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実相哲学を論じる部屋

1トキ:2013/12/18(水) 18:58:49 ID:0/huqta2
 実相哲学を論じる部屋を作りました。

2うのはな:2013/12/19(木) 16:10:40 ID:buTH5B6I

岡本さんは練成中に講話をききながらも、どうも割切れない気がするのです。
「俺は正しいことをして、こんなに苦労している。そして自分は銀行から金を借りたり、親戚で無理を言って
金を借りたりして品物の代金を支払っている、それなのに、俺に“屁”をかました奴は、のうのうとして、“晩酌でもやろうか”と
言っている。こっちは、そんな所の騒ぎではない。八方金策をして、夜行の電車に乗って集金に往ってふらふらに草臥れて帰ってくる。
やられた者が苦労して、やった奴がのうのうと楽をしている。こんな割切れん問題はない」と思って、その考えが頭の中に一杯充満しているものですから、
折角の練成中の講話も、最初の五日間は自分の胸にピッタリ来なかった。

 青白い痩せた顔を骨ばらせて、眉を釣り上らせ、鬼のような顔をして、相手を呪いながら講話を機械的に聴いていた。
ところが六日目になって徳久講師や喜村講師の講話を聴いているときに何かパッと悟るというか、心にコツンと来たものがあったのです。
(原文は旧漢字)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 このあとを読まれたい方は、『秘められたる神示』君民同治の神示講義 谷口雅春先生著を読まれるか、
自殺を考えた俺からすると甘ったれるなと女性信徒に絡んでくる自称「谷口雅春の弟子」である
訊け管理人さんの謹写をお待ちください。

3うのはな:2013/12/19(木) 16:14:36 ID:buTH5B6I

○ 環境を通して實相を語っている現教団は、ダメなんですかね。

  環境を通して實相哲学書を絶版にしている教団ではダメですね。
  これは訊け先生に頼るしかありません(笑)

4復興G:2013/12/21(土) 03:31:19 ID:AB6RqYXc

< 本流対策室/5 >5021のつづきです。>

>5019 :身分いやしきもの様

>> 実相世界はどうなっているのかと問うのはすべてナンセンスだということですね。わかりました。わかるはずのない実相世界でみんな仲良く暮らしているだとか、健やかに暮らしているだとかというのももちろんナンセンスですよね。実相世界について復興Gさまが語っておられることもすべてナンセンスということですね。「実相世界にはパースペクティヴがある」だとか「無限の素晴らしいアイデアがある」だとかといっておられたのもナンセンスであったということですね。「善のみ」というのもナンセンスということですね。無限定で無限に変化する世界が「善のみ」に限定されるはずがありませんものね。<<

上の前半(わかるはずのない実相世界でみんな仲良く暮らしているだとか、健やかに暮らしているだとかというのももちろんナンセンス)は、「その通りです」 と言えるでしょう。

しかし、あらゆるもの(の霊的原型)が備わっているのだから、「無限の素晴らしいアイデアがある」 というのは、そう言って間違いではないでしょう。

また、
>> 「善のみ」 というのもナンセンスということですね。無限定で無限に変化する世界が「善のみ」に限定されるはずがありませんものね <<

というのは――「善・悪 相対の善」 に限定されるということはない。対立を一切の対立を包み超えているんですから。

では、実相世界に 「悪」 も存在するのか、と言えば、「悪」 という 「善に対立するもの」 は存在しない。現象界に於いても、「悪」 はない。「悪」 と見えるものは 「善」 が現れようとしている過程である、と見るのが光明思想なのですね。

また、「わかるはずのない実相世界」 のことを、わかったかのごとく、ナンセンスなことを語ってしまいましたね……。

まあ、本当は何もわかっていない私ですが、以上のようなことを考えながら、ただ生かされていることに感謝あるのみです。ありがとうございます。

5身分いやしきもの:2013/12/21(土) 09:15:23 ID:tDxKbxFM
復興Gさま

>まあ、本当は何もわかっていない私ですが、以上のようなことを考えながら、ただ生かされていることに感謝あるのみです。ありがとうございます。

どうしてこのようなきれいごとで締めくくられるのですか。ここは哲学を論議する
場所でありますので、ご自分をかえりみられるのは、まだまだ先であってよいので
はないですか。

>特定の構造に限定されていないものを、「どのような構造をしているのか」 と問うのは意味が無いというか、答えられません、ということなのですが、「ナンセンス」 と言ったのは失礼だったかと思います。それはお詫びいたします。

実相世界に支配的な構造は存在しない。こういうことをいっておられるのですね。
構造を持たず、無限定であり、それでいて秩序だけはあるというのが実相世界で
あるようですね。もしそうなら、秩序はいったいなにによってもたらされているの
でしょう。「なにによって」というよりも、無限定でありながら、秩序はどのようにして
維持されているのでしょう。

実相世界についてはなにも語れないのであれば、秩序があるかどうかもいえない
ということになるのでしょうか。

ここで構造について私見を述べさせていただきます。すべての物事が縁によって
起こるとすれば、これをひとつの構造ととらえることができます。これを構造と
とらえるならば、こうした構造はどこにあるのかが問題になります。

わたしの考えは、構造は実相世界にある、というものです。実相世界にこうした
構造があるがゆえに、現象世界にもその写しとしての構造があらわれている。この
ように考えればすっきりとした解釈が成り立つものと考えます。

しかもこうした構造は、現象世界においては支配的な構造となっております。こ
のことから考えるなら、この構造は実相世界においても支配的な構造なのでは
ないか、との推測が成り立つはずです。

いずれにしても、復興Gさまは、このような推測に意味はないと考えておられるの
でありますね。であるならば、復興Gさまは、縁起の構造はどこにあるとお考えに
なっておられるのでありましょうか。

6身分いやしきもの:2013/12/21(土) 09:27:32 ID:tDxKbxFM
復興Gさま

>「時空連続体」 の意味がよくわかりません。

詳しいことは存じませんが、相対性理論によると時間と空間はおなじもので
あるようですね。つまり時間と空間は連続している。こういうことになるようです。

復興Gさまは、時間と空間は認識の形式であるいっておられますが、時間と空間の
関係は認識する側の立ち位置によって変わってくるようですね。認識の形式は
固定されておらず、認識者の立ち位置によってうまく調整されるようです。

7身分いやしきもの:2013/12/21(土) 10:05:24 ID:tDxKbxFM
復興Gさま

「宇宙は無から生じた」。これが今回のやりとりの発端であったとおもいます。
復興Gさまは、宇宙がはじまるまえに「実相があった」といっておられますが、
それが実相であるという確証はいまたどこにも見いだせてはおりません。

実相ではないべつのなにか、である可能性もあります。しかもこの「べつのなにか」
は時空間上にもあらわれていない可能性があります。もしもそれが時空間上に
あらわれていない「べつのなにか」であったとしても、それは実相ではないという
意味で「ない」といわなければなりません。

それを「ない」というとき、どのような根拠をもって「ない」といえるのでありましょうか。

「唯神実相哲学」は、神とわたしたちが住む4次元時空連続体との関係からはじ
まったと考えます。4次元時空連続体の悲惨なありさまを雅春先生がご覧に
なられて「ない」と看破され、「実相だけがある」と語られたのであります。

論理の進みゆきとしては、神と4次元時空連続体との関係において、4次元時空
連続体が非在であるがゆえに「神のみあり」との結論がくだされたのであります。

たしかにこうした2項間の関係において、一方が非在であれば、他の一方のみが
「ある」ということになります。しかしこれは、2項間の関係にしぼれば、の話で
あります。第3の項があるのではないか。こうした疑問はとうぜんのごとく出て
まいります。

第3の項については、いかがでありましょう。雅春先生が「実相だけがある」と
悟られたときの論理の進みゆきからは、第3の項の非在を決定することはでき
ません。第3の項の非在の決定はどのようにしてなされたのでありましょうか。

8復興G:2013/12/21(土) 10:57:08 ID:AB6RqYXc

身分いやしきもの様

 まず、>>4の追補として書いたものをアップさせていただきます。

<本流対策室/5 >5019 身分いやしきもの様>
>> (実相世界は) 「善のみ」 というのもナンセンスということですね。無限定で無限に変化する世界が「善のみ」に限定されるはずがありませんものね <<

 のお答えについて、追補です。

 屁理屈なら、そういうことも出来ます。

 しかし、私には体験があります。「ただ善のみ」 を全心身全霊で感得した体験です。

 それは、高校2年生を終え、3年生になる前の春休み、ある病気でもう死ぬと覚悟したあと、回復して静養していた或る日のことです。それは、前にも書いたことがあると思いますが……。

 突然、魂の底から、
 「お前は生きているのだ! 生かされているのだ! すべては善のみだ! 人生のどんな困難と見えることも、魂にとって向上の機会とならないものはない。このことを忘れなければ、人生は、ただ喜びばかりだ! ただ前進あるのみだ!」

 というような思いが、湧き上がってきたのです。それで、私の生き方が一変しました。劣等感と罪の意識、自己嫌悪で死にたいとすら思っていた人生が、希望と光明に輝く人生に。

 後に、一年以上経ってから、『生命の實相』 を真剣に読むようになった時、
 「これだ! 高校三年になる前の春休みに湧き上がってきた強烈な思いと、まさに一致して、自分の人生を導いてくださるものは、これだ!」

 と魂が踊りました。

 そうして、今の私があります。

 だから、「(実相世界は) 「善のみ」 というのもナンセンスということですね。無限定で無限に変化する世界が「善のみ」に限定されるはずがありませんものね」 なんて、屁理屈ではそう言えるかも知れないけれども、私は、「善一元」 が真理であると、固く信じています。

 悪いものは一つもない。ただ善が現れようとしている過程なのだ! と思います。

 教団と “本流” の方たちがきびしく対立して争っているように見えるのも、本当は善一元の、もっともっと素晴らしいすがたが現れようとしている課程なのだと思います。

 激しい対立の後に、どんな素晴らしい世界が待っているか、ワクワクする思いです。

9復興G:2013/12/21(土) 11:05:02 ID:AENtSm/U

>>5 :身分いやしきもの様

>> ここで構造について私見を述べさせていただきます。すべての物事が縁によって起こるとすれば、これをひとつの構造ととらえることができます。これを構造ととらえるならば、こうした構造はどこにあるのかが問題になります。
わたしの考えは、構造は実相世界にある、というものです。実相世界にこうした構造があるがゆえに、現象世界にもその写しとしての構造があらわれている。このように考えればすっきりとした解釈が成り立つものと考えます。
しかもこうした構造は、現象世界においては支配的な構造となっております。このことから考えるなら、この構造は実相世界においても支配的な構造なのではないか、との推測が成り立つはずです。<<

――そのお考えには、納得できます。

10復興G:2013/12/21(土) 11:12:54 ID:AB6RqYXc

>>6 :身分いやしきもの様

>>「時空連続体」 の意味
>>詳しいことは存じませんが、相対性理論によると時間と空間はおなじものであるようですね。つまり時間と空間は連続している。こういうことになるようです。<<

――それは、その通りだと思います。納得しました。

>>復興Gさまは、時間と空間は認識の形式であるいっておられますが、時間と空間の関係は認識する側の立ち位置によって変わってくるようですね。認識の形式は固定されておらず、認識者の立ち位置によってうまく調整されるようです。<<

――ちょっと意味がよくわかりませんが……

>>時間と空間の関係は認識する側の立ち位置によって変わってくるようですね<<

 そんなことはないと思います。

11復興G:2013/12/21(土) 12:17:25 ID:AB6RqYXc

>>7 :身分いやしきもの様

>>復興Gさまは、宇宙がはじまるまえに「実相があった」といっておられますが、それが実相であるという確証はいまたどこにも見いだせてはおりません。実相ではないべつのなにか、である可能性もあります。<<

 ――何かが始まるという時には、必ずその計画者が存在する。宇宙が始まったという時にも、その計画者といいますか、第一原因者があったはずです。

 その 「第一原因者」 を、「実相」 と名づけたのです。

 それは、キリスト教では 「太初にコトバあり」 と言われる 「コトバ」 であり、「仏」 と言ってもよし、「サムシング・グレート」 と言ってもよい、その意味するものはいずれにしても宇宙の 「第一原因者」 をさしているのであって、別の名前をつけたから別のものであるということにはならないと思います。

 「第一原因者」 は因縁所生のものではなく、すべてのすべてであって、対立する別のものはない、根源なるものでありますから、「実相ではない別のなにか」 はあり得ない。そういうものを 「実相」 というのだと思います。

>>「唯神実相哲学」は、神とわたしたちが住む4次元時空連続体との関係からはじまったと考えます。4次元時空連続体の悲惨なありさまを雅春先生がご覧になられて「ない」と看破され、「実相だけがある」と語られたのであります。<<

 ――ちょっと違うのではないでしょうか。

 谷口雅春先生は、自伝篇に書かれていますように、現象界の悲惨なありさまをご覧になって、『神を審判く』 という小説を書かれたりし、思索を続けられたけれども、思索によって答えを見出すことはできなかった。

     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

<『生命の實相』 第20巻 自伝篇 p.134〜 より>

 わたしは思索を重ね、静思を重ねたけれども安住の境地には達しなかった。

 ある日、わたしは静座合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。わたしはその時、偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の 「色即是空」 という言葉を思い浮かべた。と、どこからともなく声が、大濤(おおなみ)のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。

 「物質はない!」 とその声は言った。で、わたしは 「空即是色」 という言葉を思い浮かべた。

 と、突然その大濤のような声が答えた。「無よりいっさいを生ず。一切現象は念(こころ)の所現にして本来無。本来無なるがゆえに、無よりいっさいを生ず。有(う)よりいっさいを生ずと迷うがゆえに、有に執して苦しむのだ。有に執せざれば自由自在だ。供給無限、五つのパンを五千人に分かちてなお余り、『無』より百千億万を引き出してなお余る。現象界は念のレンズによって転現せる化城(けじょう)にすぎない。かしこに転現すると見ゆれどもかしこに無し。ここに転現すると見ゆれどもここに無し。知れ、一切現象無し。なんじの肉体も無し。」

 では、心はあるであろうかと思うと、その瞬間、「心もない!」とその声は言うのだった。今まで、わたしは「心」という得体の知れない悍馬(かんば)があって、それを乗りこなすのに骨が折れると思っていたのだ。ところが「心もない!」という宣言によって、わたしは、その「心」の悍馬から実相の大地に降りたのであった。

 「心もなければ何も無いのか」 とわたしは再びその声の主にたずねた。

 「実相がある!」 とその声はハッキリ答えた。

<つづきます>

12復興G:2013/12/21(土) 12:18:36 ID:AB6RqYXc

<つづきです>

 「では、実相とはなんであるか」 とわたしは訊いた。

 「実相とは神である。あるものはただ神のみである。神の心と、神の心の顕現のみである。これが実相だ」 ここに神というのはむろん 「仏」 という意味も含んでいた。

 「心も無いのが本当ではないか。」

 「無い心は受想行識の心だけだ。そういう意味でなら仏もない、衆生もない。心、仏、衆生三無差別(しん、ぶつ、しゅじょう さんむしゃべつ)と説く場合には、心もない、仏もない、衆生もない。衆生を抹殺(ころ)し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いといっさいを抹殺(まっさつ)したときに、実相の神、久遠実成(くおんじつじょう)の仏が出て来るのだ。」

