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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4

946避難民のマジレスさん:2019/06/01(土) 11:28:37 ID:jfWCoXjM0
 対話25

『真我実現』(マハルシの最初期の伝記)の著者であるB・V・ナラシンハ・スワミが尋ねた。

「私とは誰でしょうか?どうやってそれを見いだすのでしょうか?」

マハルシ
 あなた自身にそれを問いなさい。
 身体(アンナーマヤ・コーシャ)とその機能は「私」ではありません。
 さらに深く進むと、心(マノーマヤ・コーシャ)とその機能も「私」ではないことがわかります。

 次の段階は、「これらの想念はどこから湧き起こるのか?」と問うことです。
 想念は自発的で、表面的で、分析的です。
 それは知性の働きなのです。
 では誰がそれに気づいているのでしょう?
 このように問うことで、想念の存在とその明確な概念、そしてその働きは個人にとって明らかになります。
 この分析の結果、想念やその流れの存在を認識するのは、個人の人格であるということがわかります。
 
 この人格が自我、あるいは一般に言われる「私」です。
 知性(ヴィジニャーナマヤ・コーシャ)は「私」の鞘にすぎず、「私」そのものではないのです。

 さらに探求を続けてゆくと、「この『私』とは誰なのか?」、「どこからそれは湧き起こるのか?」という問いが起こります。
 眠りの中では「私」は気づいていませんでした。
 「私」が立ち現れるとともに、眠りは夢見あるいは目覚めへと変化してゆくのです。
 しかし今は夢見の状態には関わらずにおきましょう。
 今、この目覚めの状態での私とは誰なのか?
 もし「私」が眠りから生じたのだとすれば、その「私」は無知に包まれているはずです。
 そのような無知な「私」が、聖典や聖者が「私は眠りをも超越する」と語る「私」だとは言えません。
 「私」とは今、ここに在るべきものです。
 そして「私」は眠りや夢見の質を持たないにもかかわらず、眠りや夢見の間にも存在すべきものなのです。
 それゆえ、「私」は(至福であるアーナンダマヤ・コーシャをも超えた)三つの状態の根底に存在する完全なる基盤であるに違いありません。

 簡潔に言えば、「私」は五つの鞘を超越したものです。
 次に、真我ではないすべてを否定し続けた後に残るもの、それが真我、サット・チット・アーナンダ(存在ー意識ー至福)なのです。

質問者
 どうすれば真我を実現できるでしょうか?

マハルシ
 現在の相対的な次元を超越しなさい。
 存在(真我)はそれ自身から分離したもの(非真我)を明らかに知っています。
 つまり主体は対象に気づいています。
 見る者がドリクであり、見られるものはドリシャです。
 これら二つの根底にはそれらを結ぶものがあるはずです。
 それが「自我」として現れるのです。
 この自我がチット(知性、意識)の本性です。
 アチット(非感覚的なもの、意識のないもの)とはチットの否定でしかありません。
 それゆえ根底にある本質は、対象ではなく主体に近いものなのです。
 「見られるもの」(ドリシャ)が完全に消え去るまで「見る者」(ドリク)を探すことによって、相対的な「見る者」はより希薄になり、最後には絶対的な「見る者」だけが残ります。
 この過程は「対象としての世界の消滅」と呼ばれます。

質問者
 どうして「見られるもの」である対象としての世界が排除されなければならないのでしょうか?
 対象が残されたままでは、真理は実現できないのでしょうか?

マハルシ
 できません。
 「見られるもの」の排除とは、主体と対象という分離を排除することです。
 対象は実在ではありません。
 (自我をも含めた)すべての目に見えるものが対象なのです。
 対象である非実在を排除することによって実在が残ります。
 ロープが蛇に見間違えられたとき、真実を悟るには、蛇という誤った知覚を排除するだけでいいのです。
 そのような排除なしに、真理は悟れません。

質問者
 対象としての世界の消滅は、いつ、どうやって起こるのでしょうか?

マハルシ
 それは対象に相対する主体、つまり心が排除されたときに完結します。
 心が主体と客体の創造者であり、二元的概念の起こる原因なのです。
 それゆえ、心は「自己は限定されたものである」という誤った観念によって起こる不幸の原因でもあるのです。


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