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素朴な疑問

1管理者:2002/02/20(水) 13:44

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/28(月) 18:47

スレッド立ち上げの要請がありましたので、立ち上げます。皆様、気軽に御発言ください。要請文は以下の通りです。

>私の場合、皆様のように難しい事はわかりませんが、いわゆる「素朴な疑問」は
>あります。そのような質問でもよろしいでしょうか?
>もしくは、そのようなスレがあればいいのですが・・・

1278翡翠:2004/04/27(火) 13:39
横からスミマセン。

菱村氏のレスにもありましたが、寛尊が閲覧された「神道深秘抄」は最澄選で
はないですか?

こちらの1117番にありますね。
http://www.zenbunka.or.jp/05_databases/wakan/wakan_tosho3.htm

ただし、この中に大日蓮華山という名称が出てくるかどうかは知りません。

1279菱村正敏:2004/04/27(火) 21:01
神道深秘なる書物(ただし写本です)は叡山文庫で閲覧させて
もらったので、存在していたのは確実です。もう記憶だけですが
たぶん天台宗典籍集?か何かを調べていたときに神道深秘が叡山
文庫に収められていることを知って、当文庫を訪ねたものでした。

 わたしが閲覧した当該写本には先に書いたように「大日蓮山」と
の記述で富士山が紹介されていました。

1280菱村正敏:2004/04/27(火) 21:12
 追加
 
 ちなみに、神道深秘は当文庫の好意にあまえてコピーさせて
いただきました。最近は日蓮系に興味が失せたこともあり、こ
のコピーもメモ用紙にしています。一部分はすでに使用し捨て
てしまっているかもしれませんが、これを機に必要な方がいら
っしゃいましたら、お申し出いただければ差し上げますよ。

1281地名:2004/04/27(火) 21:55
1279 菱村さん

>ただ、確かに叡山文庫にあった神道深秘の写本には「大日蓮山」と
>ありましたが、最澄に仮託されたといわれる神道深秘の原本?に
>「大日蓮華山」とあるかどうかは不明です。

「神道深秘」(写本)には「大日蓮山」とあるのですよね。
林羅山にどのように記されているか調べてみます。少しお時間をください。
下記の早坂師も八須師と同様のように言われていると思われます。
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/kyouka/03/03_086.htm
ご指摘、大変勉強になりました。

1282みかん:2004/04/28(水) 02:12
>>1269 顕正居士さん
大変参考になりました。ありがとうございました。

>> 菱村さん
林羅山の当該文献は、「神道大系論説編20」に載っているかもしれませんが、
最近図書館に行ってませんので確認できません。
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN02590727

>> 地名さん
八須日忍さんという方はどういう方か判りますでしょうか。

1283菱村正敏:2004/04/28(水) 05:31
 林羅山の本朝神社考はみたことがあります。ただ、そのような
文言を調べるためにみたわけではないので・・・。何かのおりに
わたしも見てみましょう。神道秘伝・富士縁起はみてませんが探
してみます。

 ただ、文底秘沈抄のなかの文脈としては
「神社考四−二十に云わく、富士縁起に云わく、孝安天皇九十二年六月
富士山涌出す、乃ち郡名を取って富士山と云う、形蓮華に似て絶頂に八
葉ありと云云。」

 上から想像するに神社考・富士縁起ではその地の郡名から「富士山」と
呼称されたということを述べるにとどまり、両書は大日蓮華山と呼称され
たことを示すものではないような気もします。

1284犀角独歩:2004/04/29(木) 12:38

「大日蓮華山」語は『産湯相承書』が初出ということになるのでしょうか。
では『産湯相承書』の初出は、となると、教師の『類聚翰集私』(1488年成立)と言われるようですが、道師『御伝土代』に酷似する記述が散見できます。
『産湯相承書』の成立をいつに見るのか、取り分け、「大日蓮華山」の記述部分は何時の時代であるのか、実に興味が惹かれます。

1285地名:2004/04/29(木) 17:17
富士山と大日蓮華山について、少しずつですが各種資料より摘記させていただきます。
「富士信仰の成立と村山修験」遠藤秀男氏、地方史研究家、富士宮市
「1.富士信仰のはじまり
古代における富士信仰は、おおよそ『万葉集』にうたわれた讃辞で言いつくされているが、なかでも富士山を女神としてとらえた『常陸風土記』によって、その原初的発想をとらえることができる。…富士山は美しいが心冷たい女神で、祖神尊(みおやのみこと)が一夜の宿を求めた…すげなく断る…そこで尊(みこと)は筑波岳に出向いてそこで…饗応をうけた…反対に富士山には…雪をふりつもらせて…しまったという。…富士山は『駿河国福慈岳』(ふじ)と記されて、人びとの関心をひきながらも近づきえぬ美女として、ひとり東海…に凝立してきた…。
だが、それを万葉人はもっと現実的に、…生活…感覚の中から…とらえようとしていた。その例…
巻三雑歌部
「大和の国の 鎮(しず)めとも 座(いま)す神かも 宝とも 生(な)れる山かも 駿河なる 不尽(ふじ)の高嶺は 見れど飽かぬかも」
山部赤人の長歌
「天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺を 天の原 ふりさけ見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見へず 白雪も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける」
…いずれにしても富士山は神そのものであり、人間の足跡などとうていおよばない神秘神霊の高岳であることで一致していたのであった。
そのため、富士山を表記する文字もさまざまに用いられており、前記の福慈・不尽・布士のほか、不時・不自・富岻・浮士など、奈良時代から平安時代の初期まで、さまざまな字音をあてていたのであるが、そこにもおのずから字義がこめられていて、不時(季節はずれに雪がふる)とか不尽(一年中雪が尽きない)など、『常陸風土記』の延長を思わせる伝承が息づいていることを見逃せない。
 中略
 だが、それだけで富士信仰のすべてを語りつくすわけにはいかない。山体そのものを神とみたてたおおらかな時代が過ぎて、人智が発達してくると、山そのものが持つ荒々しいエネルギーや神秘感に対して畏怖の念を抱くようになり、そこに祈る姿が生まれてくるからだ。祈りはやがて山中に祀堂を建て、それを通じて神と人との融和をこころみようとする積極さに移行していく。その動きがつぎにのべる「浅間神社」の成立と「大日堂」の建立にかかわってくるのであるが、じつは富士山の場合、こうした動きのひきがねになったものは、噴火というまことに物理的、現実的な胎動であった。
 中略

1286地名:2004/04/29(木) 17:21
同書より続く
2.末代上人の富士登頂
(イ)末代以前(富士山記)
 富士山に山岳仏教を最初にもちこんだ人物は、いったい誰であったろうか。それについては古くは、必ず役の行者を嚆矢として取りあげているが、現在の学問ではそれを事実とは信じていない。…夜になると海上を走って…富士山頂で修行して帰ったという『日本霊異記』に拠っている。…
 ところが、平安時代にはいって富士山頂をきわめた者がいたことは、『本朝世紀』の久安5年(1149年)の条に末代上人が山頂に大日寺を建立したという記事があることで知られている。彼こそ富士山を仏化して、山中練行の霊場にもりたてていった。“富士修験”の先駆者であり、自他ともに高い評価を与えねばならぬ人物であるが、それに先だつこと290年ほど前に、すでに山頂まで登攀した者があったことを示す記録が残されている。それはまことに驚くべきことであったが、貞観6年の大爆発の直後にまとめられた文献で、書きしるした者は京都の文人、都良香であったという点において、登山事実は、地元の人間が異常な興味をもって噴火のあとをたどってみた結果の報告であったろうと考えられる。
 良香の死は元慶三年(879年)であり、記録はその4年前まで書き続けられていることから、おおよその年代推定は可能であるものの、報告者の何たるかについては、まったく言及されていない。…中略…なぜなら富士山について二人の国司は、それぞれつぎのように記述しているからである。
駿河国宮、富士郡正三位浅間大神大山火
甲斐国宮、駿河国富士大山忽有暴火
つまり富士山を見る目は、当時ほとんどの者が「駿河なる富士」と決めてかかっていたことを示している。そうした考え方を踏襲して、良香の『富士山記』も、「富士山者在駿河国」と書き出し、「山名富士取(富士)郡名也」と断定しているのである。

1287地名:2004/04/29(木) 19:22
同書より続く
(ロ)末代上人と村山
 末代上人は、またの呼称を“富士上人”ともいわれた。それは彼が富士登山を数百度して、山頂に大日寺を建て、はては鳥羽法皇の帰依をうけて宮中の諸士から大般若経の書写をしてもらい、それを山頂に埋経した実績によるものである。その間の事情は、『本朝世紀』久安五年(1149年)の条に明らかであり、…
「久安五年四月十六日、丁卯、近日於一院、有如法大般若経一部書写事。卿士・大夫・男女・素緇多営之。此事、是則駿河国有一上人、号富士上人、其名称末代、攀之大日登富士山、已及数百度、山頂構仏閣、号寺。」
その大日寺はどの程度の規模であったか、後世まったく記述に接しないが、現在浅間神社の奥宮のある位置を明治以前は“表大日”(おもて)と呼んでいたので、おそらく登山道を登りつめた所にこうした祀堂をもうけて、入峯(にゅうぶ)中の修行拠点または山神定置の場にしたのであったろう。山神は、この頃、浅間大神に代わって、垂迹仏である大日如来が、全山を統治するものとしてかなりの比重をもって祀られていた。だが、そこにいたるまで、末代も本地垂迹の融和についてかなり苦悩していたとみえて、浅間大神=浅間大菩薩=大日如来というつながりの解明に多くの歳月を費やしている。その間の事情を『地蔵菩薩霊現記』によってみると、
「垂迹浅間大菩薩、法体は金剛昆廬舎那の応作、男体に顕れ玉ふべきに、女体に現じ玉へり。然れば即本迹各別なれば、末代に不信の衆生多くして、二仏の中間に迷ひ、済度も又覚束なく思し(おぼし)奉る。所詮我捨身(しゃしん)の行を修め、後代の不審を晴さんと思立て、御岳の半に座して、樹下石上にして、百日断食して、正しく神体を拝み奉とぞ祈りぬ。」
 つまり、浅間大菩薩は男体であるはずなのに、コノハナサクヤ姫(女神)を山神と祀る神社側と大きく相違していたのである。そこで百日の断食をこころみることになり、その満願の日暁、虚空から声が伝わってきて「汝のいる所から東南に百八歩すすみ、谷下を掘れ」と教えられる。その結果彼が得たものは、富士山にそっくりの形をした水晶であった(そこを後世、水晶ヶ岳と呼ぶ)。
 心の迷いは晴れた。神仏は男女を超越した世界に住みたもうものであると覚った時、はじめて彼は庶民の絶対的崇拝をうけることになったのである。その後……
「その身は猶も彼の岳(富士山)に執心して、麓の里村山と白(もう)す所に地をしめ、伽藍を営み、肉身を斯(ここ)に納めて、大棟梁と号して、当山の守護神と現れ玉ふ。」
というごとく、富士宮市元村山に居を占めて活動を続け、ついには即身仏(ミイラ)となってまつられるにいたるのである。彼を祀った建物は「大棟梁権現」と呼ばれ、江戸時代後期の地誌『駿河国新風土記』は、
「大棟梁と号し此山の守護神となるといへる社、今に村山浅間の傍に大棟梁権現の社あり。村山の三坊の山伏辻之坊は浅間社、池西坊は大日堂、大鏡坊は大棟梁権現と分て別当なり。」
と報告している。」

1288地名:2004/04/29(木) 21:49
同書より続く
「このように死後まで尊崇されて富士山の守護神とたたえられた末代は、いったいどのような素性の人だったのであろうか。まず『駿河国新風土記』の著者は、彼は駿河の人であるとし、「此人はじめ伊豆山に住し、今に伊豆日金山にその旧跡あり」と述べている。また『地蔵菩薩霊現記』は、彼が伊豆で“走湯”(はしりゆ)などの噴火炎熱の地獄をみて庶民の救済を思いたった、と書いており、富士登山に命をかける以前の末代の姿をしのぶことができる。…
そのうえ駿河の岩本に実相寺を開基した智印上人と特別な関係になっていた。実相寺は富士川に間近く、東海道の要所にあたって建てられた古刹であり、智印は京の人。それゆえ久安年中に当寺を建てるにあたって、鳥羽法皇の院宣による霊像を安置したというほど、中央とのつながりは緊密であった。その智印との関係は、つぎのとおりである。
「第一最初院主上人(智印、世貴言阿弥陀上人)者、鳥羽仙院之御帰依僧、末代上人之行学師匠也。」(文永五年、日興上人筆「実相寺衆徒愁状」による)
つまり末代はこの智印を師として見聞を広め、修行と布教につとめながら、富士山を征服していったのであり、実相寺が完成した久安年中には、すでに世人に認められる大日寺の建立など、めざましい活躍をしていたことになる。したがって実相寺建立にあたって彼の協力は絶大なものがあったろうと推定されるし、前記の如法経を富士山頂に埋めた行為もこれと無縁ではなかったろうと思われる。ともあれ、末代上人はそれまで神の山であった富士山に山岳仏教を導入して、麓の村山に修験者の居住する僧房を建て、興法寺や大棟梁権現など、後世の“富士修験”の基本的形態を完成したのであった。しかも彼はミイラとして残され、彼の行徳を慕う者達によって、ますます富士山は(師匠の智印が阿弥陀上人と尊崇されたと同じように)浄土信仰の色彩を強め、そこにいたる時は現世安穏と来世の極楽が約束される霊山として、定着していったのである。」

