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エスペラント改造論

1やぱーの@管理人:2006/10/12(木) 17:46:51

申し訳ありません。すでに、このスレを立てたのですが、タイトルが「敢えて...」でした。
管理人初心者でしたので、お許しください。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1158318733/l50
改造論のスレを立てます。アルファングル以外は、こちらでどうぞ。

209松戸彩苑:2007/12/09(日) 15:10:10
>>204
まさか私が「エスペラント運動の邪魔をしている」と思われてるとは思いませんでした。

たしかに私は、現在のエスペラント運動に対していろいろな批判を行なっておりますが、し
かしこれはあくまでも「現在のエスペラント運動のありかた」を批判しているのであって「エ
スペラントの存在意義」なんかを否定してるわけではないんですね。

だいたいエスペラントの存在意義を否定したいのであれば、わざわざ「エスペラントの辞書
を何冊も調べる」なんていう面倒くさいことをするわけが無いじゃないですか。

私が現在、エスペラントの団体にまったく所属していなかったり、エスペラントの雑誌をまっ
たく購読していなかったりするのは、自分の考えに集中するためなんですね。
編集に携わっておられる方たちにはたいへん申し訳ないのですが、私の場合、エスペラン
トの雑誌がチマチマと送られてくると、そっちに気が取られてしまって、自分の考えに集中
できないんですね。

それで、ここ数年はそういったものをすべて絶ってるという事であって、そのうちに再入会し
ても良いとは思ってるんですよ。

210松戸彩苑:2007/12/09(日) 15:11:30
>>209 の続き)

もっとも「批判は判るんだが、しかし日本語で書かれるのは迷惑だ」という考え方があるの
は、私にもよく判ります。
私も何ヶ月か前まではそのように考えていたのですが、しかし最近では、そうではないと考
えるようになりました。

KamelioJapana さんは「この掲示板の多くの意見を参照して、粗100%、Eに否定的見解
を持ってしまうと危惧」しておられるようですが、しかしあっさり言いますと、世間の人たち
はもともと、エスペラントに対して「肯定的見解」なんか持っていません。

それは「週刊金曜日」でさえも、UK横浜大会に関する記事をまったく載せなかったりといっ
た事からも判ることです。
これは要するに「週刊金曜日」の編集部の人たちでさえも「エスペラントの現在的な意義」
というものを認めていないという事なのだと思います。
認めたくはないでしょうが、これが現実です。

世間一般というのは、基本的にそういったものなのですが、しかしそういう世間のなかにも、
ときにはエスペラントに興味を覚えて、インターネットで検索する人もいるわけですね。
で、そういう人たちが、この掲示板にやってくる事もあるわけです。
この人たちがこの掲示板の書き込みを見て、どう思うでしょうか?

もちろん、人によっても違うでしょうけれども、彼らの多くは「エスペラントは昔は盛んだっ
たが、今は無くなった」と思っている場合が多いので、「意外と使用者がいるんだ」と思うの
ではないでしょうか。

それから、この「エスペラント改造論」のスレを見れば「エスペラントの表現力が予想以上
に高い」ということに気づいて驚くのではないでしょうか。
というのも、世間の人たちはエスペラントのことを「Basic English に毛が生えた程度のも
のだ」くらいに思ってるようだからです。
エスペラントをやったことのない人には「エスペラントの表現力がどの程度あるのか」なん
てことは判るわけがありません。
「エスペランティストたちはエスペラントのことを、学習容易でレベルも高いんだ、なんて言
ってるけど、そんなに良い事づくめであるならば、もっと使用者がたくさんいるはずだ」「広
まってないんだから、どうせ嘘なんだろう」くらいに思われてるのだと私は思うのですが、
「エスペラント改造論」のスレを見れば、日常生活で必要となる語彙・表現を網羅しようとし
ていることが判りますので、そういった誤解はかなり無くなると思うんですね。

むしろ、世間の人たちがこの掲示板を見て最も失望するのは、エスペランティストが「これ
までのやりかたは100%正しいんだ」と書いてることなんだろうと思いますね。

これまでにも何回も書いてきたことですが、エスペラントというのは世間においては、UFO
や幽霊に関する話よりも見聞きすることが少ないものなんですね。
だから世間の人たちからは「完全に失敗した」と思われてるわけですし、「週刊金曜日」の
編集者のような人たちからも相手にされないわけなんですが、そういった現実にまったく
気づかずに「これまでのやりかたは100%正しい」などと言ってるのでは、誰だって「お先
真っ暗だな」としか思わないと私は思うんですね。

エスペランティストたちは、エスペラントの世界にドップリと浸かっていて、日常的にエスペ
ラントの文章を読み、たまにはエスペランティストと会ったりするという生活を何(十)年も
続けていますので、そういう世間の感覚が完全に判らなくなってるわけですが、それでは
世間の人たちと話をしても噛み合わないんですね。

自画自賛みたいになってしまいますが、私は「エスペラントというのは、それなりによく出来
てるように思われるのに、どうして普及しないんだろうか」という疑問をいだきつつエスペラ
ントを勉強してましたので、エスペラント界の常識に単純に染まらないように注意していま
した。
それで、エスペラントの世界にも通じつつ、世間の人たちの感覚も保持する、ということが
出来たのだと思います。

ということで、今では私は、この掲示板において日本語でエスペラント批判を展開しても大
丈夫だろうと考えております。

(終わり)

211松戸彩苑:2007/12/09(日) 16:58:13
>>206
外の人さん、はじめまして。

エスペラントをやっておられない方のようですが、そういう方が私の文章を読んでくださっ
ているというのは、なんとも不思議な感じがしますね。

私も大いに励まされました。

212KamelioJapana:2007/12/09(日) 21:48:06
松戸様がEの有効性を認めていることを知って安堵しております。
今後も世間一般とE運動とを公平に見ていただいてコメントを頂けるものと期待して
おります。

そこで、私の意見と反論を少々述べさせていただきたいと思います。
まず、
>私の場合、エスペラントの雑誌がチマチマと送られてくると、そっちに気が取られてしまって、
自分の考えに集中できないんですね。

私も様々なEの機関紙や雑誌に埋もれており、時にはそれらが厭わしく思うこともあります。
殆どのものは、目を通すだけで、気に入ったり重要だと思われる記事の拾い読みだけで精一杯です。
購読会員の反対の非購読会員(年一回くらいの報告だけで雑誌は送らない)の様な類のものが
あってもいいと思ったりもします。
しかし、E運動へ私なりの出来るだけの貢献の一つということで、溜まっていく雑誌を横目で
見ながら、様々な会員資格を維持しております。

そこで、松戸様への提案ですが、UEAには年鑑会員(機関紙はなくて年鑑のみ配布)という
制度がありますが、そういった会員になっていただければ幸いに存じます。
すでに会員でおられるかも知れませんが。。。

次に、
>世間の人たちはもともと、エスペラントに対して「肯定的見解」なんか持っていません。
という言及ですが、
これは、誤解を生む表現、と言うより実態を反映していないものだと思います。
そこで次の様に言い換えては、如何でしょうか。

(世間の人たちはもともと、エスペラントに対して「肯定的見解」、「否定的見解」
を持つどころか、その前にその存在すら知らない人が多い。)

私がEについて話をした範囲では、そういう方が、特に若い方たちには圧倒的に多かったです。
そして、彼らの殆どは、Eについての説明を聞いて、これまた圧倒的に肯定的に受け止めて
くれた方が多かったです。

すなわち、この掲示板を訪れる人のことですが、私が言及したのはEにあくまで
「肯定的」な方のことです。何故って、これから学習しようとする人や、学習に
入ったばかりの人ですから。単に「Eはどうなったか。」という世間一般の一部の人のこと
ではありません。
それは、Kontekstoをお読みになれば、よくお分かりかと思います。

また、「Eはどうなったか。」という類の人が、この掲示板を読んでEを学習する気に
なる方は、まずいないでしょう。
勿論、これは、松戸様と私の感じ方の違いなのかも知れませんが。。。

213KamelioJapana:2007/12/09(日) 23:32:11
>>208
papageno様。
お気持ちは分かりますが、受け入れられるのは無理でしょう。
日本人以外の殆どの人には、文脈が無ければ理解されないでしょう。
また、文脈を把握できる人は敢えて特定民族で使われている動詞を新たに使用
することは、物好きか、余程、日本びいきの人で無い限り現れないでしょう。

でも発想は愉快ですね。

むしろ、日本特有の表現に限り広めるが好いでしょう。
例えば、 motajnas

Fordoni restajxon de la mangxajxo motajnas.

Estas motajne, ke oni mendas pli multe da sakeo ol efektive trinkas.

214松戸彩苑:2007/12/10(月) 01:07:11
>>212
> (世間の人たちはもともと、エスペラントに対して「肯定的見解」、「否定的見解」を持つど
> ころか、その前にその存在すら知らない人が多い。)
>
> 私がEについて話をした範囲では、そういう方が、特に若い方たちには圧倒的に多かった
> です。
> そして、彼らの殆どは、Eについての説明を聞いて、これまた圧倒的に肯定的に受け止
> めてくれた方が多かったです。

まぁ確かに、若い人たちの場合は「そもそも知らない」ということが多いでしょうね。
それは認めますよ。
しかし、年配者の場合は、けっこう知ってると思うんですよね。

たとえば「週刊金曜日」の場合ですと、2005年には、本多勝一氏とエスペランティストの
木村護郎クリストフ氏との対談が何回にもわたって掲載されてるんですよね。
これは本多氏が同誌に連載している「貧困なる精神」の枠内で実現したものですが、これ
は本多氏が熱心なエスペラント支持者であることから実現したわけですよね。
また「週刊金曜日」の編集委員のなかでは、佐高信氏もエスペラントの応援をしてるわけ
ですね。

そういうことがあるわけですから、「週刊金曜日」の編集部員もエスペラントを知らないわけ
ではないわけです。
(もっとも、最近、編集部員になった人だと知らないかもしれませんが、しかしそんなにゴッ
ソリと人が入れ替わるとも思えません)
しかしそれにも関わらず、UK横浜大会の記事は出なかったんですね。

「週刊金曜日」の編集委員のなかでも、筑紫哲也氏は、エスペラントに懐疑的な発言をした
ことがあります。
椎名誠氏の場合は、おじさんにエスペラントをやってた人がいたはずですが、本人がエス
ペラントについてどう思っているのかは判りません。
落合恵子氏の場合は、長谷川テルに言及したというのを確かRO誌で見たような記憶があ
るんですが、自信はありません。
石坂啓氏の場合は、エスペラントに言及したという話を見た記憶はありません。

また、RO誌には、日本国内の新聞・雑誌・書籍などに載ったエスペラントに関する記述を
集めた「El la japana gazetaro」というコーナーがありますが(今でもあると思いますが)、こ
れなんかを見ていても、「理想は素晴らしかったが、非現実的すぎて失敗した」ものの喩え
としてエスペラントが使われている事がけっこうあるんですね。
ということは、やはり年配者のあいだでは、それなりに知られているのだろうと思います。

また、最近私が読んだ『宗教学キーワード』(有斐閣 2006年)という本のなかにも

> エスペラントという「国際語」があった。この言語は、諸国民が平等の立場で交流すると
> いう理想を担って19世紀につくられた。いまや英語が事実上の国際語であるが、このこ
> とは、英語が母国語である人に有利過ぎ、また英語以外の母国語をもつ人にとって不利
> 過ぎる。こうした疑問をもった人が昔にもいたのだ。

(同書84ページ)

と書いてあります。
なお、この文章を書いた葛西賢太氏は1966年生まれだそうです。

また、1985年3月7日のニュースステーションにおいて「消えたエスペラントの謎」というの
を流したこともありましたしね。

それから忘れてならないのは「エスペランティストの家族や知人が、エスペラントに好意を
示してくれない」ということがごくごく普通にあるって事ですね。
彼らの場合は、はっきりと「知っているのに支持していない」わけです。

ということで、知らない人が多いのは事実ですが、しかし「知らないから支持してくれないの
だ」としか考えないというのは、はっきり間違ってると思いますね。

215松戸彩苑:2007/12/10(月) 01:14:36
>>212
私だって「エスペラントはすでに、かなりのレベルに達している」ことはちゃんと認めたうえ
で議論しているわけですよ。

それは、このスレにも折にふれて書いてきたと思うのですけどね。

216KamelioJapana:2007/12/10(月) 06:49:57
松戸さま。
仮令、どちらかと云うと左派的で理想主義に燃える人でもある程度の年齢までに
Eを実践する機会が無ければ、世界の現況から云って、肯定的にはなれないですよ。

勿論、極少数の例外は、常にありますかが。。。

それから、Eがいくら易しいと言っても大多数の民族語同様に現代社会において、
使用に耐える条件を満たしているものなら、易しさも程度問題ですから、一定の職業に
ついてしまってからは、殆どの人は火の中の栗を拾う行冒険はしないでしょうね。

私の知り合いの多くの人が、かっては、社会主義の理想に燃えてた方でも、リップサーヴィス
だけで、Eを学習することなど思いも寄らないことなのです。

それでも、若い人の中では、その係わり方しだいでEを始める人も出てきます。
こちらから、打って出るためには、その有効性を例証するために相当の時間を
費やす覚悟が要りますがね。
私の妻や娘がそうでした。

そういう訳で、兎に角、1にも2にも少しずつでも良いからEsperantujoの量的、質的
な拡大のみです。時代によって、また人の意識も変わってきますから。。。

世界や日本の政治も、昨今、変わりつつあります。そのうちEにとって良い兆候も
現れて来るでしょう。世間の移り変わりの激しい表面的様相に惑わされてぶれない
ことも必要です。

217papageno:2007/12/11(火) 18:01:59
まあよく考えてみれば、ほぼ100%ヨーロッパ語であるエスペラント自身を「国際化」できもしないくせに、エスペラントを国際共通語にしようなんて、おこがましいと思いませんか?

218Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/13(木) 15:38:31
はたからみて思ったものの、ここってあまりコンテンツ創造とかする人がいませんね。
読み物を書いたり、絵を書いたり、まとめサイトっぽいものや英訳とか。
そもそもひたすらエスペラント掲示板なのに「ひたすらエスペラントで話すスレ」がないのも、
やっぱり、言語自体に需要がないことの証左かなと思ったり。

(エ)konjekte, humanoj en la afis^ejo pensas polemiko de teologio havas pli valora ol polemiko de lingvistiko.
  推量するに, 人間ら 中 the 掲示板 考える 議論 の 神学 持つ より 価値 よりも 議論 の 言語学

(英)The humans in this BBS seem to think that a theological argument has value than the linguistic argument.

(ア)lun kaen slei tu os-e mirs e mirfol van mirs e eldfol av-e xad in
  人間 での 掲示板 これ 考-る 議論 の 神学 > 議論 の 言語学 持-つ 価値 らしい

(日)この掲示板における人間らは神学の議論が言語学の議論よりも価値を持つと考えるらしい。

>>217
そういう人はノシロがお勧め。逆に分かりにくくて驚くかも。

219Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/13(木) 16:02:13
(エ)atmosfero de la Nos^ilo similas al la Esperanto c^ar c^i tio estas lingvo internatia.
(英)the atmosphere of Noxilo resembles Esperanto because it is an international language.
(ア)xalte e Noxilo et kik al Esperanto man tu et kadrakeld.
国際語だからノシロの雰囲気はエスペラントに似ている。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~noxilo/

どちらもなんとなく胡散臭い宗教臭が・・・・・・・。

まぁ、アルカも遊びのわりに宗教臭はするけど。
arka@wiki http://www33.atwiki.jp/kakis/

人工言語一般の議論はこちら
人工言語憩いの場 http://yy59.60.kg/conlang/

220Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/13(木) 16:05:49
ちなみにノシロ語の掲示板はこっち http://6713.teacup.com/xangaaukeet/bbs

221KamelioJapana:2007/12/14(金) 10:14:21
>ここってあまりコンテンツ創造とかする人がいませんね。

この掲示板の役割はある程度限定されたものです。
Kakis様がお知りにならない音楽から文芸に至るまでEのサイトは沢山存在しています。

それに今の処は、機関紙や文芸誌がそのような分野をカヴァーしています。

222KamelioJapana:2007/12/14(金) 10:47:00
>それに今の処は、機関紙や文芸誌がそのような分野をカヴァーしています。

大変、失礼な書き込みをしてしまいました。
機関紙や文芸誌、それからE書籍等があくまでCxefrolajxojです。

223Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/14(金) 22:36:14
Cxefrolajxojといっても素人はどこが区切りめだか分からなかったり。
たぶんメインコンテンツという意味だと思いますが。

北海道エスペラント連盟のアイヌ神話のエスペラント訳は評価できる活動だと思いました。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~hel/jukaroj.htm

224papageno:2007/12/14(金) 23:37:43
>>217
プラハ宣言で、「エスペラントの共同体にとっては、言語の多様性は尽きることなく欠くことのできない豊かさの源泉である。」と高々と謳(うた)っておきながら、
http://www.jei.or.jp/hp/materialo/prago_j.htm
エスペラントの基本的語彙に非ヨーロッパの言語を取り入れようというような話は全く聞いたことがありません。

この宣言に一体何の意味があるんでしょうね?

