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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4
902
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/20(月) 14:16:06 ID:jfWCoXjM0
>>899
誤・存在状態観照者
正・存在状態の観照者
903
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/20(月) 23:02:51 ID:1d4drIFg0
アートマンを追求するには師匠が不可欠なのじゃ。
なぜならば認識できる観念全てを否定しなければならないからなのじゃ。
大抵の者は自我をアートマンと思ってしまうものじゃ。
全て否定してくれる師匠がいればそれを正せるのじゃ。
904
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/20(月) 23:49:49 ID:LC3de7YgO
>>903
それをシステムにしようとしたのが公案でありますかね?
(´・(ェ)・`)つ
905
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/21(火) 10:29:24 ID:jfWCoXjM0
1935年1月8日
対話14
一人の老人が訪れ、ホールに座った。
マハルシはシャルマ氏によってサンスクリット語に訳された『アルナーチャラ・アクシャラ・マナ・マーライ』(文字の結婚指輪)を読んでいた。
老人が静かに尋ねた。
「真我実現はいかなる表現も超えているため、言葉で描写することはできないと言われていますが、どうしてでしょうか?」
マハルシ
『アルナーチャラ・アシュカム』(シュリー・アルナーチャラへの八連の詩)の第二節にその要点が述べられているように、実現の描写は不可能だとしても、その存在を示すことはできるのです。
その直後、老人の感情に明らかな変化が見られた。
呼吸は深く激しくなり、謙虚に全身を床にひれ伏すと、二分ほどしてようやく立ち上がった。
しばらくの間、静寂の内にとどまった後、彼はその場を去った。
明らかに、老人はある啓示を受けたのだ。
彼はマハルシにその確証を求め、マハルシはそれに相応する答えを与えた。
老人は確証を得、謙虚に、神の計らいを感じとったのだった。
『アルナーチャラ・アシュカム』第二節
見る者とは誰か?
内面を探ったとき、見る者は消え去り、その後に残ったものを私は見た。
だが、「私は見た」という想いは起こらなかった。
それゆえ、「私は見なかった」という想いがどうして起ころうか?
太古の昔、ダクシナームールティとして現れたあなたでさえ、ただ沈黙によってのみそれを伝え得たというのに、誰がそれを言葉で伝える力を持つというのか?
大地から天空までを輝かす丘としてそびえ立つあなたの境地を伝えるのは、ただ沈黙しかない。
906
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/21(火) 23:09:17 ID:1d4drIFg0
>>903
公案も観念を滅するためのものと言えるがアートマンとは又違うのじゃ。
答えはあるからのう。
認識できない認識主体に達したならば、それは沈黙によってのみ伝えるしかないのじゃ。
全て否定して実践するものであるからのう。
沈黙だけが正しい答えなのじゃ。
見る事も見ないこともない沈黙の教えなのじゃ。
907
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/21(火) 23:21:22 ID:LC3de7YgO
>>906
答えがあるのは、公案でありますか?
公案をとことん考えることで、観念を滅することはできるものでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
908
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/22(水) 10:00:07 ID:jfWCoXjM0
対話15
「至高の魂は、最も微細なものよりも微細で、最も巨大なものよりも巨大である」
という『ウパニシャド』の中の言葉について質問があった。
マハルシ
原子の構造でさえ心によって発見されました。
したがって、心は原子よりも微細なものなのです。
心の背後に存在する個人の魂と呼ばれるもの、それは心よりも微細で精妙なものです。
さらにタミル州の聖者マーニッカヴァーチャカルは、
「太陽光線の中を舞う塵の一粒一粒が一つの宇宙を表し、太陽の光全体が至高の存在を表す」
と語っています。
至高の魂は、最も微細なものよりも微細で…『シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャド』3-20
これは原子よりも小さく、最大のものよりも大きい。
真我は個人のハートの洞窟の中に宿る。
909
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/22(水) 22:41:13 ID:1d4drIFg0
>>907
答えは在るのじゃ。
隻手には手を見せるとかのう。
公案だけを考えれば他の観念は浮かばないのじゃ。
それも集中なのじゃ。
最小のもの最大のものもただ観念であるだけなのじゃ。
観念を超越したものは最小で最大なのじゃ。
微細なアートマンも集中すればサマーディの中で最大になるのじゃ。
それ自体になるのがサマーディであるからのう。
世界の全てがアートマンになるのじゃ。
910
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/23(木) 13:49:15 ID:jfWCoXjM0
1935年1月19日
対話16
気品ある七十歳の英国紳士、ダグラス・アインスリー氏(グラント・ダフ氏)は、マドラス前総督の甥である。
作家かつ詩人でもあり、以前アテネ、パリ、ハーグの英国公使館に所属していたため、政府の賓客としてマドラスを訪れていた。
彼はポール・ブラントンからの紹介状を携えてマハルシに会いに来た。
その翌日、再び彼は訪れ、1時間ほどホールにとどまった。
その両日とも何の言葉も実際に交わされず、二人はお互いに見つめ合うばかりだった。
ダグラス氏は質素で禁欲的な習慣の持ち主だった。
午後一時までは何も食べず、それから昼食をとり、夕方も、コーヒーとビスケット以外は何もとらずに眠りについた。
生涯独身を通し、空腹のまま一日数マイルの散歩をした。
言葉数は少なく、物腰は優雅だった。
声は低音で穏やかにしゃべり、その言葉はハートから湧き上がるかのようだった。
友人には故ジョン・ウッドロフ氏、サルヴパッリー・ラーダークリシュナン氏、オックスフォード大学教授のトーマス氏などがいた。彼は『ヴェーダ』の詠唱を聞きたいと望んでいた。
月曜日に、ラトビア共和国のリガから手紙が届いた。
手紙の中の質問は、西洋の来訪者から最近問われた「死者の魂の存在とその供養」に関する質問と偶然にも同じ内容だった。
リガに送られた返信の内容が、ダグラス氏に対して読まれた。
次に、マハルシの『実在についての四十頌 』がタミル語で詠われ、それから『ヴェーダ』の詠唱が行われた。
彼はそれを崇高な格調の高いものと感じた。
911
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/23(木) 13:51:14 ID:jfWCoXjM0
翌日の午後、ダグラス氏は再び訪れ、他の者たちが驚く中、昨夜起こった体験についてマハルシに伝えた。
彼が語るには、「自己の内面、ハート・センターの右側に電光のごとく輝くものを見た」ということだった。
また、「内面で輝く太陽を見た」とも語った。
マハルシはかすかに微笑むと、『アートマ・ヴィディヤー』(真我の知識)の英訳版を彼に読んで聞かせた。
そこには、「真我実現とは、心の広がり(チッタ・ヴョーマン)とは明確に区別された、意識の広がり(チッド・ヴョーマン)であるアートマンに達することである」という秘教的な言葉が書かれていた。
彼はこの説明が気に入ったようだった。
後ほどダグラス氏のことが話題に上り、マハルシが言葉を添えた。
「自分の得た収入で、自分の家で平和に暮らすこともできただろう七十歳にもなる老人のことを考えてもみなさい!
一万キロもの航海や異国の鉄道の長旅という困難にも耐え、言葉もわからず、孤独な一人暮らしでの運命の移ろいや過酷な暑い気候、自分の体質に合わない不慣れな環境といったすべてを受け入れた彼の熱意がいかに真剣そのものだったか!
彼は自分の家で幸せに暮らすこともできたはずです。
内なる平安への熱望が彼をここに来させたのです」。
まさにそのとおりだ!
彼の真剣な熱意が、ここに到着してたった四日の内に光明の体験をもたらしたのだ、と人々は語り合った。
真我実現とは、心の広がり…『アートマ・ヴィディヤー(真我の知識)』2 ラマナ・マハルシ作
真実で、力強く、永遠に新鮮な真我。
この幻の身体と世界は、「それ」から現れ出す。
この幻影が破壊され、何一つ残らず消え去ったとき、真我の太陽は実在として輝きわたる。
広大なハートの広がりの中で、暗闇は消え去り、苦悩は絶え果て、至福があるれ出す。
912
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/23(木) 14:01:04 ID:jfWCoXjM0
死者の魂に関する質問についてマハルシが語った。
マハルシ
自分自身を粗大な身体と同一視しているかぎり、その人は想念が物質化して現れた粗大な世界も現実のものと見なします。
なぜなら、彼は自分の身体が他の物理的存在から生まれてきたと考えているため、自分以外の世界も自分自身の身体と同様に実在すると感じるのです。
これまでここに存在し続けてきた魂は、確かに死後も生き残ります。
なぜなら前世から来て、現世の身体の中にまだ存在し続けていると感じている魂がそこにあるからです。
このような状況では天国や地獄も真実と見なされるため、死別した魂は遺族による祈りによって利益を受けるのです。
それとはまったく別の考えをするなら、そこには前世からの心の潜在的傾向(ヴァーサナー)の種子を蓄えている自我があり、その自我が湧き起こった源である真我があります。
その真我こそが唯一の実在なのです。
真我は自我、心の潜在的傾向、粗大な感覚器官を輝かせます。
この潜在的傾向が感覚を通して現れ、宇宙として物質化され、真我の反映である自我によって知覚されるようになるのです。
自我はそれ自身を身体と同一視するため、真我の視野を失ってしまいます。
この過ちの結果が、現在の人生における無知と不幸の暗闇なのです。
自我が真我から生じたという事実、そしてその事実を忘れること、それが誕生です。
そうしてみると、個人の誕生が母親を殺したとも言えるでしょう。
母親を再び得たいという現在の願望は、真実においては真我を取り戻したいという願望なのです。
それは真我実現と同じことであり、自我の死でもあります。
これが母親への明け渡しであり、そうすることで母親は永遠に生き続けるのです。
913
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/23(木) 14:01:59 ID:jfWCoXjM0
それからマハルシは、タミル語版の『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からディールガ・タパシと二人の息子プンニャとパーヴァナの物語について語った。
マハルシ
両親と死に別れて嘆き悲しむ弟を、兄はこう語って慰めました。
「どうして両親が死んだことを嘆くのかい?
彼らがどこにいるのか僕が教えてあげよう。
彼らは僕らの内側に、僕たち自身として存在しているんだ。
生命の流れは生と死、快楽と苦痛などの体験を通して果てしない転生を通り抜けてゆく。
川の流れは岩の上や、くぼみや、砂や、高いところや低いところを通り抜けながらも、流れ自体は影響を受けずにいる。
同じように、生と死、快楽と苦痛は、自我という蜃気楼に現れる水面の揺らぎのようなものなんだよ。
唯一の真実は真我だけだ。
自我は真我から現れ、想念を通してそれ自身を宇宙として現す。
そしてその中にお母さんや、お父さんや、友達や、親戚が、現れては消え去っていくんだ。
これらの人々はみな、真我の表れでしかない。
両親も真我の外側に存在しているわけではないんだよ。
だから嘆くことなんかない。
それを理解して、幸せになるんだ」
『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からディールガ・タパシと二人の息子プンニャとパーヴァナの物語
聖者ディールガ・タパシにはプンニャとパーヴァナという2人の息子がいた。
プンニャはすでに真我を実現していたが、弟パーヴァナはまだその途上にいた。
ある日、父ディールガ・タパシは突然の死を迎え、母もその後を追った。
プンニャは淡々と葬儀を進めたが、パーヴァナは嘆き悲しむばかりだった。
プンニャは弟に、自分たちが過去世で無数の両親を持っていたという真理を説き、しかも無数の過去世でパーヴァナは鹿、ライオン、サル、王子、カラス、象、鳥などとして生きてきたことを伝えて、死を嘆く必要などないことを悟らせたのだった。
914
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/23(木) 23:00:00 ID:1d4drIFg0
アートマンは認識主体であるからそれから自我の幻想もあるのじゃ。
自我を認識主体とか認識していることが謬見なのじゃ。
自我も認識されている観念でしかないのじゃ。
観念幻想であることが分かれば、自己同一化がなくなるのじゃ。
915
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/24(金) 18:37:18 ID:jfWCoXjM0
1935年1月24日
対話17
オックスフォード大学の英文学者、エヴァンス・ヴェンツ氏がポール・ブラントン氏からの紹介状を携えて到着した。
彼は長旅で疲れていたため休息を必要としていた。
すでに数回この国を訪れており、インドでの生活様式には慣れていた。
彼はチベット語を学び、『チベットの死者の書』やチベットで最も偉大なヨーギー、ミラレパの伝記である『ミラレパの生涯』、そして『チベットの秘教の書』の翻訳補助にたずさわっていた。
午後になって、彼は質問を始めた。
それらはヨーガに関係したものだった。
彼はヨーガで坐るために、トラや鹿などを殺して毛皮を使うことが正しいことなのかどうかを知りたがった。
マハルシ
心がそのトラや鹿なのです。
質問者
すべてが幻影だと言うなら、殺すこともかまわないとおっしゃるのですか?
マハルシ
誰にとっての幻影なのでしょうか?見いだしなさい!
事実、誰もが人生のあらゆる瞬間において「真我の殺し屋」(アートマハン)なのです。
質問者
どれが最も良い座位(アーサナ)でしょうか?
マハルシ
どのアーサナでもかまいませんが、楽な姿勢の半跏趺坐(スカ・アーサナ)が良いでしょう。
しかし知識の道(ジニャーナ・マールガ)を行く者にとって、それは重要ではないのです。
質問者
座位はその人の気質を表すのでしょうか?
マハルシ
そうです。
質問者
トラの毛皮や羊毛や鹿の毛皮などには、どのような特質や効果があるのでしょうか?
マハルシ
ある人々がそれらの毛皮に特質や効果があることを発見したのです。
ヨーガの本にそのことが述べられています。
それは磁気の伝導性や非伝導性と一致するといったことです。
しかし知識の道を行く者にとってそれは重要ではありません。
真の座位とは、真我の中に位置し、そこに確立されることを意味しているのです。
それは内側にあります。
他の人たちは、外的な姿勢について述べているのです。
916
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/24(金) 18:42:40 ID:jfWCoXjM0
質問者
瞑想に最も適した時間はいつでしょうか?
マハルシ
時間とは何でしょうか?
質問者
どうぞおっしゃってください!
マハルシ
時間とは単なる概念にすぎません。
ただ実在だけが存在するのです。
何であれあなたが考えたことは、そのように現れます。
あなたがそれを時間と呼べば、それは時間となり、もしも存在と呼べば、それは存在となる。
そのようなものです。
あなたがそれを時間と呼んでおいてから、昼や夜、年や月、時間や分に分割するのです。
知識の道(ジニャーナ・マールガ)を行く者にとって、時間は問題ではありません。
しかしいくつかの規則や規律は初心者にとって有用なものです。
質問者
ジニャーナ・マールガとは何なのでしょうか?
マハルシ
精神集中は知識の道でもヨーガの道でもある点で共通しています。
ヨーガの目標は個人と普遍的実在との合一です。
実在は何か新しいものではありえません。
それは今も存在しているはずであり、事実、存在しているのです。
それゆえ、知識の道はどうして分離(ヴィヨーガ)が生じたのかを見いだそうとします。
分離でさえ実在からのみ現れるのです。
質問者
幻影とは何でしょうか?
マハルシ
誰にとっての幻影ですか?見いだしなさい。
そうすれば幻影は消え去るでしょう。
人々は幻影について知りたがりますが、それが誰にとって起こるのかを調べようともしません。
それは愚かなことです。
幻影は未知のものであり、外側にあります。
しかし探究者は既知なるものであり、内側にあります。
あなたの知らない遠く離れたものを見いだそうとするよりも、身近で、あなたに親しいものを見いだしなさい。
質問者
マハルシは西洋人に何か特別な座位を勧められますか?
マハルシ
それを勧めることはできるでしょう。
しかしはっきりと理解されるべきことは、瞑想は座位や特別な時間帯や装具一式がないときにも続けられるべきだということです。
質問者
マハルシは西洋人に何か特別な修練方法を勧めますか?
マハルシ
それは個人の精神的特質によるものであって、決められた一定のルールがあるわけではないのです。
917
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/24(金) 18:51:19 ID:jfWCoXjM0
エヴァンス・ヴェンツ氏はヨーガの初歩段階における質問を始めた。
そのすべての質問に対してマハルシは、
「それらはヨーガの補助的な事柄であり、ヨーガ自体がすべての目標である真我実現の補助なのです」
と答えた。
質問者
仕事は真我実現の妨げとなるでしょうか?
