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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4

1避難民のマジレスさん:2018/07/07(土) 12:47:05 ID:GOHu/WSs0
前スレ:鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 3
http://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619

953鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/03(月) 23:47:26 ID:1d4drIFg0
アートマンの法では他の集中法を用いず、ただひたすら胸の中のアートマンを追求するのじゃ。
そうすれば自然に集中力も増していくのじゃ。
私とは何かを求めるマハリシの教えはアートマンの法と言えるのじゃ。
難しいことではあるがのう。

954避難民のマジレスさん:2019/06/04(火) 13:13:04 ID:jfWCoXjM0
対話28

質問者
 想念の制御と呼吸の制御の間にはどのような関係があるのでしょうか?

マハルシ
 想念と呼吸、血液循環などの自律的な活動は、どちらも同じ個人の生命の異なった相を表し、どちらも生命に備わったものです。
 生命活動と同じように、人格やその他の想念も個人の生命から現れるのです。
 呼吸やその他の生命活動が強制的に抑制されれば、想念も抑制されます。
 もし想念を強制的に遅くすれば、呼吸という生命活動もゆっくりと平坦に、生命を保つ最低のレベルにまで制限されます。
 そのどちらにおいても、散漫な思考は一時的に停止します。
 その相互作用は他の点でも明らかです。
 生きようとする意志を例にとってみなさい。
 それは想念の力です。
 それ以外の生命力が尽き果てようとするときでも、死を遅らせるのは想念の力なのです。
 生きようとする意志の力がなくなれば、死は加速されます。
 それゆえ、想念が肉体に命をとどめ、想念が肉体に宿る生命を一つの身体から別の身体へと運んでゆくと言われるのです。

質問者
 集中を高め、散漫を取り除く方法が何かあるでしょうか?

マハルシ
 身体的には、消化器官や他の内臓器官への刺激を避けなさい。
 それゆえ、食事の量と質の両方を管理しなさい。
 刺激のないものを食べなさい。
 唐辛子を避け、塩や玉ネギ、ワイン、催眠剤などを取り過ぎてはいけません。
 便秘にならないようにし、眠気や興奮、そしてそれらを促進する食べ物を避けなさい。
 精神的には、一つのことに興味を保ち、心をそれにとどめなさい。
 他のすべてを忘れて没頭できるようなことに興味を持ちなさい。
 それが無執着(ヴァイラーギャ)と集中です。
 神やマントラを選ぶと良いでしょう。
 そうすれば、心は霊妙なるものをとらえるほどの力を得て、その中に融け去るのです。

質問者
 潜在する精神的傾向が障害をもたらすこともあります。
 それも排除できるのでしょうか?
 
マハルシ
 できます。
 多くの人たちがそれを成し遂げたのです。
 信じなさい!
 彼らがそうできたのは、できると信じたからです。
 心の潜在的傾向(ヴァーサナー)は消し去ることができます。
 それはヴァーサナーの核でありながら、ヴァーサナーから自由な「それ」に集中することによって排除できるのです。

質問者
 修練はどれほど長く続けるものなのでしょうか?

マハルシ
 目的を遂げ、ヨーガの解放が永久的なものとなるまでです。
 成功は成功を呼びます。
 一つの障害が克服されれば次も克服されてゆき、最終的にはすべてが克服されます。
 その過程は、敵を一人また一人と現れるごとに倒していくことで、敵の城砦を崩し続けていくようなものです。

質問者
 この過程のゴールは何でしょうか?

マハルシ
 実在を実現することです。

質問者
 実在の本性とは何でしょうか?

マハルシ
 a 始まりも終わりもない永遠の存在
 b すべてに遍在する無限の存在
 c すべての形態、変化、力、物質、霊性の根底にある存在

 すべての現象は移り変わり、過ぎ去っていきますが、「一なるもの」(実体)は常に変わりません。

 知る者、知識、知られるものという三位を超えた「それ」。

 三位は時間と空間における現れにすぎません。
 しかし実在はそれらを超えた背後に在ります。
 それらは実在の上に立ち現れた蜃気楼のようなものであり、誤った観念の結果なのです。

質問者
 もし「私」でさえも幻影なら、誰がその幻影を消し去ると言うのでしょうか?

マハルシ
 「私」が「私」という幻影を消し去り、しかも「私」として残る。
 それが真我実現のパラドックスです。
 賢者はそこにいかなる矛盾も見ません。
 帰依(バクティ)の場合を例にとって見てみなさい。
 私はイーシュヴァラ神に近づき、彼の中に融合されんと祈ります。
 信心とともに私は彼に集中し、そして自らを明け渡します。
 後には何が残るでしょう?
 完全な明け渡しは本来の「私」の場所の中に神だけを残し、偽りの「私」は消え去るのです。
 これが至高の帰依、明け渡し、離欲(ヴァイラーギャ)の極みです。

 あなたはあれやこれといった「私の」所有物を放棄しますが、もしその代わりに「私」と「私のもの」という想念を放棄すれば、すべてが一太刀で放棄されるでしょう。
 所有の根本原因が絶たれたからです。
 このようにして邪悪は種のうちに砕かれ、つぼみのうちに摘み取られます。
 そのためには、非常に強固な無執着が為されなければなりません。
 水中にとらえられた人が、必死で水面に上がろうと努力するに等しい真剣さと熱意が必要となるでしょう。

955避難民のマジレスさん:2019/06/04(火) 13:14:34 ID:jfWCoXjM0
質問者
 この困難を師やイシュタ・デーヴァター(信仰の対象として選ばれた神)が和らげてくれるのではないでしょうか?
 師や神が真我をありのままに見る力を与え、私たちを彼らのようにし、真我実現へと導いてくれるのではないでしょうか?

マハルシ
 イシュタ・デーヴァターや師は、実に強力な助けとなります。
 しかしその助けが効果をもたらすには、あなたの努力も必要です。
 あなたの努力は必要不可欠なものです。
 太陽を見なければならないのは、あなたなのです。
 眼鏡や太陽そのものがあなたのために太陽を見てくれるでしょうか?
 あなた自身が自己の本性を見なければならないのです。
 (そのために)たいした助けは必要ありません!

質問者
 私の自由意志と全能の神の圧倒的な力との間にはどのような関係があるのでしょうか?

 a 神の全知と自我の自由意志は一致しますか?
 b 神の全能と自我の自由意志は一致しますか?
 c 自然の法則と神の自由意志は一致しますか?

マハルシ
 一致します。
 自由意志とは、判断や意思という限られた自我の能力が現在現れているものです。
 その同じ自我は、振り返れば自らの過去の行いが「法則」の流れの中にあることを認めます。
 つまり自我は自身の自由意志が「法則」の流れに繋がっていることを知るのです。

 自我は個人の自由意志の現れを通して、その中に神の全知全能が働いていることを見ます。
 それゆえ、自我は自由意志の現れにしたがうべきであると結論づけるのです。

 自然の法則は神の意思の現れであり、神によって決められたものです。

質問者
 科学、心理学、生理学、哲学などの研究は、
 
 a ヨーガによる解放
 b 実在の統一性の直観的理解

 の助けとなるでしょうか?

マハルシ
 aに関しては、ほとんど役に立ちません。
 ある知識はヨーガに必要でしょう。
 それは書物の中に見いだせるでしょう。
 しかし必要とされるのは実際に応用できるものであり、個人の実体験、(グルとの)個人的な接触、個人的な指導が最も役立ちます。
 bに関しては、真理を直観的につかもうと苦心して勤勉にその働きや本質を理解しようと努めても、実際の直観は感覚に近いものであるため、修練と(グルとの)個人的な接触を必要とします。
 単に本を読んだだけでは、たいして役に立ちません。
 実現後には、知的な理解や知識は無用な重荷となり、がらくたとして投げ棄てられます。
 自我を投げ棄てることこそが必要なことなのです。
 
質問者
 夢見と目覚めはどのように異なるのでしょうか?

マハルシ
 夢の中で、人は異なった身体をとります。
 そしてその身体は、夢で感覚的接触を得たとき、再び目覚めの身体に入るのです。

質問者
 幸福とは何でしょうか?
 それはアートマンの中に本来備わっているのでしょうか?
 あるいは対象の中、あるいは対象と主体が出合うときに生じるのでしょうか?
 それでも、私たちは日々の出来事の中に幸福を見いだせません。
 いったいそれはいつ起こるのでしょうか?

