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門下・門流史関係

1管理者:2004/05/08(土) 14:42
門下・門流史関係は此方へ。

2慎之輔:2004/05/10(月) 06:29
LEOさん直人さん、こちらです。(^_^)/
>「創価学会は国柱会の大衆版だとわたしはおもう。教義もアレンジも国柱会。
>けれど 牧口氏に「大善生活実験証明」というオリジナルの発想があった。

勝手に模倣されているのを流れを汲むように言われたり書かれるのは心外ですね。爆

牧口常三郎氏は戦前の田中智学先生の講演会を聞かれております。
また、本化聖典大辞林は宗門全体に普及しており日蓮系の方なら
座右の書にしておられますから、およそ日蓮聖人を信奉する教団
ならその影響を受けずにはおられないはずです。
明治中期から大正にかけて、およそ近代宗教団体の活動方法は、
ほとんど試みたのが国柱会ですから、当時のトーキー(映画)、
新聞、牛乳販売、大々的な施本、講演会。そういった意味では
オームですら影響を受けていますよ。

3直人:2004/05/10(月) 20:41
Leoさん、こんばんは。

>「創価学会は国柱会の大衆版だとわたしはおもう」との発言がありました。

 私は国柱会の思想については完全なる無知の段階です。ですので、詳細は
智学居士の思想に詳しい慎之輔さん、管理人さん、川蝉さんにお願いしたい
と思います。m(__)m
 顕正居士氏が何を論拠として論理展開しているか分からない以上、コメントの
しようがないですが、牧口氏は慎之輔さんの云われるように智学居士の講演会
に出ておられたようですね。

  ────────────────────────────────
  牧口常三郎は一九一六(大正五)年ごろ、田中智学の講演会に何度か出席
  している。だが、実際にその日蓮主義の思想に共鳴することはなかった。牧口
  の日蓮との邂逅は一九二八(昭和三)年、日蓮正宗の信徒であった三谷素啓
  (一八七八―一九三二)との出会いを待たなければならなかっった。

  (佐藤弘夫「近代と仏教―近代日本における日蓮の「発見」」『仏教と出会った
  日本』所収、法蔵館、P186−187、1998年)
  ────────────────────────────────

 慎之輔さんの書き込みと食い違っている箇所もありますがそれは筆者が学会員
であることによるものかもしれません。私としては智学居士は近代日蓮主義を確立
した人物であり、大石寺門流の諸師も多大な影響を受けていると認識しています。
例えば堀米日淳師・堀日亨師の戒壇論なんかは智学居士と同じでしょう。(この二
師の戒壇思想については「本門の戒壇について」で詳述したいと思います。)

4Leo:2004/05/11(火) 02:49
慎之輔さん。

レスありがとうございます。

>勝手に模倣されているのを流れを汲むように言われたり書かれるのは心外ですね。爆

当時不審に思ったので、続けて顕正居士さんに質問したところ、「直接の人的
関係は無かったと想像します。」との答えでした。

>牧口常三郎氏は戦前の田中智学先生の講演会を聞かれております。
>また、本化聖典大辞林は宗門全体に普及しており日蓮系の方なら
>座右の書にしておられますから、およそ日蓮聖人を信奉する教団
>ならその影響を受けずにはおられないはずです。
>明治中期から大正にかけて、およそ近代宗教団体の活動方法は、
>ほとんど試みたのが国柱会ですから、当時のトーキー(映画)、
>新聞、牛乳販売、大々的な施本、講演会。そういった意味では
>オームですら影響を受けていますよ。

なるほど、国柱会は近代宗教団体のパイオニアだったのですね。
ただ、模倣した側の創価学会とは異なって会員を無闇に増やすような
ことはしなかったそうですね(会員の選抜が厳しいそうですね)。

5Leo:2004/05/11(火) 03:01
直人さん、こんばんは。

>顕正居士氏が何を論拠として論理展開しているか分からない以上、コメントの
>しようがないですが、牧口氏は慎之輔さんの云われるように智学居士の講演会
>に出ておられたようですね

牧口氏が智学居士の講演会に出ておられたのは確かということですね。

>慎之輔さんの書き込みと食い違っている箇所もありますがそれは筆者が学会員
>であることによるものかもしれません。私としては智学居士は近代日蓮主義を確立

牧口氏の「日蓮主義の思想に共鳴することはなかった」に関する資料がないので
(私はそれほど資料がありませんが、もしなにか見つかったら連絡します)なんともいえない
のですが、佐藤氏は牧口氏が国柱会に入会せず(できず?)、後に日蓮正宗に入信したことを
述べたかっただけかもしれないですね。

(資料が明記されていなかったので議論にはなりにくいですが、以前牧口氏は国柱会に
 入れなかったあるいは日蓮正宗以外の寺院も尋ねたというような書き込みを掲示板
 でみたことがあります)

>した人物であり、大石寺門流の諸師も多大な影響を受けていると認識しています。
>例えば堀米日淳師・堀日亨師の戒壇論なんかは智学居士と同じでしょう。

やはり影響は大でしたか。「本門の戒壇について」のスレ拝見させていただきます。

6慎之輔:2004/05/11(火) 06:11
>会員を無闇に増やすような
>ことはしなかったそうですね(会員の選抜が厳しいそうですね)。
そんな秘密結社のような事はないですけど(笑)ただ、宗教の本来の目的は
帰属する会費を納める会員を増やす企業のような事ではなくて、その宗教が
伝えんとする本義を広める事ですからね。顧客ニーズに合せて教えを変化
させていくことは伝統的に、下手糞です。爆
そういえば書籍関連で紹介した、週刊朝日百科「仏教を歩く」\560の30号
は田中智学、鈴木大拙、清沢満之の特集でまだ本屋さんにあるはずです。
わかりやすいと思います。ただし、宮沢賢治に関して梅原氏の書かれている
内容には少しちょっとと思いますけど。

7直人:2004/05/11(火) 20:57
Leoさん、こんばんは。

>牧口氏が智学居士の講演会に出ておられたのは確かということですね。

 そのように判断しても差し支えないでしょうね。後、これは、智学居士とは
直接関係がありませんが牧口氏は重須本門寺にも行っているようですね。

  ─────────────────────────────
  富士山の麓にいくつか日蓮宗の寺があるが、牧口はそのうちの本門寺
  といふのに参り出した。

  (柳田國男「牧口君入信の動機」『定本柳田國男集』別冊第3、P、467、
  1964年)
  ─────────────────────────────

 これまた、Leoさんの質問とは直接関係がないのですが、伊藤瑞叡氏の
『三大秘法抄の真偽論争』(隆文館)によれば、創価学会の「三大秘法抄」
に関する『仏教哲学大辞典』の記述の大部分は智学居士の門下である山川
智應博士の論文の転用だと指摘されています。(P138〜144)
 そして、次のように結論付けています。

  ─────────────────────────────
  創価学会の立論の特色は、山川論文を批議しながらも、重要なものを自
  らの意見の如くに転用活用している点にある。

  (「日蓮正宗創価学会の立場」『三大秘法抄の真偽論争』P144、2003年)
  ─────────────────────────────

 これが真実でしたら、《『仏教哲学大辞典』の項目の多くが、『本化聖典大
辞林』を引き写したもの》であっても不思議ではないですね。

8Leo:2004/05/12(水) 02:16
慎之輔さん、こんばんは。

>そんな秘密結社のような事はないですけど(笑)ただ、宗教の本来の目的は
>帰属する会費を納める会員を増やす企業のような事ではなくて、その宗教が
>伝えんとする本義を広める事ですからね。顧客ニーズに合せて教えを変化
>させていくことは伝統的に、下手糞です。爆

確かに宗教の目的は本義を広める事ですね。創価学会は(ソースとして示せる
ものは思い浮かばないですが(名誉会長の指導がソースの可能性が高いです))
「わからなくても(教学を理解していなくても)折伏は出来る(=人を連れて
くればよい)」「悩みのある人を連れてきなさい(←これは折伏であるのだろうか?)」
となっており、活動のひとつの目標も「本尊流布(創価学会下付の曼荼羅の授与
(数の増加?))」ですし、どちらかというと「会員を増やす企業のような事」の傾向
があるのではないかと思います。(少々脱線しますが)創価学会で不思議なのが、
一般にビデオか会館の衛星中継でしか名誉会長(トップ)のスピーチを聞けない
ことです(これに限らず不思議なこと、疑問が多くあります)。
(紹介して頂いた「仏教を歩く」を拝見すると、智学居士は公衆の面前で
 スピーチされていますね)

>そういえば書籍関連で紹介した、週刊朝日百科「仏教を歩く」\560の30号
>は田中智学、鈴木大拙、清沢満之の特集でまだ本屋さんにあるはずです。
>わかりやすいと思います。ただし、宮沢賢治に関して梅原氏の書かれている
>内容には少しちょっとと思いますけど。

ご紹介ありがとうございます。本屋さんに行ってみました。シリーズの最後の号
なのですね(この朝日新聞社のシリーズは気がつかなかったです...)。

「(前略)、一時期ではあるが、創価教育学会(現・創価学会)の創設者・牧口常三郎
も国柱会主催の講習会や講演会に参加している(牧口は講演会のみ)。」とありました。

9Leo:2004/05/12(水) 02:55
直人さん、こんばんは。

> そのように判断しても差し支えないでしょうね。後、これは、智学居士とは
>直接関係がありませんが牧口氏は重須本門寺にも行っているようですね。
>(柳田國男「牧口君入信の動機」『定本柳田國男集』別冊第3、P、467、
>1964年)

ご紹介ありがとうございます。そうしますと牧口氏が重須本門寺の信徒にならず、
大石寺の信徒になったかという疑問が沸きます。もしご存知のことがござい
ましたらご紹介頂けましたら幸いと思います。(戒壇の本尊がキーではないかと
予想します...)

> これまた、Leoさんの質問とは直接関係がないのですが、伊藤瑞叡氏の
>『三大秘法抄の真偽論争』(隆文館)によれば、創価学会の「三大秘法抄」
>に関する『仏教哲学大辞典』の記述の大部分は智学居士の門下である山川
>智應博士の論文の転用だと指摘されています。(P138〜144)
> そして、次のように結論付けています。
> これが真実でしたら、《『仏教哲学大辞典』の項目の多くが、『本化聖典大
>辞林』を引き写したもの》であっても不思議ではないですね。

こちらも、ご紹介ありがとうございます。新たな事実が出てきましたね。

10Leo:2004/05/12(水) 03:21
直人さん、別の話題です。

直人さんの下記のご発言に注目しています。私としても(事情に左右される)
学会指導や教学に翻弄されることを良しとせず(心情としてはすっかり学会から
第三者的になっておりますが)、「行き着くところ」を見極めたいと思っています。

「創価学会の行き着くところは教学思想的には日蓮宗、組織的には立正
 佼成会であろう。その一つは日蓮正宗から破門された後の学会教学は日
 蓮宗と同じようになっていること。もっとも、これは当然の帰結である。
 真理は一つなのだから。」

この「真理」についてまた明日以降お伺いしたいと思います。

11直人:2004/05/12(水) 20:06
Leoさん、こんばんは。

>そうしますと牧口氏が重須本門寺の信徒にならず、大石寺の信徒になったかという疑問が沸き
>ます。

 牧口氏は重須本門寺への入信を希望したようですが、重須の僧侶である早川一三師に「あな
たの考えは宗祖の教えとまったく無関係である」と云われて入信を断られたそうです。

  ───────────────────────────────────
  北山本門寺の僧侶、故・早川達道師に聞いた話では、牧口は昭和二年ころに何度か北山
  本門寺を訪れ、創価教育と日蓮について自説をいろいろと話して、「本門寺の信徒になりた
  いといったが、あなたの考えは日蓮聖人の教えとは違う、といって帰ってもらった」というこ
  とであった。

  (「創価学会攻防史の研究」『福神』9号、P156、2004年)
  ───────────────────────────────────

 早川師の「日蓮聖人の教えとは違う」という証言を裏づけるように、牧口氏は尋問調書にお
いて、

  ───────────────────────────────────
  問 会員獲得の手段方法に就ては
  答 (中略)私の価値論をお寺に於て宣伝説教するわけには参りませんませんので私
  は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採り入れた処に私の価値論が
  ある訳で、此処に創価教育学会の特異性があるのであります。

  (『牧口常三郎全集』10巻、P188、2000年)
  ───────────────────────────────────

  ───────────────────────────────────
  問 創価教育学会の信仰理念の依拠する処は日蓮正宗に相違なきや。
  答 (中略)創価教育学会其ものは前に申上た通り日蓮正宗の信仰に私の価値創造
  論を採入れた処の立派な一個の在家的信仰団体であります。

  (『牧口常三郎全集』10巻、P188、2000年)
  ───────────────────────────────────

と述べてます。つまり、牧口氏は寺院という組織力を利用して自説(価値論)を広めようとし
たのであったわけで、本門戒壇之大御本尊への強い渇仰はなかったようです。私の記憶で
は本門戒壇之大御本尊を前面に出したのは戦後の戸田城聖会長だったと思います。

>この「真理」についてまた明日以降お伺いしたいと思います。

 これは特に血脈論を意識して書いたものです。創価学会は今日でこそ、

  ───────────────────────────────────
  「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて仏に成る血脈を継がしめん」(「生死一大
  事血脈抄」、御書一三三七㌻)と仰せのように、仏になる血脈は万人に開かれたもの
  であり、一部の人が独占するものではありません。

  (『教学の基礎』P205、2002年)
  ───────────────────────────────────

と云うのですが、かつての創価学会は「貫首を通しての信心血脈」というようなことを云っ
ていました。こうした血脈論に対して日蓮宗は「生死一大事血脈抄」を依文として、そうし
た血脈論は間違っていると反論(『護持教報』)していたわけです。
 こうした教義解釈の日蓮宗化をさしたものです。「真理」というのは大袈裟かもしれませ
んが虚心坦懐に御文を拝して導かれる結論はひとつのはずです。そうしたことを云おうと
したものです。

12Leo[TRACKBACK]:2004/05/16(日) 02:44
直人さん、皆さんこんばんは。

直人さん、牧口会長の入信時の動機や情況を示していただいてありがとうございます。
話題はかわりまして...「創価学会をみんなで考えよう」掲示板
(http://jbbs.shitaraba.com/study/925/)で経悟空さんという方の興味深いご発言が
あり内容を吟味してみたいと思いますがいかがでしょうか。

経悟空さんのご発言(下記ご発言リストの※1部分)は大石寺教学批判(たとえば下の執行海秀師
の批判)への反論となる可能性があると思いました。

・興門教学の思想的展開の一考察 教学の本質を中心として(執行海秀)
「すなわち、興門の教学は、仏教の本義を解明しようとする、仏教内における一つの宗派
としての教学ではない。いわば、それは仏教そのものを批判し、これを否定することによって、
新たな一つの宗教をうち立てようと試みている。 」
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/kaishu_001.html、犀角独歩さんのサイト)

───────────────────────────────
○経悟空さんご発言リスト
(便宜上各ご発言に題名をつけさせて頂きました)

・3種類の「宗祖本仏思想」
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/925/1049435183/r196

「故福重照平さん(『日蓮本仏論』)、故松本佐一郎さん(『富士門徒の沿革と教義』)
は1-の釈尊宗祖同体が大石寺の伝統思想であるのに、変なのが流行していたり、変な
思想と誤解されたりしていると述べていました。」

・中国天台の「釈尊宗祖同体」思想
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/925/1049435183/r204

・日寛上人の「宗祖本仏思想」
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/925/1049435183/r206

・日寛上人の教学と日蓮聖人の教学
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/925/1049435183/r208

※1「日寛の宗学は仏教の一切を「発菩提心」に帰結するといえます。日蓮もまた久遠の
釈尊を永遠の菩薩として理解し、みづからと同一視し、人々に菩提心を発すことを勧めました。
「上行神話」が基本の宗学などは日蓮の信仰と最も反するものとわたしは考えます。」

・名字即の凡夫、理即の凡夫
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/925/1049435183/r213

・カルト化
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/925/1049435183/r214
───────────────────────────────

13直人[TRACKBACK]:2004/05/18(火) 21:22
Leoさん、こんばんは。

>経悟空さんという方の興味深いご発言

 私自身は経悟空氏の発言には然程興味は惹かれませんがちょっとだけ。

  >1-釈尊宗祖同体 末法に釈尊再度の出世。
  >2-釈尊脱仏・宗祖下種仏 すなわち上行本仏。
  >3-宗祖は宇宙の本体である仏 釈尊も分身の一仏。

  >故福重照平さん(『日蓮本仏論』)、故松本佐一郎さん(『富士門徒の沿革と教義』)
  >は1-の釈尊宗祖同体が大石寺の伝統思想である
  
  (http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/925/1049435183/r196

 1の説は近年では大橋慈譲氏が云うところの「釈尊上行一体不二説」ですね。さて、この
思想は上代大石寺には見られず、その初見は尊門から大石寺に帰伏した日教師によって
提唱されたものですね。「釈尊宗祖同体」が大石寺伝統的本仏論であると云うのであれば、
宗祖・日興上人の確実な文証によってその論理展開がなされなければなりません。
 2は昭和60年代頃まで創価学会によって強調されていた本仏論でしょうか。最近は3に移
行しているようですが。

  >「上行神話」が基本の宗学などは日蓮の信仰と最も反するもの

  (http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/925/1049435183/r208

 ここで云う「上行神話」とは如何なるものでしょうか。まさか、《宗祖=上行再誕》ととらえ
る事が誤りだというのでしょうか。《宗祖=上行再誕》は宗祖・日興上人の確実な文証によ
って論証できますが、「釈尊宗祖同体」はどうでしょうか。その説は日教師や日寛師の学説
にもとづいた場合にのみ展開できるのでしょう。
 真実、「釈尊宗祖同体」が大石寺伝統的本仏論であり、宗祖・日興上人の法義と同一で
あるというならば、それらの学説に依ることなく宗祖・日興上人の確実な文証によって論理
展開すべきでしょう。

14顕正居士:2004/05/18(火) 23:55
宗祖本仏論

は日興門流以外にもあるから、この門流の固有の特色とはまずいえません。
三秘中の題目を本因妙とするのも勝劣派には比較的共通のことであります。
(参考−望月歓厚『日蓮宗学説史』など)

大石寺の特色を堅樹日寛が祖述しているなら、彼の六巻抄その他の著述には「上行勝釈迦」
(上行本仏)を押さえ、「釈尊日蓮一体」もしくは「釈尊天台日蓮一体」の方向へ誘導する
傾向がわたしには認められます。堅樹日寛は教相の法華経を本迹ともに迹とし、久遠元初の
独一の本門を本宗の観心とするから、上行再誕論は教相の上のことになるのであります。

では上行再誕や上行本仏の否定は堅樹日寛の独創かというとそうではなく、
「譬へ地涌の菩薩也と云ふ共、地住已上の所見なれば末法我等が依用に非ず」
(『雑雑聞書』富要集2巻)と大石寺中興の祖である9世日有は述べたと伝えます。

直人さんは最近、電波なお友達とは訣別されたようですが、

>「釈尊宗祖同体」が大石寺伝統的本仏論であると云うのであれば、
>宗祖・日興上人の確実な文証によってその論理展開がなされなければなりません。

宗祖は日蓮聖人であります。日蓮聖人の遺文から発達した教義はそれぞれに合理性があれば
互いに尊重しあうべきですが、派祖日興を絶対とし、合わなければ日蓮聖人も後世の学徳も
一切経もお認めにならないのですか?