マハルシ
いいえ。
真我を実現した人にとっては真我だけが実在であり、行為は真我に影響を与えることのない単なる現象にすぎないのです。
たとえ行為しているときでも、彼には行為者であるという感覚がありません。
行為は自然に起こり、彼はそれを執着心なく見守り続けるだけです。
このような行為に目的はありません。
仕事に従事している者でさえ、知識の道(ジニャーナ・マールガ)を修練することができます。
初心者には最初は困難かもしれませんが、修練を重ねるうちにそれは効果を現し、やがて仕事が瞑想の妨げになることもなくなるでしょう。
質問者
修練とは何でしょうか?
マハルシ
自我の源である「私」をたゆまず探究し続けることです。
「私は誰か?」、それを見いだしなさい。
純粋な「私」は実在であり、絶対的な「存在ー意識ー至福」です。
「それ」が忘れられたとき、あらゆる不幸が起こります。
「それ」をしっかりととらえれば、不幸がその人に影響を与えることはなくなるのです。
質問者
真我実現にブラフマチャリャ(独身生活)は必要でしょうか?
マハルシ
ブラフマチャリャとは「ブラフマンの内に生きる」ことを意味します。
一般に理解されているような独身生活との関係はありません。
真のブラフマチャリャ、つまりブラフマンの内に生きる人は、真我であるブラフマンの内に至福を見いだします。
だとすれば、なぜ他に幸福の源を探そうとするのでしょうか?
事実は、真我から外へと出て行くことに、すべての不幸の原因があるのです。
質問者
独身生活はヨーガにおいて必要不可欠なものなのでしょうか?
マハルシ
そうです。
独身生活は、確かに多くの補助的な方法の一つです。
質問者
それならば、必要不可欠ではないのですね?
結婚した者でも真我を実現できるのですね?
マハルシ
もちろんです。
それは心の適性の問題なのです。
結婚していようと未婚であろうと、真我実現は可能です。
なぜなら、それは今、ここに在るからです。
もしそうでなければ、つまり努力によって時間をかけた後に達成できるものなら、そして、もしそれが新たに獲得しなければならないようなものなら、追求する価値さえないでしょう。
なぜなら、自然でないものは永遠でもないからです。
しかし私が語る真我とは、今ここに在り、ただそれだけが存在するのです。
918
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/24(金) 18:56:20 ID:jfWCoXjM0
質問者
神はすべてに遍在しているため、他の生き物の生命を奪ってはならないはずです。
では、殺人者の生命を社会が奪うのは正しいことなのでしょうか?
国家が生命を奪うのは許されるのでしょうか?
キリスト教国家の中には、それを間違いと見なし始める国も現れています。
マハルシ
殺人者に罪を犯すよう駆り立てたものとは何でしょうか?
その同じ力が彼に罰を与えるのです。
社会や国家は、その力の手の内の一つの道具にすぎません。
あなたは一人の生命が奪われたことについて語っていますが、無数の生命が奪われる戦争においてはどうでしょうか?
質問者
まったくそのとおりです。
どちらにせよ、生命の損失は誤りです。
戦争は正当化できるのでしょうか?
マハルシ
常に真我の内に在り続ける覚者にとって、一人の生命、あるいは数人の生命、あるいはこの世のすべての生命、または三界のすべての生命が失われたとしても、何の違いもありません。
たとえ彼がすべての生命を破壊することになったとしても、そのような純粋な魂に罪が触れることはないのです。
マハルシは『バガヴァッド・ギーター』の第十八章十七節から引用した。
自我という概念から自由で、知性に執着しない人は、
たとえ全世界を全滅させようと、彼が殺したということはなく、
行為の結果に縛られることもない
質問者
行為はその人の来世に影響を及ぼすのではありませんか?
マハルシ
あなたは今生まれたのですか?
どうして来世について想いをめぐらすのでしょうか?
事実は、生も死も存在しないのです。
自分は生まれたと考える者に、死について考えさせなさい。
919
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/24(金) 19:02:03 ID:jfWCoXjM0
質問者
マハルシの真我実現には、どれほどの時間がかかったのでしょうか?
マハルシ
このような問いがされたのは、あなたが名前や形を知覚しているからです。
このような知覚は、自我と身体を同一視するために起こります。
夢の中のように、自我がそれ自体を微細身と同一視すると、知覚も精妙なものとなります。
しかし深い眠りの中には何の知覚もありません。
それでも、そこに自我は存在していなかったでしょうか?
いいえ、存在していたはずです。
そうでなければ、眠っていたという記憶さえ存在しえなかったでしょう。
眠っていたのは誰でしょうか?
あなたは眠りの中で、「私は眠っている」とは言いませんでした。
あなたがそう言うのは、目覚めの状態である今、このときです。
ですから、自我は目覚め、夢見、眠りのすべてにおいて存在していたのです。
これらの状態の根底にある実在(リアリティ)を見いだしなさい。
その実在という境地の中には、ただ「存在」だけが在ります。
そこにはあなたも、私も、彼もなく、現在も、過去も、未来もありません。
それは時間と空間を超え、表現を超えています。
それは常に存在しているのです。
バナナの木は実が熟して地に落ちる前に根元から芽を出します。
その芽は移植され、そしてまた同じ過程を繰り返します。
それと同じように、太古の昔、弟子たちの疑問を沈黙の内に消し去った原初の師ダクシナームールティも芽を残し、それは今も増え続けています。
グルとはそのダクシナームールティの若芽の一つなのです。
真我が実現されれば、あなたが尋ねたような問いは生じなくなるでしょう。
質問者
マハルシはニルヴィカルパ・サマーディに入ったことがありますか?
マハルシ
目を閉じているときはニルヴィカルパ・サマーディであり、開いているときは(そこに区別はあっても絶対の静寂の内に在る)サヴィカルパです。
(しかし目を開いていようと閉じていようと)常に変わらず存在する自然な境地がサハジャなのです。
920
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/24(金) 21:46:07 ID:LC3de7YgO
>トラや鹿などを殺して毛皮を使うことが正しいことなのか。
マハルシ
心がそのトラや鹿なのです。
質問者
すべてが幻影だと言うなら、殺すこともかまわないとおっしゃるのですか?
マハルシ
誰にとっての幻影なのでしょうか?見いだしなさい!
事実、誰もが人生のあらゆる瞬間において「真我の殺し屋」(アートマハン)なのです。
うぅむ。
これが、覚者の答えである理由をくまなりに書きながら考えてみる。
誰にとっての幻影か?
幻影を見ている幻影の自我にとっての幻影でありましょう。
誰もがとは、真我の実現に至ってない、自我あるとの幻影の中にいる、いわゆる凡夫でありましょう。
動物を殺して瞑想時の敷布にしていいのかと言う、価値判断を含む意見の表明は、凡夫の価値判断に過ぎないと退けてるわけではなく、
引用最後の、
>事実、誰もが人生のあらゆる瞬間において「真我の殺し屋」(アートマハン)なのです。
←「真我の殺し屋」と言う言葉に、たった一つの意識、アートマン(それには当然殺されたトラをも含む)、その殺し屋である自我を滅して、否定をもってのみ表現しうる認識できない認識主体であるところのアー
トマン(=無我)まで至らなければダメだよ!と言う、クールな励ましの意と受け止めるべきかなと思うであります。
(´・(ェ)・`)つ
921
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/24(金) 23:24:26 ID:1d4drIFg0
↑そのようなものじゃ。
それを問う者の心の中に殺生はあるのじゃ。
時間も観念に過ぎないゆえに、アートマンを実現した者にはないのじゃ。
どれほどの時間と聞くのは、寝ていた者が眼を覚ますのにどれほど時間がかかったかと聞くようなものじゃ。
寝ていた者には時間は知覚されないのじゃ。
観念のある者だけに時間はあると認識されているのじゃ。
922
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/25(土) 13:00:57 ID:jfWCoXjM0
1935年1月26日
対話18
エヴァンス・ヴェンツ氏が尋ねた。
「超自然能力を持ったヨーギーがいますが、マハルシは彼らについてどうお考えですか?」
マハルシ
その力は噂によってか、あるいは実演によって知られます。
それゆえ、それらは心の領域の中だけにあるのです。
質問者
ブラントン氏は、マドラスのヨーギーがヒマラヤに住む師と交信をしていると言いました。
マハルシ
それは一般に知られているテレパシーほど驚くべきものではありません。
聞く人なしにテレパシーはありえず、見る人なしにテレビはありえません。
近くの音を聞くことと遠くの音を聞くことに、何の違いがあると言うのでしょう?
重要なのは、それを聞く本人なのです。
聞く者なしに聞くことはありえず、見る者なしに見ることはありえないからです。
質問者
つまり、あなたは私に対象ではなく主体について考えなさいと言われるのですね?
マハルシ
主体と対象は心が生じた後にのみ現れます。
主体も対象も、そして超自然能力も、心の中に含まれるのです。
質問者
アルナーチャラの丘に光(ジョーティ)が現れるのを目にすることはできますか?
マハルシ
できます。
質問者
カイラース山やベナレスのような聖地を巡礼することには、霊的な効果があるのでしょうか?
マハルシ
あります。
質問者
ベナレスで死を迎えることに恩恵はあるのでしょうか?
マハルシ
あります。
もし真のベナレスと真の死の意味が理解されれば、その意味は明らかになるでしょう。
質問者
つまり、それらは真我の中に在るということですね?
マハルシ
そのとおりです。
質問者
身体の中の六つのセンターに相応するセンターが、世界にも存在すると言われています。
マハルシ
そうです。
世界の中に存在するものは身体の中にも存在し、身体の中に存在するものは世界の中にも存在しているのです。
質問者
ベナレスの神聖さは信仰によるものなのでしょうか、それとも外面的にも真実なのでしょうか?
マハルシ
その両方です。
質問者
ある人はある聖地に惹かれ、別の人は別の聖地に惹かれます。
それはその人の気質によるのでしょうか?
マハルシ
そうです。それぞれ違った場所に生まれ、別々の土地で暮らしていた人たちが、今日ここにこうして集まっていることを考えてもみなさい。
あなたたちをここに引き寄せた力とは何なのでしょうか?
もしこれが理解されれば、他の力もまた理解されるでしょう。
923
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/25(土) 22:59:33 ID:1d4drIFg0
力とか聖地とか奇跡とか神秘なものも全て心の中にあるもの゛ゃ。
観念の内から出ていないのじゃ。
その観念を持つものがあると思えば在るのじゃ。
観念が無くなればその者の世界からなくなるのじゃ。
924
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/26(日) 00:38:10 ID:jfWCoXjM0
1935年1月29日
対話19
グラント・ダフ氏が尋ねた。
「記憶と忘却はどこに位置しているのでしょうか?」
マハルシ
心(チッタ)の中にです。
925
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/26(日) 22:48:57 ID:1d4drIFg0
全ては心の中で繰り広げられる幻影なのじゃ。
記憶に依存した認識が観念を創り、その観念の中でのみ人は生きていくのじゃ。
世界が自分で創った観念であることもわからないのじゃ。
神とか世界が自分を創ったと思っているのじゃ。
926
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/27(月) 09:30:23 ID:jfWCoXjM0
1935年1月30日
対話20
エヴァンス・ヴェンツ氏
ジニャーニ(真我実現した人)にとって孤独は必要でしょうか?
マハルシ
孤独は人の心の中に在ります。
世間の雑踏の中に在りながら、静かな心を保っている人がいるかもしれません。
そのような人は、ただ独り在るのです。
深い森の中に暮らしながら、心を制御できない人もいるかもしれません。
そのような人は独り在るとは言えないでしょう。
独り在ることとは、心の在りようです。
たとえどこにいようとも、欲望にかられた人は独り在ることができません。
その反対に、無欲の人はいつでもただ独り在るのです。
質問者
ということは、仕事に従事しながらも欲望に触れることなく、ただ独り在ることもできるということなのですね?
マハルシ
そうです。
執着心とともに為された仕事は足かせとなりますが、執着心なしに為された仕事が行為者に影響を及ぼすことはありません。
このように仕事をする人は、たとえ仕事の最中にあってもただ独り在るのです。
質問者
チベットには孤独の内にあって、しかも世界を救済している多くの聖者がいると言われています。
そのようなことは可能なのでしょうか?
マハルシ
可能です。
真我を実現することは、人類に与えることのできる最も偉大な救いです。
それゆえ、聖者は森にとどまっていようとも助けとなることができるのです。
しかし「独り在る」とは森に住むことだけを意味するのではないことを覚えておきなさい。
それは街中であろうと、世俗の仕事の只中にあろうと可能なのです。
質問者
聖者が人々に交わって助けを施すのは必要なことではないでしょうか?
マハルシ
ただ真我だけが実在なのです。
世界やその他すべては実在ではありません。
真我を実現した人は、世界を自分自身と別のものとして見ないのです。
質問者
つまり聖者の真我実現は、人類の意識をそれとは気づかぬうちに向上させているということなのですね?
マハルシ
そうです。
助けは目に見えないものかもしれません。
それでも、それはそこにあります。
聖者は知られることなく全人類を助けるのです。
質問者
他の人々と交わったほうがよいのではありませんか?
マハルシ
交わるべき他者というものはないのです。
真我は一つであり、唯一の実在だからです。
927
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/27(月) 09:31:33 ID:jfWCoXjM0
質問者
もし真我実現した者が百人いたなら、世界にとってより偉大な恩恵となるのではありませんか?
マハルシ
あなたが「真我」と言うとき、それは無限なるものを意味していますが、それに「者」という言葉を加えると、その意味は限定されてしまいます。
無限の真我だけが、唯一の実在なのです。
質問者
なるほど、確かにそのとおりです。
シュリー・クリシュナは『ギーター』の中で、「執着心なしに為された仕事は、無為であるよりも優れている」と言っています。
これはカルマ・ヨーガでしょうか?
マハルシ
そこに言われていることは、聞く者の気質に合うように与えられた教えなのです。
質問者
「孤独の内に在る人が助けとなれる」という考えは、ヨーロッパでは理解されないでしょう。
世間の中で働く人々だけが役に立てると考えられているからです。
この誤解はいつ正されるのでしょうか?
ヨーロッパ人の心は迷い続けるままなのでしょうか、それとも真理を理解するのでしょうか?
マハルシ
ヨーロッパであろうとアメリカであろうと問題ではありません。
ヨーロッパやアメリカが、あなたの心の中以外のどこに存在すると言うのですか?
あなたの真我を実現しなさい。
そうすればすべては理解されるでしょう。
もしあなたが夢の中で何人かの人を見て、それから目覚めて夢を思い出したとき、夢の中の人々も目を覚ましたかどうかということを確かめようとするでしょうか?
質問者
宇宙が幻影(マーヤー)であるという理論についてどう思われますか?
マハルシ
マーヤーとは何でしょうか?
それは実在以外の何ものでもないのです。
質問者
マーヤーは幻影ではないのですか?
マハルシ
マーヤーとは実在の顕現を意味するのです。
それゆえ、マーヤーは実在以外の何ものでもありません。
質問者
シュリー・シャンカラーチャーリャは知的なだけで、悟ってはいなかったと言う人がいますが、そうなのでしょうか?
マハルシ
なぜシャンカラーチャーリャのことで心を煩わせるのですか?
あなた自身の真我を実現しなさい。
他の人たちは自分で自分の面倒を見るでしょう。
928
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/27(月) 09:34:10 ID:jfWCoXjM0
質問者
イエス・キリストは人々の病気を癒しました。
それは単なる超自然能力(シッディ)なのでしょうか?
マハルシ
イエスは人々の病気を癒していることに気づいていたでしょうか?
彼が自分の能力を意識することはできなかったはずです。
このような物語があります。
イエスはあるとき盲目の男を癒した。
その男はやがて悪人になってしまった。
数年後、その男に出会ったとき、イエスは
「どうしてあなたは悪人になってしまったのか?」と尋ねた。
男は答えた。
「盲目の間は罪の犯しようもありませんでした。
しかしイエスが視力を与えたために、邪悪になってしまったのです。
その責任はイエスにあるのです」と。
質問者
イエス・キリストは超自然能力(シッディ)を持った全能の人だったのではありませんか?
