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実相哲学を論じる部屋
12
:
復興G
:2013/12/21(土) 12:18:36 ID:AB6RqYXc
<つづきです>
「では、実相とはなんであるか」 とわたしは訊いた。
「実相とは神である。あるものはただ神のみである。神の心と、神の心の顕現のみである。これが実相だ」 ここに神というのはむろん 「仏」 という意味も含んでいた。
「心も無いのが本当ではないか。」
「無い心は受想行識の心だけだ。そういう意味でなら仏もない、衆生もない。心、仏、衆生三無差別(しん、ぶつ、しゅじょう さんむしゃべつ)と説く場合には、心もない、仏もない、衆生もない。衆生を抹殺(ころ)し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いといっさいを抹殺(まっさつ)したときに、実相の神、久遠実成(くおんじつじょう)の仏が出て来るのだ。」
「それが、キリスト教ならイエスを十字架にかけることになるのですか。」
「そうだ。肉体イエスを抹殺した時、実相のキリスト、アブラハムの生まれぬ前(さき)から生き通しの久遠のキリストが生きているのだ。イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である! 今、ここに、久遠生き通しの生命が復活する。今だ、今だ! 久遠の今だ! 今が復活だ! 今を活きよ。」
わたしの眼の前に輝く日の出の時のような光が燦爛(さんらん)と満ち漲(みなぎ)った。何者か声の主が天空に白く立っているように思われたが、それはハッキリ見えなかった。しばらくするとその燦爛たる光は消えてしまった。わたしはポッカリ眼をひらくと、合掌したまま坐っている自分をそこに見出したのであった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
――先生は、このようにして、思索によってではなく、天界からの啓示によって 「実相」 を悟られたのではありませんか。
だから、生長の家は 「唯神実相哲学」 であるとも言われるけれども、単なる哲学ではない。『叡智の断片』 に
○
私を哲学者だと思っている人があるが、私は哲学者ではない。私は神の啓示を、取りついだものである。そして神の啓示にしたがって生きんことを希い、また努力しつつある者である。
○
哲学的の思索は間違うことがある。唯物論の次には唯心論が現れる。思索というものはより多く頭脳的なものであり、論理的なものである。それだけ人間には合理的に見えるけれども、哲学というものは、時代を超えることが出来ない。合理は時代に即して合理だと思われるのである。時代に即しない合理は人から不合理だと思われる。或る時代に合理的だと思われたものは、次の時代には不合理だと思われる。人間の作った合理などは決して当てにならないものである。
○
と書かれています。ですから、身分いやしきもの様が
>> 論理の進みゆきとしては、神と4次元時空連続体との関係において、4次元時空連続体が非在であるがゆえに 「神のみあり」 との結論がくだされたのであります。<<
とおっしゃるのは、ちょっと違うのではないかと、私は思います。谷口雅春先生は、ご自分で思索なさった結果として、論理の進みゆきとして「神のみあり」 との結論がくだされたのではなく、神の啓示によってそれを悟られたのではありませんか。
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