15直人:2004/05/19(水) 01:12
顕正居士さん、こんばんは。

>電波なお友達とは訣別

 波で始まるHNの人となら去年に訣別しています。現在はまったく関係ありません。

>宗祖は日蓮聖人であります。

 その通りです。誤解させたようですね。「宗祖・日興上人」は蓮興二祖−この掲示板では
相応しくない書き方ですから日蓮聖人、日興上人と云いましょう。−という意味で書いたも
のです。

>日蓮聖人の遺文から発達した教義はそれぞれに合理性があれば互いに尊重しあうべき

 これについても異論はないです。しかしあくまでも宗祖(日蓮聖人)が正、他の諸師は傍
でしょう。

>派祖日興を絶対とし、合わなければ日蓮聖人も後世の学徳も一切経もお認めにならない
>のですか?

 私は日興上人を絶対視したつもりはないですよ。上の「>日蓮聖人の遺文から発達した教
義」とも関連しますから一緒に云いましょう。例えば、今日の大石寺では貫首は宗祖人と同
格、或いは、代理人であるというようなことを言ったり、「貫首と大御本尊と一体である」という
人さえいますね。けれども、こうした思想の根源は日教師の学説であること、それを日寛師が
著書に引用しているだけであって、決して宗祖、日興上人に「貫首は大御本尊と一体である」
という思想を見出すことはできないでしょう。
 ただ、途中の貫首がこう云ったからこれが「伝統思想」と思うのはあまりにも危険でしょう。戒
壇論で云えば近代までは《天生原戒壇・六萬坊》が信じられてきましたが、史料を見たときそ
れは大石寺本来の伝統的戒壇論ではなく、興門他山の思想でした。つまり、宗祖、日興上人
にない思想を「伝統思想」であるというのは如何なものか、と問うているわけです。ゆえに私は
「大石寺伝統的本仏論であると云うのであれば、宗祖・日興上人の確実な文証によって」と述
べたのです。

16Leo:2004/05/19(水) 01:48
直人さん、顕正居士さんこんばんは。

>>12は従来気になっていたことのひとつです。

顕正居士さんが、>>14
>宗祖は日蓮聖人であります。日蓮聖人の遺文から発達した教義はそれぞれに合理性があれば
>互いに尊重しあうべきですが、派祖日興を絶対とし、合わなければ日蓮聖人も後世の学徳も
>一切経もお認めにならないのですか?

と仰ったように、日寛上人の教義(注目を日寛上人に絞りますが)が日蓮聖人や日興上人から
異流儀であっても(当然異流儀でないという主張は誤りです)、異流儀なりの妥当性があるので
はないかという素朴な疑問です(異流儀が判明の後に出てきそうな議論と思いました)。

(やや飛躍しますが)たとえば、日寛上人の教義では成仏は不可能と言えるでしょうか(日寛上人
の解釈・教義の信奉者は救いがないでしょうか)。

17Leo:2004/05/19(水) 01:51
直人さん、(まだ>>12〜議論の途中ですが、私の忘れないうちにm(_ _)m)別の件で
気になっていたことを紹介します。

戦時下における創価学会について(直人さん)
http://www.sincere.ne.jp/~naohito/k002.html

によりますと、牧口会長は必ずしも反戦ではなかったと思います。
直人さんは(もしかするとすでにご覧になっているかもしれませんが)
下記資料はどう思われますでしょうか。

下記資料は「牧口会長には反戦思想や反戦運動があった」ということを
大前提にして論をすすめ、それに反する資料を採用していないように見えます。

牧口初代会長の闘い
--『価値創造』廃刊を通して----論述者 生駒おろし
http://www.ginpa.com/karagura/makiguchi.html

「牧口初代会長は、今、奇妙な批判にさらされている。牧口は、
 単に宗教的信条から、神札を拒否しただけで、反戦思想や反戦運動は
 無かったとするものである。そうした疑難をも念頭において、
 機関誌『価値創造』廃刊の過程を追うことにより、牧口初代会長の
 戦いを見てみたい」

18顕正居士:2004/05/20(木) 03:14
日米戦争の際には日露戦争の時にあったような反戦言論がまずありませんでした。
ルーズベルト大統領がすでに開戦を決意していて日米交渉は時間稼ぎに過ぎなかったようで、
ハルノートは最後通牒と理解されました。この段階ではもうわが国に選択の余地がなかったのです。
次の文章の中に引用されている前田夕暮1883-1951の『大詔渙発の日』のような所感は
当時の日本知識人の多数に共通の感慨であったと想像されます。

http://home.att.ne.jp/wind/gakusan/niji/zengo/kako.html

しかしミッドウェー海戦敗北後は戦果は少なく、東条内閣の戦争指導力にも疑問が向けられます。
けれどもこの頃になるといわゆる「東条独裁」が出来て、言論統制はより厳格になっていきます。
サイパン島が陥落し、いわゆる絶対国防圏が崩壊して本土への空襲が可能になると、軍部には
東条暗殺計画も出て来ますが、伝家の宝刀、軍部大臣の入閣拒否で東条内閣は総辞職します。
小磯内閣は海相に米内光政、外相に重光葵をあて、講和を模索しますが、チャンスをつかめず、
まだ戦争は続きます。「大本営発表」によって国民は彼我の戦果を正しく認識できなかったと
いう方がいますが、今時のイラク戦争でもわかるように、リアルタイムでは前線からの報告のまま
に報道されるから、相当の時間が経たないと正確な戦果は「大本営」にもわかりません。
教育を受けた国民は戦果の発表よりも政情の変化や景気の変動によって大勢を予想します。

今日残っている戸田氏の発言からいえることは、戸田氏は当時一定の教育を受けた人々と戦争の認識
は変わっていないし、牧口氏も同様であったと想像します。この時期に存在しようのない空想的で
特殊な反戦思想を抱いた人々ではないことは確実であるとわたしはおもいます。

19川蝉:2004/05/20(木) 09:33
すでに御存知かも知れませんが、創価学会初代会長牧口氏が反戦運動家ではなかったという論文がフロム21(http://www.forum21.jp/contents/contents1-1.html)に掲示されています。
乙骨正生(ジャーナリスト)氏の《「創価教育学会は反戦団体」の虚偽》と云う論文です。

これを読むと、顕正居士さんが
>当時一定の教育を受けた人々と戦争の認識は変わっていないし、
>牧口氏も同様であったと想像します。この時期に存在しようのな
>い空想的で特殊な反戦思想を抱いた人々ではないことは確実であ
>るとわたしはおもいます。

と云われているとおりですね。

20直人:2004/05/20(木) 12:32
Leoさん、こんにちは。

>牧口会長は必ずしも反戦ではなかったと思います。(中略)下記資料はどう思われますで
>しょうか。

 「牧口初代会長の闘い--『価値創造』廃刊を通して----論述者 生駒おろし」の存在だけ
は知っています。数年前、ASCさんとお話していたときに提示されたましたが途中で読む気
力が失せてそれ以来です。
 当時の創価教育学会に「反戦思想」があったかどうかは下記の資料から判断されて下さい。

  ─────────────────────────────────────
  創価教育学会第五回總会は、昭和十七年十一月二十二日東京都神田区一ツ橋教育会
  館に於て開催された。出席会員は約六百名、午前十時宮城遥拝、黙祷の国民儀禮の後、
  稲葉理事による学会綱領の高唱があり(中略)吉田理事の指導にて遠く戦野にある牧口
  会長令息洋三君をしのぶ軍歌を高唱し、厳粛な会場に一抹の和気を送り、最後に西川理
  事の閉会の挨拶あり、次いで牧口会長の発声にて聖壽の萬歳を三唱し奉つて午後五時
  過ぎにめでたく散会した。

  (「第五回總会記録」『大善生活実証録−第五回總会報告−』P15、1942年)
  ─────────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────────
  大東亜戦争も一週年の垂んとして、陛下の御稜威の下、我が陸海軍将兵が緒戦以来、
  赫々たる戦果をあげてゐる事は、吾等の衷心より感激に堪えない次第であるが、然し一
  方世界の様相は層一層混乱の一路を辿るのみで、修羅地獄とはかう云ふ事を云ふもの
  との實感を與へる。我国としても、もう寸毫の妥協を許されず、勝つか負けるかの一事の
  み、否、断じて勝つの一手あるのみである。この渦中にある日本の大国難に際し、殉国
  の大精神にして世界の指導理念は何であらう。法華経である。法華経精神である。否、
  法華経の實践、即ち我が学会の提唱する大善生活のみである。我が創価教育学会に於
  ても、会長牧口先生には、この一大憂国運動に、挺身されてゐるは又宜べなるかなと肯
  づかれる。

  (理事・本間直四郎「開会の辞」『大善生活実証録−第五回總会報告−』P17、1942年)
  ─────────────────────────────────────

 #上掲資料は最近あるところから研究資料として出ています。

21顕正居士:2004/05/21(金) 11:19
「反戦」とは基本では「開戦反対」を唱えることで、すでに開戦した後なら「早期講和」を唱える、
言論も統制されているなら「徴兵拒否」など消極的最大の抵抗を示すことでしょう。そういう事実
があったと創価学会はいっておりませんから、牧口氏は「平和を愛する人」であったといいたいの
でしょう。この掲示板に参加の皆さんもおそらく皆さん、その意味では「反戦」主義者でしょう。

では「皇太神宮大麻不敬事件」は純粋に信仰上の事柄から生じたのでしょうか。創価教育学会幹部
の逮捕は大麻の焼却などを同会が会員に指示していた疑惑からであったようです。当時、国家神道
(官幣神社)は「宗教ではない」と規定されていました。したがって大麻不敬は国旗への不敬とか、
合衆国ならワシントン大統領の肖像を焼却するなどに相当し、法律による処罰の対象であった。

法華宗の「曼荼羅国神不敬事件」、「宗祖御遺文削除事件」などとは全然、性質を異にしています。
「曼荼羅国神不敬事件」は曼荼羅の下部におられる天照大神、八幡大菩薩が鬼子母神、十羅刹女と
同類の「鬼神」であるという説明が災いしたらしい。大石寺では「日蓮」の周辺にある諸尊が最も
地位が高いと説明して事無きを得たという。対応の巧拙はあるが、日蓮聖人の曼荼羅自体がいかん
とか、遺文に不穏思想があるから削除せよなどは、帝国憲法によって保障された信教の自由を侵す
不正な検挙であり、更に文化遺産の破壊の指示であって、タリバーンの古代仏像破壊と一緒である。

浄土真宗もインド人(阿弥陀仏)を本尊に祭るとはけしからんと、時局へ便乗した不平不満の徒の
落書投書の対象であった。こういう時期に神宮大麻を不敬に扱わないよう指示した大石寺に逆らい、
今日ではそれを勲功のように創価学会は誇っている。ただしこれは日蓮正宗に改宗した元会員への
宣伝で、一般の国民に対しては負の宣伝に過ぎないから大麻不敬を「反戦活動」だったとごまかす。
国民へは脱カルト、改宗会員へは重カルト、二様の作戦を遂行し、間の言論の一貫性は気にしない。
「反戦活動」は特に旧社会党系の議員や支持者が多い民主党プロパーへの対策であろう。自民党と
は直接に組む。それぞれが蛸壺に入っており、トータルには物事が見えないという洞察から、三様
の対策をとり、一貫性を全然気にしないのが最近の創価学会の政策の傾向であるように見えます。

22Leo:2004/05/22(土) 02:09
直人さん、こんばんは。

>>15 の件です。
>しかしあくまでも宗祖(日蓮聖人)が正、他の諸師は傍でしょう。

直人さんのスタンスを了解しました。

ここで疑問が生じました(疑問を思い出しました)。
日蓮聖人は何が何でも正でしょうか。(矛盾はまったくないでしょうか)

(参考資料)
タツノコさんとの対話 (Libraさん)
http://page.freett.com/Libra0000/z015.htm

「宗祖の中に、「縁起説(一念三千)」と「業報輪廻説(流転の十二因縁)」が
 併存したとするならば、それは、「宗祖にも矛盾があった」ということだろうと
 私は考えます。」

「『十二因縁』=「三世両重の因縁」=「有部の十二因縁“解釈”」→基体説
 ≠「空・無自性」=「“本来の”縁起思想」→反基体説」

23Leo:2004/05/22(土) 02:29
顕正居士さん、川蝉さん、直人さん、レスありがとうございます。>>18 >>19 >>20

一次資料を拝見し、創価学会史観(これはこれで信仰ですね)とはかなり違った当時の状況を
垣間見ることができました。

創価学会史観の例
ttp://www.sokagakkai.or.jp/data/history/

余談ですが私は最近まで乙骨正生氏等、学会で敵対者と見做された方の資料や
論文を見ない傾向にありました(非常に抵抗感がありました)。

24Leo:2004/05/22(土) 02:37
顕正居士さん

>>21
>それぞれが蛸壺に入っており、トータルには物事が見えないという洞察から、三様
>の対策をとり、一貫性を全然気にしないのが最近の創価学会の政策の傾向であるように見えます。

インターネットが普及すれば、トータルに物事を見ることが出来るようになる、なれる
ということを期待しますが、実際にはそうならないですね。
インターネットはあくまでも従来のコミュニケーションの延長線であり、
蛸壺(塹壕)に入っている人はいる。蛸壺(塹壕)から出やすくなったという利点はあるかも
しれません。

25慎之輔:2004/05/22(土) 09:04
みなさんおはようございます。
スレッドが違いますけど、「日蓮仏法」とは変な言葉ですね。仏法は仏法ですよね
ご指摘されるまで気が付きませんでした。ありがとうございます。

人というのはいかに多くの情報があっても己にとって都合の良い情報のみを無意識
のうちに選別収集してしまいますね。特にやっかいなのは相手の論文自体が己の主張
と相反するものであっても、部分的に都合の良い箇所のみコピー、ペーストして
利用する。はたまた過去まで捏造する。それを正義と思ってやる。
インターネット時代というのは情報の末法社会かもしれませんね。
その匿名性ゆえ、発言しやすく尊大になりやすいし虚偽も多い。しかし、有益なお話も
聞けるわけです。また、その中に本音や真実もある。ご聖人の教え、仏さまの智慧を
いただいて今後もよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

26慎之輔:2004/05/22(土) 09:07
訂正→ご聖人の教え、仏さまの智慧を教えていただいて信行に励みたい
と思います。<(_ _)>

27Leo:2004/05/23(日) 13:26
直人さん、こんにちは。

>>22の件ですが、やはり自ら学び、自ら考えるということですね。
安易に質問してしまいました。m(_ _)m

>「真理」というのは大袈裟かもしれませんが虚心坦懐に御文を拝して
>導かれる結論はひとつのはずです。

このような姿勢をみならいたいと思いました。

28Leo:2004/05/23(日) 13:29
慎之輔さん、こんにちは。

>スレッドが違いますけど、「日蓮仏法」とは変な言葉ですね。仏法は仏法ですよね
>ご指摘されるまで気が付きませんでした。ありがとうございます。

私も「仏法は仏法」と思いますが、創価学会は「日蓮大聖人の仏法」という言い方を
しており疑問な点ですね。

創価学会会則
ttp://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_29.htm
「創価学会は、日蓮大聖人の仏法を広宣流布することを使命とする仏意仏勅の教団である。 」

29顕正居士:2004/05/24(月) 06:38
「日蓮仏法」

という語句はわたしの知る範囲では創価学会と日蓮正宗系教団でしか使われない。日蓮正宗系教団
での使用例は比較的に少ないから、創価学会ではじめ使われ、Nichiren-Buddhismの訳語であった
のではないかと想像します。江戸時代までは「宗」という語は朝廷から公許の八宗・十宗の宗旨の
意味で、教団を指しません。宗教法人の制度のもとで各宗各派が「〜宗」を名乗り、今はこの語は
事実上、教団を指すものに変わりました。したがって日蓮聖人に系譜する思想を指す言葉が必要に
なります。日蓮教学の約束では「日蓮宗」をその意味に使い、教団としての日蓮宗を「単称日蓮宗」
といい、区別して来ました。しかしこの語法は一般にはたいへん分かりにくい。