マハルシ
彼は自分の能力に気づくことができなかったのです。
質問者
テレパシーのような能力を得ることは良くないことなのでしょうか?
マハルシ
テレパシーやラジオは遠くのものを見たり聞いたりすることを可能にします。
それらは見ることや聞くことという点では同じです。
近くの音を聞こうと遠くの音を聞こうと、聞くという行為に違いはありません。
基本的な要因は聞く者、主体にあるのです。
聞く者あるいは見る者がいなければ、聞くことや見ることはありえません。
知覚とは心の機能です。
超自然的な力(シッディ)は、それゆえ心の中にしか存在しないのです。
それは真我に本来備わっているものではありません。
もとからあるものではなく、後から獲得されたものは永遠ではありません。
したがって、努力して獲得するだけの価値もないのです。
シッディとは能力が拡大されたものです。
限られた能力を持つ者は不幸です。
それゆえ、幸福になるために能力を拡大しようとするのです。
しかし本当にそうなのか考えてみなさい。
もし限られた能力のために不幸だと言うのなら、能力が拡大するにしたがって不幸も拡大することになります。
超能力は幸福をもたらすのではなく、人をより不幸にするのです。
しかも、何のための能力なのですか?
超能力者になろうとする人は賞賛を求めて自分の力を誇示します。
賞賛が得られなければ幸福にもなれないでしょう。
そしてそこには彼を賞賛する他者の存在も必要とされます。
彼は自分より高い能力を持った者に遭遇することさえあるでしょう。
それは嫉妬を生み出し、さらに不幸を招くでしょう。
能力の高い者はさらに能力の高い者に出会い、ついには一瞬の内にすべてを吹き飛ばしてしまうような存在に出会うことになるでしょう。
そのような至高の存在、それが神、あるいは真我なのです。
いったいどちらが真の力でしょうか?
虚栄を満たす力か、平和をもたらす力か?
平和をもたらすもの、それが最高の成就(シッディ)なのです。
929
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/27(月) 09:35:15 ID:jfWCoXjM0
質問者
しかしヨーロッパやアメリカの普通の人々は、そのような考えよりも能力の顕示や講義による教えなどを望んでいるのです。
マハルシ
講義は人々を改善することもなく、ただ数時間楽しませるだけでしょう。
一方沈黙は永久的に、全人類に恩恵をもたらすのです。
質問者
しかし沈黙では理解できません。
マハルシ
それは問題ではありません。
沈黙は雄弁です。
言葉による教えは沈黙のように雄弁ではありません。
沈黙は絶えず雄弁なのです。
原初の師、ダクシナームールティはその極致です。
彼は弟子のリシ(賢者)たちに沈黙を通して教えたのです。
質問者
しかし彼には弟子たちがいました。
それはそれでよかったでしょう。
でも今は違います。
人々は見いだされ、救われなければならないのです。
マハルシ
それは無知の証拠です。
あなたを創造した力が世界をも創造したのです。
もしそれがあなたの面倒を見るなら、世界の面倒も見ることができるでしょう。
質問者
イエス・キリストが語っている「失われた魂」についてバガヴァーンはどう思われますか?
マハルシ
何が失われたと言うのですか?
失われるような何があると言うのですか?
重要なのは、生来のものだけです。
それは永遠なるものであり、体験できないものなのです。
生まれたものは死ななければならず、得られたものは失われるに違いありません。
あなたは生まれたのですか?
あなたは常に存在しているのです。
真我が失われることはありえないからです。
質問者
仏陀はすべてを包括する八正道を最高の道として勧めました。
マハルシ
そうです。
ヒンドゥー教では、それはラージャ・ヨーガと呼ばれています。
質問者
ヨーガを真理の探究者に勧めますか?
マハルシ
ヨーガは心の制御を助けます。
質問者
しかしそれは危険と見なされている超自然能力に導くのではありませんか?
マハルシ
しかし質問は、「真理の探究者」に関してではなかったですか?
あなたは超能力の探究者を意味したのではなかったはずです。
930
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/27(月) 19:03:52 ID:LC3de7YgO
マハルシさんは、若い時に一人で悟り、その後ヴェーダ以外の幅広い知識を身に付けたのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
931
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/27(月) 23:20:56 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、悟った後に学んだのじゃ。
人に教えるには知識も必要であるからなのじゃ。
何かを失ったとか、罪を負ったとかの詐欺的な宗教に騙されてはいかんのじゃ。
何も失えず、負う事も無いのじゃ。
何もかも全て在るのじゃ。
それは得ることも失うことも汚れることも清くなることも無いのじゃ。
全てあるがままなのじゃ。
932
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/27(月) 23:37:18 ID:LC3de7YgO
>>931
般若心経が悟りのイメージでありますね。
(´・(ェ)・`)つ
933
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/28(火) 10:30:15 ID:jfWCoXjM0
1935年1月31日
対話21
マドラス州の立法府議員であり、有力なヒンドゥー教徒のエラッパ・チェッティアール氏が尋ねた。
「聞くことによって得た知識は確固としたものにならず、黙想によって生まれた知識は揺るぎないものとなると言われていますが、なぜでしょうか?」
マハルシ
一方、耳にしただけの知識(パロークシャ)は確固としたものにならないが、真我実現によって生まれた知識(アパロークシャ)は揺るぎないものとなると言われています。
またこうも言われています。
聞くことは真理の知的理解を助け、瞑想はその理解を明瞭にし、黙想が真理の実現をもたらす、と。
さらに、このような知識はみな確固としたものではなく、ただそれが掌の上の木の実ほど身近で明らかなものとなったときにだけ、それは確固としたものになるとも言われています。
聞くことだけで十分だと断言する人もいます。
なぜなら、有能で、おそらくは過去世で修練を積んで資質を培った人は、一度真理を聞いただけで真我を実現し、平和の内にとどまるからです。
しかし資質を培っていない人は、サマーディ(三昧)に没入するまで今述べたような段階を経なければならないのです。
934
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/28(火) 23:24:19 ID:1d4drIFg0
>>932
そのようなものじゃ。
それもまた法であるがのう。
経典でも聖者の言葉でも見たり聞いたりしただけの知識は無意味なのじゃ。
富士山に登らずに富士山の話をしているようなものであるからのう。
ちゃんと登った者が正しく完全な知識で語ることが出来るのじゃ。
実践によって正しい知識を得なければ何の意味も無いのじゃ。
935
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/29(水) 14:30:27 ID:jfWCoXjM0
対話22
ピゴット婦人がマドラスから戻り、食生活について尋ねた。
質問者
修行者(サーダカ)のために指導される食事とはどのようなものでしょうか?
マハルシ
決められた量の清らか(サートヴィック)な食事です。
質問者
サートヴィックな食べ物とは何でしょうか?
マハルシ
パン、フルーツ、野菜、ミルクなどです。
質問者
北インドでは魚を食べる人もいます。
そうしてもよいのでしょうか?
マハルシは何も答えなかった。
質問者
私たち西洋人は特定の食事に慣れていて、それを変えることは健康にも影響し、心を弱らせます。
身体的な健康を保つことは必要ではないでしょうか?
マハルシ
それは本当に必要なことです。
身体が弱まるほど心は強大になるのです。
質問者
いつもの私たちの食事がないと、健康は衰え、心は力を失います。
マハルシ
心の力とはどういう意味でしょうか?
質問者
世俗的な執着を断ち切る力です。
マハルシ
食べ物の性質が心に影響を与えるのです。
心は消化された食べ物に養われているからです。
質問者
本当ですか!
ではどうすれば西洋人はサートヴィックな食事だけに適応できるようになるのでしょうか?
マハルシ
(エヴァンス・ヴェンツ氏に向かって)
あなたは私たちの食事をしています。
そのために不自由を感じますか?
エヴァンス・ヴェンツ氏
いいえ。
慣れていますから。
質問者
慣れていない人たちはどうなのですか?
マハルシ
習慣とは単に環境に適応することにすぎません。
問題なのは心です。
実際は、ある食べ物がおいしく良いものだと考えるように心が慣らされてきたのです。
菜食主義者も非菜食主義者も、食べ物自体は同じように良いものです。
ただ心はある食べ物に慣れ親しみ、おいしいと見なしてそれを求めるのです。
質問者
真我を実現した人にも食事に規則があるのでしょうか?
マハルシ
いいえ。
彼は不動で揺るがず、食べるものによって影響を受けることはありません。
質問者
肉を料理するということは、生命を殺すことではないでしょうか?
マハルシ
非暴力(アヒンサー)はヨーギーの修行にとって最も重要な規則です。
質問者
植物さえも生命を持っています。
マハルシ
あなたが座っている床の石さえも!
質問者
私たちはしだいに菜食主義に慣れていくでしょうか?
マハルシ
そうです。
それが正しい方法なのです。
936
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/29(水) 23:07:39 ID:1d4drIFg0
施されたら肉も食べてもよいのじゃ。
しかし、瞑想には菜食が向いているのじゃ。
神経も静まるからのう。
肉とか砂糖とか刺激物を取りすぎると攻撃的になると言うのじゃ。
937
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/30(木) 10:33:06 ID:jfWCoXjM0
1935年2月2日
対話23
エヴァンス・ヴェンツ氏が先日の質問を続けた。
「霊的な師を二人以上持ってもよいのでしょうか?」
マハルシ
師とは誰でしょうか?
結局、師は真我なのです。
その人の心の発展段階に合わせて、真我は外的な師として姿を現すのです。
古の高名な聖者、アヴァドゥータは二十四人以上の師を持っていました。
師とは、何であれそれから人が学ぶことのできる対象をいいます。
アヴァドゥータがそうだったように、師は、ときには無生物であるかもしれません。
神、グル(師)、真我は一つなのです。
霊的(スピリチュアル)な精神を持った人は、神がすべてに遍在すると考え、神を自分の師と見なします。
次に、神は人の姿をとったグルを彼のもとに送り、彼はグルが遍在するすべてであることを悟ります。
最終的には、その同じ人が師の恩寵によって、彼自身の真我こそが実在であり、それ以外何も存在しないことを感じ取ります。
こうして彼は真我が師であることを見いだすのです。
質問者
シュリー・バガヴァーンは弟子を取りますか?
マハルシは黙ったままだった。
しばらくして、弟子の一人が答えを差し出した。
「マハルシは誰も彼の真我の外側に在るとは見なしません。
ですから、彼にとって弟子というものはありえないのです。
彼の恩寵はすべてに遍く存在し、沈黙を通して恩寵を受けるにふさわしい人に分かち合われるのです」
質問者
書物から得た知識は真我実現に役立つのでしょうか?
マハルシ
霊的な精神をもたらすというかぎりにおいては。
質問者
知性はどこまで助けとなるのでしょうか?
マハルシ
知性を自我の中に、自我を真我の中に沈めさせるまでです。
【アヴァドゥータ】
すべての所有物を放棄し、ヒンドゥー教のダルマ(義務)からも自由となって放浪する覚者(ジニャーニ)。
ここではその代表格であるダッタートレーヤを指す。
彼は、土からは忍耐と不動の心を、水からは純粋な心を、空からは無執着の空なる心を学んだ。
このようにして五大元素、鳩、バッタ、象、鹿、魚、娼婦、蛇、小さな女の子など出会ったものすべてを師と見なして教えを得たと言われている。
938
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/30(木) 23:25:28 ID:1d4drIFg0
アートマンは一つというのに弟子と師匠がある筈も無いのじゃ。
説かれたことを理解していないのじゃ。
アートマンを実践していないのじゃ。
アートマンを習うのにアートマンを理解しなければ無意味なのじゃ。
939
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/31(金) 07:35:05 ID:LC3de7YgO
>>938
直接的で、誰にでも、くまでもわりやすい解説をありがとうであります。
(´・(∀)・`)つ
940
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/31(金) 09:50:10 ID:jfWCoXjM0
1935年2月4日
対話24
ピゴット婦人
どうしてあなたはミルクは飲むのに卵は食べないのですか?
マハルシ
家畜の牛たちは子牛が必要とする以上にミルクを出すため、ミルクを搾られることに喜びを感じるのです。
質問者
でも雌鳥も卵を抱えきれないのではないでしょうか?
マハルシ
しかし卵の中には、やがて生命となるものが宿っているからです。
質問者
想念が突然止まり、「私ー私」が突然湧き上がって、それは続いていきます。
それは感じることの中にあり、知的なものではありません。
これでよいのでしょうか?
マハルシ
もちろん、それでよいのです。
「私ー私」が湧き上がるのを感じるには、想念や理性が消え去らなければなりません。
感じることが主な要因であり、理性ではないのです。
質問者
何よりも、それは頭の中ではなく胸の右側で感じられるのです。
マハルシ
そうあってしかるべきです。
なぜなら、ハートはそこにあるからです。
質問者
私が外側を見るとき、それは消え去ってしまいます。
どうすればよいのでしょう?
マハルシ
しっかりとそれを心にとどめなければなりません。
質問者
もしそのような想起とともに行為するのであれば、その行為は常に正しいものとなるのでしょうか?
マハルシ
そうあって当然です。
しかしながら、そのような人は行為が正しいかどうかを心配したりはしません。
彼の行為は神の行為であり、それゆえ正しいのです。
質問者
それでは、どうして食事を制限しなければならないのでしょうか?
マハルシ
あなたの現在の体験は、あなたのいる環境の影響によるものです。
この場を離れてその体験を持てるでしょうか?
体験とは一過性のものです。
それが永続的なものになるまで修練は欠かせないでしょう。
そのような体験が続けて起こるようにする助けとして、食事制限があるのです。
ひとたび真理の内に確立されれば、制限は自然に落ちてゆくでしょう。
さらに、食事は心に影響を与えます。
それゆえ、純粋な食事を保つべきなのです。
ピゴット婦人は後にある弟子に伝えた。
「彼からの波動をより強烈に感じています。
そして、以前よりも容易に『私』の中心に達することができるようになっています」
【「私ー私」】
以下はマハルシ自身の言葉で記録された「私ー私」の主要な説明である。
1)
この私はどこから立ち現れるのか?これを内側に求めよ。
するとこの「私」は消滅する。これが智慧の探求である。
「私」が消滅するところに、自ら「私ー私」が現れる。これは無限なるもの(プールナム)である。
『ウパデーシャ・サーラム』第19、20節
2)
内奥の核心で、ハートは「私ー私」という真我に気づき、ブラフマンとしてひとり輝く。
真我探求によって、あるいは呼吸制御によって、ハート深く潜り、アートマンの内に永遠にとどまりなさい。
『シュリー・ラマナ・ギーター』第2章2節
3)
それゆえ、死骸となった身体は死骸として捨て置き、「私」という言葉を口にせずに、「『私』として現れたそれはいったい何なのか?」と熱心に探求すべきです。
そうすれば、多数に分割された想念は消え去り、単一で分割不可能な気づきである「私ー私」という無音のスプラナ(輝き、振動)が自ずと輝き出すでしょう。
もしそれを離れることなく静寂の内にとどまれば、「私は身体だ」という自我の形である個我性の感覚は完全に破壊され、スプラナさえも静まるでしょう。
賢者や聖者はただこれのみが解脱であると断言しています。
『真我の探求』第3節
941
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/31(金) 09:51:31 ID:jfWCoXjM0
4)
S.S.コーヘン著『グル・ラマナ』(シュリー・ラマナシュラマム刊)の中にあるマハルシとS.S.コーヘンとの会話に「私ー私」の本性に関する質問がある。
ここに「私ー私」意識とアハム・スプラナの本質が明確に説かれている。
コーヘン
シャンカラーチャーリャの『ヴィヴェーカ・チューダーマニ』には「私ー私」意識はハートの中で永遠に輝きながらも、誰もそれに気づいていないと述べています。
バガヴァーン
そうです。
目覚め、夢見、夢のない眠り──どの状態であろうと、そしてそれを意識しようとしまいと、例外なくすべての人がそれを持っているのです。
コーヘン
『サット・ダルシャナ・バーシュヤ』の「対話」の項の中に「私ー私」は至高の意識として述べられていますが。
バガヴァーン
「私ー私」意識は絶対なるものです。
それはサハジャ・サマーディの起こる前に現れますが、サハジャ自体の中にも「私ー私」意識の中にも精妙な知性が存在しています。
その2つの違いは、「私ー私」意識の中には(微細な)身体の感覚がまだ残っていますが、サハジャにおいて身体の感覚は完全に消え去るということです。
コーヘン
バガヴァーン、あなたは昨日、人の身体の中には針の先ほど小さい穴が存在し、意識がそこから身体へと絶えず噴き出していると言われました。
バガヴァーン
それは身体を意識と結びつけている無知の結び目で、通常は閉じています。
それはケーヴァラ・ニルヴィカルパの中で心が一時的に消え去るときには開きますが、再び閉じてしまします。
しかしサハジャの中では、それは開いたままとどまるのです。
コーヘン
「私ー私」意識の体験の間、それはどのような状態なのでしょうか?
