第一智徳沙門日興授与之
> とある蓮師曼陀羅がかつてあったそうです。こちらは、身延山で出した年表
> に出ているので、一応信頼してよいと思います。
わかりました。情報ありがとうございました。(^o^)
1210
:
エル
:2004/04/02(金) 09:11
れん こんにちは。
>上代では御堂としての立派な建物があるわけではなく、土を踏み固めた土壇
>が本体だったようです。主師の代に天堂が建立されたようです。
ということは、相撲の土俵のような感じだったのでしょうかね。私は、天堂の
本尊というのがあったと、かつて聞いた記憶があるのですが、建物のなかには
御本尊はなかったということですね?
>初座は蓮師の時代から行われていたようで、
ただ、日鎮上人の書かれた「堂参御経次第」という書物には、当時の勤行の様
子が書かれていて、天拝は初座ではなく二座に行なわれているのです。
-----------------------------------------------------------------
大永三年癸未 五月一日 夜の部
1、本堂 十如是・寿量品・題目百返
2、天御経 十如是・寿量品・題目百返
3、御影堂 十如是・寿量品・題目百返、再度、寿量品・題目三百返
大永三年癸未 五月二日 朝の部
1、御影堂 十如是・寿量品・題目三百返
2、天御経 十如是・寿量品・題目百返(祈念申候)
3、本堂 十如是・寿量品・題目百返(奉祈願候)
4、御影堂 十如是・寿量品・題目百返(祈念申候)
------------------------------------------------------------------
以上の順番となっています。これが疑問なんですよ。
驚くことに、夜も天拝を行っています。(@_@)
我々は、天拝は朝のみと教わりましたが、「初座 天拝 朝のみ」という形式
は、近年になってから生まれたものでしょうか?
日亨上人によりますと、五座三座の分配、十如是・寿量品長行・自我偈の区別
等の細目については、第九世日有上人が定められたと云われていますね。とこ
ろが、うえに述べた日鎮上人は日有上人より後の猊下です。初座天拝という化
儀は、承知徹底されていなかったのでしょうかね。
あと、江戸時代の頃は以下の順番だったと云われていますが、
1. 天堂 初座
2. 本堂 二座
3. 御影堂 三座
4. 客殿 四座
5. 墓所 五座
この中の、本堂にはどの御本尊が祀られていたのでしょうか?客殿は、今日の
ように御座替りの御本尊だと思うのですが。
1211
:
エル
:2004/04/02(金) 11:28
歴代法主全書を読んでみたいのですが、現在でも販売されているのでしょうか?
それとも、どこかに電子データとしてアップロードされてますでしょうか。
よろしくお願いします。m(__)m
1212
:
犀角独歩
:2004/04/02(金) 11:34
1208 地名さん:
わたしもこのような視点は重要だと思います。
日本は近代において2度の神仏分離を経ていますから、その都度、まるで法門・法式の解釈が変わってしまっていますね。明治の神仏分離令・廃仏毀釈、昭和20年以降尊皇国体の崩壊で佛教教団は脱神道で徹底されてきたわけです。
しかし蓮師の鎌倉時代から明治に至るまで神仏習合をさっ引いて仏教を論じることなどできようはずがありませんよね。
関連しますが、天堂は、れんさんがお示しのように露座土壇での天拝から変遷である可能性はあると思います。が、天堂というと、天主堂、あるいは天照大神の垂迹堂を意味する可能性もあると思うわけです。そうなると、諸天善神への法味供養という側面とは別個に尊皇感情と天照大神崇敬の意味合いがあったと類推したいことになります。ここら辺は戦後完全にスポイルされてしまっていますから、戦後世代にとって感覚的にピンとこないところはありますが、蓮師とその門下教学の祖型を掌握するためには通らなければならない部分でありながら、掌握が難しいところですね。七師外道さんのご指摘に頷けるところです。
1213
:
犀角独歩
:2004/04/02(金) 12:27
『富士大石寺明細誌』を見たところ、
「天王堂本堂前東方西向向拝唐破風檜皮葺、四間四面、日天月天を勧請す神躰は板本尊。
垂迹堂本堂前東方西向宮造一間四方、天照八幡を勧請す神躰は板本尊。」
とありました。亨師によれば同書は「先師も曽て怪奇の書と貶せられた」というものでその証憑性は如何ばかりと判断しかねますが、天王堂の天王は大日天王・大月天王を言う如くで、垂迹は天照大神・八幡大菩薩(神)となります。
しかし、いまの石山感覚からすると「神躰」という語彙にぎょっとさせられます。
ここに「勧請」の2文字があり、板本尊とあるわけですから、特に日月天、天照八幡を特図するような漫荼羅であったのかと想像を逞しくしたくなります。
1214
:
エル
:2004/04/02(金) 17:08
愚鈍凡夫さん こんにちは
> 蓮祖には、外で三光天子を拝む信仰形態があったことが広く知られています。
> 「夜もひる(昼)も高き山に登て、日月に向て大音声を放て上を呪咀し奉る。其の音声一国に聞ふと申す。」(種種御振舞御書)
ですよね。私は、なぜ天拝が朝だけなのかが分からないのです。上記の大聖人
の御振舞を拝せば、夜の勤行の時も天拝をしてもいいと思うのですが。 実際、
日鎮上人の時は、夜のお勤め時も天拝を行っています。
やはり、朝のみは近代になってからなのでしょうか。
1215
:
れん
:2004/04/02(金) 19:19
エルさん。歴代法主全書ですが、正宗内ではまだ販売していると思います。エルさんが宗外の方でしたら、東京神田神保町の仏教関係の古書を扱っている東陽堂書店で、運がよければ買うことが出来ると思います。m(__)m
1216
:
三学無縁
:2004/04/02(金) 19:25
>1198 エルさん
私は次のように考えています。
天堂 日天・月天・明星天などの諸天善神を勧請。板マンダラには当然勧請されていない。
垂迹堂 天照大神・八幡大菩薩(神)を勧請。板マンダラには当然勧請されていない。
御影堂 御影に向かっての供養・おそらくマンダラは無し。
客殿 所謂「紫宸殿本尊」に向かって広宣流布祈願。
墓所 五輪塔に向かっての霊供。
石山の所伝によれば、御影堂で弥四郎マンダラを「御開帳」していた時代があります。
弥四郎マンダラは広宣流布までは秘仏として宝蔵に安置されていたわけです。では、この時、本堂はあったのでしょうか。あったとしたら、どのマンダラを掛けていたのでしょうか。
つまり日精時代以前は御影堂こそが本堂であった。これは「当宗の本尊日蓮聖人に限」るという有師の言から導かれます。
日精後、弥四郎マンダラを宝蔵に戻したでしょうが、そうすると石山にはマンダラを掛けた本堂がなくなってしまいます。
現に石山では正本堂まで本堂はなかったことになっているはずです。本堂と御影堂を別立したのは日精んらという気がします。
客殿の最も大切なお客様は、一般信徒ではなく皇家であります。そこに「御座替り」のマンダラを掛けては義儀ともに外れてしまいます。
歴代全書は市販されてはいません。某古本屋では15万円くらいの値段がついているのではないでしょうか。
ネットでは、nbさんのサイトにごく一部アップされていますが漢字の問題でテキスト化はWinでは困難でしょう。Macでは3水・4水までOKですからまだましですが。
ストレスなしに書いたり読んだりするには「超漢字」に乗り換えるしかありません。
>1202 れんさん
>安国会の御本尊集に収録されてないところを見ると真偽の問題があるものでしょう。
真偽問題のほかに、寺院側で写真撮影は不敬と考え許可しなかった、というケースもあります。
また、不敬とは言わずとも、寺宝として御開帳以外には一般公開しない、という考え方もありました。
安国会の御本尊集に収録されているマンダラだけが真筆、というわけではありませんし、収録されているマンダラでも疑問視されているケースが少なからずあります。
>1206 地名さん
>「天を拝む」というのは、神道の方の関係からでしょうか。
それもあるでしょうが、日蓮・日興のスタンスに淵源を求められるのではないでしょうか。また、要法寺の影響も十分に考えられると思います。
>1213 独歩さん
>ここに「勧請」の2文字があり、板本尊とあるわけですから、特に日月天、天照八幡を特図するような漫荼羅であったのかと想像を逞しくしたくなります。
逆に「日月天、天照八幡を」図示しない、ということは考えられませんか。勧請したうえにマンダラにも勧請されていたら二重勧請ということになります。
朝拝は日天拝で日の出と共に、月天拝は本来夜拝ではなく夕拝で日没と共に、と老僧が昔言われたのを聞いたことがあります。
文献的な根拠があるのかどうかはわかりませんが、丑寅勤行は明星・北斗七星への祈願拝ということのようです。
1217
:
犀角独歩
:2004/04/02(金) 19:38
三学無縁さん:
ちょっと言葉の使い方がわからないのです。
漫荼羅に図顕せず、勧請するというのは具体的にどのようになるのでしょうか。
かんじょう くわんじやう 【勧▽請】
(名)スル
(1)神仏の来臨を請うこと。
(2)神仏の分霊を他の場所に移しまつること。宇佐神宮から分霊を迎えて石清水八幡宮をまつったことなどはその例。
(三省堂提供「大辞林 第二版」より)
1218
:
三学無縁
:2004/04/02(金) 20:01
>独歩さん。
>漫荼羅に図顕せず、勧請するというのは具体的にどのようになるのでしょうか。
はいはい、つまり本尊の勧請方式で、マンダラの前に祖師像を置く方式がありますよね。
それと同じで、諸天善神を後ろに勧請し、前にマンダラを配する、と考えるわけです。
独歩さんが引用された文からは、そのように考えることが自然であると思われます。
正宗教学的には思いつきませんが、その予断を抜きにして考えると、そういうことになるのではないでしょうか。
1219
:
エル
:2004/04/02(金) 20:19
れんさん こんにちは
> 歴代法主全書ですが、正宗内ではまだ販売していると思います。
そうですか。ただ、書店経由では購入できないのですよね? 大石寺か富士会
館まで行かないと売ってくれないのですよね?