*「日蓮宗という名前は固有名詞である。法華宗や大石寺系宗旨をひっくるめて日蓮宗と呼ぶ人が
いるがこれは間違いである」(間違いじゃないんだけどなあ)。
http://www.kosaiji.org/hokke/shushi.htm
だから「日蓮仏教」が今後は使われる傾向になるのではないでしょうか(渡辺宝陽・『日蓮仏教論』)。
思想としての「浄土真宗」を指す語句としては「親鸞仏教」がすでにひろく用いられています。

意味内容としては「日蓮仏法」の語句に問題はないし、「天台仏法」に倣った言い方です。しかし
Buddhismの意味には今は「仏教」を用い、「仏法」をまったく用いないから、実際に「日蓮仏法」
を使うと創価学会員であると誤解される可能性があります。

30川蝉:2004/05/24(月) 09:37

>だから「日蓮仏教」が今後は使われる傾向になるのではないでし
>ょうか
日蓮聖人の受容把握された仏教と云う意味で「日蓮仏教」と云う言葉はすでに使い始められています。特に日蓮宗霊断師会。

日蓮聖人の受容把握された仏教と云う意味で「日蓮仏法」といっても良いのですが、なにせ創価学会が日蓮本仏の立場で「日蓮仏法」と云う言葉を使用してしまっているので、
>「日蓮仏法」を使うと創価学会員であると誤解される可能性があ
>ります。
ですね。

31直人:2004/05/25(火) 10:52
■妙福寺事件―地蔵堂をめぐる紛争

 妙福寺は嘉元三年、要法寺開山日尊上人によって会津細工名に開創された興門派寺院
である。もとは尊門寺院であるが昭和十七年、要法寺との寺籍問題に決着がつき大石寺に
復帰したと云う。
 さて、ここで云う「妙福寺事件」とは妙福寺住持と妙福寺檀徒による地蔵信仰の是非をめぐ
って起こった紛争である。妙福寺は開基が尊門とは云え、大石寺末でありながらなぜ地蔵信
仰などあったのであろうか。所伝によれば次の如くである。

  嘉元二年に会津に入国され、若松にて久遠山実成寺を開かれ、次いで出羽の国に赴か
  んと熊倉まで進まれた時、後から一人の小僧が急ぎ追い付き、日尊に縋って云うには、
  「わが村に疫病流行し、全滅する許りであります。何卒御上人様の法力にて、御助け賜
  らん事を」と頼んだので、日尊も之を諾し、小僧を道案内にして、数里の道を引き返して来
  られたそうです。然るにあの御堂の側迄来たところ、忽ちに小僧の姿が消えたので、不審
  と思い、その御堂を訪れたら、堂守の云うのには「見らるる通りの破れ堂にて、小僧を置く
  余裕も無いが、唯霊顕灼かな尊像があります。或いはこの尊像の化身なるかも知れませ
  ん」とて日尊を案内して、堂内に入りて見れば、果たして小僧に預けた日尊の荷物が、尊
  像の経机の上にあったので、日尊上人は甚だ感激して、それより日夜役病退散の祈祷を
  こらした為、猖獗を極めた悪病も遂に衰え、一村全滅の悲運から救われ
  (『妙福寺事件』P15−16)

 昭和十七年に大石寺門流に復帰した妙福寺であるがその際に所謂「謗法払い」はなされな
かった。しかして、昭和二十一年、久保川法章氏が妙福寺住持として赴任した際に子安地蔵
は大石寺義に相応しくないとし撤廃を主張する。対して妙福寺檀徒は六百有余年続いてきた
信仰対象を撤廃することに反対する。
 かくして子安地蔵の撤廃をめぐる対立は激化の一途を辿る。昭和二十八年一月十一日、檀
徒ら三人は大石寺へ登山し嘆願書を提出している。その内容は、

  一、子安地蔵信仰は六百有余年にわたる伝統。
  一、したがって子安地蔵の撤廃は認められない。
  一、我ら(檀徒)の主張が通らなければ全檀徒が離檀する。
  (『妙福寺事件』P15−16・要旨)

というものであった。これに対して細井精道氏は「嘆願書提出の件について当院より何分の指
示があるから、今後指示に依って行動するようせられたい」と云うのみで宗務院は檀徒を相手
にしなかった。待てども宗務院から指示がない檀徒は警察への告訴、無許可での登記変更な
どの奸計をめぐらす。
 こうした対立過程で久保川氏は檀徒二十二名の離檀を決定し昭和二十八年二月二十四日、
「離檀承認願」を提出している。これについて三月十七日、細井氏が妙福寺に訪れ、檀徒らと
論議の結果、

  (1)地蔵と称している仏像は地蔵ではなく、日尊の像であるから置いてもよい。
  (2)此の像に対する礼拝は行わない。
  (3)住職は充分に檀徒に理解させないうちに謗法払いを行った事は、住職の手落ちであった
  ことを認める事。(『妙福寺事件』P49)

となり、離壇は見送られた。しかし、地蔵(日尊像)への礼拝はこの後も続く。
 四月十八日、久保川氏が妙福寺を空けると檀徒らは妙福寺に投石を行うなどの暴挙に出てい
る。この暴挙は十八・十九日の二回にわたって行われ、警察が介入する有様となっている。
 しかして、昭和二十八年四月三十日、水谷日昇師は「離檀承認願」を承認するに至るのである。
 大石寺は日蓮宗の守護神を誹謗する傾向があるが、その大石寺とて大石寺義からは逸脱した
地蔵信仰を認め、挙句は暴動沙汰である。大石寺の歴史は決して彼らが云う如く「富士の清流」
などではない。この事件がその最たる例と云えよう。

32直人:2004/05/27(木) 19:30
>>31[拾遺]

#資料は事件の当事者である久保川ていこ氏の手記『妙福寺事件』によった。
#妙福寺史に関する研究は大石寺からはなされていないようである。
#妙福寺は現在は日蓮正宗寺院ではなく無住の寺院と化しているようである。

33直人:2004/05/30(日) 19:46
■貫首絶対思想について

 今日における日蓮正宗と創価学会の対立紛争においてはしばしば「法主本仏論」(ここでは
貫首絶対思想と称す)が問題となることがある。ここで云う「貫首絶対思想」とは大石寺歴代諸
師が宗祖と同格、或いは、宗祖の代理人と位置づけられることによって時の大石寺貫首が現
時における日蓮聖人へと祀り上げられることを云う。換言すれば、貫首絶対思想は宗祖本仏思
想の悪しき弊害と云えよう。
 大石寺歴代諸師が宗祖と同格、或いは、宗祖の代理人であるという思想は「御本尊七箇相承」
に「代々の聖人悉く日蓮」と記されている如くであるが、「御本尊七箇相承」が後代の偽作である
以上、偽書を以っての依文は何ら意味をなさない。これによって、貫首絶対思想の初見は日教師
の時代を待たねばならないのであるが、日教師の貫首絶対思想については『大石寺教学の研究』
に譲り、ここでは日教師以降の貫首絶対思想を論点としてみる。
 日教師によって形成された貫首絶対思想はその後、日舜師が大石寺第十九代貫首として登座
した際に大石寺檀徒から反発があったため、日感師は、

  其の器量の善悪を簡ばず、但相承を以って貫主と定められ候、故を以つて一山皆貫主の下
  知に随い、貫主の座上を蹈まざる事悉く信の一字の修行にて候釈迦日蓮代代上人と相承の
  法水相流れ候えば、上代末代其の身の器は替われども法水の替わる事少しも之れなく候、
  此くの如く信ずる時は末代迄も仏法松柏の如くにて、常に寺檀仏種を植え、三宝の御威光鎮
  えに於閻浮提広令流布は疑いなき事に侯、此の旨を相知り侯上は如何様の僧貫主となると
  も相承伝受候上は、生身釈迦日蓮たるべきこと開山の御本意一門徒の肝要にて御座候
  (富要5−P271)

と云い、日舜師を「生身釈迦日蓮」とするのである。
 大石寺歴代諸師において貫首絶対思想を展開したのは大石寺教学を大成した日寛師その人
であった。日寛師は「當家御法則文抜書等」において、

  日蓮聖人御入滅有りて補処を定む、其の次々々に仏法を相続して当代の法主の処に本尊の
  体有る可きなり。此の法主に値ふは聖人の生れ替りて出世し給ふ故に生身の聖人に値遇し
  結縁して師弟相対の題目を声を同じく唱え奉り、当代聖人の信心無二の処こそ生身の御本
  尊なれ。此の御本尊を口には云えども身に行ぜず能くよく本尊を取り定む可き也。釈尊聖人
  互為主伴したまふなり云々。(研教9−P740)

  持経者は又当代の法主に値ひ奉る時本仏に値ふ也。成仏の難きに非ず此経を持つの難き
  也。只知識に値ひ此の経を持つ処が本仏に値ふ也。(研教9−P748)

として、日教師の著述に見られる貫首絶対思想が記されている箇所を引用しているのである。こ
れは云わば日寛師が日教師の貫首絶対思想を継承しているということを意味しよう。

[この稿、続く]

34直人:2004/05/30(日) 19:47
>>33の続き

 また、日寛師は「当家三衣抄」において、

  南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首開山付法南無日興上人師、南無一閻浮提座主
  伝法日目上人師、嫡々付法歴代の諸師。此くの如き三宝を一心に之れを念じて唯当に南無妙
  法蓮華経と称え乃ち一子を過ごすべし(宗全4−P126)

と云い、大石寺歴代諸師に対して「一心に之れを念じて唯当に南無妙法蓮華経と称え乃ち一子を
過ご」せとするのである。かかる思想は「血脈附法の貫首に背いて題目を挙げても無益」という
思想につながると云えよう。
 ところで、松戸行雄氏は『人間主義の「日蓮本仏論」を求めて』において、

  「血脈相承の法主への信がなければ、題目をあげても功徳がない」という威嚇的で、幼稚な主
  張に至っては、あきれるばかりである。理論的根拠が全くない珍説であるばかりではない。
  (『人間主義の「日蓮本仏論」を求めて』P14)

と云うのであるが、松戸氏が云うところの「威嚇的で、幼稚な主張」は日寛師の学説に求めること
ができるのである。しなし、当然のことながら、かかる日寛師の学説が宗祖・日興上人に見られな
い以上、日寛師の学説は己義でしかない。この点については松戸氏も、

  今回の宗門問題の根源は、教義上、つまり思想的には、期せずして、この奇怪な「法主血脈
  絶対論」・「法主本仏論」に代表されると思う。宗門が大聖人の民衆救済の精神を忘却してい
  るとか、大聖人の教えから逸脱しているだけではない。伝統的宗門教義そのものに問題の所
  在があると理解すべきなのである。(『人間主義の「日蓮本仏論」を求めて』P15)

と述べている如くである。しかし、だからとて、創価学会の正統性が認められるわけではない。なぜ
なら、「威嚇的で、幼稚な」「大聖人の教えから逸脱している」貫首絶対思想を現代に蘇らせ、創価
学会の教義としてきたのは戸田城聖氏であり、池田大作氏であるからである。
 戸田氏、池田氏の貫首絶対思想に関する発言を挙げると次の如くである。

  どなたが新しく猊座に登られようとも、学会会長として、私は水谷猊下にお仕えしてきたのと、
  いささかも変わりはない。新猊下を大聖人としてお仕え申しあげ、広布への大折伏にまっすぐ
  進んでいくだけである。 (『論文集』P346)

  遣使還告であられる御法主上人猊下は日蓮大聖人様であります。(『会長講演集』10−P43)

 近年、創価学会は日蓮宗教学を摂取しているが創価学会教学の根幹をなすものが日寛教学であ
る以上、いかに日蓮宗教学を摂取しようと異流義から脱却することはできない。日寛教学から脱却し
てこそ宗祖の原点に還る道が見えてくるのではないだろうか。

35直人:2004/06/01(火) 19:41
■宗史雑書
 
 今日の大石寺教学の理論体系を大成したのは云うまでもなく日寛師である。しかしながら、大石
寺教学の特徴でもある「宗祖本仏思想」「唯授一人血脈思想」の根源は大石寺僧ではなく、日順師
(重須学頭)によって形成されたものである。このことは『大石寺教学の研究』に譲るが、日順師の
学説については『大石寺教学の研究』では考究を尽くせなかった。したがって、日順師の学説は今
後の研究課題となった。日順師の学説については執行海秀先生が『興門教学の研究』において考
証されているが、私は執行先生とは別な観点−形成史、すなわち、その学説はいかなる理由によ
って形成されるに至ったのか、という観点から考証するものである。
 それにしても、
  
  伝統的正宗教義の「日蓮」即「久遠元初自受用身」という「日蓮久遠本仏論」は、遠く日興上人
  の弟子である三位日順にまで遡るようである。(『人間主義の「日蓮本仏論」を求めて』P167)

として、日順師の学説をそのまま大石寺教学と考える人がいるが、日順師は大石寺と直接関係が
ないことを把握すべきである。なぜなら把握しなければ「本尊書写は附弟一人に限る」という本尊論
とて誤解するであろうからである。
 例えば、日妙師、日満師、日代師、日大師、日郷師といった興門諸師が本尊書写を行っているこ
とを挙げて上代大石寺には唯授一人血脈思想はなかったと考える人がいるが、何れも大石寺と直
接関係がない、或いは、独立し教団(門流)を形成した諸師であって、これら諸師の本尊書写を以っ
て大石寺批判をしても正鵠を射ているとは云えまい。かかる批判の根源は、

  ○宗祖は日興上人にのみ血脈相承をした
  ○大石寺は日興門流の総本山的存在
  ○ゆえに大石寺こそ宗祖の正統門流

という思考、つまり大石寺歴代諸師のみが本尊書写を行うべきであるのに他の興門諸師が本尊書
写を行うのはおかしいのではないか、という思考によるものである。
 しかし、唯授一人血脈思想の根幹をなす二箇相承が偽作である以上、唯授一人血脈思想が宗祖
の本義であるとすることは許されないが、興門教学においての唯授一人血脈思想、とりわけ「本尊
書写は附弟一人に限る」という本尊論はあながちに否定されるべきものではないように思う。それは
日尊師が「尊師実録」において、

  富士門跡は、付弟一人を書写し奉る由、日興上人御遺戒也云云、其の故は法燈を賞め以て根
  源を立てんが為なり云云、之に依て本尊の銘に云く、仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提
  内未曾有大曼荼羅也云云、予も又此の義を存ずる之所、日興上人御入滅後、一門跡に面面争
  論出来、互に偏執を成し邪論を起して、人人面面に之を書写し奉る云云、然れば則ち仏意は測
  り難く聖意恐れ有り所詮吾が一門に於ては、本義の如く一人之を書写し奉るべきか云云
  (宗全2−P418)

と述べていることによるものである。「吾が一門に於ては」とあることから「富士門跡」とは日興上人
の流れを汲む各門流をさすもの、と解すべきであると思うからである。
 例えば日郷師は1344年に本尊書写を、日大師は1364年に本尊書写を行っている。しかしながら、
日郷師は1335年に大石寺を退出し小泉久遠時、保田妙本寺を建立し日郷門流を形成しているし、
日大師の本尊書写は日尊師寂後20年を経てからであり、日尊師の後継者である日大師が本尊書
写をしても何ら問題あるまい。
 興門諸師を一括りにして大石寺と関連づけるのは正しくないように思う。それにしても、よく考えて
みると今日の大石寺教学というのは大石寺独自のものはほとんどなく、興門他山の思想によって形
成されていると感じるのは私だけであろうか。

36直人:2004/06/07(月) 19:31
>>35の補注

 「唯授一人血脈相承」思想の根幹をなす二箇相承が後代の偽作である以上、唯授一人血脈
相承思想にもとづく「本尊書写は附弟一人に限る」という本尊論が宗祖の本義であったとするこ
とは許されない。むしろ、上代においては誰もが本尊書写を行っていた。

  日向上人(歴代集成22)
  日朗上人(歴代集成23〜27)
  日常師(歴代集成16〜17)
  日高師(歴代集成18〜21)

 真実、大石寺が云う如く、宗祖が日興上人にのみ血脈相承したのであれば、当然、本尊書
写も日興上人一人に限られるであろうし、そうであれば、釈迦一体仏に対して批判した日興上
人であるから、当然、他の諸師が本尊書写を行ったことについて批判しているはずであるが、
そのような史実はない。

  一、 本尊書写の事 尊仰せに云く、大聖人御遷化の刻六人の老僧面面に之を書写し給へ
  り、然るに異議は無く其の後は面面末流、初心後心、戒行の有無、曾て以て之を糾明する
  事無し、面面に之を書写云云、此れ等の次第且は法滅の因縁か五人方は且く之を閣く富
  士門跡は、付弟一人を書写し奉る由、日興上人御遺戒也云云(宗全2−P418)

 「尊師実録」の「本尊書写の事」を読んで思うに、誰人もが本尊書写を行うようになり、それは
法滅を招くだけでなく、本尊軽賤につながる恐れさえある。そこで、日興上人は興門においては
「附弟一人に限る」としたものではないだろうか。つまり、「附弟一人に限る」という本尊論は日
興上人が《本尊軽賤回避策》として形成したものであって、「尊師実録」に「六人の老僧・・・異議
は無く」とある如く「附弟一人に限る」という本尊論は決して宗祖の本義ではない。
 しかし、興門教学という観点から云うならば、「本尊書写は附弟一人に限る」という本尊論は一
種の妥当性があると云えるかもしれない。
 なお、かかる本尊論は大石寺独自のものではなく、興門諸山に共通するものである。『本門宗
宗制』には次の如く記されている。
  