マハルシ
 望んでいたものが手に入ったとき、あるいは望んでいなかったものから自由になたとき、あるいはそれを想い起こしたとき、私たちは幸福だと言います。
 そのような幸福は相対的でしかなく、快楽と呼ぶにふさわしいものです。
 しかし人は絶対的で永久的な幸福を求めています。
 それは対象物の中ではなく、「絶対なるもの」の中にあるのです。
 それは苦痛と快楽の両方から自由になった平和──中立的な状態です。

956避難民のマジレスさん:2019/06/04(火) 13:15:26 ID:jfWCoXjM0
質問者
 どういう意味において、私たちの真の本性が幸福だと言われるのですか?

マハルシ
 完全な至福がブラフマンです。
 完全な平和が真我なのです。
 ただそれのみが存在し、それのみが意識しています。
 形而上学によっても、帰依の道によっても同じ結論に至ります。

 私たちは至福を求めて神に祈り、恩寵によってそれを授かります。
 至福を授けるものは至福そのもの、無限なるものに違いありません。
 それゆえ、イーシュヴァラ神は無限の力と至福が人格化された神なのです。
 ブラフマンは至福であり、非人格的な、「絶対なるもの」です。
 有限な存在である自我は、第一にブラフマン、次にイーシュヴァラ神をその根源としています。
 そしてその霊的な本性は至福なのです。
 生物学的に見れば、有機的生物が機能するのは、機能することが幸福をともなうからです。

 私たちの成長を助けるのは、食事、学習、休息、社交といった喜びです。
 喜びの心理学(あるいは形而上学)は、おそらく「私たちの本性が本来一つであり、全体的で、至福に満ちていること」に基づいているのでしょう。
 これを信じるに足る仮定として見てみなさい。
 創造とは実在を神と自然(マーヤー、プラクリティ)に分割したものです。
 このマーヤーは二つの部分から成っています。
 一つは「パラー」、すなわち基礎となる本質、もう一つは「アパラー」、すなわち五大元素、心、知性、自我です。

 自我の完全性はある時点で突然崩れ去り、何かを得よう、何かをしようという欲望が湧き起こります。
 それを満たして欲望が癒されたとき、自我は幸福になり、本来の完全性が回復されます。
 それゆえ、幸福は私たちの本来の状態、本性なのです。
 快楽と苦痛は欲望の充足の度合いにしたがった相対的なもので、私たちの限定された状態に起因しています。
 もし相対的な欲望の充足を追い求めることが止まり、完全な平和をその本性とするブラフマンに魂が融け去れば、それは相対的で一時的でしかない快楽を離れて、完全な平和である至福を楽しむことでしょう。

 だからこそ、真我実現は至福なのです。
 それは真我を無限の霊的な目(ジニャーナ・ドリシュティ)として認識することであって、千里眼ではありません。

 真我実現は至高の明け渡しであり、サンサーラ(輪廻の世界)は不幸なのです。

質問者
 ではなぜ限定された創造と顕現であるサンサーラは、これほど不幸と悪に満ちているのでしょうか?

マハルシ
 神の意思によって!

質問者
 なぜ神はそう望まれたのでしょう?

マハルシ
 それは理解を超えたものなのです。
 あの「力」にはいかなる動機も帰せず、いかなる欲望も目的もあの「全知全能の無限なるもの」に属すると言うことはできません。
 神はその存在の中で起こる活動に影響されないのです。
 太陽と世間の活動を例にとって比較してみればわかるでしょう。

 多数となる前の「一なるもの」に責任や動機を負わせるのは無意味なことです。
 しかしすでに決められた出来事の流れを神の意思に負わせるのは、自由意志問題の解決方法としては都合のいいことでしょう。

 もし何が起こり、何に関わり合い、何を避けるかについて、満足のいかない不安に心が揺れ動いているなら、そのときは責任と自由意志の感覚を棄て去り、全知全能の神に定められた道具として、行為しようと苦しもうと、彼の望むがままに任せることが賢明でしょう。
 彼はすべての重荷を負い、私たちに平和を与えてくれるのです。

957鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/04(火) 22:23:45 ID:1d4drIFg0
イーシュヴァラ神とはシヴァ神のことなのじゃ。
マハリシはそれもまた幻影と知りながら神を信じる者のために説くのじゃ。
インド人が自我を無力化しようとするならば、神への信仰を使うのが一番であるからのう。
数字を信じる者には数学を説いたりするじゃろう。

958避難民のマジレスさん:2019/06/05(水) 12:50:18 ID:jfWCoXjM0
対話29

夕方の穏やかな曇り空。
ときおり小雨が降ったため、いくぶん涼しかった。
アーシュラマムのホールの窓は閉じられ、マハルシはいつものようにソファーに座っていた。
帰依者たちは彼に向かい合って座っている。
クダロールから数人の訪問者があった。
その中には、判事補と同伴の二人の年配の女性の姿が見えた。
判事補が現世の物事のはかなさについて討論を始めた。

「実在と非実在を識別すること(サット・アサット・ヴィチャーラナ)は、『不滅なるもの』の実現へと導くだけの効果があるのでしょうか?」

マハルシ
 真理を探究するすべての者が提議し、そう認識しているように、ただ至高の霊性にとどまること(ブラフマ・ニシュター)のみが、真理の実現を可能にするのです。
 「それ」は私たち自身のものであり、私たちの内に存在するものです。
 ですから、いかに実在と非実在を識別しようとも、それは現象を一時的なはかないものとして放棄させ、永遠の真理と存在だけをつかみ取ろうという思いに駆り立ててはくれますが、それだけでは私たちを一歩先に進ませることしかできないのです。


会話は一転して、

「真我実現(サームラージュヤ)を達成するには神の恩寵が必要か?」

あるいは

「ジーヴァ(個我)の誠実で熱心な努力だけでは到達不可能な、生と死の輪廻を超えた『それ』に達するには神の恩寵が必要か?」

という質問に移った。

マハルシは聖なる顔にたとえようのない微笑を浮かべ、それは彼を取り巻く人々すべての上に輝き渡った。
そして確固たる真理をたたえた声で答えた。

「真我実現には神の恩寵が欠かせません。
 それは神の実現へと導きます。
 けれどもそのような恩寵は、自由に向かってたゆみなく進み続ける真の帰依者やヨーギーだけに与えられるのです」

質問者
 ヨーガの聖典は六つのセンターの存在について述べています。
 しかしジーヴァはハートの中に宿るとも言われています。
 そうなのでしょうか?

マハルシ
 そうです。
 ジーヴァは深い眠りではハートの中に、目覚めにおいては脳の中にとどまると言われています。
 ここで言うハートを、血液を循環させる四つの心房を持った身体的器官だと考える必要はありません。
 この見解を支持する書物も存在しています。
 他にも、それを神経節あるいは中枢神経と見なす人もいます。
 どちらの見解が正しいかは、私たちには問題ではありません。
 私たちは自分自身のことに関心を持つべきだからです。
 それは確かに私たちの内にあります。
 それに関して、疑いや議論の余地はありません。

 「ハート」は『ヴェーダ』や聖典の中に、「私」という観念が湧き起こる場所として述べられています。
 それがただの肉の塊から湧き起こるでしょうか?
 それは私たちの存在の中心より少し右側から生じるのです。

 「私」を位置づけることはできません。
 すべては真我であり、ただそれだけが存在するのです。
 それゆえ、ハートは私たちの全身体であり、全宇宙であると言うべきです。
 そしてそれが「私」なのです。
 
 しかし探究者の理解を助けるために、私たちは宇宙あるいは身体の中の一ヶ所をハートとして示さなければなりません。
 だからこそ、このハートが真我の座として指摘されます。

959避難民のマジレスさん:2019/06/05(水) 12:52:17 ID:jfWCoXjM0
 しかし真実は、私たちはすべてに存在し、すべてが私たちであり、それ以外は何も存在しないのです。

質問者
 サマーディに達するには、神の恩寵が必要だと言われています。
 そうなのでしょうか?