 「それが、キリスト教ならイエスを十字架にかけることになるのですか。」

 「そうだ。肉体イエスを抹殺した時、実相のキリスト、アブラハムの生まれぬ前(さき)から生き通しの久遠のキリストが生きているのだ。イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である! 今、ここに、久遠生き通しの生命が復活する。今だ、今だ! 久遠の今だ! 今が復活だ! 今を活きよ。」

 わたしの眼の前に輝く日の出の時のような光が燦爛(さんらん)と満ち漲(みなぎ)った。何者か声の主が天空に白く立っているように思われたが、それはハッキリ見えなかった。しばらくするとその燦爛たる光は消えてしまった。わたしはポッカリ眼をひらくと、合掌したまま坐っている自分をそこに見出したのであった。

     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ――先生は、このようにして、思索によってではなく、天界からの啓示によって 「実相」 を悟られたのではありませんか。

 だから、生長の家は 「唯神実相哲学」 であるとも言われるけれども、単なる哲学ではない。『叡智の断片』 に

     ○

 私を哲学者だと思っている人があるが、私は哲学者ではない。私は神の啓示を、取りついだものである。そして神の啓示にしたがって生きんことを希い、また努力しつつある者である。

     ○

 哲学的の思索は間違うことがある。唯物論の次には唯心論が現れる。思索というものはより多く頭脳的なものであり、論理的なものである。それだけ人間には合理的に見えるけれども、哲学というものは、時代を超えることが出来ない。合理は時代に即して合理だと思われるのである。時代に即しない合理は人から不合理だと思われる。或る時代に合理的だと思われたものは、次の時代には不合理だと思われる。人間の作った合理などは決して当てにならないものである。

     ○

 と書かれています。ですから、身分いやしきもの様が

>> 論理の進みゆきとしては、神と4次元時空連続体との関係において、4次元時空連続体が非在であるがゆえに 「神のみあり」 との結論がくだされたのであります。<<

 とおっしゃるのは、ちょっと違うのではないかと、私は思います。谷口雅春先生は、ご自分で思索なさった結果として、論理の進みゆきとして「神のみあり」 との結論がくだされたのではなく、神の啓示によってそれを悟られたのではありませんか。

13身分いやしきもの:2013/12/21(土) 13:18:26 ID:tDxKbxFM
復興Gさま

>ちょっと意味がよくわかりませんが……

>>時間と空間の関係は認識する側の立ち位置によって変わってくるようですね<<

 >そんなことはないと思います。

縦軸をt、横軸をxとした直交座標を考えてみてください。tは時間でxは移動距離
です。移動距離は空間とおなじものだと考えてよいでしょう。

この直交座標の第1象限にわたしたちが住む宇宙があります。物体が移動をはじめ
ると、もちろんx軸の方向に進みますが、時間も経過するのでt軸の方向にも進み
ます。グラフ上では、物体の移動は斜めの直線として表示されることになります。

通常の物体の速度は遅いので、斜めの直線はt軸に近いところにあります。時間
は経てども進まずといったところです。

物体の速度が光速に近づいたとします。斜めの直線はt軸から次第に離れていきま
す。このときおどろくべきことがおきるといわれれています。t軸とx軸がたがいに
近づきはじめるのです。直交座標ですから、はじめは90度あった角度が、80度、
70度と角度をかえていきます。

こうなると、どんなに速度をあげようとも、x軸方向にもt軸方向にも進めなく
なります。これが、物体が光速に近づけば近づくほど時間の進みが遅くなると
いう現象であるとわたしは考えます。

t軸とx軸の角度が変わるということは、、時間、空間という認識の形式のあり方が
変化していっているということです。変化しなければ、物体はついに光速を追い越
し、因果律が逆転して世界を正しく認識できなくなる可能性があります。時間、空間
の認識の形式はとてもよくできていると、わたしにはおもえます。

ただしわたしはド素人ですので、間違った解釈をしている可能性もあります。トキ様
にたずねれば、より正確な知識を伝達していただけるものと考えます。

14復興G:2013/12/21(土) 13:29:17 ID:AB6RqYXc

>>13 :身分いやしきもの様

私は数学が苦手なので、「わかりました」 とは言えませんが、多分その通りなのでしょう。

ご教示ありがとうございました。

15身分いやしきもの:2013/12/21(土) 14:03:45 ID:tDxKbxFM
復興Gさま

>> 論理の進みゆきとしては、神と4次元時空連続体との関係において、4次元時空連続体が非在であるがゆえに 「神のみあり」 との結論がくだされたのであります。<<

 >とおっしゃるのは、ちょっと違うのではないかと、私は思います。谷口雅春先生は、ご自分で思索なさった結果として、論理の進みゆきとして「神のみあり」 との結論がくだされたのではなく、神の啓示によってそれを悟られたのではありませんか。

ここでいう「論理の進みゆき」とは、雅春先生が「論理的に考えられた」というので
はなく(もちろん論理的にも考えておられたでありましょうけども)、まず実相独在
がありきで、それを根拠に「現象なし」とされたのではなく、順番としては、「現象
なし」から実相独在へと進まれたと、論理的にはこういう順番になるだろうという
意味です。

問題は、「現象なし」から実相独在への飛躍があったのか、「現象なし」を根拠に
実相独在を悟られたのかということです。雅春先生のご文章を拝読するかぎり、
飛躍があったと考えられますが、雅春先生は、4次元時空連続体と霊界での体験は
おありでありましたでしょうけども、それ以外の世界についてはいっさい体験して
おられたはずがありません。なのに、そういう未体験の世界の存在をいっさい考慮
にいれられることもなく「実相のみがある」とされたのであれば、いかにそれが
天啓であろうとも、説得力には欠けるのではないかということをもうしあげております。

ただし、復興Gさまは、「第一原因を実相と名づけた」と述べておられますので、
「それ以外の世界」についても、それが第一原因の結果としてあらわれた世界で
あれば、その世界を現象と分類することで「実相独在」と述べることはできます。

しかし、第一原因がひとつだけというのは、なぜいえるのでしょう。第一原因が
複数ということもありえますね。第一原因が100個あれば、100個の実相が存在
することになります。その100個の実相はそれぞれに性質のちがったものである
やもしれず、そうであれば、「実相世界とはこういうものだ」といってのけること
は、ますますできなくなってしまいます。「実相独在」という言い方もおかしなもの
に感じられてまいります。

復興Gさまはおそらく「宇宙の計画者」はひとりしかいないといっておられると
おもいますが、無限の数の宇宙が存在するかもしれないとされる現代にあっても、
計画者はただひとりであるとお考えなのでしょうか。

16身分いやしきもの:2013/12/21(土) 14:10:41 ID:tDxKbxFM
いかに大閑人のわたしといえども、このペースはさすがにしんどいです。
もすこしゆるりとまいりたいとおもいます。

17復興G:2013/12/21(土) 15:53:25 ID:AB6RqYXc

>>16 :身分いやしきもの様

 どうぞ、ゆるりとご返答くださいませ。

>>15 :身分いやしきもの様

>>まず実相独在がありきで、それを根拠に「現象なし」とされたのではなく、順番としては、「現象なし」から実相独在へと進まれたと、論理的にはこういう順番になるだろうという意味です。<<

――順番として 「現象なし」 から 「実相独在」 へと進まれたというよりは、「現象なし」 と 「実相独在」 とは一枚のコインの表裏のように一体であって、同時に悟られたと考えてよいのではないかと私は思います。自伝篇では、まず 「色即是空」 という言葉が浮かび、次に 「空即是色」 という言葉が浮かんだとありますが、それは 「同時」 と考えてよいのではないかと思っています。

>>雅春先生は、4次元時空連続体と霊界での体験はおありでありましたでしょうけども、それ以外の世界についてはいっさい体験しておられたはずがありません。<<

 ――とおっしゃる根拠は、何なのでしょう。

>> 第一原因がひとつだけというのは、なぜいえるのでしょう。第一原因が複数ということもありえますね。<<

 ――私は、「宇宙」 という言葉を、「すべてのすべて」 という意味で使っています。複数の宇宙というものがあるとすれば、それらすべてを包摂、包括したすべての第一原因者が、究極の第一原因者ということになりますね。

 「すべてのすべて」 なるものが、分裂したバラバラのものから成り立っているのではなく、根源的に統一されたひとつの原理から成り立っているはずだと思うわけです。その根源的な 「宇宙の計画者」 はひとりしかいないはずです。

 どうぞお答え、ご反論などがあれば、ごゆるりと、レスをお願いします。私も、ゆっくりとさせていただきます。

18身分いやしきもの:2013/12/21(土) 17:06:28 ID:tDxKbxFM
腹腔Gさま

>>雅春先生は、4次元時空連続体と霊界での体験はおありでありましたでしょうけども、それ以外の世界についてはいっさい体験しておられたはずがありません。<<

 ――とおっしゃる根拠は、何なのでしょう。

これはむしろ、体験されたとする証拠が必要となりましょう。証拠がなければ、
体験されてはいなかったとみなしたところで、これを批判されるいわれはありません。

>――私は、「宇宙」 という言葉を、「すべてのすべて」 という意味で使っています。複数の宇宙というものがあるとすれば、それらすべてを包摂、包括したすべての第一原因者が、究極の第一原因者ということになりますね。
 「すべてのすべて」 なるものが、分裂したバラバラのものから成り立っているのではなく、根源的に統一されたひとつの原理から成り立っているはずだと思うわけです。その根源的な 「宇宙の計画者」 はひとりしかいないはずです。

宇宙という言葉を「すべてのすべて」といっておられるわけですね。であれば、
宇宙とは似ても似つかない、したがって宇宙とはいえない未知なるX世界が存在
した場合はどうなるのでしょう。これもすべてのすべてのなかに都合よく入れる
ことができると考えておられるのでありましょうか。それとも、未知なるX世界は、
反証不可能な超越項であり、したがってその存在が証明されないかぎりは存在
しないものとみなす、ということなのでしょうか。

また、「第一原因者は3者いて、3者は完全に独立していて、3者が存在する原因を
それいじょう先へとさかのぼることはできない」と主張するものがいた場合、
復興Gさまは、「宇宙はすべてのすべてだから、第一原因者はひとりだけである」、
あるいは「それがなんであれ、たとえ未知なるX世界であれ、すべてのものは根源
的に統一されたひとつの原理にさかのぼれるというのは真理だから、3者を総括す
る第一原因がかならず存在する」といって反論なさるのでありましょうか。

19身分いやしきもの:2013/12/21(土) 18:56:05 ID:tDxKbxFM
復興Gさま

復興Gさまは「時空間上にあらわれる」ということをいっておられましたが、
じつはこれがどのような事態を意味するのかが、いまだにわからずにおります。

それでまずは「時間とはなにか」と質問したわけですが、これにたいする復興G
さまの答えは心的な時間であり、それはどう考えても実存に関係する時間概念
でしかないようにおもえました。

真理を語るからには、答えとして提示される時間概念は少なくともその本質を言い
当てたものでなければならないとおもいます。ましてやそれが認識の正式を形づ
くるものであるなら、それにふさわしい説明でなければならないとも考えます。

空間にしてもおなじです。はたして空間とはなんなのでしょう。タテ、ヨコ、厚みを
もったものというのはわかりますが、たとえば空間は重力で曲げられたり、ブラック
ホールに吸い込まれたりするものでもあるようです。

重力やブラックホールとは認識の形式上にあらわれた現象であるはずであります
から、そのような現象に認識の形式である空間が曲げられたり吸いこまれたりする
ことなどあるはずもありません。

いったい時間、空間の本質とはなんなのでしょう。そのなかになにかがあらわれる
とは、どういうことなのでしょう。なにかがあらわれた結果として時間、空間があら
れたというのであればわかるような気がいたします。時間、空間がさきであとから
なにかがあらわれるとはどういう事態をいっているのでありましょうか。

復興Gさまは、時間、空間は画布のようなものだといわれましたが、画布が変化
したり、曲げられたり、吸いこまれたりするのはいったいなぜなのでしょう。へた
をすると巨大ブラックホールによって宇宙の空間、時間のすべてが吸い込まれると
いう事態もないわけではないでありましょう。画布が絵に吸い込まれるとは、いっ
たいどういうことなのでありましょうか。

20復興G:2013/12/21(土) 20:24:19 ID:AB6RqYXc

私の信仰は、単純なものです。

自分は、生きている。というか、生かされている。生命である。その生命表現の場が、時間・空間である。

時間・空間は、自分が誕生する前に、自分の外に、確固とした枠組みとして存在したものというのではない。時間・空間は、本来存在しない。自分の本体は、時間・空間以前からあり、時間・空間をつくりだした本源者である。自分は神の生命の表現体である。宇宙の主人公といってもよい。

一切の生命体には、一つの中心があって、バランスを保ちながら生長している。宇宙も生命体で、一つの中心があり、調和を保って生長している。

いろいろな宗教の開祖といわれるような人は、その宇宙の全体像――本来のすがたと、それが地上に(時間空間上に)展開する法則を直観把握し、人間が幸福に生きる道を示された。例えば、釈迦は宇宙の本質は蓮華蔵世界即ち、蓮華の花びらが中心に帰一しているように、一切の生命体が(無機物も広義の生命体である)、生かし合って調和しているすがたであると喝破された。イエスも、「みこころの天に成るが如く地にも成らせ給え」 と祈るように説いた。すなわち天とは実相世界であり、そこは中心帰一して万物が調和し生かし合っている世界である。

すべてのよき宗教は、この宇宙の実相を説き、その中で人は大生命に生かされている存在であるから、その存在目的は他のため全体のためにわが生命を与えること、愛を行ずる事にある、愛を行ずる事が人間の最高の幸福への道であることを説いている。

生長の家は、谷口雅春先生が宇宙大生命の啓示を受けられて、あらゆる宗教の神髄はみな一つの大生命の救いの放射光線であり宗派争いをする必要はなく、本来の教えの神髄は一つであるとして、すべてを生かす道を示された。これぞ究極の世界平和をもたらす、人類最後の最高の道である。

その生長の家出現の目的を達成するために、「今」 を生かして、わが使命と感ずるところを、日々生命をかけて実行するところに、最高の生き甲斐がある。

以上です。

21身分いやしきもの:2013/12/21(土) 21:06:05 ID:tDxKbxFM
復興Gさま

最後はやはりきれいごとでしめくくられましたね。誰もが感動するきれいごとを
いったものが、議論の進みゆきに関係なく最後に勝利する。おみごとです。

「わたしは勝利など望んでいない」といわれますか。しかしそれでも、あなたは勝利
したのです。

ありがとうございました。

22うのはな:2013/12/23(月) 17:36:49 ID:Fy/t63v.