> エルさんが宗外の方でしたら、東京神田神保町の仏教関係の古書を扱ってい
> る東陽堂書店で、運がよければ買うことが出来ると思います。
こちらもあたってみます。情報ありがとうございます。(^o^)
1220
:
れん
:2004/04/02(金) 20:35
三学無縁さん。返レスありがとうございます。仰ることは重々承知しております。安国会版御本尊集には掲載されていない蓮師の曼陀羅もまだまだありますでしょうし、反対に御本尊集に掲載されていても真偽の問題があるものもあることは承知しております。ただ要法寺蔵の曼陀羅はNO.58が安国会版御本尊集に収録されており、それ以外の要山蔵の蓮師曼陀羅が収録されてないのは、実見された山中師らによって真偽の問題があるものと判断されたと見るのが至当と存じましたので、あのようにレスした次第です。m(__)m
1221
:
三学無縁
:2004/04/02(金) 20:54
れんさん。
いえいえ、れんさんは当然ご承知のことと思っていました。れんさんを批判するつもりは毛頭ありませんでしたが、私の舌足らずのためご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありません。
心からお詫び申し上げます。
私としては、こちらの掲示板をロムしている方たちのなかにも、あまり事情をご存じない方たちもおられるでしょうから、蛇足のようではありましたがカキコさせていただきました。
本尊集に収録されたものに対する偽作の論評は大昔ですが、当時立正佼成会教学部長だった鴨宮成介氏が複数のマンダラを偽作と主張していたと記憶しています。
日蓮宗のひとたちは他の寺院に対して営業妨害になるような言動はしませんが、本尊集収録のマンダラについてプライベートな場ではいろいろと仰っているようでもあります。
また日蓮宗の有名な寺院にもいくつか真筆と鑑定され尚且つ未収録・未公表のマンダラがあるようです。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
1222
:
れん
:2004/04/02(金) 20:55
それから蛇足ながら、石山十四世日主師筆の大石寺図絵を見ますと、本堂を中心に右に天経、左に御影堂が記されており、十四世日主師の代までは石山では本堂と御影堂が別棟であったことが判明します。その後、精師の代に焼失したそれまでの本堂・御影堂を一つにして「本門戒壇本堂」(精師筆棟札、今の御影堂)が新たに建立されています。精師が「本門戒壇本堂」建立当初は弥四郎曼陀羅を安置した様ですが、天和年間に弥四郎曼陀羅は宝蔵に戻され、現在は精師が開眼した蓮師筆曼陀羅の摸刻板曼陀羅を安置しているとのことです。m(__)m
1223
:
三学無縁
:2004/04/02(金) 21:09
れんさん。
>主師筆の大石寺図絵を見ますと、本堂を中心に右に天経、左に御影堂が記されており、十四世日主師の代までは石山では本堂と御影堂が別棟であったことが判明します。
じつはこのことがわからないのです。
石山の所伝では、本堂建立は「三堂一時」ということだったと思いますが、建立時期はいつごろまで遡れるのでしょうか。
しかも「三堂一時」は広宣流布の時、ということではなかったでしょうか。
かりに当時本堂があり、そこに弥四郎マンダラが安置されていたとしたら、それは非信徒にも公開されていた、ということになります。
石山では達師の言にあるように、広宣流布の時までは謗法多きゆえ公開しないとされていたはずですが、これについてはどのように考えるべきでしょうか。
石山本堂の初見についてもご存知であればぜひお教え下さい。
1224
:
れん
:2004/04/02(金) 21:11
訂正。
誤)精師が「本門戒壇本堂」建立の当初は
正)精師が「本門戒壇本堂」を建立した当初は
三学無縁さん。日蓮宗の有名寺院所蔵で蓮師真蹟と鑑定されながら「御本尊集」等では未公開の曼陀羅が存するとのこと、ご教示ありがとうございます。こちらこそ宜しくお願い申し上げます。m(__)m
エルさん。歴全は宗内では信仰・教学が進み末寺住職に認められた檀徒さんにのみ購入が許されます。ですから宗外では東陽堂が一番確実でしょう。m(__)m
1225
:
れん
:2004/04/02(金) 21:41
三学無縁さん。石山における本堂の初見は有師の「御物語聴聞抄」です。御影堂の初見は顕本法華宗開祖日什師門弟日運師の著「門徒古事」です。三堂一時とは石山文献にはなく重須の三堂棟札が初見で、三堂一時広布時建立は石山義というよりもむしろ重須の立義とすべきだと思います。また、石山六世日時師談の大石記には興師の言として「本門寺の朽木書の御堂をば大石に立て申し、随て身延沢に立て申したりし御仏をも入れ申す」と記しており詳細は不明ながら上代の石山の本堂等は「本門寺の朽木書の御堂」として建立されたものなのでしょう。m(__)m
1226
:
地名
:2004/04/02(金) 23:15
三学無縁さん
1216について
>日蓮・日興のスタンスに淵源を求められるのではないか。
>要法寺の影響も十分に考えられる。
このことについて、もう少し補足説明していただけますか。
1227
:
エル
:2004/04/03(土) 09:24
れんさん
> 歴全は宗内では信仰・教学が進み末寺住職に認められた檀徒さんにのみ
> 購入が許されます。ですから宗外では東陽堂が一番確実でしょう。
了解しました。どうも色々とありがとうございます。m(__)m
三学無縁さん はじめまして。
> 歴代全書は市販されてはいません。某古本屋では 15 万円くらいの値段がつ
> いているのではないでしょうか。 ネットでは、nb さんのサイトにごく一部
> アップされていますが漢字の問題でテキスト化は Win では困難でしょう。
nb さんのところは、定期的にのぞいているのですが、今後に期待したいと思
います。m(__)m
1228
:
犀角独歩
:2004/04/03(土) 10:46
1218 三学無縁:
> 正宗教学的には思いつきませんが…
あ、なるほど。
通日蓮門下共通の義として、ということですね。
了解、わかりました。
1229
:
犀角独歩
:2004/04/03(土) 10:46
れんさんの整理、参考になります。
三学無縁さんの疑問、至極もっともです。
> 時師談の大石記…興師の言…「本門寺の朽木書の御堂…身延沢に立て申したりし御仏をも入れ申す」…「本門寺の朽木書の御堂」
> 主師の代までは本堂を中心に右に天経、左に御影堂
> 精師の代…本堂・御影堂を一つにして「本門戒壇本堂」…建立当初は弥四郎曼陀羅を安置
北山の三堂は棟札を信頼する限り、日蓮聖人御影堂、本化垂迹天照太神宮、法華本門寺根源(本堂)ですね。で有師の記述を併せれば八幡社も建っていたともなります。
時師のいう「御堂」は石山では御影堂であるといい、故に「御仏」は御影像であるともいうわけです。これはしかし、史実と一致しない気がします。こうなると身延から背負ってきたのは弥四郎漫荼羅ではなくて、御影像となってしまうからです。御影を身延で造り興師が持って出た確実な資料には当たれないでしょう。
ではここでいう「仏」は何を指すのでしょうか。わたしは単純に釈迦の絵像はあるいは仏像であると考えます。しかし、漫荼羅正意に泥んだ観点からすればけっして受け容れられないところでしょうね。けれど、精師の記述に「日興御さくの釈迦一そん一ふく」とあります。わたしはこれであったのだろうと考えています。
「御堂」は「おどう」と読めば、一般的な堂宇全般を指すことになります。仮に三堂が建っていたとしたら、その全体を御堂と云っても不自然なことはありません。
御影堂には御影、垂迹堂は天照、では本堂には何が祀られていたのか?