マハルシ
 私たちは神なのです。
 自己を神として見ること自体が神の恩寵です。
 それゆえ、私たちは神の恩寵を得るために神の恩寵が必要なのです。


マハルシがそう言って微笑むと、帰依者たちもみな笑った。


質問者
 神の恩寵とは別に神の寵愛もあると聞きました。
 そうなのでしょうか?

マハルシ
 神を想うこと自体が神の寵愛なのです!
 神は、その本性からして恩寵(アルール)です。
 神の恩寵によって、あなたは神のことを想うのです。

質問者
 師の恩寵は神の恩寵の結果なのでしょうか?

マハルシ
 なぜその二つを区別するのですか?
 師と神は別ではなく同じなのです。

質問者
 正しい人生を歩み、真我に想念を集中しようと真剣に努力するとき、しばしば失敗したり中断したりすることがあります。
 どうすればよいのでしょうか?

マハルシ
 最後には、すべてがうまくいくでしょう。
 失敗や中断が起こる度に、再び歩み出そうとする決意が衝動となって起こります。
 障害は徐々に克服され、あなたの探究の勢いはより強固になるでしょう。
 最終的には、すべてがうまくいくのです。
 固い決意でそれに向かいなさい。


【サームラージュヤ】

このサンスクリット語は一般に「全世界または全宇宙の支配、統制」を意味するが、アドヴァイタ哲学においては「真我実現」のみを意味する。

960鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/05(水) 22:52:34 ID:1d4drIFg0
神という者があるとすれば自分自身なのじゃ。
自分の世界を創った者は自分であるからのう。
自分自身も創ったのであるから創造神なのじゃ。
自分とは自らの心によって創造されたものなのじゃ。

961避難民のマジレスさん:2019/06/06(木) 12:46:13 ID:jfWCoXjM0
対話30

南インドの町の法廷弁護士会の会長で、伝統的ブラーフマナ(バラモン)であるナテサ・アイヤール氏が尋ねた。

質問者
 イーシュヴァラやヴィシュヌといった神々や、神々の聖地であるカイラーサやヴァイクンタは実在するのでしょうか?

マハルシ
 あなたがこの身体の中にいるのと同じように、それらは実在しています。

質問者
 それらは私の身体のように現象的存在を有しているのでしょうか?
 あるいは、それらは野ウサギの角のような作り話にすぎないのでしょうか?

マハルシ
 それらは確かに存在します。

質問者
 もしそうであれば、それらはどこかに在るはずです。
 どこに在るのでしょうか?

マハルシ
 それらを見たことのある人々は、それらがどこかに存在していると言っています。
 ですから、私たちはその言葉を信じなければならないのです。

質問者
 どこに存在しているのでしょうか?

マハルシ
 あなたの中に。

質問者
 では、それは私が創造し、支配できるただの観念なのでしょうか?

マハルシ
 すべてがそのようなものなのです。

質問者
 しかし野ウサギの角のようなまったくの虚構や、部分的には真実である蜃気楼のようなものなら想像で創り出すこともできます。
 それに対して、私の想像力とは関わりなく存在している事実もあります。
 イーシュヴァラ神やシヴァ神はそのように存在しているのでしょうか?

マハルシ
 そうです。

質問者
 神はプララヤ(宇宙の崩壊)を被るのでしょうか?

マハルシ
 なぜですか?
 真我に気づいている人は、宇宙の崩壊をも超越して解脱を得たのです。
 ならば、なぜはるかに賢く能力を持ったイーシュヴァラにそうできないことがあるでしょう?

質問者
 神々や悪魔も同じように存在しているのでしょうか?

マハルシ
 そのとおりです。

質問者
 「至高の意識」(チャイタニャ・ブラフマン)についてどのように考えればよいのでしょうか?

マハルシ
 存在する「それ」として。

質問者
 それは「自ら輝くもの」として考えるべきでしょうか?

マハルシ
 それは光と闇を超越しています。
 個我(ジーヴァ)はその両方を見ています。
 光と闇を見るために個人に光を与えているもの、それが真我です。

質問者
 それは「私は身体ではなく、行為者でもなく、楽しむ者でもない」などとして理解されるべきものなのでしょうか?

マハルシ
 なぜそのような考えを抱くのですか?
 私たちは今、「私は人間だ」と考えているでしょうか?
 そう考えなければ人間ではなくなると言うのですか?

質問者
 では聖典にあるように、「そこには何の違いもない」(ネーハ・ナーナースティ・キムチャナ)として理解されるべきなのでしょうか?

マハルシ
 それさえも必要ありません。

質問者
 「私は実在だ」と考えれば、それでよいのでしょうか?

マハルシ
 すべての思考は実現に反するのです。
 私たちに関するすべての考えと、それ以外についてのすべての考えを排除することが正しい状態です。
 想念と実現はまったく別のものなのです。

962避難民のマジレスさん:2019/06/06(木) 12:47:41 ID:jfWCoXjM0
質問者
 身体を消し去ることは、霊的な発展のために必要なことではありませんか?

マハルシ
 なぜそのようなことを考えるのですか?
 あなたは身体なのですか?

質問者
 いいえ、違います。
 しかし霊的進化は身体の変化をともなうはずです。
 そうではありませんか?

マハルシ
 どんな変化を望むと言うのですか?
 なぜそう考えるのです?

質問者
 身体を透明にする能力は、進化した叡知の証しではないでしょうか?

マハルシ
 そうだとすれば人前で話したり、書いたり、生活した人たちはみな無知だということになりますね!

質問者
 しかしヴァシシュタやヴァールミーキのような聖者は、そのような能力を持っていたのではありませんか?

マハルシ
 叡知(ジニャーナ)とともにそのような能力が発達していったのは、彼らの運命(プラーラブダ)だったのでしょう。
 なぜ本質的ではなく、かえって叡知の妨げとなるような能力を目標とするのですか?
 身体が目に見えるからといって、聖者がそのことで悩むでしょうか?

質問者
 いいえ。

マハルシ
 催眠術師は自分の姿を見えなくさせることができますが、彼は聖者でしょうか?

質問者
 いいえ。
 
マハルシ
 可視性も不可視性も見る者に関わっています。
 その見る者とは誰なのか?
 まずそれを解決しなさい。
 他の問題は重要ではありません。

質問者
 『ヴェーダ』には宇宙の起源に関する矛盾した説明が見受けられます。
 聖典のある箇所では、最初に創造されのはエーテルだと言及され、別の箇所では生気(プラーナ)が最初に創造されたと述べられています。
 そしてまた別の箇所では別のものが、また別の箇所では水がというように。
 いったいこの矛盾をどう一致させればよいのでしょうか?
 これは『ヴェーダ』の権威をそこなうのではありませんか?

マハルシ
 真理の異なった相を、異なった人が異なったときに見て、それぞれが異なった見解を強調するのです。
 なぜそのような矛盾した言葉を気にかけるのですか?
 『ヴェーダ』の本質的な目的は、私たちに不滅のアートマンの本性を教え、私たちが「それ」であることを示すことにあるのです。

質問者
 その点については私も納得しています。

マハルシ
 では、それ以外のことはすべて余分な議論、あるいはものごとの起源をたどろうとする無知な人のための説明と見なしなさい。

963避難民のマジレスさん:2019/06/06(木) 12:49:01 ID:jfWCoXjM0
質問者
 私は罪人です。
 私は宗教的供犠(ホーマ)などを行わないからです。
 そのために私は苦しい転生を経なければならないのでしょうか?
 どうぞ私をお救いください!

マハルシ
 なぜ自分を罪人だなどと言うのです?
 転生をまぬがれるには、神を信頼するだけで十分です。
 すべての重荷を彼に任せなさい。
 『ティルヴァーチャカム』にこう述べられています。

「犬にも劣る私を、あなたは慈悲深くも守ってくださいました。
 この生と死の幻想は、あなたによって保たれているのです。
 それなのに、私が裁く人だと言うのですか?
 私がここの主だと言うのですか?
 ああ、マヘーシュヴァラよ!
 生から死へと私の身体を転生させながら、あなたの御足元に私をとどめるのはあなたなのです」と。

 ですから信じなさい。
 そうすれば救われるでしょう。

質問者
 信仰はあるのですが、それでもまだ困難に直面します。
 集中の修練の後、私は衰弱やめまいに苦しむのです。

マハルシ
 プラーナーヤーマ(呼吸制御)を正しく行えば、力を増すことができるはずです。

質問者
 私は専門職についていますが、絶え間なく瞑想の中にとどまっていたいのです。
 それらはお互いに矛盾するのでしょうか?