神癒の一般公式 http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24668015.html

23神の子さん:2014/01/09(木) 21:34:34 ID:e8TziFZQ
本流対策室/5

>>5494

うのはな様

 本流対策室/5での投稿ですが、こちらで返事を書きます。

 「がんと闘った科学者の記録」という本を読み直しています。
これは、ノーベル賞に一番近かったと言われながらガンで亡くなった戸塚洋二博士と立花隆さんの
共著なんです。その中に、立花隆さんが、こういう意味の事を書いています。

 「量子力学には、吾々素人には理解が困難な部分がいろいろある。量子力学の世界は、
吾々の日常的な感覚世界とは相当ちがった部分がある。不確定性原理とか、光の波動性
と粒子性の重なりとか、二重スリットの問題とか、シュレディンガーの猫の問題とか、常人
の常識では理解しがたい話がいろいろ出て来る。そういう問題点について、教科書的な
解説書を読めば、それなりにわかったような気にさせられることもあるが、やはり我々常識
人には、どうにも訳が分からない部分が残る。ストンと腑に落ちてこないというか、実感的
納得が得られない部分がある。その辺、プロの物理学者の頭の中はどうなっているのだろうと
思って、理論の教科書的な解説ではなく、実感のほうを尋ねてみたのである。すると、驚いた
ことには、

 「あー、その辺のところはね、我々にしても、完全に納得できていない部分があるのです。
実感としてはわからないが、理論の筋道を追って行くと、それはそういうものとして受け入れ
ざるを得ないということで、実感と切り離して受け入れている部分というものがあるのです。」
(トキ注:これが、戸谷博士の返答です。)

と率直に語ってくれた。(中略)

 そうか、専門家ですら、実感的には理解できなくても、丸呑みしなければならないと思って
丸呑みしている部分があるんだったら、実感的理解にこだわる必要はないのだと思ったので
ある。

 「つまりね、実験で明らかにされた事実は受け入れざるを得ないということです。(後略)」

(同書 43ページ)

(つづく)

24神の子さん:2014/01/09(木) 21:35:44 ID:e8TziFZQ
>>23 はトキです。失礼をしました。

25トキ:2014/01/09(木) 22:01:17 ID:e8TziFZQ
 例えば、宇宙が膨張しているとか、素粒子の問題と言っても、素人から見たら実感としては何も分からない
です。信仰で言えば、「心の法則」はまだ実感として理解しやすいですが、人間=神の子の話は、なかなか実感
になるまで時間がかかる人が多いです。つまり、実感としては分からないけど、そうなんだろう、と信じる部分
は人間である以上は当然あると思います。

 つまり、人間である以上は、教えられた事を全て実感として分かるというのは無理であって、ある程度、丸呑み
をせざるを得ないというのは仕方がないと思います。ただ、そこで、丸呑みした内容が適切か、どうかというのを
判断する基準は、自分のリアルの生活にその理屈を応用してみて、それが上手く行けば、その理屈を信じるしかな
いと思います。

 そこで、瀬戸内寂聴さんの発言に話を帰ると、彼女がどういう意味で発言をしたのかは私はわからないです。
 般若心経を根拠にそこまで解釈ができるか、できたとしてもそれを実感として納得しているかはわかりません。
ただ、おそらく、理論というよりも、彼女はそう解釈して、それで多くの人を納得させられたので、そう信じてい
るような気がします。

 人間の精神をそこまで至上のものとする事で、救われる人がいるかもしれない。例えば、発言をした彼女
は、「愛」を宇宙意思という意味で解釈したかもしれないが、聞いた人は、それを人間の感情としての愛情と
解釈する可能性はあります。それでも、それで、救われた人がいたら、彼女の発言は価値があったと思います。

 そう考えると、私は、彼女の発言を物理的にではなくて、宗教的な観点で考えるべきかと思っています。

26トキ:2014/01/09(木) 22:36:12 ID:e8TziFZQ
>>23

お詫びと訂正です。

x (トキ注:これが、戸谷博士の返答です。)
○ (トキ注:これが、戸塚博士の返答です。)

27志恩:2014/01/10(金) 01:03:12 ID:.QY5jUA6
昨日から今日の日付になりましたが、
義春様の過去文をお懐かしく拝見していました。
いくつか、再掲させて頂きます。

28志恩:2014/01/10(金) 01:04:18 ID:.QY5jUA6
今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板
235 :義春:2011/11/04(金) 18:37:21 ID:iu5Ar./Q
 七つの燈台の誓願について
元青年会様のお勧めにより、七つの燈台の誓願と、その意味するところを、
拙いながらも考えを述べて参りたいと存じます。
至らぬ点は多々あろうかと存じますが、皆様のご指導・ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。
まず七つの燈台についてですが、長崎県西海市西彼町に在る生長の家総本山にあります。
wikiには、1978年に建立され、毎年数万人の参拝者が訪れる。総本山練成道場、温故資料館、
生長の家創始者である谷口雅春の家を復元した「藤棚の家」、谷口雅春ならびに妻で白鳩会初代総裁の谷口輝子の墓(「谷口家奥津城」)、
「龍宮住吉霊宮」とその周囲を囲む形で作られた、教義の神髄を込め建立されたとされる「七つの燈台」などがある。
総面積は約100万坪と言われ、海を望むことができる。また、総本山とは別に京都府宇治市に生長の家宇治別格本山がある。

そして七つの燈台の誓願は以下の通りです。
・天孫降臨皇御国成就燈
・伊邪那岐文化成就燈
・伊邪那美文明成就燈
・三界万霊悉皆実相開顕成仏燈
・万物一元万教帰一成就燈
・地上天国世界連邦成就燈
・君民一体地上天国成就燈

七つの燈台の誓願について1つ1つ意味するところを述べていきたく存じます。

29志恩:2014/01/10(金) 01:05:11 ID:.QY5jUA6
「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板
236 :義春:2011/11/04(金) 18:37:52 ID:iu5Ar./Q
先ず、天孫降臨皇御国成就燈は天孫つまり天皇陛下を中心とした日本の国が成就する事への誓願です。
そしてこの天孫降臨については天照大御神の天壌無窮の神勅が根底にあります。

【天孫降臨皇御国成就燈について】
天孫降臨皇御国成就燈について記していきます。
以下の項目では、このような事を記していきます。
●天壌無窮の神勅について:天照大御神が下された神勅
●葦原千五百秋瑞穂の国について:日本の原始の姿
●葦について:環境浄化に大変重要な植物
●千五百秋の瑞穂の国について:米は日本の在り様を示している

【天壌無窮の神勅について】
天壌無窮の神勅 とは、『日本書紀』の天孫降臨の段で天照大神が孫の瓊瓊杵尊らに下した神勅を指します。
神勅は以下の通りです。
葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。
爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。

一般的な解釈では、高天原の主神である天照大御神より日本の治めさせるというものであります。
以下でその意味するところを述べてまいりたく存じます。

【葦原千五百秋瑞穂の国について】
此のうち、葦原千五百秋瑞穂の国についてですが…
豊葦原 ( とよあしはら ) とは豊かに葦 ( あし )の生い茂る原のことで、日本国の美称です。
千五百秋の瑞穂の国 ( ちいほ、あきの、みずほのくに )とは、豊かに稲などの穀物が実る同じく日本国の美称です。
となります。豊かに葦の生い茂る原…それは日本の自然の姿かと存じます。そのうち葦について調べてまいりました。

【葦について】
葦についてwikiより引用させて頂きます。
葦とは(関西では)ヨシと読み、主として河川の下流域から汽水域上部、
あるいは干潟の陸側に広大な茂み(ヨシ原)を作り、場合によってはそれは最高100ヘクタールに及ぶ。
根本は水につかるが、水から出ることもあり、特に干潟では干潮時には干上がる。
水流の少ないところに育ち、多数の茎が水中に並び立つことから、その根本には泥が溜まりやすい。
ヨーロッパとアジアでは特に、ヒゲガラ、ヨシキリ、サンカノゴイといった鳥類と関わりが深い。
泥の表面には巻き貝やカニなどが多数生息する。アシハラガニはこの環境からその名をもらっている。
このように、多くの分解が行われ、多くの水生動物のよりどころとなる芦原は、
自然の浄化作用の上で重要な場所であり、野生動物と環境保護に重要な植物群落であると言える。

このように多くの泥が集まり、蓄積する区域は、その分解が多く行われる場所でもある。
他方で、その茎は多くの動物の住みかや隠れ場としても利用される。
このように、多くの分解が行われ、多くの水生動物のよりどころとなる芦原は、
自然の浄化作用の上で重要な場所であり、野生動物と環境保護に重要な植物群落であると言える。

以上、引用です。実際、私が学んでおりました、
バイオテクノロジーに於いても環境保全に重要な役割を果たす植物と習いました。
近年では大阪の淀川で、葦の再生に取り組み、劇的に水質が改善し、ウナギが戻ってきたと聴きます。
それなので、葦と云う植物は自然と人間の調和

30志恩:2014/01/10(金) 01:05:44 ID:.QY5jUA6
「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板
237 :義春:2011/11/04(金) 18:38:27 ID:iu5Ar./Q
【千五百秋の瑞穂の国について】
瑞穂、つまり瑞々しい稲…そこから生み出される米とは日本人が有史以来慣れ親しんだ植物であります。
それだから米は氣という様に、氣の根本とも見なしてもいます。
それはひいては日本の在り様、精神を重んじる根源的な食物ともいえます。
又、米と云うものは織田四天王の丹羽長秀の別称である「米五郎左」というように、どんな物とも合うというもので、
日本人が漢字を崩してかな文字を作ったり、明治維新後に西洋文明を取り入れたように、
日本人の柔軟性をも表すものでもあります。


【天壌無窮の神勅の意味するところ】
それなので、天壌無窮の神勅とは、単に日本の統治権についての文言に留まるのではなく、
日本の在り様をも表したものではないかと存じます。
植物も伊勢神宮・外宮に祀られている豊受大神が生み出したる物、その植物の1つ1つに神の心が表れているとも、
私は感じているのです。
それだから、以上のところより、【日本は神の子孫である天皇が霊的に治める地である。その日本とは、自然と人間が調和し、
天壌無窮に…つまり永遠に平和に栄える国である】でなろうかと存じます。

【天皇について】
以上のことから、天皇陛下が何故、常に自然と共にあろうかとされるかのかという所に思いを致す時に、
この天壌無窮の神勅が根底にあるのではないかと感じています。この天壌無窮の神勅は、霊的に治めるという願いがあるのではないかと、
勝手ながら感じております。それなので、例えば、昭和天皇様が『雑草と云う草は無い』と仰られて草木を真に大事にされたのも、
これによるのではないかと存じます。
それだから、御皇室の本廟である伊勢神宮に於いても、参道に大木があっても、そのままにし、神宮の作りに於いても、
自然そのままの姿で建物をお作りになっていると私は感じております。
その様な天皇陛下の在り方と云うものは、この環境の破壊が叫ばれる中で、大事になってくると感じております。
それ故に、その天皇陛下が真に霊的な中心者とし、刃に血を塗らずして…つまり、動植物を含めた犠牲の元で成り立つ、
社会の在り方ではない日本の姿への誓願ではなかろうかと私は勝手ながら感じております。

31志恩:2014/01/10(金) 01:06:23 ID:.QY5jUA6
「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板
256 :義春:2011/11/05(土) 12:00:02 ID:iu5Ar./Q
この投稿では此の2つの誓願について記したく存じます。
・伊邪那岐文化成就燈
・伊邪那美文明成就燈
この伊邪那岐・伊邪那美、2柱で1つの事柄を表す…古事記に於いては国産みの神話に出て参りますが、
この国産みの神話というものは、世界の在り様をも示していると私は感じております。

項目は以下の通りです。
●国産みの神話について:霊的文化と物質文明の関係について記しました
 霊的文化が主とならないと生命を蔑ろにした社会になってしまう。
●天津罪と国津罪について:天津罪は生命に関すること、国津罪は社会的な決まり事をしるしています。
●文化と文明について:文化と文明というものの言葉の定義についてしました。

※とりあえず長いです。

32志恩:2014/01/10(金) 01:07:13 ID:.QY5jUA6
「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板
257 :義春:2011/11/05(土) 12:00:58 ID:iu5Ar./Q
【国産みの神話について】
長くなりますが引用元をしつつ述べていきたく存じます。
引用元は此処です(http://www.ffortune.net/calen/izumo/sinwa/sinwa02.htm)

--------------------------------------------------------------------------
イザナギ神・イザナミ神は天の神様たちの命を受けて、国作りを始めました。

まずは天の浮橋に立って、まだ混沌としていた地球の表面に棒を入れてかき
回すと、そのしずくが落ちて重なり淤能碁呂島(おのごろしま)という島に
なります。そこで二人はその島に降りて結婚しました。

この時まずイザナギ神がイザナミ神に「そなたの体はどうなっているか?」
と聞くと「私の体には成り成りて成り合わぬ所があります」と言います。そ
してイザナギは「私の体には成り成りて成り余る所がある。私の成り余る所
をそなたの成り合わぬ所にさし塞いで国を生みましょう」と言いました。

そこで、島に柱を一本立て、その回りを回って出会ったところでまずイザナ
ミ神が「まぁなんて素敵な男性でしょう」と言い、次にイザナギ神が「ああ、
なんて素敵な娘だろう」と言いました。そして交わって産まれた子は水蛭子
であったため、葦船に乗せて流しました。次に出来た子は淡島。これも子の
数には入りません。

二人の神は何かおかしいと思い、いったん天にもどって神々に相談します。
神々は太占(ふとまに)をして占った結果、柱を回って女が先にプロポーズ
したのがいけなかったのではなかろうか。今度は男が先にプロポーズしてみ
なさい、とアドバイスします。

そこで二人は再び島に降り、結婚式をやり直して今度はイザナギ神が先に
「ああなんて素晴らしい娘だろう」と言ってから、イザナミ神が「まぁなん
て素敵な男性でしょう」と言いました。そして生もれたのが順に、淡路島、
伊予之二名島(四国)、隠岐の三つ子島、筑紫の島(九州)、壱岐の島、
対馬、佐渡の島、大倭豊秋津島(本州)で、これを大八島国といいます。

更に生み続けたのが吉備の児島(児島半島〜昔は島だった)、小豆島、大島
(山口県の?)、女島(大分県の?)、知訶島(??五島説あり)、両児島(??
男女群島説あり)です。

そして国を生み終ると次に神様を生みます。これが大事忍男神、石土毘古神、
石巣比売神、大戸日別神、天之吹男神、大家毘古神、風木津別之忍男神、海
の神である大綿津見神、水戸の神である速秋津日子神・速秋津比売神(ここ
まで10神)、風の神である志那都比古神、木の神である久久能智神、山の
神である大山津見神、野の神である鹿屋野比売神(ここまで4神)、鳥野石
楠船神(天鳥船)、大宜都比売神、火の神である火之迦具土神(ここまで3
神)です。

この最後の火之迦具土神を産んだ時、イザナミ神は陰部を火傷してしまい、
亡くなってしまいます。この時、イザナミ神が苦しみながら成した神様が、
金山毘古神・金山毘売神、波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神、弥都波能売神、
和久産巣日神、といったところです。

イザナギ神は妻の死を泣き悲しみ、出雲と伯耆の国境の比婆山に妻の遺骸を
葬りました。(日本書紀の一書では熊野の有馬村)そして剣を取って、妻の
死因となった火之迦具土神を殺してしまいます。この火之迦具土神の血や死
骸からはまた多くの神様が成っています。これは石拆神、根拆神、石筒之男
神、甕速日神、樋速日神、建御雷之男神、闇淤加美神、闇御津羽神、正鹿山
津見神、淤縢山津見神、奥山津見神、闇山津見神、志芸山津見神、羽山津見
神、原山津見神、戸山津見神、といったところです。