1289地名:2004/04/29(木) 22:15
同書より続く
「三 村山修験と富士行
(イ)富士行と頼尊
 末代上人の流れをくむ者達が、ひき続く鎌倉時代にどのような行動をとっているかというと、具体的には「埋経」と「富士行(ぎょう)の創始」と「仏像寄進」という三点において、いささかなりとも解明していけそうである。…中略
…山頂に建てられた大日寺ゆかりの大日如来が、山中仏化の重要なにないてとして造立寄進されている…。
 現在富士宮市元村山に保存されている大日如来のうちで最古の銘があるものは、先の埋経から40年後の正嘉三年(1259年)に北条時頼が寄進したという伝承が付随しているものである。村山浅間の社伝によれば、この年諸国に飢饉や疫病があいつぎ、群盗が各地にはびこったため、天下泰平を祈願して社殿を修理し、この仏像を造立寄進したという。…それと同時に、これと時を同じくするように日蓮上人が(末代の師匠智印が建立した)実相寺の経蔵にはいって、一切経論の研究にとりくみはじめたのである。その結果「立正安国論」が著述されて、日本の宗教界に大きな変転を現出していくのであるが、こうした揺れうごく時代に、富士信仰は着実に庶民の中に浸透していた。そのあらわれは、正嘉三年の仏像から58年ほど過ぎた文保年中(1317~9年)村山では“富士行”(ぎょう)というものが組織され、その頭主に頼尊という修験がおかれているのである。富士行とは簡単にいえば、富士山中にこもって修行する行為をただ山伏修験だけにまかせず、一般人が参加して自ら“行”をおこない、霊力または法力を得ていくべきだとするものであった。」

1290地名:2004/04/29(木) 22:43
同書より続く
「富士山中奉納物一覧
年号          奉納物  場所   銘文(抜粋)
1.正嘉三年(1259年) 大日木像 南口村山 敬白奉造立倶金頭大日如来壱体、願心聖人覚尊
2.至徳元年(1384年) 古鏡   須走口六合 略
3.文明十年(1478年) 大日木像 南口村山 奉造立金剛界大日尊形再興、大宮司前能登守忠時
4.文明十三年(1481年)不動明王 南口村山  略
5.延徳二年(1490年) 大日鉄像 頂上剣ガ峰 略
6.明応二年(1493年) 十一面観音 頂上東斎の河原 略
7.明応四年(1495年) 大日鉄像  頂上大日堂   略
8.文亀三年(1503年) 大日懸鏡  頂上釈迦割石  略
9.大永八年(1528年) 大日如来  頂上東斎の河原 略
10. 天文三年(1534年) 中宮社棟札 吉田口五号   略
11. 天文四年(1535年) 大日懸鏡  吉田口五合五勺 略
12. 天文十二年(1543年)大日如来  頂上剣ガ峰   略
13. 天文廿二年(1553年)地蔵    吉田口五合五勺 略
14. 永禄三年(1560年) 大日懸鏡  吉田口五合   略
15. 天正十九年(1591年)大日懸鏡  南口八合    略
                   (駿河志料・駿国雑誌・村山史料などより)」

1291地名:2004/05/01(土) 07:37
富士浅間神社 火の山だった富士山:そもそも富士という山名はアイヌ語で火を意味する「フチ」に由来するといわれている。なお、「アサマ」という口葉は、長野県の浅間山に眼らず、火山を意味し、富士の山神に対し「浅間大神(あさまのおおかみ)」と命名している。後世、浅間大神は、木花開耶姫(このはなのさくやひめ)と同一視された。浅間神社の祭神である木花開耶姫は、山々を司る神様である皇孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)の皇后である。/「せんげん」と「あさま」:古い祝詞では、浅間神社と書いて「あさまのじんじや」と読ませている。江戸時代に入って、いつとはなしに「せんげんじんしや」というようになったが、いまでも正式の社号は「あさまのじんじゃ」である。なお、「浅間」と「先現」の文字の誤用から、浅間が用いられるようになったとの説もある。(神社・千葉県柏市) [97-09-02]
「閼伽出甕【第6版】神社・神道」サイトから引用いたしました。

1292地名:2004/05/06(木) 21:24
「地名辞典」によれば、
「富士山は「万葉集」以来一貫して「駿河なる富士」と認識されていた。中略
「富士」の称について、都良香の「富士山記」(本朝文粋)は富士郡の郡名より起こるとする。
これに対し「竹取物語」は不死の薬を頂上で焼いたから、あるいは、そのための勅使が士(つわもの)を数多く引連れて登ったがゆえに士に富む山で富士山とする両説をあげて物語を結んでいる。
なお、般若山や芙蓉峯など異名も数多く、辞書によっては数十種を載せるものさえ見受けられる。」と。

1293犀角独歩:2004/05/10(月) 22:37

地名さん:

貴重な資料のご呈示、ロム者の一人として感謝申し上げます。
過日、知り合いの神道研究家(こちらの常連さんでは知己の方も大勢いらっしゃる方です)から、富士の由来について、ややお話を伺いました。

結局のところ、大日蓮華山の名の由来はわかりませんでしたが、今更、「あ、なるほど」と思ったことがあります。大日・蓮華・山であって、大・日蓮・華・山ではないことです。当たり前すぎることを書いていますが、富士山頂に旭日が昇るとき、富士の裾は蓮華の姿であり、太陽が大日であれば、富士山は蓮台の様相を示した名のであろうと思った次第です。山頂に旭日を懐く富士は確かに壮観です。

あと、「浅間」のことですが、これには「仙元大菩薩」の名を挙げ、浅間は「あさま」を語源とするのみならず、「せんげん」=仙元がその訓の語源になっているという指摘を受けました。

これらのことについて、わたしはまるで不案内ですので、この拙い投稿が、地名さんをはじめ、皆さんのご投稿で、予想を超えた膨らみを持ってくれればと、ささやかな希望を懐いております。

いずれにしても富士周辺のこと、真言立川流、神仏習合、山岳信仰、神道のタームから読み解かないとならないと改めて思う昨今です。

1294エル:2004/05/11(火) 08:36
念珠の時はお世話になりました。m(__)m

nb さんの掲示板で、念珠について少しやり取りがありましたね。

http://bbs4.otd.co.jp/401307/bbs_plain?base=10009&range=1

これによると、日因上人は、数取りする時には母珠も数えるべきだという事を
云われているようですね。

ところで、108珠は隙間がないくらい、キチキチに作られてますよね。
弟子珠のように隙間がない。あれで、どうやって数を取ってたのでしょうか。
それとも、上代の数珠は隙間があったのでしょうか。(^^;

1295風来坊:2004/05/12(水) 11:31
管理人様、皆様
すでに過去話された内容かもしれませんが、ご教示いただきたく存じます。
日目師が亡くなった時、第四世を決める段階で、日道師と日卿師の間で争いがあったと
聞いたのですが、詳しくはどのようなものだったのでしょうか?

また、その事実が残されている書などはあるのでしょうか?

もしそれが本当ならば、その時点で血脈相承なるものがなかったことに
なるように思うのですが、いかがでしょうか?
血脈相承などなかったとしたほうが、二人の争いもわかるような気がするのですが。

ご教示よろしくお願い致します。

1296れん:2004/05/12(水) 13:10
風来坊さん初めまして。道郷論争の事ですが、郷師の付弟の日賢(日伝)師の文書によると、大石寺の東坊地は南条時綱氏から日郷師に寄進されたのに対し、西坊地は南条左衛門三郎氏より日道師の付弟日行師に相続されたことが記されております。そして日行師が東坊地の所有権を主張したことにより、伝師との間に東坊地の係争が起こったというのが史実です。道郷両師には論争は無かったでしょう。また、今日石山にて言われるが如き血脈相承が有った事を証する当時の正文献も皆無であって、今日の大石寺で言われる血脈相承は後世の成立と見てよいでしょう。

1297風来坊:2004/05/12(水) 14:18
れんさん
はじめまして。
御丁重なる御返事ありがとうございます。
道師と郷師の争いはなかったのですか。私の聞き間違いかもしれません。

小耳にはさんだところによると日目師が京都に布教に行かれるにあたって、郷師を同行させて、
道中、日目師が美濃の垂井で亡くなられた。
そして、大石寺に帰ってみたら、すでに道師が住職に納まっていて、
そこから三年ほどの争いが二人の間で起こった。
こんな話を聞いたことがありましたもので、いろいろな書をあさってその
信ぴょう性を探ってみたのですが、結局見つからずに質問させて頂いた
ところでございます。

了解です。史実にはなかったということですね。ありがとうございました。

1298問答迷人:2004/05/12(水) 14:44

風来坊さん
れんさん

>そして、大石寺に帰ってみたら、すでに道師が住職に納まっていて、そこから三年ほどの争いが二人の間で起こった。

これは、大石寺のアナウンスですね。実際は、日郷師が大石寺に戻ったとき、日道師はまだ北山にいて北山で日代師の跡を狙っていたが果たせず、大石寺に戻り日郷師の追い出しを図った、というのが史実ではなかったでしょうか?資料の裏づけ無しに書いていますので、この辺りの事情にお詳しい、れんさん、間違っておりましたら、訂正の程よろしくお願いいたします。

1299菱村正敏:2004/05/12(水) 16:45
 みかんさん

>林羅山の当該文献は、「神道大系論説編20」に載っているかもしれませんが、

 ご指摘のとおりに当該書に掲載されていました。神道秘伝折中俗解という
名称が付されていますが、これは神道秘伝という書物のやさしい解説書とい
うような意味なのかどうかわかりませんでした。で、神道秘伝折中俗解を見
たところ、富士山=大日蓮華山の指摘もそれに類似する記述も見当たらない
ように思います。

大日蓮華山という呼称がいつ発生したのか、それは正宗系以外のさらに
ふるい書物をあたるしかありませんが、正確にいえば神道深秘の写本には
大日蓮山とあります。ということは大日蓮華山という呼称は正宗系以外の
書物には記載されていないのではないかと大胆な予想をしておきます。

 余談ですが、林羅山がべつのところで仏家が「日の神は大日なり。大日の
本なるが国、ゆえになづけて日本国という」ということを指摘していました。

 これと似ているようにすると
 「本仏は大日蓮なり。大日蓮の山なるがゆえに、名付けて大日蓮山という」

 本朝神社考および神社考詳節などにも大日蓮華山に関する呼称は
見つけることができなかった旨も追記しておきます。

1300三学無縁:2004/05/12(水) 17:31
風来坊さん
問答迷人さん

たしかに、道郷二師の問題、石山初期の大きな問題であると思います。
目師の京都行に随伴したのが、郷師と尊師であるという説の初出はいつごろまで遡ることができるのでしょうか。
今、まったくの資料なしなのですが、せいぜい家中抄あたりではなかったでしょうか。
ただ、家中抄よりも早く、房山のだれかの記述では、随伴したのは道師と尊師で、郷師は石山におられた、というものがあったように記憶しています。
尚、道師がいたのは北山ではなく、「下坊」とあったように思います。
「下坊」がどこであるか今特定できませんが、それが事実であるとしたら、道師に石山留守居つまり四世の自覚はなかったことになるのではないでしょうか。
郷門否定は行師時師あたりによる必死のあがきのように思えます。

1301風来坊:2004/05/12(水) 18:04
問答名人さん
三学無縁さん

ご教示誠に有難う存じます。

そうなんです。私もこの話を耳にした時は大きな問題として詳しく論じたいもの
だと考えたのですが、それを証明する書がないのです。

ですので皆様にお力を頂ければと質問させて頂いたものでございます。

どちら様かお詳しいかたいらっしゃいましたらご教示のほどよろしく
お願い致します。

1302風来坊:2004/05/12(水) 18:13
問答名人さま
>日道師はまだ北山にいて北山で日代師の跡を狙っていたが果たせず、大石寺に戻り
 日郷師の追い出しを図った、というのが史実ではなかったでしょうか

なるほど。となると、少なからず何らかの争いのようなものはあったということ
なのでしょうかね。

そうであるとすると、もし唯受一人血脈相承なるものがあったとしても、
日道師は血脈相承を受けたことを、郷師はじめ周りの者達に証明することが
できなかったということになりましょうか。