  第二十八條 曼荼羅書写及開眼は現貫首に限る(『本門宗宗制』P8)

 結局、「聖人教学」「日興教学」「興門教学」という如くに分類した上で考証することが大事なの
だと思う。

 ※本門宗=北山本門寺、西山本門寺、京都要法寺、伊豆實成寺、上野妙蓮寺、小泉久遠寺、
        保田妙本寺

37直人:2004/06/22(火) 19:44
■宗史雑書(2)
 〔初期興門における本尊思想について〕

 日興上人の著述には一見すれば造像を厳誡されているように思える文もあれば、その一方で
造像を認めている文もある。川名義博氏は「日興における本尊論の一考察」において、

  第一に、『原殿御返事』等にみられるように釈尊と四菩薩の木像及び曼荼羅とを共に本尊
  としているもの。
  第二に、『富士一跡門徒存知事』に見られるように、釈尊と四菩薩の木像を本尊と認めず、
  曼荼羅を正意の本尊としているもの。(『日蓮教学研究所紀要』23−P81)

と云い、

  この『富士一跡門徒存知事』に見られる教義内容は、先に挙げた『与波木井実長書』『原
  殿御返事』と比較すると、仏像造立を明確に否定している点で、矛盾していることが解る。
  (『日蓮教学研究所紀要』23−P84)

と云うのである。しかし、川名氏の考えは正しくないように思う。確かに「富士一跡門徒存知事」
には、 

  日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず
  (宗全2−P124)

とあって、この文だけを読めば日興上人が仏像を本尊とすることを誡められた、ととれるであろう。
しかし、「富士一跡門徒存知事」はまず五老僧の立義を批判した上で「日興が云く」となっている。
上記の文は五老僧の立義とされる文に、

  五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那
  等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、而る間盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は
  普賢文殊を脇士とす(宗全2−P124)

とあって、ここで云う「釈迦如来」とは上行等の四菩薩を脇士としたものではなく「普賢文殊を脇士」
としたもの、脇士を欠いた釈尊一体仏である。日興上人が批判された仏像はあくまでも上行等の
四菩薩を欠いた釈尊一体仏や文殊普賢を脇士とした仏像であった。
 日興上人は「原殿御返事」において、

  日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来(中略)大国阿闍梨の
  奪い取り奉り候仏の代わりに其れ程の仏を造らせ給えと教訓し参らせ給いて、固く其の旨を
  御存知候を、日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わばさも候いなん、それも
  その仏は上行等の脇士もなく始成の仏にて候き、その上其れは大国阿闍梨の奉取候ぬ、な
  にのほしさに第二転の始成無常の仏ほしく渡らせ給へ候べき、御力不契給御子孫の御中に
  作らせ給仁出来し給ふまでは聖人の文字にあそばして候を御安置候べし(宗全2−P172)

と述べている。ここで日興上人が批判されているのは波木井実長が造立しようとした仏像が脇士
のない一体仏であったからである。ゆえに、日興上人は上行等の四菩薩を添加すべしであると述
べているのである。

  仏は上行無辺行浄行安立行の脇士を造副進せて、久成之釈迦に造立し進せ給べし
  (宗全2−P169)

38直人:2004/06/22(火) 19:46
>>37の続き

 このように日興上人には造像思想は明確に認められるのである。それは日興上人の弟子の
本尊思想からも明白である。
 日順師は「本門心底抄」において、

  広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや仏像を安置することは本尊の図の如し
  (宗全2−P346)

と云い、日代師は「宰相阿闍梨御返事」において、

  仏像造立の事、本門寺建立の時也(宗全2−P234)

と云い、日尊師は「尊師実録」において、

  日興上人の仰せに云く(中略)広宣流布の時分まで大曼荼羅を安置し奉る(宗全2−P419)

と云い、仏像本尊は広宣流布が成され戒壇が建立されたときであるとするのである。それ以前は
大曼荼羅を本尊とすべしというのが日興上人の基本的な立場であった。しかし、広宣流布が成さ
れていない場合でも条件付きで造像を認められた。すなわち「五人所破抄」に、

  執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ
  (宗全2−P83)

とある如くである。かかる思想は「尊師実録」にも見られる。

  予が門弟相構て上行等の四菩薩相副ひ給へる、久成の釈迦略本尊、資援の出来、壇越の
  堪否に随て之を造立し奉りて広宣流布の裁断を相待ち奉るべき也(宗全2−P420)

 日尊師は仏像に執着する信徒にはその造立費用を捻出できる場合にのみ仏像の造立を認める
と云うのである。これは「五人所破抄」にみられる日興上人の教説に基づいたものである。
 日興上人の本尊思想は造像は基本的に広宣流布の時、それ以前は大曼荼羅であるが造立費
用があり一尊四士を造立することができるのであれば認めるというのが日興上人の本尊思想であ
る。したがって日興上人の著述に見られる本尊思想というのは次の如く考えるべきである。

  「五人所破抄」「富士一跡門徒存知事」は、脇士のない釈尊一体仏、文殊普賢を脇士とした
  仏像を批判されたもの。
  「與波木井実長書」「原殿御返事」は、造像する場合は上行等の四菩薩を添加すべしと教示
  されたもの。
  
 日道師は「御伝土代」において、

  脇士無き一体仏を本尊と崇るは謗法の事
  小乗の釈迦は舎利弗目蓮を脇士となし、権大乗迹門の釈迦は普賢文殊を脇士となす、法華
  経本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士となす(宗全2−P255)

と云い、釈尊一体仏や文殊普賢を脇士とした仏像を「謗法」とは位置づけても一尊四士の造像を
「謗法」としていない。むしろ、日道師の本尊思想は日興上人と同じように上行等の四菩薩を添加
した一尊四士を認めるという立場であったことが「御伝土代」の文から窺うことができるのである。
 かくの如く造像、すなわち一尊四士は決して批判されるべき本尊義ではない。むしろ、日興上人
の著述を曲解し日興上人に造像思想はなかったと嘯く今日における大石寺門流の本尊義こそ批
判されるべき本尊義なのである。

39空き缶:2004/06/23(水) 00:37

 直人さん、お久しぶりです。

 ご投稿を閲覧させていただき感じることは、大石寺の歴代貫首の中で日興門流上代諸師の本尊思想に最も近いのは、日精師の「随宜論」のようですね。

40直人:2004/06/23(水) 02:08
空き缶さん、こんばんは。

>日精師の「随宜論」

 「随宜論」の存在は知っていますが、「随宜論」は『富士学林教科書研究教学書』『日蓮正宗
歴代法主全書』に所収されておらず読んだことがありません。しかし、日精師に造像思想が見
られることは「石要関係」に記されているように明らかですね。
 日精師の造像思想は《仏像不造》という大石寺教学から云えば問題かもしれませんがしかし、
興門教学という観点から云うならば日精師の造像思想は批判されるべきではないと考えます。
 結局、大石寺教学が上代興門教学と異質ゆえにこうした問題(日精師の造像は謗法云々)が
起こっているのでしょうね。
 仮令、日寛師が大石寺教学の大成者であっても所詮は日興上人や上代諸師の教説とは異
質なものであって、日寛師の学説が正しく興門教学を伝えているとは云えませんね。大石寺は
「祖道の恢復」を掲げているわけですから、いい加減、日寛教学から脱却して原点に還ってみ
ればよいと思うのです。

41空き缶:2004/06/23(水) 02:40

直人さん、返レスありがとうございます。

「随宜論」は大石寺からいわせれば「当座前の書」ということで、歴代法主全書第2巻には収録されていないようです。

日蓮正宗聖典や富士宗学要集などを含め、確かに既刊書籍には不掲載のようですね。よっぽど大石寺教学にとって不都合なんでしょう。

「随宜論」ですが、最も安価な書籍では、創価学会系の海賊誌「地涌からの通信」第5巻の巻末に全文が収録されています。原文と通解の両方が掲載されており、読みやすかったです。

直人さんには、是非ご一読いただければと思います。

42直人:2004/06/23(水) 22:08
空き缶さん、こんばんは。

>歴代法主全書

 『日蓮正宗歴代法主全書』は当初、30巻くらい刊行する予定だったそうですが、7巻までしか
出ていませんね。8巻は宗内の一部の人が持っているようですが。

>大石寺教学にとって不都合なんでしょう。

 不都合を敢えて公開したのが堀日亨師でした。『日蓮宗宗学全書』第2巻に「家中抄」を掲
載して欲しいと日蓮宗から注文がついたようですが、やはり不都合な記述があるためか掲載
を見送りました。しかし、後年、『富士宗学要集』において公開していますね。今の大石寺に
堀師のような人がいればまだよいのでしょうが。

>創価学会系の海賊誌「地涌からの通信」第5巻

 『地涌からの通信』って大石寺門徒に嫌われていますね。ちょっと引用とかはしにくいかな
って感じますね。興門資料刊行会さんが出版してくれればよいのですが。とりあえず探して
読んでみます。

43直人:2004/06/24(木) 07:59
>>37の補注

 ところで、「富士門家中見聞中」には、

  日興御さくの釈迦一そん一ふく(富要5−P213)

とあって、日興上人が造像したことを伝えている。しかしながら、この記述は正しくない。なぜなら、
日尹師は「日代上人に遣す状」において、

  富士門流ども、出家在家の人来て難じて云、凡そ聖人の御代も自ら道場に仏像造立の義無
  し故〈日興〉上人上野〈日目〉上人の御時も造立無きをや(宗全2−P408)

と伝えているからである。造像思想が明確に認められる日興上人であるが、日興上人は広宣流
布が成されるまでは大曼荼羅を安置するという立場であったから、信徒には条件付きで造立を
認めても自らは造立しなかったものであろう。
 「釈迦一そん一ふく」が釈尊一体仏でなく四菩薩の添加された一尊四士であったならばその
造立者はおそらくは日道師であったと思う。それは、「五人所破抄」伝日時本には「執者尚強欲
致帰依須加四菩薩敢勿用一仏」の十八字がなく、上代と比べて造像思想が比較的薄まってい
ること、日時師の時代には大石寺門流においても宗祖本仏思想が形成されていたと思うからで
ある。とすれば、造立者は日道師・日行師の何れかということになる。日行師の本尊思想は今
日の史料からは窺えないが、しかし、日道師の本尊思想は日興上人と同様に一尊四士を認め
ており、日道師が一尊四士を造立したことは考えられるのである。それを日精師が日興上人の
「御さく」とすることによって自身の造像思想の正当化を図ったものかもしれない。
 ただ、「日代上人に遣す状」は日道師寂後三年の文書であるが、《蓮興目尊…》という日尹師
の系譜からすれば、大石寺日道師の本尊義に言及していなくとも当然と云えよう。

44直人:2004/06/26(土) 10:36
■宗史雑書(3)
 〔西山本門寺の本尊について〕

 西山本門寺は日興上人の弟子・日代師が康永二年に開創した寺院である。現在、西山は何れ
の宗派にも属しておらず、単立である。
 西山の宗教組織には松本修明氏らによって形成されている本地本門法華宗(東京布教所、相
模原布教所、承興寺)、岡田日産氏の妙法顕正会が挙げられる。本地本門法華宗は平成四年、
『正統血脈えの手引き』と題する小冊子を出している。内容は「御本尊七箇相承」七箇条以降の
文を依文として大石寺門流の本尊を批判したものとなっている。
 松本氏は「御本尊七箇相承」は「円融大曼荼羅口決」という西山の相伝書の一部が流出したも
のであると云う。

  『御本尊七箇相承』を引用していますが、これは、当山の秘伝書『円融大曼荼羅口決』の一
  部が流出してできた相伝書です。(『正統血脈えの手引き』P4)

 「円融大曼荼羅口決」は『本尊論資料』にも掲載されておらず、その全容は定かではない。しかし
仮に、松本氏の云う如くであるとすれば西山の相伝書と伝えられる「円融大曼荼羅口決」にも「御
本尊七箇相承」七箇条以降の文と同文が記されていることになる。
 では、西山歴代諸師はその相伝の如く本尊を書写しているのであろうか。『日蓮聖人門下歴代
大曼荼羅集成』には日代師・日任師・日心師の書写本尊が収録されているので、歴代集成と松
本氏の主張を対比してみる。
 松本氏は、

  当山では、歴代書写の曼荼羅には、必ず、日蓮在御判の左右に 正附法日興上人・正伝
  灯日代上人 法脈正統○○世と書写されています。(『正統血脈えの手引き』P5)

と云い、大石寺歴代諸師の本尊には「嫡嫡代代」が記されていないことを批判している。しかしな
がら、日代師は、

  日興上人傳燈法師日代(歴代集成62)
  傳燈日代(歴代集成63)

と記し、日任師は、

  傳燈日任(歴代集成82〜83)

と記し、日心師は、

  日心
  日興上人日代上人末流
  (歴代集成165)

と記して、「正附法日興上人・正伝灯日代上人」とは記しておらず、書写法も一貫性が見られない。
松本氏は西山五十世・日正師の本尊図を挙げており、ここには確かに松本氏が云う如く記されて
いるのであるが、上代・中世の西山歴代諸師に松本氏が云う如く書写されていない以上、そうした
書写法はおそらくは近代になってからであると思う。これは西山だけでなく大石寺にも云える。阿
部日顕師は「六十七世 日顕」と記しているが、日寛師は「日寛」と記して「二十六世 日寛」とは記
さない。中世で「寺名・○○世」が確認できるのは、重須九世・日出師が「冨士山本門寺九代」(歴
代集成185)と記しているくらいである。
 ところで、松本氏は、

  六老僧の中で日興上人だけが、主題の下に『日蓮在御判』と書写されています。又、石
  山第三祖日目上人から日郷上人宛に授与された曼荼羅(小泉久遠寺)(御本尊・御本尊
  図十頁掲載)日蓮上人とあり、日蓮在御判も日興上人の名も欠落しています。これは、明
  らかに日目上人に血脈相承がなかった厳然たる証拠ではありませんか。
  (『正統血脈えの手引き』P4)

と云うのである。しかし、この考えは正しくない。日興上人の本尊にも「日蓮聖人」と記したものや
在御判を欠いた本尊が多数存在するからである。松本氏の論理に基づけは日興上人も血脈相承
はなされなかったということになり、日興上人の流れを汲む西山の根幹も揺るぐものともなる。
 私は「御本尊七箇相承」は後代の偽作と考えている。そのことは『大石寺教学の研究』所収「御
本尊七箇相承の考察」に述べておいた。「御本尊七箇相承」が後代の成立である以上、「御本尊
七箇相承」の文と合わない本尊が多々あっても何ら不思議ではない。偽書を依文として批判して
も何ら意味をなさないばかりか、時にはその批判が自宗の批判につながることもある。これは西山
だけではなく何れの門流にも当てはまることである。
 西山の本尊書写に関する相伝は不可解なものがある。それは、日心師の書写本尊(歴代集成
165)は諸尊の欠落が著しいこと、万年救護本尊と称される建治二年二月五日の本尊(歴代集
成9)、日代師・日任師・日心師の書写本尊、何れも書写方が一定していないからである。

45オスカー:2004/06/26(土) 11:43
 西山本門寺の本尊
直人さんの言われるとおり西山本門寺の本尊書写は一貫性に欠けています
私の手元に西山末の某寺の本尊の写真がありますから、その一例を挙げますと
十二代日建承認は左手に日興日代上人末流、十三代日春上人は左手に日興日代、十四代日悟上人は左手に日興上人日代末弟
十六代日映上人は日蓮在後判の左手に日興日代聖人、十八代日順上人は日蓮在御判
の右手に本化血脈日興聖人、左手に傳燈日代聖人と各本山の書写と大差はないのが
伺えます。

46直人:2004/06/26(土) 19:29
オスカーさん、はんじめまして。

 興味深いご教示ありがとうございます。>>44-45に挙げられた西山歴代諸師は一幅とて同じに
本尊書写をしていないということになりますね。それでは一体、西山は本尊書写に際して何を親
本として本尊書写をしているのでしょうか。
 大石寺は本門戒壇之大御本尊と称される板曼荼羅を書写していると云いますが、明らかに板
曼荼羅を書写していない本尊があるように、本尊書写法が一貫していないのは興門諸山に云え
ることかもしれませんね。

47オスカー:2004/06/26(土) 22:42
 富士門流諸本山の歴代諸師は誰一人とっても、宗開両祖の御本尊を書写する
というよりも、先代の習いにおいて書写されたといっても過言ではないでしょう。
歴代諸師で宗祖の御本尊様を模写・謹刻をして安置されたのは、有名な日有上人
ですが、諸菩薩の勧請の位置が原本と見比べても明らかに、ズレています。
昔、妙蓮寺は開山日華上人に授与与えられた、弘安三年五月八日の形木御本尊が
旧檀家の家にあります。(現本能寺蔵)
石山の古刹寺院には、日興上人の板御本尊が多数現存し、今も本堂や客殿に安置
されていますね。

48直人:2004/06/26(土) 23:44
オスカーさん、こんばんは。

 私もオスカーさんと同じように考えています。ただ疑問なのは日興上人です。例えば正慶元年
十一月三日に書写された本尊(大石寺蔵、興本P362)の讃文には「如来滅後二千二百三十余
年」と記していますが、この讃文は宗祖に例が見られません。『日興上人御本尊集』を見たとき
思ったのは、日興上人は一体何をもととして本尊を書写したのかということでした。
 妙教寺客殿安置の本尊は日興上人の板本尊でしたね。