225papageno:2007/12/15(土) 03:08:22
>>224
自己レスですが、改変不可の「エスペラントの基礎」には文法だけでなく基本語彙も含まれるんですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AE%E5%9F%BA%E7%A4%8E

これではエスペラントを非ヨーロッパ化するのは難しいですね。「憲法改正」が必要かも。

226Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/15(土) 10:22:15
>>225
新語を自由に幾らでも作って使ってもいいですよ。根本的に勘違いして
らっしゃるようですね。

227papageno:2007/12/15(土) 17:38:41
>>226
新語じゃないんですよ。たとえば「顔」は vizagxo で、これは「エスペラントの基礎」(Fundamento de Esperanto)で定められた改変不可の単語ですが、これをたとえば日本語の kao に置き換えようということです。
私は改変不可なのは文法だけだと思っていたのですが、「エスペラントの基礎」にある基本語彙も改変不可なんですね。

228Raku ◆yP0a9GGqWA:2007/12/15(土) 21:23:46
>>227
お好きなようになさったらいいのです。誰の許可も要りません。

229papageno:2007/12/15(土) 21:44:30
>>228
>誰の許可も要りません。

確かにその通りですね(笑)。

230Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/15(土) 21:56:53
エスペラントは、別に非欧米化の必要はないと思いますが。
いろいろ混ぜても混乱しますし。っていうか現状でもかなり混ぜすぎという感じがします。
どうせならゲルマン系とスラブ系は排除して、ラテン系語彙だけでやってくれたほうが統一感があります。
混ぜれば確かに、日本語由来語も増えますが、
どちらかというとスワヒリ語やナヴァホ語やスー語などのよく分からない言葉が多すぎて日本人にとっても、
欧米人にとっても、アフリカ人にとっても分かりにくいことに。
どの民族にとっても分からない語彙が99%というのは、もはや暗号と同じです。
それに、言語の数は1万近くあるわけで、全てをカヴァーするのは不可能に近いものです。
混合されてない言語の話者にとっては逆に不公平感が増して訴えられますし。
それに、世界中の言語の単語を入れようとすると母音の数は5では足りずに20以上要りますし、
子音も100近く、それに声調も強弱でなく8パターンあって、クリック音などのレア音も出るなど凄まじいカオスに。
それだったら、現状のそこそこ統一感のある語彙体系でいくか、
全て自然言語に由来しないオリジナルの単語で作られた人工言語を作るかの2つに一つ。

と、セレン氏のノシロ批判を思い出しながら書いてみる。

231Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/15(土) 22:04:04
不満があるときは、自分で作るのが一番早いらしい。

人工言語の作り方 http://lanxante.higoyomi.com/rcp.html

232なつ:2007/12/16(日) 04:58:29
父をpatricxoとするのは憲法違反にあたるんでしょうかね?
それとも許容範囲なんですかね?

233KamelioJapana:2007/12/16(日) 06:49:07
Kakais様。
私は、貴方の知識を高く評価いたしております。
が、行く道が違うのでしょうね。
まあ、お好きに書いてください。

人口言語の完成品を追い求めるのも好いのですがね。
現実の世界では、不可能に近いことですよ。ソモソモ、人間自体お互いの不完全
さの中で大多数の人たちは相対主義的に生きているのですから。。。

でも、あなたの師事(それとも支持の方かな)するセレン氏は、なるほど、アルカ
の創作という点では類稀な発想を示したかも知れませんが、人間的には私は許せませんね。

彼の私に対する以下の言動で彼の作品の評価は将来性において致命的打撃を被ったと
思いますよ。

以下、長くなりますが彼の言葉の引用です。
「>Kamelio 投稿者:セレン 投稿日:2007年11月 6日(火)22時29分3秒
あと、Kamelio。
まだこの板に張り付いているだろうから言っておく。

この場所はお前にとって不利だ。正直言ってここでお前を叩くのはフェアじゃない。
気に喰わない。
だから、続きがやりたいなら場所を移せ。そして真っ向から俺狙いで来い。
その代わり黒田さんたちの憩いの場を壊すな。

俺は喧嘩早いが、喧嘩する相手は常に男だ。しらんだろうが俺はKakisさんや黒田さんとも
派手に喧嘩したことがある。特に前者。
でも喧嘩したのは相手を対等に見ているからだ。実生活でもネットでも見事に一致していて、
俺は一度やりあった相手じゃないと仲良くなれないようでね。

その観点からいえばお前は喧嘩の相手にならない。はっきりと見下してるからな。
でもそれは俺だけじゃないと思う。お前のその態度じゃどこにいっても同じだよ。
周りがこれ読んで反論すればと色々教えてくれてるのにさ、お前は一度も聞かなかったよね。
それで自分の好きな玩具を手にとって「ほら見てよ見てよ」って、そんなに誰が見る?
お前、画面の向こうでそうやって暮らしてるのか?それでエスに流れ着いたのか?

違うだろ、そのやりかた。少なくとも合ってはないだろ。
今のお前じゃ俺はおろかここにいる人間からみて喧嘩相手にすらならない。
だがここ2週間くらいの付き合いで何となく情が移ってしまったから、忠告しておく。

別にエスをどう言おうと、本質的にここの人間は否定しないと思うよ。
問題は人のレスを反映しないことや人の言うことを聞かない態度にある。
これ以上お前がその態度を続けるなら、エスももうお前のことは面汚しにしか思わない
だろうし、こちらも見下げ果てるだけだ。そうなったらお前は名前を捨てて
どこかへ行くのか?それでいいのかよ、カメリオ。よくねえだろ。
考えろ。自分の曖昧さや甘さに辟易するが、俺はお前が歩み寄りを見せれば受け入れてやる、
今度は敵としてな。以上。」

独りよがりは、セレン氏自身ですね。私について、ネット以外でどのような情報を
得ているのか知らないが、自己中もいいとこですな。
まあ、kakis様以外この掲示板の参加者には前後の脈絡がないので分からないと
思いますが。。。
少なくとも、突然予告もなくこういう言動をする人がアルカ語の将来を担って
いけるのでしょうか。
尤も、他のkasxnomoで似たような言動があった様ですけど。。。

234松戸彩苑:2007/12/16(日) 07:26:26
>>232
別に構わないように思いますね。
もっとも、エスペラントがよく出来る人にはスンナリと通じるでしょうが、初心者だと判らない
と思いますが。

しかし、patr- に -iĉo を付けるのは「性差別を減らすのに役立つ」とお考えになってるの
でしょうけれども、そういうことを考えるのであれば、そもそも「母」という概念を表わすのに
patr-(父)という語根を使っているという時点ですでにダメだと思うんですよね。

それから、「男性形から女性形を派生させる」というのは、別にエスペラントに限ったことで
はなく、ドイツ語やフランス語などでもそうなんですね。
もっとも、さすがに「母」を「父」から派生させる、などという事はありませんが、日本語であ
れば男女に関係なく「学生」というところでも、ドイツ語では Schüler(男子学生)、Schülerin
(女子学生)、フランス語では étudiant(男子学生)、étudiante(女子学生)と必ず区別して
いるんですね。
ということで、この点では、日本語のほうがドイツ語やフランス語よりも「性差別が少ない」
という事になりますが、しかしだからといって、日本と比べてドイツやフランスのほうが性差
別が激しいというわけでも無いんですね。

もちろん私も、エスペラントにおいて、必要なとき以外は、性別を表わさないようにしたほう
が良いとは思っています。
要するに、student-ino のような言い方は、必要なとき以外はしないという事です。
しかし、こういったことに過剰にこだわるというのも、どうなのかな、と思うんですね。

235松戸彩苑:2007/12/16(日) 08:01:31
  papageno さんへ

「エスペラントの基礎的な部分を、日本語から採用した単語と取り替えたらどうか」というお
話ですけど、しかし、そのように考えるのであれば、どうして中国語・ヒンディー語・アラビア
語・ベンガル語・インドネシア語などからは単語を採用しないのかと思いますね。

Kakis Erl Sax さんが >>218

> そういう人はノシロがお勧め。

と書いておられますが、私もノシロが papageno さんの主張に近い言語だと思いますね。
ノシロなら、世界各国の言葉から単語を採用していますし、また語順も、日本語式・英語式
の両方が使えるんですね。
また「語尾が変化する」ということも無いみたいですから、きわめて合理的だと思うんですよ
ね。

ここでノシロに対する私の意見を紹介しておきますと、(単語の憶えやすさは別として)コン
セプト自体はかなり優れていると思うんですよね。
しかし困ったことに、創始者である水田氏が、ノシロで書いた文章を発表しないんですね。
水田氏がノシロの文章をどんどん発表すれば、それなりに支持者が出てくるんじゃないか
と思うんですが、そういう事をするつもりは無いみたいですね。

私は以前、この掲示板に「いろんなタイプの人工語があったほうが良い」と書いたことがあ
ったんですが、それは、人工語に求める要素というのは人それぞれであり、これを統一す
ることは絶対に不可能だと考えているからなんですね。

もちろん、エスペラントの改造について論じること自体がいけないわけではないんですが、
しかし papageno さんの主張を実現するという場合には、エスペラントを改造するというの
は、かなり効率が悪いことのような気がします。

236papageno:2007/12/16(日) 09:23:40
>>235
>どうして中国語・ヒンディー語・アラビア
語・ベンガル語・インドネシア語などからは単語を採用しないのかと思いますね。

いや、単に私が日本語と多少の韓国語以外知らないというだけの話で。それと
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/7882/1167391996/584
に書いたように、日本人にとっては、エスペラントの基本語彙に日本語の語彙が入っていたらもっとエスペラントに親しみが持てるのではないかと思って提案しているのであり、より優れた人工言語を作ろうという発想で言っているのではありません。エスペラント以外の人工言語に今の所特に興味はありません。

それとそもそもは2ちゃんねるのエスペラント関連スレ(これは私にとって「尽きることなく欠くことのできない豊かさの源泉」ですが)でいろんな人が言っていることの受け売りにすぎません。例えばこの辺りとか
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/gogaku/1187078117/113-117

さらにノシロよりもずっと前にこのような非ヨーロッパ系の言語を取り入れた人工言語案はありました。1927年にチェコスロヴァキアのミルネルという牧師が「コスマン」という言語案を発表しましたが、それは語彙の30%を中国語、アラビア語、ヒンディー語から採用したということです(二木紘三「国際語の歴史と思想」より)。

237松戸彩苑:2007/12/16(日) 11:15:13
>>236
> 世界中の非ヨーロッパ人エスペランティストが、自分の民族語を取り入れたエスペラント
> を作って、共通エスペラントと併用してみる。そのうち各エスペラント方言から共通エスペ
> ラントにいろいろな語彙が採用されるようになって、やがていろんな言語が程よく配合さ
> れたミックスジュースができるかもしれません。

ノシロなんかは「いろんな言語が程よく配合されたミックスジュース」だと思うんですけどね。
どこが違うんでしょうかね?

言語について勉強すると判るのですが(もっとも、私もシロウトなんですが)、標準語という
のは、自然に出来たり、あるいは自然に広まったりはしないものなんですね。

日本語だけではなく、英語・ドイツ語・フランス語・中国語なんかの標準語も、かなりのてい
ど人為的につくられたものであるらしいです。

また、社会には政治的・経済的・文化的な優劣というものがありますが、優位にある言語
が劣位にある言語を駆逐・破壊しつつ、広まったり統一されたりするんですね。
逆に、そういった優劣が無い(あるいは少ない)と、統一されずにバラバラなままなんですね。

もっとも、エスペラントの世界でも、このあたりのことが判ってない人が多いんですね。
ですから、いまだに「エスペラントは自然に発展し、統一もされていくんだ」などと信じられ
ているんですが、実際には、そううまくは行ってないんですよね。

そもそも、こんなことを言い出したのはザメンホフなんですが、結局ザメンホフ自身が誤解
してたって事なんですね。
でも、ザメンホフは19世紀なかばに生まれて20世紀初頭に亡くなった人ですので仕方が
ないのでしょうが、21世紀を生きてる人たちが、こんなことを信じていてはいけないと思い
ます。
---

ところで現在でも「日本独自のものを表わす単語をエスペラント化する」というのは認めら
れているわけですね。
こういったことは(中国文化圏・インド文化圏・アラビア文化圏などに特有な事物のエスペ
ラント化と同時並行的に)どんどんやっていくべきなんですね。

たとえば「コタツ」を表わす単語として kotaco という新語根が提案されていたりするわけで
す。
こういうのは、あんまり使われてはいないわけですが、しかしその一方で、批判する人も
(ほとんど)いません。

で、私も「やっぱり kotaco って言い方しか無いんだろう」と思っていたんですね。
しかし最近、Wikipedia で各国語の「コタツ」の表現法を調べていたんですが、中国語のペ
ージに「暖卓」って書いてあるのを見て hejt-tablo と表わすことが出来るということに気づ
いたんですね。

とは言っても、私は「kotaco を使うべきではない」とまでは思いません。
hejt-tablo と kotaco の両方を使えば良いと思います。

(終わり)

238松戸彩苑:2007/12/16(日) 11:59:06
>>237 に補足しますが、中国にはコタツは無いみたいですね。
「暖卓」というのは、あくまでも日本のコタツを表わす表現として作り出されたもののようで
す。

239なつ:2007/12/17(月) 03:36:35
母語の語が少し入って親しみがわくからって理由だけでノシロみたいな
しろものは語が覚えづらいだけですね。
しかも語が採用されない母語話者は必ずいるもので、
ノシロはそれを考慮していず逆に差別を生んでいると思います。
エスペラントが素人がヨーロッパしか考慮せず作ったおかげで
逆に統一性があるし、
インド・ヨーロッパ語族の母語話者、第一外国語学習者が
より容易に覚えることができます。
もちろん我々日本人も英語を学んでいるので、
フィリピン語やアラビア語の要素のないエスペラント
をむしろより容易に覚えることができるのです。

240KamelioJapana:2007/12/17(月) 06:57:08
>>239
簡潔で分かりやすいです。

まさに英語は、諸刃の剣で、皮肉なことにEの普及の下地作りには貢献しているわけです。

241Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/18(火) 00:16:06
前後の脈略というと以下のurlの2007年10月18日(木)05時17分58秒以降の記述をご覧ください。
http://8511.teacup.com/conlangarchitect/bbs?OF=1200&BD=2&CH=5&REV=1&REV=1

それの前段階として、エスペラントよろず掲示板のキャッシュをみると分かりやすいようです。
http://www33.atwiki.jp/kakis/archive/20071022/f439316f18cb0c7d33cb76e621526a0e
http://www33.atwiki.jp/kakis/archive/20071022/0aca6ed2f92b1702d75d37790d327c38

→相当都合が悪いと思われる通時論発言が削除されたキャッシュ。
http://www33.atwiki.jp/kakis/archive/20071023/0aca6ed2f92b1702d75d37790d327c38

たぶん、この発言が真理過ぎて禁句だったらしい。
よくよく考えると、人工言語はプログラム言語やシソーラスや分類法の素地となる
近代科学技術の素地となったオカルトチックな魔法技術だというのに気付いている人は少ないようです。
そして、錬金術のように未だに水銀と硫黄で金を作ろうとしているのが国際補助語運動だとか・・・・・・。
国際補助語目的というのは人工言語としての用途が間違っているというのが、新生人工言語論の主張。

>錬金術は金を生み出しませんでしたが、様々な化学物質と近代化学を生み出し、
>人類に大いなる恵みをもたらしました。
>人工言語はアダムの言語・普遍言語・国際補助語を生み出しませんでしたが、
>シソーラスと図書館分類法とプログラム言語を生み出しした。
>人工言語は錬金術と同じく近代科学を生み出したオカルト的な事物。
>錬金術は科学者からは、水銀と硫黄と血液なんかで金を作れるものかと
>冷笑されてもフィクションの世界で生き残り、
>人工言語も軍事力も財力もなしに普及できるものかと、
>言語はすべからく変化するもので統一は速やかに損なわれると、
>文化や語法の厳密な設定なしに誤解のないコミュニケーションが出来るものかと
>言語学者に冷笑されつつも映画・テレビ・小説などのフィクションの世界で輝きを放っています。

242なつ:2007/12/18(火) 01:25:34
>>241
あなたが何をしたいのか分かりかねるが?

