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門下・門流史関係

18顕正居士:2004/05/20(木) 03:14
日米戦争の際には日露戦争の時にあったような反戦言論がまずありませんでした。
ルーズベルト大統領がすでに開戦を決意していて日米交渉は時間稼ぎに過ぎなかったようで、
ハルノートは最後通牒と理解されました。この段階ではもうわが国に選択の余地がなかったのです。
次の文章の中に引用されている前田夕暮1883-1951の『大詔渙発の日』のような所感は
当時の日本知識人の多数に共通の感慨であったと想像されます。

http://home.att.ne.jp/wind/gakusan/niji/zengo/kako.html

しかしミッドウェー海戦敗北後は戦果は少なく、東条内閣の戦争指導力にも疑問が向けられます。
けれどもこの頃になるといわゆる「東条独裁」が出来て、言論統制はより厳格になっていきます。
サイパン島が陥落し、いわゆる絶対国防圏が崩壊して本土への空襲が可能になると、軍部には
東条暗殺計画も出て来ますが、伝家の宝刀、軍部大臣の入閣拒否で東条内閣は総辞職します。
小磯内閣は海相に米内光政、外相に重光葵をあて、講和を模索しますが、チャンスをつかめず、
まだ戦争は続きます。「大本営発表」によって国民は彼我の戦果を正しく認識できなかったと
いう方がいますが、今時のイラク戦争でもわかるように、リアルタイムでは前線からの報告のまま
に報道されるから、相当の時間が経たないと正確な戦果は「大本営」にもわかりません。
教育を受けた国民は戦果の発表よりも政情の変化や景気の変動によって大勢を予想します。

今日残っている戸田氏の発言からいえることは、戸田氏は当時一定の教育を受けた人々と戦争の認識
は変わっていないし、牧口氏も同様であったと想像します。この時期に存在しようのない空想的で
特殊な反戦思想を抱いた人々ではないことは確実であるとわたしはおもいます。


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