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素朴な疑問

1180犀角独歩:2004/03/24(水) 11:00

エルさん:

> 興尊の数珠

の話題が出ていますが、これは石山で展示されたことが何度かあります。
わたしは七百遠忌の時に見ましたが、七宝造の色も鮮やかな大きなものでしたよ。
見た瞬間、「これじゃ、中指に掛けられない」と思いました。

あと三房はどこかの日蓮系の宗派も使っていた曖昧な記憶があります。
むしろ、わたしが石山の数珠との違いを感じたのは房の色でした。他派は紫とか色付きですが、石山は白でしょう。この白房が最も大きな違いと見えます。

> …父珠…心一境法性珠…日因抄…右手に之れを掛く

同類の記述は、因師の2代あとの芳師(元師)『対俗三衣談』にもあります。
わたしはこれを昭和56年10月14日にはじめて読んだのです。その読後記に

「去る9月21日に総本山参拝(七百遠忌)の砌、富士重宝展を観ず内に興師蔵の数珠有り。形は此れ392頁の図(以下、リンク)に似る。然し末代我等の数珠、其の形異なる。其の由来全く知らず。当今、心一境法性珠ある父珠のを左中指に掛くる事、元師の時とは異なるか」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/juzu.gif

と自ら記してありました。いみじくも今エルさんの疑問を、わたし自身20年以上前に懐いていたことがわかります。しかし本日に至るまで、納得の行く説明を聞いた試しはありません。慣習というのは案外、そんなものなのかも知れません。

中指に掛けることも、宥・寛・養・詳・東・教師いずれもそうであったと芳師は記し、併せて因師もそうであったわけですから、ほぼこの時代にはそのように行われていたのでしょう。けれど、興師の数珠を見る限り、中指に掛けられる大きさの珠ではありませんでした。合掌した両親指に掛けるのが至当と思えました。また郷門我師は人差し指と中指に掛けていたというわけで、同じ興門でも相違があることがわかります。さて、どこから変わったのでしょうか。


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