243なつ:2007/12/18(火) 01:39:06
>>242
は申し訳ない。削除します。

244Kakis Erl Sax ◆CcpqMQdg0A:2007/12/18(火) 12:07:08
>>242
とりあえず、暇つぶしがしたいと思っているかも。
この手の神学論争は好物なので。
いろいろ争いの種をばら撒いた方が、人工言語界もエスペラント陣営も盛り上がって、
読んでいて楽しいので。

命数法みたいに批判記事みたいなのを書いて、それが誤解だったら、
その説明のレスが付いたりして、勉強になって面白いというのもあります。

245松戸彩苑:2008/01/19(土) 17:25:59
私は >>178 に「girl hunt は和製英語」と書きましたが、長村キット(著)『こんなときどう言
う英会話辞典』(1999年 講談社)という本の163ページに

  ナンパする Look for action. Go trolling. (Girl hunt という表現はもうふるくさい言い方
  です)

と書いてありました。
つまり girl hunt という表現は「かつては英語圏で使われていた」が「今では使われていな
い」ものだったんですね。

この本の著者は、ブラウン大学を卒業したアメリカ人女性で、日本の大学で英語の講師を
したり、英字新聞に寄稿したりしているらしいので、信頼できると思います。

246松戸彩苑:2008/02/11(月) 16:19:57
私はかつて >>24 において「ses と sep は耳で聞いて区別しにくいから、sep を hep か ep
にしたらどうか」と書きましたが、ついさっき『エスペラント日本語辞典』を見てましたら、偶然
に次のような記述を見つけたんですね。

  sepen (数)(俗) 七 〔本来の sep(七)が ses(六)と聞き誤りやすい場合に区別するた
  めに用いる〕.

で、NPIVを調べますと、やはりあったんですね。

  sepen ≪Sep≫ en la slango de la radioamatoroj, uzata por ke la aŭdanto ne konfuzu
  kun ses.

ひょっとすると旧版のPIVにも載っていたのかな?と思って調べてみましたが、旧版のPIVと
その補遺には収録されていませんでした。

また、『Neologisma glosaro』(第2版)と『Nepivaj vortoj』(第1版)も調べてみましたが、これ
にも載っていませんでした。

247松戸彩苑:2008/02/23(土) 03:30:28
みなさんは -enzo という接尾辞をご存知でしょうか?
これは kolor-ig-enzo(着色料)のように使われます。
つまり -enzo は「〜する薬物」という意味なんですね。

今までですと kolor-ig-ilo あるいは kolor-ig-anto のように言うこともあったわけですが、
これだと「着色する際に用いる道具(たとえば刷毛やスプレーなど)」や「着色している人」
と区別がつかないという問題がありました。
ですから、それらとの混同を避けるために、新しい接尾辞を導入したってことなんですね。

この接尾辞はまだあまり使われていなくてNPIVや『エスペラント日本語辞典』にも収録され
ていませんが、しかし私は、とても役に立つものであると考えています。

だいたい「着色料」なんてものは(文明社会に住んでいるふつうの成人ならば)誰でも知っ
てるわけですし、これがすんなり表現できないと、食の安全について話すことも出来ないわ
けですからね。
---

この -enzo という接尾辞が提案されたのはかなり以前のことらしくて、私の知るかぎりで
は1988年に出版された『Esperanta Bildvortaro』に載ってるものがいちばん古いんですね。
(しかし初めて提案されたのは、もっと前だと思います)

巻末の索引を見てみますと、ここには kolorigenzo も載ってますし、それ以外にも

mal-varm-ig-enzo  冷媒
aglomer-enzo  (アスファルト舗装をするための機械のなかで使うものらしいですが、それ
           以上のことは判りません) 196/53
blank-ig-enzo  漂白剤
buŝ-freŝ-ig-enzo  洗口液
dilu-enzo  希釈液、薄め液、シンナー
kontraŭ-lik-enzo  (正式な名称は判りませんが)ガス漏れを防ぐための薬物 148/60
makul-for-ig-enzo  しみ抜きのための薬品
moder-ig-enzo  減速剤
rivel-ad-halt-ig-enzo  現像停止液
sen-infekt-ig-enzo  消毒薬、殺菌剤
tip-pur-ig-enzo  タイプライターの活字をきれいにするための薬品
ungo-lak-for-ig-enzo  除光液、ネイルリムーバー
veld-enzo  (正式な名称は判りませんが)溶接に使う薬物 135/45
vulkaniz-enzo  加硫剤
oksid-enzo  酸化剤
solv-enzo  溶剤

といったものが載っています。

一般人でも知ってるものもあれば、専門家以外には必要が無さそうなものもありますね。
---

それから『Akademiaj Studoj 1988-1990』の276〜300ページに収められている Doug Po-
rtmann(執筆)「Listo de novaj terminoj ― precipe kemiaj ― uzataj en projekto "ĜOBK"」
という化学用語のエス訳語を提案する論文のなかにも -enzo を使った用語がいくつか出て
きます。

adher-enzo  接着剤、粘着剤
adstring-enzo  収斂剤
desinfekt-enzo  消毒薬、殺菌剤
for-pel-enzo  防虫剤
frid-ig-enzo  冷媒
humid-ig-enzo  湿潤剤
indik-enzo  指示薬
inhib-enzo  防止剤、阻止剤
mal-streĉ-enzo  弛緩薬、緩下薬
oksid-iĝ-inhib-enzo  酸化防止剤
polu-enzo  汚染物質
re-ag-enzo  試薬
solv-enzo  溶剤
trac-enzo  トレーサー
kataliz-enzo  触媒
konserv-enzo  保存料
dilat-enzo  拡張薬
frost-ig-enzo  保冷剤

やはりこちらは、一般人には馴染みのないものが多いですね。

248松戸彩苑:2008/02/23(土) 03:35:48
>>247 の続き)

また、1995年に出版された Peter Benson(編)『Comprehensive English-Esperanto Dic-
tionary』の巻末には、この辞書において新たに導入された新語をまとめて紹介しているペ
ージがあるんですが、このなかに -enzo があります。

  -enzo, (nacilingve, "-ence" k.s.), teknika sufikso indikanta substancon kiu plenumas
  la agon de la radiko (ekz-e: halucinenzo, solvenzo, rivelenzo)

  (同書599ページ)
---

考えてみれば、食品に添加されてるのは「着色料」「保存料」「酸化防止剤」だけではない
んですね。
この他にも、調べてみますと「乳化剤」「pH調整剤」「増粘剤」「発色剤」なんてものも入って
たりするんですね。

『エスペラント日本語辞典』を調べてみますと「乳化剤」については emulsiilo というのが載っ
ています。
しかしこれも emulsi-enzo としたほうが良いように思いますね。

この辞書には、残りの「pH調整剤」「増粘剤」「発色剤」は載っていません。
---

また、大きなドラッグストアやホームセンターなどに行きますと、実にさまざまな化学製品が
並んでいるわけです。

思いつくものを挙げてみても「整髪料」「育毛剤」「入浴剤」「入れ歯安定剤」… などがある
わけですね。

「整髪料」は har-aranĝ-enzo、「育毛剤」は har-nutr-enzo とでもすれば良いと思います。

しかし「入浴剤」「入れ歯安定剤」は何と表現すれば良いですかね?
ちなみに英語では bath additive、denture adhesive と言うらしいですが。
---

いずれにしましても、-enzo という接尾辞はNPIVや『エスペラント日本語辞典』には載って
いませんが、しかしすでに複数の文献において使われてるものであり、また実際に役に立
つものだということがお判りになったことと思います。

現代の文明社会においては、さまざまな化学製品が日常生活のすみずみにまで入り込ん
でいますから、-enzo のような接尾辞も必要だというわけですね。

なお、先述の『Akademiaj Studoj 1988-1990』所収の Doug Portmann 氏の論文には -ezo
という接尾辞も出てくるんですね。
これは、-enzo が「〜する薬物」を表わすのに対して、「〜される薬物」を表わすんだそうで
す(同書295ページ)。
ここには -ezo を使った語は solv-ezo(溶質)しか載っていませんが、こういう表現も専門
家には必要なのだろうと思われます。

(終わり)

249松戸彩苑:2008/03/09(日) 11:59:36
今回は、私がいかにして「エスペラントにおいて不足・混乱している語彙・表現」を見つけだ
しているのか、ということについてお話してみようと思います。
---

とは言っても、それは簡単です。

たとえば街を歩いていて電光掲示板があるのに気づいたら「電光掲示板ってエスペラント
ではどう言うんだろう?」と考えるわけです。
で、判らなかったら、あとで調べるために、メモ帳に「電光掲示板」と書いておくわけです。
また、そのときに自己流の造語が思いついたら、それも当然メモしておくんですね。

このほかにも、街のなかで見かけた言葉や文章、あるいは通りすがりの人たちの会話の
なかなどにも「これはエスペラントでどう表現するのか?」と思わせるようなものがあります
ので、そういうものをメモしておいて、あとで調べたり、自分だったらどう表現するかといっ
たことを考えたりするんですね。

当然のことながら、そういったものは私がつねづね申し上げているような「現代の文明社会
に住んでいるふつうの成人であれば、誰でも知っているような物・事を表わす語彙・表現」
を最優先にすべきなんですね。
そういうものであるかどうかということを考える必要があります。

それからいちおう言っておきますと、こういった作業を生真面目にやっていたのでは、日常
生活ができなくなりますから、時間のあるときに、たまたま気づいたものだけをメモしていけ
ば良いんですね。

私は「現代の文明社会に住んでいるふつうの成人であれば、誰でも知っているような物・
事を表わす語彙・表現」を整備すべきであると申し上げてはおりますが、べつに、こういった
語彙・表現を「すべて」作ろうだなどとは考えてないんですね。

ひとりひとりの出来る範囲内でやれば、それで最善を尽くしたと言えるだろうし、その程度で
あってもエスペラントの発展におおいに寄与すると思うんですよね。

ということで私は10年以上にわたって、つねにA6判(文庫本サイズ)のノートと、黒・赤・青
のボールペンを持ち歩いています。
---

このほかにも、エスペラントの本を読んだり、あるいはエスペラントで誰かと話をしているとき
などに、エスペラントの問題に気づくことがあります。

たとえば、例はちょっと古いのですが、たまたま私の手元にある「El Popola Ĉinio」1990年
8月号の36〜37ページに「Hejmo de pentristoj」という記事があります。

この記事は、中国のとある芸術家が、詩人・画家・書道家などのためのセンターを作ろうと
思い立って努力した結果、数百人の芸術家が集まって活動するようになったという内容なん
ですが、このなかに

  Poste, ili kunlabore kun aliaj eldonis la bildlibron kun poeziaĵo "Granda Muro".

って書いてあったんですね。

で、私は最初「絵本を出版したのか」って思ったんですが、しかしよく考えてみますと「万里の
長城という詩が載っている bildlibro」って書いてありますので、これは子供むけの「絵本」では
なく「(書)画集」のことなのかなぁって気もしたんですね。

この本が実際にはどっちなのかは判らないのですが、しかし少なくとも、エスペラントでは「絵
本」と「画集」との区別がアイマイなのではないかということは判ったわけです。
---

ということで、こういった作業をみんなで(できる範囲内で)やっていけば良いと思いますね。

(終わり)

250松戸彩苑:2008/03/09(日) 14:02:37
エスペラント界の常識には、よく考えてみると、おかしいものがたくさんあります。

たとえば、最近では「民族語の標準語には、あるていど人為的に作られた部分がある」と
言われるようになりました。
これは事実であって、言語学の本などを見ても、そういったことが書いてあったりします。

一方、エスペラント界では昔から「エスペラントというのは、使っているうちに自然に発展し
ていく」と言われてるんですね。

で、この2つの説を組み合わせると、おかしなことになります。
つまり

  自然語(の標準語)には人為的に作られた部分があるのに、人工語(であるエスペラン
  ト)は自然に発展する。

もっと単純化しますと

  自然語には人工的な部分があるのに、人工語は自然に発展する。

ということになってしまって、何ともヘンなわけです。

で、どちらかがおかしいという事になるわけですが、これはもちろん「エスペラントは自然に
発展する」というほうが間違ってるんですね。

エスペラントの歴史をみてみれば、エスペラントというのは(ザメンホフをはじめとする)欧米
の主要言語とエスペラントに堪能な人たちによって「人為的に」作られてきたものなんです
ね。

そもそもエスペラントというのは、合成語をつくるにしても、新語根を導入するにしても(民族
語とは違って)「論理性」とか「国際性」といったものを考慮しないといけないわけですから、
民族語の標準語以上に人為的に作っていかないと、とても「論理性」や「国際性」を維持し
ながら発展させることは出来ないわけです。

こういう事にまったく気づかないまま、エスペランティストたちは今でも「エスペラントは使って
いるうちに自然に発展していくんです」などと宣伝しているわけですが、言語学者がこれを見
聞きすれば「やっぱりシロウトだな」「これじゃあダメだ」と思うでしょうし、また一般の人たち
にしても「人工語は自然に発展する」という理屈に何となく胡散くささを感じるのではないでし
ょうか。

(終わり)

251松戸彩苑:2008/03/29(土) 12:16:52
『エスペラント日本語辞典』の dividi の副見出しのところに labor-divido という合成語が載
っていまして「分業、作業分担、ワークシェアリング」という訳がついています。

一見しますとこれで良いように思われるかもしれませんが、しかし考えてみますと「分業」と
「ワークシェアリング」というのはまったく異なるものなんですね。

分業というのは「能率を上げるために、一人一人の仕事の内容を特化する」ということです。
一方、ワークシェアリングは「一人あたりの労働時間と賃金を少しずつ減らして、雇用の機
会を増やす」ことなんですね。

英語では「分業」は division of labo(u)r、「ワークシェアリング」は work-sharing、フランス語
では「分業」は division du travail、「ワークシェアリング」は travail partag@、そしてドイツ語
では「分業」は Arbeitsteilung、「ワークシェアリング」は Arbeitsaufteilung または Arbeits-
umverteilung と言うようです。

つまり、英・仏・独語(そして日本語)においては「分業」と「ワークシェアリング」を異なる表
現で表わしているんですね。
こういったことを考えますと、やはりエスペラントにおいてもこれらを区別しておいてほうが
良いと思います。

しかし今のところ、私にも適当な案はありません。
ふだん「エスペラントの造語力」を力説されている方が良いアイディアを出してくださることを
期待しております。

(なお、NPIVには labor-divido は収録されていません)

252松戸彩苑:2008/03/29(土) 12:19:05
>>251 に訂正。

travail partag@ → travail partagé

253松戸彩苑:2008/03/29(土) 12:56:03
『エスペラント日本語辞典』の verŝi を見てみますと「つぐ、そそぐ、こぼす、流す」と書いて
あります。
しかし、よく考えてみますと「つぐ」と「こぼす」はぜんぜん違うものなんですよね。
やろうとしてることは同じなんですが、結果が徹底的に違うわけです。

エスペラントって「つぐ」と「こぼす」の区別もつかないのか?と思いながら、今度は Benson
の英エス辞典で pour と spill を調べてみたところ、pour のところには verŝi と書いてある
んですが、spill のほうには dis-verŝi と書いてあるんですね。

私はアレっと思って、次に Wells の辞書の英エスの部の pour と spill の項を見てみたんで
すが、やはり同じなんですね。

で、最後にNPIVを見てみますと、verŝi のほうには「〜i vinon el botelo en glason」「〜i bo-
lantan akvon sur teon」といった用例が載っているのに対して、dis-verŝi の項には「dis〜i
inkon sur paperojn」「dis〜i saŭcon sur tablotukon」といった用例が添えられているんです
ね。

ということで、どうやら国際的には「つぐ = verŝi」「こぼす = dis-verŝi」というのが定着し
ているのに、日本のエスペランティストはそれに気づいていないらしいということが判りまし
た。

ちなみに『エスペラント日本語辞典』にも dis-verŝi は収録されているのですが「〈液体を〉
まき散らす」となっています。

たしかに細かいニュアンスは、なかなか判りにくいだろうとは思います。
しかし私に言わせれば、「つぐ」と「こぼす」というものはまったく違うということくらいには気
づいても良かったんじゃないかと思うんですね。

254松戸彩苑:2008/03/29(土) 13:00:39
>>253 に訂正。

4行目の「やろうとしてることは同じなんですが、結果が徹底的に違うわけです」を削除しま
す。

「つごうとして失敗する」ことを念頭においていたためこのように書いたわけですが、しかし
「うっかりぶつけてぶちまける」ということもあるんですよね。

255松戸彩苑:2008/04/19(土) 14:19:52
「興ざめだ」というのをエスペラントでどう言うのだろうと思って『日本語エスペラント辞典』を
引いてみますと

