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素朴な疑問
1229
:
犀角独歩
:2004/04/03(土) 10:46
れんさんの整理、参考になります。
三学無縁さんの疑問、至極もっともです。
> 時師談の大石記…興師の言…「本門寺の朽木書の御堂…身延沢に立て申したりし御仏をも入れ申す」…「本門寺の朽木書の御堂」
> 主師の代までは本堂を中心に右に天経、左に御影堂
> 精師の代…本堂・御影堂を一つにして「本門戒壇本堂」…建立当初は弥四郎曼陀羅を安置
北山の三堂は棟札を信頼する限り、日蓮聖人御影堂、本化垂迹天照太神宮、法華本門寺根源(本堂)ですね。で有師の記述を併せれば八幡社も建っていたともなります。
時師のいう「御堂」は石山では御影堂であるといい、故に「御仏」は御影像であるともいうわけです。これはしかし、史実と一致しない気がします。こうなると身延から背負ってきたのは弥四郎漫荼羅ではなくて、御影像となってしまうからです。御影を身延で造り興師が持って出た確実な資料には当たれないでしょう。
ではここでいう「仏」は何を指すのでしょうか。わたしは単純に釈迦の絵像はあるいは仏像であると考えます。しかし、漫荼羅正意に泥んだ観点からすればけっして受け容れられないところでしょうね。けれど、精師の記述に「日興御さくの釈迦一そん一ふく」とあります。わたしはこれであったのだろうと考えています。
「御堂」は「おどう」と読めば、一般的な堂宇全般を指すことになります。仮に三堂が建っていたとしたら、その全体を御堂と云っても不自然なことはありません。
御影堂には御影、垂迹堂は天照、では本堂には何が祀られていたのか?
弘安2年「日興上人」授与漫荼羅でしょうか。
では北山を模倣したと思われる主師代までの石山本堂には何が祀られていたのか?
弥四郎漫荼羅が既に造立されていたのでしょうか。その可能性は否めません。しかし、興師作釈迦一尊である可能性も否めません。
天経とは垂迹堂でしょうから天照が御神体というわけですね。
石山が叙用したがらない『明細誌』に当時の三堂の詳細が記されています。
「諸堂本堂正南面檜皮葺、間口十四間奥行十三間、仏壇宮殿の中板漫茶羅竪三尺六寸横二尺、日蓮聖人木像御居長二尺八寸五分御膝両袖四尺一寸…
天王堂本堂前東方西向向拝唐破風檜皮葺、四間四面、日天月天を勧請す神躰は板本尊。
垂迹堂本堂前東方西向宮造一間四方、天照八幡を勧請す神躰は板本尊。
「奇怪な書」とも言われ、何かと現石山義には不都合なことが多い量師は「板漫荼羅」「板本尊」と言葉を使い分けているわけです。これを素直に読めば、
本門戒壇本堂、通称御影堂では御影像に精師造立の‘板漫荼羅’
天王堂には日天・月天の‘板本尊’
垂迹堂は天照大神の‘板本尊’
ということなのでしょう。その後、漫荼羅一辺倒になっていく石北では都合の悪い仏像・御神体を撤廃していっさい漫荼羅に取り替えていったというのが資料から窺い知れる変遷とわたしには思えます。
ここでエルさんが呈示された天拝の起源に戻れば、石北両山の天拝は、当初、天照大神を拝んでいたところが、御神体撤廃変遷のなかで文字通りの天拝に取って代わっていったと類推します。その変遷の過渡期が量師の示す垂迹堂と天王堂の並立でここでは特に日月天を板本尊として拝んでいたのでしょう。たぶん、この法式は明治の神仏分離令まで続いていたのではないでしょうか。
まあ、漫荼羅正意、仏像・御神体を過度に嫌う石山信徒には受け容れがたいところでしょうが。
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