バガヴァーン
「私ー私」意識がそれを永久的に開く鍵なのです。
コーヘン
あなたの言われる究極の意識「私ー私」が現れるセンターに達するにはどうすればよいのでしょうか?
ただ単に「私は誰か?」と問えばいいのでしょうか?
バガヴァーン
そうです。
それがあなたをそこへ連れて行くでしょう。
あなたはそれを静かな心で行わなければなりません。
心の静寂が不可欠なのです。
コーヘン
そのセンター、ハートに達したとき、意識はどのように現れるのでしょうか、私はそれを認識するでしょうか?
バガヴァーン
もちろんです。
それはすべての想念から解放された純粋な意識として認識されます。
それは純粋で完全なあなた自身の真我の覚醒です。
というよりむしろ存在の覚醒なのです。
それが純粋であるとき、見誤ることはありません。
コーヘン
そのセンターでの振動は、純粋意識の体験と同時に感じられるのでしょうか、それともその前、あるいはその後でしょうか?
バガヴァーン
それらは1つであり、同じものです。
しかし、スプラナは瞑想が十分確立されて深まり、最高位の意識に最も近づいたときでさえ、あるいは突然の恐怖や強烈なショックで心が停止したときにさえ感じることができます。
それは注意をそれ自体に引きつけるため、静寂によって繊細になった瞑想者の心はそれを感じ、それに強く引かれ、ついにはその中、真我の中へと沈み込むのです。
コーヘン
「私ー私」意識は真我の実現なのでしょうか?
バガヴァーン
それは真我実現の前兆です。
それが不変のサハジャとなったとき、それが真我実現、解脱なのです。
(『グル・ラマナ』より抜粋)
942
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/31(金) 22:22:53 ID:LC3de7YgO
>>940
「私ー私」 とは、私から私を引く、マイナスするLという意味でありますか?
(´・(ェ)・`)つ
943
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/31(金) 22:50:25 ID:1d4drIFg0
サハジャとは自然な状態なのじゃ。
意識しないでも私の観念が見えればそうなるのじゃ。
スプラナは忘我の意識なのじゃ。
マハラジならば気付きの意識と言うじゃろう。
観る意識なのじゃ。
944
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/05/31(金) 22:56:48 ID:1d4drIFg0
私ー私とは他の想念が消えてアートマンが観えた状態なのじゃ。
真我独存と呼ばれるのじゃ。
全てのものごとが私に見えるのじゃ。
誰もがそうなるものではないがのう。
クリシュナムルティもそうなったというのじゃ。
945
:
避難民のマジレスさん
:2019/05/31(金) 23:11:23 ID:LC3de7YgO
>>944
全てか私・・・私 - (マイナス私)= 無 でも良さそうでありますね。
(´・(∀)・`)つ
946
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/01(土) 11:28:37 ID:jfWCoXjM0
対話25
『真我実現』(マハルシの最初期の伝記)の著者であるB・V・ナラシンハ・スワミが尋ねた。
「私とは誰でしょうか?どうやってそれを見いだすのでしょうか?」
マハルシ
あなた自身にそれを問いなさい。
身体(アンナーマヤ・コーシャ)とその機能は「私」ではありません。
さらに深く進むと、心(マノーマヤ・コーシャ)とその機能も「私」ではないことがわかります。
次の段階は、「これらの想念はどこから湧き起こるのか?」と問うことです。
想念は自発的で、表面的で、分析的です。
それは知性の働きなのです。
では誰がそれに気づいているのでしょう?
このように問うことで、想念の存在とその明確な概念、そしてその働きは個人にとって明らかになります。
この分析の結果、想念やその流れの存在を認識するのは、個人の人格であるということがわかります。
この人格が自我、あるいは一般に言われる「私」です。
知性(ヴィジニャーナマヤ・コーシャ)は「私」の鞘にすぎず、「私」そのものではないのです。
さらに探求を続けてゆくと、「この『私』とは誰なのか?」、「どこからそれは湧き起こるのか?」という問いが起こります。
眠りの中では「私」は気づいていませんでした。
「私」が立ち現れるとともに、眠りは夢見あるいは目覚めへと変化してゆくのです。
しかし今は夢見の状態には関わらずにおきましょう。
今、この目覚めの状態での私とは誰なのか?
もし「私」が眠りから生じたのだとすれば、その「私」は無知に包まれているはずです。
そのような無知な「私」が、聖典や聖者が「私は眠りをも超越する」と語る「私」だとは言えません。
「私」とは今、ここに在るべきものです。
そして「私」は眠りや夢見の質を持たないにもかかわらず、眠りや夢見の間にも存在すべきものなのです。
それゆえ、「私」は(至福であるアーナンダマヤ・コーシャをも超えた)三つの状態の根底に存在する完全なる基盤であるに違いありません。
簡潔に言えば、「私」は五つの鞘を超越したものです。
次に、真我ではないすべてを否定し続けた後に残るもの、それが真我、サット・チット・アーナンダ(存在ー意識ー至福)なのです。
質問者
どうすれば真我を実現できるでしょうか?
マハルシ
現在の相対的な次元を超越しなさい。
存在(真我)はそれ自身から分離したもの(非真我)を明らかに知っています。
つまり主体は対象に気づいています。
見る者がドリクであり、見られるものはドリシャです。
これら二つの根底にはそれらを結ぶものがあるはずです。
それが「自我」として現れるのです。
この自我がチット(知性、意識)の本性です。
アチット(非感覚的なもの、意識のないもの)とはチットの否定でしかありません。
それゆえ根底にある本質は、対象ではなく主体に近いものなのです。
「見られるもの」(ドリシャ)が完全に消え去るまで「見る者」(ドリク)を探すことによって、相対的な「見る者」はより希薄になり、最後には絶対的な「見る者」だけが残ります。
この過程は「対象としての世界の消滅」と呼ばれます。
質問者
どうして「見られるもの」である対象としての世界が排除されなければならないのでしょうか?
対象が残されたままでは、真理は実現できないのでしょうか?
マハルシ
できません。
「見られるもの」の排除とは、主体と対象という分離を排除することです。
対象は実在ではありません。
(自我をも含めた)すべての目に見えるものが対象なのです。
対象である非実在を排除することによって実在が残ります。
ロープが蛇に見間違えられたとき、真実を悟るには、蛇という誤った知覚を排除するだけでいいのです。
そのような排除なしに、真理は悟れません。
質問者
対象としての世界の消滅は、いつ、どうやって起こるのでしょうか?
マハルシ
それは対象に相対する主体、つまり心が排除されたときに完結します。
心が主体と客体の創造者であり、二元的概念の起こる原因なのです。
それゆえ、心は「自己は限定されたものである」という誤った観念によって起こる不幸の原因でもあるのです。
947
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/01(土) 11:30:07 ID:jfWCoXjM0
質問者
心とは何なのでしょうか?
マハルシ
心は生命の顕現の一形態です。
木片や精密な機械が心と呼ばれることはありません。
生命の気が生命活動として現れ、また心という意識的現象として現れるのです。
質問者
心と対象物との関係性とは何でしょうか?
心は、心とは異なるもの、すなわち世界と接触しているのでしょうか?
マハルシ
世界とは目覚めと夢見の状態の中で「感じられる」ものであり、また思考と知覚の対象でもあります。
どちらも精神的活動です。
もし目覚めや夢見という想念の精神的活動がなければ、「世界」を「知覚」することさえないでしょう。
眠りの中にそのような精神的活動はなく、「対象と世界」も存在しません。
したがって、「世界の実在性」は自我が眠りから出現することで自我によって創造されたと言えるでしょう。
そしてその実在性は、眠りの中でその本性を回復した魂によって飲み込まれ、消え去るのです。
世界が現れたり消え去ったりするのは、クモが巣をつくり出し、それを再び引き入れるのに似ています。
ここで言うクモは目覚め、夢見、眠りの三つの状態の根底に在ります。
人の中に宿るそのようなクモが、アートマン(真我)と呼ばれるものです。
一方、(太陽から生じたと考えられている)世界の中に宿るクモはブラフマン(至高の霊性)と呼ばれます。
「人の中に宿る『彼』は、太陽の中に宿る『彼』と同じものである」
サ・ヤシュチャーヤン・プルシェー・ヤシュチャーサーヴァーディッティエー・サ・エーカハ。
『タイッティリーヤ・ウパニシャド』第2巻8章1節
真我あるいは霊性が現れず、活動がないとき、そこに主体と対象、つまり「見る者」(ドリク)と「見られるもの」(ドリシャ)のような相対的二元性はありません。
もし心の現れる究極の原因を探求し続ければ、心はアートマンあるいはブラフマンと呼ばれる実在の現れでしかないことがわかるでしょう。
心は「微細心」(スークシュマ・シャリーラ)と呼ばれ、ジーヴァは個人の魂を意味し、個性の成長の核である人格と見なされています。
想念あるいは心はジーヴァの一側面、あるいはジーヴァがそれ自身を表す一つの方法と言われています。
そのジーヴァの発展の初期段階では、生命は不活発な状態にあります。
心は常に物質と関係し、あるいは物質に対して働きかけていて、それ自体単独で存在することはけっしてありません。
つまり心と物質は共存しているのです。
【五つの鞘(パンチャコーシャ)】
真我を覆い隠す五つの鞘。
(1)アンナーマヤ・コーシャ(身体の鞘)。
(2)プラーナマヤ・コーシャ(生気の鞘)。
(3)マノーマヤ・コーシャ(心の鞘)。
(4)ヴィジニャーナマヤ・コーシャ(知性の鞘)。
(5)アーナンダマヤ・コーシャ(至福の鞘)。
948
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/01(土) 23:12:59 ID:1d4drIFg0
>>945
そうじゃろう。
マハラシもいろいろウパニシャッドの言葉を習ったが、やはり自分の言葉で表現するしかないのじゃ。
悟りの境地は同じでも育った環境とか知識が違うからのう。
経典や聖者の言葉も参考にするしかないのじゃ。
身体から至福にいたる鞘とは自己同一化される対象なのじゃ。
それらが自己であると認識しているうちは悟りは訪れないのじゃ。
一切の対象が無い時、自己もなくなり悟りも訪れるのじゃ。
同一化の対象は後半異なるが、仏教の五蘊と同じ主旨なのじゃ。
949
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/02(日) 10:59:15 ID:jfWCoXjM0
対話26
質問者
どうすれば世界の顕現の究極的原因であり、その本質である心の本性を見いだすことができるでしょうか?
マハルシ
想念をその価値の順位に並べてみると、「私」という想念が最も重要だということがわかります。
人格という概念もまた、その他すべての想念の根や幹です。
それぞれの観念や想念は誰かの想念としてのみ起こり、自我から独立して存在することはありません。
それゆえ、自我が想念の活動を表すのです。
二人称と三人称の代名詞である「あなた、彼、あれ」などは、一人称代名詞の「私」なしには存在しません。
それらは一人称が現れた後にのみ現れます。
つまり三つの人格はともに現れ、ともに消えていくのです。
それゆえ、「私」または人格の究極の原因をつき止めなさい。
「私」という観念は身体を得た自我に起こります。
それは身体あるいは有機体に関係しているはずです。
ちょうど話すことや性欲が脳に中心を置いているように、「私」は身体の中、あるい特定の場所に関係しているのでしょうか?
それとも、「私」は脳、血液、内臓に中心を置いているのでしょうか?
「想念という生気」は脳と脊髄に中心を置いています。
そして脳と脊髄の中を血液が循環し、食べ物と空気を適切に混合し、神経物質に変容させることで、この想念という生気は養われているのです。
それゆえ、血液循環、呼吸作用、栄養摂取を含めた自律的な生命作用または生気は、身体組織の中核あるいは本質だと言われています。
このような理由から、心は生気の現れと見なされ、また心はハートに宿ると考えられているのです。
質問者
心を消去し、その代わりに直観を発展させる修練方法について伺いますが、それらは心でも直観でもない中立的な基盤をともなう、二つの異なった段階なのでしょうか?
それとも真我を実現するには精神活動のない状態が必要なのでしょうか?
マハルシ
修行者(アビャーシー)にとって、二つの明確に異なった段階があります。
一つは眠り、昏睡、気絶、狂気などに共通の基盤である精神活動のない状態と、もう一つは自己意識の存在しない状態です。
質問者
心を消し去り、相対的意識を超越するにはどうすればよいのでしょうか?
マハルシ
心は本質的に落ち着きのないものです。
落ち着きのなさからそれを解放しなさい。
安らぎを与えなさい。
気を散らすものを避けなさい。
内側を見るよう訓練しなさい。
そしてそれを習慣としなさい。
外的な世界を無視し、心の平安を妨げるものを除くことで、そうすることができるようになります。
質問者
どうすれば心を落ち着かせることができるでしょうか?
マハルシ
外的な接触──自己以外の対象物との接触──が心を不安定にさせるのです。
真我ではないものへの興味を失うこと(ヴァイラーギャ)が第一段階です。
そうすれば内観と集中の習慣がそれに続くでしょう。
そして外的な感覚や内的な知的機能を制御することが、最終的にサマーディへと導くのです。
950
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/02(日) 22:22:29 ID:1d4drIFg0
自分んがあるという観念から他の観念も次々に生まれてくるのじゃ。
それが縁起というものじゃ。
その心を観るためには五感を制することも重要なのじゃ。
心の視点を外から内側に向けるのじゃ。
951
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/03(月) 12:55:29 ID:jfWCoXjM0
対話27
質問者
それらはどのように修練されるのでしょうか?
マハルシ
外的現象の本性のはかなさを見極めることがヴァイラーギャ(離欲、無執着)へと導きます。
だからこそ、真我探究が最初に踏み出される重要な一歩となるのです。
真我探究が自動的に継続するようになると、富や名声、快適さや快楽を無価値なものとして軽視するようになります。
「私」という想念を見極めることはより明確になり、こうして「私」の源であるハートへと導かれてゆくのです。
それが最終目的です。
しかしながら、もし探究者の気質が真我探究の道という内観的、分析的な方法に合わない場合は、神、グル、人類、道徳理念、あるいは美の概念に対するバクティ(帰依、献身、信愛)を養わなければなりません。
真我探究か帰依のどちらかが個人の心を虜にしたとき、それ以外のことに対する執着心は弱まり、無執着心が強まっていきます。
それと同時に究極的目標に対する執念が培われ、ついには、ただそれだけが心を占有するのです。
このようにして、ヴィジョンや直接的な助けなどをともないながら、一点への集中は気づかぬうちに発展していきます。
真我探究や帰依が適さない人の場合、自然に静けさをもたらすプラーナーヤーマ(調息)を試みるとよいでしょう。
これはヨーガ・マールガ(ヨーガの道)と呼ばれるものです。
もし生命が危険にさらされれば、生命の救出の一点にすべての関心が集まるでしょう。
もし呼吸が抑えられれば心はゆとりを失い、外的な対象物に飛びつくこともなくなるでしょう。
このように呼吸を制御している間は心も落ち着いています。
すべての注意は呼吸とその調整に向けられ、他の物事に対する興味が失われるからです。
熱情には乱れた呼吸がともないますが、穏やかな幸福にはゆっくりとした規則正しい呼吸がともないます。
激烈で発作的な喜びには、苦痛と同じように痛みがあり、そのどちらにも乱れた呼吸がともないます。
真の平安こそが幸福です。
快楽が幸福をもたらすことはありません。
心は修練によって改善され、革砥で砥がれたカミソリの刃のように鋭くなります。
そうすることで、心はよりいっそう内的または外的な問題に取り組めるようになるのです。
もし真理の探究者がジニャーナ(知識)とバクティ(帰依)の二つの道に気質的にそぐわず、また第三の方法であるヨーガも年齢的な状況から無理である場合、彼は(例えば社会奉仕などの善い行いをする)カルマ・ヨーガ、つまり行為の道を試みるべきです。
彼の崇高な本性はより明らかになり、無私無欲の喜びを得るようになるでしょう。
小さな自我は主張をやめ、彼の中の善が開花する機会を得るでしょう。
こうして彼は他の三つの道の一つにも十分適するようになるのです。
この一つの方法だけでも適切に身につければ、彼の直観は開花するでしょう。
質問者
一定の想念や連続的な問いかけが自己催眠状態を招くことはありませんか?