マハルシ
 矛盾することはありません。
 どちらも同時に行い、力を開発してゆくにしたがって、両方に従事することができるようになるでしょう。
 あなたは仕事を夢として見るようになるでしょう。
 『バガヴァッド・ギーター』にこう述べられています。

「すべての生けるものにとっての夜は、修養したものにとっての目覚めである。
 すべての生けるものが目覚めているとき、聖者にとっては夜である」と。

【そこには何の違いもない】:『ブリハダーラニャカ・ウパニシャド』4-4-19

心だけがこの真理を認識する。
この真理の中に多様性はない。
実在の中に多様性を見る者は果てしない転生を繰り返す。

【すべての生けるものにとっての夜は】:『バガヴァッド・ギーター』2-69

すべての生けるものが眠る夜、自己を制する賢者は目覚めている。
すべての生けるものが目覚める昼は、内面を観る賢者の夜となる。

964避難民のマジレスさん:2019/06/06(木) 21:03:50 ID:LC3de7YgO
>>961
最後の
> すべての思考は実現に反するのです。
 私たちに関するすべての考えと、それ以外についてのすべての考えを排除することが正しい状態です。
 想念と実現はまったく別のものなのです。

この「実現」とは、「実在」のことでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

965避難民のマジレスさん:2019/06/06(木) 21:34:20 ID:jfWCoXjM0
参考までに、英訳本では実現=realizationとなっていました(-人ー)

D. If we think "I m the real," will it do?
M. All thoughts are inconsistent with realization.
The correct state is to exclude thoughts of ourselves as well as all other thoughts.
Thought is one thing and realization is quite another.

966避難民のマジレスさん:2019/06/06(木) 22:02:39 ID:LC3de7YgO
>>965
ありがとうであります。
くま気になったのでググってみたらこんな解説に出くわしました。
>realize という語には「実現する」という意味だけでなく、「もともと現実に存在するものを、現実に存在するものとして、知る・理解する・覚る・実感する・経験する」という意味もあります。

この意味のような気がするので、
実現するとは、実在を実在として知る覚る実感すると言う意味なのかなと思いました。
(´・(ェ)・`)つ

967鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/06(木) 22:49:49 ID:1d4drIFg0
>>964 そのような理解で善いのじゃ。
 実在は観念とは別のものというような意味じゃな。
 その通りなのじゃ。

 神とか聖地も観念として心の中にあるものじゃ。
 それは実在とは違うが、信じる者の心の中にはあるといえるのじゃ。
 目覚めればそれは実在とは違うとわかるのじゃ。
 それまでは修行に役立てると善いのじゃ。

968避難民のマジレスさん:2019/06/07(金) 12:51:52 ID:jfWCoXjM0
対話31

訪問者が尋ねた。

「解脱(モークシャ)を達成するためには、何をすべきでしょうか?」

マハルシ
 解脱とは何なのか、それを学びなさい。

質問者
 そのために神を礼拝すべきでしょうか?

マハルシ
 礼拝は心の制御と集中を助けます。

質問者
 そのために神を礼拝すべきでしょうか?

マハルシ
 礼拝は心の制御と集中を助けます。

質問者
 偶像を崇拝すべきでしょうか?
 それに害はないでしょうか?

マハルシ
 あなたが自分を身体だと見なすかぎり害はありません。

質問者
 生と死の輪廻(サンサーラ)はどうすれば乗り越えられるでしょうか?

マハルシ
 輪廻転生の意味を学びなさい。

質問者
 私は妻や家族を放棄すべきではありませんか?

マハルシ
 どうして彼らがあなたに害を及ぼすと言うのですか?
 あなたが誰なのか、まずそれを見いだしなさい。

質問者
 妻や富や家を棄てるべきではないのですか?

マハルシ
 サンサーラとは何なのか、まずそれを学びなさい。
 妻や富や家がサンサーラなのですか?
 それらとともに暮らしながらも真我を実現した人たちがいたのではないでしょうか?

質問者
 そのための修行段階とはどのようなものでしょうか?

マハルシ
 それは探究者の資質と気質によります。

質問者
 私は偶像崇拝をしています。

マハルシ
 それを続けなさい。
 それは精神集中に導くでしょう。
 一点に集中しなさい。
 そうすれば、すべてはうまくいくでしょう。
 人々は自由(モークシャ)とはどこか彼方にあり、探し求めるものだと考えています。
 それは間違いです。
 自由とはあなた自身の中の真我を知ることにすぎません。
 集中しなさい。
 そうすれば、それを得るでしょう。
 あなたの心が生と死の輪廻(サンサーラ)なのです。

質問者
 私の心はとても落ち着きがありません。
 どうすればよいのでしょうか?

マハルシ
 あなたの注意を何か一つのものに固定しなさい。
 それを保持するよう努めなさい。
 そうすればすべてうまくいくでしょう。

質問者
 集中はとても困難です。
 
マハルシ
 修練を続けなさい。
 そうすれば、集中の修練は呼吸をするぐらいやさしいものとなるでしょう。
 それがあなたの達成の成果となるでしょう。

質問者
 禁欲や菜食は助けとなるでしょうか?

マハルシ
 なります。
 それらはすべて良いことです。

それからマハルシは集中し、静かに虚空を見つめることで、質問者に模範を示した。

969避難民のマジレスさん:2019/06/07(金) 13:02:58 ID:jfWCoXjM0
質問者
 私にはヨーガは必要ないのでしょうか?

マハルシ
 それも精神集中の手段です。

質問者
 精神集中の補助手段として、他の方法を取るのは良いことではありませんか?

マハルシ
 呼吸制御などがそのような助けとなります。

質問者
 神の姿を見ることは可能でしょうか?

マハルシ
 可能です。
 あれやこれや、いろいろなものをあなたは見ます。
 どうして神を見ないということがあるでしょう?
 ただ神とは何か、それを知らなければなりません。
 誰もがみな、いつでも神を見ています。
 ただそれを知らないだけなのです。
 神とは何か、それを見いだしなさい。
 人々は見ていながら、見てはいないのです。
 それは神が何かを知らないからです。

質問者
 偶像を礼拝するとき、クリシュナやラーマなどの名前、つまりマントラの復唱(マントラ・ジャパ)をすべきでしょうか?

マハルシ
 心で唱えるジャパはとても良いものです。
 それは瞑想を助けます。
 心は唱えることと一つになり、礼拝(プージャー)の真の意味を知ることでしょう。
 それは礼拝の対象の中に個を失うことなのです。
 
質問者
 宇宙の魂(パラマートマン)は、私たちとは常に異なったものなのでしょうか?

マハルシ
 一般にはそう信じられていますが、それは間違いです。
 「彼」とあなたは異なるものではない、と考えなさい。
 そうすれば、あなたは真我と神との同一性を悟るでしょう。

質問者
 アドヴァイタとは神と一つになることではありませんか?

マハルシ
 どこに「なる」必要があるでしょうか?
 「考える者」は常に「実在」として在りながら、それに気づいていないだけなのです。
 最終的には、彼もその事実を悟るでしょう。
 私たちは眠りや夢見のときのように、しばしば自己の本性を忘れてしまいます。
 しかし神とは永遠なる意識なのです。

質問者
 偶像崇拝以外に、師の導きが必要ではないのでしょうか?

マハルシ
 師の助言なしにどうして偶像崇拝を始めることができましたか?

質問者
 聖典によってです。

マハルシ
 そうです。
 誰かがあなたに神について告げます。
 あるいは神自身がそう告げます。
 後者の場合、神自身があなたの師です。
 重要なのは、誰が師なのかということではありません。
 私たちは、実は師や神と同じなのです。
 師とは神です。
 最終的には、人はそれを理解します。
 人としてのグルと神としてのグルに違いはありません。

970避難民のマジレスさん:2019/06/07(金) 13:03:40 ID:jfWCoXjM0
質問者
 功徳を積めば、その業果が得られると私は期待しています。
 
マハルシ
 そのようにしてあなたは運命(プラーラブダ)の報いを受けるのです。

質問者
 聡明な師は道を指し示す大いなる助けとなるのではないでしょうか?