となると、ここだけを取ってみても、唯受一人血脈なる相承など
なかったと考えることができましょうか。

もちろん、今までの皆様の議論の中で、そんな血脈相承などあとから
つけたものであることは了解しているところなのですが、
もう一つそれを証明といいましょうか、否定をする史実になりえる
のではと思った次第です。

1303風来坊:2004/05/12(水) 18:41
皆様あわせて質問させてください。
二年以上教学の研さんを怠っておりましたので、低レベルな質問ですし、
もう話されたことかもしれませんが、お許しを。

二箇相承は北山から盗まれてと独歩さんや問答名人さんの過去ログで
拝見したのですが、それが記されている書を教えて頂きたく存じます。

よろしくお願い致します。

1304顕正居士:2004/05/12(水) 19:22
日目天奏に日郷が随行したことは『祖師伝』(広蔵日辰・富要5巻)にあります。

二箇相承紛失は『二箇相承紛失由来』(保田日我・富要9巻)にあります。

1305れん:2004/05/12(水) 19:40
問答名人さん。日道師が大石寺に住したという文献は残っておらず、目師滅後は下之坊に定住した様ですので、道師が大石寺住職になったというのは後世成立の見解でしょう。また、日郷師も大石寺住職になったという文献もありませんから、実際は行師(西坊地)・郷師(東坊地)そして実態は不明ながら「上野六人老僧」を中心に合議的に運営されていたと思います。ただ道師は「日目上人一百箇日」追善の曼陀羅を書写していますから、目師滅後の日目門下の中で曼陀羅を書写を出来る立場には居たでしょう(郷師の曼陀羅書写は道師滅後に始められている)。

1306問答迷人:2004/05/12(水) 19:53

風来坊さん

顕正居士さんが、保田の文書を示してくださいましたので、僕からは二箇相承の、北山の文書を提示させていただきます。


本門寺宝物目録(富士宗学要集9巻20頁)

(編者注記)祖滅五百四十七年の集なり北山本門寺にあり、此の抄録の文書は年月日あれども当時用ひたるものとも見へず、又入文に怪しむべきありて全く其の正偽を知らず、単に当時の宝物の概数を知るの料とするのみ。

一、日蓮聖人御直筆漫荼羅大小弐十幅。
一、日興上人御真筆漫荼羅大小五十幅。
一、日蓮大上人御真筆本門寺額。
一、日興上人御真筆日妙聖人へ御遺状二通。
一、日蓮大上人御真筆一部八巻御経。
一、日蓮大上人御真筆紺紙金泥御経一部一巻。
一、日蓮大上人御真筆御聖教。
一、日興上人 同 上 同 上。
一、日蓮大上人同 上 貞観政要一部七軸。
一、天 神  同 上 法師功徳品。
一、日蓮大上人同 上 二箇の相承。
一、日蓮聖入所持御珠数一連。
一、日興上人     御申状三通。
一、同 上      御自筆本尊授与目録一巻。
一、同 上 同 上  日澄聖人御遺状一通。
一、日 代 同 上  五人立義抄一巻。
09021
一、日 源 同 上  安国論二巻。
一、日興聖人同 上  本尊七箇相承一巻。
一、同 上 同 上  教化弘経七箇の口決一巻。
一、同 上 同 上  産湯相承一巻。
一、同 上 同 上 文底秘法相承一紙。
一、同       本門寺御棟札一枚。
  以上。
右の通に御座候処先文に相誌し候天正九年武田勝頼家臣理不尽に奪ひ取り候に付き御注進申上げ候。  天正九年巳三月十七日 富士山本門寺、本妙寺、行泉坊、西之坊、養運坊、大乗坊。  増山権右衛門殿。

1307問答迷人:2004/05/12(水) 20:02

れんさん

有難うございます。

>上野六人老僧」を中心に合議的に運営

なるほど。これは一番有り得る事ですね。蓮祖が六老の選定を以って後継者を定められた如くですね。

>道師は「日目上人一百箇日」追善の曼陀羅を書写

この辺りが、唯授一人説に依って脚色され、道師が大石寺の第三代住職とされたのかも知れませんね。勉強になりました。有難う御座いました。

1308顕正居士:2004/05/12(水) 20:23
二箇相承

が北山本門寺にあり、西山本門寺の意を受けた武田軍に奪われたのは間違いのない史実でしょう。
奪われる以前に大石寺との紛争から今川氏の裁判に証拠書類として提出されたこともあります。
(だから二箇相承が日蓮の筆であるという意味ではありません)

血脈相承

血脈相承は室町時代に普及した諸芸伝授の様式で花道などに今日もあります。歴史上、最も有名
なのは「古今伝授」で、形式的なものではなく、たいへん時間もかかりました。
大石寺でいう血脈相承も同じですが、「唯授一人」の切紙相承が日蓮以来行われており、これの
伝受者だけが大石寺の貫主となる資格があるという考えとおもいます。この儀式は後世にできた
にしても、高齢の日目師が大石寺の相続者を決めないで天奏に立たれたのは不思議です。日目師
には日興師の譲状があるのに。70年におよぶ紛争にいたったことから考えると、すでに南条家(
新田小野寺家)に内紛があって相続者を決められなかったのかも知れません。

*宗教上のことは「合議運営」はあるでしょうが、道郷紛争は財産相続、大石寺(蓮蔵坊)の土地
を争う事件でした。
*切紙相承 両巻血脈などは「唯授一人」ではないので、切紙だと想像します。

1309れん:2004/05/12(水) 20:54
顕正居士さん。血脈相承についてのご見解参考になりました。有難うございました。
石山における切紙相伝の目録は三学無縁さん・犀角独歩さんが示された完則師記の大石寺宝蔵目録に記載があります(内容不明)。郷門の切紙については、目録ともに「千葉県の歴史」所収の保田妙本寺文書・宮崎県史所収の定善寺文書に収録されていますので、風来坊さんにぜひご一読をお薦めいたします。

1310空き缶:2004/05/13(木) 02:39

 「蓮蔵坊」とは「御堂」(御影安置の場所)のことではないでしょうか。

 「蓮」とは日蓮聖人、「蔵」とは聖人おわします処、つまり「蓮蔵坊」にまつわる争いは「御影」(興目両師からの相伝)の争奪戦だと思います。

 「千葉県の歴史」や「富士宗学要集9巻」に、日時師が日伝師に御影の返還を求めた書状が掲載されていたと思います。

 一時的に御影を遷座した「小泉久遠寺」も、「蓮蔵坊」の機能拡大版ですから。

1311犀角独歩:2004/05/13(木) 11:04

1303 風来坊さん:

> 二箇相承は北山から盗まれてと独歩…

この件に関しましては、1304に顕正居士さんが挙げてくださった資料に基づいて、曾て記したことでした。石山信仰下にあったときは、この我師の証明を金科玉条と考え、二箇相承真筆の挙証に数えておりましたが、1308に同じく顕正居士さんが「二箇相承が日蓮の筆であるという意味ではありません」と仰る如く、いまではわたしはこれが蓮師真筆の証とならない考えるに至りました。

なお、蛇足ですが、今川家云々の経緯については『大石寺誑惑顕本書』にもその記述が載っています。ただし、これは北山宣揚文書ですから、二箇相承が重須こそ、富士山本門寺であることを証明する真筆として扱われております。

ここで今更申し上げることはありませんが、興門下では富士山本門寺とは北山・西山の両寺院の名称です。

以上のことから、わたしは北西両山を跨ぐ人、すなわち代師・若しくはその法類が、二箇相承捏造に何らかの関わりを持ち、その当初においては‘大日蓮華山’大石寺とはまったく関係のない文書であったと考えられます。その後、この存在を知った石山において、広宣流布の暁には石山は富士山本門寺と改称する未来の証明書として扱われるに至ったのであろうと考えます。しかし、実際は既にある富士山本門寺を蓮師に仮託して宣揚することを目的にした文書であったと思われます。つまり、富士山本門寺は未来に石山が改名するためのものではなく、既にある富士山本門寺を証明するためのものであったということです。

尤も、こんなことは今更ここに記すことではありませんが、ロムの皆さんのために取り敢えず整理して標しました。

1312犀角独歩:2004/05/13(木) 11:09

れんさん:

> 郷師の曼陀羅書写は道師滅後に始められている

このご指摘に殊の外、わたしは目を引かれました。
道師はたしか郷師に書写漫荼羅を下しておりましたっけ?
となると、郷師は道師を自分の上位、もしくは興(目)を継ぐ師匠として仰いでいたという類推は成り立つことになるのでしょうか。また、れんさんはそのようにお考えですか。

1313れん:2004/05/13(木) 19:39
犀角独歩さん。日道師は元亨四年十二月二十九日に興師が書写し目師に授与された曼陀羅を目師滅後「日道相伝之日郷宰相阿闍梨授与之」と添書して日郷師に授与してます。道師は石山住職となった事を証する文献は皆無ですが、道師が目師百箇日追善の曼陀羅を書写し、また目師へ授与の興師曼陀羅を郷師へ授与している事実からは、道師は目師滅後の目師門下の長老として目師門下を代表する立場にはあったのではないかとは推察します。ただ道師と郷師の文献上の接点は上記の興師曼陀羅の添書のみで道・郷両師に師弟関係があったのかは分かりません。

1314犀角独歩:2004/05/13(木) 19:53

れんさん、今回のご投稿を拝見し、種々考え直すところがありました。
有り難うございました。

1315問答迷人:2004/05/13(木) 22:36

れんさん

>道師は目師滅後の目師門下の長老として目師門下を代表する立場にはあったのではないかとは推察します。

なるほど。道師に対する認識を新たにいたしました。有難うございました。

一つ御質問と言うか、お願いがあります。日本書紀が編纂された目的は、大和朝廷の正統性を主張するためであったと思います。古来、歴史が編纂される動機は、歴史に対する興味というよりは、現体制を正当化する目的でなされる場合が多いように思います。日蓮門下最古の歴史書、御伝土台を道師が書いたことの意味合いについて、僕は、第四世としての、自らの立場を正当化する目論見ではなかったかと考えてきましたが、この点に付いて、何かご見解をお持ちでしたら、ご披露いただけませんでしょうか。

1318れん:2004/05/14(金) 07:24
問答名人さん。私は道師の御伝土台の編纂の動機について、何らの見解を持っておりませんが、道師が御伝土台を編纂された動機の一つは、興目両師滅後の富士門流の内部における混乱(代師仙師の方便品読否論争と代師重須擯出)等が契機なったと思ってました。つまり蓮興目の三師の事蹟を通じて富士門流の法門を示し後世に伝えるのが目的ではなかったかと考えておりました。しかし問答名人さんのお言葉に触れて、道師が御伝土台を編纂した目的の一つには、富士門流内での日目門流の正統性を主張することにあったのではないかとも愚考しております。

1319犀角独歩:2004/05/14(金) 09:10

れんさん、問答名人さん、わたしも質問させてください。
『御伝土代』は元号の記述の間違いが指摘されますが、このようなことは富士周辺の、他の諸師の文献でも起こることでしょうか。
もう一点。この書は未完で、特に目師の記述はまるで途切れています。この理由はどのようにお考えですか。この書は御伝として三師(蓮興目)の系譜を挙げた点で際立っているわけです。もし道師が目師直系を主張するのであれば、むしろ、目師の項で筆を投げ出さず、自分との関わりまで記してもよさそうなものと思えるのです。いや、むしろ、そのことこそ、書かなければならなかったのではないでしょうか。それを書かなかった理由。諸般の事情で完結しなかったというより、たとえば、道師にとって、ある時期に、急速に目師への興味を失ったなどの理由は考えられないのでしょうか。

1320犀角独歩:2004/05/14(金) 09:11

れんさん、問答名人さん、わたしも質問させてください。
『御伝土代』は元号の記述の間違いが指摘されますが、このようなことは富士周辺の、他の諸師の文献でも起こることでしょうか。
もう一点。この書は未完で、特に目師の記述はまるで途切れています。この理由はどのようにお考えですか。この書は御伝として三師(蓮興目)の系譜を挙げた点で際立っているわけです。もし道師が目師直系を主張するのであれば、むしろ、目師の項で筆を投げ出さず、自分との関わりまで記してもよさそうなものと思えるのです。いや、むしろ、そのことこそ、書かなければならなかったのではないでしょうか。それを書かなかった理由。諸般の事情で完結しなかったというより、たとえば、道師にとって、ある時期に、急速に目師への興味を失ったなどの理由は考えられないのでしょうか。