分析不可能な基本原理であり、把握しがたく、漠然としか知覚できない「私」を分析するためには、それを一点に限定するべきではないのではありませんか?
マハルシ
いいえ。
それは空間を見つめるような、まばゆい水晶や輝く光を見つめるようなものです。
質問者
心をその一点に集中させることはできるのでしょうか?
それはどのようにするのでしょうか?
マハルシ
もし心が散漫になったなら、「この散漫な心は誰に起こったのか?」と即座に問いただしなさい。
それはあなたを「私」という点に即座に連れ戻すでしょう。
952
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/03(月) 12:56:21 ID:jfWCoXjM0
質問者
心はどれほどの間、ハートの中にとどめておくことができるのでしょう?
マハルシ
修練が進むほど長くとどめておくことができるようになります。
質問者
修練を止めたときには、何が起こるのでしょうか?
マハルシ
心は現在の通常の状態に戻ります。
ハートの中で融合していた心が、知覚されるさまざまな現象に取って代わられます。
これは外向的な心と呼ばれています。
それに対して、ハートに向かう心は安らいだ心と呼ばれています。
質問者
この過程は単に「知的なもの」なのでしょうか、それとも主に「感じられるもの」なのでしょうか?
マハルシ
後者です。
質問者
心がハートの中にあるとき、すべての想念が止むということは、どうやって起こるのでしょうか?
マハルシ
意志の力によって、師の教えの真理に強烈な信頼を抱くことによってです。
質問者
この修練の利点とは何でしょうか?
マハルシ
*a意思の克服──集中力が培われる
b熱情の克服──無執着が培われる
c徳業を積む──すべてを平等に見る
質問者
なぜ思考の及ばない点について考えるという自己催眠を用いるべきなのでしょうか?
どうして光の凝視や呼吸の維持、音楽を聞くことや内なる音に耳を傾けること、オームなどの神聖なマントラの復唱といった他の方法を用いないのでしょうか?
マハルシ
光の凝視は心を麻痺させ、意志をしばらくの間硬直させますが、その効果は永続しません。
呼吸の抑制もまた一時的に意志を麻痺させますが、永続はしません。
音に聞き入ることも、そのマントラが聖なるものであり、想念を高め浄化する高次の力に守られたものでないかぎり、結果は同じこととなってしまうでしょう。
*本書の中に度々見られるこのような箇条書きや表は、マハルシ自身の言葉の表現ではなく、記録者の便宜による。
953
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/03(月) 23:47:26 ID:1d4drIFg0
アートマンの法では他の集中法を用いず、ただひたすら胸の中のアートマンを追求するのじゃ。
そうすれば自然に集中力も増していくのじゃ。
私とは何かを求めるマハリシの教えはアートマンの法と言えるのじゃ。
難しいことではあるがのう。
954
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/04(火) 13:13:04 ID:jfWCoXjM0
対話28
質問者
想念の制御と呼吸の制御の間にはどのような関係があるのでしょうか?
マハルシ
想念と呼吸、血液循環などの自律的な活動は、どちらも同じ個人の生命の異なった相を表し、どちらも生命に備わったものです。
生命活動と同じように、人格やその他の想念も個人の生命から現れるのです。
呼吸やその他の生命活動が強制的に抑制されれば、想念も抑制されます。
もし想念を強制的に遅くすれば、呼吸という生命活動もゆっくりと平坦に、生命を保つ最低のレベルにまで制限されます。
そのどちらにおいても、散漫な思考は一時的に停止します。
その相互作用は他の点でも明らかです。
生きようとする意志を例にとってみなさい。
それは想念の力です。
それ以外の生命力が尽き果てようとするときでも、死を遅らせるのは想念の力なのです。
生きようとする意志の力がなくなれば、死は加速されます。
それゆえ、想念が肉体に命をとどめ、想念が肉体に宿る生命を一つの身体から別の身体へと運んでゆくと言われるのです。
質問者
集中を高め、散漫を取り除く方法が何かあるでしょうか?
マハルシ
身体的には、消化器官や他の内臓器官への刺激を避けなさい。
それゆえ、食事の量と質の両方を管理しなさい。
刺激のないものを食べなさい。
唐辛子を避け、塩や玉ネギ、ワイン、催眠剤などを取り過ぎてはいけません。
便秘にならないようにし、眠気や興奮、そしてそれらを促進する食べ物を避けなさい。
精神的には、一つのことに興味を保ち、心をそれにとどめなさい。
他のすべてを忘れて没頭できるようなことに興味を持ちなさい。
それが無執着(ヴァイラーギャ)と集中です。
神やマントラを選ぶと良いでしょう。
そうすれば、心は霊妙なるものをとらえるほどの力を得て、その中に融け去るのです。
質問者
潜在する精神的傾向が障害をもたらすこともあります。
それも排除できるのでしょうか?
マハルシ
できます。
多くの人たちがそれを成し遂げたのです。
信じなさい!
彼らがそうできたのは、できると信じたからです。
心の潜在的傾向(ヴァーサナー)は消し去ることができます。
それはヴァーサナーの核でありながら、ヴァーサナーから自由な「それ」に集中することによって排除できるのです。
質問者
修練はどれほど長く続けるものなのでしょうか?
マハルシ
目的を遂げ、ヨーガの解放が永久的なものとなるまでです。
成功は成功を呼びます。
一つの障害が克服されれば次も克服されてゆき、最終的にはすべてが克服されます。
その過程は、敵を一人また一人と現れるごとに倒していくことで、敵の城砦を崩し続けていくようなものです。
質問者
この過程のゴールは何でしょうか?
マハルシ
実在を実現することです。
質問者
実在の本性とは何でしょうか?
マハルシ
a 始まりも終わりもない永遠の存在
b すべてに遍在する無限の存在
c すべての形態、変化、力、物質、霊性の根底にある存在
すべての現象は移り変わり、過ぎ去っていきますが、「一なるもの」(実体)は常に変わりません。
知る者、知識、知られるものという三位を超えた「それ」。
三位は時間と空間における現れにすぎません。
しかし実在はそれらを超えた背後に在ります。
それらは実在の上に立ち現れた蜃気楼のようなものであり、誤った観念の結果なのです。
質問者
もし「私」でさえも幻影なら、誰がその幻影を消し去ると言うのでしょうか?
マハルシ
「私」が「私」という幻影を消し去り、しかも「私」として残る。
それが真我実現のパラドックスです。
賢者はそこにいかなる矛盾も見ません。
帰依(バクティ)の場合を例にとって見てみなさい。
私はイーシュヴァラ神に近づき、彼の中に融合されんと祈ります。
信心とともに私は彼に集中し、そして自らを明け渡します。
後には何が残るでしょう?
完全な明け渡しは本来の「私」の場所の中に神だけを残し、偽りの「私」は消え去るのです。
これが至高の帰依、明け渡し、離欲(ヴァイラーギャ)の極みです。
あなたはあれやこれといった「私の」所有物を放棄しますが、もしその代わりに「私」と「私のもの」という想念を放棄すれば、すべてが一太刀で放棄されるでしょう。
所有の根本原因が絶たれたからです。
このようにして邪悪は種のうちに砕かれ、つぼみのうちに摘み取られます。
そのためには、非常に強固な無執着が為されなければなりません。
水中にとらえられた人が、必死で水面に上がろうと努力するに等しい真剣さと熱意が必要となるでしょう。
955
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/04(火) 13:14:34 ID:jfWCoXjM0
質問者
この困難を師やイシュタ・デーヴァター(信仰の対象として選ばれた神)が和らげてくれるのではないでしょうか?
師や神が真我をありのままに見る力を与え、私たちを彼らのようにし、真我実現へと導いてくれるのではないでしょうか?
マハルシ
イシュタ・デーヴァターや師は、実に強力な助けとなります。
しかしその助けが効果をもたらすには、あなたの努力も必要です。
あなたの努力は必要不可欠なものです。
太陽を見なければならないのは、あなたなのです。
眼鏡や太陽そのものがあなたのために太陽を見てくれるでしょうか?
あなた自身が自己の本性を見なければならないのです。
(そのために)たいした助けは必要ありません!
質問者
私の自由意志と全能の神の圧倒的な力との間にはどのような関係があるのでしょうか?
a 神の全知と自我の自由意志は一致しますか?
b 神の全能と自我の自由意志は一致しますか?
c 自然の法則と神の自由意志は一致しますか?
マハルシ
一致します。
自由意志とは、判断や意思という限られた自我の能力が現在現れているものです。
その同じ自我は、振り返れば自らの過去の行いが「法則」の流れの中にあることを認めます。
つまり自我は自身の自由意志が「法則」の流れに繋がっていることを知るのです。
自我は個人の自由意志の現れを通して、その中に神の全知全能が働いていることを見ます。
それゆえ、自我は自由意志の現れにしたがうべきであると結論づけるのです。
自然の法則は神の意思の現れであり、神によって決められたものです。
質問者
科学、心理学、生理学、哲学などの研究は、
a ヨーガによる解放
b 実在の統一性の直観的理解
の助けとなるでしょうか?
マハルシ
aに関しては、ほとんど役に立ちません。
ある知識はヨーガに必要でしょう。
それは書物の中に見いだせるでしょう。
しかし必要とされるのは実際に応用できるものであり、個人の実体験、(グルとの)個人的な接触、個人的な指導が最も役立ちます。
bに関しては、真理を直観的につかもうと苦心して勤勉にその働きや本質を理解しようと努めても、実際の直観は感覚に近いものであるため、修練と(グルとの)個人的な接触を必要とします。
単に本を読んだだけでは、たいして役に立ちません。
実現後には、知的な理解や知識は無用な重荷となり、がらくたとして投げ棄てられます。
自我を投げ棄てることこそが必要なことなのです。
質問者
夢見と目覚めはどのように異なるのでしょうか?
マハルシ
夢の中で、人は異なった身体をとります。
そしてその身体は、夢で感覚的接触を得たとき、再び目覚めの身体に入るのです。
質問者
幸福とは何でしょうか?
それはアートマンの中に本来備わっているのでしょうか?
あるいは対象の中、あるいは対象と主体が出合うときに生じるのでしょうか?
それでも、私たちは日々の出来事の中に幸福を見いだせません。
いったいそれはいつ起こるのでしょうか?
マハルシ
望んでいたものが手に入ったとき、あるいは望んでいなかったものから自由になたとき、あるいはそれを想い起こしたとき、私たちは幸福だと言います。
そのような幸福は相対的でしかなく、快楽と呼ぶにふさわしいものです。
しかし人は絶対的で永久的な幸福を求めています。
それは対象物の中ではなく、「絶対なるもの」の中にあるのです。
それは苦痛と快楽の両方から自由になった平和──中立的な状態です。
956
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/04(火) 13:15:26 ID:jfWCoXjM0
質問者
どういう意味において、私たちの真の本性が幸福だと言われるのですか?
マハルシ
完全な至福がブラフマンです。
完全な平和が真我なのです。
ただそれのみが存在し、それのみが意識しています。
形而上学によっても、帰依の道によっても同じ結論に至ります。
私たちは至福を求めて神に祈り、恩寵によってそれを授かります。
至福を授けるものは至福そのもの、無限なるものに違いありません。
それゆえ、イーシュヴァラ神は無限の力と至福が人格化された神なのです。
ブラフマンは至福であり、非人格的な、「絶対なるもの」です。
有限な存在である自我は、第一にブラフマン、次にイーシュヴァラ神をその根源としています。
そしてその霊的な本性は至福なのです。
生物学的に見れば、有機的生物が機能するのは、機能することが幸福をともなうからです。
私たちの成長を助けるのは、食事、学習、休息、社交といった喜びです。
喜びの心理学(あるいは形而上学)は、おそらく「私たちの本性が本来一つであり、全体的で、至福に満ちていること」に基づいているのでしょう。
これを信じるに足る仮定として見てみなさい。
創造とは実在を神と自然(マーヤー、プラクリティ)に分割したものです。
このマーヤーは二つの部分から成っています。
一つは「パラー」、すなわち基礎となる本質、もう一つは「アパラー」、すなわち五大元素、心、知性、自我です。
自我の完全性はある時点で突然崩れ去り、何かを得よう、何かをしようという欲望が湧き起こります。
それを満たして欲望が癒されたとき、自我は幸福になり、本来の完全性が回復されます。
それゆえ、幸福は私たちの本来の状態、本性なのです。
快楽と苦痛は欲望の充足の度合いにしたがった相対的なもので、私たちの限定された状態に起因しています。
もし相対的な欲望の充足を追い求めることが止まり、完全な平和をその本性とするブラフマンに魂が融け去れば、それは相対的で一時的でしかない快楽を離れて、完全な平和である至福を楽しむことでしょう。
だからこそ、真我実現は至福なのです。
それは真我を無限の霊的な目(ジニャーナ・ドリシュティ)として認識することであって、千里眼ではありません。
真我実現は至高の明け渡しであり、サンサーラ(輪廻の世界)は不幸なのです。
質問者
ではなぜ限定された創造と顕現であるサンサーラは、これほど不幸と悪に満ちているのでしょうか?
マハルシ
神の意思によって!
質問者
なぜ神はそう望まれたのでしょう?
マハルシ
それは理解を超えたものなのです。
あの「力」にはいかなる動機も帰せず、いかなる欲望も目的もあの「全知全能の無限なるもの」に属すると言うことはできません。
神はその存在の中で起こる活動に影響されないのです。
太陽と世間の活動を例にとって比較してみればわかるでしょう。
多数となる前の「一なるもの」に責任や動機を負わせるのは無意味なことです。
しかしすでに決められた出来事の流れを神の意思に負わせるのは、自由意志問題の解決方法としては都合のいいことでしょう。
もし何が起こり、何に関わり合い、何を避けるかについて、満足のいかない不安に心が揺れ動いているなら、そのときは責任と自由意志の感覚を棄て去り、全知全能の神に定められた道具として、行為しようと苦しもうと、彼の望むがままに任せることが賢明でしょう。
彼はすべての重荷を負い、私たちに平和を与えてくれるのです。
957
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/04(火) 22:23:45 ID:1d4drIFg0
イーシュヴァラ神とはシヴァ神のことなのじゃ。
マハリシはそれもまた幻影と知りながら神を信じる者のために説くのじゃ。
インド人が自我を無力化しようとするならば、神への信仰を使うのが一番であるからのう。
数字を信じる者には数学を説いたりするじゃろう。
958
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/05(水) 12:50:18 ID:jfWCoXjM0
対話29
夕方の穏やかな曇り空。
ときおり小雨が降ったため、いくぶん涼しかった。
アーシュラマムのホールの窓は閉じられ、マハルシはいつものようにソファーに座っていた。
帰依者たちは彼に向かい合って座っている。
クダロールから数人の訪問者があった。
その中には、判事補と同伴の二人の年配の女性の姿が見えた。
判事補が現世の物事のはかなさについて討論を始めた。
「実在と非実在を識別すること(サット・アサット・ヴィチャーラナ)は、『不滅なるもの』の実現へと導くだけの効果があるのでしょうか?」
マハルシ
真理を探究するすべての者が提議し、そう認識しているように、ただ至高の霊性にとどまること(ブラフマ・ニシュター)のみが、真理の実現を可能にするのです。
「それ」は私たち自身のものであり、私たちの内に存在するものです。
ですから、いかに実在と非実在を識別しようとも、それは現象を一時的なはかないものとして放棄させ、永遠の真理と存在だけをつかみ取ろうという思いに駆り立ててはくれますが、それだけでは私たちを一歩先に進ませることしかできないのです。
会話は一転して、
「真我実現(サームラージュヤ)を達成するには神の恩寵が必要か?」
あるいは
「ジーヴァ(個我)の誠実で熱心な努力だけでは到達不可能な、生と死の輪廻を超えた『それ』に達するには神の恩寵が必要か?」
という質問に移った。
マハルシは聖なる顔にたとえようのない微笑を浮かべ、それは彼を取り巻く人々すべての上に輝き渡った。
そして確固たる真理をたたえた声で答えた。
「真我実現には神の恩寵が欠かせません。
それは神の実現へと導きます。
けれどもそのような恩寵は、自由に向かってたゆみなく進み続ける真の帰依者やヨーギーだけに与えられるのです」
質問者
ヨーガの聖典は六つのセンターの存在について述べています。
しかしジーヴァはハートの中に宿るとも言われています。
そうなのでしょうか?
