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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4

951避難民のマジレスさん:2019/06/03(月) 12:55:29 ID:jfWCoXjM0
対話27

質問者
 それらはどのように修練されるのでしょうか?

マハルシ
 外的現象の本性のはかなさを見極めることがヴァイラーギャ(離欲、無執着)へと導きます。
 だからこそ、真我探究が最初に踏み出される重要な一歩となるのです。
 真我探究が自動的に継続するようになると、富や名声、快適さや快楽を無価値なものとして軽視するようになります。
 「私」という想念を見極めることはより明確になり、こうして「私」の源であるハートへと導かれてゆくのです。
 それが最終目的です。
 しかしながら、もし探究者の気質が真我探究の道という内観的、分析的な方法に合わない場合は、神、グル、人類、道徳理念、あるいは美の概念に対するバクティ(帰依、献身、信愛)を養わなければなりません。
 真我探究か帰依のどちらかが個人の心を虜にしたとき、それ以外のことに対する執着心は弱まり、無執着心が強まっていきます。
 それと同時に究極的目標に対する執念が培われ、ついには、ただそれだけが心を占有するのです。
 このようにして、ヴィジョンや直接的な助けなどをともないながら、一点への集中は気づかぬうちに発展していきます。

 真我探究や帰依が適さない人の場合、自然に静けさをもたらすプラーナーヤーマ(調息)を試みるとよいでしょう。
 これはヨーガ・マールガ(ヨーガの道)と呼ばれるものです。
 もし生命が危険にさらされれば、生命の救出の一点にすべての関心が集まるでしょう。
 もし呼吸が抑えられれば心はゆとりを失い、外的な対象物に飛びつくこともなくなるでしょう。
 このように呼吸を制御している間は心も落ち着いています。
 すべての注意は呼吸とその調整に向けられ、他の物事に対する興味が失われるからです。
 熱情には乱れた呼吸がともないますが、穏やかな幸福にはゆっくりとした規則正しい呼吸がともないます。
 激烈で発作的な喜びには、苦痛と同じように痛みがあり、そのどちらにも乱れた呼吸がともないます。
 真の平安こそが幸福です。
 快楽が幸福をもたらすことはありません。
 心は修練によって改善され、革砥で砥がれたカミソリの刃のように鋭くなります。
 そうすることで、心はよりいっそう内的または外的な問題に取り組めるようになるのです。

 もし真理の探究者がジニャーナ(知識)とバクティ(帰依)の二つの道に気質的にそぐわず、また第三の方法であるヨーガも年齢的な状況から無理である場合、彼は(例えば社会奉仕などの善い行いをする)カルマ・ヨーガ、つまり行為の道を試みるべきです。
 彼の崇高な本性はより明らかになり、無私無欲の喜びを得るようになるでしょう。
 小さな自我は主張をやめ、彼の中の善が開花する機会を得るでしょう。
 こうして彼は他の三つの道の一つにも十分適するようになるのです。
 この一つの方法だけでも適切に身につければ、彼の直観は開花するでしょう。

質問者
 一定の想念や連続的な問いかけが自己催眠状態を招くことはありませんか?
 分析不可能な基本原理であり、把握しがたく、漠然としか知覚できない「私」を分析するためには、それを一点に限定するべきではないのではありませんか?

マハルシ
 いいえ。
 それは空間を見つめるような、まばゆい水晶や輝く光を見つめるようなものです。

質問者
 心をその一点に集中させることはできるのでしょうか?
 それはどのようにするのでしょうか?

マハルシ
 もし心が散漫になったなら、「この散漫な心は誰に起こったのか?」と即座に問いただしなさい。
 それはあなたを「私」という点に即座に連れ戻すでしょう。


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