1321風来坊:2004/05/14(金) 10:29
問答名人さん・独歩さん・れんさん
御返信賜りまことにありがとうございました。

独歩さん

>尤も、こんなことは今更ここに記すことではありませんが、
 ロムの皆さんのために取り敢えず整理して標しました。

本当に申し訳ございません。しばらくさぼっていたもので・・・。
もう一度過去ログ必死に読み返していきます。

1322風来坊:2004/05/14(金) 10:30
顕正居士さん
すいません。書き漏れしてしまいました。
御返信賜り有難う御座いました。勉強させて頂きます。

1323れん:2004/05/14(金) 20:16
犀角独歩さん。御伝土代の元号の記述の間違いは、蓮師の誕生の年のことでしょうか。少なくとも、上代の門弟の正本の存する文書では改元後の元号を記述する例はなかったと記憶しています。目師伝未完の件ですが、因師自筆の日目上人日道上人御系(本源寺蔵)には日道上人御自筆三師御伝記に曰くとして「十月十三日大聖人御遷化に値い奉り恋慕を懐き身延に還御す一山の供衆に列して御番役を勤む其の後弘安六年奥州に下向し新井田において法華堂を建立す以下これを略す」とあり、この文は現存本に無いので、現存本を補訂したものの曽存が推定されます。

1324犀角独歩:2004/05/15(土) 10:11

れんさん:

> 御伝土代の元号の記述の間違いは、蓮師の誕生の年のこと

ええ、それもあります。あと、

「日興上人御遺告、元徳四年正月十二日日道之を記す」

の‘元徳四年’です。同3年元弘に改元されていますから、この遺告が記されたとする1332年は「元弘二年」です。また、この書が道師本であると決定を下したのは亨師となろうかと思います。しかし、これは本当に同師のものでしょうか。

先に完則図をご覧になった由、記述されてお出ででしたが、『大石寺宝蔵目録』に『三師伝 日時筆 一巻』とあります。

亨師は『御伝土代』の編註に「『在世一代乃至于時応永十年癸未九月廿二日』の三行あるに依り後師誤りて日時上人作の三師之伝とせし事あり今因に之を記し置く」とします。ここにいう『三師伝』とは遠霑講寺完則師が目録に言う『三師伝』のそれであろうと思うのです。

わたしは『御伝土代』の
「日蓮聖人の云く本地は寂光、地涌の大士上行菩薩六万恒河沙の上首なり、久遠実成釈尊の最初結縁令初発道心の第一の御弟子なり。本門教主は久遠実成無作三身、寿命無量阿僧企劫、常在不滅、我本行菩薩道所成寿命、今猶未尽復倍上数の本仏」
「三身即一の有縁の釈尊」
という‘釈尊を無作三身・三身即一の本仏’とする語法及び教学が同師の段階で確立していたのであろうかと?とやや疑っている面があります。また、記述は『産湯相承事』『種々御振舞御書』を彷彿とするところもあるわけで、これらが出揃い、三師に仮託できる時期はいつか?と考えるとき、亨師の説を斥けて完則師の頃に言われたとおり、『三師伝』(御伝土代)は時師の作と考えたほうがよいのではないのかと思える節があります。

ただし、残念ながら筆跡鑑定に関してはその現物すら閲覧したこともないので何とも言えません。しかし、石山、亨師は元より、川澄師、また正信会各師の筆跡鑑定能力は如何ばかりものかとわたしは手放しに信用しない面もあります。

勝手なことを記していますが、同書の元号問題を取り沙汰したのは以上の経緯からでした。

1325空き缶:2004/05/15(土) 12:45

 犀角独歩さん、こんにちは。

 「御伝土代」については、ほんの一部ですが「図録 日蓮聖人の世界」に写真が収録されえちます。
 同じく同書には道師の諫暁八幡抄の自署・花押の写真が掲載されておりますが、これだけではなんとも判断できませんね。
 あえてこの少ない資料をもとに暴論を述べれば、両書は遺筆ということになるのではないでしょうか。

 この辺は資料豊富な、れんさんのご意見を是非お願いしたいです。

1326空き缶:2004/05/15(土) 13:22
興風談所「御書システム」のHP、コラムに日道師の自署・花押の筆写真が出ていました。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/colum_ft.html

あとは菅野慈俊師の「御本尊集」(奉蔵於奥法賓)に、道師書写曼荼羅の写真が出ているはずです。

やはり独歩さんの危惧そのものではないでしょうか。

1327地名:2004/05/16(日) 17:40

1293 独歩さん

>神道研究家から富士の由来について話を伺う。
>結局、大日蓮華山の名の由来はわかりませんでしたが、「あ、なるほど」と思った。
>大日・蓮華・山であって、大・日蓮・華・山ではないことです。

仕事が忙しくなかなか書き込みできず失礼しました。
上記の点は私も調べた過程では日蓮の山だという明確な根拠が得られておりません。傍証すらすると仏教では大日如来に関連ありという例証ばかりです。

>当たり前すぎることを書いていますが、富士山頂に旭日が昇るとき、富士の裾は蓮華の姿であり、太陽が大日であれば、富士山は蓮台の様相を示した名であろうと思った次第です。
>山頂に旭日を懐く富士は確かに壮観です。

このようなご理解もあるのですね。勉強になりました。

>「浅間」のことですが、これには「仙元大菩薩」の名を挙げ、
>浅間は「あさま」を語源とするのみならず、
>「せんげん」=仙元がその訓の語源になっているという指摘を受けました。
>これらのことについてこのが、膨らみを持ってくれればと希望を懐いております。

この点も「仙元」という用語の使用例があるようですね。

>いずれにしても富士周辺のこと、真言立川流、神仏習合、山岳信仰、神道のタームから読み解かないとならないと改めて思う昨今です。

そうですね。大日蓮華山という用語例は最澄の神道秘伝のようです。ただこれは私が調べた限りでは「最澄伝授」となっており最澄にまで遡れるのかよくわからないところがあります。
天台神道、真言神道、山岳信仰、神仏習合、法華神道等が入り組んでいるように思われます。

1328地名:2004/05/16(日) 18:47
「神道深秘」 最澄  (私注:立正大学図書館資料・出所不明とあり。また資料の冒頭の脇に「此書伝教大師とは偽也、日蓮上人の作なり、そのころにてにてみるべし」とあり。真偽等定かではありません。)
「神道灌頂儀式次第  大師伝授」
「十一 浄土通穴秘伝事」
「大師尋云、予諸国諸の霊山霊地を廻り見聞するに、常陸国には筑波山、伊豆には箱根山、出雲不老山、略、出羽国には羽黒山、下野には日光山、駿河には大日蓮華山、安房国には清澄山、能登には石動山、越中には立焔山、加賀越前には白山、甲斐には身延山、白根嶽、中略、」
とあります。大日蓮華山とあるばかりで、その由来等は記されておりません。

1329地名:2004/05/16(日) 18:54
所報33号で「日興上人「本門寺根源」初期道場の位置について」石川修道(現代宗教研究所研究員)師の論文から引用いたします。

「『神ハ日神』(天照大神)とは、『日本』の国名と関連し、日本の象徴たる大日蓮華山(富士山)と関連してくる。日蓮聖人が一切経閲覧のため入蔵された岩本実相寺は、富士山岳信仰の本山である。「富士修験の祖」と言われたのが『富士上人松代〔まつよ〕=末代』である。平安時代末に書かれた『本朝世紀』に
 『久安五年(一一四九)(鳥羽法皇)富士山頂に仏閣を造り大日寺と名づけ、数百度登山し、写経を埋経した(取意)』
とある。昭和五年富士山頂の浅間神社奥宮再建の時、経箱があり、「承久」(一二一九)の年号と「末代聖人」の名があった。末代は駿河の人で、岩本実相寺の智印に行学を学んで、天台真言の密教を身につけ、富士山を修行道場とした。日興、日頂、日持、日弁、日位等は、実相寺、四十九院の影響を強く受けた筈である。日蓮聖人も岩本入蔵のとき、富士山岳信仰を学ばれた筈である。岩本実相寺は鳥羽法皇の「勅願寺」である。「神の本地は仏」であり、仏は神の姿で現われるという神仏合体の宗教観が「浅間神社の本地は大◎日◎如来」という大日信仰と富士信仰が合体した。富士山頂は、地蔵岳、阿弥陀岳、観音岳、釈迦岳、弥勒岳、薬師岳、文殊岳、如来岳(大日)の名があり、胎蔵界曼茶羅の『中台八葉院』の仏教世界を大日如来が統一仏として現われているという真言密教を、日蓮聖人は天照大神=『釈尊が本地』と把え、天照大神の本名『大日霎貴〔オオヒルメ〕』が、富士山の相と把えたのであろうと考えられる。大日如来の『大日』でなく、天照大神の本名『大日〔オオヒ〕』霎◎女◎である。それが重須本門寺に伝わる『本化垂迹天照大神宮』であると考えられる。」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho33/s33_185.htm

1330地名:2004/05/16(日) 19:04

「五人所破抄に学ぶ 下」山梨県青年部編、聖教新聞社、2000年2月P91〜105から引用します。
「大日蓮華山」についての語句解説で
「富士山のこと。略して日蓮山ともいう。伝教大師の作と伝えられる「神道深秘」に記されている。
大日蓮華山という呼び方は文学作品、記録文等の一般的な文献には見られず、修行僧、修験者の間で呼ばれていたと推察される。」とあります。

日蓮山についても調べてみたのですが現在のところ日蓮山という表記について確認できていません。
学会の山梨県青年部編でも「神道深秘」については「伝教大師の作と伝えられる」とある点に注意が惹かれます。

1331地名:2004/05/16(日) 19:43
1330より続く
同書では「富士の語源については古来より様々な見解が述べられているが、「富士火山」(田中収編著、山梨大学・大月短期大学地学研究室、P31)によれば、次表のように大きく分けると日本語とするものとアイヌ語とするものの二つとなる。
氏名    解釈               意味
高田興清  フジナ(吹息穴)の略       火山
森宗芳   フシロ(斑白)の略        頂上に常に雪がある
河野道春  フセのなまり           物を覆せた形
バチュラー アイヌ語のフンチ又はウンチヌプリ 火山又は火の女神の山
志賀重昂  アイヌ語             費の女王
鏡味完二  古代日本語フジ          なだらかな地形

1332地名:2004/05/16(日) 20:02
同書の続き
「次に、富士山の名前についてであるが、古来より様々な名前で呼ばれてきた。ここでは「「富士山」史話と伝説」(P73〜75、遠藤秀男著、寺田書店)を参考にそれぞれの文献に記された呼び名を挙げてみる。
1.富士山頂経ヶ岳より出土した「富士山由来記」十種異名
  養老山・花角山・行向山・来集山・妙光山・仙人山・穀聚山・天地和合山・磐石山・富士山
2.富士吉田市村上の「富士山縁起」十五種異名
  不盡山・理智山・蹲虎山・行向山・四八山・四方山・富士山・来集山・仙人山・穀聚山・般若山・養老山・天童山・七宝山・妙香山
3.「秘中抄」九種異名
  竹取山・羽衣山・東山・未通女子山・四季なか山・国の深山・神楽山・鳥の子山・波の深山
4.「秘名抄」十種異名
  神路山・三重山・見出山・二十山・三上山・新山・塵山・常磐山・鳴沢の高嶺・藤嶽。」

1333菱村正敏:2004/05/16(日) 22:36
 神道深秘の写本、以前に書いたかもしれませんが、叡山文庫所収の
ものには「大日蓮山」とあります。ほかに神道深秘の写本があるかど
うか分かりません。

 わたしのみた写本には元和7年と書写の日付がありました。西暦で
すと1621年。日寛は1665〜1726の人のようですから、この
写本の奥書にある書写日が正しいとすれば、この写本をみた可能性も
あるでしょう。

 なお、延暦22年に最澄が書いたことになっています。ちなみに
翌年に最澄は遣唐使として唐にわたっているようです。

1334地名:2004/05/17(月) 09:53

私が見た「神道深秘」は、立正大学図書館の資料です。出所不明となっています。コピーされたものです。
「神道深秘巻第目録上」の末には、「延暦二十二年十月三日 神道甚深蔵巻第上」とありますので、西暦803年。804〜805年に遣唐使で帰国の前に当たるようです。
「神奥秘一谷極巻下目録」の末には、「神奥一谷巻 弘仁十三年二月十三日」とあります。弘仁十三年は西暦822年で最澄が56才でお亡くなりになっています。
「大日蓮華山」の記述は、巻下の「十一 浄土通穴秘伝事」に「駿河には大日蓮華山」と各地の国名と山名が記載されています。
「法泉坊蔵本」等となっていますので、相当後で作られたものかと推測します。

1335地名:2004/05/17(月) 10:04
「五人所破抄に学ぶ 下」山梨県青年部編、聖教新聞社、2000年2月P91〜105から引用の続きです。
「都良香(みやこのよしか)は「富士山記」で「山を富士山と名づくるは、郡の名を取る」(塙保己一編「群書類従6」P968)と記している。「続日本記」(797年)の中に「富士」の表記があり、これに次ぐ「日本後記」(840年)、「文徳実録」(879年)、「三代実録」(901年)などの官書がすべてこれにならっていることから、このころに「富士」という文字が用いられ、平安時代初期には正式なものになっていたことがわかる(以上、遠藤秀男著「「富士山」史話と伝説」P76、寺田書店)。」