49直人:2004/06/27(日) 07:36
 重須歴代諸師の本尊を調べてみた。
  
  日妙師:日興上人御弟子(歴代集成49)
  日蔵師:日興上人日妙上人日恩上人(歴代集成77)
  日昌師:富士山貫主日興上人日妙上人日恩上人日蔵上人(歴代集成88)
  日浄師:日興上人御遺跡本門寺(歴代集成109)
  日国師:日興上人日妙上人代々上人御遺弟(歴代集成144)
  日耀師:富士山本門寺日興上人遺弟(歴代集成162)
  日出師:
          日興上人遺弟
      冨士山本門寺
           九代日出
      (歴代集成185)
  日殿師:富士山本門寺日興上人遺弟(歴代集成183)

 重須においても本尊書写法は必ずしも一貫していない。先代の本尊にならって書写されたも
のと思うが、しかし、必ずしも先代の本尊を厳密に書写しているとは思えない。

50オスカー:2004/06/27(日) 11:08
直人さん今日は
昔、西山の某師が言っていた事を思い出しました。
勧請をする際に諸仏・諸菩薩を眼前に拝しなければいけないと
興門諸山歴代の場合に菩薩と菩薩の間が交差しなく書写されて見やすいので
勧請が出来る、然し宗祖の場合、筆法全体が文字の運びに勢いが感じられる
観ずらい、なるほど、御本尊集の弘安年間の部門を見ると御文字が重なり、
それを謹刻したら原本通りにはいかないのが判りました。
日有上人の模写した身代わり本尊と比喩される、弘安三年三月日の通称師資伝授
の本尊は原本とあまりにも相違され謹刻された、いや原本通りにしたくても技術
がその当時の時代背景を見れば、いたしかたなかったんでしょうね。
日興上人は文字が太い書写をされていますので、謹刻もしやすく多数現存されて
います。妙教寺客殿・真光寺・妙光寺・保田妙本寺客殿・妙蓮寺客殿・石山内
各伽藍・妙泉寺・讃岐本門寺客殿・塔中・日向定善寺客殿、これらに今も興師
の板御本尊様は安置されています。

51直人:2004/06/28(月) 06:06
■宗史雑書(4)
 〔紫宸殿本尊について〕

 近年、大石寺において師資伝本尊と称される本尊は従来、紫宸殿本尊と称されてきた本尊であ
る。大石寺の本尊は大多数が非公開であるが紫宸殿本尊は『日蓮聖人真蹟の世界』『御本尊集』
によって知ることができる。
  
  弘安三年太歳庚辰三月日(安国八二)   同(註、大石寺所蔵)   同(註、富要8巻P178)
  (『日蓮正宗史の基礎的研究』P154)

  (紫宸殿御本尊と伝承す)弘安三年太歳庚辰三月日   総本山。(富要8−P178)

 つまり、立正安国会編纂『御本尊集』の82番が大石寺で紫宸殿本尊と称される本尊であると云
うのである。

  弘安三年太歳庚辰三月日(通称「紫宸殿本尊」)
  http://www.lbis.jp/gohonzon/082.htm

 ところで、紫宸殿本尊は尊門に伝わり、今なお要法寺の宝蔵に所蔵されているにもかかわら
ず、大石寺に所蔵されていると伝えられるのであろうか。

  ハ、宝蔵 天保十三年(一八四二)再建、宝形造・唐破風・土蔵形式。紫宸殿の曼荼羅、称
  徳符法の曼荼羅など各種霊宝、仏像などを収納。(『私たちの要法寺』P18)

 大石寺の所伝によれば、日有師は本門戒壇之大御本尊の身代わりとして紫宸殿本尊を模刻
している。

  日有上人は戒旦御本尊の御身替りの御本尊を模刻遊ばされたのは事実で、其の御本尊に
  は日有上人が署名を遊ばされている。(『悪書板本尊偽作論を粉砕す』P66)

  (弘安三年三月日紫宸殿の本尊を模刻し左の加筆を為す)文政二年乙丑十一月六日、九
  世日有判、須津の庄鳥窪の住持日伝に之を授与す、                 総本山。
  編者曰く一時天王堂に安置せしが廃堂の後宝蔵に在り、御身替り本尊と称して奇怪の伝
  説あるは近世の訛伝か(富要8−P194)

 弘安三年太歳庚辰三月日の本尊は本来、誰人かに授与された一機一縁の本尊であった。

  (1)右下隅に授与書の存したのを、截落した形跡がある。
  (『日蓮聖人真蹟の世界』上−P384/『御本尊集目録』P)

 弘安三年太歳庚辰三月日の本尊は上代から大石寺に所蔵されていたものである。授与書は
日有師が本門戒壇之大御本尊の身替りとして模刻した際に削除されたものかもしれない。この
時点では「紫宸殿本尊」とは称されなかったようである。それが後代にいたって要法寺の紫宸
殿本尊を模倣して弘安三年太歳庚辰三月日の本尊を紫宸殿本尊へと祀り上げたものであろう。
 
  一、蓮祖真筆大曼荼羅 三枚続 一幅
  弘安三大才庚辰三月日、紫宸殿之本尊と号す、伝に云く広布の時に至り鎮護国家の為に
  叡覧に入れ奉る可き本尊なり云云。
  昔、京都通用の節は此の本尊あるを聞かず若し実に然らば日精日寛等の師此れを挙げざ
  る理なし授与書なきを幸に文政年間に設けたる名なるべし(富要7−P49)

  同五年(一七五五)八月二十日六条中納言をもって御内覧の儀を要法寺に伝達せり(中
  略)その後、この盛儀を伝聞せる同富士の徒両度の由緒に憧憬羨望の情抑え難く、これ
  を模擬するに紫宸殿曼荼羅の称号を立つるものを出す。(『本宗史綱』P747)

 何れにしても要法寺で称するところの紫宸殿本尊と大石寺で称するところの師資伝本尊は
まったく別個の本尊であると思う。

52オスカー:2004/06/28(月) 14:44
要山の紫宸殿本尊 ?
私の手元に要山の紫宸殿本尊の形木を所持していますが、とても宗祖の図顕された
御本尊とは言い難い代物です。
書式は首題と四菩薩(善徳佛・十方分身諸佛)が文永式で、全体的に弘安式とも採
れるが、偽筆の可能性が濃厚でしょう。
石山の弘安三年太歳庚辰三月日の本尊は有師が模写され、板御本尊として今も現
存していますが、石山側は所持している寺院に対して、宝蔵に保管させて現法主
日顕上人の本尊と交換させていて、あまり目にする機会がないと思います。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/singyoji_mandara.jpg

53直人:2004/06/28(月) 18:45
オスカーさん、こんにちは。

 こうは考えられないでしょうか。宗祖の真筆かどうかは分からない、偽筆濃厚な本尊が要法寺に
存在していた、それが後代、紫宸殿本尊と称されるようになった。

  本山十五代圓智院日性師 後陽成帝仙洞御所講経の筵に侍るの節斯の本尊を掛け帝の拜
  覧に供せられ其の因みを以て、桃園天皇宝暦六年二月廿ニ日六條中納言を以て天覧に供し
  た故に是を紫震殿の曼荼羅と称する(『先徳遺風』P29)

 これによると要法寺において紫宸殿本尊と称されたのは宝暦6年以降のようです。要法寺に紫
宸殿本尊と称される本尊があるということが大石寺に伝わったことによって、大石寺は弘安三年
太歳庚辰三月日の本尊を紫宸殿本尊と称するに至ったものではないでしょうか。
 宝暦6年は通用もなくなっていた時代ですから、日志師の「昔、京都通用の節は此の本尊ある
を聞かず」という指摘も頷けるわけです。

  要法寺において紫宸殿本尊と称された時期−宝暦6年
  大石寺において紫宸殿本尊と称された時期−文政年間

 つまり、戸田城聖氏が云っていたような紫宸殿本尊は宗祖真筆本尊にはなく、紫宸殿本尊は
まず要法寺で称され、それが大石寺においても紫宸殿本尊と称されるに至った。要法寺は偽筆
濃厚な本尊を紫宸殿本尊と称し、大石寺は本来誰人かに授与された本尊(安国82番)を紫宸殿
本尊と称していると。

54オスカー:2004/06/28(月) 20:53
直人さん、今日は
まさに直人さんが言われる通り、要山日性師が御所で天覧を賜わり紫宸殿本尊
と称されるようになったと・・・
大石寺は授与書が抹消された本尊を要山に対抗して紫宸殿本尊と称していると。
大石寺は二十五世日宥上人の頃に多寶御所と大石寺が称していた事実があります。
伽藍の配置に二天門が菊の紋を配しており、不開門も勅使門とも言われています
ように皇室の影響を残し、弘安三年の本尊を紫宸殿本尊と称するようになったん
じゃないかなと思います。

55直人:2004/06/29(火) 19:33
オスカーさん、こんばんは。

 オスカーさんの書き込みは勉強になるところがあり有益です。大石寺が多寶御所と称していた
ことは初耳でした。大石寺は今も皇室の影響があるようですね。

  http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/PAPER/750/608.htm#1-2
  http://www2s.biglobe.ne.jp/~shibuken/PAPER/750/608.htm#1-3

 紫宸殿本尊ですが、『悪書板本尊偽作論を粉砕す』に次のようにありました。

  日有上人は戒旦御本尊の御身替りの御本尊を模刻遊ばされたのは事実で、其の御本尊に
  は日有上人が署名を遊ばされている。此れは今日大石寺の御宝蔵に納められてある。此の
  御本尊と戒旦の御本尊とは別である。重須日浄が「日有上人が未見未聞の御本尊を彫刻し
  た」というは日有上人の造立遊ばされた御本尊は大石寺秘蔵の他の御真筆御本尊によられ
  たものであるから此の御本尊は日浄が未見未聞の本尊だというのである。戒旦の御本尊と
  混同して考えてはならない。(『悪書板本尊偽作論を粉砕す』P65〜66)

 この文を読む限り、日浄師が云うところの「未見未聞の本尊」とは大石寺に所蔵されてきた弘
安三年太歳庚辰三月日の本尊を日有師が模刻したものであるようですが、弘安三年太歳庚辰
三月日の本尊には特にこれといった特徴はないはずですから、日浄師が「未見未聞」と云うとは
考え難く、一方、本門戒壇之大御本尊であれば脇書に「本門戒壇之願主弥四郎国重」云々とあ
り、こうした脇書は宗祖の他の本尊には見られないものですから、「未見未聞の本尊」とはやは
り本門戒壇之大御本尊をさすものと思いますが、オスカーさんはどのように思われるでしょうか。
 なお、私は弘安二年十月十二日の本尊を全否定するものではありません。

56オスカー:2004/06/29(火) 22:31
直人さん 今晩は
はい、石山は皇室との関わりを伝統の一部として大事にしています。
ご存知の通り、富士門流は第百八代の後水尾天皇の姫君であられた常子内親王
の帰依を受けてその姫君で在られた天英院殿は、三門・常泉寺の寺観を整えて
境内の諸堂宇を建立し、更に大聖人真筆の弘安四年四月二十五日顕示の僧日仙
授与の太幅の御本尊を納めています。(現在も常泉寺蔵)
天英院は二十五代日宥上人の養母でもあり、日宥上人の生国俗姓は不明である
のは皇室の縁者とも言われています。
後水尾天皇は後に法皇となり、肖像画には薄墨色の法衣と白五条の袈裟を纏わ
れた画像も存在します。
その頃に、多寶御所と石山が言われた由縁でしょうね

57直人:2004/07/01(木) 19:43
■宗史抜書(5)
 〔四菩薩添加について〕

 日興上人は「富士一跡門徒存知事」追加八箇条において四菩薩添加を「日興が義」として、四
菩薩添加を宗祖の立義としていない。このため宗祖の本尊義は曼荼羅正意であり、「日興が義」
とあるのは造像論者へ対する方便であると考える人がいる。
 宗祖在世の時代には一尊四士の造像はなされなかったようで、望月歓厚氏は「日蓮聖人の本
尊について」において次の如く述べている。

  身延に於ける「法華経・釈迦仏」の御宝前、「法華経の御宝前」「釈迦仏の御宝前」の表現
  は何れも、宗祖の一尊釈迦仏の御前に法華経十巻を安置した本尊相であると拝される。
  (『大崎学報』104−P19)

 宗祖は「神国王御書」において、

  其外小庵には釈尊を本尊とし一切経を安置したり(定本P892)

と仰せられており、明らかに釈尊一体仏を本尊としていたことが窺えるのである。宗祖滅後、各
門流が一体仏を本尊としたのもここにあったと云えるかもしれない。
 宗祖に四菩薩造立義があったことを伝える文献として富木常忍に宛てられた「四菩薩造立抄」
が挙げられるが本書は真蹟が存在しない。高橋粛道氏は「宗祖在世に一尊四士は造立された
か」において次の如く述べている。

  これを受けて(註、尤も今は然るべき時なり)在世に一尊四士が造られ、それが日常の『常
  修院本尊聖教事』に載せられたというのが身延の主張であるが、これほど重要な御書であ
  る四菩薩造立抄が聖教事に記載されていないのは奇異な感がする。それ以上に『常修院
  本尊聖教事』には「釈迦立像並に四菩薩 入御厨子」とあるのみで、「大聖人御供養」とな
  いのは日常の几帳面さから見て、当然法華寺の一尊四士は宗祖のあずかり知らない滅後
  に造立された感が強いのである。かりに宗祖の開眼供養によるものなら自門の名誉のため
  に「大聖人御供養」と記録したはずである。(『日蓮正宗史の研究』P74)

 宗祖滅後、各門流が釈尊一体仏を本尊としたのは宗祖が釈尊一体仏を本尊としていたことに
よるところが大きいと云えるし、かかる観点(聖人教学)から云えば釈尊一体仏を本尊とすること
が直ちに謗法になるとは思えない。けれども、波木井実長が借金してまで造像した例からも分か
るように造像には財力を要した。そうしてまで造像するのであれば釈尊一体仏ではなく四菩薩が
添加されたものが好ましいと日興上人は考えられたのであろう。それは「五人所破抄」から窺う
ことができるのである。

  日興が云く、諸仏の荘厳同じと雖も印契に依つて異を弁ず如来の本迹は測り難し眷属を以
  て之を知る所以に小乗三蔵の教主は迦葉阿難を脇士と為し伽耶始成の迹仏は普賢文殊
  左右に在り此の外の一躰の形像豈頭陀の応身に非ずや(宗全2−P83)

 宗祖は釈尊一体仏でも本尊として認められた(例、四条金吾)。けれども日興上人は造像は財
力を要するため造像するのであれば四菩薩を添加したものが好ましいと考えた。「日興が義」と
はそういう意味なのではないだろうか。
 「四菩薩造立抄」は中山が後年、四菩薩を添加した際に権威付けとして偽作したものではない
だろうか。その時期は「常修院本尊聖教事」が成立した永仁七年以降であろう。

58川蝉:2004/07/02(金) 09:51
直人さん精密な論考勉強になります。

「四菩薩造立抄」を親撰として思っていましたが、なるほど「日蓮聖人遺文辞典・歴史編 」にも「四菩薩造立抄」に真偽論がある事を記述いますね。


高橋粛道氏は「日常目録」を取り上げているだけで「日祐目録」にある一尊四菩薩像の記録については言及していないのですか?。

すでに御存知とは思いますが、山川智応博士「本門本尊論」の186頁には

《 「日祐目録」(本尊聖教録)には、
法華寺の方の「釈迦仏立像並四菩薩 厨子に御入」とあるが、
本妙寺の分として「釈迦仏立像並四菩薩 大聖人御供養厨子に御入」と書いてある。中山の本妙寺の方の一尊四菩薩は、大聖人が供養されたものである。大聖人がお造りになったものではないけれども、恐らく身延で大聖人の御供養・開眼を得て、太田殿が自分の本尊にせられたものに違いないとおもはれる。
常修院(法華寺)の方のは大聖人に関係がない、ということが証明できる。(取意) 》

と論じています。

59直人:2004/07/02(金) 19:53
川蝉さん、こんばんは。

 高橋氏は「宗祖在世に一尊四士は造立されたか」において、

  中山二世・帥日高も本妙寺に嘉元年中(一三〇三〜一三〇五)に造立したようで、それが
  三世・日祐の『法華本妙両寺本尊聖教録』の本妙寺分に見える。すなわち
    釈迦仏立像四菩薩大聖人御供養厨子御入
    已上本妙寺
  の箇所である。この本尊が「大聖人御供養」というのは全くの虚偽と思われ、帥日高が嘉
  元年中に造立したものであろう。以前には輔日高がどういう人か断定できず、松本佐一郎
  氏は「中山門徒の高師か祐師のことであろうと思はれる」(富士門徒の沿革と教義三六五)
  していたが、輔は帥の誤写であると指摘され(日顕上人『造像並に本尊に関する近来の異
  議について』大日蓮二百十号二一)、日高は中山二世の帥公であるとほぼ断定された。し
  たがって、本妙寺の一尊四士は帥日高によって造立されたことが知れる。(中略)日祐の
  『本尊聖教録』は成立年代に疑義をはさむ人もいるがそれには
    「釈迦仏像並に四菩薩 厨子御入
    (中略)
    已上法華寺
    釈迦仏立像並四菩薩 大聖人御供養厨子御入
    打物題目、釈迦多宝二尊像
    並四菩薩像 各一体
    (中略)
    已上本妙寺」
  と記されている。つまり、『常修院本尊聖教事』にある一尊四士が、日祐の『本尊聖教録』
  の法華寺分にあたり、本妙寺の一尊・両尊四士は日高によって新たに造立された
  (『日蓮正宗史の研究』P71〜74)