  きょうざめ 【興醒め】 malintereso; seninteresiĝo; malamuzo. まったく〜だ Estas kom-
  plete malinterese. (後略)

と書いてあります。

「まぁこんなものかな?」とも思いましたが、しかしよく考えてみますと malintereso は「興味
深くないこと」、seninteresiĝo は「興味が無くなること」、そして malamuzo は「面白くないこ
と」といった程度の意味しか無いように思われるんですね。

つまり「興ざめ」という言葉のエス訳語としては、どれもイマイチだって感じがするんですね。

で、私が最近考え出したのが etos-rompo という表現なんですね。
これならば「興ざめだ」を Kia etos-rompo! と言えますし、「その場の雰囲気を台無しにす
る人」のことを etos-romp-ulo あるいは etos-romp-anto などと言うことも出来ます。

自画自賛になってしまいますが、『日本語エスペラント辞典』に載ってる表現よりもはるかに
正確で良いと思います。

ひょっとしたら etos-rompo という表現を、すでに誰かが作っているかもしれないとも思いま
したが、NPIVや『エスペラント日本語辞典』にも載っていませんし、また Google で「etos-
romp」「etosromp」で検索してみましたが、まったくヒットしませんでした。
---

この『日本語エスペラント辞典』というのは、UEAの文芸コンクールで賞を取ったこともある
宮本正男氏が執筆し、それを数名のベテランの日本人エスペランティストが原稿の段階で
通読して、助言を与えて成立したというものなんですね。

でも、この「興ざめ」という表現に関しては、私のほうが良かったりするわけです。

もちろんこれは、私のほうがエスペラントの能力が高かったり、あるいは頭が良かったりす
るってわけではないんですね。

結局、こういう表現というのは、よく考えればけっこう良いものが出来たりするんですが、し
かし、かなりの時間をかけて考えないと、なかなか出来ないって事なんですね。

256松戸彩苑:2008/04/19(土) 14:22:11
>>255 の続き)

私は以前から気になっていたのですが、このように私が合成によって新しい語彙・表現を
作ってみせても、「ほら、やっぱり合成でうまく行ったじゃないか」「だから、今までのエスペ
ラントの理論は正しいんだ」などとカン違いしてしまう人がいるんじゃないかと思うんですが、
こういった誤解を無くすための説明が必要だと思います。

このような誤解をする人たちというのは

  etos-rompo という表現は、etos' や romp' という語根が存在しはじめた時から、すでに
  「エスペラントに内在していた」。

というような考え方をしているのではないでしょうか。

ですから、私がさんざん頭を悩まして作りだした etos-rompo という表現も、ただ単に「大昔
からエスペラントに内在していたものを運よく掘り当てた」くらいにしか思わないのではない
でしょうか。

でもこれは明らかに間違った考え方なんですね。

新語根に反対する人たちは「安易な新語根導入に反対する」と言ってるわけですが、この
人たちの言うとおりであって、新語根の導入というのは「安易」「簡単」なことなんですね。

逆に、合成によって必要な語彙・表現を作りだすのは、はるかに「困難」なことなんですね。

ですから私は「今のうちから日常生活に関する語彙・表現を整備していかないとマズイです
よ」と言ってるわけです。
---

また、こういう例を出せば判りやすいかも知れません。

日本語には「電話」という表現がありますが、Wiktionary によりますと

  1876年ベルによる発明の翌年には、日本に「伝話」と訳され紹介されたが、1883年頃に
  工部省電信局において、telephoneの訳語として「電話」の語が作られた。

  http://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%BB%E8%A9%B1

んだそうです。

ご存じの方も多いと思いますが、telephone の tele というのはギリシャ語で「遠い」という意
味で、phone というのは「声」ですから、「電話」という表現は telephone の単純な「なぞり」
によって出来たものではないんですね。
つまり、ネーミングの上手な人物による、かなり独創的な訳語なんですね。

そういうものが日本だけでなく、中国語や韓国語にまで入って使われているというのは大し
たものだと思います。

で、考えてみますと「電」も「話」も2000年以上前からある文字ですが、しかし

  「電話」という表現は、2000年以上前から漢字のなかに内在していた。

などとは誰も考えないでしょう。

合成によって新しい語彙・表現を作りだすときの苦労というものがまったく判らない人たちが、
出来あがった表現だけを見ると、ただ単に「誰でも知ってる2つの漢字(あるいは語根)をくっ
つけただけ」みたいに見えてしまうのでしょうが、決してそういうものではないのですね。

(終わり)

257松戸彩苑:2008/04/20(日) 20:29:06
  tri anguloj
  trianguloj

上のほうは「3つの角」で、下のほうは「(複数の)三角形」ですね。
これらは字で書いてある場合は、混同される可能性は無いんですが、しかし口頭で発音し
ますと、どちらも tri an gu loj ということになって区別がつかないんですよね。

こういうのを見ますと、やはり「エスペラントというのは民族語とは違って、書き言葉として発
展してきたんだなぁ」ということを痛感せずにはいられません。

エスペラントを数学の分野で利用するという方が少数ながらいらっしゃいますが、こういった
問題に気づいた人が、これまでまったくいなかったんでしょうかね?
なんだか不思議な感じがします。

このままでは、エスペラントで数学を教える学校ができた場合に、授業が混乱することは目
に見えていますので、私は「3つの角」のほうを trio da anguloj と言えば良いんじゃないか
と思ってるんですね。

(あるいは「3つの角」 tri anguloj はそのままにして、「三角形」のほうを tri-angul-aĵo ある
いは tri-angul-umo のように表現するという方法もありますが)

これでこの問題はなんとか解決しそうなんですが、しかし、この問題というのは要するに

  「数詞」が先頭にくるような合成語は、場合によっては紛らわしいことがある。

ってことなんですね。
---

また、この他にもこんな例があります。

  kun laborantoj
  kunlaborantoj

上は「労働者たちと一緒に」という意味で、下は「協力者たち」という意味ですね。
これも、ゆっくり丁寧に発音すれば区別できますが、早口ですと区別がつかなくなりそうです。

つまり

  「前置詞」が先頭にくるような合成語は、場合によっては紛らわしいことがある。

ということもあるわけですね。

現在のエスペラントには前置詞が先頭にくる合成語がたくさんありますが、私は以上のよう
な理由から、前置詞が先頭にくるような合成語をできるだけ作らないように心がけています。

(終わり)

258Raku ◆yP0a9GGqWA:2008/04/22(火) 22:30:49
>>255
松戸彩苑さんのほうが宮本正男より絶対に頭がいいですよ。
宮本には逢ったことがありますが、知的レベルの低さに
呆れました。

259松戸彩苑:2008/04/26(土) 11:17:50
>>258
拙文を読んでくださってありがとうございます。

260松戸彩苑:2008/04/26(土) 12:01:36
>>257 で tri anguloj と trianguloj について論じましたが、これに関してさらに考えたことが
ありますので、続きを書くことにします。

  dek tri anguloj 「13個の角」
  dek trianguloj  「10個の三角形」
  dektrianguloj  「(複数の)十三角形」

これらも発音では区別することが出来ないんですね。

で、>>257 で「三角形」を tri-angul-aĵo あるいは tri-angul-umo とするということを提案し
ましたが、これだと

  dek triangul-aĵoj、dek triangul-umoj 「10個の三角形」
  dektriangul-aĵoj、dektriangul-umoj  「(複数の)十三角形」

となってしまって、やはり口頭では区別がつかないんですね。
(ですから、この提案は撤回いたします)

ということで「〜o da 〜」という表現法を使って

  dek trio da anguloj 「13個の角」
  deko da trianguloj  「10個の三角形」
  dektrianguloj     「(複数の)十三角形」

とすれば、口頭でも区別ができるわけですね。
---

これでめでたしめでたし … と言いたいところですが、よく考えてみますと deko da というの
は「10個くらい」という概数を表わす表現としてすでに定着してるんですよね。
ですから deko da trianguloj では「10個くらいの三角形」という意味になってしまいます。

しかし私は dek-ĝusto da 「10個ちょうどの」という表現を考えだしたんですね。
これを使えば、問題が解決すると思います。
---

余談になりますが、「10代の(10〜19の)」というのを表わすのに dek-plusa という表現を
使えば良いんじゃないかと私は考えました。

この表現を使えば「10代の人」は dek-plus-ulo となりますし、「30代の人20人」は du-
dek-ĝusto da tri-dek-plus-uloj と言うことが出来るわけですね。
---

さて、angulo というのが「角」と「〜角形」の両方の意味で使われるために、これまで説明し
てきたような混乱が生じるわけですが、このほかにも

  latero 「辺、〜辺形」
  edro  「面、〜面体」

というのも同様の問題を抱えているんですね。
ですから

  kvar lateroj 「4つの辺」
  kvarlateroj  「(複数の)四辺形」

とか

  dek du edroj 「12の面」
  dekduedroj  「十二面体」

のようになってしまいます。

これらも、上のほうを「〜o da 〜」という形にして区別すべきだと思います。

(終わり)

261松戸彩苑:2008/04/26(土) 13:35:46
私がこのスレをつうじて主張しているのは

(1) エスペラントは本来「宝石」のように素晴らしいものであるが、まだ磨き方が足りなく
    て、能力をフルに発揮できるようにはなっていない。

(2) だから、みんなで磨いていこう。

ということなんですね。

「エスペラントはすでに民族語に匹敵するだけのレベルに達している」という宣伝文句を鵜
呑みにしている大部分のエスペランティストたちにとっては、私の書き込みは「マイナス面
だけを見ている」もののように感じられるのでしょうが、決してそうではありません。

私は、コンピューターの世界で言うところの「デバッグ」をしているわけなんですね。

「専門家しか知らない物・事」や「一部の地域の人しか知らない物・事」などはエスペラント
で表現できなくても仕方がないと思いますが、

  現在の文明社会に住んでいるふつうの成人であれば誰でも知っているような物・事

については、すんなりと表現できないとダメだと私は考えるのです。

また、発表以来120年もたっているのに今のようなレベルだということは、今までのような
事をやっていたのではダメだろうとも思うわけです。

262松戸彩苑:2008/06/04(水) 20:56:08
英語の baseball、basketball、volleyball といった単語には「野球」「バスケットボール」「バレ
ーボール」といった意味のほかに「野球のボール」…という意味もあるんですね。

ですから「野球のボールを投げる」は to throw a baseball と言うらしいです。

「球技名」と「その球技で用いられるボール」とが一緒というのは、日本人の感覚からすると
少しヘンなんですが、まぁ英語ではそうなってるんですね。

で、英語はどうでも良いんですが、問題はエスペラントです。
エスペラントでは「野球のボール」をどう言うのか?

NPIVの pilko の項を見てみますと 〜pilko という合成語がいくつか載ってるんですが、定義
を見ますと、すべて sporto のことなんですね。
『エス日』の pilko の項も、やはりそうなっています。

じゃあ「野球のボール」は baz-pilka pilko になるのかな?とも思ったんですが、そういったこ
とはNPIVや『エス日』を見てもまったく判らないんですね。

「さすが、エスペラント界はスポーツに関心のない人間が集まってるだけあって、120年たっ
てもこんなことが決まってないのか」と思ったんですが、思い直して『Esperanta Bildvortaro』
を調べてみたところ、275/54 に野球のボールの絵がありまして bazo-pilko という訳語が与
えられていたんですね。

また 276/47 にはバレーボールのボールの絵が描いてあって、ここには flug-pilko と書い
てありました。

つまり『Esperanta Bildvortaro』では英語式になってたんですね。
---

しかし考えてみますと、そもそもエスペラントにおいて「球技名」が 〜pilko となっているとい
うあたりからしてすでにおかしいのではないか?英語では良いだろうが、エスペラントでは
おかしくないか?という気もしてくるんですね。

実際、ヨーロッパのエスペラント辞典を調べますと、baz-pilk-ludo あるいは baz-pilk-ado の
ような表現が載ってることがあります。

この表現を使えば「球技名」と「ボール」とを区別することが出来たりもするんですが、とにか
くエスペラント界というのはスポーツには関心がないみたいで、こういった提案もあんまり注
目されてないように思われます。
まぁ「長すぎる」ということもあるんでしょうけどね。

(終わり)

263松戸彩苑:2008/06/06(金) 03:29:17
今回はいつもと違って、かなり長めの文章を掲載します。
---

「1905年に Fundamento de Esperanto が採択され、これによってエスペラントの改造が
禁止された」

このような解釈が現在にいたるまで「エスペラント界の常識」になってるわけですが、しか
し、この解釈ではどうにも説明できない事があるんですね。

それは、ザメンホフの著作や、いとうかんじ氏のザメンホフ研究書を読んだことのある人で
あれば「ザメンホフ自身が1905年以降にエスペラントの改造案を何度も発表している」と
いう事実をご存じだと思いますが、この理由がまったく説明できないわけです。

このうち、1906年1月18日づけで Javal に送った改造案(pvz 06-13)と、同年11月22
日づけで Boirac に送った改造案(06-115)については、「Javal に気に入られるようにと
考えて送ったものだ」という説があります。

また、1907年12月20日づけの改造案(07-133)にしても、「Ido の支持者に少し妥協し
て、騒動を収めるためにしたことだ」という解釈があります。

しかし、1909年1月5日づけで言語委員会に送った改造案(09-05)や、1915年に執筆
されたと推測されている「Porĉiama revizio de Esperanto」(15-11)については、どのように
解釈したら良いのでしょうか。
---

結論から言ってしまえば、Fundamento de Esperanto の序文には「変更」はいけないが
「改良」は出来る、と書いてあるんですね。

こんなことを言われても、どういう意味だか判らないだろうと思いますが、Fundamento de
Esperanto の後ろのほうに、こんなふうに書いてあるんですね。

  「たとえ明らかな誤りがあったとしても、我われの言語の基礎にはぜったいに手を触れ
  てはならない」と、私は述べた。こう言うと、我われの言語はきわめて硬直的で、発展
  の余地がないと思う人もいることだろう。……とんでもない。基礎は厳重に不可侵であ
  るが、たえず内容を充実させるだけでなく、たえず改良し完成へ向かう可能性がじゅう
  ぶんあるのだ。

  (水野義明(編訳)『国際共通語の思想』153ページ)

これだけを読みますと「たしかに改良と書いてあるが、これは新語根の導入のことなんじゃ
ないか」と思われるかもしれません。
たしかに新語根の導入も「改良」の一方法ではあるんですが、しかし先に引用した箇所の
すこし後に、こんなふうに書いてあります。

  二、「我われの言語のうちある種の単語や規則があまりに不都合だ」と、権威ある中央
  機関が認めた場合は、それをただちに取り除いたり変えたりしないで、新しい語形を提
  案し、古い語形と並行して用いるように勧告すればよい。時間とともに新しい語形は古い
  語形を徐々に排除し、古い語形は死語となるだろう。あらゆる自然言語でも起こってい
  ることだ。ただし、こういう古語は、もともと『エスペラントの基礎』の一部となっているの
  で、まったく捨て去られることはなく、新しい語形と並んで学習書や辞書に掲載される。
  このようにすれば、言語がもっとも完成した段階でも、エスペラントの統一が損なわれる
  ことはなく、最初期のエスペラント作品といえども後世の人びとによってその価値を失わ
  ず、よく理解されると、確信してもよい。

  (同書154〜155ページ)

この引用文のなかで注目すべきなのは

  ただし、こういう古語は、もともと『エスペラントの基礎』の一部となっているので

という部分です。

これは要するに「Fundamento de Esperanto の一部分であるところの Universala Vortaro
に含まれている語根であっても、これに代わる新しい語形を提案することが出来る」ってこ
となんですね。

そのように解釈しないと、この部分がまったく理解できないわけです。
ですから、そのように解釈すべきだと私は思います。

264松戸彩苑:2008/06/06(金) 03:32:00
>>263 の続き)

しかし当然のことながら、このように言っても、まだ疑問は残るわけですね。
「じゃあ、Fundamento de Esperanto の前半部分でエスペラントの改造をさんざん批判して
たのは何なんだよ?」という問いが当然出てくることと思います。

先の引用文のなかには

  「我われの言語のうちある種の単語や規則があまりに不都合だ」と、権威ある中央機関
  が認めた場合は、それをただちに取り除いたり変えたりしないで、新しい語形を提案し、
  古い語形と並行して用いるように勧告すればよい。