弘安2年「日興上人」授与漫荼羅でしょうか。
では北山を模倣したと思われる主師代までの石山本堂には何が祀られていたのか?
弥四郎漫荼羅が既に造立されていたのでしょうか。その可能性は否めません。しかし、興師作釈迦一尊である可能性も否めません。
天経とは垂迹堂でしょうから天照が御神体というわけですね。
石山が叙用したがらない『明細誌』に当時の三堂の詳細が記されています。
「諸堂本堂正南面檜皮葺、間口十四間奥行十三間、仏壇宮殿の中板漫茶羅竪三尺六寸横二尺、日蓮聖人木像御居長二尺八寸五分御膝両袖四尺一寸…
天王堂本堂前東方西向向拝唐破風檜皮葺、四間四面、日天月天を勧請す神躰は板本尊。
垂迹堂本堂前東方西向宮造一間四方、天照八幡を勧請す神躰は板本尊。
「奇怪な書」とも言われ、何かと現石山義には不都合なことが多い量師は「板漫荼羅」「板本尊」と言葉を使い分けているわけです。これを素直に読めば、
本門戒壇本堂、通称御影堂では御影像に精師造立の‘板漫荼羅’
天王堂には日天・月天の‘板本尊’
垂迹堂は天照大神の‘板本尊’
ということなのでしょう。その後、漫荼羅一辺倒になっていく石北では都合の悪い仏像・御神体を撤廃していっさい漫荼羅に取り替えていったというのが資料から窺い知れる変遷とわたしには思えます。
ここでエルさんが呈示された天拝の起源に戻れば、石北両山の天拝は、当初、天照大神を拝んでいたところが、御神体撤廃変遷のなかで文字通りの天拝に取って代わっていったと類推します。その変遷の過渡期が量師の示す垂迹堂と天王堂の並立でここでは特に日月天を板本尊として拝んでいたのでしょう。たぶん、この法式は明治の神仏分離令まで続いていたのではないでしょうか。
まあ、漫荼羅正意、仏像・御神体を過度に嫌う石山信徒には受け容れがたいところでしょうが。
1230
:
れん
:2004/04/03(土) 11:49
犀角独歩さん。返レスありがとうございます。蓮師・興師の本尊観は曼陀羅(能生)・一尊四士(所生)が併存していましたから、独歩さんの御推測の通り上代の石北本堂には釈迦一尊(四士もか)が安置されていた可能性は否定出来ないと私も思います。一方、興師が身延在山中に蓮師御影(絵像か木像かは不明)と御影堂を建立したことは、尊師実録と順師の従開山伝日順法門に見られるので、蓮師御影の身延から富士への遷座は一応史実として有り得るのではないかとも愚考しています。m(__)m
1231
:
犀角独歩
:2004/04/03(土) 12:04
1230 れんさん:
> 興師が身延在山中に蓮師御影…御影堂を建立…尊師実録と順師の従開山伝日順法門に…
あ、そうでしたっけ。両方とも読んだはずの文献なのに失念していました。
両方ともやや真偽論はあったと記憶しますが、たしかに看過できない点ですね。
ご叱正有り難うございました。
1232
:
愚鈍凡夫
:2004/04/03(土) 13:19
横レス失礼します。
**************************************************
日蓮聖人御影奴御下文、園城寺申状
上野の六大の老僧方、巡て守護し奉る可し、但し、本門寺建立之時は本堂に納め奉る可し。此の條、日興上人の仰せに依つて支配い奉る事此の如し、此の旨に背き異義成し、失タラン輩者、永く大謗法に為す可し。仍誠之状件如し
正慶二年発酉 二月十三日
日善(花押) 日仙(花押) 日目(花押)
**************************************************
と、日目師は遺命されていますが、日達師は次のように指南されています。
「その前に、大石寺の本堂並びに丑寅について昨年少々本にして出したことがございますが、それにもある通り、戒壇の大御本尊様は恐らくは昔はこの本堂(御影堂)に安置してありましたように思われるのでございます。
勿論、この只今の御影堂は三百四十年前の建立でございますが、それ以前、これよりも小さな本堂が、この前の二天門と称する門の裏の丁度真正面にあった様に思われるのでございます。その当時からこの本堂には戒壇の大御本尊様が安置せられた様に考えられます。」(「大日蓮」昭和48年2月号)
これは日目師の遺命とは違うように思えます(「御下文」、「園城寺申状」の現物がないわけですから当然ですが)。ただ、「戒壇之本尊」が日目師の時代には存在しなかったとしたら納得がいきます。
1233
:
エル
:2004/04/03(土) 20:11
垂迹堂というのは、色々な解釈があるようですね。化儀抄の解説本によれば、
古代、大石寺の信徒となるには、 入信の際に法払いをしますが、その時に所
持していた仏菩薩像などを大石寺に収めた。その仏菩薩像の保管場所を垂迹堂
と呼んでいた。と書かれてあります。
現在は、謗法払いといえば、燃やしたり金づちでこわしたりしますが、上代に
おいてはすべて大石寺、もしくは近隣のお寺に収めていたそうです。
『他宗の法華宗に成る時、本所持の絵像木造並に神座其の外他宗の守なんどを
法華堂に納むるなり、其の故は一切の法は法華経より出でたるが故に此経を
持つ時又本の如く妙法蓮華経の内証に事収まる姿なり、総じて一生涯の間大
小権実の仏法に於て成す所の所作、皆妙法蓮華経を持つとき、妙法蓮華経の
功徳と成るなり、この時実の功徳なり云云。』 化儀抄より
ここでいう法華堂が垂迹堂です。つまり、諸仏菩薩は、妙法蓮華経の一法から
出たものだから、また総て、妙法蓮華経の中に戻し、帰入させてしませば、本
来の姿、本来の形に戻る故という事ですね。
ただし、もちろん、ここには一般の信徒は立ち入り禁止で、礼拝はできなかっ
たと思います。
1234
:
犀角独歩
:2004/04/03(土) 21:17
エルさん:
「法華堂」は、阿弥陀堂などと言い分ける法華宗…天台法華宗と区別するときは日蓮法華宗…の堂宇を指す名称であると思います。たとえば亨師は「法華堂、法華宗は・足利時代に於ける日蓮宗等への通称なり」と注解しています。
これを垂迹堂とする根拠はいったいなんでしょうか。
1235
:
犀角独歩
:2004/04/03(土) 21:33
1234を補足します。
エルさんが引いた化儀抄の文を達師は以下のように略解しています。
「他宗の人が本宗に帰入した時は、今まで礼拝所持しておった、他宗の絵像、木像、並びに位牌及守り、あるいはお札等は皆、‘本宗の寺’に納めてしまいなさい…」(P75)
達師も法華堂を自宗寺院に充てるばかりで垂迹堂とは解していません。
1236