ここまでが古事記が伝える日本創成の物語です。

------------------------------------------------------------------------

33志恩:2014/01/10(金) 01:09:28 ID:.QY5jUA6

258 :義春:2011/11/05(土) 12:01:46 ID:iu5Ar./Q
この国産みによって、日本は産み出されました。
まず、天の神様という天神が2神に国産みの命令を出したと書かれています。
又、高天原と混沌としてドロドロだった大地との間に天浮橋という中間地点的な場所があったのが分かります。
高天原が古事記に於いて実相世界を表すのなら、その実相世界と現象世界の間の地点から、
淤能碁呂島を産み出した…とあります。
そして、最初は伊邪那美から伊邪那岐に声をかけて、水子が生まれて、国産みが失敗した…
これは、伊邪那岐…つまり氣・霊的よりも、伊邪那美…実・物質が先んじてしまったというもので、
物質文明が精神文化に先んじてしまうと、物事は上手くいかないと言うものを示しています。
それだから、先ず、霊的文化の象徴である伊邪那岐が、主導していく事で、物質文明の象徴である伊邪那美を
導いていく事で、物質的な文明の暴走を防ぐという事かと存じます。

そしてこれは、現代社会への警鐘ではなかろうかと私は感じております。
なぜなら、現代社会は物質文明が先ず先になって、霊的なものに対しては、全く蔑ろにされています。
その証拠に例えば、肉食の傾向が著しく、キチンと計算したわけではありませんが、同じカロリーを摂取するにしても、
肉食の方が安くなっていると感じています。しかし、肉食と云うものは他者の生命を奪って食する行為にあたります。
古来の日本では肉食自体は仏教伝来までありました。しかし、動物の神への供犠をする事で、盛んになり過ぎないようにしていたようです。

以下はhttp://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-59.htmよりの引用です。
------------------------------------------------------------------------------------
また、祝詞には天津罪国津罪というのがある。天津罪には、畦放ち(あはなち)、
溝埋め、樋放ち、といった水田を荒らす行為と並んで、串刺し、生剥ぎ、逆剥ぎがあげられ、
国津罪には、生膚断、死膚断、畜仆し(けものたおし)、などがある。
これから類推すると、肉食は農耕に悪害をもたらすと考えられたようである。
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34志恩:2014/01/10(金) 01:10:19 ID:.QY5jUA6

259 :義春:2011/11/05(土) 12:02:46 ID:iu5Ar./Q
【天津罪と国津罪について】
それから天津罪・国津罪について書かせて頂きます。以下はwikiよりの引用です。

●天津罪
・畔放(あはなち) - 田に張っている水を、畔を壊すことで流出させ、水田灌漑を妨害することとされ、『古事記』・『日本書紀』にスサノオ命が高天原において天照大神の田に対してこれを行ったと記している
・溝埋(みぞうめ) - 田に水を引くために設けた溝を埋めることで水を引けないようにする灌漑妨害で、これも『古事記』・『日本書紀』に記述がある
・樋放(ひはなち) - 田に水を引くために設けた管を壊すことで水を引けないようにする灌漑妨害で、『日本書紀』に記述がある
・頻播(しきまき) - 他の人が種を蒔いた所に重ねて種を蒔いて作物の生長を妨げること(種を蒔く事で耕作権を奪うこととする説もある)で、『日本書紀』に記される
・串刺(くしさし) - 『日本書紀』には、その起源をスサノオ命が高天原において天照大神の田を妬んでこれを行ったと記しているが、
           その目的は収穫時に他人の田畑に自分の土地であることを示す杭を立てて横領すること、
           とする他に、他人の田畑に呪いを込めた串を刺すことでその所有者に害を及ぼす(または近寄れないようにした上で横領する)という呪詛説、
           田の中に多くの串を隠し立てて所有者の足を傷つける傷害説、家畜に串を刺して殺す家畜殺傷説の3説がある
・生剥(いきはぎ) - 馬の皮を生きながら剥ぐこととされ、『日本書紀』にスサノオ命が天照大神が神に献上する服を織っている殿内に天斑駒(あまのふちこま)を生剥にして投げ入れたとその起源を記していることから、
          神事(ないしはその準備)の神聖性を侵犯するものとされるが、本来は単に家畜の皮を剥いで殺傷することとの説もある
・逆剥(さかはぎ) - 馬の皮を尻の方から剥ぐこととされ、『古事記』『日本書紀』に生剥と同じ起源を記していることから、これも神事の神聖性を侵犯するものとされるが、
          本来は単に家畜を殺傷することとの説があるのも同様である
・糞戸(くそへ) - 『古事記』『日本書紀』にはスサノオ命が高天原において天照大神が大嘗祭(または新嘗祭)を斎行する神殿に脱糞したのが起源であると記していることから、
         これも神事に際して祭場を糞などの汚物で汚すこととされるが、また「くそと」と読み、「と」は祝詞(のりと)の「と」と同じく呪的行為を指すとして、
         本来は肥料としての糞尿に呪いをかけて作物に害を与える行為であるとの説もある

天津罪は農耕及び神事、それから動物の殺生等、生命についての禁忌を記していると私は感じております。
それを天津罪として、真っ先に持って来る所が、日本が霊的文化、生命尊重の国と私が感じる所以であります。

35志恩:2014/01/10(金) 01:11:32 ID:.QY5jUA6

261 :義春:2011/11/05(土) 12:06:25 ID:iu5Ar./Q
又、食事について、せい様から、雅春先生の御文章からこの様な投稿をして頂きました。
大事な事なので、私も引用させて頂きます。せい様、真に有り難う御座います!

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ところでこの食事をいただくというのは、単に肉体にカロリーを補給し、ビタミンを補給し、蛋白質を補給するというだけの意味で、
食物をたべていますと、その物質によって補給せられ、その物質がかためられて人体というものになっている気がして来ますから、どうしても物質的に人間を見て来ることになります。
食物で養われる人間も、摂取される食物も、それはただの物質である、というだけのことになります。
「物質」が物質を食べて「人間」というものになっている。そう思って食べても毒にはならんけれども、其処には物質を超えた霊的な価値というものは出て来ない。
物質は物質としてただそれだけの値打ちしかない訳であります。
ところが、私たちがいただくところの食物を、そういう風な、単なる物質的カロリーの補給だとか、物質的栄養素の補給だとかだけに思わないで、
その奥にある霊的生命を観て、それに感謝して食物をいただくとき、
内在価値が展開してくるのであります。
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この霊的生命に感謝する、そういった霊的文化が主とならないと、食事もまた崩れていきます。
何故、食に関して執拗に記すかと申しますと、食と云うものほど、人の考え方の根幹を成しているからであります。
それですので、食が崩れると言う事から、食で生命への敬意がなくなれば、社会そのものにも、
生命が主ではなく物質が主となってしまいます。そして結局は社会そのものも、今現在の様々な問題が表しています様に、
社会そのものの重圧により自壊してしまうという様になってしまうのではないかと感じております。
また、文化というものは一般的には【質】を重視し、文明は【量】を重視します。
ですので、日本の江戸時代は正に文化の時代で、1つ1つの物を大事にするものでありました。
これは何度も触れておりますが、循環型社会を形成していきます。
又、文明は現代文明が象徴的でありまして、大量生産・大量消費が社会の根本的なシステムの要因であるので、
使い捨てという現象が往々に起こります。現代文明は過労死・うつ病など人間の使い捨てすら起すシステムと言えます。
ただ、霊的文化・物質文明の両方がないといけません。
例えば、肉食は仏教伝来後、平安時代になっていくと、貴族の間では罪を犯す事を極度に恐れる事で全く肉を食べなくなりましたが、
その結果、貴族が日記等から観れば栄養失調としか言いようのない症状で亡くなる等本末転倒な現象が起きてしまいました。
それだから両方が成就する事でバランスの取れた社会の在り方を誓願されたと私は感じております。

36志恩:2014/01/10(金) 01:33:40 ID:.QY5jUA6
生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える

「トキ様掲示板が、立ち上げられたばかりのころの¨義春様¨の発言集」

34 :義春:2011/06/07(火) 16:48:21

掲示板、開設おめでとうございます!
トキさんは私(29歳)と同年代の様で、共通の人を存じ上げてて真に嬉しく想います。たぶん、何処かでお会いしてるかもしれませんね。

昔は武道館の前で円陣組んで歌って楽しかったですね(泣)あれを無くす事はないのになぁ…と寂しく想う事があります。

色々考えの相違もあるかもしれませんが、より良い生長の家の為に 宜しくお願い申しあげます。

35 :義春:2011/06/07(火) 16:53:31
>>33
現職員妻さん、こんにちは。
向こうでは有り難うございました。

私も同様の話を聴いて、驚くより 怖くなった事があります。内容は書けませんが、

生長の家の姿から おおよそ外れた姿に 変わってる…と感じました。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1307277048/?q=%B5%C1%BD%D5

37志恩:2014/01/10(金) 06:37:41 ID:.QY5jUA6
 「トーキングスティクボード」での、¨義春様¨ 発言集
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1311691486/?q=%B5%C1%BD%D5

38トキ:2014/01/10(金) 21:24:18 ID:ffgjVbP6
>>37

 義春さんの発言をまとめて下さり、ありがとうございます。
故人も喜んでいると思います。感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

39志恩:2014/01/11(土) 06:53:53 ID:.QY5jUA6
谷口雅春先生は、以下のごとく、「実相は、無相にして有相なる 微妙な存在」と、説かれておられます。
身分いやしきもの様が、生長の家では、実相は有相と、 仏教では、実相は無相と説法している。

自分は、仏教の「実相無相」の考え方と同じである、と言われましたが、
生長の家では、実相は有相であるとは説いていない。実相は「無相にして有相である」と説いている。
…………………………………………………………………………..
今昔物語より
『實相研鑽』第一集
 普賢菩薩なる自己を観る(昭和36年7月19日)

谷口雅春先生の結語:

♣御仏を自分の全身に重ねて

ありがとうございます。上西先生はなかなか記憶がいいですね。高野山で私が言ったということをとく覚えていらっしゃる。
高野山時代におられなかった講師の方も大分おられると思うのですが、重現無礎(じゅうげんむげ)というのは、
大きな箱があって、それをあけてみたらもうちょっと小さい箱がある。その箱を開けたらまたもうちょっと小さい箱がある
…….いくらでも次々と小さい箱があって、中から同じものが出て来るというように、人間の實相は無限に大きくして無限に小さい。

ただ宇宙に充ち満ちているというと、ボーッと空気みたいに広々とあるだけで、
もっとも微小なところまでもある組織をもって存在するものである、という感じが出て来ないので、
“人間の生命”はただ漠然と広いだけじゃなくて、どんな小さいものの中にも充ちているところの“神の智慧”である、というわけなんです。

その“神の智慧”が“普く充ち満ちている普賢”すなわち“無限の智慧”であるというわけであります。
ここに五尺何寸の人間が生きておっても、そう見えているだけであって、自分自身は無限大の存在で、百千万億阿僧祇劫前から
悟りを開いている仏身である。

それが“宇宙にみちみちていると同時に、その智慧はどんなに微細な電子、素粒子の中にも充満しているところの智慧である、
それが自分である”ということを自覚するための神想観が観普賢菩薩行法であります。

それで「身量無辺、色像無辺、音声(おんじょう)無辺であって、虚空に満つる無極(むごく)の身(しん)である」というふうに
(広いことを)念ずる。

同時に、自分の全身の細胞(四百兆とか千二百兆といわれる全身の細胞)の一つ一つの中に、普賢菩薩の智慧がみちみちているのである。
そのまた微粒子の中にもまた普賢菩薩の智慧があって、無限大であり無限小である。“それが自分である”というのです。

たんに智慧と言いますと漠然としたもので、形がないようでありますが、これは一つの“秩序性”であり、やはり形がある。
その形の真似をして出て来るのが、“肉眼に見える形の秩序”であって、智慧そのものにもやはり形があるわけです。
神想観は単に「無」になり切るだけの手段ではない。

  無相にして有相なる微妙な存在なる實相を念ずる  

というので、瞼(まぶた)の裡(うら)に六牙(りくげ)の白象に乗っている有様をじっと描いて観ずるわけなんです。

林先生の言われたのは微細な細胞の中に又々三千の御仏坐し給う、という細かいところを観じようと思っても観じられない。
そこに疑問というか修行のむつかしさがあるというので、そこ(重現無礎)をうまく観ずるようにしたいという質問ですね。

林さんはあまり小さいものを観じようと思うから、小さくなって観じられなくなるんですよ。
小さいものが無限の数あるもんだから、無限の数の一つ一つに六本の牙ある白象にそれぞれ普賢菩薩が坐っているのを
一辺に思い浮かべよう思うから、むつかしくなって観じられないのです。

「一々の如意宝珠の中に三千の御仏坐し給う」と念じながら、その三千の御仏の一つ一つの小さいのを心に描こうとしないで、
 一々の細胞の三千の御仏の姿を自分自身の全身に重ねて見つめてゆくんです。

そして六本の牙(きば)ある象にまたがった普賢菩薩なる自分を具体的に何べんでも思い浮かべて観ずるとよいのです。
そのときは、小さい細胞の中は思い浮かべない方がよいんです。

一ぺんに小さい細胞の中に坐し給う三千の御仏の姿を一々細かく思い浮かべようとするから思い浮ばんようになるわけです。
“一つ”だけ見つめて、それを自分自身に重ねて観ずるようにしたらよいのです。

それをくり返しているうちに、本当に全身が普賢菩薩である自覚が得られてくるということになるわけです。

  平成25年10月20日発信

40トキ:2014/01/11(土) 10:13:22 ID:4XvuVX0A
本流対策室/5の「身分いやしきもの様」へのお返事をこちらで書かせて戴きます。
よろしくお願いします。

 最初にお断りしておきますが、私は今の時点でも実相無相と実相有相の議論について、正確な理解
をしていないと思います。ですから、あくまでも第三者的な感想を申しあげます。

 実相無相か実相有相について、何かネタはないかと「聖道へ」と「生命の実相」の自伝編を読み直し
たのですが、これについての記述はなかったみたいです。(ざっと見ただけなので、見落とした可能性
はありますが)

 ただ、この議論が、例えば宇宙論などに関連するものではなく、思想的な範疇に入るものだとしたら
大正時代や昭和初期の時代でも十分に議論は可能だったと思います。それについて谷口雅春先生が言及
されていない、あるいはほとんど言及されていない事は、根拠があるものだと思うのです。

 一つの推論は、人間レベルの感覚では、そこまで高度な論争をする必要がなかったと言えるという点
です。もう一つは、思想としては、実相無相という考え方は成り立つかもしれないが、現実に説明をす
る場合には、実相有相という立場のほうがはるかに有益だと言えるかと思います。

 さらには実相論自体を論じる時、ほとんどが実相有相論を前提にした議論だと感じます。実相論自体
はギリシャ時代から存在する発想です。(が、あくまでも哲学の範疇に留まっていたものでした。それが
現実の信仰にここまではっきりと明示されたのは、谷口雅春先生の偉大なご功績だと思います。)最近
では、立花隆さんの「臨死体験」の中に、瞑想中の科学者に「ガーディアン・エンジェル」が出現して
「この世界は非実在であり、見えているだけである。本当に実在するのは神のみである」と説明をする
下りがあります。それらを見ると、だいたいが実相有相論の立場に立つと思っています。(これも見落とし
があったら、お詫びします。)

(つづく)

41トキ:2014/01/11(土) 10:32:52 ID:4XvuVX0A
 実相無相と実相有相の議論を拝見して関連して思いだしたのが、ビッグバンでの
素粒子と原子の誕生です。ビッグバンで数秒後に素粒子が誕生したのですが、素粒子
だけの状態は長く続かず、わずか数秒後(だったと記憶しています)には原子が誕生し
その後、すぐに分子が誕生します。私の頭の中にあるイメージは、実相無相論という
のは、このわずか数秒の間だけ存在した素粒子だけの世界に近いものがあります。