マハルシ
 そうです。
 もし手にした光とともに修練を続けるなら、あなたは師に出会うでしょう。
 師もまたあなたを探し求めているのです。

質問者
 明け渡し(プラパッティ)と見者(リシ)のヨーガの道は違うものなのでしょうか?

マハルシ
 ジニャーナ・マールガ(知識の道)とバクティ・マールガ(帰依、明け渡しの道)は一つであり同じものです。
 明け渡しは真我探求と同じように実現に導きます。
 完全な明け渡しとは、「私」という想念が消え去った状態です。
 生来の精神的傾向(サンスカーラ)はすべて洗い流され、あなたは自由になります。
 どちらの道を行こうと、分離した存在として在り続けることはできなくなるのです。

質問者
 私たちは行為の結果として、天国などに行くのではないでしょうか?

マハルシ
 あなたが現在存在しているのと同じように、それもまた真実です。
 しかし「私は誰か?」と探究をし、真我を見いだしたなら、天国について考える必要などあるでしょうか?

質問者
 転生から逃れようとすべきなのではありませんか?

マハルシ
 そのとおりです。
 誰が生まれ、誰が今、存在の問題を抱えているのか、それを見いだしなさい。
 眠っているとき、転生や現在の存在について考えるでしょうか?
 それゆえ、現在の問題がどこから起こるのかを見いだしなさい。
 解決法はそこにあります。
 あなたは誕生も、現在の問題も、不幸もないことを発見するでしょう。
 すべては「それ」であり、すべては至福です。
 実際、私たちは転生から自由なのです。
 なぜ転生という災いについて思い悩むのですか?

971鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/07(金) 22:08:01 ID:1d4drIFg0
輪廻も全て個我の幻想からあるものじゃ。
個我が生まれかわっていくという幻想なのじゃ。
個我と神や宇宙が別にあるというのが無明なのじゃ。
全て一つであるという気付きがあれば全ては今ここで一つなのじゃ。

972避難民のマジレスさん:2019/06/08(土) 12:52:57 ID:jfWCoXjM0
対話32

質問者
 シュリー・チャイタニャやシュリー・ラーマクリシュナのような聖者は神の御前で泣きました。
 そして真理を実現したのです。
 その道にしたがうべきではありませんか?

マハルシ
 そうです。
 ある強い力(シャクティ)が、彼らがそのような体験を通り抜けていくようにしむけたのです。
 その同じ強大な力があなたを目標に導いてくれるということを信頼しなさい。
 涙はしばしば弱さの象徴と見られていますが、これらの偉大な人々はけっして弱者ではなかったのです。
 このように神の御前で涙するといったような現れは、偉大な流れが彼らを運んでいくうえでの一時的な形跡でしかありません。
 私たちは達成された結果に目を向けるべきなのです。

質問者
 この身体を無の中に消し去ることはできるのでしょうか?

マハルシ
 なぜそのようなことを尋ねるのですか?
 あなたが身体なのかどうかを見いだしなさい。

質問者
 ヴァシシュタやヴィシュヴァーミトラのようなヨーギーのように、視界から消え去ることはできるのでしょうか?

マハルシ
 それは単なる物理的な問題でしかありません。
 それが私たちの関心を向けるべき根本的問題でしょうか?
 あなたは真我ではないのですか?
 なぜ他の問題に悩むのです?
 本質を選び取り、他から学んだ理論などは無駄なものとして棄て去りなさい。
 身体が消え去ることを自由の証しと考えている人たちは間違っています。
 その必要はありません。
 あなたは身体ではないからです。
 身体が何らかの方法で消え去ったからといって、それが何になると言うのですか?
 そのような現象には何の益もありません。
 いったいどのような優劣がそこにあると言うのでしょう?
 実在を達成することだけが重要なのです。
 「私」を失うことだけが要点なのであって、身体を失うことではありません。
 自己と身体の同一化こそが真の束縛です。
 偽りの観念を棄て去り、実在を直観的に知覚しなさい。
 重要なことはそれだけです。
 金を熔かしてその真偽を確かめようとするとき、どのようにそれが熔けたか、全部が熔けたか、部分的に熔けたか、もとはどんな形だったかなどということが重要でしょうか?
 重要なのは、それが純金であるかどうかだけです。

 死者は自分の身体を見ません。
 個人がいかに亡くなったかは残された者たちの問題です。
 死において身体が消え去った覚者は確かに存在しました。
 しかし真我実現した人にとっては死はなく、身体があろうとなかろうと同じように気づいていて違いを見ることはありません。
 彼にとって状態の違いに優劣はないのです。
 部外者にとっても、覚者の身体がどうなろうと関心を持つ必要などありません。
 自分の問題だけに関心を持ちなさい。
 真我を実現しなさい。
 実現した後で、どのように死を迎えるのが好ましいか考える時間もあるでしょう。

 自己と身体の偽りの同一化が選り好みという観念を引き起こすのです。
 あなたは身体なのですか?
 昨夜ぐっすり眠っていたとき、あなたは身体に気づいていましたか?
 いいえ、気づいてはいませんでした!
 では、今存在していてあなたを悩ませているのは何でしょうか?
 それは「私」です。
 それを取り除いて、幸せになりなさい。

973鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/08(土) 22:56:12 ID:1d4drIFg0
ヨーガスートラにも集中力が高まれば神通力を得るがそれは悟りにとっては雑念でしかないと記されいるのじゃ。
世間の競争に勝ちたいと思うものは神秘的な力を得たいと憧れたりするのじゃ。
しかしそれでは死は克服できず、苦の世界に住み続けることになるのじゃ。
余計な力に囚われず真の悟りを求めるのじゃ。

974避難民のマジレスさん:2019/06/09(日) 12:41:25 ID:jfWCoXjM0
対話33

質問者
 「ブラフマンは真理である。世界は幻影である」とは、シュリー・シャンカラーチャーリャの常套句です。
 しかし別の人たちは「世界は実在である」と言います。
 どちらが真実なのでしょうか?

マハルシ
 どちらの言葉も真実です。
 それらは霊性の異なった段階について、異なった視点から語られているのです。
 真理の探究者は、「常に存在するものが実在である」という定義から進み始めます。
 それから、彼は世界を非実在として棄て去ります。
 なぜなら世界は変化するものだからです。
 それは実在ではありえません。
 「これではない、これではない!」。
 このように、変化するものを非実在として棄て去っていくことで、探究者は究極的に真我にたどり着くのです。
 その実現の中で、彼はすべての存在の根底に「一なるもの」を見いだします。
 そのとき、最初に非実在として棄て去られたものも、「一なるもの」の一部分だったことが理解されます。
 実在の中に吸収されたものとしては、世界もまた実在です。
 真我実現の中ではただ存在だけがあり、他には何もありません。
 さらに「実在」という言葉は異なった意味合いで使われ、ある思想家たちには漠然とした定義で使われています。
 彼らは実在の反映された段階がいくつかあると言います。
 それらは、

 1ヴャーヴァハーリカ・サティヤ(日常生活)
  ─この椅子は私によって見られ、現実である。

 2プラーティバーシカ・サティヤ(幻影)
  ─巻かれたロープが蛇に見えるという幻影。
   現れはそう考える人にとって現実となる。
   この現象は一時的で特定の環境において現れる。

 3パーラマールティカ・サティヤ(実在)
  ─常に同じで変化することのない実在。

 もし「実在」という言葉が広い意味で用いられるなら、世界は日常生活と幻影という実在性を持っていると言えるかもしれません。
 しかしながら、実生活の現実性さえも否定する人たちがいます。
 彼らはそれを心の投影にすぎないと考えます。
 彼らによれば、それはプラーティバーシカ・サティヤ、つまり幻影でしかないのです。

975避難民のマジレスさん:2019/06/09(日) 13:36:26 ID:LC3de7YgO
>>974
> その(真我)実現の中で、彼はすべての存在の根底に「一なるもの」を見いだします。