:
犀角独歩
:2004/04/03(土) 22:41
もう一つ、エルさん、質問させてください。
> 謗法払いといえば、燃やしたり金づちでこわしたりします
こんなことをする石山僧俗がいるんですか。
創価学会はかつてこのようなことをして、世間の顰蹙を買いました。実際、わたしの35年にわたった会員生活の日常でした。その後、石山には5年しかおりませんでしたが、こんなことをした話は聞いたことがありません。忠実に化儀抄の一文を守り、寺院に納めていました。
エルさんはたしか法華講と記されていたと思うのですが、こんなことを指導する末寺があるとはとうてい信じられないのです。向学のためにどちらの寺院か教えていただきたいところです。差し障りがあれば、ヒントだけでもけっこうです。
1237
:
愚鈍凡夫
:2004/04/03(土) 23:58
エルさん、天拝の件ですが、いつ頃から朝のみになったのか調べてみても分かりませんでした。ただ、次のような文証が残っています。
「一、仰せに云はく・当宗には日天を先づ拝し奉る事は日蓮事行の妙法を三世不退に日天の上に事に顕し・利益廃退無き事を敬ふとして・先づ日天・日蓮と意得て其の心を知るも知らぬも日天を拝し奉るなり云云」(「有師談諸聞書(雑々聞書)」)
なお、同じ文証が「日拾聞書」にもあります。
この書が真蹟であるならば、日有師のころには既に日天中心の天拝になっていたのかもしれませんね。
1238
:
犀角独歩
:2004/04/04(日) 05:41
横レス失礼します。
愚鈍凡夫さん。『化儀秘訣』に以下のようなことが記されています。
「天の勤め…天の食時…東に向ひ膝を立てゝ是れを読むこと如何、答へて云はく日天は少しも座し給はず、日夜共に四州を行道あり、早朝は東より出で給ふ故に東に向ふなり、又時の行者行き向ひ申す意にて膝を立つるなり」
郷門の勤行化儀なんだと思います。けれど、わたしはなにかこの一節が好きで初座は夜明けを待って立て膝で勤行をしていたものでした。まあ、法華講在籍期間はやめていましたが(笑)
1239
:
エル
:2004/04/04(日) 08:49
犀角独歩さん
> これを垂迹堂とする根拠はいったいなんでしょうか。
いえいえ、これは私が云っているのではなくて、解説本にそのように書かれて
あると紹介したまでです。
> 達師も法華堂を自宗寺院に充てるばかりで垂迹堂とは解していません。
なるほど、そうですか。
> こんなことをする石山僧俗がいるんですか。
うーん、どうなんでしょう。解説本をそのまま引用しますと、
『入信者が多くなった近年では、謗法の物は全部焼き捨てるようになったが、
古き時代においては、邪宗・謗法の人が本宗に入信してくる場合、それまで
祀っていた邪宗の本尊等は本宗の寺院に納めるのが通例であった。したがっ
て当時の寺院には垂迹堂といって、謗法の物を納める堂も用意されていたの
である。』小川只道著 暁鐘編集室発行
多分、入信者が多くなればそれだけ謗法物も多くなり、ついには、寺内には収
まりきれなくなり、処分せざるを得なくなったと解釈しているのですが。(^^;
1240
:
エル
:2004/04/04(日) 09:00
犀角独歩さん 追加レスです。
> これを垂迹堂とする根拠はいったいなんでしょうか。
すみません、法華堂とは本宗寺院の意味です。その中に在る垂迹堂に納めると
いう意味に訂正させていただきます。m(__)m
1241
:
犀角独歩
:2004/04/04(日) 11:13
エルさん:
お返事有り難うございます。
只道師・妙観講ですか。納得です。
> 謗法の物は全部焼き捨てる
なんともはや。すさまじいですね。あそこはいまでもそんなことをやっているのですか。
しかし、こうなると、有師が「本の如く妙法蓮華経の内証に事収まる」という点は成就しないことになりますね。いわば、親は尊敬し、その家を出た子は滅ぼすというやり方です。
日蓮宗では「おたきあげ」という儀式を用意して、やはり焼いています。
ただし、この場合は他宗のものに限らず、古い御守、達磨、仏壇、塔婆が主な対象で、供養行事の一環です。また、憎しみを篭めて在家が行うことではありません。
いずれにしても「燃やす」のは有師儀ではなく、むしろ他門儀に近いように思えます。なぜならば石山では「おたきあげ」の類の法事がないからです。
垂迹堂の件、少し文献をひっくり返してみました。
亨師の言として以下のようにありました。
「他宗に所望すれども出さず等とは、他宗他門の輩・信伏の時に・従来安置したりし権迹の仏菩薩の絵像木像を・当宗の垂迹堂に納むるに・中には定朝運慶の彫刻もあるべし・金岡雪舟の名画もあるべし・又は所望の弥陀もあるべし・観音もあるべし・今此を垂迹堂に納め置くよりも・当方に申し受けん、何貫文を進上すべし、何々事を為し進らすべし等と・種々に申し請ふものありとも・決して他に出すべからず、其故は権仏迹仏たる弥陀・薬師・観音・不動等は・其元一乗法華本仏の影現垂迹にして声縁菩三乗済度の為に出られたるものなるに・今一乗法華弘通の時機に遭ひ上りて・幸に本地の大法に帰る事を得たる姿なれば、無沙汰に放擲して・仮出の三乗に戻らしむべからず、垂迹堂に安置して・妙法醍醐の法味に飽かしむべしと
なり」(註解第11条)
たぶん只道師はこれに拠ったのでしょう。ただし「燃やせ」とは言っていません。
ここで亨師が突然、垂迹堂であると言い出すのはかなり突飛な印象があります。しかし、同師は慶応3(1867)年生まれですから、昔の事情、またそんな話を聞かれて書かれたことであると思います。
ただし、只道師がいう扱いとは随分違います。「垂迹堂に安置」というわけです。
保管、あるいは焼却処分ではなく‘安置’である点は看過できません。
エルさんは「ここには一般の信徒は立ち入り禁止で、礼拝はできなかった」と想像されていますが、亨師は「納め置くよりも…種々に申し請ふ」と、つまり、その垂迹堂でそれらを見た人の申し出を記すわけですから、立ち入り禁止というのはどうでしょうか。
中世の垂迹堂では天照大神の御神体の前に、ずらっと絵像、仏像が‘安置’され、そこで初座の読経が執行されていたというのは、有師・亨師の記述からすれば導き出せる想像です。
1242
:
愚鈍凡夫
:2004/04/04(日) 12:49
犀角独歩さん、「化儀秘訣」に次のようにありますね。有り難うございました。
