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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4
956
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/04(火) 13:15:26 ID:jfWCoXjM0
質問者
どういう意味において、私たちの真の本性が幸福だと言われるのですか?
マハルシ
完全な至福がブラフマンです。
完全な平和が真我なのです。
ただそれのみが存在し、それのみが意識しています。
形而上学によっても、帰依の道によっても同じ結論に至ります。
私たちは至福を求めて神に祈り、恩寵によってそれを授かります。
至福を授けるものは至福そのもの、無限なるものに違いありません。
それゆえ、イーシュヴァラ神は無限の力と至福が人格化された神なのです。
ブラフマンは至福であり、非人格的な、「絶対なるもの」です。
有限な存在である自我は、第一にブラフマン、次にイーシュヴァラ神をその根源としています。
そしてその霊的な本性は至福なのです。
生物学的に見れば、有機的生物が機能するのは、機能することが幸福をともなうからです。
私たちの成長を助けるのは、食事、学習、休息、社交といった喜びです。
喜びの心理学(あるいは形而上学)は、おそらく「私たちの本性が本来一つであり、全体的で、至福に満ちていること」に基づいているのでしょう。
これを信じるに足る仮定として見てみなさい。
創造とは実在を神と自然(マーヤー、プラクリティ)に分割したものです。
このマーヤーは二つの部分から成っています。
一つは「パラー」、すなわち基礎となる本質、もう一つは「アパラー」、すなわち五大元素、心、知性、自我です。
自我の完全性はある時点で突然崩れ去り、何かを得よう、何かをしようという欲望が湧き起こります。
それを満たして欲望が癒されたとき、自我は幸福になり、本来の完全性が回復されます。
それゆえ、幸福は私たちの本来の状態、本性なのです。
快楽と苦痛は欲望の充足の度合いにしたがった相対的なもので、私たちの限定された状態に起因しています。
もし相対的な欲望の充足を追い求めることが止まり、完全な平和をその本性とするブラフマンに魂が融け去れば、それは相対的で一時的でしかない快楽を離れて、完全な平和である至福を楽しむことでしょう。
だからこそ、真我実現は至福なのです。
それは真我を無限の霊的な目(ジニャーナ・ドリシュティ)として認識することであって、千里眼ではありません。
真我実現は至高の明け渡しであり、サンサーラ(輪廻の世界)は不幸なのです。
質問者
ではなぜ限定された創造と顕現であるサンサーラは、これほど不幸と悪に満ちているのでしょうか?
マハルシ
神の意思によって!
質問者
なぜ神はそう望まれたのでしょう?
マハルシ
それは理解を超えたものなのです。
あの「力」にはいかなる動機も帰せず、いかなる欲望も目的もあの「全知全能の無限なるもの」に属すると言うことはできません。
神はその存在の中で起こる活動に影響されないのです。
太陽と世間の活動を例にとって比較してみればわかるでしょう。
多数となる前の「一なるもの」に責任や動機を負わせるのは無意味なことです。
しかしすでに決められた出来事の流れを神の意思に負わせるのは、自由意志問題の解決方法としては都合のいいことでしょう。
もし何が起こり、何に関わり合い、何を避けるかについて、満足のいかない不安に心が揺れ動いているなら、そのときは責任と自由意志の感覚を棄て去り、全知全能の神に定められた道具として、行為しようと苦しもうと、彼の望むがままに任せることが賢明でしょう。
彼はすべての重荷を負い、私たちに平和を与えてくれるのです。
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