と書いてありましたが、ザメンホフが批判していたのは、この

  不都合な単語や規則があった場合に「ただちに取り除いたり変えたりする」

ことなんですね。
これが彼の言う「改造」「破壊」「変更」であり、絶対にやってはいけない事なのです。
逆に、彼が勧めていたのは

  不都合な単語や規則があった場合には

  (1) 権威ある中央機関が、新しい語形を提案し、古い語形と並行して用いるように勧
      告する。

  (2) 時間とともに新しい語形は古い語形を徐々に排除し、古い語形は死語となる。

  (3) ただし古い語形は、新しい語形と並んで学習書や辞書に収録しなければならない。

という方法だったわけです。

つまり、ザメンホフは「手続き」にこだわってたってだけなんですね。
後者のちゃんとした手続きさえ踏めば、たとえ Universala Vortaro に含まれている語根で
あっても、それに代わる新しい語形を提案することが出来るが、前者のようなやりかたは
絶対にダメなんだということを言ってただけだと私は解釈しております。
---

これまでの話を判りやすく具体的に言えば、語根Aがあるのだが、なんらかの理由で都合
が悪いので語根Bを提案するというのは良いんですが、この時にいきなり「これからは語
根Bを使うから、語根Aを使うことは一切まかりならん」と言ってしまって、さらには辞書から
も語根Aの記述を削除してしまう、みたいなことをすると混乱するのでダメなわけです。

だから「語根Bを使いましょう」と勧告しつつ、しばらくのあいだ「試用期間」を設けて、両方
を併用しようって事なんですね。
語根Bがエスペラント界全体に広まるのに多少時間がかかるということの他に、しばらく使
ってるうちに、語根Bのほうに不都合な点が見つかるかもしれないわけですから、併用す
る期間も必要だろうと考えたのでしょう。

で、語根Bをしばらく使ってみて「やっぱり語根Bのほうが良いな」という事がみんなに判れ
ば、語根Aのほうが使われなくなって死語になっていくわけです。

しかし、辞書から語根Aの項目が無くなってしまいますと、語根Bしか知らない人たちには
理解することが出来なくなりますので、「かつて語根Aというのが使われていた」という情報
をちゃんと残しておいてくださいよ、とザメンホフは言ったわけなんですね。

で、こういうふうにするのであれば、Universala Vortaro に含まれている語根であっても、
別の語形を提案することが出来るということなんですね。
---

しかし、ここまで論じても、まだまだ疑問は無くならないのが当然だと思います。

たとえば『Lingvaj respondoj』の54(pvz 04-50)には「ŝipo という語根がすでにあるから、
ŝipo の代わりに navo などという語根を提案してはいけない」と書いてたではないか、と
おっしゃる方がおられるかもしれませんね。

しかし、この文を注意ぶかく読んでみると判るのですが「ŝipo という語が《気に入らない》
という理由で navo を提案するのはダメ」ということなんですね。

ですから、もっとマトモな理由があって、そして先述の正しい手続きにしたがうのであれば、
ŝipo の代わりに navo を導入しても構わないはずなんですね。

265松戸彩苑:2008/06/06(金) 03:36:26
>>264 の続き)

これだけ説明すれば、ザメンホフが1905年以降に改造案を何度も送ったことも不思議で
はないという事になるのではないでしょうか。

先の引用文のなかに「権威ある中央機関」というのが出てきましたが、1905年に言語委
員会(Lingva Komitato)が発足してるんですね。

これが彼の言う「権威ある中央機関」ですので、ザメンホフは1905年以降、言語委員会
に対して改造案を送ったということなんですね。

このように考えていけば、ザメンホフの言動と行動にはなんら矛盾が無いということになる
はずです。

そもそもザメンホフは、1887年に発表した時点で「エスペラントは将来、改造しなければな
らない」と考えていたわけです。

それは1887年に出版した『国際語』(『第一書』)のなかに「改造すべき点について教えて
ほしい」と書いていたことでも判るんですが、私の推測では、それだけではないんですね。

原エスペラント(pra-Esperanto)というのがありますが、あれを見ますと、民族語から単語を
採用しているんですが、かなり単語を短くしてるんですね。

一方、1887年に発表した現在のエスペラントは、欧州各国語から単語を採用しています
が、名詞・動詞・形容詞などについては、ほとんど元の語形のままなんですね。

私はこれを見て

  ザメンホフは最初「発音しやすい人工語を作ろう」と努力していたが、しかしそのために
  単語を短くすると、発音は容易になるが、憶えるのがかえって困難になるということに
  気がついた。

  これでは「学習しやすい人工語」ではなくなってしまう。

  この時にザメンホフは「ラテン語が変化して、ロマンス諸語ができていった」ということを
  思い出したのではないでしょうか。
  そして、それを思い出したとき「最初っから発音しやすい言葉をつくる必要は無いんだな」
  と考えたはずです。

  「少々発音は困難になるかもしれないが、最初は、民族語で使われている単語をその
  まま採用することにしよう。そのほうが学習も容易なので、話者が増えやすいだろうし」
  「で、あとで徐々に、みんなの意見も参考にして、より発音しやすく改良していこう」と考
  えたのではないでしょうか。

  このように方針を大転換して、単語をほとんど元の語形のままで採用することにして出
  来たのがエスペラントだった。

という事なのではないかと想像したのですが、このように考えていたのであれば、1905年
以降に改造案を何度も提出したのも当然だと思うんですね。
---

これで納得していただけたのではないかと思うんですが、しかしそうしますと「どうして Fun-
damento de Esperanto は判りにくいのか」という点が不思議に思えてきます。

これはまったくの推測なんですが、ザメンホフは「わざと判りにくく書いた」のではないでしょ
うか。

ザメンホフとしては、本気で改造案を提案しようと思っていて、そのために1905年に言語
委員会も発足させたわけですが、しかしその少し前からテオフィル・カールという人物に、
ザメンホフが導入した新語根を批判されてたんですね。

このカールは新語根にさえ猛反対するくらいですから、改造案なんかに賛成するわけが絶
対に無いわけです。

しかし改造案を出さなければエスペラントは発展していかないと考えているザメンホフは、
なんとしてでも「正しい手順をとりさえすれば、改造は可能である」ということを訴える必要
があったわけです。

またザメンホフにしても「安易な改造」については禁止しておきたかったわけです。

そういう事情があったので、Fundamento de Esperanto は判りにくく書かれざるを得なかっ
たのだと私は思います。

266松戸彩苑:2008/06/06(金) 03:37:57
>>265 の続き)

Fundamento de Esperanto の前半部分を読みますと「かなり極端なことを言ってるなぁ」と
いう印象を受けます。

「絶対不可侵」を謳うのはまだ判るのですが、しかし Universala Vortaro の民族語訳に誤
りが多いことを承知のうえで、しかしなおかつ「絶対不可侵だから直さない」などと言ってる
のには、ちょっと付いていけないって感じがしますね。

これは、カールのような人物を安心させるために、わざと極端に書いているのではないか
とさえ私には思えたのですが、みなさんはどう思われますでしょうか。

そして、前半部分で不自然なほどに「絶対不可侵」を謳っておいてさんざん目くらましをした
あとで、先に引用した「しかし改良は可能だ」というのをこっそり持ち出すんですね。

そして、この部分の解釈は、先に述べたとおりなんですが、よくよく注意ぶかく読まないと
絶対に誤解するように書いてあったわけです。

ザメンホフもだますつもりは無かったのかもしれませんが、正面から理論的に説明しても、
納得してはくれないだろうなぁと考えて、こんな判りにくい書き方をしたのではないでしょう
かね。
---

で、何はともあれ Fundamento de Esperanto が採択され、言語委員会も発足したので、
ザメンホフは(一個人の資格で)言語委員会に何度も改造案を送ったのですが、当然の
ことながら理解されなかったわけです。

Fundamento de Esperanto をふつうに読めば「基礎的な語根は絶対に改造できない」とし
か読めないわけですから、当然なんですね。
ザメンホフは、カールのような人物を煙にまくために極端なまでに絶対不可侵を強調した
のですが、それが裏目に出てしまったのだと私は思います。

もっとも、ザメンホフの言わんとしたことを理解した人もいたのかもしれません。
たとえば言語委員会の委員長になった Boirac という人は哲学の先生だったそうですから、
たぶん Fundamento de Esperanto の序文のほんとうの意味を理解できたんじゃないかと
私は勝手に想像してるんですが、しかし彼は、理解はしたが、拒否したのではないかと思い
ますね。

ということでザメンホフは、自分の改造案が受け入れられないまま亡くなりました。
そして、これまで「ザメンホフが1905年以降に、改造案を何度も出していた」という事実が
謎とされてきたわけです。
(もっとも、大部分のエスペランティストは、こんな歴史的事実さえ、まったく知らないのでし
ょうが)

私は10年ほど前に、この謎を解明するために3巻ものの pvz を買いまして、重要な文章を
読んで、あれこれ考えて、これまでに述べたようなことを思いついたわけです。
100%正しいかどうかは判りませんが、しかしかなりの程度ツジツマが合っているのでは
ないかと自負しております。

私はこれまで、このスレにおいて「場合によっては Universala Vortaro に含まれているよ
うな語根についても、新しい語形を提案しても良いのではないか」と論じてきましたが、この
ような大胆なことを自信をもって主張することが出来たのは、ここに書いてきたようなことを
考えていたからです。

今まで「松戸彩苑は Fundamento de Esperanto の不可侵性を無視するつもりなのか」とい
ぶかっておられた方も少なくないと思いますが、これで(それなりに)納得していただけたの
ではないかと思います。

今後、やる気と時間があれば、ザメンホフが提案した新語根について詳しく見ていくような
文章を書くつもりです。

(終わり)

267松戸彩苑:2008/06/07(土) 14:14:33
>>263-266 に対する補足なのですが、「ザメンホフは改造を認めていた」ということを証明
する文章がありましたので、以下に引用します。

1908年にドレスデンで開かれた第4回UKでの演説のなかで、ザメンホフは Ido 騒動につ
いて話しているのですが、そこで次のように言っています。

  この件のいきさつについては、お話ししたくありません。ただ、次のように言うだけにいた
  します。「我われはみな国際語思想の代表者だ。その思想はめいめいが思いどおりに
  扱ってもよろしいが、とにかく誠実に振る舞おう。我われの行動については未来が厳しく
  裁くということを、覚えておこう。エスペラントは誰の所有物でもない。エスペランチストは、
  慎重・誠実に互いの合意を得たうえならば、エスペラントを思いどおりに扱ってもよいこと
  を、覚えておこう。ただ、個々の人間の恣意的行為によって言語が混乱に陥らないため
  に、エスペラントには、公平に選出され有能な人物を会員とする言語委員会がある。この
  委員会は、いかなる個人の意向によっても左右されず、あらゆる問題を検討し、これにつ
  いてエスペラント界全体の裁可を求める権利と権限を有している。『ブーローニュ宣言』は、
  個々の人間が言語を恣意的に破壊することを禁じているだけだ。言語委員会の設置は、
  エスペラントの連続性というきわめて重要な要件を保証するためにすぎない。君たちのう
  ちエスペラントの改良案をもつ人がいたら、言語委員会に要望を提出してもらいたい。委
  員会が保守的すぎると思うかもしれないが、この委員会はいろいろな個人的思いつきの
  実現ではなく、エスペランチスト全体の利益を守るために存在することを、思い出してもら
  いたい。委員会は、エスペラント運動に有害なことを軽率にやるくらいなら、むしろ何もや
  らないほうがましだ。君たちは、エスペラントは本質的に妥当であり、細部の議論が残っ
  ているだけだと認めている。それならば、役に立つこと、ほんとうに必要なことを、誠実な
  方法により仲良く平和のうちに実現することもごく容易ではないだろうか」。

  「自分の要望をエスペランチスト全体に押しつけようとする人びとは、自分たちにはすば
  らしいアイデアがあり、エスペランチストの大多数もきっと賛同するはずなのに、頭株の
  やつらが聴く耳をもたず、そのアイデアを検討のため提案することすら許さないと、ふつ
  う言っている。だが、それはうそだ。君たちも知っているように、我われの言語委員会が
  共同の票決で採択した新しい規約によれば、誰でも委員会に提案する権利があり、そ
  の提案がたとえごく些細な内容であっても、委員会の百人の委員のうちわずか五人の
  賛成があれば、委員会はその提案を検討しなければならないことになっている。だから、
  聴く耳をもたないとか、頭株のやつらが気に入った議題しか票決に付さないとかいう不
  満が出る余地がないのは、君たちだって知っているではないか」。

  「『あらゆる手段を用いてむりやりに君たちの不満を駆り立てようとしているのなら、何も
  かもぶちこわさなければならない』と君たちに言う者がいたら、目的を達成する唯一の道
  である統一の道から君たちをはずれさせようとする者がいたら、そのときには用心したま
  え! そのときには、何千という人びとが長年の辛抱強い努力のすえに偉大な全人類的
  理想のためになし遂げてきたすべての成果がめちゃめちゃになってしまうのだと、承知し
  てもらいたい」。

  (水野義明(編訳)『国際共通語の思想』247〜250ページ)

この引用文のなかでもっとも注目すべきなのは、なんと言っても

  君たちのうちエスペラントの改良案をもつ人がいたら、言語委員会に要望を提出してもら
  いたい。

という部分ですね。
こういうことを、よりによって Ido 騒動の余韻がまだ残っている時期に、UKで公言してたんで
すね。

268松戸彩苑:2008/06/07(土) 14:16:16
>>267 の続き)

それから、1900年ごろに執筆されたと予想されている「国際語思想の本質と将来」のなか
にも、次のような箇所がありました。

  もっと便利な形にした方がよい単語がいくつかあるのは事実だ。だが、そういう単語はご
  く少数だ。エスペラント以後に現れた多くの言語案のどれ一つを取っても、語彙の少なく
  とも六〇パーセントはエスペラントと同じ形になっていることを見れば、この点がよく分か
  る。さらに、付け加えれば、残りの四〇パーセントの単語がエスペラントと形が違ってい
  るのも、言語案の作者が国際語の種々の重要原則に留意しなかったとか、まったく必要
  もないのに語形を変えたとかいう理由によるにすぎない。だから、容易に出て来る結論
  としては、もっと便利な形にするためエスペラントとは異なる語形になった単語の実際の
  数は一〇パーセント前後を越えることはないと言える。だが、このようにエスペラントの
  文法はほとんど変える必要がなく、語彙も一〇パーセント程度変えればすむとしたら、か
  りに新人工語が創造され、あらゆる分野で実用に役立つとして、そういう新しい人工語は
  いったいどんな姿となるのだろうか。そういう言語は、じつは新言語ではなく少し修正した
  エスペラントにすぎないことになるのではないか。したがって、国際語の将来に関する問
  題は、エスペラントを変更なしに採用するか、それともいくぶん修正を加えて採用するか
  という選択の問題にほかならなくなるだろう。だが、こういう問題は、エスペランチストに
  とっては、もはやまったく意味がない。彼らは、個々の人間が思いつきで勝手にエスペラ
  ントを変えることに反対しているだけなのだ。だから、権威ある会議や学士院のような機
  関がエスペラントに部分的修正を加える決定をしたら、エスペランチストはその決定を歓
  迎しても何も損にはならない。そうなっても、新しい難しい言語をはじめから学び直す必
  要はなく、一日か長くても数日かけて修正部分を習得するだけですむのだ。

  我われエスペランチストは、自分たちの言語がぜったいに完璧で、それよりすぐれた言語
  は存在するはずがないなどとは、まったく主張していない。事実はその反対だ。権威ある
  会議が開催され、その決定が全世界に効力を有することが分かれば、エスペランチスト
  たちは、言語全体の見直しや有益な改良を任務とする委員会の設置を、みずから進んで
  その会議に提案するであろう。そのけっか、エスペラントが原型をとどめないほどに変更
  されても、異議はないのだ。だが、そういう委員会にその仕事が果たしてできるのか、際
  限もなく長い年月がかかるのではないか、委員の合意によって首尾よく決着がつくのか、
  できあがった言語は実際に役に立つかなどについては、まったく予想がつかないのが現
  状である。したがって、もしその委員会が事実上あらゆる点で完結し試験ずみのげんに
  ある言語をしりぞけ、問題の多い将来の言語を採用するとしたら、もちろん、それは愚か
  で許しがたい行為だ。だから、エスペラントは不適当だという結論に達したとしても、選定
  会議が決定できることは、たかが知れている。つまり、さしあたってエスペラントをいまの
  ままの形で採用し、これと並行して委員会を任命して、エスペラントの完成か、またはもっ
  と理想的な新言語の作成にあたらせる。そして、委員会の作業が首尾よく終わり、できあ
  がった言語がいろいろと試してみてじゅうぶん役に立つと分かったときに、そのとき初めて
  「現在の形の国際語は時代おくれだから、その代わりに新しい形の言語が登場した」と発
  表できるのだ。選定会議はもっぱらこのように運営されるべきだということに、良識ある人
  なら誰でも同意するだろう。したがって、未来の世代の言語がエスペラントではなく、これ
  から作成される言語になるとしても、その新言語はかならずエスペラントを経由して作られ
  るはずなのだ。