1336地名:2004/05/17(月) 10:11
同書の続きです。
「また富士山には山岳宗教も盛んであった。
伝教の作と伝えられている「神道深秘下」(東北大学付属図書館、狩野文庫)の「十一、浄土通穴秘伝事」の冒頭に「大師尋ねていわん、予諸国を廻り諸の霊山霊地を見聞するに、常陸国には筑波山、伊豆には箱根山、出雲には不老山、出羽国には羽黒山、下野には日光山、駿河には大日蓮華山、安房国には清澄山(以下略)云々」との記載が見られる。」

1337地名:2004/05/17(月) 10:21
同書続き
「富士山は、平安時代から山岳宗教の影響が現れ、久安五年(1149年)に駿河の僧末代が富士山頂に大日寺を建立した(本朝世紀)。
また、その後富士山頂(今日の奥宮)である奥の院に大日堂が建てられた。これが富士山の表口であるのに対して、裏口に相当する吉田口の山頂には薬師堂が建てられた。
そして山頂の八峰を八葉の蓮華になぞらえて、山の名も唐風の芙蓉の字をあて、富士山を「蓮岳」とも「芙蓉峰」とも呼ぶようになった。
中央に大日如来を置き、蓮の花弁の八葉のように山頂に九体の仏が住していると擬したところから大日蓮華山と呼ばれたと推定される。」

1338地名:2004/05/17(月) 10:36
「地名語源辞典」(P214、山中襄太郎著、校倉書房)によれば、大日如来の大日を取って地名の名前とした地名は他にも多数見られ、静岡県西部大井川の右岸近くの山「大日山」には金剛院という寺があり大日如来を祭っており、その他、福井・岐阜県境に「大日岳」(P1709)、福井・石川県境に「大日峠」(P933)、その北に「大日川」などがある。
後の作品で延宝八年(P1680)に描かれた「八葉九尊図」(富士吉田市新倉の正福寺蔵、富士吉田市歴史民族博物館に写真展示)に当時の富士山信仰の様子が表されている。
そこには中央に大日如来を置き、蓮の花弁の八葉のように山頂に九体の仏が住している姿が描かれている。」

1339地名:2004/05/17(月) 10:45
1338も同書からの引用です。
同書続き
「(五人所破抄の)「富士は郡の号即ち大日蓮華山と称す」という表現は「産湯相承事」の「日蓮は富士山自然の名号なり、富士は郡名なり実名をば大日蓮華山と云うなり」(御書P879)によっていると、思われる。」

ここで私がわからないのは、「実名を」「大日蓮華山と云う」ということです。

1340地名:2004/05/17(月) 10:54
同書続き
「富士山が大日蓮華山という名前で呼ばれていたことは「神道深秘」に確認できたが、その由来は、山岳信仰による「大日山」「蓮華山」からきている可能性が高い。
「大日山」「蓮華山」については、日順は「表白」の中で「富士山をば或は大日山とも号し・又蓮華山とも呼ぶ、此れ偏へに大日本国の中央の大日山日蓮聖人大本門寺建立すべき故に先き立って大日山と号するか、将た又妙法蓮華経を此処に初めて一閻浮提に流布す可き故に・蓮華山と名づくるか」(「富士宗学要集」第二巻P11)と記し、日蓮大聖人の仏法が世界広布する瑞相として意義付けている。」

1341地名:2004/05/17(月) 11:03
「表白」日順
「中ん就く霊鷲山・天台山・比叡山は共に法華弘通の地なり、然りと雖ども彼は皆垂迹にして未だ本を願はさず其の故は天竺をば月氏と号す即月の国なる故なり、漢土をば震旦と名く星の国たるによりてなり、随つて天台山は三台星の所居と申すなり、我が朝は本仏の所住なるべき故に本朝と申し・月氏震旦に勝れたり・仍つて日本と名く、富士山をば或は大日山とも号し・又蓮華山とも呼ぶ、此れ偏へに大日本国の中央の大日山に日蓮聖人大本門寺建立すべき故に先き立つて大日山と号するか、将た又妙法蓮華経を此処に初めて一閻浮提に流布す可き故に・蓮華山と名づくるか」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu2_2.htm
nbさんに感謝申し上げます。

1342地名:2004/05/17(月) 11:07
「五人所破抄」日順
「次に日本と云うは惣名なり亦本朝を扶桑国と云う富士は郡の号即ち大日蓮華山と称す、爰に知んぬ先師自然の名号と妙法蓮華の経題と山州共に相応す弘通此の地に在り、遠く異朝の天台山を訪えば台星の所居なり大師彼の深洞を卜して迹門を建立す、 近く我が国の大日山を尋ぬれば日天の能住なり聖人此の高峰を撰んで本門を弘めんと欲す、閻浮第一の富山なればなり五人争でか辺鄙と下さんや。 」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu2_1.htm

1343地名:2004/05/17(月) 11:12
「五人所破抄訳解」雪仙日亨
「次ぎに此国を日本と云ふのは惣名である・扶桑国とも云つてをる、富士と云ふのは郡の名を取つたのであるが、大日蓮花山と古来称してをる、それで先師日蓮の名号と・妙法蓮華の経題と・山の大日蓮華の名と・州の大日本の号と・四つの名称が自然に相応する所から考ふれば、本門の法華経の弘通は富士山より起るべきなのであることがわかる、例を遠く異国支那に求めて天台山の事をたづぬれば、其地理が天文の上からは三台星の分野に応ずることで・天台大師其の天文地理に応じて天台山に道場を定めて迹門の法華経を弘められた、此れを近き我国で云へば大日蓮華の富士山は日天に応ずる地理で・日蓮聖人此の峰を撰びて本門を弘めらるゝ考へであった、誠に日本のみの名山ではない・世界第一の富士山である、其れを五老が辺鄙の富士山と卑しむるのは聞えぬわけぢや。」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu/yousyuu2_18.htm
ご参考までです。

1344地名:2004/05/17(月) 11:24
日蓮の御書(とりあえず真蹟の有無を問わない形で摘出しました)には「大日蓮華山」という呼称は「産湯記」のみ。「富士山」という表記はあり。

産湯相承事
聖人重ねて曰ふ様は、日蓮が弟子檀那等悲母の物語りと思ふべからず、即ち金言なり。其の故は予が修行は兼ねて母の霊夢にありけり。 日蓮は富士山自然の名号なり。富士は郡名なり、実名をば大日蓮華山と云ふなり、我中道を修行する故に是くの如し。  

聖愚問答抄上
第二は山の譬なり衆山を諸経に譬へ須弥山を法華に譬へたり須弥山は上下十六万八千由旬の山なり何れの山か肩を並ぶべき法華経を大日経に劣ると云う人は富士山は須弥山より大なりと云わん人なり、

日女御前御返事
御布施七貫文送り給ひ畢ぬ。 属累品の御心は、仏虚空に立ち給て、四百万億那由佗の世界にむさしの(武蔵野)のすすき(芒)のごとく、富士山の木のごとく、ぞくぞくとひざ(膝)をつめよせて頭を地につけ、身をまげ掌をあはせ、あせ(汗)を流し、 つゆ(露)しげくおはせし上行菩薩等・文殊等・大梵天王・帝釈・日月・四天王・竜王・十羅刹女等に、法華経をゆづらんがために、三度まで頂をなでさせ給ふ。譬へば悲母の一子が頂のかみ(髪)をなづるがごとし。

身延相承書
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本門弘通の大導師たるべきなり。 国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と云ふは是なり。就中、我が門弟等此の状を守るべきなり。 弘安五年壬午九月 日  日蓮花押 

百六箇抄
四十二、下種の弘通戒壇実勝の本迹、 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり。〈上行院は祖師堂云云弘通所は総じて院号なるべし云云〉

1345地名:2004/05/17(月) 11:33
日興の確実なる遺文「三時弘経次第」では富士山とあります。

「五人所破抄」は日興の最晩年の時期に日順が草案といわれています。日順は10代から20代に比叡山に留学しています。

五人所破抄
次に日本と云うは惣名なり亦本朝を扶桑国と云う富士は郡の号即ち大日蓮華山と称す、爰に知んぬ先師自然の名号と妙法蓮華の経題と山州共に相応す弘通此の地に在り、遠く異朝の天台山を訪えば台星の所居なり大師彼の深洞を卜して迹門を建立す、 近く我が国の大日山を尋ぬれば日天の能住なり聖人此の高峰を撰んで本門を弘めんと欲す、閻浮第一の富山なればなり五人争でか辺鄙と下さんや。
『五人所破抄』についても古来よりその筆者については疑義があり、従って日代の作とする説もあったが、近代になって日順の草案とされるに至った。しかし、最近宮崎英修著の『五人所破抄の作者について』の論文において、本書真書の年号と日順の追記があって、本書を日代作と推定している。(e)もっとも日代筆の直筆が北山に現存するというので、日代作というのが至当のようであるが、わたしは日順の草案を日代が清書したものではないかと思う。(本書は「六人立義草案」とも呼ばれた)
 『興門教学の研究』第2篇 興門教学の形成と展開 第1章 派祖日興の教学 第3節「日興の著作と偽作論」から抜粋(海秀舎)
富士一跡門徒存知の事
一、本門寺を建つ可き在所の事。
 五人一同に云く、彼の天台伝教は存生に之を用いらるるの間直に寺塔を立てたもう、所謂大唐の天台山本朝の比叡山是なり而るに彼の本門寺に於ては先師何の国何の所とも之を定め置かれずと。
 爰に日興云く、凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり、然れば駿河国富士山は是れ日本第一の名山なり、最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由奏聞し畢んぬ、仍つて広宣流布の時至り国主此の法門を用いらるるの時は必ず富士山に立てらるべきなり。
一、王城の事。
 右、王城に於ては殊に勝地を撰ぶ可きなり、就中仏法は王法と本源躰一なり居処随つて相離るべからざるか、仍つて南都七大寺北京比叡山先蹤之同じ後代改まらず、然れば駿河の国富士山は広博の地なり一には扶桑国なり二には四神相応の勝地なり、尤も本門寺と王城と一所なるべき由且は往古の佳例なり且は日蓮大聖人の本願の所なり。

1346地名:2004/05/17(月) 11:38
「日興の著作と真偽論」執行海秀師
「次に『富士一跡門徒存知之事』は大体『五人所破抄』と同調のものであるが日澄が日興の義を付嘱されたというように「追加分」が初めからあったとすれば、『五人所破抄』が重須系で成立したのに対し、『一跡門徒事』は大石寺系ではないかと思う。」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/chue#chue
独歩さんの「仏教再考」から引用させて頂きました。感謝申し上げます。

1347菱村正敏:2004/05/17(月) 12:30
>>私が見た「神道深秘」は、立正大学図書館の資料です。出所不明となっています。コピーされたものです。

奥書はどうなってます?写本日時は掲載されてます?

 それと、最澄は804年に空海とともに唐に渡っていますので
これが書写されたとされる803年は渡唐まえということですね。

1348地名:2004/05/17(月) 12:51
「富士山縁起状」(原文漢文を書き下し文に改め適宜句読点等を入れました。)
「それ富士浅間大菩薩とは、法性無漏の山高く三国に勝れ、垂迹和光の岸広く、権現の神風豊葦原の国にあをき、そもそも神代の往昔機根いまだ熟せざるがゆえにて、…中略…
仁王七代の帝孝霊天皇の御宇に、この御山初めて出現するところなり。…中略…
凡夫の肉身たちまち八葉等覚の峰妙覚毘盧の頂上にのぼりて、大日覚王を拝したてまつる。大俗の凡夫すみやかに即身成仏の事、霊仏霊社の参詣多しと雖も即身即仏の利生たちどころにこうむること、富士参詣にはすぎず。
そもそもこの山の総体は、外院は金の大日、内院は胎の大日、両部不二の一体なり。
八葉九尊は、第一の嶽は、天照大神の本地・地蔵菩薩なり。
第二の嶽は、熊野の権現の本地・阿弥陀如来、
第三の嶽は、伊豆権現本地・観世音、
第四の崗は、白山権現本地・釈迦如来、
第五の崗は、日吉山王本地・弥勒佛、
第六の嶽は、鹿島金山の大明神本地・薬師如来、
第七の嶽は、三島の大明神本地・宝勝尊、
第八の嶽は、箱根の権現本地・文殊御堂、
五所の権現は本地・五大力菩薩中宮観音・弥勒の二尊なり。
日神子はイザナギ・イザナミ二神ましますがゆえに、金胎両部の峰と名づく。
総じてこの御山は、下金輪際より出て、上碧天に等し。
釈尊出世して成道説法利生したまう。
諸天善神三世常住天降り音楽を奏し花を散し香を焼きたまうゆえに、
今焼香の煙立ち音楽の響き絶えざるなり。
内院の底に虎の石うずくまるに似たるあり。
これすなわち深秘尊形なり。
これによりて蹲虎山と号するなり。
この山に七種の名あり。…老養山…花角山…行向山……。来集山。これ三世諸仏十方の諸神来集するする三世常住の浄土なり。天竺霊鷲山・唐土五台山、仏いま現在せず。この御山は生身の仏菩薩・諸天善神いますがゆえに。…妙光山…仙人山……。富士山。これ参詣の人富貴安楽の徳にあずかり、長生居士の身となり、富寿をこうむるがゆえなり。…中略……南無富士浅間大菩薩皆令満足」