マハルシ
そうです。
ジーヴァは深い眠りではハートの中に、目覚めにおいては脳の中にとどまると言われています。
ここで言うハートを、血液を循環させる四つの心房を持った身体的器官だと考える必要はありません。
この見解を支持する書物も存在しています。
他にも、それを神経節あるいは中枢神経と見なす人もいます。
どちらの見解が正しいかは、私たちには問題ではありません。
私たちは自分自身のことに関心を持つべきだからです。
それは確かに私たちの内にあります。
それに関して、疑いや議論の余地はありません。
「ハート」は『ヴェーダ』や聖典の中に、「私」という観念が湧き起こる場所として述べられています。
それがただの肉の塊から湧き起こるでしょうか?
それは私たちの存在の中心より少し右側から生じるのです。
「私」を位置づけることはできません。
すべては真我であり、ただそれだけが存在するのです。
それゆえ、ハートは私たちの全身体であり、全宇宙であると言うべきです。
そしてそれが「私」なのです。
しかし探究者の理解を助けるために、私たちは宇宙あるいは身体の中の一ヶ所をハートとして示さなければなりません。
だからこそ、このハートが真我の座として指摘されます。
959
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/05(水) 12:52:17 ID:jfWCoXjM0
しかし真実は、私たちはすべてに存在し、すべてが私たちであり、それ以外は何も存在しないのです。
質問者
サマーディに達するには、神の恩寵が必要だと言われています。
そうなのでしょうか?
マハルシ
私たちは神なのです。
自己を神として見ること自体が神の恩寵です。
それゆえ、私たちは神の恩寵を得るために神の恩寵が必要なのです。
マハルシがそう言って微笑むと、帰依者たちもみな笑った。
質問者
神の恩寵とは別に神の寵愛もあると聞きました。
そうなのでしょうか?
マハルシ
神を想うこと自体が神の寵愛なのです!
神は、その本性からして恩寵(アルール)です。
神の恩寵によって、あなたは神のことを想うのです。
質問者
師の恩寵は神の恩寵の結果なのでしょうか?
マハルシ
なぜその二つを区別するのですか?
師と神は別ではなく同じなのです。
質問者
正しい人生を歩み、真我に想念を集中しようと真剣に努力するとき、しばしば失敗したり中断したりすることがあります。
どうすればよいのでしょうか?
マハルシ
最後には、すべてがうまくいくでしょう。
失敗や中断が起こる度に、再び歩み出そうとする決意が衝動となって起こります。
障害は徐々に克服され、あなたの探究の勢いはより強固になるでしょう。
最終的には、すべてがうまくいくのです。
固い決意でそれに向かいなさい。
【サームラージュヤ】
このサンスクリット語は一般に「全世界または全宇宙の支配、統制」を意味するが、アドヴァイタ哲学においては「真我実現」のみを意味する。
960
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/05(水) 22:52:34 ID:1d4drIFg0
神という者があるとすれば自分自身なのじゃ。
自分の世界を創った者は自分であるからのう。
自分自身も創ったのであるから創造神なのじゃ。
自分とは自らの心によって創造されたものなのじゃ。
961
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/06(木) 12:46:13 ID:jfWCoXjM0
対話30
南インドの町の法廷弁護士会の会長で、伝統的ブラーフマナ(バラモン)であるナテサ・アイヤール氏が尋ねた。
質問者
イーシュヴァラやヴィシュヌといった神々や、神々の聖地であるカイラーサやヴァイクンタは実在するのでしょうか?
マハルシ
あなたがこの身体の中にいるのと同じように、それらは実在しています。
質問者
それらは私の身体のように現象的存在を有しているのでしょうか?
あるいは、それらは野ウサギの角のような作り話にすぎないのでしょうか?
マハルシ
それらは確かに存在します。
質問者
もしそうであれば、それらはどこかに在るはずです。
どこに在るのでしょうか?
マハルシ
それらを見たことのある人々は、それらがどこかに存在していると言っています。
ですから、私たちはその言葉を信じなければならないのです。
質問者
どこに存在しているのでしょうか?
マハルシ
あなたの中に。
質問者
では、それは私が創造し、支配できるただの観念なのでしょうか?
マハルシ
すべてがそのようなものなのです。
質問者
しかし野ウサギの角のようなまったくの虚構や、部分的には真実である蜃気楼のようなものなら想像で創り出すこともできます。
それに対して、私の想像力とは関わりなく存在している事実もあります。
イーシュヴァラ神やシヴァ神はそのように存在しているのでしょうか?
マハルシ
そうです。
質問者
神はプララヤ(宇宙の崩壊)を被るのでしょうか?
マハルシ
なぜですか?
真我に気づいている人は、宇宙の崩壊をも超越して解脱を得たのです。
ならば、なぜはるかに賢く能力を持ったイーシュヴァラにそうできないことがあるでしょう?
質問者
神々や悪魔も同じように存在しているのでしょうか?
マハルシ
そのとおりです。
質問者
「至高の意識」(チャイタニャ・ブラフマン)についてどのように考えればよいのでしょうか?
マハルシ
存在する「それ」として。
質問者
それは「自ら輝くもの」として考えるべきでしょうか?
マハルシ
それは光と闇を超越しています。
個我(ジーヴァ)はその両方を見ています。
光と闇を見るために個人に光を与えているもの、それが真我です。
質問者
それは「私は身体ではなく、行為者でもなく、楽しむ者でもない」などとして理解されるべきものなのでしょうか?
マハルシ
なぜそのような考えを抱くのですか?
私たちは今、「私は人間だ」と考えているでしょうか?
そう考えなければ人間ではなくなると言うのですか?
質問者
では聖典にあるように、「そこには何の違いもない」(ネーハ・ナーナースティ・キムチャナ)として理解されるべきなのでしょうか?
マハルシ
それさえも必要ありません。
質問者
「私は実在だ」と考えれば、それでよいのでしょうか?
マハルシ
すべての思考は実現に反するのです。
私たちに関するすべての考えと、それ以外についてのすべての考えを排除することが正しい状態です。
想念と実現はまったく別のものなのです。
962
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/06(木) 12:47:41 ID:jfWCoXjM0
質問者
身体を消し去ることは、霊的な発展のために必要なことではありませんか?
マハルシ
なぜそのようなことを考えるのですか?
あなたは身体なのですか?
質問者
いいえ、違います。
しかし霊的進化は身体の変化をともなうはずです。
そうではありませんか?
マハルシ
どんな変化を望むと言うのですか?
なぜそう考えるのです?
質問者
身体を透明にする能力は、進化した叡知の証しではないでしょうか?
マハルシ
そうだとすれば人前で話したり、書いたり、生活した人たちはみな無知だということになりますね!
質問者
しかしヴァシシュタやヴァールミーキのような聖者は、そのような能力を持っていたのではありませんか?
マハルシ
叡知(ジニャーナ)とともにそのような能力が発達していったのは、彼らの運命(プラーラブダ)だったのでしょう。
なぜ本質的ではなく、かえって叡知の妨げとなるような能力を目標とするのですか?
身体が目に見えるからといって、聖者がそのことで悩むでしょうか?
質問者
いいえ。
マハルシ
催眠術師は自分の姿を見えなくさせることができますが、彼は聖者でしょうか?
質問者
いいえ。
マハルシ
可視性も不可視性も見る者に関わっています。
その見る者とは誰なのか?
まずそれを解決しなさい。
他の問題は重要ではありません。
質問者
『ヴェーダ』には宇宙の起源に関する矛盾した説明が見受けられます。
聖典のある箇所では、最初に創造されのはエーテルだと言及され、別の箇所では生気(プラーナ)が最初に創造されたと述べられています。
そしてまた別の箇所では別のものが、また別の箇所では水がというように。
いったいこの矛盾をどう一致させればよいのでしょうか?
これは『ヴェーダ』の権威をそこなうのではありませんか?
マハルシ
真理の異なった相を、異なった人が異なったときに見て、それぞれが異なった見解を強調するのです。
なぜそのような矛盾した言葉を気にかけるのですか?
『ヴェーダ』の本質的な目的は、私たちに不滅のアートマンの本性を教え、私たちが「それ」であることを示すことにあるのです。
質問者
その点については私も納得しています。
マハルシ
では、それ以外のことはすべて余分な議論、あるいはものごとの起源をたどろうとする無知な人のための説明と見なしなさい。
963
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/06(木) 12:49:01 ID:jfWCoXjM0
質問者
私は罪人です。
私は宗教的供犠(ホーマ)などを行わないからです。
そのために私は苦しい転生を経なければならないのでしょうか?
どうぞ私をお救いください!
マハルシ
なぜ自分を罪人だなどと言うのです?
転生をまぬがれるには、神を信頼するだけで十分です。
すべての重荷を彼に任せなさい。
『ティルヴァーチャカム』にこう述べられています。
「犬にも劣る私を、あなたは慈悲深くも守ってくださいました。
この生と死の幻想は、あなたによって保たれているのです。
それなのに、私が裁く人だと言うのですか?
私がここの主だと言うのですか?
ああ、マヘーシュヴァラよ!
生から死へと私の身体を転生させながら、あなたの御足元に私をとどめるのはあなたなのです」と。
ですから信じなさい。
そうすれば救われるでしょう。
質問者
信仰はあるのですが、それでもまだ困難に直面します。
集中の修練の後、私は衰弱やめまいに苦しむのです。
マハルシ
プラーナーヤーマ(呼吸制御)を正しく行えば、力を増すことができるはずです。
質問者
私は専門職についていますが、絶え間なく瞑想の中にとどまっていたいのです。
それらはお互いに矛盾するのでしょうか?
マハルシ
矛盾することはありません。
どちらも同時に行い、力を開発してゆくにしたがって、両方に従事することができるようになるでしょう。
あなたは仕事を夢として見るようになるでしょう。
『バガヴァッド・ギーター』にこう述べられています。
「すべての生けるものにとっての夜は、修養したものにとっての目覚めである。
すべての生けるものが目覚めているとき、聖者にとっては夜である」と。
【そこには何の違いもない】:『ブリハダーラニャカ・ウパニシャド』4-4-19
心だけがこの真理を認識する。
この真理の中に多様性はない。
実在の中に多様性を見る者は果てしない転生を繰り返す。
【すべての生けるものにとっての夜は】:『バガヴァッド・ギーター』2-69
すべての生けるものが眠る夜、自己を制する賢者は目覚めている。
すべての生けるものが目覚める昼は、内面を観る賢者の夜となる。
964
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/06(木) 21:03:50 ID:LC3de7YgO
>>961
最後の
> すべての思考は実現に反するのです。
私たちに関するすべての考えと、それ以外についてのすべての考えを排除することが正しい状態です。
想念と実現はまったく別のものなのです。
この「実現」とは、「実在」のことでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
965
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/06(木) 21:34:20 ID:jfWCoXjM0
参考までに、英訳本では実現=realizationとなっていました(-人ー)
D. If we think "I m the real," will it do?
M. All thoughts are inconsistent with realization.
The correct state is to exclude thoughts of ourselves as well as all other thoughts.
Thought is one thing and realization is quite another.
966
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/06(木) 22:02:39 ID:LC3de7YgO
>>965
ありがとうであります。
くま気になったのでググってみたらこんな解説に出くわしました。
>realize という語には「実現する」という意味だけでなく、「もともと現実に存在するものを、現実に存在するものとして、知る・理解する・覚る・実感する・経験する」という意味もあります。
この意味のような気がするので、
実現するとは、実在を実在として知る覚る実感すると言う意味なのかなと思いました。
(´・(ェ)・`)つ
967
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/06(木) 22:49:49 ID:1d4drIFg0
>>964
そのような理解で善いのじゃ。
実在は観念とは別のものというような意味じゃな。
その通りなのじゃ。
神とか聖地も観念として心の中にあるものじゃ。
それは実在とは違うが、信じる者の心の中にはあるといえるのじゃ。
目覚めればそれは実在とは違うとわかるのじゃ。
それまでは修行に役立てると善いのじゃ。
968
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/07(金) 12:51:52 ID:jfWCoXjM0
対話31
訪問者が尋ねた。
「解脱(モークシャ)を達成するためには、何をすべきでしょうか?」
マハルシ
解脱とは何なのか、それを学びなさい。
質問者
そのために神を礼拝すべきでしょうか?
マハルシ
礼拝は心の制御と集中を助けます。
質問者
そのために神を礼拝すべきでしょうか?
マハルシ
礼拝は心の制御と集中を助けます。
質問者
偶像を崇拝すべきでしょうか?
それに害はないでしょうか?
マハルシ
あなたが自分を身体だと見なすかぎり害はありません。
質問者
生と死の輪廻(サンサーラ)はどうすれば乗り越えられるでしょうか?
マハルシ
輪廻転生の意味を学びなさい。
質問者
私は妻や家族を放棄すべきではありませんか?
マハルシ
どうして彼らがあなたに害を及ぼすと言うのですか?
あなたが誰なのか、まずそれを見いだしなさい。
質問者
妻や富や家を棄てるべきではないのですか?
マハルシ
サンサーラとは何なのか、まずそれを学びなさい。
妻や富や家がサンサーラなのですか?
それらとともに暮らしながらも真我を実現した人たちがいたのではないでしょうか?
質問者
そのための修行段階とはどのようなものでしょうか?
マハルシ
それは探究者の資質と気質によります。
質問者
私は偶像崇拝をしています。
マハルシ
それを続けなさい。
それは精神集中に導くでしょう。
一点に集中しなさい。
そうすれば、すべてはうまくいくでしょう。
人々は自由(モークシャ)とはどこか彼方にあり、探し求めるものだと考えています。
それは間違いです。
自由とはあなた自身の中の真我を知ることにすぎません。
集中しなさい。
そうすれば、それを得るでしょう。
あなたの心が生と死の輪廻(サンサーラ)なのです。
質問者
私の心はとても落ち着きがありません。
どうすればよいのでしょうか?
マハルシ
あなたの注意を何か一つのものに固定しなさい。
それを保持するよう努めなさい。
そうすればすべてうまくいくでしょう。
質問者
集中はとても困難です。
マハルシ
修練を続けなさい。
そうすれば、集中の修練は呼吸をするぐらいやさしいものとなるでしょう。
それがあなたの達成の成果となるでしょう。
質問者
禁欲や菜食は助けとなるでしょうか?
マハルシ
なります。
それらはすべて良いことです。
それからマハルシは集中し、静かに虚空を見つめることで、質問者に模範を示した。
969
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/07(金) 13:02:58 ID:jfWCoXjM0
質問者
私にはヨーガは必要ないのでしょうか?
マハルシ
それも精神集中の手段です。
質問者
精神集中の補助手段として、他の方法を取るのは良いことではありませんか?
マハルシ
呼吸制御などがそのような助けとなります。
質問者
神の姿を見ることは可能でしょうか?
マハルシ
可能です。
あれやこれや、いろいろなものをあなたは見ます。
どうして神を見ないということがあるでしょう?
ただ神とは何か、それを知らなければなりません。
誰もがみな、いつでも神を見ています。
ただそれを知らないだけなのです。
神とは何か、それを見いだしなさい。
人々は見ていながら、見てはいないのです。
それは神が何かを知らないからです。
質問者
偶像を礼拝するとき、クリシュナやラーマなどの名前、つまりマントラの復唱(マントラ・ジャパ)をすべきでしょうか?