**************************************************
問ふ天の勤め最初なること如何、答へて云はく諸経論の説相、天の食時は仏菩薩より前なり、之に依つて爾かなり、されば毘羅三昧経に云はく早朝は諸天衆の食時、日中以前は三世諸仏の食時、以後は畜生の食時、餓鬼の食時か、日中以前に斎食すべしと、是れは方等部の経なり、然りと雖も世間国土人天等の説相は相違無し、仮令成仏の用否は爾前経と法華経と有無不同之れ有り、然る間天の食時は仏より先なれば是れに準へて先づ天の勤め之れ有り、法味を供御に捧ぐる意なり、必ず天は勝れ本尊御影は劣り給ふには非らず。
疑つて云はく東に向ひ膝を立てゝ是れを読むこと如何、答へて云はく日天は少しも座し給はず、日夜共に四州を行道あり、早朝は東より出で給ふ故に東に向ふなり、又時の行者行き向ひ申す意にて膝を立つるなり。
**************************************************
1243
:
愚鈍凡夫
:2004/04/04(日) 13:23
**************************************************
日蓮聖人御影奴御下文、園城寺申状
上野の六大の老僧方、巡て守護し奉る可し、但し、本門寺建立之時は本堂に納め奉る可し。此の條、日興上人の仰せに依つて支配い奉る事此の如し、此の旨に背き異義成し、失タラン輩者、永く大謗法に為す可し。仍誠之状件如し
正慶二年発酉 二月十三日
日善(花押) 日仙(花押) 日目(花押)
**************************************************
この遺命によると、「生御影」・「御下文」・「園城寺申状」を本門寺建立の時に本堂に奉納せよとの事ですよね。それでは、この書に本門寺本堂に「掛け奉る」重宝となるべき戒壇の本尊(漫荼羅?)の指定がないのは何故でしょうか。
このとき既に、暗黙の了解があったと言うことでしょうか。 (゜ペ)ウーン
それと、「本堂」に「御影堂」を兼ねさせるというのは、「日興上人の仰せに依つて支配い奉る」ことであって、日興師の御遺命ということなのでしょうね。
1244
:
空き缶
:2004/04/04(日) 14:05
愚鈍凡夫さん、こんにちわ。
以前れんさんも引用されましたが、保田妙本寺所蔵の末法万年救護之大本尊の副書には「本門寺建立之時懸本御影堂可為末代重宝也 建治元年太才乙亥六月十七日 甲斐国波木井郷図之」(『千葉県の歴史』に掲載)とありまして、「本御影堂」「建治元年」「図之」が気になるところです。
誰が書いたものかもわかりませんが。蓮祖か?興師か?しかし「日蓮聖人真蹟集成」にも「日興上人全集」にも収録はされていませんね。
1245
:
エル
:2004/04/04(日) 14:41
犀角独歩さん
>なんともはや。すさまじいですね。あそこはいまでもそんなことをやっているのですか。
妙観講というのは私はよく知らないのですが、日蓮正宗では無いのですか?
いちおう妙観講は、
「昭和55年8月、第六十七世御法主日顕上人猊下の御認可によって結成され
た、総本山塔中理境坊に所属する法華講中です。」
となっていますね。ただ、一説によると、創価学会が裏で金を出していて、色
んなスパイ活動をさせている謀略部隊だ。という人もいますね。顕正会とかと、
かなりやりあっているみたいですが。(^^;
>たぶん只道師はこれに拠ったのでしょう。ただし「燃やせ」とは言っていません。
いや確かに。
>中世の垂迹堂では天照大神の御神体の前に、ずらっと絵像、仏像が‘安置’
>され、そこで初座の読経が執行されていたというのは、有師・亨師の記述か
>らすれば導き出せる想像です
ハハ、そうですか。なんとも私どもから見たら、卒倒するような光景ですな。(^^;
1246
:
れん
:2004/04/04(日) 15:00
愚鈍凡夫さん・空き缶さん、こんにちわ。興師弟子の讃岐阿闍梨(水口)日源師の写本の存する本尊三度相伝には「本門寺ノ戒壇ハ西面ニ立ツ可キ也」とありますので、本門寺戒壇は本門寺本堂とは別棟との推測を持っています。本堂には文永十一年の大本尊を掛け蓮師御影と御下文・薗城寺申状を安置する事が大本尊副書と日興上人御遺跡事から推定されます。順師の摧邪立正抄には戒壇には本門大曼陀羅を安置とあります。しかし蓮師も興師も戒壇安置の曼陀羅を書き残してないので、戒壇安置の曼陀羅は時の貫首の書写曼陀羅で良いのではないかと愚考しております。
1247
:
愚鈍凡夫
:2004/04/04(日) 15:09
空き缶さん、こんにちは。こちらは雨です。
もうすぐ満開の桜が散るのではと心配です(酒を呑む口実がなくなるからと誰かが言っているような、いないような・・・・)。
建治元年(1275)といえば、「撰時抄」を執筆された頃ですよね。「御影堂」に御安置申し上げる「正御影」はどなたなんでしょうね・・・・・。
蓮祖が、ご自分の「御影」を造立して、「毎日甲斐甲斐しく給仕して拝め」とは言わないでしょうからね・・・・・。
釈迦牟尼像の場合は「御影堂」とは言わずに「釈迦堂」と言うでしょうし。
それとも、蓮祖には「本堂=御影堂」という図式があったのでしょうか・・・・・。
「だったら、そこに安置する本尊はどれだ? むむ・・・・・っ。眠れなくなりそう」
(-"-;A ...アセアセ
1248
:
愚鈍凡夫
:2004/04/04(日) 15:23
あっ、れんさんどうも。
ただね、先にも引用した日達師の言葉が気になるんですよ。
「その前に、大石寺の本堂並びに丑寅について昨年少々本にして出したことがございますが、それにもある通り、戒壇の大御本尊様は恐らくは昔はこの本堂(御影堂)に安置してありましたように思われるのでございます。
勿論、この只今の御影堂は三百四十年前の建立でございますが、それ以前、これよりも小さな本堂が、この前の二天門と称する門の裏の丁度真正面にあった様に思われるのでございます。その当時からこの本堂には戒壇の大御本尊様が安置せられた様に考えられます。」(「大日蓮」昭和48年2月号)
石山には戒壇堂=本堂=御影堂という図式があるように思うのですが。
戒壇堂と本堂(御影堂)が別棟であるとするならば、本堂に「戒壇之本尊」を安置した理由は何でしょうか。
1249
:
空き缶
:2004/04/04(日) 16:04
れんさん、愚鈍凡夫さんどうもです。
現代におけますところの通説では、「戒壇」とは「僧侶になるための受戒の儀式を執り行う場所」であると思いますが、富士の流儀ではなにか別の意味がありましたでしょうか?