この「一なるもの」をググったら、黄金の華の秘密の最後に語られた("一者から一者への飛翔")プロティノスの解説に出会えた。

>プロティノスの思想はプラトンのイデア論を受け継ぎながら、その二元論を克服しようとしたものである。
プラトンの『パルメニデス』に説かれた「一なるもの」(ト・ヘン to hen)を重視し、語りえないものとして、これを神と同一視した。
万物(霊魂、物質)は無限の存在(善のイデア)である「一者」(ト・ヘン)から流出したヌース(理性)の働きによるものである(流出説)。
一者は有限の存在である万物とは別の存在で、一者自身は流出によって何ら変化・増減することはない。
あたかも太陽自身は変化せず、太陽から出た光が周囲を照らすようなものである。
光から遠ざかれば次第に暗くなるように、霊魂・物質にも高い・低いの差がある。
また、人間は「一者」への愛(エロース)によって「一者」に回帰することができる。
一者と合一し、忘我の状態に達することをエクスタシスという。
[エネアデスVIの第11節] ただし、エクスタシスに至るのは、ごく稀に、少数の人間ができることである。プロティノス自身は生涯に4度ばかり体験したという。
(´・(ェ)・`)つ

976鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/09(日) 22:35:25 ID:1d4drIFg0
忘我にいたることは誰でもできることじゃ。
インドでは誰でも至る法を創り、広めたのじゃ。
西洋ではただ理屈を広めるだけだったのじゃ。
理解が足りなかったのじゃ。

977避難民のマジレスさん:2019/06/10(月) 12:46:14 ID:jfWCoXjM0
ヨーギー・ラーマイアの体験

対話34

マハルシの臨在のもとに坐ることは、心の平安をもたらします。
私はよく三時間も四時間もサマーディの中に坐ったものでした。
その頃、私は心が形を取って内側から現れ出てくるのを感じていました。
絶え間ない修練と瞑想を通してそれはハートに入り、その中に融け去りました。
こうして私はハートが心にとって安息の地であることを知ったのです。
それは平和をもたらしました。
真我は心がハートに没入したときに実現されます。
これは精神集中(ダーラナー)の段階においてさえ感じることができます。
私はマハルシに黙想について尋ねました。
彼が説いた教えは以下のとおりです。

人が死ぬと、火葬用の薪が用意され、身体はその薪の上に置かれます。

薪に火がともされるとともに、皮膚は焼け、そして肉、それから骨が焼き尽くされ、最後には全身が灰となります。

その後には何が残るでしょうか?

心です。

「この身体の中には一体いくつの心があるのか?」という疑問が起こります。

「一つか二つか?もし二つなら、どうして人々は『私たち』ではなく『私』と言うのか?」

それゆえ、そこにはただ一つの心だけがあるのです。

「それはどこから生まれたのか?その本性とは何なのだろうか?」。

このように探究してゆくと、心もまた消え去ります。

「そのとき、残っているものは一体何だろうか?」。

「私だ」。

次の質問は、「私とは誰か?」です。

それは真我に他なりません。

これが黙想です。

私はこのようにしたのです。

この過程を経ることで、身体への執着心は破壊されます。

自我は消え去り、そして真我だけが輝き出すのです。

心を消滅させる方法の一つに、偉大な魂、ヨーガの達人との交際があります。

彼らはサマーディに熟達しています。

彼らにとって真我実現はたやすく、自然で、永久的なものです。

彼らと親しく暮らし、共感を持って接する人たちは、徐々に彼らのサマーディの習慣を吸収するようになるのです。


【ヨーギー・ラーマイア】

ポール・ブラントン著『秘められたインド』(日本ヴェーダーンタ協会刊)に登場するヨギ・ラミヤーと同一人物。
タミル語の正確な発音はヨーギー・ラーマイア。

978鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/10(月) 22:43:34 ID:1d4drIFg0
肉体が消えても消えない意識が在るのじゃ。
それは唯一つの存在なのじゃ。
そこに至ればもはや苦は無いのじゃ。
永遠に消えることの無い意識なのじゃ。

979避難民のマジレスさん:2019/06/11(火) 12:42:47 ID:jfWCoXjM0
対話35

教養のある訪問者がマハルシに、ドヴァイタとアドヴァイタ(二元論と不二一元論)について尋ねた。

マハルシ

身体と自己同一視することがドヴァイタで、自己同一視しないことがアドヴァイタです。

980鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/11(火) 21:13:22 ID:1d4drIFg0
↑は理論ではない実践によるアドヴィタなのじゃ。
肉体と自己同一化していれば自他の別がある二元論に止まっているのじゃ。
肉体との同一化が無ければアドヴィタであるのが如実にわかるのじゃ。
理論によってアドヴィタに辿りつくのではなく、実践によって全てアドヴィタであることがわかるのじゃ。
そこには論を持つ者も居ないのじゃ。

981避難民のマジレスさん:2019/06/12(水) 12:47:37 ID:jfWCoXjM0
対話36

北インドから気品ある女性の訪問者が個人秘書を連れて正午に到着した。
しばらく待った後、昼食後にホールに戻ったマハルシに質問した。

質問者
 マハーラージ、私たちは死者を見ることができますか?

マハルシ
 できます。

質問者
 ヨーギーは私たちに死者を見せることができるでしょうか?

マハルシ
 できるでしょう。
 でも私には頼まないでください。
 私にはできませんから。

質問者
 あなたは死者を見ますか?

マハルシ
 ええ、夢の中で。

質問者
 ヨーガを通して目標に達することはできるでしょうか?

マハルシ
 できます。

質問者
 ヨーガに関する本をお書きになりましたか?

マハルシ
 はい。


彼女が去った後で、師は言った。

「親戚が生まれる前、私たちは彼らを知っていたでしょうか?
 私たちは彼らの死後についても知るべきでしょうか?」

982鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/12(水) 22:03:13 ID:1d4drIFg0
死者とは夢の中で会えるのじゃ。
眠りの意識は死の意識と同じであるからのう。
人をその意識に導き、死者とあわせることの出来るヨーギもいるというのじゃ。
夢がコントロールできれば何時でも会えるがのう。

983避難民のマジレスさん:2019/06/13(木) 12:55:52 ID:jfWCoXjM0
対話37

質問者
 カルマとは何でしょうか?

マハルシ
 過去世の行為の結果がすでに実を結び始めたものはプラーラブダ・カルマと呼ばれ、過去世で蓄えられ、後に実を結ぶものはサンチタ・カルマと呼ばれます。
 それは村人が、からし菜と交換して得た穀物のように種々雑多です。
 そのような交換用の穀物には米、ヒエ、大麦などがあり、あるものは水に浮かび、あるものは水に沈みます。
 そして質が良かったり悪かったり、どちらでもなかったりします。
 蓄積された多様なカルマのうちの最も強力なものが、次の生において実を結び始めるものであり、それがその生におけるプラーラブダ・カルマとなるのです。

984鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/13(木) 22:46:01 ID:1d4drIFg0
カルマも観念の中でのみあるとされるものじゃ。
観念を超えればカルマもないのじゃ。
悟りを得たヨーギにはカルマが無いとされるのも、そのためなのじゃ。
個我がなければカルマもないのじゃ。

985避難民のマジレスさん:2019/06/14(金) 12:43:30 ID:jfWCoXjM0
対話38

従者の一人が初めてバガヴァーンのもとに来たとき、彼は尋ねた。

「解脱への道とは何でしょうか?」。

マハルシは答えた。

「すでに歩み始めた道が解脱へと導くでしょう」

986鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/14(金) 22:22:27 ID:1d4drIFg0
誰でも自らの道を行くしかないのじゃ。
実践して進んでいくのじゃ。
実践しなければ進歩も無いのじゃ。
実践が全てなのじゃ。

987避難民のマジレスさん:2019/06/15(土) 17:36:57 ID:jfWCoXjM0
1935年3月22日

対話39

R・セシャギリ・ラーオ氏との会話で、シュリー・バガヴァーンは

「真我を実現した聖者だけが良きカルマ・ヨーギーになれるのです」と語った。

マハルシ
 行為者という感覚が消え去った後、何が起こるのか見てみなさい。
 シュリー・シャンカラは無為を勧めました。
 しかし彼自身聖典の注解を書き、論争に加わらなかったでしょうか?
 行為をするかしないかということに煩わされるべきではありません。
 あなた自身を知りなさい。
 そうすれば、それが誰の行為なのかを知るでしょう。
 誰の行為でしょうか?
 行為がそれ自体で完結するにまかせなさい。
 行為者が存在するかぎり、人は行為の結果を受けなければなりません。
 もし自分自身を行為者と見なさなければ、彼にとって行為はないのです。
 彼こそが世俗的生活を棄てた修行者(サンニャーシー)です。

質問者
 自我はどのように現れたのでしょうか?