1349地名:2004/05/17(月) 13:02

1347 菱村さん
>奥書はどうなってます?写本日時は掲載されてます?
>最澄は804年に空海とともに唐に渡っていますので
>これが書写されたとされる803年は渡唐まえということですね。

はい、奥書や写本日時などは書いてありません。
「堀川通高辻上ル町 植村藤右衛門」とありますが本文の文字と異なります。

日付は上巻が延暦で、下巻が弘仁とあります。
図書館の資料には出所不明とあり、これ以上のことはわかりません。
恐れ入ります。

1350地名:2004/05/17(月) 14:23
「本朝神社考」林羅山
「富士山」
「本朝文粋第十二に載する都良香富士山の記に云ふ、富士山は駿河の国に在り。峯削り成せるが如く、直ぐ聳ちて天に属けり。其の高さ測る可からず。…中略…
古老伝へ云ふ。山を富士と名づくるは、郡の名を取れるなり。山に神有り。浅間大神と名づく。…中略…
縁起に云ふ、考安天皇九十二年六月、富士山涌出す。…中略…郡の名に取りて富士山と日ふ。形蓮華を合するに似たり。絶頂八葉、層層に第八層に到る。…中略…
延暦二十四年の託に日く、我れを浅間の大神と号す。平城天皇大同元年に社を立てて之を祭る。…中略…

余(私注:林羅山のことか)、駿府に在りて幕下に侍る。次で富士浅間の縁起を見る。…中略…或は日く、浅間大明神は本地大日如来、愛鷹の大明神は本地毘沙門。又日く、不動明王と。…中略…皆是れ浮屠氏の誇謾にして世人多く之を信ず。余が取らざる所なり。…中略…

義楚六帖に日く、日本国、倭国と名づく。東海中に在り。秦の時徐福五百の童男、五百の童女を将いて此の国に止る。東北千余里に山あり。富士と名づく。亦蓬莱(ほうらい)と名づく……」

1351地名:2004/05/17(月) 14:58
真言神道
「日本記一流之大事」
「富士山之由来之事」
「凡そこの山には金剛界の大日立ちたまう、内院は胎蔵界、大日如来立ちたまわぬればこれを両部と申すなり、また八葉九尊と申す事は、一には熊野、本地・阿弥陀、二には陬防、本地・普賢、三には天照大神、大日、四には貴船、釈迦、五には箱根、地蔵亦は文殊、六には鹿嶋、観音、七には白山、胎大日亦は薬師、八には日吉、弥勒、九には春日、不動、右これを九尊と申すなり、この山に室と申す所あり、五所権現本地五大力○なり。それより十里上に中宮、御立候は二神なり、本地弥勒・観音の二○おわすなり、日神號と申す所あり、イザナギ・イザナミ○尊生まれたまう時に、陽陰神二の神出下給う、それゆえ両部と申すなり、この山に金輪のあいたより出生するなり、ただし人知らず、考霊天皇の御時これを見出給う、共に見たり、釈尊出世の御山にて説法したまう、その時天下りたまう香焼たまうなり、煙の立ち挙げを名づけて戀の焼きとは申すなり、ただしこの山にあまたの名あり、初は養老山と申すなり、又花角山とも申すなり、行向山とも申すなり、亦集山とも申すなり、亦は高山とも申すなり、仙人山とも申す、亦富士山とも申すなり、この七の名あり、以下略」

1352地名:2004/05/17(月) 15:17
天台神道
「溪嵐拾葉鈔」
「問、富士の岳をもって真言の秘事とする様(方)如何、
答、富士とは郡名なり、この山富(士)郡に在るゆえなり、峯(実事)を云へば真言布字之葉(義)なり、謂意はこの峯は四方円満山高く秀たり、頂上に八葉の形あり、昔は火炎立てけり、故に富士の煙と云いけり、頂上八葉は不動の頂上之蓮花なり、又(十九の相)布字ある故に布字と名づく、……、又(一の伝に)云、我国両部曼荼羅あり、富士はこれ金剛界の曼荼羅なり、故に竪に高く秀たり云々…略」

1353地名:2004/05/17(月) 15:44
「地名辞典」によれば
「神仏分離と富士山」
「明治初年の神仏分離により山内の仏像・仏具は下山させられた。山頂の仏像の多くは大宮に下山している。各登山口の浅間神社でも鐘楼・鐘・仁王門・護摩堂などが取除かれ、村山では大日堂と村山三坊が廃された。
明治七年には富士山中の仏教的な地名の改称がなされ、
山頂八葉などでは
文殊ヶ岳→三島ヶ岳、釈迦の割石→割石、薬師ヶ岳→久須志岳、釈迦ヶ岳→志良山岳(しらやま)(白山岳)、阿弥陀ヶ久保→片瀬戸、観音ヶ岳→伊豆岳、勢至ヶ久保→荒巻、大日堂→浅間宮、東西(東斎)ノ河原→東安河原(ひがしやすのかわら)、西西(西斎)ノ河原→西安河原となった。東口九合目の迎薬師は迎久須志、経ヶ岳は成就ヶ岳と変更された。」

1354地名:2004/05/17(月) 15:51
「地名辞典」で富士門流の「富士五山」の「山号」を見ていたら次のようでした。
       山号
大石寺   多宝富士大日蓮華山
妙蓮寺   富士山
北山本門寺 富士山
西山本門寺 富士山
小泉久遠寺 富士山

1355菱村正敏:2004/05/17(月) 16:00
>はい、奥書や写本日時などは書いてありません。
>「堀川通高辻上ル町 植村藤右衛門」とありますが本文の文字と異なります。

 植村さんは京都の出版所でしょう。ただ、誰がどこで書写したかが
書いていないとすれば、わたしがみた叡山文庫の神道深秘からは少々
間引かないといけない資料かもしれません。

1356地名:2004/05/17(月) 16:06
富士山と大日蓮華山については、林羅山の本について文献を探したのですがみつからず調べきれておりません。いつになるか確約できませんが調べられましたら報告します。
現在までのところでは、大日蓮華山の出所は「神道深秘」(最澄撰と云われる)だけでした。
大日蓮華山の意味について述べられた資料は現在までのところ見つけられませんでした。
地誌名等では富士山といわれるのが一般的です。
仏教の神仏習合(本地垂迹)で富士山の本地が大日如来云々と云われるようです。
日蓮の遺文では産湯記以外での使用例は見当たりません。富士山の使用例はあります。なお、産湯記には真偽論があります。
日興も確実な著述では富士山の使用例です。五人所破抄(草案か)は日順師(日代師記すとも云われる)を晩年の日興が見て裁可したのか私にはよくわかりません。
内容等の不適切な点等は私の未熟のためですのでお許し願えれば幸いです。

1357地名:2004/05/17(月) 16:16
1355 菱村さん

菱村さんの言われるとおりかもしれません。ご覧になられている叡山文庫の方が実際に比叡山で求められたものですから。

なお、上述した山梨県青年部の「神道深秘下」(東北大学図書館、狩野文庫)と私が見た本では内容は同じでした。

1358地名:2004/05/17(月) 16:41

1299 菱村さん

>林羅山の当該文献は「神道大系論説編20」
>当該書に掲載されていました。神道秘伝折中俗解という
>名称が付されていますが、これは神道秘伝という書物のやさしい解説書とい
>うような意味なのかどうかわかりませんでした。で、神道秘伝折中俗解を見
>たところ、富士山=大日蓮華山の指摘もそれに類似する記述も見当たらない
>ように思います。
>大日蓮華山という呼称がいつ発生したのか、それは正宗系以外のさらに
>ふるい書物をあたるしかありませんが、正確にいえば神道深秘の写本には
>大日蓮山とあります。ということは大日蓮華山という呼称は正宗系以外の
>書物には記載されていないのではないかと大胆な予想をしておきます。
>余談ですが、林羅山がべつのところで仏家が「日の神は大日なり。大日の
>本なるが国、ゆえになづけて日本国という」ということを指摘していました。
>これと似ているようにすると 「本仏は大日蓮なり。大日蓮の山なるがゆえに、名付けて大日蓮山という」
>本朝神社考および神社考詳節などにも大日蓮華山に関する呼称は見つけることができなかった旨も追記しておきます。

お調べ頂きまして誠にありがとうございます。御礼申し上げます。林羅山の書物について今後調べてまいります。

1359地名:2004/05/17(月) 17:02

1295 風来坊さん
>日道師と日卿師の間で争いがあったと聞いた

どこまでご参考になるかわかりませんが、「興風」13号、興風談所、平成12年の中で、坂井師が「道郷論争と大石寺東坊地の係争」を記されています。以下に目次のみ記します。
はじめに
一章 道郷論争
 1.諸文献の検討
 2.日道の六箇・十箇謗法について
 3.鎌倉期の大石寺と日目の弟子たち
 4.伯耆阿闍梨日道
   ・西坊地について
   ・日道と日郷の接点
 5.日郷と安房国
二章 大石寺東坊地の係争
 1.係争前夜
   ・南条氏一門の動向
 2.南条氏の退出と日郷の入寂
 3.係争の幕開け
 4.大石寺御影堂と奥州の勢力
   ・日時と奥州・下野との関係
 5.日伝の退出
 6.係争のあと
むすび
東坊地係争関連略年表

ご参考になれれば幸いです。

1360地名:2004/05/17(月) 18:59
「地名辞典」の静岡県の富士宮市の項で「大石寺」については以下のように記されていました。あくまでご参考の一つとしてご理解願います。
「潤井川(うるい)上流右岸にある。日蓮正宗の総本山で、本尊板本尊。山号は多宝富士大日蓮華山。富士門流(興門派)の富士五山の一つ。寺号は富士山南西麓末端部の大石ヶ原(おおいし)に所在したことにちなむといい、建武五年(1338年)五月五日の南条時綱寄進状(安房妙本寺文書)に「大いしてら」とみえ、暦応二年(1339年)二月十五日の南条時綱置文(同文書)にも「おほいしてら」とあって、当時は訓読みしていた。大石寺蔵棟札銘および寺伝によれば、正応三年(1290年)十月、日蓮の弟子日興が上野郷(うえの)の地頭南条時光の外護を受けて創建し、日蓮を勧請開山とし、自らは二世となったという。日興は正慶元年(1332年)十一月十日、当寺の御堂・墓所を弟子日目(三世)に相承させた(「日興置文」歴代法主全書)。
翌二年、日目は大石寺を弟子日郷に相続させるため大久保本妙寺(おおくぼほんみょう)より当寺大学頭蓮蔵坊(れんぞう)に招いたという(古文書記興門雑記)。
同年十一月に日目は日郷ほかを随行させて上洛の途中、美濃国垂井駅(たるい)(現・岐阜県垂井町)で没した(本国寺年譜)。
日郷が当寺に帰住すると、留守を預かっていた当寺下之坊(しもの)の日道らは、南条氏出自ではない日郷よりも日目と同じ南条一族の自分が継承すべきだと異議を唱え、結局日道が当寺を継承したため、日郷は当寺を離れ、延元二年(1337年)小泉法華寺(こいずみ)に移ったという(古文書記興門雑記)。
しかし日郷は当寺蓮蔵坊については弟子日伝(日賢)に譲与し守ってゆくよう遺命したため、日道及び後継者の日行・日時らと係争が続き、蓮蔵坊を応永二十三年(1416年)小泉の久遠寺(くおん)(法華寺を改称)に移したという(天正十六年十月一日「日侃書状」西山本門寺文書)。
貞治四年(1365年)十一月十三日、法西は上野郷内法西知行分を大石寺御堂・西東坊とともに日行に去り渡している(「法西去状」大石寺文書)。この地は鎌倉時代以来南条氏の知行してきたところであった。しかし同年十二月二十九日、駿河守護今川氏家は大石寺の継承について、日伝の申分により取計らうよう、南条氏一族で日行の兄の興津美作入道に依頼し(「今川氏家書状案」安房妙本寺文書)、翌年九月十七日に日行り競望を止め、大石寺御堂坊地は日伝に返付されている(「法西置文写」古文書記興門雑記)。これに対して明徳三年(1392年)七月、日行の跡を継いだ日時は日伝方の押領だと幕府に訴え(「大石寺別当日時申状案」大石寺文書)、翌年一月二十三日には大石寺法華堂の地を日時に交付するよう命じられている(「散位某書下」同文書)。応永十年七月十二日、駿河守護今川泰範は当寺の堂地および西坊地等を日時に安堵しており(「今川泰範書下」同文書)、さらに同十二年四月十三日、興津氏の知行地であった当寺東坊地を日時に譲っている(「興津法陽去状」同文書)。当寺は今川氏が戦国大名への飛躍を遂げた氏親の時代からその保護を受けるようになる。享禄二年(1529年)三月十九日、氏親後室寿桂尼はさきに氏親が当寺に与えた諸役免除の判物紛失を証し、改めて門前の諸役・棟別を免除している(「寿桂尼朱印状」同文書)。以下略」

1361顕正居士:2004/05/17(月) 20:12
1360番で地名さんが引用されている地名辞典の記事ですが

なぜ日目、日道を南条氏と書いているのでしょう。

日目師の母堂は南条時光殿の姉であり、姻戚関係はありますが、南条氏と新田小野寺氏は
全く別の氏族です(南条氏は平氏、小野寺氏は藤原氏)。
そもそも道郷紛争は南条家と小野寺家の代理戦争のようにみえます。

新田小野寺氏系図
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/m210/sinonoderaseisuiki/framepage12.htm
日時は行時の子?
http://www.kit.hi-ho.ne.jp/m210/sinonoderaseisuiki/onoderakeizu.htm

しかしその後、日影、日有師と大石寺はまた南条家にもどります。

1362菱村正敏:2004/05/18(火) 05:49
 大日蓮華山と大日蓮山。どちらが先に生まれたんでしょうか?神道
深秘の偽作者はどちらかを記したんでしょう。地名さんの持っている
のは神道深秘写本のコピーですか?