もし通説通りでしたら、戒壇=本堂=御影堂との解釈も可能であると思います。日興上人が宗祖滅後、天台沙門を名乗らずに「私度僧」として振舞われたのは、日蓮門下の正しき受戒の場=本門の戒壇(本門寺本堂?)がいまだ建立されないうちは、私度僧として活動すべきとの思いがあったのではと想像します。
そして日蓮門下の受戒の場には宗祖の尊像(御影)があっても、全く不思議ではないと思うのです。
1250
:
れん
:2004/04/04(日) 16:26
愚鈍凡夫さん。返レスどうもです。しかし、達師が上代の石山本堂に弥四郎マンダラを安置していたと述べたその根拠はいったい何でしょうね。上代石山文献でそのようなことを述べた文献は無いのですが…、また本門寺本堂=本門寺戒壇という定義ならびに思想は西暦1400年代に日尊門流で成立し、恐らく左京日教師によって石山門流にもたらされた「百六箇抄」以前には遡れないのではないでしょうか?少なくとも、これまで管見に入った興師や興師門弟の確かな文献からは、本堂=戒壇という定義は管見では見いだすことが出来なかったのが実状です。m(__)m
1251
:
愚鈍凡夫
:2004/04/04(日) 17:02
空き缶さん、れんさん、レス有り難うございます。
「日興上人御遺跡之事」は、少なくとも日目師の時代には「弥四郎漫荼羅(戒壇之本尊)」が存在しなかったことの証拠の一つになりうると思っています。
それはそれとして、
この書には「日興上人の仰せに依つて支配い奉る事此の如し」とあって、日興師の遺命であることを記しているわけですよね。
そして、「此の旨に背き異義成し、失タラン輩者、永く大謗法に為す可し」との迫力ある脅し文句も添えられているわけです。
それでは、日興師は重須についてはどう位置づけていたのでしょうか。重須・石山両方に三堂を建立せよとの御遺命なのでしょうか。
それと、日達師は何をネタ本にして、ああいった発言をされたのでしょうかね・・・・・。
1252
:
犀角独歩
:2004/04/04(日) 17:48
空き缶さんも久しぶりに登場になって、またなかなか興味深い議論が展開されていますね。
なるほどと今更ながら、思った点がいくつかあります。
愚鈍凡夫さんが仰るように「奉納」であってたしかにこれは安置とは違いますね。
となれば、いわゆる御影式(御影の背に漫荼羅)という奉安形式によることを上代では定まっていなかったことが窺われます。
そこでれんさんが指摘されるよう戒壇堂は西面であるわけですね。
いちおう北山に本門寺根元は本堂で、そのほかに御影堂・垂迹堂が建ったのは、うーん、まあ、史実であろうと思われます。
ところで本堂=戒壇堂という考えはいったいいつ頃に興るのでしょうか。
元来、本堂と戒壇堂は空き缶さんがその用途から指摘されたように役割が違います。
これはまた御影堂もしかりですね。
ところが富士門では戒壇堂と本堂が中世から同一に論じられたうえ、さらに本堂と御影堂が一体化していきます。この解釈の変遷にはかなり時間の流れがあるわけでしょうね。
まあ、、本堂と御影堂の一体化、さらにはその一体化堂宇を戒壇堂としてしまった精師の建立は、原意からすれば飽くまで略式伽藍ほかならないことになります。
また、西面ということで直ちに想起されるのは五重塔なのであって、精師が本門戒壇本堂として御影堂を建立して、その伽藍整備の延長で建立されたこの西面の堂宇は相伝文から解釈すれば、まさにこちらこそ戒壇堂ということになるのでしょうか。そうとは思えないので単に別の思惑なのでしょうね。現石山アナウンスでは仏法西還を表すんだそうですが、わたしは五重塔は宝塔品の涌現宝塔を表す故に法華経の説相に併せて西面なのであろうと考えます。
これはまた近代に属することですが、正本堂は現時における事戒壇であるという意義付けであったわけですが、しかし、南面です。相伝を知ってか知らずか、はたまた無視したのか。これを杜撰というか、いい加減というか、どうも石山住職の考えることは理解に苦しみます。また、正本堂を事檀建立と意義づけていた学会も、何故、設計段階でこの点を指摘しなかったのか疑問が残ります。
それより何より、愚鈍凡夫さんが仰るよう、達師は何を根拠に御影堂に当初、弥四郎漫荼羅が安置されたと言ったのでしょうか?
何の根拠もなく言ったとは思えないんですが。それでも「まさかりみたいな手斧」という古い道具を使っているだけで鎌倉時代の作と決めてしまうほど短絡的なことも言うわけですから、この辺はどんなものでしょうか。
1253
:
犀角独歩
:2004/04/04(日) 18:45
1245 エルさん:
> 妙観講…日蓮正宗
ええ、そうです。
でも、石山といっても何も一枚板ではありません。
中途から要山義も加わりますし、昔はそれぞれの坊さんが弟子を取っていたわけですから、その法系の流れがあり違いもあります。
だいたい内事部と宗務院でも考え方針は違います。
妙観は達師の名前で、越洋さんの代でもその名前を使っているわけです。
> 卒倒するような光景
それが近代までの石山の実像なのでしょう。しかし、それでも現代の異常さからすれば、卒倒しそうになっているのはいつも周辺です。
なお、有師、亨師が奉納された絵像・仏像などの管理を言うのは法義上の理由ばかりではないと思います。紙幅の漫荼羅と違って絵や像は美術的、骨董としての価値もあるわけです。ですから、「これは謗法」と言って奉納させて「燃やしました」と言いながら、裏で売却して利を上げることはできるわけです。ですから、このような嫌疑を掛けられないために一切を見えるところに安置し身の潔白を示す必要性はあるでしょう。
その意味において有師、亨師の判断は実に常識的であるとわたしは思います。
1254
:
みかん
:2004/04/04(日) 19:01
大石寺において戒壇堂と本堂が混同されている件については、一昨年かいた未発表の文章で考察したところですが。
> 現代におけますところの通説では、「戒壇」とは「僧侶になるための受戒の儀式を執り行う場所」であると思いますが、富士の流儀ではなにか別の意味がありましたでしょうか?
日蓮の本門戒壇構想は、南都の小乗戒壇院、叡山の(迹門)大乗戒壇院に継ぐ戒壇院として構想されたはずです。
ご存じのように、本門寺の戒壇堂たるべき「正本堂」を、「正本堂」と名付け、僧侶の授戒の場ではなく、大人数の一般信徒の戒壇板曼荼羅への参拝の場所として使用していたわけです。
これがどこから来るのかですが、富士門流史に詳しくない私にはよくわかりませんが、
三大秘法禀承事(私は偽書だと思います)の
「三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王帝釈等も来下して・給うべき戒壇なり」
という記述が、戒壇堂を、僧侶の授戒の場という本来の意味ではなく、一般信徒の修行の場という解釈に変えてしまった原因であろうと思います。
1255
:
エル
:2004/04/04(日) 19:21
犀角独歩さん
>その意味において有師、亨師の判断は実に常識的であるとわたしは思います。
いや、確かに確かに。なかには国宝級の、一級資料に値するようなものも含ま
れているかもしれませんからね。
これ以上は「なんでも鑑定団」の世界になってきますので、控えさせていただ
きます。m(__)m
1256
:
犀角独歩
:2004/04/05(月) 04:59
みかんさん:
> 大石寺…戒壇堂と本堂が混同…未発表の文章で考察
是非とも拝読したいところです。
本堂と御影堂の一体化はたとえば、池上本門寺も戦災の焼失後の再建でそうなりました。つまり他山でも例のあることですね。
しかし、御影堂と一体化した本堂が戒壇堂というのは尋常成らざることですよね。
これが石山では精師の時代にまず起きた。それでも弥四郎漫荼羅を宝蔵に引っ込めていったんは収束させる。けれど、「現時における事の戒壇」正本堂といい、今度は御影堂とは切り離した形でまた復活した。けれど、それを取り壊して奉安堂といい、名前と意義付けばかりの内拝で、実質公開の堂宇を建立。
実際のところ、正本堂にしても、奉安堂にしても、石山観光の目玉に過ぎないわけですから、真面目にその意義を考えること自体ナンセンスですね。