マハルシ
 それを知る必要はありません。
 現在を知りなさい。
 現在を知らずして、なぜ過去のことに心を悩ませるのですか?


それから、マハルシはある質問にこう答えた。

マハルシ
 世界はあなたの中にあるのでしょうか?
 それとも外側にあるのでしょうか?
 世界はあなたを離れて存在するでしょうか?
 世界があなたのもとにやって来て、「私は存在する」と告げるでしょうか?

988鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/15(土) 23:33:47 ID:1d4drIFg0
行う者がいなければ行うこともないのじゃ。
行為の主体が無いからなのじゃ。
それが無為なのじゃ。
それは勧められてできるものではないのじゃ。
無我になれば行為は全て無為になるのじゃ。

989避難民のマジレスさん:2019/06/16(日) 16:15:15 ID:jfWCoXjM0
対話46

あるブラーフマナ(バラモン)階級の人が質問を始めた。

質問者
 行為が私たちのものかどうかを、どうやって知るのでしょうか?

マハルシ
 行為の結果が影響を与えなければ、人は行為から自由なのです。

質問者
 知的な理解だけで十分でしょうか?

マハルシ
 知的に知るまでは、どのように修練するかもわからないでしょう。
 まず知的に理解しなさい。
 それから、そこで止まらず実践に移しなさい。

マハルシはある所見を述べた。

マハルシ
 あなたが一つの哲学的体系に固執すれば、他をとがめずにはいられなくなるでしょう。
 例えば、僧院の院長のように。

 すべての人が同じ類の行為をするように期待することはできません。
 各人がそれぞれの気質や過去世にしたがって行為するのです。
 叡知(ジニャーナ)、帰依(バクティ)、行為(カルマ)はともに関わり合い、交わり合っています。
 姿形への瞑想はその人の心に応じたものとなります。
 それは他の形を避けて、心を一つの形だけに集中させることです。
 それが目標へと導くでしょう。
 初めのうちから心をハートに固定させるのは無理なことです。
 だからこそ、こういった助けが必要となるのです。
 クリシュナは、「あなたにも、私にも、他の人にとっても誕生はない」と言いました。
 後になって、彼は「私はアーディティヤよりも先に生まれた」と言い、アルジュナはそれに対して抗議します。
 したがって、各自がそれぞれの進歩の段階に応じた形で神を想うのです。

 あなたは、自分は目覚めの状態では身体だと言いますが、眠りの状態では身体だとは言いません。
 個人の身体的存在さえいくつかの層から成っているのですから、神に無限の能力があって当然ではないでしょうか?
 どのような修練方法にしたがおうとも、それは賢者によって奨励されています。
 なぜなら他の方法と同じように、それも目標に導くからです。


【個人の身体的存在さえいくつかの層から…】

この文は前後の文章との脈絡がないため、記録者が2、3の言葉あるいは1、2行の文を記録しそびれたと見られる。
記録者はタミル語を話せない訪問者のために通訳もしていたため、記録は困難だった。
このような記録漏れは、本書の中に何箇所も見られる。
「個人の身体的存在はいくつかの層から成っている」という表現はパンチャ・コーシャ(真我を覆い隠す5つの身体の鞘)を意味している。

990避難民のマジレスさん:2019/06/16(日) 17:11:41 ID:LC3de7YgO
>>989
>行為の結果が影響を与えなければ、人は行為から自由なのです。

これは、OSHOが説明した「無為の為」のことであり、クリシュナが言う、義務を果たすことでありますかね。
(´・(ェ)・`)つ

991鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/16(日) 22:38:47 ID:1d4drIFg0
↑そうかもしれん。
無我に至らなくとも忘我のサマーディにまで到達すれば、主体の無い行為も出来るのじゃ。
行為の結果も望まず、行為が出来るのじゃ。
カルマヨーガと同じなのじゃ。

992避難民のマジレスさん:2019/06/16(日) 23:03:26 ID:LC3de7YgO
>>991
そのカルマヨガは、忘我にすら至らなくても、日常的に意識的に実践できることのような気がするのですが、勘違いでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

993避難民のマジレスさん:2019/06/17(月) 16:17:33 ID:jfWCoXjM0
対話41

質問者
 天国や地獄は存在するのでしょうか?

マハルシ
 そこにはそこに行く人がいるはずです。
 それらは夢のようなものです。
 私たちは夢の中にも時間と空間が存在しているのを見ています。
 夢と目覚め、どちらが真実でしょうか?

賀問者
 ですから、私たちは性欲や怒りなどを除かなければならないのです。

マハルシ
 想念を棄て去りなさい。
 他に棄てるべきものなどありません。
 何を見るにせよ、あなたの存在がそこになければなりません。
 それが真我です。
 真我は常に意識しているのです。

質問者
 巡礼などは良いことでしょうか?

マハルシ
 良いことです。

質問者
 真我に達するにはどのような努力が必要でしょうか?

マハルシ
 「私」が破壊されるべきです。
 真我とは到達すべきものではありません。
 真我が存在しないときなどあるでしょうか?
 それは新たなものではないのです。
 あるがままに在りなさい。
 新しいものは永久ではありえません。
 真実なるものは常に存在しているのです。 

質問者
 叡知の捧げ物(ジニャーナ・ヤグニャ)とは何でしょうか?
 あるいは、その他の捧げ物とは何でしょうか?

マハルシ
 そのためには他の修練が存在しています。
 修練は叡知を得るためのものです。

質問者
 ジーヴァン・ムクタ(生存中に解脱した魂)には異なった種類があるのでしょうか?

マハルシ
 彼らが外的に異なっていることが重要でしょうか?
 彼らの叡知に違いはないのです。

質問者
 一人の師に忠誠を尽くしているときに、他の師を敬うことはできるのでしょうか?

マハルシ
 グルは一人しかいません。
 彼は身体ではないのです。
 弱さがあるかぎり、力の支えは必要でしょう。

質問者
 J・クリシュナムールティは「グルは必要ない」と言っています。

マハルシ
 彼はどうやってそれを知ったのですか?
 実現した後にのみ、そう言えるのであり、その前ではありません。

質問者
 あなたは多大な努力によってこの境地を達成されました。
 私たちのような劣った魂はどうすればよいのでしょうか?

マハルシ
 私たちは真我の中にいます。
 世界の中にいるのではないのです。

質問者
 天国と地獄。
 これらは一体何なのですか?

マハルシ
 あなたは自分の中に天国と地獄を抱えています。
 あなたの欲望、怒りなどがそのような領域を生み出すのです。
 それらは夢のようなものです。

994避難民のマジレスさん:2019/06/17(月) 16:18:56 ID:jfWCoXjM0
質問者
 『ギーター』は「眉間に注意を集中し、呼吸を止めるなら、彼は真我に達する」と述べています。

マハルシ
 あなたは常に真我の中にいるため、それに達するということはないのです。
 眉間はただ注意を集中させるための場にすぎません。

質問者
 あなたはハートが瞑想の座だとは言われませんでしたか?

マハルシ
 それもまた注意を集中させるための場なのです。

質問者
 ハートとは何でしょうか?

マハルシ
 それは真我の中心です。
 真我は中心の中心です。
 ハートとは霊的な中心を表しており、身体的な中心のことではないのです。

質問者
 「ジニャーナ」という言葉は真我実現による知識という意味です。
 同じ言葉が方法としても使われています。
 どうしてでしょうか?

マハルシ
 「ジニャーナ」という言葉は方法をも含んでいるのです。
 なぜなら、最終的にはそれが実現をもたらすからです。

質問者
 知識が不完全な人でも教えることにたずさわるべきでしょうか?