 余談ですが山の名前というのはナカナカ面白いもので、大日プラス
蓮華というほぼ同価値の名詞が二つくっついている山というのはあり
そうでナイように思います。もちろん、全国の山名にあたったわけで
はありません。

 有名な山名から浮かぶものとしては、鹿島槍ヶ岳・三俣蓮華岳・会津
駒ヶ岳とか名詞がふたつ並んでいる山々です。それぞれについている鹿
島・三俣・会津は、山の位置を示すものというところが特徴点です。

1363地名:2004/05/18(火) 22:03

1362 菱村さん

>大日蓮華山と大日蓮山。どちらが先に生まれたのか?
>神道深秘の偽作者はどちらかを記したのでしょう。
>地名さんの持っているのは神道深秘写本のコピーですか?

御連絡ありがとうございます。
はい、私がコピーしたものは、立正大学図書館、現在は大崎メディアセンターというのでしょうか。
そこに蔵書されている「神道深秘」という題名の本、といってもコピーしたものを装丁というのでしょうか、それを見ました。
ですから誰でも閲覧可能な蔵書です。
内容については上述しました1334、1349に記したとおりです。

可能でしたら、以下の文章とお持ちの御本の内容が一致するか教えて頂ければ幸いです。
「大日蓮山」と「大日蓮華山」と「華」の有無はわかりましたが、それ以外は同じなのかとふと思いましたためです。

立正大学蔵書の内容
「神道灌頂儀式次第  大師伝授」
「十一 浄土通穴秘伝事」
「大師尋云、予諸国を廻り諸の霊山霊地見聞するに、常陸国には筑波山、伊豆には箱根山、出雲不老山、略、出羽国には羽黒山、下野には日光山、駿河には大日蓮華山、安房国には清澄山、能登には石動山、越中には立焔山、加賀越前には白山、甲斐には身延山、白根嶽、中略、」

創価学会山梨青年部の調べられた内容
伝教の作と伝えられている「神道深秘下」(東北大学付属図書館、狩野文庫)の
「十一、浄土通穴秘伝事」の冒頭に
「大師尋ねていわん、予諸国を廻り諸の霊山霊地を見聞するに、常陸国には筑波山、伊豆には箱根山、出雲には不老山、出羽国には羽黒山、下野には日光山、駿河には大日蓮華山、安房国には清澄山(以下略)云々」との記載が見られる。」

叡山文庫の「神道深秘」について調べようと思ったのですが、仕事のため本日できませんでした。

山梨県青年部の本では、「日蓮山とも云う」とありましたので調べてみたのですが見つかりませんでした。

「新版仏教哲学大辞典」聖教新聞社では
「大日蓮華山」の項は「多宝富士大日蓮華山といい、富士山のこと。山の形が八葉の蓮華に似ているところから呼ばれた。大日蓮華山という呼び方は平安朝時代に始まると推定される。日蓮山ともいう。
重須談所の二代学頭・三位日順の詮要抄を引いて、文底秘沈抄に「天台大師は漢土天台山に於いて之を弘宣す彼の山名を取って天台大師と号す、富士山亦日蓮山と名づく」(六巻抄)と述べている。」とありましたので
「日蓮山」という名があるのかどうか調べてみました。

それから、「多宝富士大日蓮華山」というので、「多宝」とは何か、「富士」は多分富士山のことだろう。「多宝富士大日蓮華山」というと、「富士山富士山」とならないかとも思ったりしました。
「大日蓮華山」だけでなく、あるいは「日蓮山」だけでなく、なぜ「多宝富士大日蓮華山」と記すのかわかりませんでした。
このへんについて、菱村さんに教えて頂ければありがたいです。

1364地名:2004/05/18(火) 22:37

1361 顕正居士さん

>1360番で引用している地名辞典の記事で、なぜ日目、日道を南条氏と書いているのでしょう。日目師の母堂は南条時光殿の姉であり、姻戚関係はあるが、南条氏と新田小野寺氏は全く別の氏族です(南条氏は平氏、小野寺氏は藤原氏)。

ご指摘頂きありがとうございます。鎌倉時代の氏族の呼び名の使用法については私は全く無知ですので教えて頂き感謝しております。地名辞典を書かれた筆者でないと詳細はわかりませんが、私は「家中抄」日精師の以下の文で「南条一族」とするもまあいいのではと思いました次第です。
歴全二−237頁「日目遺跡付属日道道理非一。其故は新六人初日代者日興付処居住重須。日澄は先て而逝去、日道是次第の法将なり。勲功可重。学解亦勝故、是一。日道者目師甥南条時光養子性相近。最堪為付属。況日道は目師直弟、日郷は伊賀阿闍梨日世の弟子而目師孫弟子なり。是故目師常の持言に云、此栗者いかの中よりほり出と庸常御出言ありき。日代遺状の内、付処と云へる以例知之、是二。日道は時光後室妙法養子なり。上野皆南条領内なり。何閣有縁日道、可被付属無縁日郷、是三。亦次付属之状無之云事、亦以無謂。右譲状新田の坊地を日道に譲与と者、下之坊事なり。上新田講所たるへしとは大石寺の講所たるへしと。以下略」
日精師の記述の正誤は、いま問いません。

>そもそも道郷紛争は南条家と小野寺家の代理戦争のようにみえます。

この点についてもう少し詳しく教えて頂けないでしょうか。

1365顕正居士:2004/05/19(水) 01:31
道郷紛争

『蓮蔵坊72年の係争』(高橋粛道・『大日蓮』・昭和60年)にありますように
http://gappo.cool.ne.jp/yowa/60/6011.htm

「大石寺の東の方は時綱が所領なるあいだ残る所なく宰相阿闍梨の御房に寄進仕る所なり、
依て後のために寄進の状件の如し 建武五年五月五日 平の時綱在り判 宰相阿闇梨の御房」

宰相阿闍梨日郷が蓮蔵坊からいったん追放された後、南条時綱が日郷に東之坊を寄進し、この裁判
は南北朝の時代をとおして続きます。南条氏でも小野寺氏でもない日郷師は南条家に東之坊を次に
相続させる条件で南条氏の支持を得ました。したがって「代理戦争」にみえるのであります。

最終的に日時が大石寺の土地を相続するが、日影、日有と大石寺はまた南条氏の所有になったと
大石寺では伝える。参考の系図では日影も小野寺氏とし、わたしにはわからないが、9世日有が
南条氏の出であることは堀上人の確実な説らしい。

1366菱村正敏:2004/05/19(水) 05:46
 叡山文庫からの写本では。

 一 浄土通穴秘侍事

   大師尋云 予諸国ヲ回リ 諸ノ霊山霊地ヲ見聞ルニ 常陸ノ国ニハ
  筑波山 伊豆ニハ箱根山 出羽国ニハ羽黒山 下野ニハ日光山
  駿河ニハ大日蓮山 安房国ニハ清澄山 能都ニハ石動山・・・以下略
 
  まず、こちらの写本では、巻というか章立ての通し番号は123では
 なく、すべて「1」となっています。ですからこの章は16との記載で
 はなく、「1」と記されています。

  それと、浄土通穴秘侍事とありまして、「伝」→「侍」と私には
 見えますが、ひょっとしたらここはこちらの写本にも「伝」と書か
 れているのかもしれません。

  それと、大日蓮山の右となりの余白にわざわざ「冨士山也」との
 注書きが加えられています。筆跡からするとこの注書きを加えた方は
 写本作者と同一であると思います。

  余談ですが、神道深秘には諸神を1か月30日に配当した部分も
 出てきます。冨士権現と記されている右脇に本地上行菩薩化身との
 記載がありますが、これと同様なかたちの注書きになっています。

1367菱村正敏:2004/05/19(水) 05:55
 ついでです。

 大きな図書館に行くと國學院が出している
吾妻鏡地名索引があるかと思います。そこでは
大石駅という記載があります。大石はたしか
「だいしゃく」という発音だったかという記憶
です。

 過去にこれが大石寺付近の地名だったのかどうかを
調べてみたことがあります。メモしたのですが、その
資料は捨てたようですので、もしその辺に興味がおあ
りでしたら、お調べになってみてください。調査済み
だよということでしたら失礼いたしました。

1368地名:2004/05/19(水) 22:34

1366、1367 菱村さん

ありがとうございます。

>「伝」→「侍」と見える。

立正大学のものは、正確には「伝」ではなく「傳」となっています。

>「大日蓮山」の右となりの余白にわざわざ「冨士山也」との注書きが加えられている。

立正大の方にはこの注書きはありませんでした。

>「神道深秘」には諸神を1か月30日に配当した部分も出てきます。「冨士権現」と記されている右脇に「本地上行菩薩化身」との記載あり。

この部分はコピーしませんでしたので今度見てみます。

國學院大學の五反田の図書館ですと林羅山の本も、叡山文庫の御本も見れると思うのですが一般者は閲覧できないみたいですので他の図書館を探してみます。

>「吾妻鏡地名索引」があるかと思います。そこでは「大石駅」という記載があります。「大石」はたしか「だいしゃく」という発音だったかという記憶です。

「吾妻鏡地名索引」ではないですが、「地名辞典」では、「静岡県」の「富士宮市」の項目に「大石駅(おおいしのえき)」があります。その次が上述した「大石寺(たいせきじ)」です。
「大石駅: 鎌倉時代にみえる駅名。潤井川(うるい)上流右岸、現上条(かみじょう)の大石寺(たいせきじ)付近と推定される。「吾妻鏡」の治承四年(1180年)十月十三日条に「止宿大石駅」とみえ、源頼朝の協力要請を受けた甲斐源氏の武田信義・一条忠頼らと頼朝の使者北条時政父子とが大石駅に止宿している。甲斐国から南下して駿河国に入る道筋の富士山麓で、当時大石ヶ原とよばれた地にあった駅と考えられる。」とあります。

1369菱村正敏:2004/05/19(水) 23:14
>立正大学のものは、正確には「伝」ではなく「傳」となっています。

 分かりました。ここは伝ですね。叡山写本もわたしには侍に
見えてしまいましたが、旧漢字の傳でした。納得です。

 吾妻鏡の大石駅の話は、これもうろ覚えですが、静岡県発行の
静岡県史のどれかにはそのような記載がありますが、どうように
山梨県発行の山梨県史には大石駅を別の場所に比定していたような
記憶があります。とうじお互いの県どうしが我田引水的な発想だな
という印象を持ちました。

 それと、地名索引はできたら確認されると、「だいしゃく」と
発音されていたような感じで出ていますので・・・。だいしゃくと
いうのはどこからその根拠があるのか知りませんが、好奇心をもっ
た所でございました。