マハルシ
心で唱えるジャパはとても良いものです。
それは瞑想を助けます。
心は唱えることと一つになり、礼拝(プージャー)の真の意味を知ることでしょう。
それは礼拝の対象の中に個を失うことなのです。
質問者
宇宙の魂(パラマートマン)は、私たちとは常に異なったものなのでしょうか?
マハルシ
一般にはそう信じられていますが、それは間違いです。
「彼」とあなたは異なるものではない、と考えなさい。
そうすれば、あなたは真我と神との同一性を悟るでしょう。
質問者
アドヴァイタとは神と一つになることではありませんか?
マハルシ
どこに「なる」必要があるでしょうか?
「考える者」は常に「実在」として在りながら、それに気づいていないだけなのです。
最終的には、彼もその事実を悟るでしょう。
私たちは眠りや夢見のときのように、しばしば自己の本性を忘れてしまいます。
しかし神とは永遠なる意識なのです。
質問者
偶像崇拝以外に、師の導きが必要ではないのでしょうか?
マハルシ
師の助言なしにどうして偶像崇拝を始めることができましたか?
質問者
聖典によってです。
マハルシ
そうです。
誰かがあなたに神について告げます。
あるいは神自身がそう告げます。
後者の場合、神自身があなたの師です。
重要なのは、誰が師なのかということではありません。
私たちは、実は師や神と同じなのです。
師とは神です。
最終的には、人はそれを理解します。
人としてのグルと神としてのグルに違いはありません。
970
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/07(金) 13:03:40 ID:jfWCoXjM0
質問者
功徳を積めば、その業果が得られると私は期待しています。
マハルシ
そのようにしてあなたは運命(プラーラブダ)の報いを受けるのです。
質問者
聡明な師は道を指し示す大いなる助けとなるのではないでしょうか?
マハルシ
そうです。
もし手にした光とともに修練を続けるなら、あなたは師に出会うでしょう。
師もまたあなたを探し求めているのです。
質問者
明け渡し(プラパッティ)と見者(リシ)のヨーガの道は違うものなのでしょうか?
マハルシ
ジニャーナ・マールガ(知識の道)とバクティ・マールガ(帰依、明け渡しの道)は一つであり同じものです。
明け渡しは真我探求と同じように実現に導きます。
完全な明け渡しとは、「私」という想念が消え去った状態です。
生来の精神的傾向(サンスカーラ)はすべて洗い流され、あなたは自由になります。
どちらの道を行こうと、分離した存在として在り続けることはできなくなるのです。
質問者
私たちは行為の結果として、天国などに行くのではないでしょうか?
マハルシ
あなたが現在存在しているのと同じように、それもまた真実です。
しかし「私は誰か?」と探究をし、真我を見いだしたなら、天国について考える必要などあるでしょうか?
質問者
転生から逃れようとすべきなのではありませんか?
マハルシ
そのとおりです。
誰が生まれ、誰が今、存在の問題を抱えているのか、それを見いだしなさい。
眠っているとき、転生や現在の存在について考えるでしょうか?
それゆえ、現在の問題がどこから起こるのかを見いだしなさい。
解決法はそこにあります。
あなたは誕生も、現在の問題も、不幸もないことを発見するでしょう。
すべては「それ」であり、すべては至福です。
実際、私たちは転生から自由なのです。
なぜ転生という災いについて思い悩むのですか?
971
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/07(金) 22:08:01 ID:1d4drIFg0
輪廻も全て個我の幻想からあるものじゃ。
個我が生まれかわっていくという幻想なのじゃ。
個我と神や宇宙が別にあるというのが無明なのじゃ。
全て一つであるという気付きがあれば全ては今ここで一つなのじゃ。
972
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/08(土) 12:52:57 ID:jfWCoXjM0
対話32
質問者
シュリー・チャイタニャやシュリー・ラーマクリシュナのような聖者は神の御前で泣きました。
そして真理を実現したのです。
その道にしたがうべきではありませんか?
マハルシ
そうです。
ある強い力(シャクティ)が、彼らがそのような体験を通り抜けていくようにしむけたのです。
その同じ強大な力があなたを目標に導いてくれるということを信頼しなさい。
涙はしばしば弱さの象徴と見られていますが、これらの偉大な人々はけっして弱者ではなかったのです。
このように神の御前で涙するといったような現れは、偉大な流れが彼らを運んでいくうえでの一時的な形跡でしかありません。
私たちは達成された結果に目を向けるべきなのです。
質問者
この身体を無の中に消し去ることはできるのでしょうか?
マハルシ
なぜそのようなことを尋ねるのですか?
あなたが身体なのかどうかを見いだしなさい。
質問者
ヴァシシュタやヴィシュヴァーミトラのようなヨーギーのように、視界から消え去ることはできるのでしょうか?
マハルシ
それは単なる物理的な問題でしかありません。
それが私たちの関心を向けるべき根本的問題でしょうか?
あなたは真我ではないのですか?
なぜ他の問題に悩むのです?
本質を選び取り、他から学んだ理論などは無駄なものとして棄て去りなさい。
身体が消え去ることを自由の証しと考えている人たちは間違っています。
その必要はありません。
あなたは身体ではないからです。
身体が何らかの方法で消え去ったからといって、それが何になると言うのですか?
そのような現象には何の益もありません。
いったいどのような優劣がそこにあると言うのでしょう?
実在を達成することだけが重要なのです。
「私」を失うことだけが要点なのであって、身体を失うことではありません。
自己と身体の同一化こそが真の束縛です。
偽りの観念を棄て去り、実在を直観的に知覚しなさい。
重要なことはそれだけです。
金を熔かしてその真偽を確かめようとするとき、どのようにそれが熔けたか、全部が熔けたか、部分的に熔けたか、もとはどんな形だったかなどということが重要でしょうか?
重要なのは、それが純金であるかどうかだけです。
死者は自分の身体を見ません。
個人がいかに亡くなったかは残された者たちの問題です。
死において身体が消え去った覚者は確かに存在しました。
しかし真我実現した人にとっては死はなく、身体があろうとなかろうと同じように気づいていて違いを見ることはありません。
彼にとって状態の違いに優劣はないのです。
部外者にとっても、覚者の身体がどうなろうと関心を持つ必要などありません。
自分の問題だけに関心を持ちなさい。
真我を実現しなさい。
実現した後で、どのように死を迎えるのが好ましいか考える時間もあるでしょう。
自己と身体の偽りの同一化が選り好みという観念を引き起こすのです。
あなたは身体なのですか?
昨夜ぐっすり眠っていたとき、あなたは身体に気づいていましたか?
いいえ、気づいてはいませんでした!
では、今存在していてあなたを悩ませているのは何でしょうか?
それは「私」です。
それを取り除いて、幸せになりなさい。
973
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/08(土) 22:56:12 ID:1d4drIFg0
ヨーガスートラにも集中力が高まれば神通力を得るがそれは悟りにとっては雑念でしかないと記されいるのじゃ。
世間の競争に勝ちたいと思うものは神秘的な力を得たいと憧れたりするのじゃ。
しかしそれでは死は克服できず、苦の世界に住み続けることになるのじゃ。
余計な力に囚われず真の悟りを求めるのじゃ。
974
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/09(日) 12:41:25 ID:jfWCoXjM0
対話33
質問者
「ブラフマンは真理である。世界は幻影である」とは、シュリー・シャンカラーチャーリャの常套句です。
しかし別の人たちは「世界は実在である」と言います。
どちらが真実なのでしょうか?
マハルシ
どちらの言葉も真実です。
それらは霊性の異なった段階について、異なった視点から語られているのです。
真理の探究者は、「常に存在するものが実在である」という定義から進み始めます。
それから、彼は世界を非実在として棄て去ります。
なぜなら世界は変化するものだからです。
それは実在ではありえません。
「これではない、これではない!」。
このように、変化するものを非実在として棄て去っていくことで、探究者は究極的に真我にたどり着くのです。
その実現の中で、彼はすべての存在の根底に「一なるもの」を見いだします。
そのとき、最初に非実在として棄て去られたものも、「一なるもの」の一部分だったことが理解されます。
実在の中に吸収されたものとしては、世界もまた実在です。
真我実現の中ではただ存在だけがあり、他には何もありません。
さらに「実在」という言葉は異なった意味合いで使われ、ある思想家たちには漠然とした定義で使われています。
彼らは実在の反映された段階がいくつかあると言います。
それらは、
1ヴャーヴァハーリカ・サティヤ(日常生活)
─この椅子は私によって見られ、現実である。
2プラーティバーシカ・サティヤ(幻影)
─巻かれたロープが蛇に見えるという幻影。
現れはそう考える人にとって現実となる。
この現象は一時的で特定の環境において現れる。
3パーラマールティカ・サティヤ(実在)
─常に同じで変化することのない実在。
もし「実在」という言葉が広い意味で用いられるなら、世界は日常生活と幻影という実在性を持っていると言えるかもしれません。
しかしながら、実生活の現実性さえも否定する人たちがいます。
彼らはそれを心の投影にすぎないと考えます。
彼らによれば、それはプラーティバーシカ・サティヤ、つまり幻影でしかないのです。
975
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/09(日) 13:36:26 ID:LC3de7YgO
>>974
> その(真我)実現の中で、彼はすべての存在の根底に「一なるもの」を見いだします。
この「一なるもの」をググったら、黄金の華の秘密の最後に語られた("一者から一者への飛翔")プロティノスの解説に出会えた。
>プロティノスの思想はプラトンのイデア論を受け継ぎながら、その二元論を克服しようとしたものである。
プラトンの『パルメニデス』に説かれた「一なるもの」(ト・ヘン to hen)を重視し、語りえないものとして、これを神と同一視した。
万物(霊魂、物質)は無限の存在(善のイデア)である「一者」(ト・ヘン)から流出したヌース(理性)の働きによるものである(流出説)。
一者は有限の存在である万物とは別の存在で、一者自身は流出によって何ら変化・増減することはない。
あたかも太陽自身は変化せず、太陽から出た光が周囲を照らすようなものである。
光から遠ざかれば次第に暗くなるように、霊魂・物質にも高い・低いの差がある。
また、人間は「一者」への愛(エロース)によって「一者」に回帰することができる。
一者と合一し、忘我の状態に達することをエクスタシスという。
[エネアデスVIの第11節] ただし、エクスタシスに至るのは、ごく稀に、少数の人間ができることである。プロティノス自身は生涯に4度ばかり体験したという。
(´・(ェ)・`)つ
976
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/09(日) 22:35:25 ID:1d4drIFg0
忘我にいたることは誰でもできることじゃ。
インドでは誰でも至る法を創り、広めたのじゃ。
西洋ではただ理屈を広めるだけだったのじゃ。
理解が足りなかったのじゃ。
977
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/10(月) 12:46:14 ID:jfWCoXjM0
ヨーギー・ラーマイアの体験
対話34
マハルシの臨在のもとに坐ることは、心の平安をもたらします。
私はよく三時間も四時間もサマーディの中に坐ったものでした。
その頃、私は心が形を取って内側から現れ出てくるのを感じていました。
絶え間ない修練と瞑想を通してそれはハートに入り、その中に融け去りました。
こうして私はハートが心にとって安息の地であることを知ったのです。
それは平和をもたらしました。
真我は心がハートに没入したときに実現されます。
これは精神集中(ダーラナー)の段階においてさえ感じることができます。
私はマハルシに黙想について尋ねました。
彼が説いた教えは以下のとおりです。
人が死ぬと、火葬用の薪が用意され、身体はその薪の上に置かれます。
薪に火がともされるとともに、皮膚は焼け、そして肉、それから骨が焼き尽くされ、最後には全身が灰となります。
その後には何が残るでしょうか?
心です。
「この身体の中には一体いくつの心があるのか?」という疑問が起こります。
「一つか二つか?もし二つなら、どうして人々は『私たち』ではなく『私』と言うのか?」
それゆえ、そこにはただ一つの心だけがあるのです。
「それはどこから生まれたのか?その本性とは何なのだろうか?」。
このように探究してゆくと、心もまた消え去ります。
「そのとき、残っているものは一体何だろうか?」。
「私だ」。
次の質問は、「私とは誰か?」です。
それは真我に他なりません。
これが黙想です。
私はこのようにしたのです。
この過程を経ることで、身体への執着心は破壊されます。
自我は消え去り、そして真我だけが輝き出すのです。
心を消滅させる方法の一つに、偉大な魂、ヨーガの達人との交際があります。
彼らはサマーディに熟達しています。
彼らにとって真我実現はたやすく、自然で、永久的なものです。
彼らと親しく暮らし、共感を持って接する人たちは、徐々に彼らのサマーディの習慣を吸収するようになるのです。
【ヨーギー・ラーマイア】
ポール・ブラントン著『秘められたインド』(日本ヴェーダーンタ協会刊)に登場するヨギ・ラミヤーと同一人物。
タミル語の正確な発音はヨーギー・ラーマイア。
978
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/10(月) 22:43:34 ID:1d4drIFg0
肉体が消えても消えない意識が在るのじゃ。
それは唯一つの存在なのじゃ。
そこに至ればもはや苦は無いのじゃ。
永遠に消えることの無い意識なのじゃ。
979
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/11(火) 12:42:47 ID:jfWCoXjM0
対話35
教養のある訪問者がマハルシに、ドヴァイタとアドヴァイタ(二元論と不二一元論)について尋ねた。
マハルシ
身体と自己同一視することがドヴァイタで、自己同一視しないことがアドヴァイタです。
980
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/11(火) 21:13:22 ID:1d4drIFg0
↑は理論ではない実践によるアドヴィタなのじゃ。
肉体と自己同一化していれば自他の別がある二元論に止まっているのじゃ。
肉体との同一化が無ければアドヴィタであるのが如実にわかるのじゃ。
理論によってアドヴィタに辿りつくのではなく、実践によって全てアドヴィタであることがわかるのじゃ。
そこには論を持つ者も居ないのじゃ。
981
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/12(水) 12:47:37 ID:jfWCoXjM0
対話36
北インドから気品ある女性の訪問者が個人秘書を連れて正午に到着した。
しばらく待った後、昼食後にホールに戻ったマハルシに質問した。
質問者
マハーラージ、私たちは死者を見ることができますか?
マハルシ
できます。
質問者
ヨーギーは私たちに死者を見せることができるでしょうか?
マハルシ
できるでしょう。
でも私には頼まないでください。
私にはできませんから。
質問者
あなたは死者を見ますか?
マハルシ
ええ、夢の中で。
質問者
ヨーガを通して目標に達することはできるでしょうか?
マハルシ
できます。
質問者
ヨーガに関する本をお書きになりましたか?
マハルシ
はい。
彼女が去った後で、師は言った。
「親戚が生まれる前、私たちは彼らを知っていたでしょうか?
私たちは彼らの死後についても知るべきでしょうか?」
982
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/12(水) 22:03:13 ID:1d4drIFg0
死者とは夢の中で会えるのじゃ。
眠りの意識は死の意識と同じであるからのう。
人をその意識に導き、死者とあわせることの出来るヨーギもいるというのじゃ。
夢がコントロールできれば何時でも会えるがのう。
983
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/13(木) 12:55:52 ID:jfWCoXjM0
対話37
質問者
カルマとは何でしょうか?