  (同書85〜89ページ)

269松戸彩苑:2008/06/07(土) 14:18:31
>>268 の続き)

このなかで目を引くのは

  権威ある会議が開催され、その決定が全世界に効力を有することが分かれば、エスペラン
  チストたちは、言語全体の見直しや有益な改良を任務とする委員会の設置を、みずから進
  んでその会議に提案するであろう。そのけっか、エスペラントが原型をとどめないほどに変
  更されても、異議はないのだ。

という部分と

  だから、権威ある会議や学士院のような機関がエスペラントに部分的修正を加える決定を
  したら、エスペランチストはその決定を歓迎しても何も損にはならない。そうなっても、新し
  い難しい言語をはじめから学び直す必要はなく、一日か長くても数日かけて修正部分を習
  得するだけですむのだ。

という箇所だと思います。

ということで、ザメンホフは終始一貫して「決められた手順を踏んだ改造」について論じていた
んですね。
こういったことを知っていれば、>>263 で言及したザメンホフじしんによる改造案についても、
なんらおかしくないということが納得できると思いますね。

(終わり)

270松戸彩苑:2008/06/07(土) 16:22:11
これまでの話に、さらに補足をさせていただきます。

1910年にワシントンで開催された第6回UKでの演説のなかでも、ザメンホフは「エスペラ
ントの改良」について長々と論じていました。

  さて、国際語問題の決定のために、虚構ではなく現実的かつ強大な実力をもつ委員会
  が設置されたと、しましょう。すでに述べたように、そういう委員会が自分の決定をまっ
  たく無価値に終わらせたくないのなら、エスペラントかエスペラントによく似た言語を採
  択するほかはありません。きっといまのままの形のエスペラントを採択するはずだと、す
  でに申しあげました。そこで、委員会がそういう決定をしたくない場合を考えてみましょ
  う。ほかにどんな行動を取るでしょうか。委員会は、「生存能力のある言語の創造のた
  めには、学識ある人がいて、「じゃあ、作ってみよう」と言うだけでは不十分で、注文に
  応じて数週間のうちに仕立てることはできず、長期にわたる熱心な献身的な愛情のこ
  もった努力や実験や感情移入が必要なことを」よく理解するようになるでしょう。また、
  委員会は、「多くの人びとが久しい以前から尽力し、長年の歴史と完全な生命をもつ言
  語があること、この言語はりっぱに機能し、問題点はごくわずかしかないこと」を知るよう
  になるでしょう。そういうわけで、もし委員会がこの課題を真剣に取り扱うとすれば、ぜん
  ぜん新しい言語をあえて創造したり、存続できるかどうかもまだわからない言語案を採
  用したり、この問題でこれまで尽力してきた人びとに対し無用で軽率な反対行動に出る
  ような態度を取らず、エスペラントを採択し、必要な改変をほどこすことでしょう。

  では、委員会は、誰にこの改変を委託するのでしょうか。はじめの準備期間の段階では、
  どんな言語を選ぶべきかという問題を原則的に決定する必要があります。この段階では、
  委員会は、その決定を誰にまかせてもよろしい。ただし、無党派の良識人で、引き受け
  た責任をじゅうぶん認識している人を選ぶように配慮しなければなりません。しかし、採
  用すべき言語が選定され、改変をほどこす決定がなされたら、その仕事について誰の
  助言を求めたらよいのでしょうか。少しでも良識があり、学問的方法を理解している人な
  ら、「そういう仕事では、外部にあってその言語を知っている人ではなく、まず何よりも内
  部にあってその言語を知っている人に助言を求めるべきである。つまり、その言語のた
  めに最も尽力し、最もよく実用に使い、したがって最も経験が深く、実際上の不備を最も
  よく知っている人のことだ」と、言うでしょう、誰でもよくわかっていることですが、言語に
  改変をほどこす際に、ただ外見を目安にするだけで、その言語を熟知する人の助言を求
  めないのは、じつに愚かな行為です。委員会は、その課題を真剣に扱う気があり、陰謀
  をたくらむ人びとにそそのかされたのでなければ、そんなことはけっしてできないはずで
  す。

  そこで、委員たちがエスペラントに改変をほどこす決定をした場合には、どこを改変した
  らよいのでしょうか。たとえば、「この単語は一千万人が話す言語から採用したものだ
  から不採用にして、一億二千万人が話す言語から単語を採用しよう」とか、「実際には
  よく役に立つ"estas"(「〜である」)という単語は気に入らないから、"esas"に代えよう」
  などと委員たちが言うとしたら、それはまったく愚かなことで、真剣な人びとはきっと容認
  しないでしょう。長年のあいだ存続している言語に、単なる思いつきや、理屈にばかりこ
  だわり実際にはぜんぜん無価値な動機から大量の単語を改変するのは無意味なこと
  だと知っているからです。委員たちの役目は理屈をもてあそぶ言葉の遊びではなく、実
  際的な仕事だということを念頭におけば、改変を加えるべき単語や語形も、おのずから
  限定されてくるはずです。つまり、それ自体が無条件に不適切で、言語を使用する人び
  とにひじょうに不都合な単語や語形のことです。

271松戸彩苑:2008/06/07(土) 16:23:12
>>270 の続き)

  過去二三年間にエスペラントに対してさまざまな批判がなされてきました。何千という人
  たちがエスペラントに批判を加え、どんなに小さな欠点も残らず明らかになっています。
  しかし、そういう批判に目を通してみると、その大部分は個人的思いつきによっているこ
  とがわかります。ほんとうに実用的価値のある改変の提案はごく少数で、全部ならべて
  も一枚の紙切れにおさまり、半時間もあれば覚えることができるでしょう。しかも、このご
  く少数の改変提案のうち、最も重要な提案は一見すると改良のようですが、よく考えて
  みるとじつは改悪となるかも知れないのです。たとえば、学習者の悩みを取り除き普及
  を促進するために字上符や対格語尾を廃止したらどうかという提案があります。これは、
  すでに一六年前に私が提案し、げんに改革論者の大部分も要求しているものです。し
  かし、現在の時点で、しかも政府が設置し、したがって権限を有するはずの委員会の立
  場からは、こういう提案はまったく容認すべきではありません。なぜなら、それは、外部
  の傍観者の機嫌をとるためにエスペラントの内的価値を損ない、必要かつ重要な音声
  や自由な語順や明晰性を取り去ることになるからです。しかも、その理由といえば、印
  刷屋がいくらか経費の節約になり、初学者が多少てまがはぶけるというだけなのです。

  私たちに反対する人たちがエスペラントの信用を落とすためにエスペラントで書いた論
  文を見ると、ほとんどいつも気がつくことが一つだけあります。複数語尾の"j"が大量に
  使われていることです。この不幸な"j"は、美しいギリシア語にあってもあえて文句をつ
  ける人はいませんが、私たちに反対する人たちに言わせれば、エスペラントでは諸悪
  の根源になっているのです!

  簡単に言えば、みなさんがすぐわかるように、政府が設置する委員会がエスペラントに
  改変を加えることになり、その委員会が真剣に任務にとりくむとしたら、改変すべきとこ
  ろはごく、ごくわずかしかありません。委員会の改変を受けたあとのエスペラントは、そ
  れ以前のエスペラントと言語としてはまったく同じです。ただ現在の語形のいくつかが
  古語となり、もっと便利な語形に取替えられるかも知れませんが、それによって言語の
  連続性が断絶したり、これまで達成した成果の価値が無に帰することはけっしてありま
  せん。これは、私たちがそうなって欲しいと思っているからではなく、ひたすら論理と良
  識の当然の帰結です。これに対しては、本気でやる気がある委員会としては、その仕
  事の実際的成果が皆無になることを望まなければ、あえて反対しないことでしょう。

  さて、ここで、お話ししたことをまとめてみましょう。この問題を論理的に検討したけっか、
  結論は次のとおりとなります。

  一、国際語は、エスペラント以外にはあり得ない。

  二、おそらくエスペラントの発展は、その他の言語と同様に、自然の成り行きにしたがっ
     て、すなわち新語と古語の交替という不断の過程に則して、おこなわれてゆくだろう。

  三、しょうらいエスペラントに改変を加える必要が生じたときは、その改変は互いの合意
     のうえでエスペランチスト自身がおこなうか、またはエスペランチストと完全な合意の
     うえで有力な機関がおこなう。

  四、しょうらいエスペランチスト自身か、または有力な外部機関がエスペラントに改変を
     加える決定をした場合は、その改変はきわめて小規模にとどめ、これまでの我われ
     の成果との連続性を損なったり、過去・現在・未来にわたる我われの努力を無に帰
     するものであっては、けっしてならない。

  (水野義明(編訳)『国際共通語の思想』266〜272ページ)

272松戸彩苑:2008/06/07(土) 16:27:21
>>271 の続き)

まず最初に言っておくべきなのは、このむやみに長い話が、UKの開会演説のなかでなされ
たという事です。

史上初のアメリカでのUKということで、みんな大いに盛り上がっていたと思うんですが、なぜ
かザメンホフは、こんな「エスペラントの改造に関する話」を長々としてるんですね。

1910年といいますと、Ido 騒動にウンザリしている人も少なくなかったはずなのに、こんな話
をしてるんですから、これはどう考えても「ザメンホフじしんが新しい語形を導入したがってい
た」と判断するしかないんですね。

引用文のなかに

  ほんとうに実用的価値のある改変の提案はごく少数で、全部ならべても一枚の紙切れに
  おさまり、半時間もあれば覚えることができるでしょう。

と書いてありますが、これが、ザメンホフが提案した改造案のことなのだろうと私は推測して
おります。

(終わり)

273松戸彩苑:2008/07/19(土) 07:06:26
エスペラントには intern-ulo(寄宿生、医学研修生)という表現があります。

これは英語の intern やフランス語の interne などと見かけが似ているのでとっても憶えや
すいのですが、しかしよく考えてみますと、英語で言うところの insider(内部の人間)をどう
やって表わせば良いんだろう?という疑問がわいてきます。

本来ならば、こっちのほうが intern-ulo と表現されるべきではないですか。
実際「insider、内部の人間」の反対語である「部外者」は ekster-ulo と言うんですよね。

Peter Benson の『Comprehensive English-Esperanto Dictionary』を見てみますと、inside
の項に insider が載っていて intern-ulo が訳語になっています。

つまり Benson 氏は intern-ulo に第3の意味をつけ加えようと提案しているのだと思いま
すが、しかし一つの表現にあまりにも多くの意味を与えますと、どの意味で使っているのか
判らなくて困るんじゃないかと思うんですね。

そこで私は「insider、内部の人間」を en-ulo としたら良いんじゃないかと考えました。
---

この他にも、「中身」とか「食品などの具」のことを en-aĵo と表わすこともできますね。

また「トッピング」のことは sur-aĵo と言うことができるでしょう。
Benson の辞書の top の項のなかに topping があり、sur(verŝ)aĵo という訳語が与えられ
ていますが、sur-aĵo で充分だと思います。

274松戸彩苑:2008/07/19(土) 09:47:39
ombrelo(傘)という単語があるのは良いんですが、考えてみますと「傘をさす」というのを
どう表わすのかが判らなかったりします。

で、『日エス』の「かさ【傘】」のところを見ますと sin @irmi per ombrelo と書いてありました。
もちろん間違ってはいないと思うんですが、しかし直訳しますと「傘で自らを覆う」ということ
であって、少し重苦しく、長ったらしいような気もします。

『エス日』の ombrelo の項を見ますと

  kun 〜o 傘を差して

というのが載ってるんですが、しかし、これが「傘を持って」である可能性は無いんでしょう
か。
また「彼は傘をさしている」は Li estas kun la ombrelo. と言えば良いんでしょうか。

それから、同じところに

  malfermi 〜on 傘を開く

というのも載っていますが、「傘を開く」と「傘をさす」とではちょっと違うわけですね。
「傘を開いたけど、ささない」ということもあるわけですから。

それからNPIVの ombrelo の項を見ましたが、ここには「傘をさす」に相当する表現はまった
く載っていませんでした。

このようにエスペラントというのは、日常生活に必要なモノを表わす単語はあったとしても、
「傘をさす」といったコロケーションになると、とたんに怪しくなるんですね。
こういった点がしっかりしていないせいで、エスペラントは本来持っていて良いはずの能力
を発揮できないでいるのだと思います。
また逆に言えば、こういう点を直していけば、今以上に役に立つ言葉になるに違いないん
ですね。

こういう問題を「大したことではない」「使っているうちに自然にできる」などと考えていたの
では、エスペラント運動が今以上に盛り上がることは無いでしょうし、また、まかり間違って
エスペラントが世間で大々的に実用されることになれば、こういった簡単な表現がアイマイ
なせいで大弱りをすることになると思うんですね。

ですから、そうならないように、今のうちから少しずつ考えておく必要があるわけです。

私も「傘をさす」を表わす簡潔な表現についていろいろと考えてはおりますが、この問題に
ついては皆さんにも考えていただきたいと思いますので、私の案は書かないことにします。

(終わり)

275松戸彩苑:2008/07/19(土) 09:49:13
>>274 の3行目

@irmi を ŝirmi に訂正。

276松戸彩苑:2008/07/19(土) 17:26:42
エスペラントで「見ること」は vid(ad)o ですが、それでは「見られること」はどのように表現す
れば良いのでしょうか?

日本語ですと「見ること」「見られること」、英語ですと「seeing」「being seen」と簡単に表現
できるんですが、意外なことにエスペラントでは簡単に表わすことができないんですね。

vid-at-ado ではヘンですし、vid-at-eco というのも苦しいわけです。

vid-iĝo で良いのかなとも思いましたが、『エス日』を見ますと vid-iĝi は「現れる」の意味だ
と書いてあります。

さんざん考えて ago esti vid-ata なら良いのかなと思いましたが、しかしよく考えますと「見る
こと」は「動作」ですが「見られること」は「動作」ではなく「状態」なのではないかと思いました。

ということで最終的に stato esti vid-ata という表現が得られたわけですが、皆さんは「見ら
れること」をどのように表現したら良いと思われますでしょうか。

人によっては「vid-at-ado も許容できる」とお考えになるかもしれませんね。

(終わり)

277松戸彩苑:2008/07/23(水) 00:07:35
>>276 の補足ですが、考えてみれば「見ること」は vidi という動詞の不定形のかたちでも
表わすことができるんですよね。

そうすると「見られること」は当然 esti vid-ata で良いということになります。

「見られること」を 〜o というかたちでは表わすことが出来なくても、esti vid-ata でありとあ
らゆる場合に対応できるというのであれば問題ないわけですが、どうなんでしょうかね。

278松戸彩苑:2008/07/26(土) 17:06:40
「色白の人」をエスペラントでどう表現すれば良いんでしょうかね?