しかし、元来、通仏教では意義を異にした本堂、御影堂、戒壇堂が、石山ではどんなふうにアレンジされ、右に左にされてきたかを俯瞰することは、その欺瞞性を割り出すためには必要な作業であると思えます。
みかんさんの考察に期待します。
1257
:
空き缶
:2004/04/06(火) 00:55
皆さん、こん○○わ。
大石寺には上代と現在、本堂が無いのですね。
日精師の代と創価学会と一緒にやっていた時には「本堂」(正本堂)と呼べるものがあった。
しかし、一宗の総本山に本堂が無いというのも変わってますね。
やはり国主が本門寺を建立する日まで、本堂は置かないという事でしょうか。とすると、本門寺本堂=本門戒壇というのが大石寺側の解釈とも思われますが、いかがなんでしょうか。
1258
:
犀角独歩
:2004/04/06(火) 06:10
1257 空き缶さん:
れんさんも指摘されていますが、御影堂棟札には「本門戒壇本堂」と記されているわけです。つまり、御影堂がその時代から現代に至る一貫した本堂なのではないでしょうか。
ただし、それに拘わらず新たに本堂を建て足したので、こっちが正しい本堂、正本堂という不可思議な名前を付したのでしょう。
こうなると、自寺の歴代である精師が本堂としたものを邪な本堂と言ったも同じです。
何故ならば、正しいの反対が邪であるというのが石山一般の用語用法だからです。「正邪」というやつです。ぜんぜん考えずに命名していると思うわけです。
1259
:
エル
:2004/04/06(火) 15:52
愚鈍凡夫さん
> エルさん、天拝の件ですが、いつ頃から朝のみになったのか調べてみても分か
> りませんでした。
愚鈍さんが調べても分からなかったということは、文献に関しては残ってない
のかもしれませんね。
> この書が真蹟であるならば、日有師のころには既に日天中心の天拝になっていたのかもしれませんね。
了解しました。いろいろとありがとうございました。(^o^)
1260
:
愚鈍凡夫
:2004/04/07(水) 08:10
エルさん、お早うございます。
レスを下さったことに気づきませんでした。
> 愚鈍さんが調べても分からなかったということは、文献に関しては残ってない
> のかもしれませんね。
そんなことはありません。小生の知識は僅かなものです。それに資料を調べる方向性が間違っているのかもしれません。
だから、エルさんが調べていけば、目的とする資料に行き当たるかもしれません。
1261
:
福田里敏
:2004/04/09(金) 18:32
堀日亨著「身延離山史」を読んでいるのですが、この中で、立像釈迦佛と久成釈尊木像について触れられているのですが、この二体の違いは、何でしょうか?よろしく、お願い致します。
1262
:
犀角独歩
:2004/04/09(金) 19:29
1261 福田里敏さん:
はじめまして。いま、書棚を見たのですが、あったはずの該当書がどこに行ったのかわかりません。該当の文書を抜き書きしていただくとお持ちでない方も考証の便宜に充てられるのではないでしょうか。
あくまで、成句からだけですが、
> 立像釈迦佛
興師『宗祖御遷化記録』にある
「一御所持仏教の事 御遺言に云く。
仏は釈迦の立像、墓所の傍に立て置く可し云云」
という随身の一体仏。
> 久成釈尊木像
とは、蓮師『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』にいう
「未有寿量仏 末法来入始此仏像可令出現歟」という「現折伏時成賢王」が出現して立てる「一閻浮提第一本尊」のことというのが門下教学共通の認識であろうかと存じます。
尤も亨師は石山義からこれを敢えて漫荼羅本尊と会通しているのでしょうか。
しかしながら『三時弘経次第』には
「本門の寺 付属の弟子 上行菩薩 日蓮聖人。 冨士山 久成の釈迦仏 本化垂迹の師檀 末法。 垂迹神 (天照太神八幡大菩薩) 当御代」
とあり寛師説・人法本尊=弥四郎漫荼羅は成り立ちません。
富要中の中世の文献を追うと「久成釈尊」とは要山義の如くであり、意味するところは、本門寺建立の時、建立すべき仏像を言います。これを先だって立ててしまった尊師を批判するというのがその用法です。
以上、『身延離山史』を手放しで記しました。
本文をお持ちの方の解説を待ちます。
1263
:
福田里敏
:2004/04/09(金) 20:00
犀角独歩さん。お久し振りです。本門法華堂の福田です。と、いっても、法華堂からは、離れましたが・・・
独歩さんのおっしゃるとおりです。なるほど、久成釈尊木像とは、曼荼羅本尊と、理解していいのですね。てっきり、釈迦像とは違う、釈尊木像でも、あるのかと、思っておりました。
堀上人は、原殿書を提示した上で、「一般に立像佛の執着があまりにも強いので此に対する方便として久成の釈尊を揚げられたのである、始成無常の小乗教の単己一体佛の立像佛を暫く破排して久成教主釈尊が聖人の本懐法華本門の妙法五字七字に即する本佛と仮定せられて此が宗門の目的、人本尊との様に仰せられた、本書には四菩薩脇士の事を云って無いが五人所破事や門徒存知の追加には四菩薩を添加して本化的に改めよとは興師御自身の御説と成っておる、此には五老側の追随もあったのであるけども、立像佛の余炎は中々消えなかった」
1264
:
福田里敏
:2004/04/09(金) 20:09
その直後に、堀上人は「立像佛の再建を止むる為に久成佛を持出し其が出来上るまでは御筆の曼荼羅を暫用せよなんどはさぞかし御意苦しい事であったろうが、波木井一族の中に対しては其すら能くこそ云えた全く自分の力でない大聖人の御冥加であると自賛せられておる。」
と述べられております。
1265
:
犀角独歩
:2004/04/09(金) 20:16
あ、福田さん?、そうでした。「はじめまして」もないものでした。失礼しました。
> 久成釈尊木像とは、曼荼羅本尊
というのが亨師の説であろうと類推したと言うことです。
富士では「三大秘法の時は久成釈尊を以つて本尊とするなり法の本尊を以て事行の南無妙法蓮華経と名くる」とくるわけですから、そうなるでしょう。
勿論、わたしは反対の立場です。
1266
:
福田里敏
:2004/04/09(金) 20:37
犀角独歩さん。今回も、ありがとうございました。
また、何かありましたら、よろしく、お願い致します!
1267
:
犀角独歩
:2004/04/09(金) 20:39
> 1266
いえいえ、どういたしまして。
何せ資料手放しですので、お礼には及びません。
もっと適切な解説をなさる方はいらっしゃると思います。
1268
:
みかん
:2004/04/20(火) 20:07
素朴な疑問です。どなたかお教え頂ければ幸いです。
1)随身仏はその後どうなりましたか
2)南部(「みなべ」とも読める)と身延(みのぶ)は語源的関係がありますか
3)富士山本宮浅間大社と日興門流寺院にはどのような交流、関係がありますか。
1269
:
顕正居士
:2004/04/25(日) 01:39
>>1266
みかんさん。
1 随身仏(立像釈尊)は法華宗陣門流の本禅寺にありますが、今のがほんものか否かは
わかりません。重文などの指定はないようです。
「立像釈尊について」
http://www.hokkeshu.com/hoto/028/028_ryuzo.htm
2 南部と身延は無関係でしょう。ア→オ、エ→ウという変化は生じにくい。みのふ(蓑夫)
→みのぶ(身延)そのほかの説があります。
3 浅間大社
日源、日興の実相寺は末代上人が開基し、富士山信仰と密教が習合し、富士山を「大日蓮華山」
と呼んだ。
「末代上人について」
http://www.izu-higane.jp/kenkyu/uenishi.htm
実相寺の富士山信仰は日蓮宗の富士派(興門流)に精神的には継承されているはずですが、
富士登山などの具体的な行法は聞きませんし、浅間大社との関係についてもわかりません。
また神仏判然令(廃仏毀釈)以前の神仏習合のすがたは今は急速に忘却されているようです。
1270
:
菱村正敏
:2004/04/26(月) 07:26
横レス失礼。
>日源、日興の実相寺は末代上人が開基し、富士山信仰と密教が習合し、富士山を「大日蓮華山」
富士山を「大日蓮華山」と呼んだという出典先を教えてください。
1271
:
犀角独歩
:2004/04/26(月) 08:50