と云い、「大聖人御供養」と伝えられる一尊四士は日高師の造立と考え、「富士一跡門徒存
知事」追加八箇条に富木常忍の記載がないのは「記載漏れ」ではないかと推測しています。
 宗祖在世の時代に一尊四士の造像がなされていれば、宗祖滅後、各門流において造像が
なされてもそれは一体仏ではなく、一尊四士でしょうから中山の一尊四士は日高師の造立と
も考えられなくもないのです。そうした場合、宗祖滅後、中山で四菩薩の添加が行われその
権威付けとして中山の僧侶が「四菩薩造立抄」を偽作したのではないかと考えれば辻褄が
合うように感じるわけです。
 それから、これは>>57を読み直して、書き入れるのを忘れていたことに気づいたことですが、
宗祖には一尊四士が見られますね(「報恩抄」)。けれども「日眼女釈迦仏供養事」等に見ら
れるように釈尊一体仏でも認めています。
 随身仏を久遠仏と拝し弟子檀那にも釈尊一体仏を認めていた宗祖ですが、戒壇堂に安置
する本尊は一尊四士と考えておられたものではないかと思います。それが「尊師実録」の「
本門寺の本尊造立記文相伝別に之有り」(宗全2−P420)というものではないかと。
 宗祖が弟子檀那に対して釈尊一体仏を認められたのに対して日興上人は造像するなら四
菩薩を添加した一尊四士にするべしだと云うわけです。ここに宗祖と日興上人の本尊間の決
定的な相違があるのでしょう。だから日興上人は「日興が義」としたものではないかと考えて
います。
 『本門本尊論』は未見ですが今度読んでみたいと思います。

60オスカー:2004/07/02(金) 20:35
 一昨年の、東京国立博物館で開催された大日蓮展で一尊四士が公開された
のは、宗祖在世の一尊四士像だと紹介されましたね。
 本化妙宗聯盟の本門本尊論入門にも、詳しく紹介されています。

61川蝉:2004/07/03(土) 15:59
高橋粛道師の著書忘れていましたが購入していました。

高橋粛道師は、

「四菩薩を添えるべきだと云う見解は日興上人の義であるから、日常の一尊四士は、日興上人が正応元年12月に原殿書に、四士を添えよと教示した以降に造られたものであろう(取意)」

としているようですが、「観心本尊抄」には四士を添えて寿量の仏を表すという教示がすでにありす。
興師に依らずとも、富木殿や太田殿などは 「観心本尊抄」により寿量の仏を表すには四菩薩を添えるべきであることは御存知であった事でしょう。
「四菩薩を添えるべきだと云う見解は日興上人の義である」という仮定そのものが成り立たないと思われます。

そこで、日興上人の原殿書以降を待つまでもなく、大田乗明殿が日蓮聖人に供養してもらった一尊四士像を持仏堂に祀っていたことは充分考えられます。日裕上人の「法華本妙両寺聖教録」に『大聖人御供養厨子に御入』との記は「全くの虚偽」と断定することは如何と思われます。

「富士一跡門徒存知事」について、山川智応博士は、「本門本尊論」に於いて、

《 富士門流においては、一尊四士の造立は、大聖人御時代にはなかりしものとするかの如くではあるが、白蓮日興師の「富士一跡門徒存知事」(宗学全書本)は、興師の正本が存在してゐない。・・
現存の「門徒存知事」は、聖滅141年応永29年の寫本が最古の底本で、その文には、下総の一尊四士弘通は、聖滅22年の嘉元元年以後とし、その弘通者を、大聖直弟の帥公日高その弟子大輔公日裕と、辨阿闍梨の弟子犬貳公日裕との三師を混濫して書かれてゐるのに考へると、この部分は後年の加筆と認めねばならぬやうだ。何となれば興師が、老耄の白痴とでもなられない限りは、大聖入御直弟の帥阿闍梨日高師の存生の頃に、『辨阿闍梨弟子輔公日高」などとは、決して書かれるはずは全くないからである。 》 

と指摘しています。
高橋粛道師が文証とする「富士一跡門徒存知事」の「追加八箇条」
は他門との対立意識が相当強くなってきた時分のものであるらしいので、「日興が義を盗み取って」の文が門流の交錯を正確に伝えるという見解は如何なものかと思われます。

62直人:2004/07/04(日) 09:07
オスカーさん、こんにちは。

 私は大日蓮展へ行ってないので知りませんでした。『本門本尊論入門』は早速、
読んでみます。

63直人:2004/07/04(日) 09:08
川蝉さん、こんにちは。

 私が疑問に思っているのは宗祖が「観心本尊抄」「報恩抄」において一尊四士義を展開されて
いるのに、「観心本尊抄」「報恩抄」撰述以降の成立である「四条金吾釈迦仏供養事」「日眼女
釈迦仏供養事」に、

  釈迦仏の木像一体(定本P1182)

  三界主教主釈尊一体三寸木像造立(定本P1623)

とあって、未だ一尊四士の造像がなされていないことはどうしたことだろうかと。弟子檀越に一
体仏を本尊とすることを認められ、宗祖も釈尊一体仏を本尊と崇められていたのが気になると
ころです。
  
  釈尊一仏本尊である。鎌倉の小庵の本尊は佐前佐渡身延を通じて変わらなかった宗祖の
  本尊であったのである。(『大崎学報』104−P10)

 もっとも「観心本尊抄」は富木常忍に宛てられたものですから、富木常忍が四菩薩を造立し
ようとして「四菩薩造立抄」が宛てられたことも充分に考えられますね。「四菩薩造立抄」を後
代の偽作としたのは軽率だったなと反省しています。
 けれども、「日代上人に遣す状」に、

  大聖人御記文に帝王御崇敬あって本門寺建立以前には遺弟等嘗て仏像造立すべか
  らず(宗全2−P408)

とあって、日代師は、

  仏像造立の事、本門寺建立の時也(宗全2−P234)

と云うのでしょう。宗祖が本尊とされたのは釈尊一体仏でしたし、弟子檀越が造立したものも
釈尊一体仏でしたから、一尊四士はおそらくは戒壇堂安置の本尊を云い、それ以外は釈尊
一体仏でもよいと考えておられたのではないでしょうか。

64顕正居士:2004/07/04(日) 11:51
直人さん。川蝉さん。

日興上人の『原殿御返事』に
http://nakanihon.net/nb/haradono.htm
「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候えども、
未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道御微力を以つて形の如く造立し奉らんと思し召し立ち候に、
御用途も候わざるに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代わりに其れ程の仏を造らせ給えと教訓し
参らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わば
さも候いなん。
それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に候いき、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ、
なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき。御力契い給わずば、御子孫の御中に
作らせ給う人出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候いしを安置候べし。いかに聖人御出世の
本懐南無妙法蓮華経の教主の木像をば、最前には破し給うべき」とあります。
1 久遠実成の如来の画像は一二人が書いたが、2 久遠実成の如来の木像は誰も造っていない、
3 随身仏は上行等の脇士も無い始成の仏である、4 南無妙法蓮華経の教主の木像は聖人御出世の
本懐である。要するに、「日蓮聖人御出世の本懐」は「南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来」
の「木像」の造立である。『本尊抄』に「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」に当る
のでしょう。
したがって日興上人の具象的の本尊観は三位日順師が述べるように、曼荼羅の諸尊を立体的に造立
することである。「画像は一二人書き奉り候えども」、絵曼荼羅でも一二人しか(合格のものは)
造れなかったのだから、「御力契い給わずば」、木像の造立には才能ある仏師を召集する人望、財力
がたいそう必要である。「来入末法始此仏像可令出現歟」とは東大寺盧舎那仏の造立のような盛儀で
あると考えたのではないでしょうか。だから「未だ木像は誰も造り奉らず候」は蓮祖在世に一尊四士
が造立されなかった意義には必ずしも読めない。「それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に
候いき」の「それも其の仏は」の語句からは、蓮祖在世に一尊四士の造立があっても変でありません。

65直人:2004/07/04(日) 12:24
顕正居士さん、こんにちは。

 私もおおむね同じように考えていました。ただ、大曼荼羅の木像化といってもすぐ
ピンとこないのですよね。それで便宜上、一尊四士と云っていました。

66川蝉:2004/07/04(日) 14:15
「日代上人に遣わす状」は、尹師は師日尊の像造に対する疑問を日代師に問い合わせた書状ですね。

尊師が以前には「興師は像造を誡めていた」と云っていたのに、ある人から立像釈尊と脇士十大弟子像を寄進を受けた。
そこで富士門流の僧俗が「形像を本尊として立て置くべきでない」と非難をよせた。
尊師の説明は
「形像を本尊として立て置くべきでないことは勿論であるが、観心本尊抄・報恩抄によれば曼荼羅本尊のごとく一切の大衆を造立すべきであるとの意が見える。宝塔末座の立像(一体仏)は高祖の本懐ではない。しかし一向に仏像造立を難ずるは、実に一辺の義である。
宝塔造立まで(曼荼羅のごとく造立すること)四菩薩だけを造り添え脇士とし、大曼荼羅の脇に立て奉ったのである。」
と云う説明であった。
伝説では、大聖人の御記文に「帝王が帰依し本門寺建立される以前には、仏像造立すべからず」とあるそうであるし興師も同様の見解と聞いているが、仏像造立についての実義はいかなるものか教えて頂きたい。という内容の書状ですね。


この「日代上人に遣わす状」の中に、
「大聖人の御代には富木禅門の造るところの仏像・・みな以て御開眼供養候い畢んぬ云々」と尹師は、富木殿の一尊四士像は日蓮聖人の開眼供養を受けたものと見ていますね。
また日大師の「日尊上人仰云」にも、尊師が、「大聖人の御代に真間富貴五郎入道常忍、ミソ木を給いて造立す(取意)」(宗全2−420)と、富木殿の一尊四士像は日蓮聖人の御代に造られたものとしていますね。

「日尊上人仰云」によると、尊師は一尊四士像を略本尊とし、資縁があれば造立してよいと云う見解ですね。(宗全2−420)。
国主帰依の暁の本門寺は曼荼羅の木像化が本尊造立についての記文相伝としていますね。(宗全2−420)。

ご指摘のように、日代師は、「日代上人に遣わす状」の返事「宰相阿闍梨御返事」に
「仏像造立の事、本門寺建立の時也」(宗全2−P234)
といっていますね。
これは、
「国主が帰依し本門寺建立の時に仏像造立することが日蓮聖人の本意であり、曼荼羅本尊図はその為めのものである。いま仏像を造立しても良いと云う見解は私的に戒壇をしても良い事になってしまう(取意)」(宗全2−P234)
ということで「仏像造立の事、本門寺建立の時也」と書いていますね。
「仏像造立の事、本門寺建立の時也」とは「曼荼羅の像造は本門寺建立の時である」と云う意味ですね。

日順師「心底抄」に
「本門の戒壇、其れ豈に立てざらんや。仏像を安置すること本尊図の如し」
とあること、また、
「日代上人に遣わす状」の中に見える尊師の「宝塔造立まで」との見解から推すると、日代師の
「御本尊図は其れが為めなり」(宗全2−P234)
とは、本門寺の本尊は曼荼羅の木像化と云う見解のようですね。

国主帰依して建立される本門寺の本尊は曼荼羅の木像化であって、今はまだ造立すべき時期でないと云う見解は尹師の師の尊師と同じですね。(続く)

67川蝉:2004/07/04(日) 14:17
(続きです)

ただし、「宰相阿闍梨御返事」に
「造立過無くんば、何ぞ大聖の時、此の仏に四菩薩十大弟子を造り副えられざらんや」(宗全2−P235)
とあるので、日代師は尊師と異なり、一尊四士の造立も否定していたようですね。

>「四菩薩造立抄」を後代の偽作としたのは軽率だったなと反省し
>ています。

とのことですが、真蹟が無いこと「日常目録」に題名が記されてないことから偽書説が出で来るようですが、内容的には親撰に思えますね。
「日常目録」と「日裕目録」とにある「御恋慕由事」。あるいは「日裕目録」の「本尊造立事」が 「四菩薩造立抄」であろうと云う見解があるそうです。

本化妙宗の高橋智遍居士は
「立像釈尊は嘱累総付の教主にして日蓮聖人の随身仏なり。大曼荼羅図顕後は前に法華経を安置しても本門本尊とはなりません。
現存遺文からは大曼荼羅図顕後はどのような形で立像釈尊を捧持されたかについて、確証がない(趣旨)」(本尊論正義112頁)
と論じていますが、四菩薩を添えていないけれども(形式は整っていないけれど)、日蓮聖人は、一体像を無始久遠仏として拝されていたのではないでしょうか。

顕正居士さん、こんにちは。

『原殿御返事』の分析、全く同感です。

68空き缶:2004/07/04(日) 23:36

 皆様お久しぶりです。

 ここのところの論議を、注意深く聴講させて戴いております。

 曼荼羅本尊のごときの造像と聞きますと、日蓮宗本山本遠寺の本堂内陣を思い浮かべます。
 ↓
 http://www.elnolte.ne.jp/ouno/naijin.html

 なお、「冨士門流信徒の掲示板」では、本遠寺本堂のような造像ではなく、曼荼羅本尊のごとき伽藍をもつものが「本門寺」ではないかとのご意見もあります。

 いずれにしましても、これまで御影と曼荼羅本尊だけの世界で生きてきましたので、仏像に関する皆様の議論より種々学ばせて戴いている次第です。

69直人:2004/07/04(日) 23:57
川蝉さん、こんばんは。

 懇切丁寧な解説ありがとうございます。そうしますと、「尊師実録」の、

  本門寺の本尊造立記文相伝(宗全2−P420)

というのは、大曼荼羅をいかに形像化するかということを記していたことが窺えますね。

  御本尊図は其れが為めなり(宗全2−P234)

  広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや仏像を安置することは本尊の図の如し
  (宗全2−P346)

 つまり、「大聖人御記文」(宗全2−P408)「本門寺の本尊造立記文相伝」にはどの大曼荼
羅をもとにして、いかに形像化するかということが具体的に記述されていたもの、と考えられ
ますね。
 
>一尊四士の造立も否定していた

 この文は史料を読み返しているときに気になりました。日代師は重須を付属されたとも伝
えられる人ですが、その日代師が日興上人の本尊観とは別なものであったのは興味深いも
のがあります。
 
>「本尊造立事」が 「四菩薩造立抄」であろうと云う見解があるそうです。

 やはりそうなのですか。「日祐目録」に「四菩薩造立抄」が記載されているか調べていたと
きにこれが目に付いたので、これかなとは思いましたが私はどうも日蓮宗のことには疎く、
言及を避けた次第です。

70直人:2004/07/05(月) 00:18
空き缶さん、こんばんは。

 本遠寺は2年ほど前に一度だけ行ったことがあります。某氏と勤行しましたが不慣れ
なもので〝今どこをやっとるん?〟と、ずっと思っていました。
 本遠寺時代・・・イヤなこともありましたが今となっては笑い話にしかなりません。
懐かしいな、っていうのが正直な感想ですね。

71川蝉:2004/07/05(月) 11:36
直人さん今日は。

曼荼羅の木像化の本尊もしくは一尊四士像は、国主が帰依した暁に建立される本門寺の本尊として造立されるべきものであるから、一国同帰が成就する前には、私的あるいはグループ的に、造立してはいけない。と云うのが日代師の考えのようですね。
本門寺の本尊は曼荼羅の木像化もしくは一尊四士像という相伝があったのでしょうね。

それにたいし、尊師は、そうではあるが、国主の帰依が未だ成就しない中でも、資力が有れば一尊四士像を造立して、個人的あるいはグループ的に拝しても良いではないかと云う鷹揚な考えだったのでしょうね。
富木殿や太田殿も鷹揚的な考えで造立したのでしょうね。

観心本尊抄から推すると、日蓮聖人は、一尊四士像を公的お堂の本尊にと云うお考えであったように思えますね。

「四菩薩造立抄」の冒頭部分に
「今に始めざる御志言を以て宣がたし。何の日を期してか対面を遂げ、心中の朦朧を申し披かん哉。」
とあるので、「日常目録」に記されている「御恋慕の由の事」が「四菩薩造立抄」であって、「真間釈迦仏御供養事。弘法寺に納められる」とある例もあるので、「御恋慕の由の事」も真間にでも移され紛失したのかも知れない。「日裕目録」にある「本尊造立の事」は「御恋慕の由の事」の写本で有るかも知れない。と推測されています。(塩田義遜教授説・日蓮聖人御遺文講義17)

空き缶さん今日は。

本遠寺の本堂内陣写真の紹介ありがとうございました。
身延山の仏殿納牌堂(650遠忌に建立されたお堂で、法事など行おこなうお堂で、私が在院していたころ、本堂がわりのお堂とされていました)の御宝前は、さらに曼荼羅の座配に近いものでした。

72空き缶:2004/07/05(月) 13:07

 直人さん、こんにちは。

 某氏とは坊氏のことですね。私はあまりよく知らないのですが、ついこのあいだ創価系の掲示板にて、同じスレッドにてカキコがありました。
 日蓮宗関連のことには詳しい方と思われますが・・・
 ところで直人さん、そろそろですね。「大石寺教学の研究」、この夏一番のお楽しみです。

 

 川禅さん、お久しぶりです。
 
 久遠寺の仏殿納牌堂の御宝前、初めてお聞きしました。ありがとうございました。
 話は脱線しますが、久遠寺に在勤されていた時に日向師の板曼荼羅は御覧になったことはありますでしょうか。
 実は某所では、この日向師の板曼荼羅の存在を持って、某所の板曼荼羅を真撰とする論議がありました。
 某所にて曰く、日興師が板曼荼羅(通称:本門戒壇之大御本尊)をもって身延を離山したために、日向師は代替の板曼荼羅を作成し秘仏とした、というのです。
 もし御覧になられたことがございましたら、その大きさや相貌など可能な限りでかまいませんのでご教示いただきたく存じます。

