したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4

994避難民のマジレスさん:2019/06/17(月) 16:18:56 ID:jfWCoXjM0
質問者
 『ギーター』は「眉間に注意を集中し、呼吸を止めるなら、彼は真我に達する」と述べています。

マハルシ
 あなたは常に真我の中にいるため、それに達するということはないのです。
 眉間はただ注意を集中させるための場にすぎません。

質問者
 あなたはハートが瞑想の座だとは言われませんでしたか?

マハルシ
 それもまた注意を集中させるための場なのです。

質問者
 ハートとは何でしょうか?

マハルシ
 それは真我の中心です。
 真我は中心の中心です。
 ハートとは霊的な中心を表しており、身体的な中心のことではないのです。

質問者
 「ジニャーナ」という言葉は真我実現による知識という意味です。
 同じ言葉が方法としても使われています。
 どうしてでしょうか?

マハルシ
 「ジニャーナ」という言葉は方法をも含んでいるのです。
 なぜなら、最終的にはそれが実現をもたらすからです。

質問者
 知識が不完全な人でも教えることにたずさわるべきでしょうか?

マハルシ
 もし彼のプラーラブダ・カルマ(運命)がそうなっているなら。
 『バガヴァッド・ギーター』の第七章で
 アルジュナは、
 「カルマ(行為)は修練(サーダナ)なのかとうか」と尋ね、
 クリシュナは
 「もし行為者という感覚なしに為されれば、そうである」と答えます。

 カルマを否定する聖典に認められたカルマもあります。
 聖典が認めないカルマとは、行為者という感覚をともなって為された行為です。
 カルマ(行為)を手放してはいけません。
 それはできないのです。
 手放すのなら行為者の感覚を手放しなさい。
 カルマは無意識のうちに続いていくでしょう。
 あるいはカルマはあなたから離れ落ちていくでしょう。
 もしカルマがプラーラブダにしたがったあなたの運命であるならば、あなたの意図にかかわらず、それは為されるでしょう。
 もしカルマがあなたの運命でなければ、どれほど強く求めてもそれは為されないでしょう。
 ジャナカ王や聖者シュカなどは「私」という感覚(アハンカーラ)なしに仕事に従事しました。

 カルマは名声のため、あるいは非利己的に公共の利益のために為されるかもしれませんが、それでも、人々はいまだに賞賛を求めています。
 ですから、それは本当のところ利己主義なのです。

質問者
 それを知ればすべての疑間が解けるものとは何でしょうか?

マハルシ
 疑う者を知りなさい。
 疑う者をとらえれば、疑問は起こりません。
 こうして疑う者は超越されるのです。
 疑う者が存在しなければ、どんな疑いも起こらないでしょう。
 さもなければ、どこからそれが起こると言うのでしょう?
 すべての人が真我実現した人(ジニャーニ)、生きながら解脱した人(ジーヴァン・ムクタ)です。
 ただ誰もその事実に気づいていないだけなのです。
 疑いは根こそぎにされなければなりません。
 つまり疑う者を根元から断たねばならないのです。
 ここに言う疑う者とは、心のことです。
 
質問者
 その修練方法とは何でしょうか?

マハルシ
 「私は誰か?」と問う真我探究です。

質問者
 ジャパをしてもよいでしょうか?

マハルシ
 なぜ「私はこれだ」と考えるのでしょうか?
 探究しなさい。
 すると想念は止まります。
 そうすれば、その後に残る唯一存在するもの、つまり真我は明らかになるでしょう。

質問者
 ハタ・ヨーガは必要でしょうか?

マハルシ
 それは助けの一つにはなりますが、必ずしも必要なものではありません。
 それは人によります。
 真我探究(ヴィチャーラ)はプラーナーヤーマ(呼吸法)よりも優れています。
 『ヨーガ・ヴァーシシュタ」の中で、チューダーラーはシキドヴァジャに自我を殺すための方法としてヴィチャーラを勧めています。

 実現はプラーナ(呼吸)か知性をとらえることによって達成されます。
 ハタ・ヨーガは前者であり、ヴィチャーラは後者です。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板