したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

門下・門流史関係

71川蝉:2004/07/05(月) 11:36
直人さん今日は。

曼荼羅の木像化の本尊もしくは一尊四士像は、国主が帰依した暁に建立される本門寺の本尊として造立されるべきものであるから、一国同帰が成就する前には、私的あるいはグループ的に、造立してはいけない。と云うのが日代師の考えのようですね。
本門寺の本尊は曼荼羅の木像化もしくは一尊四士像という相伝があったのでしょうね。

それにたいし、尊師は、そうではあるが、国主の帰依が未だ成就しない中でも、資力が有れば一尊四士像を造立して、個人的あるいはグループ的に拝しても良いではないかと云う鷹揚な考えだったのでしょうね。
富木殿や太田殿も鷹揚的な考えで造立したのでしょうね。

観心本尊抄から推すると、日蓮聖人は、一尊四士像を公的お堂の本尊にと云うお考えであったように思えますね。

「四菩薩造立抄」の冒頭部分に
「今に始めざる御志言を以て宣がたし。何の日を期してか対面を遂げ、心中の朦朧を申し披かん哉。」
とあるので、「日常目録」に記されている「御恋慕の由の事」が「四菩薩造立抄」であって、「真間釈迦仏御供養事。弘法寺に納められる」とある例もあるので、「御恋慕の由の事」も真間にでも移され紛失したのかも知れない。「日裕目録」にある「本尊造立の事」は「御恋慕の由の事」の写本で有るかも知れない。と推測されています。(塩田義遜教授説・日蓮聖人御遺文講義17)

空き缶さん今日は。

本遠寺の本堂内陣写真の紹介ありがとうございました。
身延山の仏殿納牌堂(650遠忌に建立されたお堂で、法事など行おこなうお堂で、私が在院していたころ、本堂がわりのお堂とされていました)の御宝前は、さらに曼荼羅の座配に近いものでした。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板