1370地名:2004/05/19(水) 23:28

1365 顕正居士さん

ありがとうございます。

>『蓮蔵坊72年の係争』(高橋粛道・『大日蓮』・昭和60年)に…

高橋師の内容拝見いたしました。なんといってよいか迷いますが、高橋師の御説にしては少しがっかりというのが感想です。

坂井法曄師の「道郷論争と大石寺東坊地の係争」(「興風」13号・興風談所・平成12年)の「むすび」の一部を対照のため記します。
「…東坊地の相論については、二章において現存文書を公平に分析し、それなりの結論を出したつもりである。すなわち、東坊地の相論は、南条家の退出と日郷の入寂を機に、日行が押領したことにより始まったこと、また係争の結果に影響を及ぼしたのは、従来の説、すなわち南条家の縁・無縁によるものではなく、草創期いらい、大石寺を支えてきた奥州をはじめとする旧来の勢力であったこと、などを述べた。
そして、東坊地の係争は、道郷論争の延長のように言われてきたが、逆に東坊地の係争の終結後に深化した、両門下による対立感情から道郷論争は作り上げられたことなども提示しておいた。
近年における道郷論争に関する考察といえば、決まって日精の「家中抄」説をもとに進められてきたが、本稿では、日精説それ自体を疑問視し、どのような過程においてその説が成り立ったのか、換言すれば、道郷論争は何にして成立したかを考察することに主眼をおいた。すなわち、道郷論争から東坊地の係争を観るのではなく、東坊地の係争から道郷論争の実体を探ろうという、時代の流れに逆行する方法を採ったわけである。それは日精説の再検討だけでは、全く従来の焼き直しになってしまうからであり、本稿における考察方法は、事態の打開を図るための試論の一つであり、それを実行したものである。もとよりそれは、私に「道郷論争は架空のものである」という固定観念にも似たものがあったからこそ、なし得たことであり、そもそもの方法論の可否についてもご批判をいただければと思う。
それから本稿では、係争後に記された大石寺の系譜を再考するために、日道と大石寺との関わりについての批判的考察をしたが、ついに大石寺における日道の活動は見られなかった。また日精等によって付加された、日道の位置づけを排除したが、そのことを強調したことによって、ややもすれば日道に対する批判的な印象を与えたかも知れない。しかし富士門流は、何も大石寺のみによって成り立っていたのではなく、むしろ日興の在世中に、その拠点となっていたのは重須大坊であり、日道はそこにおいて「日興上人御遺告」を筆録し、「三師御伝土代」を完成させるなど、大石寺の日盛や日郷には見られない活躍がある。ゆえに日道が当時の富士門流における重鎮たることを否定したのではない。
その末弟のいだく正嫡意識によって、日道は無理に「大石寺四世」に固定されてしまったからこそ、さまざまな矛盾が生じるのであり、本来は存在しなかった、そのような肩書きを取り外し、当時の富士門流という枠の中で捉えようとするならば、日道の存在価値は、改めて確認されるだろうし、現在の系譜をそのまま当時に持ち込めば、当然ながら矛盾が生じるし、過小評価を与える結果となるだろう。
日道や日代の位置、そして大石寺と重須本門寺など、富士門流をトータル面から捉える考察も、今後の大きな課題となろう。また、これを機に富士門流の諸問題に関する議論の高まることを、切に願うものである。」

1371犀角独歩:2004/05/20(木) 09:10

地名さん:

> 日興の在世中…重須大坊…日道はそこにおいて…「三師御伝土代」を完成

この記述なのですが、これは事実なのでしょうか。
熱原に関するなど、同記録は興師のものと違っており、興師の膝下で記されたとは思えない節があります。また、「完成」と言いますが、同書が未完であることは日蓮門下共通の認識です。

坂井師の歴史を上古から読む、従来説補完のために資料を扱わない姿勢には賛同しますが、以上の点は合点が行きません。

地名さんはどのようにお考えになりますか。

1372地名:2004/05/21(金) 00:09

1371 独歩さん

大切なご指摘を頂きありがとうございます。

「しかし富士門流は、何も大石寺のみによって成り立っていたのではなく、むしろ日興の在世中に、その拠点となっていたのは重須大坊であり、日道はそこにおいて「日興上人御遺告」を筆録し、「三師御伝土代」を完成させるなど、大石寺の日盛や日郷には見られない活躍がある。ゆえに日道が当時の富士門流における重鎮たることを否定したのではない。」
と転記しました点については確認をしてみます。しばらくお時間を頂ければ幸いです。

1373地名:2004/05/21(金) 01:03
独歩さんにご迷惑をおかけしたお詫びに坂井法曄師の「道郷論争と大石寺東坊地の係争」(「興風」13号)の「東坊地係争関連年表」の中から、日道と日郷の部分の一部を参考まで転記いたします。
元弘三年 1333年 十一月 十五日 新田卿阿闍梨日目寂
建武元年 1334年  正月  七日 方便品読不読問答(仙代問答)
 同     同    二月二十六日 日道、日目百箇日の追善のため本尊を書写
 同     同    六月 十六日 日郷、「薬王品得意抄」に奥書す
建武二年 1335年  正月二十四日 日道、日尊へ書を遣わす
 同     同    三月 十一日 日郷、某より安房吉浜法華堂敷地を安堵される
 同     同    五月二十八日 日道、「諫暁八幡抄」に裏書す
 同     同    六月 中旬  日郷、大石寺御仏前において日睿に法門を相伝(類聚記)
 同     同    七月二十八日 日道、「諫暁八幡抄」に裏書す
 同     同    八月二十八日 日道、「諫暁八幡抄」に裏書す   
 同     同   十二月 十五日 日道、御書四通を日行へ授与
建武三年 1336年  二月 十五日 日道、本尊を書写
 同     同    五月 十三日 日道、日興写本「法華本門取要抄」を日行へ授与
 同     同    六月  六日 日道、「諫暁八幡抄」を読誦し終る
 同     同    八月  四日 日道、「法華経題目抄」の奥に加筆
建武四年 1337年  三月 下旬  日道、「聴聞見聞録」を日目の遺言により、大弐阿闍梨日寿に授与
 同     同    五月二十四日 日道、「安国論問答」奥に御書二通を抄写し、六月二十五日にかけて夢想を記す
建武五年 1338年  五月  五日 時綱、大石寺東坊地を日郷に寄進
暦応二年 1339年  二月 十五日 時綱「置文」を作成、「寄進状」の旨を厳守するよう定む
 同     同           この年、南条牛王丸(後の日伝)誕生
暦応三年 1340年  七月 十五日 日郷、延年寺成願より鳥辺山の日目廟所を求む
暦応四年 1341年  二月二十六日 伯耆阿闍梨日道寂
 同     同    三月 十八日 時長、大石寺東大門につき「時綱寄進状・置文」に相違ないことを記す
康永二年 1343年  二月二十三日 日郷、本尊を書写し女夜叉に授与

1374地名:2004/05/21(金) 01:46
続き
康永二年 1343年 四月    日尊、鳥辺山廟所に逆修塔を建つ
康永二年 1343年 四月十六日 日郷、万年救護本尊の讃文を書写す 私注:上とここの年はどちらかが印刷ミスか
康永三年 1344年 八月一日  日郷、本尊を書写し、龍王丸に授与
 同     同   八月十五日 日郷、本尊を書写す
 同     同   八月十八日 日睿、大石寺天経所にて日郷より法門を相承される(日睿縁起)
 同     同  十二月    日睿、蓮蔵坊に参着し、越年する(日睿縁起)
 同     同  十二月十三日 日郷、本尊を書写し、円命に授与
 同     同  十二月    日郷、本尊を書写す
貞和元年 1345年 正月    日興・日目十三回忌 日郷、本尊を書写す
 同     同   二月 七日 日郷・日睿、大石寺における日興十三回忌に参列す(日睿縁起)
 同     同   二月 九日 日郷、奏聞のため上洛。日睿同伴(日睿縁起)
 同     同   六月十三日 日郷、本尊を書写し、高松に授与
 同     同   六月十五日 日郷、本尊を書写す
貞和三年 1347年 七月十八日 日郷、成瀬後家尼より鳥辺山の日目廟所を求む
貞和五年 1349年        日郷、上洛奏聞(日睿縁起)
 同     同   正月     日郷、本尊を書写す
 同     同   六月二十八日 日郷、本尊を書写す
 同     同   九月二十一日 日郷、本尊を書写す
 同     同  十一月 十五日 日郷、京都にて日目十七回忌を修す(日睿縁起)
観応元年 1350年 七月  七日 日郷、本尊を書写す
文和二年 1353年 四月  八日 日郷「置文」を作成、日郷入寂後も大石寺東御堂番を僧衆で勤めるよう記す
 同     同   四月二十五日 宰相阿闍梨日郷寂

参考
「日興が元亨四年(1324年)十二月二十九日に書写した本尊に次のような添書と加筆がある」と本文で坂井師は記しています。
「最前上奏之仁卿阿闍梨日目(日興筆)」
「日道相伝之、日郷宰相阿闍梨授与之(日興筆)」 「興本」NO216
そして、坂井師は「日道と日郷とは、むしろ親交の関係にあったと見ることができるのではないだろうか。」と記しています。

1375地名:2004/05/21(金) 01:59
訂正

「最前上奏之仁卿阿闍梨日目(日興筆)」
「日道相伝之、日郷宰相阿闍梨授与之(日道筆)」 「興本」NO216

下段の( 筆)は(日興筆)ではなく(日道筆)の私の転記ミスです。

坂井師にお断りもなく転記させていただきましたことに対しまして、
謹んでお詫び申し上げますと同時にお許し願います。

1376犀角独歩:2004/05/21(金) 11:56

地名さん:

元より、「迷惑」など片鱗もございません。
ここのところの資料のご呈示を興味深く拝読させていただいているばかりです。

> 坂井師は「日道と日郷とは、むしろ親交の関係にあった…」

れんさんのご指摘も踏まえ、この点、なかなか説得性のある分析とわたしは拝しました。

1377地名:2004/05/23(日) 21:43

「大日蓮華山」については、日蓮説法・日興記の「産湯記」を初出として、「所破抄」等に流れるという経緯でしょうか。同書の成立経由等から少しずつ探ってまいります。

「産湯相承事」日蓮宗宗学全書・興尊全集P35−39
「御名乗事、始是生、実名蓮長奉申、後日蓮名乗有御事非母梅菊女(童女御名也)平畠山殿一類御座云々、法号妙蓮禅尼御物語有之事、我不思議有御夢相、清澄寺通夜申時汝志眞神妙也、一閻浮提第一之寶ヲ與ント思也、(父母夫婦先表口傳)東條片海三国氏大夫云者アリ、是夫定云々七歳春三月廿四日夜也、正今覚侍也、我奉後父母已後、無詮方如遊女時御身父嫁、(聖人托胎口傳)有夜霊夢曰、叡山頂腰ヲカケテ、近江湖水以手洗富士山日輪出奉懐思、打驚後月水留夢物語申侍父大夫我不思議御夢相蒙也、虚空蔵菩薩見吉児御肩立給、(聖人上行菩薩口傳前是生御事)此少人為我上行菩提薩埵也、為日下人生財摩訶薩埵也、亦為一切有情行末三世常恒大導師也、是汝與ノ給見後、御事懐妊之由聞語相タリキ、サテコソ御事聖人ナレ、(聖人御生不殊佛御誕生口傳)又可産生夜夢富士山頂登見十方明事掌内如見三世明白、梵天帝釈四大天王等諸天悉来下、本地自受用報身如来垂迹上行菩薩御身凡夫地謙下、御誕生唯今、無熱池主阿那婆達多龍王八功徳水応持来也、當奉浴産湯告諸天、仍龍神王即時青蓮華一本荷来、其蓮清水出御身浴進侍、其余水灑四天下受其潤人畜草木国土世間悉放金色之光明、四方草木華發菓成、男女並座有無煩悩、淤泥中出不染塵泥譬蓮華自泥出泥如不染、人天龍畜共白蓮各捧手日向今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子唯我一人能為救護唱奉見驚則聖人出生、(苦我茀口決)毎自作是念以何令衆生得入無上道速成就佛身苦我茀キ玉フ、我少未寝様ナリシ時、(諸天頌口決)梵帝等諸天一同音唱言、善哉善哉善日童子末法教主勝釈迦佛三度唱作禮而去給寤見聞シナリト、慥語給聞食、サテハ某日蓮也言也、(日文字口傳)聖人重曰様日蓮弟子檀那等非母物語不可思、即金言也、其故予修行兼母霊夢ニアリケリ、日蓮富士山自然名号、富士郡名也、實名大日蓮華山云也、我中道修行故如此、国云日本、神日神申、佛童名日種太子申、予童名善日、仮名是生實名即日蓮也、久遠下種南無妙法蓮華経守護神我国天下始国出雲也出雲日御崎云所、天照大神始天下給故日御崎申也、我釈尊顕法華経説已来号十羅刹女、(生佛法界一如口傳)十羅刹天照大神釈尊日蓮一体異名、本地垂迹利益広大也、日神與月神合文字訓十、十羅刹女申諸神一体束合深義也、日蓮日則日神昼也、蓮即月神夜也、月水縁蓮水生故也、又是生日下人生書(本門下種口傳)日蓮天上天下一切衆生主君也父母也師匠也、今久遠下種寿量品云今此三界皆是我有(主君義也)其中衆生悉是吾子(父母義也)而今此所多諸患難(国土草木)唯我一人能為救護(師匠義也)云(佛與聖人同体口傳)日蓮今此三界主也、日蓮大恩以希有事憐愍教化利益我等無量億劫誰能報者ナルヘシ、若日蓮現在弟子並未来弟子等中、日文字名乗上字不置者、自然法罰蒙可知、予一期功徳日文字留置御説法儘、日興謹奉記之、聖人言、此相承日蓮嫡々唯授一人秘傳也、神妙神妙言給留畢
  弘安五壬午年十月八日
                                日蓮 在御判


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