 ある時点では実相無相の状態が存在したか、存在するのかもしれないが、結局は
実相有相になるのが必然かと考えています。

 なお、曳馬野様が言及された件について、実相無相だと争いがなくて、実相有相だと
「私」が出来て争いになる、という議論は、(これはたいへん失礼な表現でお詫びしま
すが)、論理の飛躍があると感じています。

 釈尊が実相無相を論じたか、どうか、私は知識がありません。曳馬野様がそう言われ
るのなら、そうなんでしょう。

 この初期仏教時代の釈迦の教団については、岩波文庫から中村元博士が多数の著書を
出版されています。それらを読むと、やはり当時もいろいろなトラブルがあった事が
推測できます。と、言う事は、人間の本質はいまも昔もそれほど変化がない、という
事がわかります。実相無相を教えられていた人達もそうなら、今の組織をめぐる問題
も、原因はそこではない、と言えるかと考えます。

(つづく)

42トキ:2014/01/11(土) 10:53:49 ID:4XvuVX0A
 たぶん、身分いやしき者様の発想の後ろにあるのは、一神教的な発想が少数意見や異端者の
排除につながるという歴史的な事実かと想像します。(違ったらごめんなさい。)

 その点、多神教的な発想に立てば、異端者の排除という事態は起こりにくくなります。しか
し、生長の家の信仰から考えると、多神教的な神様は、いわゆる第二義、第三義の神様で最終
的には、第一義の神様への信仰が基本になります。そこで、第一義の神様である実相を無相に
することで、多様な意見の存在を許容する信仰にしたいとお考えかと拝察します。

 言い換えると、本流復活派が教団や総裁を攻撃する時につかう発想の一つに、谷口雅春先生
という一つのモデルがあり、そのモデルから逸脱する事が信仰への冒涜である、というパターン
があります。そこで、「悟り」というものは、形がないものであるから、「悟り」自体は同じで
も、それが外形に現れる時には、その人や環境によって変わるのが当たり前である。今の総裁
と谷口雅春先生では、「悟り」は同じだが、人も形も変わるのだから、違って当然である、と
いうのが教団側の反論です。この論理を進めると、実相にはモデルがないものであるから、あく
までも無相である、という発想になるかと感じています。(これも違ったらごめんなさい。)

*次の投稿は用事を澄ませてからになるので、遅れます。ごめんなさい。

(つづく)

43トキ:2014/01/11(土) 14:35:57 ID:4XvuVX0A
 さて。ここから先、お願いをしたいのは、身分いやしき者様をはじめ投稿者様の
身元を管理人は知らないし、実在の人物とは全く違う存在だと考えている事です。
また、身分いやしき者様や曵馬野様などは現在の総裁や教団を支持する立場だが、
あくまでも個人としての意見であり、教団を代表する立場でもない、と考えている
事もご理解下さい。「いや、違う」というのは自由ですが、万一、優秀な弁護士を
多数擁する教団が裁判をしかけても、この掲示板の管理人は一切関知しないので
そのつもりで。また、以下の考え方は、あくまでもトキ個人の感想で、それ以外の
ものではないので、そのつもりでお願いします。

 後期の谷口雅春先生の重要な思想の一つに「日本国実相顕現」というお考えがあり
ます。「鎮護国家」をとなえる総本山の建立のバックボーンとなる教えでもあります。

 つまり、実相の世界には、既に「天皇国日本」というモデルが存在し、それを現象の
世界に写すのが運動のテーマである、という事になります。

 身分いやしき者様がそんな事を考えているとは思いませんが、もし、実相無相論を
前提にすると、実相にはモデル自体が存在しないのだから、モデルの一つである
「天皇国日本」も形としては存在しない、という主張も論理としては成り立つ余地が
あります。すると、「日本国実相顕現」という思想も不要になり、これがいきつく
とドミノ倒しのように「鎮護国家」も「総本山」も不要という結論にいきつく余地
もあります。すると、愛国運動をする必要もなくなり、あとはその時代に応じた問題
(例えば環境運動や絵手紙など)をしていればいい、という発想も可能です。

 実相無相論は、使い方によれば、現在の教団の方針を肯定する理論になりうる存在
です。トンチンカンさんは、屁理屈と言っていますが、なかなか「優れた」考え方です。

 もっとも、私は、その立場には立ちませんが。

 断っておきますが、現在の教団や総裁がこういう主張をしている訳ではありません。
あくまでも、実相無相論を前提にしたトキ個人の考察です。

 さて、また用事でしばらく留守にします。ところで、本流復活派の人達にとっては、
この実相無相論は、重大な問題を含むと考えます。コメントは歓迎します。ただし、
罵倒や個人攻撃はご遠慮下さい。

44トキ:2014/01/11(土) 18:54:35 ID:4XvuVX0A
 続きです。

 私個人は、多様な意見が教団内部でも存在して当然だと思っています。また
現在のような時代に、昭和の時代のような教団のあり方が通用するとも思って
いません。ネットの時代になり、誰もが簡単に情報にアクセスできる時代にな
りました。逆に、経済成長も止まり、かってのような経済的な負担を信徒さん
にお願いするのも難しい時代だと思います。

 実相無相論は、そういう時代に柔軟な対応ができるメリットはあります。が、
反面、「暴走」というか、限界がなくなる危険性もあります。

 「身分いやしき者」様の問題提起は、信仰の暴走についての懸念だと拝察しま
すが、言い方は悪いけど、これは特定の思想信条を持った場合についてまわる
問題の一つだと「諦めざるを得ない」と思います。

 むしろ、信仰の実践の場面で、あるいは組織運営の場面で、そういう問題をど
う取り組むのかを正面から、みんなで議論をし、考える事しか方法がないとも
思います。

 貴重なご提言をして下さったのに、水をかけるような内容の投稿になり、お詫
びします。また、真摯な姿勢にも感謝申し上げます。今後ともご投稿のほど、お
願いいたします。

合掌 ありがとうございます

45身分いやしきもの:2014/01/12(日) 01:13:52 ID:iei0MD3c
トキ様

議論ができるというのはいいものですね。わたしの書いた内容が議論に発展することなどついぞなかったという気がいたします。

釈迦が実相無相を悟ったのかどうか、わたしも存じておりません。しかも「無相」がなにを意味するのかも存じておりません。わたしのいう無相とはきわめて単純なものです。無相とは、主観客観未分離の状態をいいます。

日本国の実相が主客未分離の世界に理念として存在しているのかどうかはわかりません。しかし、主客未分離の世界に特定の理念が存在しているということはいかにすればいえるのか、ということには興味があります。

主客未分離の世界とは、みるものもみられるものも存在しない世界です。いかなるものがそこにあろうとも、それを対象化できない世界であると考えます。特定の理念がそこにあったとしてもそれを対象化するのは不可能であるはずです。その対象化できないもののなんたるかをいかにすれば言い当てることができるのか、このことには興味があります。

いかなる理念があろうともその対象化が不可能であるがゆえに、主客が分離した世界を創造する必要があったとわたしは考えます。主観と客観とに分離させてみて、そこになにがあらわれるのかを確認しないかぎり、主客分離以前の世界になにがあったかを知るすべはないと考えます。

日本国の実相が主客分離した世界ですでに顕現されたというのであれば、その実相は主客未分離の世界にあったと考えることができます。雅春先生はおそらく実相世界においてすでに顕現しているとおっしゃっておられるのでしょう。しかし実相世界とはなんなのでしょう。問題は実相世界とはどういう世界なのかということなのです。

46身分いやしきもの:2014/01/12(日) 07:53:38 ID:iei0MD3c
トキ様

>また、身分いやしき者様や曵馬野様などは現在の総裁や教団を支持する立場だが、
あくまでも個人としての意見であり、教団を代表する立場でもない、と考えている
事もご理解下さい。「いや、違う」というのは自由ですが、万一、優秀な弁護士を
多数擁する教団が裁判をしかけても、この掲示板の管理人は一切関知しないので
そのつもりで。

本流の「怒りの信徒代表」なる人物は、わたしのみか、総裁までもが「異常性格者」であると明確に語っておりますね。わたしにたいしてならともかく、実在の人物でしかも社会的に地位のある人物にたいして「異常性格者」であると、はっきりと述べております。

その他、、総裁にたいする誹謗中傷はあとをたちません。訴訟のうごきがじっさいにあるのかどうかは存じませんが、訴訟にでもなれば、誹謗中傷した側が不利になるのはあきらかでありましょう。

問題は、わたしの書き込みが原因となった誹謗中傷がおこなわれているということです。たとえそうであっても、わたしは総裁であることを一貫して否定してまいりましたし、今回も、本流の重鎮に電話までして総裁ではないことを証明しようとしたわけですから、まさか訴訟の対象になるとは考えておりません。

しかも、総裁に迷惑をかけているとおもうのなら「総裁に謝罪して立ち去れ」とまでいわれているわけですから、わたしが総裁でないことはすでに公然の事実になっているものとおもわれます。

しかしそれでも安心はできませんので、どこがどう似すぎているのかをたしかめて、問題があるとわかれば、すみやかに総裁に謝罪して逃げ切りをはかるつもりでおります。

47トキ:2014/01/12(日) 14:24:40 ID:jdO0MB3M
>>44

 コメント、ありがとうございました。
お返事は後ほどさせていただきます。

48身分いやしきもの:2014/01/12(日) 17:02:05 ID:iei0MD3c
トキ様

実相有相論では、たとえそれを「無我」、「本来の自己」と言い換えたところで、どこまでいっても「私」がついてまわります。有相とは形があるということです。「私」がいなければ誰がその形をみるのですか。誰もみなければ形などないのとおなじです。形をみる「私」は、実相有相論ではなくてはならぬ存在なのです。

実相有相論では、形と「私」がかならず対になって存在します。実相有相論は二元論なのです。「無相」とは、形があろうがなかろうが、それをみる「私」が存在しない状態をいいます。実相無相論こそが、「私」が存在しない一元論です。

「実相をみる」といっても、「私」がみているのであればこれは二元論です。二元論を否定するには、「私」をなくしたところで実相をみるしかありませんが、「私」をなくしてしまったのでは、これは実相無相論ということになります。実相有相論は、どこまでいっても「私」がついてまわる二元論的世界観ということがいえるはずです。

49トキ:2014/01/12(日) 20:23:39 ID:nHU5.MsU
身分いやしきもの様

 大昔、天皇機関説事件の時に、美濃部達吉博士が、

 「個人主義が悪いと言うが、明治時代から個人主義を採用したから日本がこれだけ
発展したのではないか。」

と逆襲した事を思いだしました。私の立場はたぶん、この美濃部達吉さんの立場に近いかも
しれませんね。閑話休題。

 私もこの問題について深く考えた訳ではないので、ざっとした感想になります。実相無相論
といえるかどうかは不明ですが、生命の実相第1巻の冒頭に魂の議論が出ています。つまり川
の流れと魂のたとえの部分です。谷口雅春先生は、この立場を否定されています。

 ただ、私のイメージは、実相有相論と実相無相論は矛盾しないのです。ビッグバン以降、時間
と空間が出現した以上、実相の世界にあるものが現象の世界に出現する場合、何かのイメージが
存在すると考えるほうが説明がつきます。その場合は実相有相論と考えるべきでしょう。

 反面、ビッグバン以前の世界、あるいは我々が認識可能な世界以外の神様の領域では、そういう
イメージは必要ないので、実相無相論での説明は可能だと思います。

(つづく)

50トキ:2014/01/12(日) 20:34:22 ID:nHU5.MsU
 例えば、現在の日本国憲法では、第3章に人権条項があり、第14条には平等だとか
いろいろと書いてあります。

 しかし、会社に行けば、上司と部下は平等ではありません。学校では、いくら憲法で
言論の自由があると書いてあっても、授業中は大人しくしなければいけません。

 それは、学校や会社はその中で独自の自治があり、その自治を法律も認めている以上
は、その内部の規則が優先するからです。

 この「私」もない、という「悟り」ですが、私の縁者の「一白鳩会員」が祈っていて
そういう啓示を受けた事があるそうですから、宗教的な意味では正しいのかもしれま
せん。

(つづく)

51トキ:2014/01/12(日) 20:42:32 ID:nHU5.MsU
 例えば、ビッグバンの存在を無視して、つまりこの現象の世界を全てを否定した
ら、身分いやしきもの様の言う通り、実相無相論で十分に説明が出来ると考えます。

 でも、現象の世界の存在を前提(まあ、見えているだけである、というのが生長の家
の教えですが)にする以上は、実相有相論でいくほうが説明がつくと思っています。

 さらに言うと、神がこの現象の世界の存在を認めたのは、何か意味と意義があると
考えるべきかと信じます。実相無相論のほうが人間から見たら仮に都合がよくても、
神は実相有相の世界の望んだ、とも考えています。

 まあ、有る意味、ずるい考え方ですが、そう思っています。

52身分いやしきもの:2014/01/12(日) 21:12:33 ID:iei0MD3c
トキ様

>ただ、私のイメージは、実相有相論と実相無相論は矛盾しないのです。ビッグバン以降、時間
と空間が出現した以上、実相の世界にあるものが現象の世界に出現する場合、何かのイメージが
存在すると考えるほうが説明がつきます。その場合は実相有相論と考えるべきでしょう。
 反面、ビッグバン以前の世界、あるいは我々が認識可能な世界以外の神様の領域では、そういう
イメージは必要ないので、実相無相論での説明は可能だと思います。

そうですね、実相有相論と実相無相論は矛盾しません。矛盾が生じるのは、有相の世界を根源的世界と考えるときです。

トキ様がいっておられるように、根元的世界は無相です。有相の世界ではありません。無相をふたつに割ることで有相の世界である実相世界があらわれます。無相の世界が一義的世界であり、有相の世界である実相世界は、無相の世界から派生した二義的世界ということになります。

53身分いやしきもの:2014/01/12(日) 22:48:20 ID:iei0MD3c
トキ様

どこまでいっても「私」がついてまわる生長の家の考え方で到達できるのは、二義的世界である実相世界までであって、一義的な世界である無相世界には到達できまいと、曳馬野さまはいっておられるようです。

ところが雅春先生は「一念不生のところに真実生命の動くを見たるが盤珪なり」ともいっておられます。盤珪禅師といえども、主観客観未分離の無相の世界で「真実生命の動くを見たり」というわけにはまいりません。ではいったい、盤珪禅師はどこでなにをご覧になられたのでありましょうか。

「一念だにあらば仏心かくくる也」とは、道元のいう「自己をはこびて」です。であるなら、「一念不生」とは「万法すすみて」となるよりほかはありません。

「万法すすみて」とはどういうことなのでしょう。万法すすみきたりて、盤珪禅師はどこでなにをご覧になられたのでしょう。

「何もしないことに全力を尽くす」とは只管打坐についてもいえます。「只管」でありながら、何もしないことに全力を尽くす。そうすることで万法がすすみいでるとはどういうことでありましょう。