マハルシ
過去世の行為の結果がすでに実を結び始めたものはプラーラブダ・カルマと呼ばれ、過去世で蓄えられ、後に実を結ぶものはサンチタ・カルマと呼ばれます。
それは村人が、からし菜と交換して得た穀物のように種々雑多です。
そのような交換用の穀物には米、ヒエ、大麦などがあり、あるものは水に浮かび、あるものは水に沈みます。
そして質が良かったり悪かったり、どちらでもなかったりします。
蓄積された多様なカルマのうちの最も強力なものが、次の生において実を結び始めるものであり、それがその生におけるプラーラブダ・カルマとなるのです。
984
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/13(木) 22:46:01 ID:1d4drIFg0
カルマも観念の中でのみあるとされるものじゃ。
観念を超えればカルマもないのじゃ。
悟りを得たヨーギにはカルマが無いとされるのも、そのためなのじゃ。
個我がなければカルマもないのじゃ。
985
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/14(金) 12:43:30 ID:jfWCoXjM0
対話38
従者の一人が初めてバガヴァーンのもとに来たとき、彼は尋ねた。
「解脱への道とは何でしょうか?」。
マハルシは答えた。
「すでに歩み始めた道が解脱へと導くでしょう」
986
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/14(金) 22:22:27 ID:1d4drIFg0
誰でも自らの道を行くしかないのじゃ。
実践して進んでいくのじゃ。
実践しなければ進歩も無いのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
987
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/15(土) 17:36:57 ID:jfWCoXjM0
1935年3月22日
対話39
R・セシャギリ・ラーオ氏との会話で、シュリー・バガヴァーンは
「真我を実現した聖者だけが良きカルマ・ヨーギーになれるのです」と語った。
マハルシ
行為者という感覚が消え去った後、何が起こるのか見てみなさい。
シュリー・シャンカラは無為を勧めました。
しかし彼自身聖典の注解を書き、論争に加わらなかったでしょうか?
行為をするかしないかということに煩わされるべきではありません。
あなた自身を知りなさい。
そうすれば、それが誰の行為なのかを知るでしょう。
誰の行為でしょうか?
行為がそれ自体で完結するにまかせなさい。
行為者が存在するかぎり、人は行為の結果を受けなければなりません。
もし自分自身を行為者と見なさなければ、彼にとって行為はないのです。
彼こそが世俗的生活を棄てた修行者(サンニャーシー)です。
質問者
自我はどのように現れたのでしょうか?
マハルシ
それを知る必要はありません。
現在を知りなさい。
現在を知らずして、なぜ過去のことに心を悩ませるのですか?
それから、マハルシはある質問にこう答えた。
マハルシ
世界はあなたの中にあるのでしょうか?
それとも外側にあるのでしょうか?
世界はあなたを離れて存在するでしょうか?
世界があなたのもとにやって来て、「私は存在する」と告げるでしょうか?
988
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/15(土) 23:33:47 ID:1d4drIFg0
行う者がいなければ行うこともないのじゃ。
行為の主体が無いからなのじゃ。
それが無為なのじゃ。
それは勧められてできるものではないのじゃ。
無我になれば行為は全て無為になるのじゃ。
989
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/16(日) 16:15:15 ID:jfWCoXjM0
対話46
あるブラーフマナ(バラモン)階級の人が質問を始めた。
質問者
行為が私たちのものかどうかを、どうやって知るのでしょうか?
マハルシ
行為の結果が影響を与えなければ、人は行為から自由なのです。
質問者
知的な理解だけで十分でしょうか?
マハルシ
知的に知るまでは、どのように修練するかもわからないでしょう。
まず知的に理解しなさい。
それから、そこで止まらず実践に移しなさい。
マハルシはある所見を述べた。
マハルシ
あなたが一つの哲学的体系に固執すれば、他をとがめずにはいられなくなるでしょう。
例えば、僧院の院長のように。
すべての人が同じ類の行為をするように期待することはできません。
各人がそれぞれの気質や過去世にしたがって行為するのです。
叡知(ジニャーナ)、帰依(バクティ)、行為(カルマ)はともに関わり合い、交わり合っています。
姿形への瞑想はその人の心に応じたものとなります。
それは他の形を避けて、心を一つの形だけに集中させることです。
それが目標へと導くでしょう。
初めのうちから心をハートに固定させるのは無理なことです。
だからこそ、こういった助けが必要となるのです。
クリシュナは、「あなたにも、私にも、他の人にとっても誕生はない」と言いました。
後になって、彼は「私はアーディティヤよりも先に生まれた」と言い、アルジュナはそれに対して抗議します。
したがって、各自がそれぞれの進歩の段階に応じた形で神を想うのです。
あなたは、自分は目覚めの状態では身体だと言いますが、眠りの状態では身体だとは言いません。
個人の身体的存在さえいくつかの層から成っているのですから、神に無限の能力があって当然ではないでしょうか?
どのような修練方法にしたがおうとも、それは賢者によって奨励されています。
なぜなら他の方法と同じように、それも目標に導くからです。
【個人の身体的存在さえいくつかの層から…】
この文は前後の文章との脈絡がないため、記録者が2、3の言葉あるいは1、2行の文を記録しそびれたと見られる。
記録者はタミル語を話せない訪問者のために通訳もしていたため、記録は困難だった。
このような記録漏れは、本書の中に何箇所も見られる。
「個人の身体的存在はいくつかの層から成っている」という表現はパンチャ・コーシャ(真我を覆い隠す5つの身体の鞘)を意味している。
990
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/16(日) 17:11:41 ID:LC3de7YgO
>>989
>行為の結果が影響を与えなければ、人は行為から自由なのです。
これは、OSHOが説明した「無為の為」のことであり、クリシュナが言う、義務を果たすことでありますかね。
(´・(ェ)・`)つ
991
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/16(日) 22:38:47 ID:1d4drIFg0
↑そうかもしれん。
無我に至らなくとも忘我のサマーディにまで到達すれば、主体の無い行為も出来るのじゃ。
行為の結果も望まず、行為が出来るのじゃ。
カルマヨーガと同じなのじゃ。
992
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/16(日) 23:03:26 ID:LC3de7YgO
>>991
そのカルマヨガは、忘我にすら至らなくても、日常的に意識的に実践できることのような気がするのですが、勘違いでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ
993
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/17(月) 16:17:33 ID:jfWCoXjM0
対話41
質問者
天国や地獄は存在するのでしょうか?
マハルシ
そこにはそこに行く人がいるはずです。
それらは夢のようなものです。
私たちは夢の中にも時間と空間が存在しているのを見ています。
夢と目覚め、どちらが真実でしょうか?
賀問者
ですから、私たちは性欲や怒りなどを除かなければならないのです。
マハルシ
想念を棄て去りなさい。
他に棄てるべきものなどありません。
何を見るにせよ、あなたの存在がそこになければなりません。
それが真我です。
真我は常に意識しているのです。
質問者
巡礼などは良いことでしょうか?
マハルシ
良いことです。
質問者
真我に達するにはどのような努力が必要でしょうか?
マハルシ
「私」が破壊されるべきです。
真我とは到達すべきものではありません。
真我が存在しないときなどあるでしょうか?
それは新たなものではないのです。
あるがままに在りなさい。
新しいものは永久ではありえません。
真実なるものは常に存在しているのです。
質問者
叡知の捧げ物(ジニャーナ・ヤグニャ)とは何でしょうか?
あるいは、その他の捧げ物とは何でしょうか?
マハルシ
そのためには他の修練が存在しています。
修練は叡知を得るためのものです。
質問者
ジーヴァン・ムクタ(生存中に解脱した魂)には異なった種類があるのでしょうか?
マハルシ
彼らが外的に異なっていることが重要でしょうか?
彼らの叡知に違いはないのです。
質問者
一人の師に忠誠を尽くしているときに、他の師を敬うことはできるのでしょうか?
マハルシ
グルは一人しかいません。
彼は身体ではないのです。
弱さがあるかぎり、力の支えは必要でしょう。
質問者
J・クリシュナムールティは「グルは必要ない」と言っています。
マハルシ
彼はどうやってそれを知ったのですか?
実現した後にのみ、そう言えるのであり、その前ではありません。
質問者
あなたは多大な努力によってこの境地を達成されました。
私たちのような劣った魂はどうすればよいのでしょうか?
マハルシ
私たちは真我の中にいます。
世界の中にいるのではないのです。
質問者
天国と地獄。
これらは一体何なのですか?
マハルシ
あなたは自分の中に天国と地獄を抱えています。
あなたの欲望、怒りなどがそのような領域を生み出すのです。
それらは夢のようなものです。
994
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/17(月) 16:18:56 ID:jfWCoXjM0
質問者
『ギーター』は「眉間に注意を集中し、呼吸を止めるなら、彼は真我に達する」と述べています。
マハルシ
あなたは常に真我の中にいるため、それに達するということはないのです。
眉間はただ注意を集中させるための場にすぎません。
質問者
あなたはハートが瞑想の座だとは言われませんでしたか?
マハルシ
それもまた注意を集中させるための場なのです。
質問者
ハートとは何でしょうか?
マハルシ
それは真我の中心です。
真我は中心の中心です。
ハートとは霊的な中心を表しており、身体的な中心のことではないのです。
質問者
「ジニャーナ」という言葉は真我実現による知識という意味です。
同じ言葉が方法としても使われています。
どうしてでしょうか?
マハルシ
「ジニャーナ」という言葉は方法をも含んでいるのです。
なぜなら、最終的にはそれが実現をもたらすからです。
質問者
知識が不完全な人でも教えることにたずさわるべきでしょうか?
マハルシ
もし彼のプラーラブダ・カルマ(運命)がそうなっているなら。
『バガヴァッド・ギーター』の第七章で
アルジュナは、
「カルマ(行為)は修練(サーダナ)なのかとうか」と尋ね、
クリシュナは
「もし行為者という感覚なしに為されれば、そうである」と答えます。
カルマを否定する聖典に認められたカルマもあります。
聖典が認めないカルマとは、行為者という感覚をともなって為された行為です。
カルマ(行為)を手放してはいけません。
それはできないのです。
手放すのなら行為者の感覚を手放しなさい。
カルマは無意識のうちに続いていくでしょう。
あるいはカルマはあなたから離れ落ちていくでしょう。
もしカルマがプラーラブダにしたがったあなたの運命であるならば、あなたの意図にかかわらず、それは為されるでしょう。
もしカルマがあなたの運命でなければ、どれほど強く求めてもそれは為されないでしょう。
ジャナカ王や聖者シュカなどは「私」という感覚(アハンカーラ)なしに仕事に従事しました。
カルマは名声のため、あるいは非利己的に公共の利益のために為されるかもしれませんが、それでも、人々はいまだに賞賛を求めています。
ですから、それは本当のところ利己主義なのです。
質問者
それを知ればすべての疑間が解けるものとは何でしょうか?
マハルシ
疑う者を知りなさい。
疑う者をとらえれば、疑問は起こりません。
こうして疑う者は超越されるのです。
疑う者が存在しなければ、どんな疑いも起こらないでしょう。
さもなければ、どこからそれが起こると言うのでしょう?
すべての人が真我実現した人(ジニャーニ)、生きながら解脱した人(ジーヴァン・ムクタ)です。
ただ誰もその事実に気づいていないだけなのです。
疑いは根こそぎにされなければなりません。
つまり疑う者を根元から断たねばならないのです。
ここに言う疑う者とは、心のことです。
質問者
その修練方法とは何でしょうか?
マハルシ
「私は誰か?」と問う真我探究です。
質問者
ジャパをしてもよいでしょうか?
マハルシ
なぜ「私はこれだ」と考えるのでしょうか?
探究しなさい。
すると想念は止まります。
そうすれば、その後に残る唯一存在するもの、つまり真我は明らかになるでしょう。
質問者
ハタ・ヨーガは必要でしょうか?
マハルシ
それは助けの一つにはなりますが、必ずしも必要なものではありません。
それは人によります。
真我探究(ヴィチャーラ)はプラーナーヤーマ(呼吸法)よりも優れています。
『ヨーガ・ヴァーシシュタ」の中で、チューダーラーはシキドヴァジャに自我を殺すための方法としてヴィチャーラを勧めています。
実現はプラーナ(呼吸)か知性をとらえることによって達成されます。
ハタ・ヨーガは前者であり、ヴィチャーラは後者です。
995
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/17(月) 16:21:17 ID:jfWCoXjM0
質問者
真我を実現した後のジニャーニに人格はあるのでしょうか?
マハルシ
どうして人格を保ち続けることができるでしょう?
世俗の仕事であれ非世俗の仕事であれ、年長の人たちは仕事にかかる前にアーチャマナ(水を一口飲む)やプラーナーヤーマ(調息)を勧めます。
つまり精神集中が仕事を達成へと導くのです。
質問者
私は「ネーティ・ネーティ」(これではない、これではない)に瞑想しています。
マハルシ
いいえ、それは瞑想ではありません。
源を見いだしなさい。
確実に源にたどり着かなければならないのです。
そうすれば偽りの「私」は消え去り、真の「私」が実現されるでしょう。
前者は後者なしには存在できないのです。
【そこにはそこに行く人がいるはずです】
「天国や地獄に行くと信じている個人が存在しなければ天国や地獄も存在しえない。その個人とは誰か?」ということをマハルシは示唆している。
【叡知の捧げ物(ジニャーナ·ヤグニャ)】
『バガヴァッド・ギーター』第4章24節から33節は、
「ブラフマンは供犠である。ブラフマンは捧げ物である。それはブラフマンによりブラフマンである火の中に焼べられる」と説き、感覚器官の制御、自己抑制、財物、学習、知識、気息(プラーナ)などのさまざまな捧げ物を挙げている。
そして 「さまざまな捧げ物の中でも叡知による棒げ物 (真我の知識を捧げること) が最も優れていている」と説いている。
【眉間に注意を集中し、呼吸を止めるなら…】『バガヴァッド・ギーター』5ー27、28
外界の感覚的対象をすべて閉ざし、眼を眉間に集中させ、鼻腔内の呼気と吸気を均等にして、心と感覚と知性を制御し、欲望と恐れと怒りを離れて解説を目指す。
この境地に常に在る者は、まさに解脱している。
【なぜ「私はこれだ」と考えるのでしょうか?】
このマハルシの答えの部分は1、2行の記録漏れがあると考えられる。
「私はこれだ」とは、「私」を身体や心、性別や国籍などとの同一視を意味している。
【『ヨーガ・ヴァーシシュタ』(シキドヴァジャと女王チューダーラーの物語)
マルヴァ王国の王シキドヴァジャと女王チューダーラーは快楽を満たす生活に満足できず、ともに真我の知識を採究した。
先に真我を実現したチューダーラーの境地を理解できずにいた王は、1人王国を放棄すると森に隠通して瞑想生活に入り、後に残されたチューダーラーは賢明な王国統治をする。
数年の後、彼女はクンバというバラモンに姿を変えて、苦行する王の前に現れ、隠遁生活や苦行や放棄では真我実現できないことを説き明かし、真我探究によって彼を実現へと導いた。
2人は賢者として王国に戻り、国を統治しながら自由で幸福な人生を送った。
996
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/17(月) 16:26:16 ID:jfWCoXjM0
↑
×ともに真我の知識を採究した。
〇ともに真我の知識を探究した。
997
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/17(月) 21:47:52 ID:LC3de7YgO
>>995
真我を実現した後・・・人格を保ち続けることができない。
そのことと、
>精神集中が仕事を達成へと導く
ことと、なんの関係があるのでしょうか?
人格が精神集中を邪魔するのでしょうか?
> 私は「ネーティ・ネーティ」(これではない、これではない)に瞑想しています。
マハルシ
いいえ、それは瞑想ではありません。
念じたり、唱えたりする集中よりも、瞑想は観察が大切と言うことでしょうか?
(´・(ェ)・`)つ
998
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/17(月) 23:09:45 ID:1d4drIFg0
>>992
少しの間ならばできるじゃろう。
しかし、人は成果の見えない仕事にはやる気を失ってしまうのじゃ。
心理学でも証明されているのじゃ。
成果の見えない仕事を延々とやり続けるのは最低でも我を忘れてやるしかいないのじゃ。
999
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/18(火) 19:27:01 ID:LC3de7YgO
新スレ建てました。
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5 - なんでも避難所 - したらば
URL:
http://jbbs.m.shitaraba.net/b/i.cgi/study/8276/1560853465/n
引続きマハリシの対話録の講読会、お願いいたします。
(´・(ェ)・`)つ
1000
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/18(火) 19:28:07 ID:LC3de7YgO
(´・(ェ)・`)つ1000
1001
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/06/18(火) 22:35:02 ID:1d4drIFg0
>>997
そもそも人格などはないということなのじゃ。
忘我で仕事をすることで効率も良くなるのじゃ。
自我が邪魔をしないからなのじゃ。
悟っていない者も人格ではなく、精神の集中で仕事をしているのじゃ。
そうじゃ、それは瞑想ではないのじゃ。
観察するための実践なのじゃ。
全ての観念を否定するのであるからのう。
その果てにあるアートマンを見出すための実践なのじゃ。
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