マハルシ
 もし彼のプラーラブダ・カルマ(運命)がそうなっているなら。
 『バガヴァッド・ギーター』の第七章で
 アルジュナは、
 「カルマ(行為)は修練(サーダナ)なのかとうか」と尋ね、
 クリシュナは
 「もし行為者という感覚なしに為されれば、そうである」と答えます。

 カルマを否定する聖典に認められたカルマもあります。
 聖典が認めないカルマとは、行為者という感覚をともなって為された行為です。
 カルマ(行為)を手放してはいけません。
 それはできないのです。
 手放すのなら行為者の感覚を手放しなさい。
 カルマは無意識のうちに続いていくでしょう。
 あるいはカルマはあなたから離れ落ちていくでしょう。
 もしカルマがプラーラブダにしたがったあなたの運命であるならば、あなたの意図にかかわらず、それは為されるでしょう。
 もしカルマがあなたの運命でなければ、どれほど強く求めてもそれは為されないでしょう。
 ジャナカ王や聖者シュカなどは「私」という感覚(アハンカーラ)なしに仕事に従事しました。

 カルマは名声のため、あるいは非利己的に公共の利益のために為されるかもしれませんが、それでも、人々はいまだに賞賛を求めています。
 ですから、それは本当のところ利己主義なのです。

質問者
 それを知ればすべての疑間が解けるものとは何でしょうか?

マハルシ
 疑う者を知りなさい。
 疑う者をとらえれば、疑問は起こりません。
 こうして疑う者は超越されるのです。
 疑う者が存在しなければ、どんな疑いも起こらないでしょう。
 さもなければ、どこからそれが起こると言うのでしょう?
 すべての人が真我実現した人(ジニャーニ)、生きながら解脱した人(ジーヴァン・ムクタ)です。
 ただ誰もその事実に気づいていないだけなのです。
 疑いは根こそぎにされなければなりません。
 つまり疑う者を根元から断たねばならないのです。
 ここに言う疑う者とは、心のことです。
 
質問者
 その修練方法とは何でしょうか?

マハルシ
 「私は誰か?」と問う真我探究です。

質問者
 ジャパをしてもよいでしょうか?

マハルシ
 なぜ「私はこれだ」と考えるのでしょうか?
 探究しなさい。
 すると想念は止まります。
 そうすれば、その後に残る唯一存在するもの、つまり真我は明らかになるでしょう。

質問者
 ハタ・ヨーガは必要でしょうか?

マハルシ
 それは助けの一つにはなりますが、必ずしも必要なものではありません。
 それは人によります。
 真我探究(ヴィチャーラ)はプラーナーヤーマ(呼吸法)よりも優れています。
 『ヨーガ・ヴァーシシュタ」の中で、チューダーラーはシキドヴァジャに自我を殺すための方法としてヴィチャーラを勧めています。

 実現はプラーナ(呼吸)か知性をとらえることによって達成されます。
 ハタ・ヨーガは前者であり、ヴィチャーラは後者です。

995避難民のマジレスさん:2019/06/17(月) 16:21:17 ID:jfWCoXjM0
質問者
 真我を実現した後のジニャーニに人格はあるのでしょうか?

マハルシ
 どうして人格を保ち続けることができるでしょう?

 世俗の仕事であれ非世俗の仕事であれ、年長の人たちは仕事にかかる前にアーチャマナ(水を一口飲む)やプラーナーヤーマ(調息)を勧めます。
 つまり精神集中が仕事を達成へと導くのです。

質問者
 私は「ネーティ・ネーティ」(これではない、これではない)に瞑想しています。

マハルシ
 いいえ、それは瞑想ではありません。
 源を見いだしなさい。
 確実に源にたどり着かなければならないのです。
 そうすれば偽りの「私」は消え去り、真の「私」が実現されるでしょう。
 前者は後者なしには存在できないのです。

【そこにはそこに行く人がいるはずです】

 「天国や地獄に行くと信じている個人が存在しなければ天国や地獄も存在しえない。その個人とは誰か?」ということをマハルシは示唆している。

【叡知の捧げ物(ジニャーナ·ヤグニャ)】

 『バガヴァッド・ギーター』第4章24節から33節は、
 「ブラフマンは供犠である。ブラフマンは捧げ物である。それはブラフマンによりブラフマンである火の中に焼べられる」と説き、感覚器官の制御、自己抑制、財物、学習、知識、気息(プラーナ)などのさまざまな捧げ物を挙げている。
 そして 「さまざまな捧げ物の中でも叡知による棒げ物 (真我の知識を捧げること) が最も優れていている」と説いている。

【眉間に注意を集中し、呼吸を止めるなら…】『バガヴァッド・ギーター』5ー27、28

 外界の感覚的対象をすべて閉ざし、眼を眉間に集中させ、鼻腔内の呼気と吸気を均等にして、心と感覚と知性を制御し、欲望と恐れと怒りを離れて解説を目指す。
 この境地に常に在る者は、まさに解脱している。

【なぜ「私はこれだ」と考えるのでしょうか?】

 このマハルシの答えの部分は1、2行の記録漏れがあると考えられる。
 「私はこれだ」とは、「私」を身体や心、性別や国籍などとの同一視を意味している。

【『ヨーガ・ヴァーシシュタ』(シキドヴァジャと女王チューダーラーの物語)

 マルヴァ王国の王シキドヴァジャと女王チューダーラーは快楽を満たす生活に満足できず、ともに真我の知識を採究した。
 先に真我を実現したチューダーラーの境地を理解できずにいた王は、1人王国を放棄すると森に隠通して瞑想生活に入り、後に残されたチューダーラーは賢明な王国統治をする。
 数年の後、彼女はクンバというバラモンに姿を変えて、苦行する王の前に現れ、隠遁生活や苦行や放棄では真我実現できないことを説き明かし、真我探究によって彼を実現へと導いた。
 2人は賢者として王国に戻り、国を統治しながら自由で幸福な人生を送った。

996避難民のマジレスさん:2019/06/17(月) 16:26:16 ID:jfWCoXjM0

×ともに真我の知識を採究した。
〇ともに真我の知識を探究した。

997避難民のマジレスさん:2019/06/17(月) 21:47:52 ID:LC3de7YgO
>>995
 真我を実現した後・・・人格を保ち続けることができない。
そのことと、
>精神集中が仕事を達成へと導く
ことと、なんの関係があるのでしょうか?

人格が精神集中を邪魔するのでしょうか?
> 私は「ネーティ・ネーティ」(これではない、これではない)に瞑想しています。

マハルシ
 いいえ、それは瞑想ではありません。

念じたり、唱えたりする集中よりも、瞑想は観察が大切と言うことでしょうか?
(´・(ェ)・`)つ

998鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/17(月) 23:09:45 ID:1d4drIFg0
>>992 少しの間ならばできるじゃろう。
 しかし、人は成果の見えない仕事にはやる気を失ってしまうのじゃ。
 心理学でも証明されているのじゃ。
 成果の見えない仕事を延々とやり続けるのは最低でも我を忘れてやるしかいないのじゃ。

999避難民のマジレスさん:2019/06/18(火) 19:27:01 ID:LC3de7YgO
新スレ建てました。
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5 - なんでも避難所 - したらば
URL:
http://jbbs.m.shitaraba.net/b/i.cgi/study/8276/1560853465/n

引続きマハリシの対話録の講読会、お願いいたします。
(´・(ェ)・`)つ

1000避難民のマジレスさん:2019/06/18(火) 19:28:07 ID:LC3de7YgO
(´・(ェ)・`)つ1000

1001鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/18(火) 22:35:02 ID:1d4drIFg0
>>997 そもそも人格などはないということなのじゃ。
 忘我で仕事をすることで効率も良くなるのじゃ。
 自我が邪魔をしないからなのじゃ。
 悟っていない者も人格ではなく、精神の集中で仕事をしているのじゃ。

 そうじゃ、それは瞑想ではないのじゃ。
 観察するための実践なのじゃ。
 全ての観念を否定するのであるからのう。
 その果てにあるアートマンを見出すための実践なのじゃ。

1002避難民のマジレスさん:2019/06/19(水) 02:45:04 ID:LC3de7YgO
>>1001
鬼和尚ありがとうであります。
そうでありました。
そもそも人格などはないのでありました。精神の集中が大切でありたすね。
で、その集中力で観察するのでありますね。


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