73川蝉:2004/07/05(月) 16:15
空き缶さんへ。

日向上人の板曼荼羅の有無についてまったく知りません。
お役に立たないですみません。

74空き缶:2004/07/05(月) 19:46

川禅さん、返レスありがとうございます。

日向師の板曼荼羅(通称:幽霊曼荼羅)は大石寺の堀日亨師の著作「日興上人詳伝」に出てきたのですが、あくまでも「秘仏」として扱っているようですね。

75空き缶:2004/07/05(月) 19:51

 すみません、川蝉さんの「蝉」の字を間違えていました。

 川蝉さん、大変に失礼致しました。謹んでお詫び申上げます。

76直人:2004/07/06(火) 02:16
川蝉さん、こんばんは。

 日尊師の本尊思想は日興上人の本尊思想と大きな差はないようですが、しかし、日代師
は日興上人の本尊思想よりさらに厳格な感がしますね。
 諸師に宗祖、さらに云えば日興上人の本尊義と異質な点があるところに興味深く感じました。
 興門の本尊義は今後(現在)の研鑽課題でしたので川蝉さんの御指摘は大変有益でした。
 今後とも御指導下さいますようよろしくお願い致します。

空き缶さん、こんばんは。

 私は最近、創価学会関係から手を引いていますのでその辺りのことはよく分かりません。
 日蓮宗のことはここ「大聖人門下掲示板」か「BBS-sangha」(大阪布教師会)で聞く方が
無難です。
 『大石寺教学の研究』は校正に手間取って予定より大幅に遅れていますがもうそろそろ
印刷所から出版社に回るころだと思いますし、出版社さんも7月末を予定としていますから
これ以上の延期はないはずです。
 来春あたりには『興門本尊の考察』でも出してみたいなと考えています。その後、日順師・
日教師・日寛師の学説について書いて『興門教学史』を出したいなと考えています。

77直人:2004/07/27(火) 01:19
■宗史抜書(6)
 〔日順師の学説について〕

 日順師の著述は宗祖本仏思想の見られるもの、宗祖本仏思想の見られないものに大別するこ
とができる。日順師は「表白」において、

  我朝は本仏の所住なるべき故に本朝と申し、月氏震旦に勝たり(宗全2−P317)

と云うのである。しかし、これより10年後日興上人の命によって日順師が執筆した「五人所破抄」
には、

  日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕(宗全2−P80)

とあって、《宗祖=上行再誕》が保持されており宗祖本仏義まで発展していない。執行海秀氏は
『興門教学の研究』において、

  本朝の本仏が直ちに日蓮本仏を表明するものか否かは明らかではない。久遠の本仏を本尊
  として戒壇を建立せんとする意が窺われる。(『興門教学の研究』P132)

と述べている。久遠実成釈尊を本仏本尊として日本国に本門戒壇を建立することによって「我朝
は本仏の所住なるべき」となると考えるのは穿った見方であろうか。これより8年後日順師は「日
順阿闇梨血脈」を著述しているが奥書の血脈系譜に、

  南無久遠實成釈迦如来上行菩薩後身
  日蓮聖人
  本門所傳導師日興上人
  (研教1−P277)

とあるのみで、本文からは宗祖本仏思想を見出すことはできない。堀日亨師は『富士日興上人詳
伝』において、

  この血脈は、順師の多くの遺編に似ず、全文宗祖本仏の香い芳しからず、いわんや、この血
  脈図においては、まったく上行日蓮で無相承家の説と遠からず(詳伝P300)

と述べている。血脈系譜は『富士宗学要集』では、
 
  南無久遠實成釈迦如来上行菩薩――後身日蓮聖人(富要2−P25)

となっている。この系譜に疑義をはさんだのが執行氏であった。

  ただ問題なのは(中略)南無久遠実成釈迦如来上行菩薩といい、その後身を日蓮聖人として
  いることである。ところで『富士宗学要集』の編者が「日心本の系線明ならず」とあるところから
  すると、これは原本には恐らく「南無久遠実成釈迦如来――上行菩薩後身日蓮聖人」とあった
  のではないかと思う。(『興門教学の研究』P129)

執行氏の「南無久遠実成釈迦如来――上行菩薩後身日蓮聖人」とする指摘は大石寺においても
認められている。高橋粛道氏は「三位日順師の著書」において次の如く記している。

  (南無久遠実成釈迦如来)      上行菩薩後身日蓮聖人(『日蓮正宗史の研究』P246)

 ところで、日順師は興国三年、「表白文(誓文)」を著し、

  本尊総体の日蓮聖人の御罸を蒙り(宗全2−P340)

と記している。宗祖を本尊視するこの記述は宗祖本仏思想を伝えるものであると云わざるを得な
いように思う。しかし、日興上人在世の時代、日興上人寂後数年の時点では未だ宗祖本仏思想
を伝える記述は見られない。これは換言すれば、日興上人に宗祖本仏思想がなかったことの証
左でもある。
 かかる推考が許されるならば、興門における宗祖本仏思想は「日順阿闇梨血脈」成立以降、
「表白文(誓文)」が成立するまで、すなわち、宗祖滅後55年〜61年の間に日順師によって創作
されたものであろう。

【註】
本稿には多々誤りがあるかもしれない。その場合は諸賢からの御批判を賜りたいと思います。

78川蝉:2004/07/29(木) 14:19
思いついた事を。

日順師の「表白」の
「我朝は本仏の所住なるべき故に本朝と申し、月氏震旦に勝たり」(宗全2−P317)
の意味するところは、直人さんの

>「久遠実成釈尊を本仏本尊として日本国に本門戒壇を建立するこ
>とによって「我朝は本仏の所住なるべき」となると考えるのは穿
>った見方であろうか。

と云う解釈に賛成です。

表白の「我朝は本仏の所住なるべき故に本朝と申し、」の文のすぐ前には
「請い願わくば此の法座に来臨影響の釈迦多宝・十方三世の諸仏・諸菩薩・諸天等・上行無辺等の地涌千界の大菩薩・・」
(富集宗義部1・11頁6行)
とあるし、
また「誓文」にも
「未曾有の大曼荼羅・所在の釈迦多宝十方三世の諸仏・・」
(富集宗義部1・28頁7行)
とあって、大曼荼羅本尊に釈迦多宝等が在すと云う考えがあります。

そこで、大曼荼羅が本尊とする法華信仰が行われている日本には本仏釈尊が常に来臨影響されていると云う考えを持っていたので「我朝は本仏の所住なるべき」と記されているのだろうと推測されますね。


日順師の「表白文(誓文)」の
「本尊総体の日蓮聖人」(宗全2−P340)
とは、一見、大曼荼羅全体を日蓮聖人 と拝する宗祖本仏思想の言葉のようにも見えますね。

しかし、「御本尊の中の日蓮聖人」の意に取れるとも思われます。

順師の「本門心底抄」を見ると、
「総体所顕の十界を互具の仮体と号するなり,所以に釈迦多宝・十方分身の諸仏の所在は仏界なり、上行無辺行浄行安立行等の四大士は本化の菩薩界なり、(中略)遍く之れを勧請して載せざることなし、此れ則ち善悪凡聖・大小権実皆悉く具足し擣シ和合の本門至極の大曼荼羅の故なればなり」(富集宗義部1・31頁6行)

とあって、十界勧請の大曼荼羅を「総体所顕の十界」と表現して居るようです。
各尊がそれぞれの界に所在しているのが十界勧請の大曼荼羅であると述べているわけですね。

日蓮聖人が大曼荼羅の中に所在されている事を示しているのが日蓮聖人の花押署名であると順師は考えていたのではないでしょうか。
そこで、「別しては本尊総体の日蓮聖人」と表現されたという解釈も成り立つと思われます。

「表白文(誓文)」の7年後の「本門心底抄」には
「神力別付の上行応化の日蓮聖人」(29頁7行)
とあり、また34頁4行には
「是れ我が弟子応に我が法を弘べし」等と天台の「下方を召し来る三義」をもって日蓮聖人の出現と戒壇建立必然を証しています。
ですから「本門心底抄」には日蓮本仏思想は見えないといえます。

もし「表白文(誓文)」の「別しては本尊総体の日蓮聖人」の言葉が、日蓮本仏を語るものならば、ほぼ7年後の「本門心底抄」にも明確に日蓮本仏思想が出ていて当然と思われるのに、日蓮本仏思想が打ち出されていませんね。

79直人:2004/07/29(木) 21:23
川蝉さん、こんばんは。

 川蝉さんから懇切丁寧なコメントをいただけると嬉しいですね。
 今回は主に「上代日興門流略史」(http://www.sincere.ne.jp/~naohito/nenpyou.html)の流
れに沿って書いていたので「本門心底抄」を見落としていました。>>77を投稿した後、「本門心
底抄」を引用すべきだったなと気づきました。それで「本門心底抄」を読み直し、成立は何時だっ
たかと調べたら「表白文」より後の著述でした。
 日順師は「本門心底抄」において、

  上行慶化の日蓮聖人(宗全2−P341)

と云い、「摧邪立正抄」(「本門心底抄」成立後1年)において、

  日蓮聖人は忝くも上行菩薩の慶化末法流布の導師也(宗全2−P358)
  
  富士の義に云く日蓮聖人は上行菩薩にて御座す(宗全2−P359)

と云うわけですから、「表白文」の一文を以って日順師を宗祖本仏論者であるとしたのは早計だ
ったな、と反省しています。
 日順師の寂年は文和三年・六十一歳説(「興門諸師略傳」宗全2−P11)と正平十一年・六十
三歳説(詳伝P660)がありますが、何れにしても「本門心底抄」「摧邪立正抄」は晩年の著述に
属するわけですから日順師に宗祖本仏思想があったとすることは早計でした。

80直人:2004/08/10(火) 23:39
■宗史雑書(7)
 〔創価学会における教学の変遷について〕

 創価学会は昭和5年11月18日に創立された。当時は創価教育学会と云い牧口常三郎氏の
価値論を教義としていたようである。牧口氏は尋問調書において次の如く述べている。

  問 創価教育学会の指導理念及目的は
  答 (中略)本学会の目的とする処は日本国民の一人でも多く本会に入会せしめて日蓮
  正宗の信仰を基礎とした私の価値論を認識把握せしめて、人生生活の安穏幸福を招来
  せしめるにありますが、価値論の教義的具体的指導理論は後で詳細に申上ます。
  (『牧口常三郎全集』[第三文明社]10−P185〜186)

 また、牧口氏は、

  私は正式の僧籍を持つ事は嫌ひであります。僧籍を得て寺を所有する事になれば、従っ
  て日蓮正宗の純教義的な形に嵌った行動しか出来ません。私の価値論をお寺に於て宣
  伝説教するわけには参りませんませんので私は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念
  に価値論を採り入れた処に私の価値論がある訳で、此処に創価教育学会の特異性があ
  るのであります。(『牧口常三郎全集』[第三文明社]10−P188)

と云うのである。「純教義的な形に嵌った行動しか出来ません」とは牧口氏が価値論を大石
寺教義とは異質なものであると認識していたことを如実に伝えるものである。牧口氏は重須
本門寺にも参詣していたと伝えられ(>>7 >>11)、牧口氏は価値論という自説を宣教できる
のであれば何処でもよかったのかもしれない。であれば、早川達道師が「あなたの考えは
日蓮聖人の教えとは違う」として牧口氏の重須入信を拒否(>>11)したのも頷ける。
 牧口氏の本仏観は如何なるものであったか断定し難いものがあるが、尋問調書において、

  正法、像法の二千年間を過ぎた所謂末法万年の時代で各勝手気儘に争ひに耽つて居
  るから「闘諍堅固の時」とも云ひ、又釈尊の教への全く消滅した時代でありますから「白
  法隠没」とも申しまして、濁悪雑乱の時代で又此の末法時代の初期五百年の間に法華
  経は弘まると予言されています。(『牧口常三郎全集』[第三文明社]10−P193〜194)  

と云うあたりは、宗祖本仏論者であったことを窺わせる。けれども、戸田城聖氏は昭和25年
11月12日、創価学会第五回総会において次の如く述べている。

  牧口先生なきあと、第二代会長も、いまだ空席のおりに、わたくしは釈迦の教法たる法
  華経を、当学会の指導理念としていたことが、わたくしの重大なる誤りであったことに、
  気がつきました。(『講演集』上−P44)

 これによれば、少なくとも戦後の数年間は日蓮仏教ではなく釈尊仏教を創価学会の教義
としていたようである。
 ところで、価値論は牧口氏の初版本と昭和28年、戸田氏によって補訂されたものがあり、
補訂版には、 
  
  釈迦滅後二千年においては、釈迦の法華経も、天台の理の一念三千も、その功能をお
  よぼさないのである。いかんとなれば、釈迦滅後二千年後の衆生は、本未有善といって、
  釈迦仏法にも他の仏にも、縁を結ばない荒凡夫の衆生であるからである。ここにおいて
  末法の本仏たる日蓮大聖人は、凡夫のお姿として末法に出現して、一切経の哲理をじ
  っと見つめられたのである。しこうして久遠元初の自受用身であり、上行菩薩の再誕で
  あることを自得遊ばすや、ここに一切衆生を幸福に導いてゆく本尊を出現せしめたので
  ある。(『牧口常三郎全集』[東洋哲学書院]1−P343)

とあるが、この記述は初版本には見られない。牧口氏の著書には僅かに宗祖本仏思想を
伝えるものがあるが、しかし、草創期においては本仏観は今日の如く確立していなかった
ものではないだろうか。真実、本仏観が確立していれば戸田氏が釈尊仏教を用いるとは考
え難いからである。

[この稿、続く]

81直人:2004/08/12(木) 06:20
>>80の続き

 創価学会における他教団批判は昭和22年頃から行われ、同年3月2日には法華宗獅子吼
会本部に青年部員が乗り込んで法論を仕掛けている。また悪質なところでは開催された国
柱会の講演会(於・読売ホール)において講演を妨害し、智学居士を悪罵したりしている。
 昭和26年、『折伏教典』が刊行されると他教団への批判は激しさを増してゆく。創価学会
は『折伏教典』において、

  今日末法の時は釈迦仏の時ではないのである。釈迦の法はもう死んだ法で何の利益
  もないのである。(『折伏教典』[昭和36年版]P99)
  釈尊出世の本懐である法華経でさえも、末法の今日にはまったく力がなく
  (『折伏教典』[昭和36年版]P136)

と云い、末法においては法華経は無益であるとして、

  釈迦の仏法は法華経二十八品であり、日蓮大聖人の仏法は「南無妙法蓮華経」の七
  字の法華経である。(中略)日蓮大聖人が末法の御本仏であらせられる
  (『折伏教典』[昭和36年版]P104)

と云い、宗祖を本仏とし、「釈尊脱仏・宗祖本仏」の立場から法華経二十八品を末法無益
とするのである。かかる教学理解は平成三年に創価学会が大石寺から破門されるまで一
貫していたものであった。
 平成七年、『大白蓮華』において池田大作氏と教学陣(斎藤克司氏、遠藤孝紀氏、須田
晴夫氏)によって「法華経の智慧」と称するてい談が行われている。『法華経の智慧』は宗
祖本仏が貫かれながらも、同書には、

  須田 大聖人は法華取要抄で、法華経は本門も迹門も〝釈尊滅後の衆生のために〟
  説かれたのであり、なかんずく〝末法の衆生のため〟であると結論されています。さら
  に末法の中でも〝大聖人御自身のために〟説かれたと仰せです。
  名誉会長 「釈尊滅後の衆生のため」「末法の衆生のため」。ここに「一切衆生のため」
  という法華経の慈悲がこめられている。法華経では「一切衆生の成仏」が仏の一大事
  因縁、すなわち、仏がこの世に出現した、最大で究極の目的であると説かれている。
  滅後の衆生、特に末法という濁世の衆生を救わなければ、その理想は叶えられない。
  だから滅後の衆生のための仏の教えを説かないはずがない。そのための慈悲の経典
  が法華経です。(『法華経の智慧』1−P62〜63)

ともある。釈尊の仏法が法華経二十八品であり、法華経が釈尊滅後の為に説かれたとす
るのであれば、「釈尊脱仏」「法華経末法無益」とすることは許されない。
 かつての『教学の基礎』には、

  大聖人は「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべ
  し」(御書一五四六㌻)と仰せになり、末法の現在では釈尊の説いた最高の経である
  法華経ですら成仏の法ではないことを明かされています。
  (『教学の基礎』[昭和61年版]P87)

とあったが、平成14年に再刊された『教学の基礎』には、

  法華経は釈尊滅後の衆生のために説かれた経典です。万人の成仏を実現するため
  には、仏が自分の在世において衆生を救うだけでは足りません。滅後の衆生のため
  に成仏の法を顕し、それを伝え、弘めていかなければなりません。法華経は、まさに
  滅後の救済を主眼とし、そのための法と使命と実践を説いたのです。
  (『教学の基礎』P71〜72)

とあって、従来の「法華経末法無益」から「法華経末法正意」へと変遷している。この記
述は『法華経の智慧』をうけたものであることは想像に難くない。
 「法華経の智慧」が完結すると、池田氏は教学陣(斎藤克司氏、森中理晃氏)と「御書
の世界」と称するてい談を行っている。さきに述べた如く池田氏は『法華経の智慧』では、
「法華経末法正意」を展開しているが、「御書の世界」では、

  名誉会長 御書は末法の経典です。大集経に「闘諍言訟・白法隠没」とあるように、
  末法は、釈尊の仏法の中で混乱が極まり、民衆を救う力が失せる時代であるとされ
  ています。(『御書の世界』1−P6〜7)

