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実相哲学を論じる部屋
11
:
復興G
:2013/12/21(土) 12:17:25 ID:AB6RqYXc
>>7
:身分いやしきもの様
>>復興Gさまは、宇宙がはじまるまえに「実相があった」といっておられますが、それが実相であるという確証はいまたどこにも見いだせてはおりません。実相ではないべつのなにか、である可能性もあります。<<
――何かが始まるという時には、必ずその計画者が存在する。宇宙が始まったという時にも、その計画者といいますか、第一原因者があったはずです。
その 「第一原因者」 を、「実相」 と名づけたのです。
それは、キリスト教では 「太初にコトバあり」 と言われる 「コトバ」 であり、「仏」 と言ってもよし、「サムシング・グレート」 と言ってもよい、その意味するものはいずれにしても宇宙の 「第一原因者」 をさしているのであって、別の名前をつけたから別のものであるということにはならないと思います。
「第一原因者」 は因縁所生のものではなく、すべてのすべてであって、対立する別のものはない、根源なるものでありますから、「実相ではない別のなにか」 はあり得ない。そういうものを 「実相」 というのだと思います。
>>「唯神実相哲学」は、神とわたしたちが住む4次元時空連続体との関係からはじまったと考えます。4次元時空連続体の悲惨なありさまを雅春先生がご覧になられて「ない」と看破され、「実相だけがある」と語られたのであります。<<
――ちょっと違うのではないでしょうか。
谷口雅春先生は、自伝篇に書かれていますように、現象界の悲惨なありさまをご覧になって、『神を審判く』 という小説を書かれたりし、思索を続けられたけれども、思索によって答えを見出すことはできなかった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
<『生命の實相』 第20巻 自伝篇 p.134〜 より>
わたしは思索を重ね、静思を重ねたけれども安住の境地には達しなかった。
ある日、わたしは静座合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。わたしはその時、偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の 「色即是空」 という言葉を思い浮かべた。と、どこからともなく声が、大濤(おおなみ)のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。
「物質はない!」 とその声は言った。で、わたしは 「空即是色」 という言葉を思い浮かべた。
と、突然その大濤のような声が答えた。「無よりいっさいを生ず。一切現象は念(こころ)の所現にして本来無。本来無なるがゆえに、無よりいっさいを生ず。有(う)よりいっさいを生ずと迷うがゆえに、有に執して苦しむのだ。有に執せざれば自由自在だ。供給無限、五つのパンを五千人に分かちてなお余り、『無』より百千億万を引き出してなお余る。現象界は念のレンズによって転現せる化城(けじょう)にすぎない。かしこに転現すると見ゆれどもかしこに無し。ここに転現すると見ゆれどもここに無し。知れ、一切現象無し。なんじの肉体も無し。」
では、心はあるであろうかと思うと、その瞬間、「心もない!」とその声は言うのだった。今まで、わたしは「心」という得体の知れない悍馬(かんば)があって、それを乗りこなすのに骨が折れると思っていたのだ。ところが「心もない!」という宣言によって、わたしは、その「心」の悍馬から実相の大地に降りたのであった。
「心もなければ何も無いのか」 とわたしは再びその声の主にたずねた。
「実相がある!」 とその声はハッキリ答えた。
<つづきます>
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