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門下・門流史関係

31直人:2004/05/25(火) 10:52
■妙福寺事件―地蔵堂をめぐる紛争

 妙福寺は嘉元三年、要法寺開山日尊上人によって会津細工名に開創された興門派寺院
である。もとは尊門寺院であるが昭和十七年、要法寺との寺籍問題に決着がつき大石寺に
復帰したと云う。
 さて、ここで云う「妙福寺事件」とは妙福寺住持と妙福寺檀徒による地蔵信仰の是非をめぐ
って起こった紛争である。妙福寺は開基が尊門とは云え、大石寺末でありながらなぜ地蔵信
仰などあったのであろうか。所伝によれば次の如くである。

  嘉元二年に会津に入国され、若松にて久遠山実成寺を開かれ、次いで出羽の国に赴か
  んと熊倉まで進まれた時、後から一人の小僧が急ぎ追い付き、日尊に縋って云うには、
  「わが村に疫病流行し、全滅する許りであります。何卒御上人様の法力にて、御助け賜
  らん事を」と頼んだので、日尊も之を諾し、小僧を道案内にして、数里の道を引き返して来
  られたそうです。然るにあの御堂の側迄来たところ、忽ちに小僧の姿が消えたので、不審
  と思い、その御堂を訪れたら、堂守の云うのには「見らるる通りの破れ堂にて、小僧を置く
  余裕も無いが、唯霊顕灼かな尊像があります。或いはこの尊像の化身なるかも知れませ
  ん」とて日尊を案内して、堂内に入りて見れば、果たして小僧に預けた日尊の荷物が、尊
  像の経机の上にあったので、日尊上人は甚だ感激して、それより日夜役病退散の祈祷を
  こらした為、猖獗を極めた悪病も遂に衰え、一村全滅の悲運から救われ
  (『妙福寺事件』P15−16)

 昭和十七年に大石寺門流に復帰した妙福寺であるがその際に所謂「謗法払い」はなされな
かった。しかして、昭和二十一年、久保川法章氏が妙福寺住持として赴任した際に子安地蔵
は大石寺義に相応しくないとし撤廃を主張する。対して妙福寺檀徒は六百有余年続いてきた
信仰対象を撤廃することに反対する。
 かくして子安地蔵の撤廃をめぐる対立は激化の一途を辿る。昭和二十八年一月十一日、檀
徒ら三人は大石寺へ登山し嘆願書を提出している。その内容は、

  一、子安地蔵信仰は六百有余年にわたる伝統。
  一、したがって子安地蔵の撤廃は認められない。
  一、我ら(檀徒)の主張が通らなければ全檀徒が離檀する。
  (『妙福寺事件』P15−16・要旨)

というものであった。これに対して細井精道氏は「嘆願書提出の件について当院より何分の指
示があるから、今後指示に依って行動するようせられたい」と云うのみで宗務院は檀徒を相手
にしなかった。待てども宗務院から指示がない檀徒は警察への告訴、無許可での登記変更な
どの奸計をめぐらす。
 こうした対立過程で久保川氏は檀徒二十二名の離檀を決定し昭和二十八年二月二十四日、
「離檀承認願」を提出している。これについて三月十七日、細井氏が妙福寺に訪れ、檀徒らと
論議の結果、

  (1)地蔵と称している仏像は地蔵ではなく、日尊の像であるから置いてもよい。
  (2)此の像に対する礼拝は行わない。
  (3)住職は充分に檀徒に理解させないうちに謗法払いを行った事は、住職の手落ちであった
  ことを認める事。(『妙福寺事件』P49)

となり、離壇は見送られた。しかし、地蔵(日尊像)への礼拝はこの後も続く。
 四月十八日、久保川氏が妙福寺を空けると檀徒らは妙福寺に投石を行うなどの暴挙に出てい
る。この暴挙は十八・十九日の二回にわたって行われ、警察が介入する有様となっている。
 しかして、昭和二十八年四月三十日、水谷日昇師は「離檀承認願」を承認するに至るのである。
 大石寺は日蓮宗の守護神を誹謗する傾向があるが、その大石寺とて大石寺義からは逸脱した
地蔵信仰を認め、挙句は暴動沙汰である。大石寺の歴史は決して彼らが云う如く「富士の清流」
などではない。この事件がその最たる例と云えよう。


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