54志恩:2014/01/13(月) 06:03:41 ID:.QY5jUA6
曵馬野様

盤珪禅師の《一念だにあらば仏心かくくる也》 とは、

『仏性、仏心=真我』…この「一念」を、

寝ても覚めても、捲まず撓まず、心に携えておれ、
そうでないと、仏心が、いつの間にか、隠れてしまうからな、という意味だと思います。

身分いやしきもの様が書かれました「只管打坐」のことでもあると思います。

曵馬野様が言われた

「何もしないことに全力を尽くす」の、「何もしない」とは、

●ほんとうに なにもしないことでも
●何も考えないことでも
●ただ7月のヤリ(ボンヤリ)でいることでもなく。

♠仏教の核心は、

「知識」多き人にはわかりにくいものであるから、
「知識」を捨てて、心の底をぶち破り、底抜けになった、「大馬鹿」になっておれ。
 「大馬鹿」でないと わかりにくいのでな。
ということが、
仏教の書にも書いてありますから、
「一念だにあらば とは、真我、仏心でおらないと、という意味」だと思います

雅春先生が《一念不生のところに真実生命の動くを見たるのが盤珪なり。
      一念だにあらば仏心かくるる也。一念とは智慧の樹の実也。
      智慧の樹の実を食べれば堕地獄なり。》と、おっしゃっておられますように。

盤珪禅師の説法に、⬇

「仏になろうとか 悟ろうとか するよりも、
「寝ても覚めても 一日中、ひたすら 「仏心の 一念」でおれ。

 生まれたままの、 清浄心の一念で おるように 心がけよ。

 本来 人間は、仏心であるのだから、知識を詰め込むよりも、
 なによりも、只座禅をして、
 そのまま、ありのまま、仏であることを瞑想して仏と一体であることを実感せよ。
 その方が、ぞうさがのうて仏になる近道であるぞ。」

とありますように、雅春先生が説かれた上記のことと、一致していると思います。    

盤珪禅師のおことばー

《親が、生みつけてくれたは、仏心一つでござる。その仏心は、まこと不生にして、霊明なるもので、
  これのみにて、人間一切が調いまする。》

 般若心経ー
このお経の文言に『不生不滅不垢不浄』というのが、ございますが、
 生まれていないから、死する事(滅する事)も無し。という意味です...、

(これは、言うまでもなく、五官の現象世界の立ち位置ではなく...….、)

このように、
雅春先生がおっしゃったことと、
盤珪禅師がおっしゃったことと、説法が一致していると 思います。

55志恩:2014/01/13(月) 06:09:51 ID:.QY5jUA6
デジタル大辞泉の解説 より

いち ねん 【一念】

1 ひたすら心に深く思いこむこと。また、その心。「親の―念が通じる」

2 ふと思うこと。「一念なりとも悔ゆる心を発(おこ)すべきなり」〈発心集・五〉

3 仏語。
非常に短い時間。瞬間。「ただ今の―念、空しく過ぐる事を」〈徒然・一〇八〉

「臨終の―念は百年の業に勝る」〈往生要集・中〉

56神の子さん:2014/01/13(月) 07:04:28 ID:qDxPv/.g
404 :正義の使者:2012/08/09(木) 01:28:39 ID:4XyYSDw.
合掌

ある知人からの情報です。

まだ、雅宣氏が副総裁だった頃、
雅春先生と共同で心霊の研究をされていた浅野和三郎さんと言う方の流れをくむ、
「心霊科学協会」の方から聞いた話によると、

雅宣総裁の頭には「私は神だ」と言っている霊が憑いており、
足には蛇の霊が憑いているとの事でした。

また純子女史(女史と言うほどの知性は感じませんが)には動物霊が憑いているみたいです。

「私は神だ」と思っているのは低級霊の証拠で、『甘露の法雨』では「創造の神は五感を超越している、
六感も超越している、・・・・(中略)・・・・・人々の感覚に映ずることなし」
この文章を読めば誰も「私は神だ」とはまっとうな人ならば思うはずはありません。

また、蛇の霊と言うのは傲慢の象徴で雅宣総裁の心境が傲慢そのものである事を現わしています。
そして、動物霊が憑いているという事は、純子女史の境涯が畜生道に落ちている事を現わしています。

知人に聞いたところ、雅宣総裁が結婚相手として雅春先生に純子女史を紹介したところ、
「この女は生長の家を滅ぼす」と雅春先生がおっしゃったと聞いております。

これは親和の法則により雅宣総裁が「生長の家を滅ぼす」境涯の人間であった事を現わしています。

他にも生長の家総裁としてふさわしい方がおられた事を思うと、
清超先生のご判断ミスが悔まれてなりません・・・

再拝合掌

57神の子さん:2014/01/13(月) 08:37:14 ID:???
雅春先生がそんな事を言われると信じた時点で生長の家人じゃないね

58志恩:2014/01/13(月) 09:27:37 ID:.QY5jUA6
>>56; 神の子さん様は、私ではありません。

59志恩:2014/01/13(月) 09:31:03 ID:.QY5jUA6
×《一念だにあらば仏心かくくる也》: ◯《一念だにあらば仏心かくるる也》

60身分いやしきもの:2014/01/13(月) 11:07:33 ID:iei0MD3c
志恩様

道元の悟りの神髄は「透脱」であるという人がいます。「透脱」とは「なにも考えない」ということだそうです。なにも考えないとはどういうことか、おわかりでしょうか。

たとえば物理学の問題を解いているとします。このときになにも考えずにいられるかということなのです。なにも考えずに、物理学の問題が解けるかということなのですよ。

かつてのわたしは、なにも考えずに問題を解くことができていました。なにも考えずにいると、問題の解き方が自然と思い浮かんでくるのですよ。

しかし、問題を説いていながらなにも考えずにいるというのは、おもうほどに簡単なことではありません。それができるためのポジションに自分をおく必要がわたしにはありました。

「あるポジションに自分をおく」とはどういうことでしょう。万法すすみてくるところに自分をおいて、あとはなにもせずにそのまま万法にまかせておけばすべてがととのうということです。しかしこれをやりすぎたために、わたしはときおり、自分でものぞまぬ無我の境地へとおちいることになります。

一日中、ひたすら仏心の一念でおれ。これはそれほどむつかしいことではありません。あるポジションに自分をおくその仕方さえ間違わなければ誰にでもできることなのです。問題は、誰もがその仕方を間違うことにあります。

61トキ:2014/01/13(月) 11:39:46 ID:5JgYOXqc
>>53

身分いやしき者様

 夏目漱石が『則天去私」を座右の銘にしていたのは有名
です。もっとも彼は死ぬ時に『死ぬと困るから」と言い残した
ので、確か正宗白鳥だったかが笑ったみたいです。夏目漱石
の次男によれば、『則天去私」とは、夏目漱石がありたいと
願う姿を表現したもので、決して今、自分の全てを無にした
というのではないみたいです。

 それで思い出したのですが、私の大学時代の恩師がガン
になり、余命の宣告を受けていたので、お見舞いにうかが
った時の事です。『今迄自分の力で何とかしようと思って
いたから苦しかったが、自分というものをなくしたら、た
いへん楽になったよ。」と話されていたのを覚えています。

 こういう事を考えると、『私」を去る、というのは人間
のあるべき理想の一つかもしれません。確かに、人間が生き
てきて、為すべき事をやり遂げ、その上で、静かな境遇で
『私」を去る、というのは素晴らしい事かもしれません。が、
最初からいきなり、無私だとか言われても人間のあるべき姿
だとは思わないし、それを強制するのは危険な事だとも感じ
ます。

 今月号の文芸春秋にオウムの井上嘉浩(死刑囚)の手記が
掲載されていましたが、オウムでは『考えるな」という指導
を徹底されたと回顧しています。それは楽な生き方だったが、
同時に人間としての成長も無くした事を意味したとも書いて
います。

 無念無想でいると、いわゆるおかしな霊入り込むという
危険性も言われます。『私」をなくすという目標を否定す
る訳ではないですが、この人間界にいる限りは、それを過大
に強調するのは危険かと感じます。

 本題とは少し違いますが、こういう事も感じております。

62トキ:2014/01/13(月) 13:03:49 ID:5JgYOXqc
>>46

 少し私見を申しあげます。私も掲示板の管理人をするときに
は、法律に詳しい友人にいろいろと話を聞きました。宗教法人
のトップについての判例で有名なのは、創価学会の池田大作さん
の「月刊ペン」事件で、それ以外に最近は幸福の科学の大川隆法
さんの事件も参考になります。結論を言うと、宗教法人のトップ
については、公人に准ずる存在とされ、プライバシーはかなり制限
されます。言い換えると、総裁は、大川さんと池田さんのおかげで酷い
目にあっているとも言えます。

 確かに、今、他の掲示板などを見ると、総裁のことをクソミソに
貶す投稿がこれでもか、これでもか、とされているので、有る意味
彼も気の毒だと感じます。

 ただ、最高裁がああいう判例を出した背景を考える必要もあると
思います。

 例えば会社などは、会社法により、少数株主権が保障され、取締役
の違法行為差し止め権もあるし、株主総会で取締役は説明義務をおわ
されます。債権者の権利も認められています。公益法人の場合は法律
で監督官庁の監視権が認められています。最近では、日本相撲協会が
文部科学省の大臣に呼び出されて説教されたり、柔道連盟がお叱りを
受けています。

(つづく)

63神の子さん:2014/01/13(月) 13:15:52 ID:Q6t.8WVc
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140113/waf14011307000000-n2.htm





 聖書は読者を選ぶ。





 

 人間が介入したものはすべてフィクションだ。実用書だろうが学問書だろうが図鑑だろうが実録だろうが、すべてフィクションだ。なぜなら学問だのノンフィクションだのとさだめているのは人間だ。そしてそれらは確固たる事実に基づいていても常に更新される。場と時によって理論は変化するからだ。不完全なものがさだめるものはすべて不完全である。不完全なものをフィクション以外に表現できるだろうか。自然も不完全である。

 聖書の神の言葉そして人の歩みから真実と真理を掘り起こしていけるものだけがフィクションに囲まれた状態から抜け出すことができる。





 本屋にあるすべての本、世界そのものがフィクションで、そうでないもの(不変の存在)は神だけだ。だから到達しないならすべてに意味がない。







 テロメディアはこういった論争を煽り立てることが大好きだ、なぜならその先に殺し合いがあるからである。

64身分いやしきもの:2014/01/13(月) 13:25:38 ID:iei0MD3c
志恩様

>「奥底の一念が、お国のため、社会のため、人のためで働いているか、
 はたまた、自分中心で、働いているか、
 この一念の差で、
 前進か 後退かが 決まる」と思います。

万法が、「お国のため、社会のため、人のため、はたまた自分中心」に働いていると考えておられるのですね。

国も社会も人も自分も箱のなかの幻想ではないのですか。万法がこのような幻想のためにすすみでてくると本気で考えておられるのですか。

実相有相論に立つ人は、「なにかのため」ということをしきりにいうようになりますね。実相有相論に立つ人は、有相のなかに究極の価値をみいだしてしまうのです。「私」が立てた究極の価値を実現することこそが使命である思い込むようになるのです。そしてついには「日本国実相顕現」などという考えにとりつかれてしまうのです。

「私」が立てた究極の価値を実現することこそがわが使命である、というがごとき考え方をすることじたいが危険なこととはおもわれないのですか。実相無相論は究極の価値を立てるようなことはいたしません。究極の価値を立てるのは、実相有相論に立つ人々なのです。実相無相が心におさまっている人々からは、「究極の価値実現」というような危険な考え方がでてくるはずがないのですがね。

実相を無相と考える人々は、「国のため、社会のため、人のため」というような実現すべき価値をまえもって立てるようなことはいたさないのです。万法がすすみでてくるままに実現すべきことを実現していくだけです。それが結果的に国や社会のためになるのであれば、それを否定する理由はありません。

65曳馬野:2014/01/13(月) 14:59:39 ID:Osg1P9Ac


>>61 トキさん

 ● 無念無想でいると、いわゆるおかしな霊入り込むという
危険性も言われます。『私」をなくすという目標を否定す
る訳ではないですが、この人間界にいる限りは、それを過大
に強調するのは危険かと感じます。

無念無想に関してそのように新講甘露の法雨解釈に説かれてはいます。
人間は、この人間界にいると云われますが、それが生長の家の説く人間の居る所なのですか?
人間とはどのようなものと説かれていますでしょうか?


○ 内も外もない。それじゃから、内部からどんなことが起きようと、外部からどんなことがあろうと、そういうことを一切問題にせんってことは、
それなんです。問題にしないと云うことは、そういうようなことがありながら、「内外打成一片」です。内とも外ともない。
ただそういうような「打成」の様子がある…引用の井上老師の言葉

対象に取りつくことなく取りつかれることなく、存在しているものは無いのでしょうか?

66トキ:2014/01/13(月) 15:08:45 ID:5JgYOXqc
 おくれてごめんなさい。

 ところで、宗教法人の場合、会社法と違って内部で執行部を牽制するような
システムが整備されていません。公益法人と違って外部から執行部を監督する
権限も存在しません。では、法律を改正しようかと思うと、公明党をはじめ
与野党に宗教法人を支持母体とする政治家が多数いるので、改正も期待できま
せん。

 宗教法人は、今も昔も大きな影響力を社会に与えます。筆頭が創価学会で
公明党を使って国政に絶大な影響力を与えています。人権に関する問題も
オウム真理教や統一教会など、様々な事例が報告されいます。資産について
も、大企業とならぶ額を保有している団体は珍しくありません。

 (つづく)

68身分いやしきもの:2014/01/13(月) 17:44:55 ID:iei0MD3c
総裁先生には多大なるご迷惑をおかけいたしました。ここに謹んでおわび申し上げます。こちらの掲示板での投稿は今回をもちまして終了いたします。これもってお許しをいただきますよう伏しておねがい申し上げます。

みなさま。ではこれにて。

71トキ:2014/01/13(月) 18:46:47 ID:5JgYOXqc
 身分いやしき者様が突然退場されたのですが、書きかけの文章のみ投稿をさせて
いただきます。

 つまり、宗教法人の場合、社会的な存在はきわめて大きいのに
その統制手段は限られたものしか存在しないのです。仮に教団が
ある日突然方針を変えたりしても、それを法的に阻止する方法は
存在しないのです。また刑事事件に抵触はしないが、社会通念上
問題のある行為をしても、それを阻止する手段はありません。

 すると、信徒など利害関係者に残されているのは、あとは
ネットなどで教団指導部へ抗議をするぐらいしか手段は残されて
いないわけです。

 最高裁が、宗教法人に関する限り、かなり批判に寛大な姿勢を
とるのは、こういう背景があるからだと思われます。

(つづく)

72トキ:2014/01/13(月) 19:22:36 ID:5JgYOXqc
 つまり法律の不備という問題があり、それをカバーする手段として
広範な教団や教団指導部への批判の認容という関係があるみたいです。

 そこで、2つの事が言えると思います。

 教団批判が正当化されるのは、教団が社会通念上、当然とされる組織
運営もしていない場合です。逆に言えば、宗教法人が民主的な手続を規約
で定め、情報を公開し、少数意見も尊重する姿勢を見せたら、外部での
批判は、法的にも道義的にも正当化するのは難しくなります。

 ここで、生長の家について言えば、過去の生長の家は政治的な立場は
「右」でしたが、組織運営はかなり民主的なものでした。例えば、第1
回の青年会全国大会では、参加者の間で大激論が交わされたと、参加し
た人から直接聞いています。代表者会議も昔は三日間開催され、運動
方針について教区の代表者が発言をする機会を与えられていました。

 しかし、今日の生長の家では、少数意見は無視され、組織に批判的な
意見を出すと、有形無形の不利益を受けます。これに疑問を感じる人は
光明掲示板に投稿をしてみたらいいです。おそらく、山ほど実例をあげ
てくれると思います。