と云うのである。これは『法華経の智慧』における「滅後の衆生のための仏の教えを説か
ないはずがない。そのための慈悲の経典が法華経です」という発言と全く相反するもので
ある。

[この稿、続く]

82直人:2004/09/17(金) 23:51
〔宗史余話〕
 
 今ここに記すことは文献的論拠がなく云わば「素朴な疑問」であることを了承下さい。昨日、
西山の某師と対談してきたわけですが、彼の主張は次の如くでした。

  「百六箇抄」は「具騰本種本迹勝劣抄」(西山口伝書)のパクリであり、「御本尊七箇相承」
  は「円融大曼荼羅口決」(西山口伝書)の一部が流出したものである

 しかし、私としては一概に頷首できない。そもそも、両巻血脈抄は日尊門流によって偽作され
たものが日教師に相伝され、日教師の大石寺帰伏によって富士に伝わったものと考えられる。
しかし、西山は辰春問答に際して「両巻血脈抄が日尊師へ相承されたことに異議はない」と云
い、これによれば、その当時、西山に両巻血脈抄は存在しなかったようである。
 日精師の「家中抄」には日代師にも相承されたと伝えられているが、日代相承説は西山日順
師によって形成されたものと伝えられている。興門の所伝によれば、重須が保田と組んで大石
寺に対抗したのと同様に、西山も大石寺と組んだと云うのである。これが日辰師以降もあったの
であれば、《悟胤映隆順》の頃に大石寺から西山へ両巻血脈抄・「御本尊七箇相承」が流れ、西
山日順師が日代相承説を形成し、大石寺から流入した相伝書を逆手にとったものかもしれない。
 なお、日精師は日順師より100年後の人なので、「家中抄」はその当時の興門で語り伝えられ
ていた伝承を検証せずそのまま記しただけであろう。

83直人:2004/09/18(土) 00:21
訂正

>日精師は日順師より100年後の人

 西山日順師は1688年寂、日精師は1683年寂。同時代に生きた人であった。日精師が「家中
抄」を著述したのは1662年であるから、日代相承説の成立は1662年より以前であろう。西山日
隆師は1674年に寂しているが、『日蓮大聖人 正附法日興聖人・正伝燈日代聖人』によれば、
日順師は隠居した後、87歳で寂したと云うので、日順師が1662年より前に日代相承説を形成し、
その伝承を日精師が「家中抄」に記載したものであることは充分に考えられる。
 なお、日代相承説は要山日舒師(1652−1718)によって否定されている。

84オスカー:2004/09/18(土) 22:13
直人さん、お元気ですか
大石寺教学の研究を購読し、読ませてもらいました。
余話なんですけども、要山日舒上人という方は福島市の出身で、大石寺の中興の
日有上人の伝記である大杉山もふでという書き物で、有師信仰を確立したとも、
言われる人物で、現在の大杉山有明寺の本堂安置の板御本尊を造立しています。
その他には、千葉市若葉区の眞光寺に安置されている日興上人の板御本尊も、
施主の一人になっています。
割り込みましてすいませんでした。益々の活躍を期待しています。

85直人:2004/09/22(水) 23:20
オスカーさん、お久しぶりです。

>お元気ですか

 私は相変わらずです。最近は考究を尽くせなかった点について書いたり、読み直して訂正した
りしています。そんなわけで最近は以前ほど書き込みしていませんでした。(3年間の疲れとい
うものは少しはあるかもしれませんが)

>大石寺教学の研究

 ありがとうございます。今読み返すと整理しきれていない箇所があって読み難かったであろう
と思います。その点は今後改善していきます。これは私が師と仰ぐ方の薦めなのですが、今後
は学術大会の場に出て行くことになると思います。

>要山日舒上人

 高橋氏の論考を思い出しました。「御杉山まふて」は未刊なので日舒師が(全体的に)
どのように記しているか興味が引かれるところです。
 これからもよろしくお願いします。

86直人:2004/11/01(月) 21:03
■宗史雑書(番外編)
 〔御影について〕

 先日、日蓮宗教学研究発表大会にて御影について質問され、それ以来質問された事柄に
ついて少しく考えました。本稿はその愚考をまとめたものです。
 日興上人は消息文において「仏聖人」「御経日蓮聖人」「法華聖人」と記しているわけです
が、日興上人は『報佐渡国講衆書』において《仏=釈尊》としています。また、「御経」とは明
らかに法華経をさしていますし、日蓮聖人は『守護国家論』において《法華経=釈尊》として
います。この点から考えると、

  仏=釈尊=大曼荼羅
  聖人=御影

というように解することができるのではなかろうか。つまり、日蓮宗における奉安形式である、

  [大曼荼羅]

    (御影)

  (http://www.myoukakuji.com/html/guide/

というものを表しているものではないだろうか。日興上人は日蓮聖人への尊崇の念から「仏
聖人」等と記し、御影を祀っていたけれども、あくまでも御本尊は大曼荼羅であったと拝する
ものです。真実、日興上人が御影を本尊の如くとらえていたのであれば、御影の意義が「日
蓮聖人の御姿を後代に伝えるため」とせず、もっと別な表現になったであろう。

87川蝉:2004/11/03(水) 16:11
興師は大曼荼羅の前に祖師像を安置していたと推測出来ます。
「御影の御見参に」(宗全2−150)
「聖人御影の御宝前に」(宗全2−151)
とあっても、宗祖を本仏と拝していたとは云えません。
私どもが仏壇に何か供物を供えるさい、親や我が子の位牌がある場合、「母(或いは父)に供えさせて頂きます」とか、「○○ちゃん、どうぞ」と云う言葉が思わず出るものです。

興師は、御影を通して宗祖が常に見守ってくれていると確信していたのでしょう。そして師に対する給仕をつくされていたと思われます。給仕の想いから「聖人御影の御宝前に」等の言葉がでたのでしょう。

伝・朗師の「本迹見聞」にも
「今家法主聖人は」(宗全1ー16)とあります。
これは「日蓮法華宗を始め、基となった聖人」と云う意味です。
興師が「法主聖人の御神殿に」(宗全2−162)
と称しているのも、「真の法華の宗旨を始めた聖人」と云う趣旨の言葉でしょう。

「法華聖人の御宝前に」(宗全2−180)
は、法華経弘通の聖人と云う意味でしょう。

「御経日蓮聖人見参に」(宗全2−187)
は、
建治元年五月の御書「上野殿御返事」に
「父の御ために釈迦仏法華経へまいらせ給にや」
とあります。背後に大曼荼羅を懸けた釈迦立像の前に法華経を置いた御宝前であったと思われます。
故に、「釈迦仏法華経 」と書かれたのでしょう。

興師の「御経日蓮聖人見参に」と云う表現は、この日蓮聖人の表現と同例と思われます。
興師は大曼荼羅の前に御御影、その前に法華経を安置していたとも推せられます。ゆえに 「御経日蓮聖人見参に」と書かれたのでしょう。

「仏 聖人の御座候座に」(宗全2−188)
とありますが、この「与由比氏書」の二行目に
「仏の御施餓鬼絶え候処に」とあって、精霊を仏と称しています。ゆえに、「仏 聖人」は「仏(精霊)と日蓮聖人の影現されている席」と云う意味と思われます。
「曾根殿御返事」にも
「又聖霊御具足法華聖人の御宝前」(宗全2−180)
とあります。この意味は「故人の聖霊が御具足している(現れている)日蓮聖人が照覧されている御宝前」ということであろうと思われます。
「与由比氏書」の 「仏 聖人の御座候座に」の意味を「仏(精霊)と日蓮聖人の影現されている席」と解釈できる例証となりましょう。

宗全2−181の「曾根殿御返事」
「仏にまいらせて候」
宗全2−183の「曾根殿御返事」
「仏の御見参に」
とあるのも、「精霊に供養した」と云う意味か、或いは「久遠実成釈迦如来に供えた」と解釈すべきだと思います。

「或いは、久遠実成釈迦如来に供えたと解釈すべきである」
と云う理由は、
「与波木井実長書」
「久遠実成釈迦如来の金剛宝座なり。・・上行菩薩日蓮上人の御霊崛なり」(宗全2−169)
とか
「原殿御返事」
「日蓮聖人の御法門は、三界衆生の為めには釈迦如来こそ初発心の本師にておわしまし候を」(宗全2−173)
等とあるので、興師にとって「仏」といえば「久遠実成釈迦如来」
である道理ですからです。
また直人さんがご指摘したとおり「報佐渡国講衆書」に
「しょほっしんの、しゃかほとけ(釈迦仏)」(宗全2−178)とあるからです。

88直人:2004/11/04(木) 09:39
川蝉さん、こんにちは。

 「法華聖人」「御経日蓮聖人」「仏聖人」についての御教示、大変参考になりました。私も大
曼荼羅の前に祖師像(御影)を安置していたと思いますし、御影について云われた消息文が
あるからとて日興上人は宗祖本仏論者であったとは考えません。しかし、川蝉さんが仰られ
るように私たちは「○○さん、どうぞ」という念が沸きます。日興上人も日蓮聖人への恋慕渇
仰があったでしょう。それゆえに、「御影の御見参に」(宗全2−P150)、「聖人御影の御宝前
に」(宗全2−P151)と云われたのでしょうね。
 先日、「御影が郷門に持ち去られ日時師が替りの御影を再建しているのはどうか?」(趣旨)
というような質問をいただいたわけですが、それもまた、その当時の人が日蓮聖人への尊崇
の念や恋慕渇仰があったからなのだろうと。それが、『富士一跡門徒存知事』の「御影を図す
る所詮は後代に知らしめん為なり」(宗全2−P121)ということなのでしょう。日蓮聖人の御姿
を後代に伝えるのは、後代、日蓮聖人をお慕いする人が出てくるからでしょう。そこに御影の
意義があったのでしょうね。
 日時師の時代にはもうすでに御本尊と御影が一対になっていたかもしれませんが、日興
上人はあくまで久遠実成釈尊を本仏と拝し、御本尊は大曼荼羅であったでしょう。
 あの質問は私にとって大変有意義なものでした。

89直人:2005/02/02(水) 22:59:38
■宗史雑書(8)
 〔戒壇本尊の形態について〕

 日蓮正宗常泉寺の信徒であった松本和道(佐一郎)氏は昭和32年、『尋勝論』と題する国柱会
批判書を著している。松本氏は山川博士の「聖祖の大曼陀羅本尊図式に文永建治と弘安との二
大別のある所以の法義を闡明す」(『信心』249号所収・筆者(直人)未見)を挙げて山川博士は本
門戒壇の御本尊を仏像と考えているが、田中智学居士は本門本尊を仏像で表すことはできない
といっていたから、山川博士の論考は智学居士に師敵対するものであるという(『尋勝論』P6〜8・
要旨)。そして、その論拠を智学居士の『本門本尊造立私義』に求めている。
 『本尊造立私義』(展転社)を一読してみたが、確かに仏像で表すことは難しいもののようで智学
居士は仏像に否定的ともとれる。しかし、智学居士は『本尊造立私義』において、

  一国同帰の時となッて、勅命によッて国立として本門大戒壇を造立する場合には、それこそ世
  界中にただ一つの聖壇であるから、経費もヘチマも議論はない。壇相、形像、妙工良技をあげ
  て如何なる難工でも出来るであらう。又その時節には任運に本化の菩薩が、帝王種なり智臣
  なりに生まれ出でて、不思議なる大手腕を振はるることと考へるから、その時の事は吾等の心
  配するに及ばざる所とおもふ。(『本尊造立私義』P118)

といい、これによれば、一天広布の暁に建立される大本門寺の御本尊は大曼荼羅を形像化するも
のと考えていたもののようである。であるならば、山川博士の論考は師敵対ではない。思うに智学
居士は大本門寺の本尊は仏像であるが、その他の寺院、在家は大曼荼羅を拝すべしといいたか
ったのではないだろうか。
 こうした本尊論は興門にも見られる。日順師は『本門心底抄』において、

  広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや仏像を安置することは本尊の図の如し
  (宗全2−P346)

といい、日代師は『宰相阿闍梨御返事』において、

  仏像造立の事、本門寺建立の時也(宗全2−P234)

といっている。ところで、大石寺を中心とする大曼荼羅正意論者は日順師の『法華観心本尊抄見
聞』や『摧邪立正抄』の、

  法華本門の戒壇を建てんと欲し、本門の大漫茶羅を安置し奉つて当に南無妙法蓮華経と唱
  ふべしと、公家武家に奏聞を捧げて道俗男女に教訓せしむ(宗全2−P355)

という文を依文として戒壇本尊の形態は仏像ではなく大曼荼羅であるというのである。けれども、
『本門心底抄』『宰相阿闍梨御返事』を踏まえてみれば、大曼荼羅の形像化は本門寺戒壇一箇
所に限られ、その他寺院等は大曼荼羅を拝すべしであるとするのが『摧邪立正抄』の文意であろ
う。
 その意味では曼荼羅正意・造仏正意といった何れかが正意であるとする正傍論は元来なかった
ものと考える。

90直人:2005/05/18(水) 18:48:34
〔『北山本門寺貫主 本間俊雄師 との法義対論』に対して〕

 この度『北山本門寺貫主 本間俊雄師 との法義対論』と題する文書を読む機会を得た。これは
法華講員である樋田昌志氏が妙観講の「大石寺近隣の日蓮宗系寺院破折」なる活動に参加し
て、本間師と対談した際に録音したものを起こしたもののようである。その内容は弘安二年板曼
荼羅論、血脈論が中心となっている感を受ける。樋田氏の誤りを指摘しておこう。
 樋田氏に限らず大石寺門徒が板曼荼羅を論ずる時、その依文とするのが『聖人御難事』の、

  此の法門申しはじめて今に二十七年(中略)余は二十七年なり(定本P1672)

という御文である。そもそも『聖人御難事』は日蓮聖人の逢難について述べられているのであっ
て御本尊図顕に触れるところがなく、『聖人御難事』を板曼荼羅図顕の文証とする会通は私が知
りうる限りでは近代までなかった。事実、板曼荼羅を「究境中の究境、本懐の中の本懐」といった
日寛師でさえ、『聖人御難事』を依文としていない。明治二十五年、驥尾日守師が『末法観心論』
を著して大石寺の教義を批判したことがある。これに対して、大石寺から日応師が『正法実義論』
を著し、これに加筆・補訂して明治二十七年、『弁惑観心抄』として論陣を張ったことがある。日応
師は『弁惑観心抄』において、

  弘安二年十月本門戒壇の大本尊を顕すを以て出世の本懐を成就せりと云ふへし、故に宗祖
  の云く(中略・『聖人御難事』の御文を引用)此文意を深く考ふへきなり余は建長五年より二十
  七年弘安二年十月本門戒壇の本尊を顕はし出世の本懐を究盡し玉ふへきとの聖意にほかな
  らさるなり(『弁惑観心抄』P195)

といい、ここにおいて『聖人御難事』を板曼荼羅図顕の文証とする今日の論法を見ることができる。
しかし、堀日亨師はこの会通に否定的である。堀師は『熱原法難史』において、
  
  先師がかつて直にこの文をもって戒壇本尊顕彰の依文とされたようだが、直接の文便はない
  ようである。(『熱原法難史』P72)

といっている。日応師の会通、さらには今日における大石寺門下による『聖人御難事』の引用は
我田引水・牽強付会ともいうべきものである。
 次は血脈論である。樋田氏は、

  『百六箇抄』に「上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡
  嫡付法の上人を以て惣貫首と仰ぐ可き者なり。」とある(中略)この百六箇抄の御文なんか
  はどのように拝したら(対論P9)

といっている。ここにおいて留意すべき点は第一にこの箇所は後加文であること、第二に誰人に
よって後加がなされたかということである。樋田氏が引用した『百六箇相承』の該当文には次の
文が続く。

  経巻相承直授日蓮(中略)六萬坊を建立せしめよ、何れの在処為りとも多宝富士山本門寺
  上行院と号す可き者なり(宗全2−P27〜29)

 経巻相承は聖人滅後百年代、顕本法華宗の祖である日什師が展開した立義であること、広宣
流布の暁に本門寺を号する時、大石寺では「多宝富士大日蓮華山大石寺」と称して「多宝富士山
本門寺上行院」とは決して称しない。さらに六萬坊思想が要山義であることは大石寺も広く認める
ところである。これらを勘案した時、後加文は要山僧によってなされたものであることが分かる。長
くなるのでここでは引用を避けるが、細井日達師は昭和四十五年六月二十八日、富士学林研究
科の砌における講演の中で後加文を要山僧の加筆とし「大石寺流の考えでない」と断じている。
つまり、「日興嫡嫡付法の上人」とは尊門日大系における《蓮興尊大…》という血脈系譜をさすの
である。その意味では『百六箇抄講義』における池田大作氏の、

  代々の法主上人が記述された個所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたい
  (『「百六箇抄」の池田会長講義』P6)

という講義は史実を無視したものであるし、これまた、「大石寺流の考えでない」。今日、の宗創
対立の中で『百六箇抄講義』は大石寺門徒によってしばしば引用されるところであるが、まったく
意味を持たない。堀米日淳師の見解(淳全P1378)もまたしかりである。
 樋田氏は『日興跡条々事』を引用して板曼荼羅の正統性を主張するが、『日興跡条々事』は明
らかな偽書である。それは署名・花押を見れば分かる。まず、日興上人の署名であるが「日」字
は角張っており、「興」字の14、15画は「∞」の如く記されているが『日興跡条々事』の「日」字は
丸みを帯び、「興」字の14、15画は「ヘ」となっていて日興上人の筆体と明確に相違している。


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