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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4

974避難民のマジレスさん:2019/06/09(日) 12:41:25 ID:jfWCoXjM0
対話33

質問者
 「ブラフマンは真理である。世界は幻影である」とは、シュリー・シャンカラーチャーリャの常套句です。
 しかし別の人たちは「世界は実在である」と言います。
 どちらが真実なのでしょうか?

マハルシ
 どちらの言葉も真実です。
 それらは霊性の異なった段階について、異なった視点から語られているのです。
 真理の探究者は、「常に存在するものが実在である」という定義から進み始めます。
 それから、彼は世界を非実在として棄て去ります。
 なぜなら世界は変化するものだからです。
 それは実在ではありえません。
 「これではない、これではない!」。
 このように、変化するものを非実在として棄て去っていくことで、探究者は究極的に真我にたどり着くのです。
 その実現の中で、彼はすべての存在の根底に「一なるもの」を見いだします。
 そのとき、最初に非実在として棄て去られたものも、「一なるもの」の一部分だったことが理解されます。
 実在の中に吸収されたものとしては、世界もまた実在です。
 真我実現の中ではただ存在だけがあり、他には何もありません。
 さらに「実在」という言葉は異なった意味合いで使われ、ある思想家たちには漠然とした定義で使われています。
 彼らは実在の反映された段階がいくつかあると言います。
 それらは、

 1ヴャーヴァハーリカ・サティヤ(日常生活)
  ─この椅子は私によって見られ、現実である。

 2プラーティバーシカ・サティヤ(幻影)
  ─巻かれたロープが蛇に見えるという幻影。
   現れはそう考える人にとって現実となる。
   この現象は一時的で特定の環境において現れる。

 3パーラマールティカ・サティヤ(実在)
  ─常に同じで変化することのない実在。

 もし「実在」という言葉が広い意味で用いられるなら、世界は日常生活と幻影という実在性を持っていると言えるかもしれません。
 しかしながら、実生活の現実性さえも否定する人たちがいます。
 彼らはそれを心の投影にすぎないと考えます。
 彼らによれば、それはプラーティバーシカ・サティヤ、つまり幻影でしかないのです。


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