 こういう状況では、ネット上で教団批判をすることは、有る意味
正当化されると思います。教団側が行うべき事は、ネット上の言動を
批判するだけではなく、組織運営をより民主化し、広く信徒の正当な
権利を保障する事だと思います。

 もう一つ、言える事は、ネット上での教団批判が正当化されるのは
法律の不備を補うという公益的な利益があるからです。ですから、
教団指導部の決定が独善的であるとか、不都合な面を指摘するのは
重要です。が、それを超えて、例えば、執行部や指導部にいる個人の
人格の否定までするのは、明らかに行き過ぎだと思います。

(つづく)

73トキ:2014/01/13(月) 19:27:47 ID:5JgYOXqc
 確かに、現在の指導部の言動には私個人も批判的に感じる
部分はあります。しかし、そういう人達にもご家族があり、
プライバシーもあります。それを細大漏らさず暴露したり
根拠もなしに批判をするのも、こういう経過に照らすと
不適切だと感じます。

 この点は、本流復活派の方々に特に目立つ投稿がある
ので、失礼とは感じますが、申しあげます。

 以上は自省も含めて書きました。

74”あんふらまんす”に触れるもの:2014/01/13(月) 20:21:35 ID:5M8CrOnI
「万法すすみて…」

信仰観を確認できありがとうございました。
私の経験では、仕事や他への想いに没頭し、”思わずして”自我が失われた時、
自我一体(他がまるで私の中にいる)、万象が連関して全くの無駄がない、という気づきを得ることがありますが、
その時、現象の私は確かに何か行動はしているように見えるのですが、実際には”私”は「何もしていない」のです。
生長の家では、「我がなすにあらず…」という言葉がありますね。
その時、(何かを”為す”ためではない)「祈りは最大の行動」になり、
ただ、「何もしないことに全力を尽くす」といはそういう意味で、書いたのです。

(…少なくても、トキ様が危惧するような、宗教指導者の言うことや書いてあることを考えなしに信じるということとは、真逆の心境ではないでしょうか?…)

雅春先生は、
生長の家は簡単なのですよ、
「人間神の子、ありがとう」
この10文字に集約される。
と仰いましたが、
私の信仰はひたすら単純なもので、
それが生長の家で学んだことであり、
そのことへの畏敬と感謝の念のみといえるかもしれません。


また、「実相有相」論、「実相無相」論においては、根を同じくする宗教姿勢への違和感が払拭できました。

お互いが事前に共感し合っていたり、出来合い浅いの理解の範囲などはともかく、
深い真理を学ぶには、個人の心と実際対面し、響き合いの中でしか学べないと考えておりますので、
これで失礼しますが、
学びをありがとうございました。

75志恩:2014/01/14(火) 05:45:28 ID:.QY5jUA6
60 :身分いやしきもの:2014/01/13(月) 11:07:33 ID:iei0MD3c

身分いやしきもの様
コメントをありがとうございます。
お返事を差し上げてないうちに、さよなら されましたけれど、もしかしたら、
ご覧になられておられるかもしれませんので、遅れましたけれど、お返事させて頂きます。

身分いやしきもの様ー
>>道元の悟りの神髄は「透脱」であるという人がいます。
「透脱」とは「なにも考えない」ということだそうです。なにも考えないとはどういうことか、おわかりでしょうか。

たとえば物理学の問題を解いているとします。このときになにも考えずにいられるかということなのです。
なにも考えずに、物理学の問題が解けるかということなのですよ。

かつてのわたしは、なにも考えずに問題を解くことができていました。
なにも考えずにいると、問題の解き方が自然と思い浮かんでくるのですよ。

しかし、問題を説いていながらなにも考えずにいるというのは、おもうほどに簡単なことではありません。
それができるためのポジションに自分をおく必要がわたしにはありました。<<

志恩ー
私は、仏教のことは、とんと不勉強で わからないことだらけなんです。
清超先生著「「正法眼蔵」を読む」も未読な 未熟者でして、購読しようかと思いまして、アマゾンコムを
見ましたら、上巻だけでもお高いので、躊躇して まだ買っておりません。

身分いやしきもの様が 横浜に住んでおられるのなら、借りに行きたいところです…….。

道元禅師は、曹洞宗(そうどうしゅう、じゃなくて、そうとうしゅう と、読む)の祖。

永平寺(福井県)、総持寺(横浜市鶴見区)、それから青森県山内の「いたこ」も
曹洞宗の管轄だそうですね。

専ら「座禅」をさせるそうですよ。ちょっと、初心者様のイメージと、ちゃうなぁ。
初心者様は、「座禅」というより、「ドリーミング」というイメージですからね。
あっ、訂正。最近のHNは、初心者様じゃなくて、身分いやしきもの様でした。

8文字なので、キーボード打つとき、いちいち長いんだよね、この名。
(もう一人の、アンパン フランスパンの人よりは、まだ まし だったけれど。
 こんど、つぶあん、か、こしあん にしてもらえるとうれしいです、 名を打つ時、短いから)

身分いやしきもの様ー
>>「あるポジションに自分をおく」とはどういうことでしょう。
万法すすみてくるところに自分をおいて、あとはなにもせずにそのまま万法にまかせておけばすべてがととのうということです。
しかしこれをやりすぎたために、わたしはときおり、自分でものぞまぬ無我の境地へとおちいることになります。<<


志恩ー自分で答えられる能力がないもんで、web 丸写しですみません。
♣【自己をはこびて万法を修証するを迷ひとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。】(現成公案)

 まず、「現成公案」とは何かと言うと、
「現実はあるがままで何不足ない真実であり、万物は分を守って平等である」という意味です。
やはり、華厳的な意味合いを含んでますね。そして、自分から悟るのではなく、
修行をするうちに法界から自分に働きかけてきて悟るのだ、と言ってます。

このあたりは、一見親鸞の他力論に似ていますが、仏性の解釈が 人間には仏性がもともとあるんだ、という認識を
道元禅師は持っていないので、このような言葉になるのだと思います。

♠【佛道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。】(現成公案)

 同じ現成公案からの言葉からですが、ここに有名な「身心脱落」という言葉が出てきます。
仏道をならうという事は、結局自分というものをお捨てなさい、と言ってます。
私のようについ最近まで自己中心主義にどっぷりつかっていた者は、非常に難しいのですが、最近やっと少しずつ利他というものが出来るようになってきました。

76志恩:2014/01/14(火) 05:54:20 ID:.QY5jUA6
身分いやしきもの様

74番のお方が、「なにもしないとは」について、goodなお答えを出されていました。

74番様ー
>>「万法すすみて…」

信仰観を確認できありがとうございました。
私の経験では、仕事や他への想いに没頭し、”思わずして”自我が失われた時、
自我一体(他がまるで私の中にいる)、万象が連関して全くの無駄がない、という気づきを得ることがありますが、
その時、現象の私は確かに何か行動はしているように見えるのですが、実際には”私”は「何もしていない」のです。

生長の家では、「我がなすにあらず…」という言葉がありますね。
その時、(何かを”為す”ためではない)「祈りは最大の行動」になり、
ただ、「何もしないことに全力を尽くす」といはそういう意味で、書いたのです。<<

77志恩:2014/01/14(火) 06:17:20 ID:.QY5jUA6
身分いやしきもの様

もう1つ、お答えしていないのがありました。
>>64:身分いやしきもの:2014/01/13(月) 13:25:
 志恩ー「奥底の一念が、お国のため、社会のため、人のためで働いているか、
     はたまた、自分中心で、働いているか、
     この一念の差で、前進か 後退かが 決まる」と思います。

身分いやしきもの様ー
>>万法が、「お国のため、社会のため、人のため、はたまた自分中心」に働いていると考えておられるのですね。
国も社会も人も自分も箱のなかの幻想ではないのですか。万法がこのような幻想のためにすすみでてくると本気で考えておられるのですか。

実相有相論に立つ人は、「なにかのため」ということをしきりにいうようになりますね。
実相有相論に立つ人は、有相のなかに究極の価値をみいだしてしまうのです。
「私」が立てた究極の価値を実現することこそが使命である思い込むようになるのです。
そしてついには「日本国実相顕現」などという考えにとりつかれてしまうのです。

「私」が立てた究極の価値を実現することこそがわが使命である、というがごとき考え方をすることじたいが
危険なこととはおもわれないのですか。実相無相論は究極の価値を立てるようなことはいたしません。
究極の価値を立てるのは、実相有相論に立つ人々なのです。
実相無相が心におさまっている人々からは、「究極の価値実現」というような危険な考え方がでてくるはずがないのですがね。

実相を無相と考える人々は、「国のため、社会のため、人のため」というような実現すべき価値をまえもって
立てるようなことはいたさないのです。万法がすすみでてくるままに 実現すべきことを実現していくだけです。
それが結果的に国や社会のためになるのであれば、それを否定する理由はありません。>>

志恩ー
(「万法」= 仏法用語。①あらゆる事物、全ての存在。②全ての教え )

 万法が、自分から でてくる。とは、言っていません。
「出せ!!」って、おのれにも、あんたにも言ってるんです。

「日本国実相顕現」も、ひっこめるんじゃねぇ。出せ!!

末端信徒の七十路婆の一念、果たして、通じるであろうか?????

78志恩:2014/01/14(火) 06:26:12 ID:.QY5jUA6
一念だと、ダメでしたかしら………我の力みがありますからね、
一念は、智慧の樹の実…。それでは、諸仏様の大威神力におまかせしましょう。

79トキ:2014/01/14(火) 14:08:44 ID:kWabKlGw
身分いやしきもの様

 掲示板から去られるとの事で寂しく感じております。

 実相の無相と有相については異なる意見ですが、いろいろと勉強になりました。
心から感謝申し上げます。

 また、適当な時期に再登場される事を心からお待ち申しあげます。

合掌 ありがとうございます

80志恩:2014/01/15(水) 18:15:32 ID:.QY5jUA6
曵馬野様が語っておられた「曹洞宗」に関する 
 著書「恐山」(新潮新書)についてを、
トキ様が、別板に
書かれておられましたので、転載させて頂きます。

  読書紹介板(別板)

6 :トキ:2014/01/08(水) 20:23:42

 曳馬野さんが、本板で曹洞宗の禅についていろいろと書かれています。
 あちらでは、本流復活派の人達に向かって話しているので、
 安易に書くと妨害になるので、こちらに書きます。


 恐山というところは、面白い事に 曹洞宗なんです。

昔は天台宗だったのですが、いろいろな経過があり、禅宗になったそうです。

ご承知の通り、恐山は「イタコ」で有名です。

しかし、曹洞宗は、死後の世界については「無記」つまり議論をしない、という教義になっています。

 現在の恐山の住職代理の南直哉さんは、永平寺で20年間も修行をした人です。

ところが、恐山の住職のお嬢様と結婚した事で、福井県のお寺の住職をしながら、

恐山の住職代理も勤める事になったのです。

   新潮新書の「恐山」には そのあたりの事が書かれています。

 恐山という場所は、伝統的な曹洞宗の教えとは かけ離れた場所みたいです。

しかし、現実にイタコが多数集まり、死者の霊の呼び出しをしているのですから、その

姿を見て、「無記」という事はできないのです。

 例えば、イタコの「口寄せ」の順番を待っている人達の光景を見たカナダ人の観光客が、

ふざけ半分でその行列に加わった事があったみたいです。

そこで、笑い乍ら イタコの家に入って行ったのですが、出て来る時には号泣していたと言います。

出て来た彼が、泣き乍ら言うには、「イタコに 母親の霊を 呼び出してもらった。

イタコは 家の間取りも知っていたし、自分と母親しか知らない 事実も 知っていた。

あれは間違いなく母親の霊だ。」と。

 東日本大震災など、愛する人を喪った人達が 恐山を訪問して癒されているという現実

を見ると、その意味を 感じざるを得ないと言います。

 つまり、伝統的な永平寺の教学と 恐山の存在は 表面的には矛盾します。

が、それを肯定することは、より広い意味での 仏教の趣旨にあう、というのが著者の主張です。

81閲覧者99:2014/01/15(水) 18:38:56 ID:FXz1MWRA
>8文字なので、キーボード打つとき、いちいち長いんだよね、この名。
(もう一人の、アンパン フランスパンの人よりは、まだ まし だったけれど。
 こんど、つぶあん、か、こしあん にしてもらえるとうれしいです、 名を打つ時、短いから)

  こういうのって、基本的に人の自由でしょう。
 ここはこういう書き方がわかりやすいとか、勝手に添削したり、
 妃殿下とよぶなという投稿をしても執拗にそうよぶひとがいたり、
 何が聖典を論拠になんだって気分になりますね。

82うのはな:2014/01/15(水) 18:41:17 ID:FXz1MWRA
  身分いやしきもの様へ

 そのうち、うのさんと一緒に「生長の家・脱流掲示板」でも
 つくってスカイプ入れちゃいましょうか(笑)?
 またのお越しをお待ちしています。

83志恩:2014/01/15(水) 19:43:23 ID:.QY5jUA6
うのはな姐さん

んとに、身分いやしきもの様に、甘いんだから。
しょうもない人ですね。姐さんは。

思い出しましたよ、姐さんは、
たしか、初心者様の隠れフアンでしたものね。

あれじゃないですか? こっそり、前に
江戸前の握り寿司でも、おごってもらったんじゃないの?彼に。

とにかく、姐さんは、彼に甘過ぎます。
あっちこっちから、ブーイングの靴やスリッパが飛んで来そうです。

それにしても、うのはな姐さんの、「✨」(星)ですか?彼は。
またのお越しを お待ちしていますなんて。(* 'ー^)b
聞き捨てなりませ〜ん。

結構、彼は、ねばるタイプなので、今度は、「ネバリスター」という名は、どうかしら?
「ネバリ星」です。
うのはな姐さんの「星」である「星」を入れて、「ネバリスター」っていう名は、如何でしょう。
「こしあん」「つぶあん」よりは、知的なイメージで、かっこいい名だと思いません….
しかし、「ネバリスター」では、納豆の糸を連想するかもしれませんから、たぶん、この名は ボツでしょう。

私の場合は、ホシは、ホシでも、「ウメボシ」には、改名したくありません。
名前負けして、急に老けそうです。

84再掲:2014/01/23(木) 16:26:22 ID:Mhi/7ABA
1162 :志恩:2013/03/04(月) 10:49:06 ID:.QY5jUA6さくらさん

私は、しばらく お休みを頂くつもりでしたが、さくらさんの投稿文を拝見して、ひと言申し上げたく出させていただくことにしました。

さくらさんの過去の発言を再掲させて頂きます。

⑴ さくらさんの投稿文より一部抜粋

さくらさんの言葉

〈どちらかで拝見しました。
過去の代表者会議(実際は研修会)で、榎本恵吾先生が鬼気せまるご様子で、
雅春先生のご文章の一部を引用されながら、雅宣総裁に対し訂正を求められました。

【そのような場でのご発言では、井上先生も、決然と生長の家の運動に対してのご自分の意見を提言していたのが、印象的でした。】〉

とありました。

このご文章を読みますと、さくらさんは、
どちらかで拝見したといいながら、まるで、恵吾先生と雅宣先生のやりとりの現場にいらしたような書き方をされているのが、
私は、印象に残りました。