エスペラントには blank-ulo とか blank-haŭt-ulo といった表現がありますが、どちらも「白
人」の意味で使われてると思うんですよね。

「色白の人」という表現は、日本語にかぎらず、黄色人種や白色人種が使う言語にはある
と思われますので、エスペラントにも必要だと思うんですが、今のところエスペラントには無
いみたいですね。

pal-ulo とすれば良いのかな?と思ったんですが、考えてみると pal-ulo には「青白い人」
という否定的なニュアンスがあるんですよね。
昔だと俗に「うらなり」と言ってたのに相当するんだと思うんですね。

これとは違って「色白の人」という場合には、むしろ称賛の意味が込められているように思
われますので pal-ulo とは区別したいなぁと思いましたが、しかし残念ながら具体的な案は
ありません。

(終わり)

279松戸彩苑:2008/08/30(土) 13:26:06
エスペラントで「オートマ車」「マニュアル車」のことをどう表現すれば良いのでしょうか。

おそらく「オートマ車」は

  aŭto kun aŭtomata transmisi-ilo (または rapid-umo)

「マニュアル車」は

  aŭto kun (per)mana transmisi-ilo (または rapid-umo)

とでも言えば良いのでしょうが、しかし考えてみると、あまりにも長いんですよね。
これでは、車について気軽に会話をすることも出来ません。

ですから私は「オートマ車」は aŭtomata transmisi-ilo の頭文字のATをとって AT-aŭto(発
音は「アタウト」)あるいは aŭtomata rapid-umo から AR-aŭto(発音は「アラウト」)のように
して、「マニュアル車」のほうは man-aŭto(発音は「マナウト」)とでもすれば良いんじゃない
かと考えています。

ずいぶん乱暴な短縮方法だと私じしんも思いますが、しかしこのくらい思いきって短くしない
と、気軽に会話ができる言葉にはならないと思いますね。
もちろん、もっと良い短縮方法があるかもしれませんが。
---

「縦列駐車」をエスペラントで何というんだろうと思って『日エス』を調べてみたんですが、「縦
列駐車」の項はありませんし「縦列」「駐車」の項には「縦列駐車」は載ってないんですね。

そこで英語で何というのか調べてみましたら parallel parking って言うんですね。
ですから、これをなぞって paralela parkado とでも言えば良いのかなと思いました。

(ちなみに Benson の英エス辞典の parallel と park の項を調べてみましたが、parallel
parking は載っていませんでした)
---

しかしつらつら考えてみますと、エスペラント界においては、こういった単語・表現をどんどん
決めていこうという発想がほとんど無いんだなぁと痛感せざるを得ません。

自動車なんてものは、先進国であれば個人で所有していることが多いわけでして、何十年も
前から完全に一般人の日常生活のなかに入っているものです。
それなのに、エスペラント界というのは、こういった単語や表現を整備していこうという気がま
るで感じられないわけです。

結局エスペランティストというのは、こういった単語や表現がまったく必要とならないレベルで
の言語活動しかしていないってことなんでしょうか。

そういや前から気になっていたんですが、エスペラントでは「自動車のハンドル」のことを stir-
rado ということが多いですね。
これは英語の steering wheel などと同様の表現ですのでまったく問題ないように思われます
が、しかしよく考えてみますと stir-ado と発音がよく似ているんですよね。
ですから私は stir-rado よりも stir-ilo のほうが良いんじゃないかなと思っているんですが、い
かがでしょうか。

(終わり)

280松戸彩苑:2008/08/31(日) 13:42:11
>>18 や他のところでも少しふれましたが、私は「長すぎる語根や表現を短くする」というこ
とに挑戦してるんですね。

私は不思議に思うんですが、どうしてエスペランティストというのは長ったらしい語根や表現
が好きなんでしょうか?
また、どうして短くしたり略語を作ったりしようとは思わないんでしょうか?

私が考えた短い語形をいくつか紹介してみます。

agrikulturo → agriko (agrik-ilo 農機具、 agrik-aĵo 農作物)
biblioteko → biblo (bibl-isto 図書館員)
sekretario → sekro
diskriminacio → diskrimo
okcidenta → okcia
orienta → oria
bi-ciklo → bico
motor-ciklo → moco
medikamento → mediko
maksimumo → makso
frekventi → freki
renkonti → renki

281松戸彩苑:2008/09/14(日) 10:41:32
「テスター(回路計)」のことをエスペラントで何と言うんだろうと思って『日エス』を調べたん
ですが kontrolilo、ekzamenilo って書いてあるんですね。

「ほんとにこんなので通じるのかな?」と思ったので、今度は英エス辞典で調べるために、
英語で「テスター」を何と言うのかを Wikipedia で調べてみたんですね。
そうしたら multimeter と書いてありました。

で、試しに他の言語も調べてみたんですけれども、フランス語 multimètre、ドイツ語 Multi-
meter、スペイン語 multímetro、イタリア語 multimetro、ロシア語 мультиметр と、
欧米各国語では共通なんですね。

だったらエスペラントでも multimetro として良さそうなんですが、こういう単語は、NPIVにも
『Nepivaj Vortoj』にも『Neologisma Glosaro』にも収録されていません。

また Benson の英エス辞典、Jacques Le Puil と Jean-Pierre Danvy の仏エス辞典、Krause
の『Wörterbuch Deutsch-Esperanto』(独エス辞典)、Minnaja の伊エス辞典も調べてみまし
たが、いずれの辞書にも収録されていませんでした。

考えてみれば、テスターなんてものは、電気関係の仕事をする人ならみんな持ってるでしょ
うし、学校の理科の実験なんかでも使うもののはずなんですよね。
そういう身近なものであるにも関わらず、辞書に載ってないというのは困ったことだと思いま
した。
欧米人や欧米語に堪能な人であれば困らないんでしょうが、そうでない人にとっては不便
なわけです。
---

「かなしばり」のエス訳はあるかな?と思って『日エス』を引いたんですが、「かなしばり」の
項はあったものの「起きようとしても動けなくなる」というのに相当するエスペラントの表現は
載ってなかったんですね。

そこで Wikipedia を調べてみましたら、英語では sleep paralysis と言うんですね。

それから他の言語の記事を見てみたんですが、フランス語 paralysie du sommeil、ドイツ語
Bewegungsunfähigkeit im Schlaf、スペイン語 parálisis del sueño ということで、どの言語
でも「寝ているときの麻痺」みたいな言い方をするということが判りました。(ドイツ語の場合
はちょっと違って「寝ているときの運動不能」みたいな言い方になってますが)

ですからエスペラントでも dormo-paralizo と言えば良いんだと思うんですね。

282松戸彩苑:2008/09/21(日) 10:45:46
英語には to slurp 「ズルズルと音をたててすする」という単語があるんですが、これに相当
するエスペラント訳語はあるのかな?と思って Benson の英エス辞典を引いてみたんです
が、slurp の項が無いんですよね。

Wells の辞書の英エスの部や Fulcher&Long の英エス辞典なんかも見てみたんですが、
これらにも slurp の項がありませんでした。

それで今度は『日エス』で「すする」を調べてみたんですが、そこには suĉi、trink-eti、lek-
trinki といった訳語がならんでいました。

suĉi は「吸う」、trinketi は「ちびちび飲む」、lektrinki は「犬・猫のように舌で舐めるように
して飲む」という意味ですね。
ということで、どうも「ズルズルと音をたててすする」というのにピッタリの訳語が無いという
ことになります。

これじゃあ自分で作るしかなさそうだなと思っていたんですが、あるとき、こんなふうに考え
たんですね。
まず最初に zum-ante suĉi という表現を思いついて、次に zume suĉi でも良いなと思った
あとで、最終的に zum-suĉi だと思いました。

これならば「ズルズルと音をたててすする」というのを正確に表わすことが出来ていると思い
ました。

出来てしまえば当たり前のようですが、いわゆる「コロンブスの卵」というやつでして、思いつ
くまでが大変なのです。

283松戸彩苑:2008/09/21(日) 12:16:13
私は、脇山怜(著)『改訂版 海外・暮らしの用語事典』(1983年 ジャパンタイムズ)とい
う本を持ってるんですが、これは日常生活で必要となるような英語の単語・表現を集めた
本なんですね。

この本の「まえがき」には次のように書かれています。

  海外生活に辞書は欠かせませんが、ふつうの和英辞典だけでは不十分な場合がかな
  りあります。私も日々の暮らしの中で、どれだけ辞書を繰っても出ていない単語、学校
  で習わなかった単語にしばしばぶつかり、もどかしさを感じたものでした。

  そこで生活に根ざした単語を8000語ほど集めて『海外・暮らしの用語事典』を編んだの
  ですが、初版からすでに4年、さらに2000語を加え、またあらたに「学校教育」の項を設
  け、ここに改訂版を出すことになりました。

ということで、日常生活に必要な語が10000語ほど収録されてるんですけれども、この
10000の単語が次のように分類されているんですね。

  第1章  住まい
   1 住宅・不動産   2 家具・インテリア   3 寝室・寝具   4 バスルーム
   5 庭・園芸(樹と花の名前)   6 雑貨・住まいの手入れ

  第2章  食生活
   1 調理器具   2 食器   3 料理の動作   4 料理の名前   5 デザート・
   パン(お菓子)   6 飲みもの   7 肉類(牛肉 豚肉 家禽)   8 魚介類・海草
   9 野菜・果物・穀類   10 乳製品(チーズの種類 ミルク・乳製品)   11 調味料
   12 和食・中華の料理名(日本式の切り方いろいろ)

  第3章  衣類
   1 婦人服・紳士服   2 下着・靴下   3 生地・柄・色   4 洋裁・手芸
   5 装飾品   6 衣服の手入れ   7 ヘアスタイル   8 美容・化粧品

  第4章  育児
   1 育児・子供服(おもちゃ・遊び)   2 学校教育・文房具(青少年活動)

  第5章  病気
   1 内科   2 小児科   3 外科・整形外科   4 産婦人科   5 泌尿器科
   6 耳鼻咽喉科   7 眼科   8 皮膚科   9 神経科・精神科   10 歯科
   11 医薬品

  第6章  交通
   1 交通規則・免許   2 車の構造・修理   3 公共交通機関・旅行(エンタテイメ
   ント)

  第7章  通信・銀行・買物
   1 郵便・電話   2 銀行・買物

こういうのを見ても「日常生活に必要な語彙・表現というのは、ずいぶん多いものだなぁ」と
いうことがよく判ると思います。

それに加えて「私がこれまでにこのスレで論じてきたものの中には、この分類には収まらな
いものもけっこうある」ということにも気づいていただきたいんですね。

そういったことがあるから私は「日常生活に必要な語彙・表現を、みんなで少しずつ作って
いくことが必要なんだ」と主張しているわけですね。
---

最近になって気がついたんですが、「日常生活に必要な語彙・表現」という言葉を聞きます
と、多くの人は「海外旅行をしたりする際に必要となるような、必要最小限の外国語の知識」
のことだと思ってしまうみたいですね。

しかし私がエスペラント運動のありかたについて語る際に言っている「日常生活に必要な語
彙・表現」というのは、当然のことながら、そういうものではないんですね。

私が言ってるのは「外国語を使う場合の日常会話」というレベルではなく「母語を使う場合の
日常会話」のレベルのことなんですね。

たとえ教養のない人であっても、日常生活のなかで母語を使う際には、それなりに多種多様
なことを言ってるはずなんですね。

私はそういうレベルのことを言ってるわけですので、誤解の無いようにお願いいたします。

284松戸彩苑:2008/09/21(日) 14:45:48
私が「日常生活に必要な語彙・表現」を整備することの重要性を訴えつづけても、いまひと
つ判っていただけない理由がほかにもありましたので、説明しておきます。

私の見るところでは、人間というのは「難しい」ことが出来るようになると「簡単」なことをバ
カにするようなメンタリティを持ってしまうことが多いと思うんですね。

エスペランティストというのは高学歴の方が多く、難しいことが大好きな人たちばかりです
ので、それが災いして「日常生活に必要な語彙・表現」みたいなものはどうでもいいや、み
たいな感じになってるのではないでしょうか。

しかし、そんなことをやっているから、現代ヘブライ語やトク・ピシンにも負けてしまうんだと
思いますね。

やはり、誰もが知っている「日常生活に必要な語彙・表現」を整備することというのが、きわ
めて大切だと思いますね。

285松戸彩苑:2008/09/21(日) 15:51:18
なぜ私が「日常生活に必要な語彙・表現」を重視するかというと

  多くの人たちにとって必要となる可能性が高い。

ということもありますが、このほかにも

  エスペラントで書かれたレベルの高い文献があんまり無い。
  また、こういう文献が短期間に増えるという可能性もまったく無い。

  だから「高度な会話のための言語」として使えるようにして、支持者を増やしていくしか
  ない。

と考えてるということもあるんですね。
---

英語を始めとして、フランス語・ドイツ語・ロシア語・中国語・日本語…といった言語ですと、
それこそ多種多様な文献が大量にあるわけです。

そういったものと比べますと、エスペラントの文献というのは(当然のことなんですが)質・量
ともにきわめて貧弱だと言わざるを得ないんですね。

エスペラントの文献の多くは、エスペラントの学習教材であるとか、エスペラント運動関係の
ものでして、エスペラントやエスペラント運動に興味のある人以外には価値の無いものです。

また(止むを得ないことではあるのですが)学術的な文献はほとんどありませんし、文学作
品はありますが、これだって文学に関心のある人以外にはどうでもいいものだったりします。

もちろん私だって、多くのエスペランティストがたいへんな苦労をして文献を増やしてきたこ
とはよく知っています。
しかし、そういったことを抜きにして、世間の人たちとまったく同じように考えてみますと、や
はりエスペラントの文献にはあまり魅力が無いだろうと言わざるを得ないんですね。

ということがありますから、英語・フランス語・ドイツ語…とは違って「文献の魅力」で世間の
人たちを引きつけることは出来ないということになります。

ですから、その代わりとなるような魅力が無いといけないわけですが、私は「高度な会話の
ための言語」として使えるようにすれば、文献の貧弱さをカバーすることが出来るのではな
いかと思ったんですね。
---

もちろん現在でも、エスペラントで会話をすることは可能です。

しかし、母語なみに話すことが出来るようになってないと、ブロークン・イングリッシュに太刀
打ちできないだろうと思うんですね。

「エスペラントって、ブロークン・イングリッシュよりも、ずっと役に立つんだな」ということが世
間の人たちにもはっきりと判るくらいのレベルになってないと、世間の人たちから認められ
ることは無いと私は考えておりますので、「日常生活に必要な語彙・表現」を整備することの
重要性を再三強調しているわけです。

「もうすぐエスペラントがEUなどに認められて採用されるんだ」「そうなれば、エスペラントの
語彙・表現の整備や、エスペラントの教育なんかも、みんな政府や国際機関がやってくれる
んだ」などといったことを本気で信じることが出来れば、こんな七面倒くさいことをする必要は
無いと思えるのでしょうが、私はそういう可能性はまず無いと思っていますので、こういうこ
とを言ってるわけなんですね。

(終わり)

286松戸彩苑:2008/09/21(日) 18:54:08
ところで話は変わりますが、関西エスペラント連盟のサイトのなかに、「La Movado」の毎号
の主な内容について書いてあるページがありますよね。

これによりますと、今年の4月号から、最近になって日本社会で多用されるようになった単
語・表現のエス訳語を集めた「Kurantaj vortoj」という連載が始まったらしいんですが、10
月号に「シックハウス症候群」が取り上げられたと書いてあります。

で、この「シックハウス症候群」に相当するエス訳語は、いったいどんなものだったんでしょ
うか?
私は「La Movado」を取ってないので判りませんので、教えていただけると幸いです。

ちなみに私は domo-toksiĝo あるいは domo-veneniĝo というのを考えてたんですが。

287松戸彩苑:2008/09/23(火) 12:27:32
>>285 に補足したいのですが、「読むための言語」としての英語の地位は、当分のあいだ
は揺るがないだろうと思うんですね。

英語を母語とする人が4億人くらいいて、さまざまな分野の最先端・最重要な情報が英語で
書かれているわけです。

また、多少なりとも英語を学んだことのある人も何十億人といますし、それに加えて、英語に
由来する単語は、世界中の言葉に入っているわけです。

こういった明白なる事実をあっさりと無視してしまって、唐突に「英語に代わってエスペラント
を」などと叫んでも、世間の革新派の人たちからも相手にされないわけです。

世間の革新派の人たちや、知識人や、自分の家族や知人でさえも認めてくれないようなこ
とを言っていても仕方が無いので、もっと現実的に考えて、この厳しい状況のなかで何とか
して社会のなかに根を張るように努力すべきだと思いますね。

でないと、このまま衰退していくしかないだろうと思います。

288松戸彩苑:2008/11/03(月) 13:22:02
(1) どうしてエスペラントにおいては日常生活に関する語彙・表現が混乱しているのか。

(2) また、どうして日常生活に関する語彙・表現の混乱に気づいたり、これを問題視する
    人がほとんど居ないのか。

と言いますと

  エスペラントを日常的に使う社会が存在しない。

という事があるからなんですね。(ほかにも理由はありますが)

この点が、現代ヘブライ語やトク・ピシンなどとも決定的に違うところであり、むしろ(現代の)
ラテン語などに似ている点なんですね。

そして、私たちは「エスペラントを日常的に使う社会」というものを持たない状態で、日常生
活に関する語彙・表現を整備していかなければならないわけです。

289松戸彩苑:2009/03/14(土) 13:50:31
>>247-248 で -enzo という接辞について論じましたが、これに関して補足をします。

『エスペラント日本語辞典』の estingi の項のなかに

  fajr/esting/ilo 消火器;消火剤.