> 1270
富要10巻内に限る検索に過ぎませんが
産湯相承事
日蓮は富士山自然の名号なり、富士は郡名なり実名をば大日蓮華山と云う
五人所破抄
富士とは郡の号、即ち大日蓮華山と称す
百五十箇条
興仰に云く…大日蓮華山相応の故なり
類聚翰集私
日蓮は富士自然の名号なり富士は郡の名なり、実名をば大日蓮華山と云ふ
日蓮・夜は白蓮・日神昼・月神は夜、爰を以て重須の鎮守は八幡大菩薩・月よみの御神なり、師弟共に以て大日蓮華山と自然の名号なり
東方有小国・唯有大乗種姓の日本国の駿河富士郡大日蓮華山より本門の戒壇院立つて、あまふの原に六万坊立て…
駿州富士郡の大日蓮華山・先師自然の名号有る山の麓・天生原に六万坊建立有るべし差図の様を付属の事。
六巻抄文底秘沈抄第二
神道深秘二十六に云わく、駿河國大日蓮華山云云。
凡そ富士大日蓮華山は日本第一の名山
日蓮の二字の事
富士は郡の名、実には、大日蓮花山と名くる
富士は大日蓮花山なり
臨終用心抄
寛延元戌辰暦八月廿七日在山之砌り書写し奉り畢んぬ。
大日蓮華山門流優婆塞 了哲日心
五人所破抄見聞
南贍部洲第一の山に最も本門の事の戒壇可き在る建立大日蓮華山也
富士と者郡の号、即称す大日蓮花山
六人立義草案(日要)
冨山は大日蓮花山と号して日天能住の山也
申状見聞私(日我)
法花本門の戒壇大日蓮華山也
観心本尊抄文段上
戒壇の霊場をば大日蓮華山と名づく
撰時抄愚記上
山は則ち大日蓮華山
取要抄文段
神道深秘 二十六 に云く「駿河の国には大日蓮華山」云云
取要抄文段
神道深秘 二十六 に云く「駿河の国には大日蓮華山」云云
日順詮要抄…駿河国富士山に本門の戒壇立つ可きなり。富士山を天下晴れて大日蓮華山と云うなり
当体義抄文段
大日蓮華山と名づくるなり。この名は神道深秘二十六に出ず。
寿量品談義(日寛)
大日蓮華山と云ふなり。是れ則ち山の
頂き八葉の白蓮花に似たる故なり。三国伝十二(終往)見又陰長記下学集云云
日蓮大聖人守護の神明は日の神、国は大日本国、処は大日蓮華山
続家中抄
広瀬本城創草記に云く(詳師御筆)
南閻浮堤大日本国駿州多宝富士大日蓮華山大石寺末流
観心本尊抄首日相聞書
大日蓮花山なり。故に能居の人亦日蓮と名づくるなり、是の如く重々大事の法門口外すべからず
富士大石寺明細誌
末寺大日蓮華山、下之坊
1272
:
菱村正敏
:2004/04/26(月) 17:02
富士山の呼び名については、興味があります。
富士山は様々な呼び名がつけられていますが、私の考えるところで
は大日蓮華山という呼び名は日蓮正宗系のみで通じる富士山の呼び名
のような気がしています。
富士山−史話と伝説− 名著出版 という本には富士山の別名が
「富士山由来記・富士山縁起・秘中抄・秘名抄・遊方所略・駿国雑
志・類聚名物考・藻塩草」などから取り上げられて百数十ほど掲載
されています。ただし、大日蓮華山という呼び名は掲載されていま
せん。
ただ、確かに叡山文庫にあった神道深秘の写本には「大日蓮山」と
ありましたが、最澄に仮託されたといわれる神道深秘の原本?に
「大日蓮華山」とあるかどうかは不明です。
もし、地名呼び名などの汎用的な一般書において富士山が
大日蓮華山と呼ばれている旨を述べているものがございましたら
お知らせください。わたしは見つけることが出来ませんでした。
で、呼び名というのは案外と伝承されていくものと承知しています。
わたしは富士山の呼び名として「大日蓮華山」が人々のあいだでは実
質的には伝わってはいなかったような気がいたしますが、いかがですか?
1273
:
顕正居士
:2004/04/26(月) 19:20
>>1272
菱村さん。ひさしぶりでございます。
大日蓮華山あるいは八葉蓮華山というのは本地垂迹の上からいった美称で、日常にこう呼ばれた
わけではないとおもいます。「日蓮」とは元来無関係でありまして、胎蔵界・大日如来の中台・
八葉院に富士八峰をたとえたのです。八峰の名はもと中台八尊でしたが、神仏判然の令によって
今の名称にあらためられました。富士山の興法寺と浅間神社の関係は仏主神従で輪王寺と東照宮
の廃仏以前に似ていたのでないでしょうか。
「富士山の廃仏毀釈」
http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/bunka/furufuji10.htm
室町時代の「富士曼荼羅」の山頂の部分に「大日蓮華山」とあったと覚えていますが、写真が
小さいので確認できませんでした。
「富士曼荼羅」
http://www.city.fujinomiya.shizuoka.jp/bunka/man.index.htm
末代が山頂に大日寺を建立したのが本地垂迹の富士山修験のはじめと伝承しているのですから、
「大日如来の八葉蓮華の山」というのは信仰のとおりの名であります。
1274
:
菱村正敏
:2004/04/26(月) 21:53
どうも。顕正さんもご無事な様子、何よりです。
さて、富士山には表大日裏薬師という言葉があったようで・・・。
これも何度か書いたことがありますが、富士山は大日堂や薬師堂という
のがあったところに、富士信仰という庶民信仰もかぶさっていたと思い
ます。
富士信仰は時代の流れのなかで大小強弱はあったかもしれませんが
過去より民衆から支持されたものの一つだと認識しています。
それでもし、「大日蓮華山」という呼び名がいわゆる富士信仰という
庶民信仰のなかで使われていたら、もう少し一般的な地名本にに残って
いたのではないかということを考えています。ところが、実際のところ、
日蓮正宗系のなかでしかこの呼び名を見つけることができませんでした。
果たして「大日蓮華山」がいわゆる広い富士山信仰によっても呼ばれて
いた名前なのかどうか・・・。
もちろん、大日如来を中心とした富士八峰は芙蓉八朶とも呼ばれて
蓮華云々も了解するところですが、それがダイレクトに呼び名になった
とするのは日蓮正宗系だけのもつスジ書きではないかなと考えています。
1275
:
地名
:2004/04/26(月) 22:22
八須日忍師の本には以下のように記されております。ご参考の一助まで。
「大石寺廿六代日寛は六巻抄の文底秘沈抄の本門戒壇篇に「霊山浄土とし何処を指すや」
中略
「三には謂く大日蓮華山と名る故に、神道深秘廿六に云く。…神社考二に云く富士縁起に云く…」
中略
「大日蓮華山とは林羅山が「神道秘伝」(寛師の「神道深秘」は間違いと)に大日如来の蓮華の山と云い、「峰は八葉の蓮華に似たる故に蓮華王山と名く、不動・文殊・薬師・観音・阿弥陀・大日・経ヶ嶽と云い真言の金、胎両部曼荼羅と卜部兼倶の十八神道即ち吉田神道により大日蓮華山は命名されたものである。…神社考も…羅山り著書である。」「…富士縁起(吉田十二部神道)…」と。
1276
:
菱村正敏
:2004/04/27(火) 04:30
>「三には謂く大日蓮華山と名る故に、神道深秘廿六に云く。…神社考二に云く富士縁起に云く…」
ありがとうございます。と言うことは
林羅山の神道秘伝あるいは神社考、それと富士縁起というもののなかに
「大日蓮華山」というものとして記されているということを日忍という人
が披露しているということでしょうか?
それから、「日寛の神道深秘は間違い云々」とは何を意味しているのか
良く分かりません。もし、その辺をご存じならお知らせください。
1277
:
地名
:2004/04/27(火) 05:50
菱村さん
八須日忍師の編著者兼発行者「創価学会に答う」昭和38年・辻説法会発行所のP189〜190、P144〜148に記されている部分を摘記しました。
P147に「更に面白いのは「大日蓮華山」だ。「神道深秘に云く」と云うが「深道深秘」(私注:深道は神道のタイプミスかと思います)とは誰の著書か、これは「林羅山」が書いたもので元の名を「神道秘伝」と云う、之を日寛が世をゴマカス為めに「秘伝」を「深秘」とすりかえて引用したので「深秘」なんと云う本をいくら探してもない。漸く「神道秘伝」に同文があった。」とあります。
私自身は林羅山の著書には当たっておりませんので、上記のように略して記しました。失礼いたしました。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板