⑵ また、さくらさんは、
 「信徒が教団を去るのは、やはり今のやり方に問題がある、谷口雅宣総裁の方針が間違っているからだと知らしめる以外に道はないと思うのですね。」
 (他掲示板からの引用で失礼いたしました。)
   という結論になるのは、私には…とても理解ができないことなのです。>>ともおっしゃっておられます。

これにつきましても、信徒が教団を去るのは、雅宣総裁の方針が,間違っているからと皆さんが、結論を出し、知らしめるのは、理解出来ない。
と、はっきりとした雅宣総裁擁護 発言をされているのです。
====================================================================================================

>>今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板
143:一観覧者A(さくらさんの旧名) 2011/07/30(土) 00:26:30

(前略)
榎本先生とは、この知人のお祝いの席で初めてお話させて頂き、その知人を通して「弟子像」など送って頂きましたが、

またどちらかで拝見しました、公の場での雅宣総裁と榎本先生とのやりとりがありましたのは、いつかの代表者会議でのこと記憶力しております。

言葉の詳細は、明らかでないのですが、
雅宣総裁の、人類光明化運動の本部はどこにあるか…に関する発言に対し、
榎本先生が鬼気迫るご様子で、雅春先生のご文章の一部を引用されながら、雅宣総裁に対し訂正を求められました。
幹部は皆ヒヤヒヤして見ていたのではないでしょうか。会場の雰囲気が凍りついているように感じられました。

榎本先生がどのような想いであられたかは、私などは知る由もございません…が、
勝手に、先生の人類光明化運動への姿勢の一端が感じられる気がしておりました。

【そのような場でのご発言では、井上先生も、決然と生長の家の運動に対してのご自分の意見を提言していたのが、印象的でした。】
 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
(略)

ただ、榎本先生の信仰には、それら現象を超越したものがあり、
お言葉を拝読するにつけ、ポロポロと…目からと言わず、心身から鱗が落ちるような気がします。

今の生長の家の組織の中では、とても勉強できないことなので…すごく残念です。

しかし、かと言って、

「つまり、教団を去る人を増やすしかない、ということです!」
「それによって、こんなにも信徒が教団を去るのは、やはり今のやり方に問題がある、谷口雅宣総裁の方針が間違っているからだと知らしめる以外に道はないと思うのですね。」

(他掲示板からの引用で失礼いたしました。)

という結論になるのは、私には…とても理解ができないことなのです。>>

85あさひ:2014/01/24(金) 17:46:59 ID:u9w/1zYY
志恩様

ホシはホシでも梅ボシ なんてユーモアのある表現でしょう。

志恩様の向学心にはいつも啓発されています。

86志恩:2014/01/25(土) 20:30:10 ID:.QY5jUA6
あさひ様

お久しぶりですね。
今日まで あさひ様のコメント、気がつきませんでしたので、
返信が、遅くなりまして、すみませんでした。

人間、一生が学びですものね。まだ梅ボシじゃないですけれど、
たとえ梅ボシになっても、ムスビの神様に使われるように精進したいです。

お互いに元気でいましょうね。🍙

87トキ:2014/01/27(月) 14:33:29 ID:E9/1bU26
 以前、この欄で、実相無相論と実相有相論について議論をしましたが、
その件に関連して、以下のようなご指摘を受けました。

 「昭和44年の詳密講習会で、谷口雅春先生は、”実相というと、形がない
ようなものと言う考え方があります。初期仏教ではこういう考え方をしてい
たみたいですが、これは間違いであります。

 実相には具体的に、姿形がありありとあります。」

とご指導されたとの事です。

 御教示に深く感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

88うのはな:2014/02/08(土) 18:39:26 ID:nY40kS3Y

 理数系の宇宙 マター理論 http://www.astroarts.co.jp/news/2013/01/30darkmatter/index-j.shtml

89風笠:2014/02/13(木) 17:14:50 ID:7lmpQUSY
トキ様

お久しぶりです。
本日少し時間がありましたので、このスレッドを見直していると結構深い話をされていましたね。

因みに>>87で雅春先生の御文章を引用されていた通り、実相には質感があると思います。
それは単なる瞑想やその他に精神が高揚して感じるようなものでなく、初めからそこに『ある』も
のですから、通常の感覚よりも存在感(この言い方も変ですが)あるものだと思います。
一切の現象というのは無いのですから、そこにあるものは実相なのです。

少し前に流行った、精神世界系で根本的な世界は観念だけあってそれを感じる為に相対的な世界を
自ら作ったとかの説がありますが(確か「神との対話」とかニューエージ―系の説など)生長の家
で説く実相とはまるで違います。

90風笠:2014/02/13(木) 17:15:34 ID:7lmpQUSY
「そこにあるものは実相です。」といいましても病やその他も「そのまま実相」という事ではありま
せん。 それでは現象ありになってしまいますので。一応要らない補足をしておきます。

91風笠:2014/02/13(木) 18:14:22 ID:7lmpQUSY
実相哲学を論じる部屋との事で、ちょっとだけ時間あるついでに流れを読まずに書き込みをさせて頂き
ます。(普段、なかなか時間が取れないもので読んでおられる方には申し訳ないです。)


実相とは通常の心の状態に関係なく在り自ら顕れるものです。そこには「感謝」すら必要としない
ものです。
現象の心(三界唯心)に関係がないのでそれ自ら顕れるのに遮るものなく、顕れ済のものですので
実相の心そのものがあるので、すべてが『感謝』になるのです。
「感謝する」のではなく自ら世界が『感謝そのもの』であった事に気づくのですね。
それは自分の存在も『感謝そのもの』だったのです。

「天地一切のものと和解せよ。」とは現象の心の調律の後、神が顕れるのではく、現象(の心)を一
切取り払った時に神が顕れているのです。
「天地一切のものと和解せよ。」とは「心の不完全な部分を見つめてそれを修正せよ。」ではなく、
実相から見れば、「一切の現象を捨て、そこにある完全さを見よ。」との事です。
そこには一切の悪霊や黴菌もなく、感謝が出来ていないものもいない。すべが『感謝そのもの』であ
るから「天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる。」・・・この神示を読む人そのもの
の命となって”其処に”顕れるのです。

92風笠:2014/02/13(木) 18:21:04 ID:7lmpQUSY
神示というのは、読む人の心によって取り方が変わります。(「聖道へ」参照)
三界唯心の心が実在であるとの観点から読みますと、本来”無い心”は感謝し切る出来ませんので”無い
もの”を”ある”と思っている以上、その妄想は続きます。聖経の「現象は不完全なるが故に実在となる
事得ず。」なのです。
現象の不完全さを感じるというのは、その造り主の心の不調和の部分を責めたりなかった、もしくは努力
が足りなかったのではなく、もし原因があるとすれば、実相の円満完全さそのものを喜ばなかった・・そ
こにあるのだと思います。
大調和の神示とは『実相の完全さを照らす神示』であって読めば読むほどそこに完全さ、神の命がここに
あるとしみじみと感じるものだと思います。『天照す神示』なのです。大生命、神の温かさの極みの神示
なのです。

93風笠:2014/02/13(木) 18:31:09 ID:7lmpQUSY
補足で少し言ってしまえば、生長の家で初めに感謝しきれなかったのは、雅春先生なのです。
自伝編に書かれている事を昔の私は見落としてました。それでかなり苦しんだ覚えがあります。(笑)
”心もない”ならいま此処に、いま此処ですにですね何があるか、唯心の「心」も”無い”ならその展開
もない。いま自分どこにいるのか。その問いかけが大事かと思います。


ここの掲示板には復興G様や志恩様と言った他、恐ろしい程の諸先輩方の前に文面を出していいのかとい
う心配がございますが、時間が出来た勢いで書き込みを致しました。
ロム専門になるつもりはございませんが、なにぶん書き込みをゆっくりする時間が取りにくいもので、ご
意見があっても少しの回答しか出来ないか、以後書き逃げ状態になるかもしれませんがお許し下さい。

94トキ:2014/02/13(木) 20:11:18 ID:SSPkD/OA
風笠様

 素晴らしいご投稿、ありがとうございました。心から感謝申し上げます。
実に素晴らしいご文章ですね。感激しました。

 実相論という議論は一見、現在の生活や信仰には関係ないように見える
部分があります。しかし、多くの信徒さんに身近な教え、例えば、先祖供養
にしろ、心の法則にしろ、根底には、「実相」とは何か、という話からはじ
まります。

 ですから、例えば教義で分からない事があり、それを聖典などで調べると
きに、「実相」とはなにか、という議論がないと、わからないことになりま
す。ですから、この議論は本当に大切だと感じます。

 生命の実相の自伝編もとても大切なくだりですね。自分が真理を学ぶ時の
大いに教科書になります。

 ご多忙とは思いますが、今後とも、ご投稿のほど、お願いいたします。

合掌 ありがとうございます

95トキ:2014/02/13(木) 20:43:20 ID:SSPkD/OA
 「神は『無』の世界から如何にしてこの世界を造ったであろうか。如何にして星雲を造り如何
にして電子等々の微粒子を造ったであろうか。そこにはまだ電子の如き微粒子すらも存在しない
のであるから、物質は存在しないのだということができるのである。そこには単に「真空」が
充満している。真空が充満しているという言葉は変であるが、「真空」のみがあるのである。

 しかし、「真空」のみであったならば、「無」よりして「有」が生ずるはずがないのである
から、そこから一切のものが生まれて来る以上は、その「真空」は同時に「妙有」でなければ
ならないのである。即ち、その「真空」は無一物中無尽蔵の真空であり、その真空よりして
一切のものが生み出されてくるのである。「真空」は物質ではない。しかしそこから生み出された
所の天体、分子の構造、その物理化学的微妙な数学的秩序というようなものはそれを生み出した
所の力が驚くべき精妙な「智慧」でることを示していることは既に述べた通りである。即ち物質
ならざる「真空」の世界から、物質の最微小単位である所の電子その他の微粒子を造りだした
所の力は「智慧」であるということができるのである。「智慧」は心の働きであるから、結局、
宇宙の創造は「心の働き」-想念によって造られたものであるということができるのである。真空
を物質に改造し今も宇宙に於いて創造を続ける力は想念であるのである。そして人間においては
その宇宙の創造者の「想念」の力がもっとも完全に意識的に発言しているのであって人間に到る
までの動植物の創造は自動機械的に、或は本能的に行われてきたのみであったが、神は人間と
現れて意識的にその創造力の方向を指導することができるようになったのである。だから、吾々
の魂の奥底なる意識的な願いは神が人間に於いて願う所であるから、大宇宙的な力がそれを
バックしていて必ず成就させてくれるに違いないのである

 吾々はこれを信じなければならないのである。」

(新選 谷口雅春選集 「祈りの科学」 日本教文社 19P~20P)

96風笠:2014/02/14(金) 20:06:02 ID:xnsaGHfs
トキ様

お返事ありがとうございます。
一切の教えは実相に根付いているというのは、その通りです。
それでいうのも何なのですが、「実相」なんて分かっても分からなくてもいいと思います。
どこかの先生の生前の評判で「分かったような分からないような話」というのがあるのは御存じだと思います。


分かる、分からないより「実相」を『信頼出来るか』の方が日々の生活の上で大事かと。


他の話も書こうとは思うのですが、「思う」のですが書き込む間と文章に思考を纏める時間がないので・・・
「現象はないのだから頑張ったら書けるだろう。」という声が聞こえそうです。(笑)

恐らく暫く消えます。”恐らく”です。


>>96で「無」「有」に関して雅春先生の御文章の紹介をされているので、ちょっと私見を書きます。

97風笠:2014/02/14(金) 20:08:41 ID:xnsaGHfs
「無」というものを思考するためには、どこか心の片隅に「有」という概念を心に浮かべる。
「有」というものがなく「無」という概念もなく、そこに初めからあるものの場合、対比するものがないから
絶対です。
総てであるからそれを外から観察する主体そのものがないので「無」であり、総てであってそのものである為
「有」という事が言えると思います。

「無」であり「有」であり、また「無」でなく「有」でない存在。『在りて在るもの』が絶対です。



などと言ってみます。

※『在りて在るもの』の単語を通常の生長の家の解釈と違う内容で使用しています。

98トキ:2014/02/14(金) 20:59:24 ID:2n7KYkN.
>>97

風笠 様

 ご丁寧なお返事、ありがとうございました。深い感銘を受けました。

 今日昼休に文芸春秋を立ち読みしていたら、宇宙論についての記事がありました。

 この中に、物理学者が、数学的な無と物理学的な無とは全く違うもので、
物理学的な無とは、かなり具体的なものである、という文章があり、面白く感じ
ました。既に違う宇宙を観測するという試みも始まっているとかで、ここで展開
していた議論が絵空事ではない時代がくるかもしれないと感じました。

 閑話休題。

 私が若い頃に、谷口雅春先生の直弟子の先生が亡くなる前に

 「やっと、最近になって、谷口雅春先生のおっしゃりたかった事が分かった」

と言われていたのを思いだします。ただ、最近は、谷口雅春先生の教えについて
いろいろな考えがある時代ですから、お読みになる方の中には困惑される
方もあると拝察します。そういう時には、じっくりと聖典を拝読し、その上で
祈る事が大事かと感じます。

 ただ、これは私の考えで、私の縁者で、不思議な啓示が降りる人がいて、そういう
人は理屈ではなく、「信」として神を語ります。いろいろな道があるみたいです。

 とりとめもない発言で失礼をしました。今後ともご投稿をお待ち申し上げます。

合掌 ありがとうございます

99風笠:2014/02/17(月) 20:17:57 ID:dLtTiUXY
トキ様

お返事ありがとうございます。

ここに書き込みをさせ頂いているのは、私の考えが絶対正しいというつもりは毛頭なく、
心の法則で引っ掛かている人にブレイクスールするヒントになればとの思いで書いています。

>ただ、これは私の考えで、私の縁者で、不思議な啓示が降りる人がいて、そういう
>人は理屈ではなく、「信」として神を語ります。いろいろな道があるみたいです。

真理は直接 神に教えて頂くものだと思います。 
縁者の方と比べて雲泥の差(私が泥ですが)がありますが、短いヒントはたまにあります。

100トキ:2014/02/17(月) 20:46:22 ID:qvIK8UMY
風笠 様

 素晴らしいご文章にはいつも深い感銘を受けております。
ありがとうございます。たいへん深い真理をご教示下さり
感激しております。

 私こそ、泥も泥ですが、真面目にやっていると何か違うと思って
おります。

 電池の材料に酸化亜鉛という物質があります。学者が研究しても
なかな上手く行かないので諦めた時に、無学な島津源蔵という職人
さんが、とにかくやってみようと桶に鉛の粒を沢山いれて何日も棒
でグルグルとかき回したそうです。世人は笑ったのですが、島津源蔵
は頑固にそれを続けると、亜鉛の表面に粉がふいているのを見つけました。
調べてみると、これが酸化亜鉛だったので、そこから研究して、ついに
島津源蔵は酸化亜鉛の製造に成功したと大学時代に聞きました。

 続ける事が大事だと思います。

 今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

101風笠:2014/02/19(水) 20:54:04 ID:PExqCBzY
トキ 様

お返事ありがとうございます。

『生命の實相』を祈りながら読むといろいろヒントが出てきます。
ただの文章を読むのでなく、直接 神様から話を聞いていると思って読めば雰囲気が
違ってきます。

別の書き込みをしていると時間がなくなったので、短い書き込みになりますが、
お許しを。

合掌 ありがとうございます 。


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