という副見出しがありますが、「消火器」と「消火剤」の区別ができないというのでは困りま
すね。

やはり、このような場合には -enzo を使って

  fajr-esting-ilo 消火器
  fajr-esting-enzo 消火剤

として両者を区別すべきだろうと思いました。

290松戸彩苑:2009/03/15(日) 08:01:23
すでに書いたかもしれませんが(調べるのも困難ですので)いちおう書いておきます。

私はこれまで「日常生活に関する語彙・表現」のエスペラントによる訳語を提案してきました。

しかし当然のことながら「エスペラントの新しい語彙・表現」と「日本語の訳語」だけでは、日
本語を知らない海外の人には理解してもらえません。

ですから

(1) エスペラントによる丁寧な説明文。

(2) 世界各国語による訳語をつける。
    (やはり英語がメインとなる)

といったものも添える必要があるでしょう。

こういった情報をネット上に置いておけば、世界中のエスペランティストが利用することが
できるわけです。

291松戸彩苑:2009/04/29(水) 11:58:44
エスペラントの語彙の問題ですが、現在はこちら(↓)のスレに書いています。

http://yy67.60.kg/test/read.cgi/jinkogoplus/1228036613/

関心がございましたら、ぜひともお越しください。

292松戸彩苑:2009/08/10(月) 20:30:02
最近、とある有名芸能人が覚醒剤を所持していたというので逮捕されましたが、この「覚醒
剤」はエスペラントでは何と言うのでしょうか。

『日本語エスペラント辞典』の「かくせい【覚醒】」の項を見ますと「〜剤 ekscitilo」と書いてあ
ります。

しかし英語やフランス語では「覚醒剤」のことを stimulant、ドイツ語では Stimulans、スペイ
ン語・ポルトガル語では estimulante と言うようですので、エスペラントでは stimul-enzo と
するのが良いと思います。

293松戸彩苑:2009/08/10(月) 23:12:39
>>292 に補足します。

Peter Benson の英エス辞典の stimulate の項のなかに stimulnt(stimulant の誤植)という
副見出しがあり、ここに stimulenzo が載っています。

294松戸彩苑:2009/10/17(土) 01:01:08
ESENÇO CAJ ESTONTEÇO DE LA IDEO DE LINGVO INTERNAÇIA

I
Ĉiuj ideoj, quiuj estas ludontaj gravan rolon en la historio de la homaro,
havas ĉiam tiun saman egalan sorton: quiam ili ecaperas, la samtempuloj
rencontas ilin ne sole cun rimarcinde obstina malconfido, sed eĉ cun ia
neclarigebla malamiceço; la pioniroj de tiuj ĉi ideoj devas multe batali caj
multe suferi; oni rigardas ilin quiel homojn freneşajn, infane malsaĝajn, aŭ
fine eĉ recte quiel homojn tre malutilajn. Dum la homoj, quiuj ocupas sin je
ĉia plej sençela caj senutila sensençaĵo, se ĝi nur estas en modo caj conforma
al la rutinaj ideoj de la amaso, ĝuas ne sole ĉiujn bonojn de la vivo, sed ancaŭ
la honoran nomon de “instruituloj” aŭ “utilaj publicaj agantoj”, la pioniroj de
novaj ideoj rencontas nenion crom mocoj caj atacoj; la unua rencontita tre
malmulte lerninta bubo rigardas ilin de alte caj diras al ili, que ili ocupas sin
je malsaĝaĵoj; la unua rencontita gaşeta felietonisto scribas pri ili “spritajn”
articolojn caj notojn, ne preninte sur sin la laboron almenaŭ iom ecsçii, super
quio ili propre laboras; caj la publico, quiu ĉiam iras quiel anaro da ŝafoj post
la criemuloj, ridas caj ridegas caj eĉ por unu minuto ne faras al si la
demandon, ĉu existas eĉ guto da senço caj logico en ĉiuj tiuj ĉi “spritaj” mocoj.
Pri tiuj ĉi ideoj “estas modo” paroli ne alie, ol cun ironia caj malestima rideto,
tial tiel agas ancaŭ A caj B caj C, caj ĉiu el ili timas enpensiĝi serioşe eĉ unu
minuton pri la mocata ideo, ĉar li “sçias antaŭe”, que “ĝi crom malsaĝaĵo
enhavas ja nenion”, caj li timas, que oni iel alcalculos lin mem al la nombro
de “tiuj malsaĝuloj”, se li eĉ en la daŭro de unu minuto provos rilati serioşe al
tiu ĉi malsaĝaĵo. La homoj miras, “quiamaniere en nia practica tempo povas
aperi tiaj malsaĝaj fantaşiuloj caj quial oni ne metas ilin en la domojn por
freneşuloj”.

295松戸彩苑:2009/10/17(土) 01:13:04

この文章について説明します。

私は以前から「エスペラントの文章は、見た目が硬すぎる」と思ってたんですね。
で、いろいろと考えてみたんですが、どうやらKの字が多いからだろうと思ったんですね。
そこで、エスペラントのKをCに変えようと思ったわけです。

もちろんエスペラントではすでにCの字を使っていますから、これはÇで表わすことにしまし
た。

しかし、これだけですと相関詞の ki- のつく語が cio、ciu … になるんですが、これらは ĉio、
ĉiu … と紛らわしいんですね。
ki- のつく語は目立たないといけないと思いましたので、ロマンス語ふうにして quio、quiu …
としました。
それから ke も ce となるんですが、これも ĉe と似すぎていて良くないので que とすること
にしました。
---

このほかにも、Zも硬い印象を与えますので、Şにしました。

また teksto とか ekzameno のように民族語においてはXを使っている単語がありますが、こ
れはエスペラントでも texto、exameno のようにしたら良いと思いました。
不規則が増えることにはなりますが ekskluziva が excluşiva、そして ekskurso が excurso
となって、見た目がかなりスッキリすると思うんですが。
---

この書記法をしばらく個人的に使ってみて、不都合がないかどうか調べてみようと思っていま
す。

私の掲示板では字上符つきの文字が使えませんので、ここを使わさせていただきました。

296松戸彩苑:2009/10/17(土) 11:01:45
>>294 の続き)

Sed pasas celca tempo. Post longa viço da batalado caj suferoj la
“buboj-fantaşiuloj” atingis la çelon. La homaro fariĝis pli riĉa per unu nova
grava aciro caj eltiras el ĝi la plej vastan caj diversforman utilon. Tiam la
çirconstançoj ŝanĝiĝas. La jam fortiĝinta nova afero ŝajnas al la homoj tiel
simpla, tiel “comprenebla per si mem”, que la homoj ne comprenas,
quiamaniere oni povis tutajn miljarojn vivi sen ĝi. Quiam la posteuloj legas
la racontojn pri tio, quiel sin tenis contraŭ la dirita ideo la samtempuloj de
ĝia nasciĝo, ili absolute ne volas credi caj pensas, que ĉion tion ĉi elpensis la
historioscribantoj pro mocado je la foririntaj generaçioj. “Ĉu efective”, ili
diras, “la tuta mondo tiam consistis el idiotoj? Ĉu efective existis homoj,
quiuj elpaŝadis contraŭ la pioniroj cun tiaj sensençaj contraŭparoloj, caj la
çeteraj homoj silentadis, caj la unua rencontita cvinjara infano ne diradis al
tiuj criticantoj: “Sinjoroj, vi ja parolas teruran, sur nenio fonditan
sensençaĵon, quies rebato sin trovas ja tuj antaŭ via naşo!”? Absolute
necompreneble! La historiistoj çerte trograndigas!”

297松戸彩苑:2009/10/17(土) 11:14:09
この表記法は、k や z といった硬い感じのする文字がないのは良いんですが、そのかわり
に補助記号つきの文字が多くなってしまうという欠陥があります。

日本語のローマ字でも

  「訓令式」  規則的・合理的だが、見た目が硬い。
          (訓令式では「チ」「チャ」「ジャ」が ti、tya、zya であるのに対して、ヘボン式
          では chi、cha、ja となる)

  「ヘボン式」 見た目は柔らかいが、不規則な点がある。
          (訓令式では「タ」「チ」「ツ」「テ」「ト」が ta ti tu te to であるのに対して、ヘ
          ボン式では ta chi tsu te to となる)

ということがありますが、これと似たようなものだと思います。

298ベダウリンデ:2009/10/23(金) 13:53:23
松戸さんの計画言語掲示板で紹介されてましたので、見てみました。
下に埋もれてないで、どうせならあげましょうよ。

文字の改革、ですか・・・文字はね、言語のジャンルの中でも最も表層の部分ですから、
手を付けるのも簡単だし、いざ変えるとなっても、簡単に変えられるでしょうね。
改革の中では楽ちんな方ですね。

四角い物より丸い物の方が、商品としてよく売れるらしいので、「見た目を丸く」はいい発想ですが、
文字って、そんなに「丸さ」重要かな?と思います。
丸い文字ならビルマ文字とかが丸っこいと思う。でも、角い文字だって風格あってステキですよ。
どっちがいいとは、一概には言えないと思う。
それに、KやZは、ラテン文字使用国では一般的に広く使われてると思う。IPAでも使われてるし。
それを敢えてへそ曲がりで、違う表記にする意味が分からない。
今でさえ不評の特殊文字がさらに増えるし・・・Cのバリエーションが多すぎるし・・・
どうせなら、総とっかえして、新人工文字を作ればいいと思う。ビルマ文字以上に超丸っこいのを。

299ベダウリンデ:2009/10/23(金) 14:29:45
>この書記法をしばらく個人的に使ってみて、不都合がないかどうか
テキストを単純に置換すればよいだけなので、不都合が生じるはずありませんが、
これをエスペラントとして初めて接する人が分かりやすいかどうか、が問題です。
初心者にわかりにくくてもいいんだ、とおっしゃるならそれでよいですが。

s=サ、ş=ザ、ŝ=シャで、c=カなら、ç=ガ、ĉ=キャかな?と思ったら、ç=ツァ、ĉ=チ?
少なくとも、符号と音声の整合性をとってほしいですね。

300ベダウリンデ:2009/10/24(土) 08:11:30
松戸さんがKとZを嫌う理由は、「ラテン語にはKとZが無いから」ではないですか?
ラテン語にKとZが無いのは、古代ローマ人が「丸い字の方がKawaiiから」と思ったからではなくて、
偶然の結果だったみたいですよ。Zが無いのはラテン語にはZの音が無かったから。
Zは借用ギリシャ語を表記する時のみ使用した、とあります。
アルファベットは系統樹的に発展してて、フェニキア文字から、ギリシア文字、エトルリア文字、ラテン文字と受け継がれたようです。
ギリシア文字にはKとZがありました。
エトルリアにはg音が無かったので、ギリシャ語でg音を表してた文字(Γ)をk音として使用し、Kは用いられなくなった。
ΓはCに形を変えて、ラテン語ではCをk音で使用する事を受け継いだ。
でもラテン語にはg音があったから困った。それで新しくG(Cにちょっと付け足した)という文字を作った。

このように、ラテン語でKやZを用いないのは(習慣にからんだ)特殊な事情があったからで、
KやZという文字そのものはラテン文字のアルファベット表に残っていたため(Γは消されちゃいましたが)、
直接のラテン系民族以外では、ギリシャ系のむしろ正当な文字として、KやZを憚りなく使うのだと思う。
(そうするとCは余るので、民族により色々な使い方ができる事となる)

つまり、言いたいのは、エスペラントでKやZを廃する理由は、
アルファベットの歴史から見たら、全く正当性が無い、という事です。
(アルファベットなんか無視していいんだ、人工語なんだから、とおっしゃるのであれば、かまいませんが)

301ベダウリンデ:2009/10/27(火) 11:18:01
松戸さんの文字改革案の問題点は
①特殊文字(符号付きのアルファベット)が増える。
②なお且つその使い方が「アルファベットの常識」を超えている。
です。
でも「見た目を丸くかわいくして人気を得よう」というコンセプトは面白いと思うので、
それをどうやったら実現できるか考えてみると面白いと思います。
もちろん、①②の問題をクリアして、さらには、エスペラントの法則(?)である
一文字一音の原則は守り抜いて・・・・・

自然言語は、まずコトバがあって、それに準じて文字体系が作られる。
人工語では、文字と音韻体系はワンセットで考案されるのだと思う。
エスペラントの場合、音韻体系そのものがかなりスラブ寄りです。
一言で言うと子音が多様すぎる。ツォとかチェとかヂとかが存在する。
k音やz音も、独立の音として(*1)存在する。
これを一文字一音でやろうとすると、今のような文字体系にならざるを得ないです。
Zはツォ音に使えるけど、エスペラントにはザズィズゼゾもちゃんとあるからZは使えない。
Cもツォ音に使える。もしCをk音で使うと、ツォ音を表す文字を新たに作らねばならない。
やっぱCはツォ音だな。と、なるでしょう。
ただでさえ多い子音なので、KやZを省くなんて、不可能なのです。

なので、これをラテン語風の丸い文字だけに制限するなら、まず音韻体系を変えないと不可能だ思う。
一言で言うと子音の数を減らす。子音の数を減らして今までのエスペラント単語を表現する。
そうすると、不都合が生じないように、単語全体を厳密にチェックしなければならない。
大変だと思いますが、その過程で「不必要な語彙」とか発見してくれたら嬉しいですね。NEPOに役立てます。

(*1)ドイツ語やロマンス諸語では、z音もあるけど、ある条件でs音が濁音化したものとしての扱いみたいですね。
だから文字ではSになる。これらの言語では単独で独立したz音が無いのかもしれないです。
ca,ci,cu,ce,coは、ラテン語ではカキクケコでいいのですが、
英語やフランス語ではカシクセコ、イタリア語やルーマニア語ではカチクチェコって読む。
カキクケコって言えないから、ka,ki,ku,ke,koで表記できないんだと思う。
ロマンス諸語はk音やz音が独立の音として存在しない音韻体系なのでKやZが現れない、のでしょう。(自説)

302なつ:2009/10/30(金) 18:54:56
松戸さんの思想信条という根本的問題点は
丸みを帯びたものを善と思う価値観であり、
角があるものを悪と思う価値観を基礎とした考え方であるということです。
○→美、善
□→醜、悪
なんで?なんで?なんで?なんで?
完全なる偏った見方すなわち偏見に満ちた潜在的差別主義に凝り固まっている頭であるということです。
違いますかな?
下衆の勘ぐりをいたしますと、
戦前の カタカナ表記+画数の多い旧字体 →潜在的忌み嫌うべき戦前軍国主義の象徴
戦後の ひらかな表記+新字体の常用漢字のみ →戦後民主主義万歳
という潜在意識なのですかな。
まず大前提である
○→美、善、優
□→醜、悪、劣
という考えを持っている理由をきちんと述べるべきである。
偏見ではないし潜在的差別主義者ではないという理屈をね。
一事が万事、全てにおいて理由のない偏見による優劣を付ける癖がおありではないのかな。

303なつ:2009/10/30(金) 19:07:25
松戸氏の考え方の
前提が理解できないので内容にいくまでもないですが、内容についてあえて言うならば・・・

kioは間違いであり、正書法はquioであるのだ!
が、quinoは間違いであり、正書法はkinoであるのだ!
理由は俺様がこう書いたほうがかっこいいかなっと思ったからだ!理由はそれだけだ!
なんですね。へええええええええ

textoのxはksと発音しなければ間違いであるが、
examenoのxはkzと発音しなければ間違いである!!
ksかkzかは、覚えるのだ!これぐらいアジア人でも覚えられるだろ?ケケケ
なんですね。へええええええええ

初心者や非欧米人に、不利に不利に、とっつきにくく、とっつきにくく、
不規則なほうへ、不規則なほうへ、覚えることを多く、多く、
廃れるように、廃れるように・・・・・

ですかね。クレージーな考えと思う僕のほうがクレージーなんですかね。

304なつ:2009/10/30(金) 19:20:55
kやzを廃止したい偏見は、よりラテン語(系?)に近づけたい偏見からなのかな。
ベダウリンデさんの言うようにラテン語にアルファベットとしてはkやzはありますが、
ギリシア語由来のものしか使いません。kはカレンダー(ついたちの意味)のkくらいにしか使わない。
その証拠に、xは硬い感じがするからイヤというはずなのにむしろ逆に取り入れようとしている。

305:2009/10/31(土) 11:20:56
kをそのままqで置換すれば?

306なつ:2009/10/31(土) 18:19:05
訂正
kioは間違いであり、正書法はquioであるのだ!
が、quinoは間違いであり、正書法はcinoであるのだ!

307ベダウリンデ:2009/11/02(月) 17:10:57
計画言語の掲示板で松戸さんが書いていたのですが、「個人的な」「遊び半分」の改造案だという事です。
改造案は誰でも気楽に作っていいと思うし、気楽な案から「瓢箪から駒」の場合もあるだろうけど、
本気でやるなら「方向性」って大事だなーと思った。何を目的として改造するか、ですよね。
だた「自分はこうの方がいいから」では説得力が無いな。と。

308なつ:2009/11/07(土) 23:25:22
こういう綴りのほうがかっこいいという非理論的な個人的のみの価値観は用いるべきではありませんね。


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